2011年12月31日土曜日

未来予想図 - 円は栄えて、国滅ぶ、にならないために

大晦日である。日経朝刊には、今年一年間の通貨と株の動きが、各国別に紹介されていた。

株価はアメリカだけがプラス、他はマイナスであり、世界的には株が下がった一年となった。アメリカに次いでパフォーマンスが良かったのは英国。以下、韓国、ドイツ、日本、フランス、ブラジル、中国(上海)、イタリアの順である。

通貨は株価と順番が違っている。日経通貨インデックス・ベースで一番増価したのは日本円。次いで、米ドル、スイスフラン。それから英ポンド、豪州ドル、ここまでが増価組だ。減価したのは、まずはユーロ、次いで韓国ウォン、以下カナダドル、ブラジル・レアルとなっている。

大雑把に言うと、アメリカはドルも堅調、株価も健闘。英国もアメリカほどではないが、まあまあ。欧州は株価も冴えず、通貨ユーロも減価した。ブラジルも同じ。韓国もウォン安で輸出産業にはプラスだが株価は下げた。株安を嫌気して資金が国外に流出したのだな。外国から資金を呼びこんで成長をしていると、時折、こうなる。

<ねじれ現象>が目立つのは日本と中国。中国は、通貨騰落率のグラフには登場していないが、人民元は対ドルで1ドル=6.6元程度から年末には6.3元と、概ね4.7%位の元高になった。中国は通貨高・株価安のパターンだ。一方、日本は、円が約5%の増価。対ドルでは本年1月4日の82円10銭から昨日30日の77円72銭まで5.3%円高だ。中国元と大体同じ程度の通貨高であったわけ。そして株価は、日経平均が約15%安、中国の上海市場が約20%安だから、奇しくも、通貨、株価だけをみると、日中両国とも似たようなパフォーマンスを演じた一年であった。

日本、中国。やっぱり、お隣さんだねえ。不思議だ。そうも言いたくなるではないか。

ただ似ているのはここまでだ。日本円が信頼されている背景には、日銀への信頼がある。日銀が信頼されているのは、日本政府が信頼されているからだ!?これはブラック・ユーモア。安全資産として円が世界から高い評価をされ、そのことが円高という結果になって、日本の産業に打撃を与えるという副作用を目の当たりにしながらも、<通貨の番人>たる使命を頑として忘れぬ日銀が、無能な日本政府とは関係なく、独自の存在として世界から信頼されているのだと言うべきだ。

もちろん(今のところ)国債市場に何らの不安もないからでもある。それでも、ここまで通貨の健全性の理念を守り通すことができる中央銀行は、それ自体、日本国家の貴重な資源である。この高い信頼を日本の国益につなげていけないはずがない。日本の金融市場を国際化すれば、円の健全性を担保する日銀が存在する限り、日本政府の国債は世界市場で優良な投資対象になるはずだ。ほとんどの国債が総だおれになっている現在、日銀が管理する円ベースの国債は世界の投資家のニーズに応えるものであるとすら言える。金融企業の東京流入は増え、優良な技術をもった国内企業が海外に進出するための後押しをしてくれるだろう。<資本参加>の名のもとに、支配‐被支配関係に置かれ、安く買い叩かれている国内の優良中小企業は、世界市場で正当な評価を受け、親企業の軛から脱却するチャンスを得られるはずだ。それは伝統的製造業の自作自演によるデフレ劇に幕を下ろす契機になるかもしれない。円高傾向は続くにしても、出るべき製造業は海外に出て、国内にいる消費者はその生産物を安価に購入し、余裕のできた資金を医療、健康、教育に支出することができるだろう - もちろんそのためには、規制産業への参入を自由化しておく必要があるが。

こんな風に想像をめぐらせると、今の日本人は日本の未来予想図を描くに十分な経済基盤をすべて手にしている。未来予想図を実現するだけの要素をもちながら、「ここでは使わないように」、「これは使えません」などなど、おかみの規制に唯々諾々として服従する心性から脱却できずにいるために、成功する可能性を現実のものにできずにいる。いつになったら、ホント、目についた鱗を落とすのか?それも社会レベルで。ずっとそう感じてきたのだが、大震災以来、「ホント、政府ってダメなんだなあ」、「大企業の連中って、こんなに無能だったの?」、と。少しずつ潮の流れが変わり始めたような気がしている今日この頃なのである。

ま、こんな風に、株価は下がったが、少し明るい兆しが見えてきた、円が高くになるには高くなる理由がある、そんなところで、新年を迎えることにしよう。

× × ×

部屋に山頭火の句を書いた短冊を吊るしてある。そこには
濁れる水の 流れつつ澄む
とある。

これは、ずっと昔、函館のトラピスチヌ修道院で買ったものだが、何かの下の句なんだろうか?そう思ってきたが、まだ分からない。今日、その短冊を見ていると、何気なく浮かんだのが:
片付かぬ 浮世に生きる この心 濁れる水の 流れつつ澄む
上の句を足してみた。気に入った絵を模写したような気分になった。


2011年12月28日水曜日

決められない日本 - なぜいつも太平洋戦争開戦直前を議論するのか?

書棚を整理していると猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」(中公文庫)が出てきた。これは太平洋戦争開戦直前の昭和15年に設立された<総力戦研究所>に参加した官民の若者達が、いくつものシミュレーションを尽くした結果、仮に日米が開戦すれば日本必敗という結論を翌年16年の夏に提出したにもかかわらず、レポートは一顧だにされなかった。その顛末をノンフィクション小説(?)にした作品である。中々読み応えがある。

当時、「総力戦」という言葉が時代のキーワードになっており、それは第一次大戦の対露戦線でドイツの大勝をもたらした名参謀ルーデンドルフの持論であり、またどこかの政府機関が日本必敗の結論を出していた。そのくらいは耳にしたことがあった。それが、総力戦研究所であり、当初は「国防大学」という名称で設置したかったものの、「▲▲大学にするのであれば、それは文部省の管轄下に置かれねばならぬ」と文部省からクレームがつき、その剣幕に陸軍も辟易とし、仕方がなく「総力戦研究所」という名称をつけて内閣に設置した。そんなことまで紹介されているので、著者猪瀬氏の調査はしっかりしていると言える。

巻末にある著者×勝間和代対談:日米開戦に見る日本人の「決める力」。これまた(小生にとっては)大変面白い。但し、中身については、色々な突っ込みどころも満載だ。たとえば猪瀬氏は語っている。
無謀な戦争と言いましたが、戦争に負けたからそう思うのです。敗戦国はみじめでした。子供のころ、アメリカ占領軍が駐留していましたし、テレビ放送が始まってアメリカのドラマを見ると、生活水準が全く違う。あちらの家庭には大きな冷蔵庫があるけれど、こっちには冷蔵庫すらない家のほうが多い。なぜ、そんな豊かな国と戦争したんだろう、と考えた。勝てっこないじゃないか、と疑問を抱くようになった。だが戦前の日本人は勝てるかもしれない、と思っていたのです。なぜだろうと、不思議に思っていたのです。
語り口が上手であることもあるし、そもそもアメリカを相手に戦争を始めた政府の愚かさ、適時適切に戦争を回避する決定を下せなかった優柔不断な政府というイメージが浸透していることもあって、猪瀬氏の語りはすっと頭の中に入ってくるのだな。しかし、小生、上の指摘は誤りであると思う。

そもそも総力戦研究所の若者たちもそうであるが、アメリカと戦争をするという選択はありえないと当時の日本人の大半が考えていた。これが事実だということは、専門家の研究を通して、相当明らかになってきている。大体、陸軍にはアメリカを相手に戦争をするという思想は皆無だった - このこと自体、特に説明はいるまい。海軍もアメリカ相手に勝てる自信をまったく持っていなかった。大体、1920年代を通した海軍軍縮で、対英米劣勢になることを了解しているのだから、勝てる可能性はほとんどゼロと知っている。だから当時の関係者が「勝てるかもしれない」と考えていたと言うと、それは間違っていると思うのだ。

× × ×

太平洋戦争をなぜ避けることができなかったのか、なぜ負けるはずの戦争を始めてしまったのか?この問いかけは、これまで文字通り無数に登場しているし、回答は星の数ほどある。しかし、勝てるはずのない戦争を始めたのは、太平洋戦争だけではない。これも大変大事な点だと思うのだ。

日曜日に終わってしまったが、ドラマ「坂の上の雲」。日本は日露戦争で勝利しようと思って開戦したわけではない。大体、明治日本がロシアとの<総力戦>を演じ、ロシアを屈服させることができたか?明治日本の当事者は誰もそれが可能だと考えていなかった。この点は、ドラマの中でも、明白な事実として紹介されていたので安心した。

そもそも日清戦争にも問題はある。巨額の賠償金をとったうえ、遼東半島の権益まで得ようとして三国干渉を招いている。東アジアにおける対露政策の中で、日清戦争を始めたのであれば、中国(=清王朝)国内の<反日抑止>を戦略上の目標にしないといけなかったところだ。故に、日清戦争の戦後処理は、日本が融和的態度をとり、中国国内で親日勢力が育つ方向で戦略的決定をするべきだった。そのほうが、日本の利益になったはずである。清王朝から親日的政府への交替を誘導する戦略が有効だったはずであり、東アジア全域のソフトランディングを日本が主導するべきだったのではないか。それが猪瀬×勝間両氏のいう<歴史的意識>というものではなかろうか。1941年の太平洋戦争開戦に至るずっと前、そもそも日清戦争の戦後処理の段階で、日本はすでに賢明な戦略的判断を選びとる能力が不足している、そう(小生には)窺われるのだな。なぜ、この話題がもっと頻繁に登場しないかなあ、と思っている。事実、戦前期体制崩壊までの長い目で振り返ると、日本の真の失敗は、中国国内の反日心理を抑止できず、そのまま中国との全面戦争に引きこまれていった点にあると見る。

そういう目で、小生、見ているものだから、太平洋戦争の完敗は、それまでラッキーに恵まれていた日本的行動が通らなかった。詰まりは、そういうことでしょう、と。

× × ×

だから、太平洋戦争開戦時の指導層は愚かであり、明治日本の指導層は賢明であった。そのようには、小生自身はとても感じられないのだな。それは、銀行が不良債権処理に失敗して経営破綻した場合、その時の経営陣が愚かであり、それに比べて銀行を発展させた以前の経営陣が賢明であった。そうは言えないでしょ?同じことである。

もし<決められない日本人>という症状が、昭和戦前日本に認められ、現在の日本にも同じように認められるとすれば、同じ症状は、時代を限らず、常に日本人集団には認められる。これが客観的な見方ではないか。だとすれば、戦前と戦後の日本の制度は大きく変わっているのだから - ただ一つ、天皇制を除いては - 決められない日本人の原因は、日本の制度にあるわけではない。むしろ日本人が歴史的に形成してきた<和の精神>、<集団主義>。日本的価値規範にこそ求めるべきだ。

物事を決めない日本の指導層は、その時点その時点では<決断の時、いまだ熟さず>。一人ひとりの当事者は、そう思考しているはずである。善い指導者はそうあるべきだと思考しているはずだ。とすれば、決めないという行動特性は、日本文化に深く根を張ってしまっていると小生は見ている。だから、太平洋戦争開戦時の歴史的経過をいくら勉強して、これではいけないと意見を述べても、現実の問題解決にはほとんど無力であろうと考えている。

2011年12月27日火曜日

来年早々はドイツの景気回復とイタリアの債務危機の綱引きか?

ドイツ・ミュンヘンにある主要研究機関IFOから公表されている景気動向指数(Business Climate)では、年末にかけてドイツの景況は上向きに転じつつある。


一方、ドイツ紙(Sueddeutsche Zeitung)には<EUROの将来も含めて、何ごともイタリア次第である>という見方が出ている。
Die Zukunft des Euro wird nach Einschätzung von Deutsche-Bank -Chefvolkswirt Thomas Mayer im kommenden Jahr in Italien entschieden. Sein Überleben werde von der wirtschaftlichen Entwicklung des Landes abhängen, sagte er der "Frankfurter Allgemeinen Sonntagszeitung". Anfang 2012 werde Italien in eine tiefe Rezession stürzen, und "wenn es dem Land gelingt, da vor den Wahlen im Mai 2013 wieder herauszukommen - was ich erwarte -, dann kann Italien ein Vorbild für alle südeuropäischen Staaten werden. Ansonsten wird die Eurozone auseinanderbrechen."(25,12,2011)
 来年早々にイタリアは深刻な景気の落ち込みを迎えるだろう。5月の選挙前にうまくケリをつけるか?もしできていなければ、イタリアが先駆けとなって、あとはドミノ式に倒れて、ユーロ圏は瓦解するだろう。まあ、そんな見通しを民間金融機関はもっているようである。

とても深刻である。が、ドイツを先駆けとした早期の景気回復も期待できる余地が出てきた。綱引きである。

それにしても夏場のECB金利引き上げは、どう見ても余計なことではなかったのだろうか?その政策ミスが今回の欧州景気のネガティブ・ショックになったのではないか?経済学の限界をも示す誤判断にならなければいいがなあ。そう思っているところだ。

2011年12月25日日曜日

日曜日の話し(12/25)

来年度の政府予算案が固まったようだ。評判は良くない。これこそ惰性の中で復興と成長と福祉の全部を目指すもので、「まあ、何とかなるでしょう」を地でいく数字作りでありますなあ。そんなところである。

なにより一年の収入が何にあてられているか?家計の用語でいえば、約4分の1がローン関係費。元本返済と利払い。それから仕送り(=社会保障関係費)が4分の1強。諸会費(=地方交付税)が5分の1強。曲がりなりにも中身のある支出は半分もない。ただこれも、教育と科学振興が6%、国防が5%、公共事業が5%、こんな風なツマミ食いである。日本の国家予算の半分以上は、左から右へ現金のまま通り抜けているだけだ。家政婦に支払う賃金(=公務員給与)は、概ね5兆円。比率では5%強という辺りだ。ま、人を雇うのが勿体ないと言えば勿体ないとも言えるのだが、ここを少し切り詰めた所で、所詮は<焼け石に水>である。

しかも、こんな支払いを賄うため、借金による資金調達が49%。大体、働いている若い衆が収入だけでは足らずに、カネを借りて、ご隠居の治療費や生活費まで工面し始めたら、その家は<これが、ホントの、おしめえ>だ。

日本は、政府は大赤字だが、国全体では黒字である。ここのところを何故マスメディアは分析・検討・議論しないのだろう?いらぬことを書いて、販売動向が落ちるのが心配だというのは分かるが、読者はバカではない。状況と原因を正しく伝えるのがマスメディアの責任と思うのだが、いつまで中身のない<政府に反対・政府を批判>を続けるのだろう。

今日はクリスマスだ。宗教的意味合いは、個人的にはないのだが、平穏な気持ちで一日を過ごしたいと思っている。国の予算とはいえ、見ていると情けなるのが、偽らざるところだ。話題を変えよう。

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Raphael, Madonna and Child Enthroned with Saints, 1504

私は飲み込みが早い方なので、美術家たちはよろこんで私にいろいろなことを教えてくれる。しかし、理解したところで、すぐ実行できるというわけではない。物事を速やかに理解することは、たしかに精神の特質ではあるが、しかし物事を立派に仕上げるためには、一生を通じての練習が必要である。 
けれども、いくらその腕が鈍くても、素人はそれに辟易してはならない。私が紙に引く少数の線は、しばしば投げやりに過ぎて正確なものではないにしても、感覚的事物の表象を作る上によい助けとなる。何となれば、私たちが事物をより正確にまた明細に観察すればするほど、私たちはより速やかに普遍的なものへと高まることができるからである。(出所: ゲーテ「イタリア紀行」、岩波文庫の上編、231ページ)

この普遍的なものにこそ本当の価値があると考えるところに古典主義者ゲーテの面目があるということだ。とすれば、個々人の内心の動機に本質的な価値があると考える19世紀末の表現主義者とは真逆の立場である。

ゲーテ: 世の中はいつも同じものさ。いろんな状態がいつも繰り返されている。どの民族だって、ほかの民族と同じように、生きて、愛して、感じている・・・ 
リーマー: 生活や感情が同じだからこそ、ほかの民族の詩を理解することができるわけですね。そうでなかったら、外国の詩に接しても、何を歌っているものやら、とんと分からないでしょうな。
(出所: エッカーマン「ゲーテとの対話」、岩波文庫の上編、175ページ)
自分の外界に自分を束縛する何かの原理、共有して持たれている規範とかモラル、こんな概念から議論を始めると、古典主義という立場になることは、小生にも理解できることだ。

自分とは別の模範・規範ではなく、個々人の内面の動機と思いに最高の価値を認めるとすれば、つまりは個人個人の思いつきや独善を野放しにすることにならないか?誰でもが心配になる点だ。しかし、そう考えるしかない。人間が普遍的だと考える規範も、その起源は特定の誰かの利益のために規範として受け入れられてきたに過ぎない、真に普遍的な価値など、人は永遠に知ることができない、自然の働きに神の摂理が現れているのではなく、人の心の中にこそ神はいる、そう割りきってしまうと古典主義という考え方自体が無意味になる。

しかし、余りにも寂しいではないか。本当の美、本当の善は、時代を超えて、国を超えて、人の心を打つものだ。そう考えたくなるのがクリスマスからあとの年末年始ではなかろうか。個人がバラバラに100万人いるのではなく、<私たち>がいまここにいる。そう考えなければ、大震災を乗り越えることも難しいではないか。

そういえば、あるドイツ紙が「いま欧州にとって重要なのは”Wir(=We)”という立場だ」。そんなことを先日書いていた。そこで、英国は”Wir”という見方をついに我々とは共有できなかったのだと論じていたなあ。


2011年12月23日金曜日

うさぎ年は多事多端なのかな?

歳末も押し詰まった昨日の株式市場:
来年4月に電気料金を値上げする方針を発表した東京電力は、収益改善の期待から値上がりし、終値は前日より11円(5.21%)高い222円だった。(出所: 朝日新聞、2011年12月22日15時17分配信)
そりゃあ、電力料金を引き上げれば、東電の売上収入は増える。経営にはプラスになる。
そうかと思うと:
東電を破綻処理すれば、金融機関からの4兆円の融資や株主資本のカット、東電の資産売却、使用済み核燃料再処理積立金約2.5兆円などで国民負担はかなり軽減できるのですが、そうではなくて政府が検討しているのは新株を発行しての国有化。となれば、金融機関も株主も救済され、東電も現状維持されていく可能性があり、そのぶんの負担を、私たちが税金や電気料金で負っていくことになりそうです。 (出所: 朝日新聞、2011年12月14日10時28分配信)
こういう声も以前からある。つまり、東電の株主、東電に対する債権者が損をすれば、それ以外の国民が得をし、国民の損を少なくするためには東電の株主、債権者が負担を増やすしかない。そういう図式で事態はとらえられている、ということだ。

一方の得は他方の損という状況を<ゼロサムゲーム>という。政治の役割の一つは、囚人のジレンマに陥ることを避けて、社会が集団合理的な選択を行うよう議論や説得を通して誘導していくことである。しかし、状況が真にゼロサム・ゲームなのであれば、上手な政治を行うことで社会にプラスの価値を残すことは、理屈からして不可能であり、政治家のなすべきことは、決めるべきことを速やかに決める、そのための手順を踏むこと以外には選択肢はない。その場合、損と得が必ず合計として等しい以上、得をする人の人数が多いほうの案を選択するべきだ。少数の人の損失を避けるために、多数の人が損をするロジックはない。明らかに東電の株主、債権者よりは一般国民の数が多いので、以上の観点からする議論の結論はあまりにも明瞭。東電を一般企業と同じ原理で破綻処理するべきである。

それ故に、東京電力という企業組織を残すことにして、またそれが可能なように国民が広く負担をするには、そうしたほうが他ならぬ国民を含めた社会全体にとってプラスだ。そのことを国民が理解する必要がある。「損をするのではなく、得になるのです」ということを。

これはとても難しいハードルだ。

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今日は年賀状を印刷した。今年は多くの人が亡くなり、小生の親しい人も世を去った。実に多事多難な一年だった。前のうさぎ年は1999年、その前は1987年だ。1987年といえばアメリカの<ブラック・マンデー>。その年の10月19日月曜日、NY市場ダウ平均は前週末より一挙に508ドルの大暴落となった。下落率は22.6%。これは1929年の大恐慌を超える史上最大の金融激震となったのである。他方、1999年は前年のロシア危機、前々年のアジア危機、拓銀破綻、三洋証券、山一証券倒産など金融パニックで事件が出尽くしたのか、それほどの重大事件はない。うさぎ年だから何かが起きるとは言えないようだ。

印刷した年賀状にはゴッホのスケッチ「アニエールの舟」を彩色してみた作品を入れた。岩波文庫「ゴッホの手紙(中)」の扉裏に挿入されている作品だ。




先日亡くなった叔父を悼む気持ちだろう、親族からは欠礼状が届いているし、届いていない親戚たちも年賀を祝わないことは、当然と思っているに違いない。しかし、小生の弟はいわき市で暮らしており、幸運なことに東日本大震災では家族一同無事であり、家屋、会社ともに何の損壊をも被らなかった。甥が通っている高校では、既にたくさんのクラスメートが遠方に転居するため、福島を離れたよし。同じ場所で、家族がそろって、正月を迎えることは大変幸運なことであると改めて悟る次第だ。だから兄弟がみんな無事に元日を迎えられたことが、小生にとっては何より嬉しい。だから、嬉しい気持ちは伝え合おう。そんな連絡をしたところだ。亡くなった人への哀悼は持ちながらも、やはり残った人と新年を迎えることは、悲しいのではなく、事実として嬉しいのだ。

差し引き計算ってことになるのかもしれないなあ。

家族を失った人、大事な人を失った人、それでも生き残った人と語り合っている人たちはどんな気持ちであるのだろう。

2011年12月22日木曜日

家政婦のミタ - 小生、不幸への共感能力が衰えてしまったのか?

日テレ系のドラマ「家政婦のミタ」の最終回が昨日放映されたところ、平均視聴率で40%、瞬間視聴率では42.8%に達したとのこと。

小生の宅では、1回目から連続視聴しようとしたのだが、主人公が勤務する家庭のあまりのバラバラぶり、不幸な生活が画面で展開されるにつけ、「面白い」というより「心が痛い」というか、わざわざチャンネルを合わせて、または録画予約までして、時間を消費して見続ける意義を見失い、それですっぱり止めた。その時点で20%を超えたとか、何とか報道されていた。

その後、記録的な大ヒットになっていると知っても、ドラマのプロットが非現実的であるように感じられ、どうせ非現実的な虚構を劇化するのであれば、そこには誰もが陥るかもしれない運命的な悲劇とか、人間の業ともいえるような愛憎劇でないと、画面に引き込まれないよなあ、家内とはそんな話をして、再び観はじめる気にはなれなかったのだ。小生のいまの仕事は、チームの中で仕事をしているスタイルでもないし、周囲の話題になっているTVドラマを自分もみる、そんな動機ももってないし、ね。

しかし、非常に多数の人は、このドラマが面白いと感じて、観たのだなあ。なぜ・・・?という素朴な疑問があったりする。

ともかく父親像が、見ていて不愉快であった。何かというと人に頼って - 身近な人と相互協力するのではなく - 問題を解決しようとする安直な家族も見ていて不愉快であった。家政婦サービスという経済取引で、家族愛に生じた問題を解決しようというドラマ構想自体にプロデューサーの感性の低さを感じて、それも嫌でありましたな。多くの視聴者は、あえて不愉快な気持ちになりたいがために、自分の意志でドラマであれ、映画であれ、作品を観るはずがない。それはあらゆる芸術作品、芸能作品に共通のことだろう。自ら求めて不愉快な気持ち、嫌な気持ち、腹立たしい気持ちに、なりたいと思う人はいないと考えるのが常識だ。だとすれば、「家政婦のミタ」を視聴した多数の方たちは、小生とは違って、あのドラマから不愉快な気持ち、嫌な気持ちを感じることがなかったと推測せざるを得ない。小生は、追体験することはなかった、というか出来なかったが、他人の不幸を画面で観ることによって、<蜜の味>を覚えるのではなく、ひょっとすると<不安の共有>、<不幸の共有>、<悲哀の共有>、<馬鹿の共有>がそこで為されていたのかもしれないなあ、と。その果ての<心の救済>に大きな関心を抱いたのかもしれないなあ、と。だとすれば、「家政婦のミタ」というドラマは、昔あった「となりの芝生」を代表とするような他人の愚かさ、他人の不幸を素材にした<勧善懲悪もの>ではなくて、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というタイプの<例外なき救済劇>として、多くの人の心に届いたのかもしれぬ、まあ、こんな風に頭の中で屁理屈をこねくり回しているところだ。とすれば、ミタさんって、<阿弥陀如来(=ア、ミタ、如来>なんですか、こりゃ、このドラマのタイトル、二重のパクリだったのか、とね。

いろいろ屁理屈はこねられるが、ただひとつ、上に書いたようには小生、どうしても画面の中に入って行けなかった。不幸な家族像をみて<蜜の味>を感じるのは自己嫌悪に陥るし、かといって<共感>も感じられなかった。<共有>の意識をもつことも出来なかった。これは年齢を重ねた小生が、他の人と何か悲しいことを<共有>する能力が衰えていることを示すのだろうか?それ自体、過剰な幸福を与えられていることを意味するのだろうか?

ドラマ一本くらい何ほどのこともないと普通なら結論することだが、あまりに世間の受け取り方と感覚が合わなかったので、書き留めておく次第だ。

2011年12月20日火曜日

関東大震災時の海外からの援助と日本の胸中

関東大震災時に駐日フランス大使であったポール・クローデルによる外交書簡集「孤独な帝国日本の1920年代」の中に『海外から届いた援助、フランスへの感謝』という章がある。1923年(大正12年)11月7日付けの書簡にあたる。そこでク氏は、当時、海外から寄せられた支援について先ずこんな風に紹介している。
指導層の心中の思惑がいかなるものであれ、日本の国民は、東京と横浜を襲った災害に対して全世界で起こった崇高な慈善活動に、感動しないではいられませんでした。このうえない華々しさをもって、美徳を誇示しつつ慈善活動を行ったのは、なんといってもアメリカです。新聞が伝えたことですが、アメリカで集められた義援金はすでに四千万ドルを超えています。さらにアメリカの軍艦は、真っ先に現地にやってきて救助隊を上陸させました。日本政府の活動より早かった事例もあります。(出所:194頁)
今回の東日本大震災に際しアメリカが展開した「トモダチ作戦」を思い起こさずにはいられない。更にク氏は書いている。
国家としての謝意は、アメリカだけでなく、すべての国に対して表明されるのでなければ、不公平というものでしょう。街の角ごとに小さな机がおかれ、通行人が感謝状に添えて名前を記していました。二十万人近くの署名が集まりました。(出所:同上)
こうした感謝の気持ちも今回の東日本大震災とオーバーラップしている気がする。

しかしながら、ク氏は書簡の最後に自らの考察をこう述べている。
このたびの大惨事、そして世界じゅうの人たちが同情を示してくれたことが、この警戒心の強い国民を近寄りがたいものとしている心の壁を、とり除くのに役立つであろうことは確かです。しかしながら、『国民新聞』の編集者でこの国の最良の文士の一人である徳富蘇峰氏の書いたつぎの記事が、国の指導者たちの胸中を最もよく説明しているのではないかと思います。
「神の意志は推しはかることができない。日本の不幸はかならずしも他の国々の幸福とはならない。にわかに日本を襲った深甚なる災害は、日本に対する世界の同情を引き起こす結果となった。日本の不幸を知って、世界の人々は心を傷めた。アメリカがその友情の証を真っ先に示した。イギリスでは、新聞記者のなかに、苦境に立つ日本への同情からシンガポール軍港化計画の放棄を主張する者まで出ている。中国では、このたびの災害後に反日の動きが徐々に減少している。これらは顕著な事例にすぎない。しかし、これだけで充分日本に対する世界各国の人々がどんな態度を示したかがわかる。とにかく、日本の不幸は全世界からの同情を得るのに役立つのである。 
にもかかわらず、私たちは不安と残念さの入り交じった気持ちでこの事実を認めるのである。世界が日本を哀れんだということは、日本の名誉になることなのか。今や世界は日本が不能になったと考えているためではないのか。将来日本が旧に復したとき、今日の現在の同情は維持されるのか。現在示されている同情の念は、世界が日本の不幸な状況を慮った結果生じたものなのである。この状態が改善された暁には、今と同様の同情は期待できないだろう。私たちは、わが国が世界の共感を得られないほど傲慢になるのを見たいとは思わない。しかし同時に私たちは、日本国民が、みずからの力よりも各国の同情を信頼するという態度をとることを、警戒しなければならない。それ以上に危険なものはないであろう。 
友情は友情、そして国益は国益である。私たちは日本国民が世界情勢について広い視野をもち、この二つを混同しないよう望んでいる。友情は時にはライバルのあいだにも存在しうる。そして利益の問題は、友情とは次元の異なることなのである。」(出所:196 ~197頁)
戦前の大正期に生きていた日本人と現在生きている日本人との間には<世代間ギャップ>という言葉を遥かに超えた心理的・精神的違いがあるに違いない。インターネットとツイッター、フェースブックが普及し、一日もかからず互いに行ったり来たりできる現在と、海を船で往来するしかなかった当時とでは、同じグローバル化といっても、その度合いは天地の開きがある。それでもなお、関東大震災のわずか18年後には、アメリカ、イギリスを含めた連合軍と戦争をする決断を日本がしたという事実には、改めて絶句を迫られるのだな。

当時も第一次世界大戦後の戦間期であり、国際経済は実体的にも制度的にも脆弱性が目立っていた。現在もリーマン危機と欧州危機の中で、先進国と新興国が互いの出方を見ながら、自らは損をしたくないと考えている時代である。個々の国家が自国の利益を優先していては、世界全体の利益が毀損されることを、誰もが認めていたという点では似通っている時代である。「認めている」というだけでは不十分だったのだ。

「歴史に学ぶ」ことが本当に可能なのかどうか、小生にはいま一つ明らかではないが、いま私たちが置かれている歴史の位相は、初めて直面する時代であるとは言えない、決して「海図なき航海」をしているわけではない、そんな気はするのだ。経済的には関東大震災時の日本より、現在の日本ははるかに豊かな地位にあり、国内の資金は潤沢にある。国内の資金偏在を解決すればよいというのは、文字通り恵まれている。

恵まれた状況にあるという、他ならぬこの事実こそが、日本人から問題解決能力を奪っているのだとすれば、それこそいまの現役は文字通り「唐様で書く三代目」であって、キム・ジョンイルを継いだキム・ジョンウンを「お坊ちゃん」と呼ぶ資格はない。

2011年12月19日月曜日

キム・ジョンイルの死

北朝鮮のキム・ジョンイル総書記が死去したとの報道だ。今年は最後の年末まで波乱がある。

アメリカのWall Street Journalはこんな風に伝えている。
SEOUL—Kim Jong Il, the dictator who used fear and isolation to maintain power in North Korea and his nuclear weapons to menace his neighbors and threaten the U.S., has died, North Korean state television reported early Monday. 
His death opens a new and potentially dangerous period of transition and instability for North Korea and northeast Asia. Mr. Kim in September 2010 tapped the youngest of his three sons, Kim Jong Eun, to succeed him, and North Korean state television on Monday said the younger Mr. Kim will lead the country. 
South Korean stocks were down 4.6% on the news early Monday, and officials were closely monitoring levels of the won against other currencies.
China eventually took over as North Korea's main benefactor. Prodded by Beijing, Mr. Kim experimented with economic liberalization in 2002 by allowing some markets to form. But by 2008, Mr. Kim grew fearful that economic freedoms were eroding the power of his regime. He ordered crackdowns that included a confiscation of private savings in late 2009. 
Mr. Kim also resisted efforts by China, the U.S. and other countries to persuade him to give up the nuclear-weapons research that his father started in the 1970s. The research climaxed in October 2006 when North Korea first tested a half-megaton nuclear device. It tested a more powerful nuclear explosive in May 2009, leading to stiff sanctions by the United Nations Security Council that further damaged the economy. 
Over the past year, Mr. Kim repeatedly reached out to China for more economic and security assistance and lashed out at the three countries long considered to be North Korea's main enemies: South Korea, Japan and the U.S.
(出所: Wall Street Journal, 12, 19, 2011、から抜粋のうえ引用)
総書記死去でやはり韓国ウォンは売られたよし。

韓国総合株価指数(KOSPI Composite Index)も本日は3.4%下げている。朝方から欧州危機をうけて、ジリジリと下げていたが、12時30分前後に1790前後から1750辺りまで、一挙に2%以上奈落に落ちるように下がり、出来高もその前後に取引が集中している。その直後、13時33分にロイターが以下の報道を流している。
(Reuters) - North Korean leader Kim Jong-il died of a heart attack while on a train trip, state media reported on Monday, sparking immediate concern over who is in control of the reclusive state and its nuclear program.
韓国では売りが殺到し、逆に、米ドルは急騰したとのこと。どうやら情報自体は複数のルートで市場に到着・伝播していたようだ。
TOKYO—The dollar was up against the euro and the yen in Asia on Monday, as a report of North Korean leader Kim Jong Il's death prompted traders to buy a safe-haven dollars and sell riskier currencies and stocks. 
"The first reaction was to buy the dollar while selling the euro, the South Korean won and Asian shares," said Etsuko Yamashita, chief economist at Sumitomo Mitsui Banking Corp. (出所: 上と同じ)
3時49分時点でBloombergは、以下のように説明している。
Asian stocks fell after reports North Korean leader Kim Jong Il has died, extending earlier losses sparked by Fitch Ratings saying it may cut the credit ratings of European nations. 
HSBC Holdings Plc (5), Europe’s biggest lender, dropped 2.9 percent in Hong Kong on speculation the worsening European debt crisis will hurt bank earnings. Samsung Electronics Co., South Korea’s biggest exporter that gets about 20 percent of sales from Europe, slid 3.6 percent in Seoul. Billabong International Ltd. (BBG) slumped 44 percent in Sydney after the surfwear maker cut its earnings outlook. 
“The market has been pretty weak, and when something unexpected happens in this kind of sentiment, people want to go for safety,” said Tim Leung, who helps manage about $1.5 billion at IG Investment Ltd. in Hong Kong. “Whether a successor would be able to stabilize the situation with Korea is important to see. In the short term, people would want to close some of their positions to see what happens next.” 
The MSCI Asia Pacific Index slid 2.1 percent to 110.15 as of 3:10 p.m. in Tokyo, heading for its biggest decline since Nov. 10. Six shares fell for each that rose in the measure. The gauge dropped 2.3 percent last week as signs of slowing economic growth in China and Japan and concern that Europe’s debt crisis is worsening overshadowed improving U.S. data.
今日のキム・ショックは、アジア全域で2~3%の資産価値が消える程度のものだった。アジアにとってはネガティブ・ショックだったが、その分アメリカにとってはポジティブ・ショックになった。

ショックとしては限定的である。後継者が決まっているということもあるだろう。5%を超えるような大暴落にならなかったのは、ある程度、総書記の死去と当面の成り行きを市場が織り込み済みであったのかもしれず、と同時に評価するべき経済活動のない北朝鮮という国が、これから政治的に少々混乱しようとも、世界市場にはほとんど影響がない。そんな冷徹な計算を市場がしているということかもしれない。

2011年12月18日日曜日

日曜日の話し(12/18)

20世紀初めは19世紀末から続いた「世紀末文化」の時代だ。市民社会の理想が行き詰まったその時代、ヨーロッパの自殺率が上昇をたどっていたことからも、社会の不安と退廃を窺い知ることができる。その頃、自殺率(=人口10万人当たり年間自殺者数)がフランス、ドイツとも20の大台を超えたというので大きな社会問題になっていた。ヨーロッパの自殺率の動きが反転低下した契機は皮肉なことに戦争である。両度の世界大戦が終了し、また自殺率は上昇傾向をたどっていたが、1980~85年を境にして、下降傾向への転換に成功している。その背景として、社会主義思想の退潮を指摘することができるのかどうか、そこまで言えるのかどうかは明瞭ではない。

日本は先進資本主義国の中では、現在、断トツに高いのだが直近時点では韓国に逆転されている - 喜ぶべきことでは決してないが。日韓ともこの30年間、自殺率が一貫して上昇をたどってきているのが共通の特徴である。その歴史的フェイズは、ちょうど20世紀初頭のヨーロッパ社会と似通っているかもしれない。

さて不安と退廃のヨーロッパ社会においては、価値規範の崩壊が進んでいたが、それは結果として表現主義と呼ばれる行動につながっていた。前の日曜日はゴッホ、ゴーギャンらの後期印象派を話題にして、それはフランス表現主義であると記したのだが、日本の大正期「白樺」も、日本表現主義と呼ばれることはないものの、個人の内心の動機を優越させる点は互いに通底している。フランスのほうが少し先行しているが、大体、同時代のことなのだな。まったく日本とパラレルになっていたのがドイツ表現主義である。

小生の好みでカンディンスキーをよくとりあげるが、彼の根っこにはロシアがある。いかにもドイツを感じるなあというと、ドレスデンを拠点に活躍したブリュッケ派。その中でもキルヒナーを語らずにはいられない。

Kirchner、Street Berlin, 1913 (TheArtStory.orgより)

キルヒナーは、トーマス・マンの「魔の山」の主人公、また「トニオ・クレーゲル」を彷彿とさせるような青年である。第一次大戦で応召されたが神経を病み除隊となる。サナトリウムで療養を続け、ダボスに転地療養をかねて移るのだが、結局、台頭したナチス政権から「退廃芸術」との批判を浴びピストル自殺を遂げる。

Kirchner、Blick Auf Davos, 1924

どこか病んだ内面がそのまま絵の色彩になって表現されている。その時代の文化はやはり<不安と退廃>から出発しているところがあったのだろうなあと感じる。その不安は、誰でもなく先ずは<青年層>の不安であったわけだし、それが解決するべき社会的テーマであったのだ。

さて現在の日本は、依然として、自殺大国である。とはいえ、その自殺大国の地位は青年層が支えているのではない。

日本の高自殺率を支えているのは主として団塊の世代、つまり中高年である。男性に限るが日米比較グラフをつけておこう。後期高齢者の自殺率が高いのは日米共通の現象である。10代の自殺率はアメリカのほうが寧ろ高いくらいである。青年層では日米は概ね同レベルだ。そして最も大きな違いは、50代後半にさしかかる中高年の自殺率。その年齢層を過ぎると、日本は自殺率が逆に下がってしまうというのが、非常に特徴的である - この点については以前にも投稿したことがある。

明瞭なのは、日本の将来を背負う青年層に<不安と退廃>の心理が浸透しているようには、どうしても思えないことだ。惨めな心理、悲哀の心理、不幸の心理は、必ず自殺率というデータに現れてくるものだからだ。新しい文化の形成は中高年が担い手になることはない。もしも中高年が担い手になって新たな文化が形成されるなら、それは不安をモチーフにするはずだ。しかし、若い年齢層は不安と退廃の感覚を共有しているわけではない、少なくとも日本では。これからの日本で世紀末ヨーロッパに似た退廃芸術が広がるとは思われないのだな。

2011年12月17日土曜日

年金=ねずみ講、つまり年金=空手形、とな?

ロイターが橋下徹次期大阪市長の発言を次のように報じている:
大阪市長に就任する「大阪維新の会」の橋下徹代表は17日、大阪市で民放番組に出演し、国の年金制度について「根本的に変えないといけない。ねずみ講そのものだ」と批判した。終了後、記者団に「現役世代に対する完全犯罪。継ぎはぎの、ばんそうこうの手当てみたいなやり方では絶対に持たない」と述べ、現在の賦課方式から積立方式に変える必要性を強調した。「なぜ政治家が(それを)感じないか」と不満も漏らした。(12月17日00:25配信)
ねずみ講の参加者は、これは得だと思って参加する。しかし、無限に会員が増えないと、いつか必ず行き詰まる。支払うカネと受け取るカネがつりあう仕掛けがそもそもないのだから、必ず破産するわけであり、払ったカネは戻っては来ない。

現在の公的年金制度が「ねずみ講」であるという形容が、文字通り正確であるとは考えられず、橋下氏も当然そのくらいのことは分かっているはずである。つまり、上の発言は政治的発言 - 政治家が政治的発言をするのは当然だ - であって、国民の意識に影響を与える、意識を変えようという意図をもって、発言していることは明らかだ。

同氏の政治手法は過剰に扇情的であると感じてきた小生は、同氏を支持しようとは思わない。思わないが、上の発言ばかりは「本筋をついた議論を仕掛けてきましたねえ」と、感嘆の念を禁じ得ない。

× × ×

公的年金には二つの側面がある。一つは強制貯蓄という側面、もう一つは老後の生存権の保障である。貯蓄という面に着目すれば、年金給付は貯蓄の取崩しになるから、契約者全体としては、支払った年金保険料を超える年金は受給できない。年金はあくまでも保険であり、早く死ぬ人がおさめた保険料で長生きする人の年金を捻出するのだ。他方、生存権の保障という面に着目すれば、それは日本国憲法第25条で規定する生存権と、国による保障の議論になる。このことと第14条が定める<法の下の平等>をあわせ考えると、すべての国民は老後の生活水準を保障してもらうために等しく年金という形で生活の糧を支給されることを期待してよい。

あとの生存権の保障については、社会保障政策全体の中では生活保護政策がそれに該当するので、現行の公的年金の主たる目的は、老後の生活を国が保障するというより、制度に基づく<強制貯蓄>である。そう考えないと制度を運営できないのじゃないかと小生は思っている。

デフレによる年金減額に年金受給者が反発していると報じられたが、それは自らが支払った年金保険料は金額として確定しているのであり、デフレでその残高が減少したとは認識していないからである。貯蓄した残高を取り崩すのが年金であると解釈すれば、デフレだから年金を減額するべきだという結論は出ては来ない。

しかし、年金=強制貯蓄だと考えるのであれば、支払った年金保険料を越えて年金を受けとる契約者集団がある場合は、速やかにそれを是正するべきである。当然そうなるわけだ。日本では世代間不平等が以前から指摘されており、その世代間格差をこそ、可及的速やかに解消しなければならないという政策選択になる。この当たり前のことができないのは、既に年金給付に税収入が投入されており、公的年金は貯蓄であると同時に、社会保障でもあると認識されているからだ。もともと曖昧であったのが日本の公的年金制度だが、その理念と目的は誰にも分からなくなってきている。

税を投入する国の行政として年金制度を運営するのであれば、全て受給資格を有する国民は既往履歴とは関係なく、等しく処遇されるべきであろう。すべて税でまかなう基礎年金がそれにあたる。一方、基礎年金を超えた年金部分は貯蓄の取崩しと見るべきだ。だとすれば、貯蓄した金額に応じて年金を受け取るのは当然である。この2階部分は、本当は必要最低限の制度設計にしておき、一層の年金増額を希望するなら民間保険会社が提供する年金保険商品を利用する道を残しておくべきである。現在の公的保険は、税(=社会保障コスト)と保険料(=貯蓄)の両方がごった煮状態で、文字通りの<年金なべ>になっている。そして、国民の多くが、税も貯蓄も含めた全体で<結果の平等>を求めている。これでは絶対に、永遠に、社会的合意は形成されないだろう。

× × ×

小生自身は、国は1階部分の基礎年金だけにコミットするべきだと思っている。2階より上の年金の設計には国は関与しないという原則を貫けば、公的年金をとりまく事情はずいぶん透明なものになるだろう。もちろん2階より上の部分に現在のような<強制貯蓄>制度を設けてもよい。その場合、一つの契約者集団を一つの世代、あるいは一つの職域、一つの地域等々と定義するのであろうが、具体的にどのような強制貯蓄契約をどのような団体が運営するのか。同一人物が、ある職域保険に入り、ある地域保険に入り、更にある世代集団に属する。こんな重複契約もあるのか。こうした問題はオペレーション上の課題として残るに違いない。

公務員の年金と民間の厚生年金の違いは、共済組合に税が追加投入されていることで可能になっている面があり、そうであれば給与の遅延支払い、もっと平たく言えば公務員年金と民間年金との差額は<隠れ給与>とも認定できるかもしれない。給与と年金を一体化した定量評価も行わなければならないことの一つだろう。

2011年12月16日金曜日

欧州はシナリオなき危機管理になるかも

キャメロン英首相は財政統合に向けたEU新条約に署名しないと言い切って帰国したものの盟友のクレッグ自民党党首からは同調しないと言われるなど十字砲火を浴びているようだ。

その英国について独紙Die Zeitは報じている:
Cameron schmiedet Allianz gegen Merkozy 
Der britische Regierungschef möchte andere Staaten von seinem Nein beim EU-Gipfel überzeugen. Cameron hat bereits mit seinen Kollegen aus Irland und Schweden telefoniert. Großbritanniens Premierminister David Cameron will den Block der 26 EU-Nationen aufweichen, die sich zur Stabilisierung des Euro vor einer Woche zur Unterzeichnung eines neuen EU-Vertrages bereiterklärt hatten.
...
Cameron habe mit seinen Amtskollegen aus Schweden und Irland telefoniert, berichtete die Zeitung Independent. Es gelte jetzt "Allianzen aufzubauen", sagte der Premier der Zeitung zufolge. Der Independent wertete das Verhalten Camerons als Versuch, an den Verhandlungstisch zurückzukehren, ohne von seiner Position abrücken zu müssen.
...
SPD-Fraktionschef Frank-Walter Steinmeier befürchtet deshalb mittelfristig einen Austritt des Landes aus der EU". Ich fürchte, der entscheidende Schritt für ein Ausscheiden Großbritanniens aus der EU ist getan", sagte er der Rheinischen Post. "Wenn die regelmäßige Veranstaltungsform der EU ein Europa der 26 ohne Großbritannien wird, dann ist ein Entfremdungsprozess unvermeidbar und am Ende unumkehrbar", warnte Steinmeier.
(Source: Die Zeit, 15,12,2011, 18:06)
英国が新条約署名拒否に同調するブロックを形成しようと<連合>を企てている。アイルランド、スウェーデンと既に電話会談をしたようだ、と報じている。言葉遣いをみると、「ムダなあがきをしている」という皮肉なニュアンスも込められているようだ。仏独協調の堅固さを敢えて誇示しているようでもあるが、これは当然、主導権を争うための限定戦争ゲームであるから当たり前。とはいえ、野党党首が、英国をEUから排除することの危険を指摘しているなど、既に議論したように、ドイツにとって今回の英国の言明が脅しとして機能していることは、ある程度事実のようであるし、また英国がEUから除外される事態はドイツにとって得策ではないとドイツが認識していることも、窺い知れるようである。

さて、上のことは英誌Independentが報じたとのことだから、たとえばTelegraphなどでは伝えていない。その代わり、トップで伝えているのは仏中央銀行総裁の発言だ。
UK 'should be downgraded' before France, says ECB's Christian Noyer 
Britain should have its AAA credit rating before France, according to Christian Noyer, head of the French central bank, as the war of words between the two countries heats up following David Cameron's EU treaty veto.
A downgrade of France's AAA rating would not be justified and the ratings agencies are making decisions based more on politics than economics, said Christian Noyer, who is a European Central Bank policymaker as well as head of the Banque de France. 
Standard and Poor's is due to decide whether or not to downgrade eurozone countries in the coming days following an EU agreement on Friday to forge tougher fiscal rules. 
"The downgrade does not appear to me to be justified when considering economic fundamentals," Mr Noyer said in an interview with local newspaper Le Telegramme de Brest. 
"Otherwise, they should start by downgrading Britain which has more deficits, as much debt, more inflation, less growth than us and where credit is slumping," he went on.
(Source: Daily Telegraph, 16,12,2011)
19世紀後半のドイツ帝国誕生まで、歴史的に一貫して続いていたのは英仏対立であって、英独対立ではない - というより現英王室はドイツ発祥である。

ほんの一言片句ではあるが、マスメディアの物言いから伝わってくるのは、英国対大陸の離反ではなく、よりトラディショナルな英仏対立のほうだ。小生も、大陸欧州諸国が結託して、英国と対立する共通の動機は、そもそも大陸諸国にはないと見ている。

もちろんトラディショナルな覇権ゲームをやっている余裕は現在の欧州にはないわけであり、グローバル化している世界で欧州が発言権を持っていくためには、欧州が一つである必要があると、二、三日前に独紙Frankfurter Allgemaineが述べていた。と同時に、島国である英国は決して我々と同調しようとしない国家であったとも書いていた。また、オーストリア紙Die Presseは、「財政統合案に関する幾つかの疑問」とタイトルを打って、その実効性に疑念を示していた。

連邦制が確立しているアメリカ、清王朝乾隆帝の時代に周辺諸民族を統合した現代中国では、こんな政治状況は生まれないかもしれないが、フォロワーにとっては中々面白い素材が得られるので、しばらくは目が離せない。


2011年12月15日木曜日

65歳までは再雇用を義務付けるとは・・・

65歳まで再雇用を義務付ける方針を厚生労働省が打ち出した。昨日はこのニュースがかけめぐったかと思うと、今朝はテレビのワイドショーでも同じ話題で盛り上がっていた。全体としての雰囲気は「仕方ねえなあ・・・年金もない、収入もないじゃ困るもんなあ」、まあこんな受け止め方のようである。

とはいえ、経営者側は<義務付け>には反発しているという。それはそうだろう。企業と社員との雇用契約は私的契約である。嘱託でもいいし、請負でもいい。同じ会社でなく関連会社でもよいとはいえ、社員たる地位を継続して与えなさいとお上が言うのは、民業圧迫などというレベルを超えており、まさに統制である。反発はするだろうなあと小生も、この点だけは同感である。

もともと65歳までは雇用を継続するように行政側は要請してきたというし、今回はそれを厳格化するというので、極端に強権的な措置だとは思わない。それでも、小生、個人的に陰々滅々とした印象を受けるのは、<年金システム絶対死守>とさえ言えば、半ば経済統制的なお上の指示にも、国民一同、「仕方ねえよなあ・・・」とばかりに付き従うという世の雰囲気である。年金システムを<国体>と言い換えれば、<国体絶対死守>になるわけで、戦前期の日本人を支配した精神構造と何も変わっちゃいないじゃないか、と。死守する対象が天皇陛下の玉体であったのが、いまは老後の年金に変わっただけじゃないか、と。小生、たいへん天邪鬼なもので、そう思ったりするのでありますな。

年金って、すべてに優先して守らなければならないものでありますか?そんなに大事で、これなくしては日本人は生きていけず、幸せにもなれないなら、「坂の上の雲」に登場している日本人は不幸でしたか?関東大震災で被災した人たちは、年金に救われましたか?1945年に何もかもなくした日本人は、不幸のどん底に陥って、生きていく気力をなくしましたか?そんな風に反問したくなるし、小生は世の中とは真逆に、年金絶対の行政システムこそ日本人を不幸にしている根本原因と思っている。

ひらたい話し、おかみ直営の公的年金なんぞ、ないほうがいい。そう思っている。年金はいらない。保険料も払わない。大体、自分の人生くらい、自分で決める。どこの何様でもあるまいに、お上があれこれと指図して、老後の面倒をみてもらうからには、<社会共同体>への恩返しを忘れるなよとばかりに、何かというと<制度設計>といい、その度に<専門家>がしゃしゃり出てきて、自分が働いて得た金をむしりとられるなど、そんな世の中は一番嫌いな世の中である。

それ故、今回の65歳まで再雇用義務付けという政府方針に対する小生の窮極的意見は、そんな風に統制的な政策を展開しなくてはならないなら、年金制度大幅縮小もしくは廃止。これが個人的には理想社会になるのだな。

× × ×

ただまあ、それを言っちゃあ、おしめえよ。そんな感懐もある。しかし、セオリーに沿って考えても、今回の義務付け路線は大いに問題がある。


そもそも労働需要と労働供給は、マクロ的な経済変動、各地域の産業構造の違いに応じて、地域ごとにばらつきがあるのが普通だ。労働が過剰な地域から不足する地域に速やかに人的資源が流れていかないといけない。日本の企業は、正規社員の解雇には容易に踏み切らず、その代りに定年退職者の欠員を補充しないという形で雇用調整を図ることが多い。いわゆる<窓際族>。これもまた日本的雇用慣行の有り難い一面である。そんな慣行がある中で、これまで勤務していた企業に同一人物の再雇用を義務付けると、それでなくとも日本経済に乏しいとされる柔軟性が更になくなり、ただでさえ変化に即応できていないとされる企業組織をより一層硬直的にするだけのことではないのか?

政府は、年金支給開始年齢を今後引き上げる際に、無収入世帯が発生しないための措置であると説明しているよし。年金政策で対応できないのなら、雇用政策で対応するべき問題だ。その対応が今回の再雇用義務付けになるのか?であれば、いま失業率が高い若年層についても、就業を希望する若年層失業者を地域ごとに配分して、各企業に若年者の採用を義務付ければよいではないか?それもせずに既就業者の雇用を継続させれば、損失を被るのは若年層である。若年層が被る損失は直接的な損失ばかりではない。就業経験を蓄積できないことによって日本の要素生産性が長期的に低下し、潜在成長率が低下することをも予想しなければならないのだ。

これほどの大きな損失を甘受するよりは、高齢無収入者の発生を容認する一方で、若年層無収入者の減少を可及的速やかに図るべきである。無収入高齢者の生計維持は、若年層の収入増加を財源的基礎とするのが本筋だ。そのための制度設計なら理にかなう。これから日本を背負っていくべき若年層の就業機会を圧迫して、既に扶養者も独立しているはずの高齢離職者を再雇用する方に力点を置くなど、全くこれほど典型的な<既得権益保護政策>はないと、小生は断言したい。

× × ×

というより、<定年制>という雇用慣行自体を止める方向で行政方針を転換してはどうだろうか?

何歳まで雇用されて働くかという意思決定は、そもそも人によって、健康状態によって、労働強度、資産状況等々によって、違う。企業と個人が直接に交渉をすれば、交渉力の違いから個人が不利な立場に立たされる。であれば、個人の勤労意思を厚生労働省(=ハローワーク)がデータベースとして管理しながら、求人情報に基づいて、いつでも速やかに別の雇用機会を利用できる雇用インフラ作りをする方が、働く人たちにはメリットがあるはずだ。

雇用機会の流動性を高めることは、企業にとって利益があるばかりではなく、なにより離職・転職のコストを低下させることを通じて、正当な報酬を支払わない企業は人材流出のリスクに直面する。それ故に、被用者に正当な報酬を支給する誘因が企業の側において高まるのである。これを<効率性賃金>という。

日本国憲法27条では、全ての日本人の勤労の権利ならびに義務をうたっている。その実現のために政府が民間経済に介入したってよいという考え方もあるかもしれない。しかし、介入するのであれば、国民経済における資源配分を混乱させ、国に損失を与えるべきではない。民間経済に介入する覚悟があるなら、介入の仕方を工夫するべきである。


ただ、どうなのだろう。今回の措置については、マスコミもあまり正面から批判していないようだ。役所が「ことは年金のことですから!」と念押しをすれば、マスコミは<見ザル、聞カザル、言ワザル>でいこうと決めているのかもしれない。

とすれば、

むかし陸軍、いま大蔵

と言われた時期があったが、

むかし天皇、いま年金

これまた現代日本の一面の真実をついていると思うのだな。

2011年12月13日火曜日

中国漁船と韓国海洋警察との殺傷事件について

初夏にはアメリカ国債格下げ、9月、10月とギリシア危機、更にはヨーロッパ全体にまで危機が拡大して、先日のEUサミットでは各国が「財政統合への道筋」を確認して一段落した。英国は新条約には署名しないというので、またまた騒動が持ち上がっているが、これは昨日投稿した話題でもある。そんなところに、中国漁船による不法操業を摘発した韓国海洋警察官が、中国漁船船長によって殺傷されたとの報道だ。

当然、中韓両国の外交問題になっていく可能性が高いが、もしこの当事者が韓国ではなく、日本の海上保安官であったらどうか?今頃、日本のマスコミは半狂乱となり、政府は顔面蒼白になっているのではないか?政府は、冷静沈着かつ毅然とした態度で中国と協議することができるのだろうか。その日本政府を日本人達は冷静沈着に見守ることはできるのだろうか?極めて残念ながら、小生、いささか不安になるのだ、な。もちろん韓国は中国と戦争などをするはずがない。ないけれども、限定的な武力紛争が起きることは十分あるわけであり、ここで武力紛争を徹底的に回避するという選択をするようなら、何もかも全て、中国に奪取されてしまうだろう。まあ、この辺り、中国という巨大国家とのつきあい方は、島国の日本よりも韓国の方に、はるかに一日の長がある。

ただ限定戦争を覚悟するとしても、そんな状況が韓国政府にとって望ましくないことは勿論だ。報道されるところでは、当の中国政府が違法漁船を厳格に処罰する方針に転じているとのことだ。中国政府の違法操業厳罰化の動きが、かえって違法漁船の拿捕回避行動を激烈にし、危機に陥ったときには殺傷行動をも敢えて辞さない誘因をつくっている。そうも考えられる。

では、中国政府が違法操業厳罰路線を転換すればよいかと言えば、それも効果的な防止策にはならないだろう。違法操業をしようという動機が残る限り、ペナルティが小さくなれば、違法漁船の数が増えることは明白である。これも韓国政府の望む所ではないだろう。

× × ×

韓国政府は金で解決するべきである。というより、<水産業地域発展振興計画>を中国政府に策定させ、水産加工業の拠点開発を進めさせるべきである。その計画の中で、韓国は直接投資を通じて、中国の拠点開発に寄与し、関係地域の雇用機会創出、所得向上に貢献する方法が効果的である。違法漁船が増えるのは、それが儲かるからである。一部の漁船は食うためにやっているのだろう。どちらにしても経済的動機から違法操業をしているはずだ。であれば、更に付加価値をつけた製品を生産できるようにしてやれば、韓国は水産物を中国に輸出し、中国はその水産物を食料品に加工することで、所得を得ることができるだろう。その所得は、違法操業を繰り返すことによるリスクを考慮すれば、はるかに中国漁民にとっても魅力的であろう。かつまた、中国に進出した食品加工企業も利益を得られるのである。

経済的な誘因から引き起こされる事件は、上手に取引をすることで、必ず解決できる。限定戦争などは下策である。賢明な政策を選択して上策を採るべきである。

2011年12月12日月曜日

英国の撤退戦略は理にかなっているか?

欧州の財政統合に向けた新条約策定に対してキャメロン英首相はノーをつきつけた。この行動をドイツ紙は:
Fachleute in Großbritannien bezweifeln, dass Cameron mit seinem Veto in Brüssel dem heimischen Finanzsektor gedient hat. „Dieses Nein war definitiv nicht im Interesse der Londoner City", sagt der CER-Experte Tilford. Die angestrebten Änderungen im EU-Vertrag hätten die Interessen Großbritanniens und seiner Finanzbranche nicht tangiert. „Aber Cameron hat mit seinem Verhalten die anderen vor den Kopf gestoßen. Das wird unseren Einfluss schwächen, wenn über die Reform der Finanzmarktregulierung in der EU entschieden wird“, erwartet Tilford.(Source: 9, 12, 2011, Frankfurter Allgemeine Zeitung)
 このように他の欧州諸国を「ぶん殴った」と相当のレベルで難詰している。英国の専門家は(シティの金融筋も含め)首相のこの行動によって、欧州内金融改革が議論されるときに、英国の影響力が失われるのではないかと懸念しているようである。そんなことは分かり切ったことであるのに、英国だけが孤立の道を選んだのは、理にかなった戦略になっているのだろうか?

キャメロン首相の行動自体は英国内の世論に沿っているという。上の独紙でも
Camerons „Nein" dürfte in erster Linie innenpolitisch motiviert sein. Auf der Insel wächst angesichts der kontinentalen Finanzwirren die Europa-Skepsis. Umfragen zufolge fordern 70 Prozent der Briten ein Referendum über die Mitgliedschaft des Landes in der EU. Im Oktober musste der Regierungschef in der Parlamentsfraktion seiner konservativen Partei eine euroskeptische Rebellion niederkämpfen. „So wie deutsche Politiker etwa beim Thema Eurobonds auf heimische Vorbehalte hören müssen, wird auch Camerons Handlungsspielraum vom seinem euroskeptischen Parteiflügel eingeschränkt", sagt Iain Begg, der Europa-Experte von der LSE.
 このように、英国民の70%がEU加盟に関して国民投票を望んでいる(加盟を再考したい)という世論調査結果を伝えており、またこの10月には保守党内の反EU派を説得するのに、キャメロン首相が随分骨を折っている、キャメロン首相に与えられた裁量の余地はあまりなかったとも憶測されている。当然、他国も英国の国内事情はわかっているわけであり、まさか断るとは思わなかったかもしれないが、トップともなればある程度今回のことは予想していたことではあろう。ちょうどドイツが欧州救済のための資金負担でどの程度まで応諾するかは、ドイツ国内の有権者の考えに束縛されているのと同じ理屈である。それも独紙はわかって書いている。金融取引税構想が英金融界への強襲になると心配したのであろう。そんな見方もしているようだ。

さて当の英国だが、ロイター日本語版によれば
[ロンドン 10日 ロイター] オズボーン英財務相は10日、ユーロ加盟国が財政統合強化に向けた新たな条約策定で合意したことはユーロを支援したものの、ユーロの安定にはまだやるべきことが多くあるとの見解を示した。
また、英国の国益に沿わないため、新たな条約には参加しないと表明したキャメロン首相の見解を繰り返した。
(中略)
オズボーン財務相はBBCラジオで、ユーロは48時間前と比べて安全かと質問され、「おそらく必要な方法で財政政策の協調を図ろうとしていることから、状況はこれまでよりも改善しているとみられる。だが、これはユーロがより効果的に機能するために必要ではあるが、十分ではない条件だろう」と指摘した。 
さらに「彼らは現在の問題を解決する必要があり、ユーロを支援するための財源を見つけなければならない。次に重要なのは欧州全体の競争力を強化し、英国を含む大陸全体が世界経済から締め出されないようにする必要がある」と語った。
中々強腰だが、シティですら今回の行動を心配する向きのある点には触れていない。ただ、ドイツと同じく、英国も現在のEUには強い不満を持っていることが露わになっている。そこで英国は新条約には賛同しないとなったわけであるが、こうした撤退戦略はビジネス界ではよく”Fat Cat Strategy”の好例として解説される。というのは、撤退すること自体は相手の利益にかなうソフトコミットメントであり、それによって相手の資源は自らが撤退する分野にシフトされ、そのこと自体が自らこれから勝負する市場にはプラスの効果をもたらす、これこそ撤退の真の狙いであるからだ。

英国の今回の選択はこれとは違う。協調するべき時に個別利益を優先させたわけである。個別利益を優先させれば、集団合理性はもたらされず、「囚人のジレンマ」に陥るのが必至である。それは他国にも分かっているので、英国はそれ以外の欧州諸国から協調する仲間とは最早みなされないだろう。しかし、期待されたEU共同債は実現せず、ECBによる国債買取りも実現されなかった。欧州危機の根本は、財政統合に向けた新条約を策定することではなく、失われた銀行資本をどうやって公的に保証し、信頼性を取り戻すかである。これなくして欧州の経済再建は絶対にありえず、経済再建なくして欧州が全体として発展する道はない。しかし、それにはドイツの協力が必要である。そのドイツでは国民が南欧諸国救済には反対している。

こうしてみると、英国はとりあえずライフジャケットを身につける選択をしたことが明らかだ。英国が自らにとってプラスとなるように南欧諸国の意志決定に影響を与えることを意図しているのであれば、これは一つの戦略である。相手に譲歩を迫るという意味では、目に見える外観からは分からないが、先にガツンと一発くらわせる”Top Dog Strategy”に該当する。一発くらわせるというなら、ドイツも英国と共同歩調をたどりたいと思いそうなものだ。しかし、それはない。今回、EU共同債とECBによる一層の量的緩和に対してドイツは”Ja”と言わなかった。今回は財政統合への道筋をつけた。これはドイツの収穫である。ドイツの収穫に英国の”No”が寄与しなかったとは断言できないのだ。もちろんドイツは信用できない英国と行動を共にはしないだろう。

フランス、南欧諸国は規制を緩和して、経済構造改革を進め、低生産性が成長への障害になっている既得権益層にメスを入れなければならない。それまで、ドイツは交渉のテーブルにつきながら、相手の望む札を出さない形で、相手に対してタフに行動するだろう。英国は、財政統合への協調を拒絶した。他国は英国を批判するが、このコミットメントはドイツに対する脅しにもなるだろう。ドイツは欧州社会のメンバーであることを望んでおり、その時、英国もメンバーであり続けることがドイツにとってプラスだからである。ドイツがドイツの利益を今後どのように押し通すか極めて興味深くなってきた。

かくして英国は、EU脱退でもなく、EU加盟でもなく、第三の道をとろうという行動を選んだ。ま、今日はこの辺にして、今後の展開を見ていくことにしよう。

2011年12月11日日曜日

日曜日の話し(12/11)

退廃と不安といえば、文化史的には19世紀末ヨーロッパ社会の文化と風俗を思い起こすはずだ。

美術の世界で例をあげると「叫び」で有名なノルウェー人画家ムンクがいる。今でもオスロの町を歩くと、小路の奥のくずれたビルの裏壁にムンクの模写がペンキで描かれてあったりして、これは文字通りの国民的画家であるなあと感じるわけだ。

そのムンクは、ノルウェーから1885年にパリに出てきてゴッホ、ゴーギャンなど印象派の分析主義に反発を覚える後期印象派 - というより、フランス表現派と呼ぶべきだな - から大きな影響を受けたそうだ。であれば、ドイツ表現派もゴッホ、ゴーギャンの影響下にあったらしいから、元祖「退廃と不安」は、世紀末フランスにとどめを指すのかもしれない。

小生、ゴーギャンという画家はそれほど好きではなく、色彩の美しさを比べるとセザンヌとは比べものにならないと思っている。作品本体をみると、つくづくそう思う。しかし、先日、小林秀雄の「近代絵画」にあるゴーギャンの下りを目にすることがあった。
散り際の近づいた黄色い葉で、すっかり黄色くなった野の中に、秋の終りが、悲しく黄色に染めた丘の上に、空いっぱいに十字架が立っている。木の十字架は、不様な方形で、腐って、がたがたになって、歪んだ両手を空に延ばしている。パプア島の神の様に、田舎の芸術家の手によって、簡略に樹の幹に彫られたキリストだ。哀れっぽい、野蛮なキリストは、黄色く塗り立てられている。十字架の下には、百姓女たちが、うずくまっている。女達は、一向気のない様子で、だるそうに地面に、身をかがめている。巡礼の日には、此処に来るのが習慣になっているから、来たまでの事である。彼女達の眼にも唇にも、祈りの言葉はない。彼女達には、一かけらの思想もない。彼女達を愛して死んだ者の姿に眼もくれない。・・・この木に彫られたキリストの憂いは言い現し難い。その頭には、恐ろしい様な悲しみがある。痩せた身体は、昔受けた苦しみを悔やんでいる様だ。何もわからぬ惨めな人間どもを足下に眺めながら、彼は、こんな事を独語している様である。『だが、それにしても、私の殉教は無益だったのだろうか』(120ページより引用)
マラルメの言った様に「肉は悲しいのだ」、キリストの肉も百姓女の肉も。ゴーガン自身は、この絵について言う。「これは抽象化された悲しみの絵だ。そして悲しみとは私の絃(コルド)である」。(122ページより引用)
 ゴーギャン、黄色いキリスト、1889年(WEB Museumより)

生き方やモラルを支える価値規範が崩壊したと言われる19世紀末の欧州の社会において、何よりも徹底的に崩壊していたのは<市民社会>という幻影だったはずであり、<市民革命>という理想がエンプティであったという事実が露わになっていたことこそ、全ての出発点である。

価値の崩壊のあとには、領土と利権の損得勘定だけが残るのであり、その帝国主義の自壊現象が第一次世界大戦である。その意味では、社会主義という一つの理想が無に帰した後に一世を風靡した市場原理主義がリーマン・ショックによって自壊した2008年という年は、1929年の大恐慌に似ているというよりも、第一次世界大戦が始まった1914年と、より一層似通っている。小生はそう思うようになった。

第一次大戦後の崩壊した社会を再建した思想は<福祉社会>の理念である。それをマルクス・レーニンの社会主義で求めるか、ケインズの修正資本主義で求めるかの違いだけが残った。それは選択の違いでしかない。しかし、いま、福祉社会の理想そのものが手前勝手な先進国の夢になりかけている。これは先進国の国民はもう分かっているはずだ。日本の「一国福祉主義」は、世界においては、説得力を持たないだろう。それはヨーロッパ社会の福祉社会の理念も同じである。

私たちは、社会共同体といえば格好はいいが、つまりは<もたれあい>、自分の財布ではなく、他人の財布から先に負担するべき負担を払おうという弱い魂を自覚して、心理的自家中毒になりつつあるようだ。自由と責任に基づいて新しい規範を作るしかないだろうが、その過程であるべき税制が二転も三転もするに違いない。特に、日本という国には固有の国家哲学がないから、迷走を極めるに違いない。

ゴーギャンの絶筆は、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」である。

ゴーギャン、我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか、1897年

この作品の完成後、ゴーギャンは服毒自殺を企てている。その時は助かったが、ある日、訪れると既に命がなかったそうだ。心は既に死んでいたのだろう。

2011年12月10日土曜日

ドイツの経常収支黒字の一定比率を自動的に他国に贈与すればいいのではないか

今日は昼前に出発して三笠市の山崎ワイナリーまで赴き、シャルドネ2009とシャルドネ樽発酵2009、それからワイナリー直売限定のプライベートブレンドを購入してきた。バインヤードはすでに白い雪に覆われ、あたり一面は銀世界である。


同ワイナリーの絶品とも言えるケルナーは、行くのが半月ほど遅くなったため、残念なことに既に完売となってしまった。それは来年に期待するだけだが、いまはシャルドネが購入可能である。行くとツヴァイゲルトも並んでいた。

シャルドネは、シャブリもそうだが、フランス・ブルゴーニュを特徴付ける酸味の強い風味である。キリッとした感覚を予想していたが、オーク樽で発酵させたシャルドネ樽発酵2009の残り香には参った。あとをひきそうだ。プライベートブレンドは、直売限定である。こちらは弱発泡で、やはり酸味が強い。

率直にいうとケルナーの出来栄えが忘れられない。いつもはサッポロのランスで楽しんでいた。ワイナリーまでいけば半額で購入できた。週刊エコノミストで国内ワインのレベルが紹介されていて、そこには北海道ワインとサッポロワインのケルナーが推薦されていた。山崎ワイナリーのケルナーは、多分、数が少ないので知られていないのだろう。

いずれにせよ、来年は買い逃さないようにしたいものだ。

× × ×

日経の一面下はコラム記事「春秋」だ。朝日新聞なら「天声人語」で、ここを執筆するのは、酸いも甘いも噛み分けた社内のベテラン記者で、いわゆる<主筆>と呼ばれる人ではなかろうか?その春秋だが、今日はドイツについて書かれていた。

欧州の経済的混乱の中、ドイツが色々と複雑な視線のもとに置かれていることは、全く現代史を知らない人でも大体は想像できるはずだ。

・・・あざ笑うかのように、「欧州では、みんなドイツ語を話せばいい」と言い放ったメルケル首相の側近議員がいる。たしかに言語の勢力図をみると、オーストリアやベルギーの一部を含むドイツ語圏は広大だ。EU内ではドイツ語を母語とする人口が最も多く、2位の英語を大きく引き離している。 
とはいえ、他国を見下す気持ちがあるなら、それは思い上がりというものだ。ドイツ経済が好調なのは通貨統合のおかげでもある。
こんなことが記されているのだな。最後の下りにある「ドイツ経済が好調なのは、通貨統合のおかげでもある」で何を言いたいのか、最初はよく理解できなかった。「通貨統合でドイツが助かる!?ユーロで助かっているのは、ギリシアやイタリアではなかったのか?誰の信用のおかげで、ここまでカネを借りられたのか?」と、そういうことである。

しばらく考えて分かった。通貨統合なかりせば、いまだにイタリアはリラを使い、ドイツはマルクを使っているはずだ。そして経済強国のドイツのマルクは増価し、イタリアのリラや、ギリシアのドラクマは減価していたであろう。そうすれば、ドイツの製造業はここまで輸出を伸ばすことはできず、欧州でドイツの産業が一人勝ちになることもなかったはずだ。EUの通貨統合は、いわばドイツには為替レート安、ギリシアやイタリアには為替レート高を実質的には押し付けたわけであり、その恩恵をドイツは最も大きく受けたのである・・・と。

なるほどねえ。これが経済法廷で、筆者が南欧諸国の弁護人であれば、このような意見を陳述するであろうと小生もようやく納得したのだ。

しかし、どうなのだろうなあ?これは分別なく借金を借りた側の開き直りに近いのではないかなあ?「お前がおれにカネを貸せるだけの力を得たのは誰のお陰だと思うのだ。おれが怠慢で、その分、お前が勤勉である故ではないか?おれがサボっているからお前の努力が努力になるのだよ。この成功が貴様の努力だけの結果だと思うなよ。おれが同じように努力していれば、これほどお前が成功していたわけじゃないのだ!お前の成功の半分はおれのお陰なのさ!」。こんな理屈だって、あることはある。

さて、日本国内では国税は国に帰属するほか、給与賃金は従業員に分配されるが利益は本社に帰属する等々から、カネは大都市圏に集まり、地方は資金不足となる。そのため財政を通して地方交付税が配分されたり、公共事業の国庫負担を通して地方に資金が移転されている。それで大都市、地方という二つの経済圏が資金ショートをおこさず、日本全体として円滑に機能している。もし資金の流れがストップすれば、地方で生産活動が停止する。地方の生産が停止すれば、大都市に本社を置く大企業の経営が打撃を被り、結果として大都市圏の所得も減少する。システムとしては、日本国内の大都市圏と地方は、一心同体であり、どちらが欠けても国家経済としては機能しない。だからこそ、大都市で集まる余剰資金は、税として吸収され、その一定比率が自動的に地方に移転されたり、地方の販売促進、工場建設などで還流しているのだ。

日経「春秋」の筆者の物言いは、いささか勝った側に辛く、負けた側に同情的に過ぎるきらいはあるが、もしも欧州経済が真に一心同体のシステムであるべきならば、ドイツで計上した余剰資金(=経常収支黒字)の一定パーセントは、自動的にギリシアやイタリアなどの経済弱国に移転してもいいだろう。これはドイツの金でギリシャやイタリアの国債を買い支えることと同じことになる - 但し、移転だからカネの貸借ではない。贈与だ。とはいえ、その分、心理的負担が生じる。資金を供与する以上は、ドイツがイタリアやギリシアの経済政策を承認するかどうかの権限を持ちたいところだろう。実際、日本の自治体が起債で資金調達するときには、霞が関の中央政府の了解がいる。同じように、南欧諸国が自国の資金不足をドイツの金で補填する以上は、ドイツの了解がいるだろう。となれば、カネをもらう以上は、くれる人が話す言葉を勉強するくらいのことは、やってもバチはあたらないだろう。

ま、大体、こんな意味合いで、「欧州では、みんなドイツ語を話せばいい」と、当のドイツ人閣僚が口にしたというのであれば、それは確かにそうでもあるなあ、と。小生は、それほどドイツが他国を見下しているという気はしないのだ。

実際、日本の地方は中央に対して、そのような従属的行動を迫られてきたのだから。それと同じで、日経本社に勤務する御仁たちも、地方経済圏に居住する関係者に対しては、おそらく同様のビヘイビアをとってきたのではないだろうか。自分たちの価値観や判断が主であり、相手は資金を頂戴する以上は従属的であるべきだと。調整を必要とする問題があれば、その調整権限をどこに置くかを決める必要があり、権限を設ければそれを行使する側が主となり、される側は従となる。それは<制度化>にほかならず、一方の側の<思い上がり>とは言えないだろう。

いや、今日は多少ルサンチマンが過ぎることを書いてしまったようだ。

2011年12月8日木曜日

オランダ病と無縁であるのは日本の幸運ではないか

日本のデフレと政府・民間の資金偏在も困った問題だが、資源国は資源国で悩みは深いのではあるまいか?この10年で資源高・製品安がずいぶん進んだ。日本にとっては交易条件が悪化したわけであり、買うものは割高になり、売るものは買い叩かれている状況だ。円高が進むと、製造業は「売れなくなる」と叫ぶのだが、それじゃあ円安になって安く売れればいいか?製造業は作ったものが安値販売できるからいいが、日本全体で見るとそれは数がさばけるだけのことだ。Made in Japanが安くしか売れなければ、結果として、生活水準は下がるのが必然だ。問題のコアは、買うものが割高になり、売るものが割安になってしまっている点にある。つまり日本品と外国品の相対価格=交易条件が悪化したことが、生活水準の悪化を招いている。本当に怖いのは石油価格の上昇、鉄鉱石の上昇、輸入農産物の上昇であり、円レートの上昇ではない。

資源高・製品安で打撃を受けるのは、同じく製造業立国で暮らしている韓国も同じことだ。「ウォン安がうらやましい」などと言う人は経済の理屈を知らないと言われても仕方がない。この点だけは、日本も韓国も同じ悩みをかかえている。売り手としては競争関係にあるが、利害はかなり一致している二国なのだな。

さて、それでは資源国は濡れ手に粟で悩みは全くないかというと、そう決まったわけではない。日本銀行がコモディティ価格と資源国通貨との相関を分析したレポートを公表している。天然資源を豊富に供給できる資源国としては、真っ先に中東産油国を思い浮かべるだろうし、他にもオーストラリアやカナダが該当する。北海油田で潤ったイギリスにもある程度は当てはまるかもしれない。日銀の結果では
近年、ファンダメンタルズが示唆する以上に、コモディティ価格と資源国通貨の相関が高まっている可能性があること、またそうした中で、これまで資源国通貨がコモディティ価格に対して有していた先行性も失われていること(両者の同時性が強まっていること)がわかった。こうした変化が生じている中では、コモディティ価格と資源国通貨が相乗的な形で急変動する可能性がないかという点は、国際金融市場の動向をモニタリングするうえで、注意を要すると考えられる。
このように資源国の為替レートが国際商品市況とシンクロして変動する傾向がある。つまり資源高が続けば、当該国の通貨は恒常的に割高に評価される傾向が出ているわけだ。もし日本が幸運にも新たな金鉱脈を見つければ、それが原因になって円高が一層進むだろう。通貨が急速に増価してしまうと、外国品は安く買えるので国民の生活水準は守られるが、その国の生産物は(農林水産業、製造業などを含めて)すべて割高になるため、輸出が困難になり、また外国品が安価になるので、国内の産業発展は困難になる。埋蔵量に限界のある天然資源があるばっかりに、それを売って暮らしていくしか、暮らしようがなくなる。これまた<比較優位の原理>のなせる結果ではあるが、将来を考えると、これまた不安の種に違いない。このような症状を<オランダ病>という。

日本は無資源国であり、持たざる国であるため、やむなく輸出立国でやってきたとよく言われる。しかし、持たざる国でなく、持てる国であれば、持っているものを売るしか生計のみちがない。そんな可能性もあった。人を育て、技術を磨き、毎日努力することが採算にあっていたのは、資源を持っていなかったためである。同じないなら、ないことのもたらしたプラスの面を見たらどうか?何も持っていないことですら、それがマイナスとは限らないのだ。

2011年12月6日火曜日

欧州をドイツが突き放しても、IMFは見捨てず、そのIMFを救うのは金だろう

欧州危機は緊急的金融緩和措置でとりあえず小康状態に戻っている。しかし、欧州内銀行の経営不安、銀行救済措置の取りまとめ能力に対する市場の不信、更には根本原因である個別国家による財政運営が未解決である限り、問題は膨らむだけである。ドイツが欧州にコミットするのかどうかがカギであるが、ドイツが何の見返りもなく欧州を救済するはずがない。しかしドイツ以外の欧州諸国には、第二次大戦後にドイツに対して抱いていた心理的賠償請求権が今なお残像のように残っているだろう。とはいえ、ドイツは戦争のツケを今さら支払うつもりはないだろう。

IMFは欧州を救済する能力を持っている。しかし、それを支える経済基盤は欧州にもアメリカにもなく、中国など新興国のマネーにある ― いや欧州の一員たる英国がいまなお保有する巨大な海外資産を売却すれば無尽蔵のマネーを捻出できる。が、英国にEURO救済の意思はないだろう。更に又、新興国のマネーに依存して欧州を救済する選択はアメリカの国益と衝突するだろう。八方塞がりだ。しかし、それでもなおIMFは欧州を見捨てることはないはずだ。IMFが欧州を救済したとて、欧州が失うものは既になく、IMFは単なるツールであって欧州にとっては「とかげの尻尾」であるからだ。信頼を失うのはIMFになるはずである。

そのIMFを国際金融体制の最後の拠り所として再建できる能力をまだアメリカは持っている。アメリカが保有する金をIMFに預託して、IMFが金保有量に比例して国際通貨を発行すれば、IMFの信頼が崩壊することはない。

Wall Street Journal日本語版の11月17日付けには以下のようなコラム記事がある:
実際、ユーロ危機の唯一の勝ち組になるのは金なのだ。
それはなぜか。
この壮大な危機は今も進行中だが、その終わり方には2つの可能性しかない。1つはマリオ・ドラギ新総裁の下、欧州中央銀行(ECB)がこれまでの規則や制限を撤廃し、ユーロ圏国債の大規模な購入を行うこと。もう1つは大混乱を招く無秩序なユーロの崩壊である。
こうした状況になったとき、金相場はどうなるのだろうか。
ECBがユーロ増刷によって危機を乗り越えようとすれば、その規模はかなり大きなものになる。2兆ユーロは必要になると予想するアナリストもいるが、それで十分だろうか。イタリアの債務残高だけでも1兆9000億ユーロある。フランスの債務残高はおよそ1兆6000億ユーロ。これにギリシャ、ベルギーなどの債務を加算すると、すぐに4兆ユーロに達してしまう。民間の投資家が逃げてしまったら、ECBはその穴を埋めなければならず、ユーロ増刷の規模も一段と大きくなる。
ちなみに、米連邦準備理事会(FRB)による量的緩和では、総額1兆8500億ドル(1兆3500億ユーロ)が注ぎ込まれた。これが昨年から今年にかけての金価格急騰の直接的な原因になったのだ。ECBが救済を必要とするすべての国の債券を買い始めたら、市場にはその3~4倍の資金が流入してくるだろう。これにより、金の価格は必然的に上昇する。
あるいは、統一通貨が無秩序に崩壊するかもしれない。1つ、または2つの国が離脱すると、ユーロという制度そのものが崩れてしまう。新しい通貨が急きょ導入され、いくつかの国では資金の国外流出を阻止するために資本規制が強化される。その他の国では損失の規模が明らかになった銀行が軒並み破綻する。
この想定でも金の価格は上昇する。大混乱は貴金属にとってプラスにしかならないからだ。実際、ユーロから離脱した国では一定期間、金だけが有効な貨幣になるかもしれない。新通貨の制度を確立してそれなりの信用を確保するには時間がかかる。その実現までは昔ながらの物々交換や硬貨での取引が行われるだろう。
現実的な解決策が見つからず、この壮大な危機があと2、3年継続したとしても、金相場は好調を維持するだろう。人々のあらゆる紙幣に対する信用は、危機によって着実にむしばまれていく。今なら、金に投資して失敗することはないだろうし、それはユーロ危機から身を守る唯一確実な手段にもなる。
20世紀は金本位制から脱却する100年になったが、21世紀は金本位制を代表とするハード・カレンシーの利点が改めて評価され再建される100年になるだろう。

2011年12月5日月曜日

生産現場の意外な粘り腰

日本経済新聞社がまとめた2011年度設備投資動向調査(対象1426社)の結果が報道されている。それによると、全産業の設備投資額は前年度比で14.4%の増加だ。国内投資、海外投資の内訳がとれる838社についてみると、海外投資が39.2%増、国内投資が17.1%増になっている。

国内企業の設備投資マインドはリーマン危機以降ずっと弱気のままであり、それは直近の機械受注統計からもうかがわれる点、本ブログでも以前にとりあげた。


これから国内投資需要が拡大するとは到底予想できない形だ。非常な勢いで増えているのは日本企業が海外で行う設備投資である。

内閣府「法人企業景気予測調査(7~9月期調査)」は調査対象が1万5千社と桁違いに大きい。数字としてはこちらが信頼できる。23年度における設備投資スタンスは大企業・中堅・中小、製造業・非製造業とも大半が維持更新であり、「生産・販売能力の拡大」を1位にあげたのは製造業の中小企業だけである。また設備投資金額見通しとしては、23年度は5.4%の増加となっている。内訳は製造業が9.0%増、非製造業が3.0%増になっている。どちらにしても数字は見通しである。

確かに投資は拡大基調にあるとはとても言えないが、それでも製造業投資額が前年度比9%増というのは悪くはないと感じる。と同時に、非製造業の投資の弱さに日本経済最大の弱点を見るようだ。同じ内閣府調査で経常利益をみると、今年度前期では5.1%の減益だが、下期は10.5%の増益を見込み、年度全体では2.8%の増益という見通しだ。景況感そのものも、中小企業はあいかわらず悪いが、今年第4四半期から来年第1四半期にかけて景気は上昇すると予想する企業が半数を超えている。明らかに景況感は今年6月頃を底にずいぶん良くなっている。

今日の日経朝刊「景気指標」で有効求人倍率をみると、2009年全体で0.45倍とどん底であったが2010年には0.56倍、今年に入って大震災前後に一時低下したが、夏からまた改善が進んでいて、10月は0.67倍まで上がっている。失業率も09年度、10年度より下がっている。労働市場はパッとはしないが、状況は良くなっており、悪くなってはいない。中々の粘り腰である。

世はギリシア危機がイタリアに飛び火して、いまにもEUが崩壊しようとの流言がとびかい、日本は日本で復興、TPP、年金と消費税で声ばかりが大きい。ヒュンダイが日本に再上陸するというし、第3のビールも韓国メーカーにシェアを奪われている。寒い歳末が尚更寒くなるようだ。しかし、経済の診断は数字をみて行うべきだ。だるい、しんどい、力が出ないは気の病である。本当に悪ければ数字に表れる。日本経済の数字は、実にしぶとく、底堅く動いている。

ただ一つ、ハッキリしているのは<デフレ>。相変わらず名目が減り、実質が増える「名実逆転」が続いている。デフレ継続は明らかだ。デフレは中国のせいか?まさか今なおそう考えている御仁はいないと思うが、その中国ではインフレが止まらず政府は悩んでいる。日本以外の先進国でデフレに苦しんでいる国はない。小生は、日本の政策当局にデフレ解消の動機があるかどうかを疑っている。なぜなら民間経済全体に、そもそもデフレ解消への誘因があるとは、必ずしも思えないからだ。日本経済は安定したデフレと大量の国債発行が織り込まれた構造になってしまっている。日本の民間黒字・財政赤字・経常黒字という資金偏在はデフレの継続と双子、いや三つ子の関係にある。デフレからインフレに逆転させたいと願う真の誘因をもっている日本人はどこにいるだろう?いないわけではないはずだが、それを小生は疑っている。デフレの犯人を国外で探す必要はない。

2011年12月4日日曜日

日曜日の話し(12/4)

ロシア・アバンギャルドの代表者フィローノフをとりあげれば、カンディンスキーが青騎士を立ち上げた時以来ずっと親密な関係であったマレーヴィチも見ておかないといけないだろう。マレーヴィチはロシア構成主義、というかシュプレマティスムSuprematism)の指導者であり、トレチャコフ美術館に所蔵されている神秘極まりない「黒の正方形」で有名だ。しかし、黒の正方形を画像でアップロードしても、文字通りの黒い正方形にしか見えないだろう。実際には沈黙を象徴する暗黒の正方形の中に走っている無数の亀裂の下から有彩色が炎のように見えているのだが、それをファイルで再現するのは、大判の画集であれば可能だが、ファイルでは無理だ。

Malevich, Suprematism, 1917

モンドリアンのようでもある。もとよりこの二人にカンディンスキーを加えると、抽象絵画という未知の領域を切り開いた創始者になる。この作品ならクレーだと言っても通るかもしれない。

カンディンスキーは第一次大戦勃発後にロシアに単身帰国し、革命後のロシアに何等かの貢献をしようと幾つかの公職に就くのであるが、その際に革命政府との仲介役になったのが、マレーヴィチやタトリンなどロシア・アバンギャルドの面々だった。しかし、まもなくして美学論上の、そうして路線上の対立からカンディンスキーは再びロシアを捨てて、招待されたドイツ・バウハウスにおもむくことになった。
Kandinsky's ideas brought him into conflict with his Constructivist colleagues at INKhUK, Moscow's Institute for Artistic Culture. The Constructivists banned all subjective and atmospheric elements from their painting,... and therefore rejected Kandinsky's art as "harmonious" and "painterly", as "spiritualistic malformations".
Source: Ulrike Becks-Malorny, "Kandinsky" (Taschen), pp.126 
良くも悪くも、ロシア社会主義は唯物史観に基づく主観否定を出発点にしていた。人間個人の精神性の尊重、個性の尊重は<ブルジョア思想>として何よりも唾棄するべき誤りであった。すべての歴史の進歩は<労働と生活の現実>からしか生まれ得ないと断定されていた。

冷戦終結後の現在、上のような思想が正当性を認められることはまずないだろう。おそらく過剰なほどに、全く認めるべき価値はない、と断じられるに違いない。しかしながら、人間がかつて提案した思想に、100%間違ったものはないと、小生は思っている。社会的現実よりも、個人の考え方、個人の欲望、個人の信念を優先する考え方が、100%正しいとは小生はどうしても思えないのだ。そんな見方は、唯物史観と同じく、どこか偏ったところがある。

カンディンスキーは、革命ロシアには受け入れられずに国を捨てることになったが、その後のカンディンスキーの作品をみると、明らかに同じ抽象画でも大戦前に制作していた作品とは雰囲気を異にしている。生きる上で相容れなかった芸術家達も、一度自らが受容し、消化した相手からの影響は、いざ敵になったからといって自分の身の内から抹消することはできないということが分かる。

Kandinsky、Composition VIII、1923

対立する相手の考えであっても自分の内面から表出するのであれば、それは自分自身の一部だ。自己表現には率直であることが不可欠だが、それは自分が変わらないことを意味しない。実は変わっているにもかかわらず、変わっていないかのように演技をすることが誠実だと考えるなら、そんな考え方こそ偽善を奨励する誤った思想であるに違いない。

2011年12月3日土曜日

抵抗勢力は、結局、何に抵抗するのか?

最高権力を奪取した政治家であっても、やりたいことをやれるわけではない。このことは、戦後日本政治を振り返っても直ちに確認できる。吉田、佐藤、中曽根、小泉といった記録に残る長期政権が、政権として実際に為したことは、極めて限られた事柄でしかなかった。まして個人的な政治信条をどの位まで達成したかとなると、(当人の回顧録を精読するしかないものの)不満ばかりがつのる毎日であったろう。

現実とはそうしたものだと、誰しもが分かっているはずだ。

天皇絶対の中央集権制度であった戦前日本でも、権力者の思い通りにならない事情は同じであった。対英米戦を回避しようと正に東條政権までが努力したにもかかわらず、そのための国家権力はあったはずであるにもかかわらず、また英米から先に戦争を望んだわけではないと見られるにもかかわらず、努力は無に帰した。「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHK出版)の全三巻を読み終えたが、最新時点の事実確認に基づいて、再考察を加えた内容が実に面白い。バブルや戦争についてはマスメディアの果たす役割が大きいとは指摘されているが、戦前日本におけるそのロジックは何か?何も決められない政治を革新するための近衛新体制 − それは権力のコアを生むことになり、幕府政治をもたらすのではないかという懸念によって実現不能になった。

本日の北海道新聞には「小泉改革、民主が主張?」との記事が掲載されている。
「小泉路線にかけていたのはセーフティネット。構造改革は必要だ。改革が悪いという意識に立つとジリ貧になる」。民主党の前原誠司政調会長はこう断言、TPP交渉参加の意義を強調する。
これに対して、
小泉改革を終わらせようとして政権交代を果たしたのに、野田政権は逆行している。
これはTPP慎重派つまり反主流派の主張だ。

派閥抗争盛んなりし時代の儒学政治であるな。「大義名分から逸脱しておる」という批判が、意外なほどに人に訴えかけるのは何故か?それは人が政治に対して複数の価値を求めるからだろう。<社会の進歩>だけではなく<正義>も求める。<正義>をこえた<福祉・恩愛>をも願っている。結局、権力を握った者は、天秤を手に持ってバランスをとるしかない。どうバランスをとるかで無数の選択肢があり、考え方が分かれ、結果として派閥抗争は避けられない。絶対に。

では、政治対立を解決するのは何か?それは政治家の力量ではなく、社会が進もうとする方向とマッチした話しを<そのとき偶々>している人は誰かで決まるのではないか。政治家個人の悲喜劇は、そのとき自分が何をしゃべるか、それは政敵に勝つために「いまはこういうしかない」という巡り合わせで決まるからではないのか。

その意味で小沢一郎を支持する派閥が「反TPP」を掲げ、「反消費税率引き上げ」を掲げるのは、全く皮肉なことだ。自民党がまだ政権の座についていれば、TPP参加を決断できたか、また消費税率引き上げを決断できたか、全く定かではない。定かではないが、もし自民党が決断できずTPPには参加せず、国債と公共事業に頼り続けるならば、民主党は政権交代を目指して一丸となって、TPP推進と財政再建を主張できていただろう。

現在の農業保護政策は、不在地主制度を打破して意欲のある自作農に農地を解放するという当初の理念が、農業保護=国是というイデオロギーに変じる中で進められた政策だ。反自民党政治であれば、反農業保護路線をとるのが自然である。もしも戦前日本のまま大地主に農地所有権が集中していれば、20世紀最後の25年間で、日本の農業は経営大規模化が進み、株式会社の参入もとっくの昔に実現していたであろう。しかし、それを現にいま言っているのは小沢の政敵である。小沢にとっては実に皮肉である。

モノだけが古くなる訳ではない。理念もそうだ。人々をひきつけた大義名分も、時間がたてば古くなる。<抵抗勢力>が抵抗する相手は目の前の政敵ではない。政治家は思想で行動しているわけではないからだ。目の前の政敵を倒しても、それは本来の政敵ではない。抵抗勢力は、移り気な時代の流れというものに対して、抵抗しているのだ。古い価値にこだわって抵抗しているのである。そうする限り、一人の政敵を倒しても、別の政敵がまた現れるだけだ。生き残るためには、時代の流れを味方につける方策を考えるのが政治家の仕事である。

2011年12月1日木曜日

Globally Concerted Economic Policy - ドイツに振り回されているだけか

本日のWall Street Journalには欧米、中国による世界的危機対応措置が報道されている。
Alarmed central banks moved to ease strains in financial markets through U.S. dollar loans to European banks, cheering investors in the U.S. and Europe.
中国についても
China moved decisively to stimulate its economy by cutting its bank reserve requirements for the first time in nearly three years, in what analysts said could be the start of a campaign of monetary easing aimed at bolstering its economy.
日本経済新聞の一面にはドル資金供給に関する日米欧の6中央銀行による緊急対策がトップで報道されている。合意のポイントを日経から引用すると以下のようである。

  1. スワップ協定に基づく中銀のドル資金供給の金利を0.5%引き下げ。12月5日から実施。
  2. 協定の期限を2013年2月1日まで6ヶ月延長。
  3. 米ドル以外の通貨も融通する多角的スワップ協定を締結。
  4. 各中銀は民間銀行へのドル資金供給時に市場実勢金利への上乗せ分を0.5%下げ。
  5. ECBはドル資金供給時に民間銀行が差し入れる担保の基準を緩和。

中国の預金準備率引き下げも3年ぶりである。中国のインフレ率はまだなお5%程度と高く、政策当局はこれを4%程度まで押さえ込みたいと考えているはずだ、そのように小生は予測した。だから先進国が対欧州で足並みを揃えるとしても、中国が直ちに金融緩和に動くとは思わなかった。おそらく市場にとっても、中国が参加する形のグローバル協調緩和政策は、ちょっとしたサプライズではなかったか。実際ニューヨークのダウ30種平均は430ドルも上げた。英独仏の株価も3~5%も上げたというから、相当のプラス・ショックではあった。

ただこれは当面の火の勢いに水をかけた程度のことである。根因は欧州銀行の経営不安にあり、その不安をもたらしている一層本質的な原因である国債危機がある。その国債危機を収束させるには、もっともカネと経済力をもっているドイツが泥をかぶる必要がある。ドイツにとってEUが必要であれば、最後にドイツは自らの負担で欧州を救うだろう。ドイツにとって大欧州は生きるために必要な存在ではないと考えるなら、ドイツは自らの富をなげうってまで今の欧州を救おうとはしないだろう。

ドイツは今の欧州には不満をもっているはずだ。だから、ただでは手を差し伸べないはずだ。しかしドイツが手を差し伸べないなら、ドイツは周辺隣国から信頼を失い、ドイツの自民族主義に対する警戒心を誘うだろう。ドイツがいま欧州を救えば、両次大戦の負債を返済し、自由な手足を取り戻せるだろう。しかし、その確約はない。まだ第2次大戦終結から66年しか経っていない。

イギリスも大陸欧州を注視しているが、日本の北辺にある港町からも今後ドイツがどう動くのか、興味津々で見ているところだ。

2011年11月30日水曜日

井戸端会議2件

モーニング・ワイドショーを観ながら朝食をとるのは良くない習慣かもしれないが、一度ついた悪い癖は抜けないものだ。

1.皇族数と女性宮家の検討

女性皇族が結婚すると臣籍に降下する。それを新宮家として残すようにしようと。

こんなことをすると、宮家がどんどん増えて予算膨張の原因になるのではないか?

既存の宮家が養子をとれるようにすれば同じ成果は得られる。天皇家も宮家から養子をとれるようにすればよい。実際、幕府時代には家名存続のため養子制度を上手に利用していた。皇統というのは血統、つまりは家の継承という古制度だから、個人主義の現行社会制度の価値尺度を機械的に適用しても絶えるときには絶える。側室制度があった徳川将軍家ですらも、数代の後には直系が絶えて傍流から宗家に入って何とか継いだのが実態だ。

養子をとるしかない。宮家新設は宮内庁の予算要求戦略であろう。

2.荒川区刺殺事件

背後から一突き。

こう言う世情になれば反撃用武器の携帯が習慣化するのではないか?とすれば、相手と同種の武器を用いた上で、意図なくして相手を死に至らしめてしまった場合、それを無罪とする判例が定着する時代が来るのではないかと予想する。

<喧嘩>という概念と法律上の取り扱い。やがて時代が要請する課題になるだろう。

今日はとりとめなく書いた。夜は将来予測の授業がある。ボックス・ジェンキンズ流アプローチの核心である(偏)自己相関図の読図を今日はやる。<減衰型>と<カット型>の読み取りと意味解釈だ。

2011年11月29日火曜日

2011~2013年度の経済見通し

白川日銀総裁が11月28日に名古屋経済界代表者との懇談会を持った時の挨拶で以下のような見通しを示した由。資料を添付しておく。

世界経済の牽引役を務めてきた新興国の高い成長ポテンシャルを踏まえると、適切な政策対応によりソフトランディングが図られるという条件付きではありますが、海外経済の成長率も新興国に支えられる形でいずれ再び高まっていくと考えられます。また、国内では震災復興関連の需要も徐々に顕在化していくと考えられます。 
このため、わが国経済は当面減速した後、緩やかな回復経路に復していくというのが現在の私共の中心的な見通しです。日本銀行が先月末に公表した見通しの数字に即して申し上げると(図表1)、実質GDP成長率は、2011 年度は+0.3%と低めの成長にとどまるものの、2012 年度は+2.2%、2013 年度も+1.5%と、プラス成長を続けていくとの見通しを示しています。 
この間、消費者物価の前年比をみると、2009 年夏に下落幅のピークを付けた後、徐々にマイナス幅が縮小し、現在はゼロ%近傍で推移しています。先行きについては、マクロ的な需給バランスの改善傾向を反映して、2013 年度にかけてゼロ%台半ばになっていくとみています。
もしこの見通しが市場でかなり共有されているなら、実態経済は年末から年始にかけて低迷するだろうが、株価は年明け後、というか早ければ年末にかけて、反転上昇すると予測される。

となると、冬季賞与で金貨を買うよりも株を買った方がいいのか?
正直、迷っているところだ。
各種のアンケート調査によれば、企業からみた金融機関の貸出態度および企業の資金繰りについても、改善の動きがはっきりしています。この点、欧米では、欧州ソブリン問題に伴う市場の緊張を背景に、夏場以降、金融の引き締まり現象がみられているのとは対照的です。こうしたわが国の金融環境の改善には、先ほどご説明した日本銀行の極めて積極的な金融政策も貢献していると判断しています。
金融緩和が十分日本国内に浸透しているという上記判断については意見が分かれる所かもしれない。

2011年11月28日月曜日

TPP―農業お荷物論を考える

毎週日曜に掲載される日経「経済論壇」は中々面白いので小生は愛読している。経済論壇では、その時々の焦点になっている種々の話題について、専門家が論壇に寄せた意見をダイジェスト風にまとめている。現在の執筆者は東大の福田慎一氏である。

昨日27日付けの話題はTPPだった。メインタイトルは「TPPで通商戦略再構築を」である。

読んでいくと「関税撤廃によって打撃を受けることが予想される農業などに対して、一定の配慮を求める声は根強い」という見方がまずとりあげられ、具体的には
東京大学教授の松原隆一郎氏(週刊エコノミスト11月29日号)は、比較劣位にある日本の農業などは、仮に生産性が今後向上したとしても、壊滅的な打撃を受けると指摘。経済効率だけでは社会は成り立たないと述べ、比較劣位でも存在意義がある特定の産業は守るべきだと訴えている。
このように紹介している。

その国で何が比較優位をもつ産業となり、何が比較劣位におかれるかは、へクシャー・オリーン(さらにサムエルソンを加える場合もある)の定理が基本になる。つまり、土地、資本、労働、知的財産などなど、その国に比較的多く蓄積されている経営資源を集中的に使用する産業が、比較優位性をもつというのが結論だ。

理屈からいえば、それぞれの国が最も得意とする産業は違うのが普通だから、まずは各国が最も得意な商品に特化して生産をすれば、世界全体で最大量の商品が供給される。あとはそれを貿易で自由に交換すれば良い。これが<自由貿易>の狙いだ。確かに、あれもこれも、不得意な産業まで含めて各国で生産しようと思うと、非効率な産業にもヒト、カネ、資本を投入しないといけないので、本来得意な産業分野が拡大しない。拡大しないからスケールメリットもいかせない。R&D投資も行われない。そういう結果になる。これは国として損である。これが自由貿易論である。言いかえると、ズバリ<選択と集中>。世界を相手に勝負している民間企業であれば、半ば常識になっているとも言える。つまり、TPPの利益とは自由貿易の利益であり、それは集中の利益にほかならない。比較劣位にある産業を守らなければならないなら、自由貿易のメリットは限定的になろう ― というか、保護権益が政治勢力化し、その果てに堕落する可能性を考えると、あまりプラスになる政策ではない。

日本の国家戦略としてTPPを眺めてみると、それは農業からの<撤退戦略>である。日本の農業が縮小すれば、外国への食糧需要は増加する。だから外国は農業を拡大する。外国では資源が非農業から農業にシフトする。その分、外国では非農業、たとえば製造業は縮小する。それは日本が拡大したい非農業にとってメリットになるだろう。<選択と集中>の背後で進めるべき<撤退戦略>と同じロジックである。

× × ×

ここまで日本の農業は比較劣位にあると決めつけて書いてきた。日本の農業は比較劣位産業なのだろうか?

この20年間で製造業の商品は世界市場でずいぶん割安になった。だから日本にも海外の製品が目立って輸入されている。製造業の価格が、農業生産物の価格に対して、もし日本の方が世界市場よりも割高であるのなら、日本は製造業に比較優位をもってはいない。

世界市場でいま進行中の現象は、資源高と製品安、食料高と製品安、サービス高と製品安である。確かに日本の製造業は日本株式会社のコア・コンピタンスであり続けた。しかし、今後もずっとこれまでどおりのスピードで、日本の製造業は効率性を上げていけるのか?中国の農業生産性が停滞し、中国の製造業が効率化しただけで、中国は日本に対して製造業の比較優位をもつだろう。比較優位とは絶対優位とは違う。どちらの国の生産性が高いかではない。それぞれの国で進む生産性向上レースの順位と産業間格差が大事なのだ。中国の製造業が彼の国で大勝ちすれば、日本の製造業が絶対的な効率性ではトップを維持しながら、農業に僅差で勝っても、日本の製造業の比較優位は失われるのだ。比較優位とは、周辺国の結果次第で、変わってくる。ここが勘どころだ。

芸術品のように鍛え抜かれた日本の国内製造業をこれ以上磨き上げることができるのか?これに反して、戦後日本政府の無策とも言える農業政策が「幸いして」、日本の農業は「泥だらけ」だ。今後将来にかけて期待できる生産性の向上は大きいとみるべきだ。だとすれば、日本の比較優位を製造業が占めると断言するのは、時機尚早というか、少なくとも将来の貿易競争で製造業が不動の四番バッターだと思いこむのはやめたほうがいい。

2011年11月27日日曜日

日曜日の話し(11/27)

小生の職場では現在トップを選出するための選挙運動が繰り広げられている。先日も対立候補に投票してほしいという依頼を聴いたところだ。そこで話したことは、かなり小生の本音に近いことだった。
候補が超一流の人材であり、高い見識を持っていることは、専門分野も同じで熟知しているが、しかし現在私達が置かれているマクロ的な条件を考えると、トップに座るたった一人の人間を現職から別人に変えることで、今後の帰結が別のものになるとは思えない。この組織がどうなっていくかは、社会全体のマクロ的な動きの中で決まっていくことであり、一人ひとりがどう考えるかということとは別のことだ思う。ましてやトップを自分たちに近い人物に変えれば、私達が助かるという考え方は、完全な錯覚であって、候補を応諾したご本人にも大変迷惑なことではないのか?
大体そんなことを話したのだな。

人は何らかの思想をもっているものだ。しかし、自分の思想が▲▲思想に該当するか、それを正しく自覚しているとは限らない。小生は、本ブログでも何度か書いているように、社会がこれからどんな風に進んでいくかは、個々の人間の思惑とは別のことであり、政治家がなすべきことは、<自分がやりたいこと>をするのではなく、その時にその社会が進もうとしている方向を洞察して、それを妨害しないように、無意味な抵抗をして意味のない努力を強制しないようにすることである。そんな風な考え方をするのだが、振り返ると若い時からずっとそんな風に社会を見ていたような気がする。

この立場は<歴史主義>と思っていたが、よくよく考えると<唯物史観>だな、これは。つまり<社会主義>そのものだ。自分でも驚くが、まさにそう。社会は巨大な現実であり、人間の理性はそれを解釈したいように解釈しては、色々と意味付ける。しかし、現実そのものは私たちの理解とは全く別の存在であって、社会の変動や本質を人間が理解するのは、そもそもできないのだ。理解出来ない以上、社会の進展をあらかじめ予測することも不可能だ。管理することも不可能だ。あれよあれよと戦争が始まることもあれば、信じられない形で新しい国ができたりする。信じられないのは、人間社会の現実を理解できていないからだ。ま、そんな風な見方である。

社会の発展は、歴史の中で決まってくる帰結である以上、社会の現実を洞察する先導者がいる。社会の<前衛>である。それは<共産党>が担わざるをえない・・・ここまで書けば、小生の社会観がマルクスの唯物史観と50歩100歩であることは明らかだ。なるほどねえ・・・と。これは面白い!

ロシア革命は第一次大戦中の1917年のことだ。1920年代のロシアでは、ロシア・アバンギャルドと呼ばれる潮流が思想界、芸術界で花開いた。何度か登場するカンディンスキーも第一次大戦が始まり、それまで暮らしを共にしていたガブリエレ・ミュンターと別れてロシアに帰国した。そこで再婚をして新しい人生を歩き始めたのだった。

フィローノフ、Formula of the Cosmos, 1919

ロシア・アバンギャルドの自由な発展は、やがて社会の「前衛」たる共産党の指導に服すべきだとされた。1920年代末から30年代にかけては、時のスターリン政権下で、もっぱらロシア社会の更生を正確に写実するミッションを与えられ、芸術家達は主観を放棄し、<社会主義リアリズム>の実践に邁進することになった ― その結果、新しい創造は何も生まれなくなった。カンディンスキーはロシアを再び捨て、戦後ドイツでバウハウス運動に貢献した後、パリに赴いてそこで死んだ。

フィローノフはロシア国外ではあまり知られていない。ロシア共産党政権は、第一次世界大戦直前の時期から発展した象徴主義、抽象主義、立体主義など新しい潮流は、すべて個人の主観を社会という現実の上におく<ブルジョア思想>そのものであり、ソ連国内では抑圧する方針をとった。上の作品は、ロシアという国が、そんなソ連社会に変質していく前に到達していた一つの地点を伝えるものである。



2011年11月25日金曜日

国債は窮極の不良債権か?

ドイツの国債入札不調で欧州危機は新たな局面に入ってきたようだ。健全財政、インフレ防止姿勢の権化とも形容できるドイツですら、国債札割れを起こす。ここまで国債が金融資産として忌避されているのはなぜか?

いうまでもなく国債は民間企業の社債と同じく債券の一種である。それは弁済を請求できる債権を証明する証券なのだが、国債には返済不能に陥った時の担保が債券価格に応じて設定されているわけではない。国債が予定期日に償還されない場合でも、債権保有国が債務の弁済を求めて提訴する先はない ― 提訴受付機関として唯一資格(?)のありそうな組織はIMFくらいだが、ギリシア国債、イタリア国債等が返済不能に陥った時に、資産差し押さえに動く気など、当のIMFにもさらさらない。国債というのは「ただ信じてくれ」という債券である。日本の歴史で言えば、豪商が藩に融資した<大名貸し>が類似の例であろう。もちろん欧州にも類例はあった。

本来なら、債務を弁済できないときは、担保を差し押さえられ、それでも不足する時には損害賠償請求を受けることになり、その請求に即時に対応できないときには破産宣言を行った上で、返済スケジュールを再設定してもらうわけだ。債務弁済のリスケジュールは、いかなる種類の債務についても、支払が危機に陥った時に必ず行われる。担保に対する所有権を失うことも覚悟しなければならない。では、ヨーロッパに端を発するソブリン危機において、国債償還は担保されているのか?

担保されてはいない。なぜなら国債を返済する能力を喪失した時に、国債発行国は実物資産を売却し、それでも不十分ならば国土を外国に売却してでも返済する意志は持ってはいないからだ。せいぜいやることは、不換紙幣を増発して、返済のための国債発行を行ない、資金繰りをつけるだけのことだ。しかし、それはインフレか為替急落を通して、実質的には何も弁済しない行動と同じである。もしも、国土や歴史的建造物を海外に売却してでも返済を確約している国債、いわば<担保つき国債>を発行していれば、国債が債務危機をもたらすことはない。もしも国債残高対GDP比率が上昇し続け、国債償還に懸念が持たれるようであれば、追加担保を求めればよいという議論にもなる。もしもこうした議論を行なっていれば、ギリシア危機はなかった ― その代わりにギリシアという国は、国まるごと、ドイツなどに買収されるだろう。それはフランスの国益と衝突し、ドイツにとって実行困難だ。しかし、解決策はこれしかない。

多数国が、その国ごとに不換紙幣を発行し、加えて国ごとに国債という債券を無担保で発行できる金融制度をとっている場合、債務国は常に不換紙幣を増発し、為替レートを切り下げる誘因をもつ。債務国が信頼を裏切るとしても、有効なペナルティを信頼を裏切った国に対して行使できないからだ。その債務国が、債権国と深い国際関係にあるとすれば、全体組織を崩壊させるほどの報復を債務国に対して実行することはできない。

国債といえばアメリカ国債についても同様だ。米債保有国はドル高への誘因をもっている。債務国であるアメリカはドル安への誘因をもっている。双方に合理的であるのは、安定した通貨を維持することだが、当事国の利己的動機を考えれば、それは安定的なナッシュ均衡ではない。

そもそも実質価値が制度的に確定された国際的統一通貨なくして、国際金融市場を運営するのは極めて脆弱(Vulnerable)である。何に対して、脆弱かといえば、個別国家の利己的動機に対して無防備なのである。資金を受け入れた国は、必ず為替相場を安めに誘導する動機をもつ。故に、債権国は債務国を信頼できないのである。19世紀の自由資本主義の時代には金本位制度の下、一定のハードカレンシーに支えられていた。欧州にはEUROという統一通貨がある。しかし個別国家が無担保の債券を発行する権限を認めていた。個別国家をただ無担保で信頼するのみであった。債務弁済を強制する制度的メカニズムに欠けていた。こうした状況では、個別国家は必ず相互信頼を裏切る誘因をもつ。裏切ったほうが絶対に得だからだ。欧州危機は、個別国家の無責任でいいかげんな行動を予防するメカニズムを持たなかった統合組織からもたらされた必然的危機である。

本日の日経朝刊に紹介されているように、10月28日以降の株価変動率は
イタリア: ▲16.4%
スペイン: ▲16.1%
フランス: ▲15.7%
ドイツ: ▲14.0%
香港: ▲10.4%
日本: ▲9.8%
アメリカ: ▲8.0%

このように、欧州の株価暴落ぶりが際立っている。これは統合組織としての不完全性があらわになったEUを世界が見る不信の念にほかならないが、結果としてユーロ安を誘い、EUに「逃げ得」を許す道を提供するだろう。その一方で、EUは<評価と名声(=Reputation)>という資産を代償に取り崩すことになる ― その名声あるが故に中東産油国の資金を吸収できたのだが、この話はまた改めて記したい。大体、EURO圏に英国は入っていない。

2011年11月23日水曜日

アメリカの財政緊縮ショックと金融政策

アメリカの強制的財政緊縮が現実のものになるとの報道で揺れている。しかし、今夏のアメリカ国債格下げに端を発した政権・議会調整で、来年以降は相当激烈な財政緊縮インパクトが出て来るだろうと予想しておくべきであったし、事実ほとんどのプロフェッショナルは予想しているはずだ。騒いでいるのはマスメディアだけである。マスメディアがその不見識のために不必要に騒ぎ、それが原因となって経済動向に詳しくはない一般の人々を不安にさせ、それがきっかけになって不安が社会化し、ネガティブな衝撃を生み出すとすれば、マスメディアが作り出している付加価値はマイナスであると断言してもよいほどだ。

さて英紙Financial Timesには、アメリカのFEDが第3次量的緩和(QE3)を検討するのかという解説記事がある。
The US Federal Reserve is unlikely to ease monetary policy any further until it has settled on a new communication strategy, according to the minutes of its November meeting released on Tuesday. 
Only “a few members” of the rate-setting Federal Open Market Committee thought that the sluggish economic outlook “might warrant further accommodation”, suggesting that any move towards a new round of quantitative easing – QE3 – is still some way off. (Source: Financial Times, 22 Nov 2011)
どうやら年末から年明けにかけての経済動向によってはQE3実施がありうるものとされているが、それはまだ先のことである。そんなニュアンスだ。いまFEDが考えている、というか議論しているのは新たなコミュニケーションツールだと言う。
The FOMC considered a wide range of communication tools in November, but chairman Ben Bernanke instructed a subcommittee to concentrate on two in particular: “a possible statement of the Committee’s longer-run goals and policy strategy” and publishing what FOMC members think will be “appropriate monetary policy” in the future. 
A statement of the Fed’s longer-run goals could be a way for the FOMC to finally adopt an explicit inflation target, something that Mr Bernanke has pursued since he became chairman in 2006. Such a statement could make clear that the Fed is still committed to maximum employment as well.
長期的政策意図について、国民、市場にどのようにして正確な認識を形成できるのか、形成すること自体が一つの有効な金融政策であるという点が非常に大事だ。バブルは予想に基づいて発現するマクロ経済的症状であるし、バブル崩壊後の低迷も心理的萎縮に基づく部分が多い。マクロ経済において企業、消費者、政府は主要なプレーヤーである。政府の働きかけが有効なフォーカル・ポイント(≒合図、標識という意味のゲーム論用語)となることによって、低位均衡点から高位均衡点へ移ることができるのであれば、そんなプラスの結果をうむような政府の行動、政府が行うコミュニケーションはどのようなものであるべきか?それがコミュニケーション・ツールの研究に込められた狙いだ。

インフレーション・ターゲットは、時間的不整合があると言われて来た。つまり、インフレ率引き上げにコミットしているように見えて、実際にインフレ率が上がれば、それを抑えにかかる動機を中央銀行は最初から持っているので、インフレーション・ターゲットという政策手段は効力を持たないのだ、という考えだ。しかし、バブルの発生の背後にはそもそも中央銀行を見る何らかのマーケット側の予想があった。だとすれば、バブル崩壊という負の衝撃から立ち直る際にも、政策当局がとるべきパフォーマンスがあるのだろう。これが戦争であれば、総司令官の一挙手一投足が注視されている。その司令官の一つ一つの行動、一つ一つの言葉が、ひいては部隊全体の集団行動を変えることになる。それが勝敗を分ける鍵になることは言うを待たない。

日本でも、以前は経済白書が毎年注目されて来た。数年ごとに総合経済計画を作り替えてきた。国土利用計画もそうであった。これらの△△計画は市場経済には似つかわしくないものという声があがり、どれも21世紀になってからは、あるかないかという状態になった。◯◯白書も「いまさら公務員に分析してもらわなくとも、民間に専門的エコノミストがいる」という声が上がり、最近では評判になることもない。しかしながら、政府の計画や白書公表は、それ自体に強制力や権威があったわけではなく、企業、消費者、関係国など日本と関係のあるプレーヤーが共通の予想、将来ビジョンをもつコミュニケーション・ツールとして役立って来たものである。それもまた政策ツールであった。そんな指摘は前世紀末の中央官庁再編成においてもあったはずなのだ。

この10数年の間、規制緩和と小さな政府という政策潮流の中で、私たちは侍が髷を捨て、刀をすて、脇差しをすて、裃を捨て、果ては武士道を捨て、行動規範をも捨てて来たように、何か有用な、一度捨ててしまうと作り直すのが至難な大事な道具を捨ててしまったのかもしれない。というか、小生は事実そうではなかったのかと、ほぼ確信している。

ま、文字通り<覆水盆に返らず>ではあるのだが。<役に立っていないものはないのじゃよ>、ご隠居がよく宣う台詞だが、流行といえば流行だったが、ちと軽率な進め方でありましたな、日本政府は。


2011年11月22日火曜日

次は国家経済戦略を討論する番だ

今朝あたり消費税率引き上げ案が、ようやくにして政府から出て来たようだ。政府部内でそれなりに煮詰まって来たのだろう。14年度からまず8%へ引き上げ。15年4月か10月に10%まで上げる案が(いまのところ)有力だそうだ。

実際には、消費税率10%でも財政再建は無理だろう。消費税率15%まで引き上げを長期目標としては掲げておかないと、出尽くし感を形成し、日本の将来に希望を持つ心理を再構築するには不十分で、結果として<不透明感>が残ることになるだろう。今の原案のままでは、日本政府は依然としてその場しのぎの<瀬戸際戦略>をとり続けるという印象をぬぐえない。これは間違いないが、それでも目先3〜5年間くらいは世界に向かって、日本も変わり始めたというプラスのインパクトを与えられるだろう。

さて、Nikkei BP Netを時々見るのだが、大前研一氏が洪水で被害をうけたタイ復興のため2兆円規模の支援をするべきだと提案している。いうまでもなく日タイ関係は歴史的にも深く親密である。日本の経済援助(→円借款に限る)の中で対タイ援助と対インドネシア援助は二本柱であった。現在でもタイの輸入相手国としては日本が最大であり、タイの輸出相手国としては他のASEAN諸国が20%を占め、次いで中国、日本の順である。日本の製造業は2000年代に入って以降、東南アジアとの工程間分業ネットワークを形成してきたとよく指摘されるが、タイはそのネットワークの拠点に位置づけられる。

そればかりではなく、中華帝国再建という明確な国家戦略をもつ中国に対して、日本がどう向き合って彼の国のエネルギーを日本の利益につなげていくかを考察することこそが、日本の利益につながる。その国家経済戦略を議論する中で、タイ、ベトナム、インドネシア、台湾、韓国、モンゴルなど、周辺アジア諸国というプレーヤー群は極めて重要だ。歴史的なわだかまりと足元の損得勘定から、中国の対日批判が今後将来において逆転するとは考えにくい。日本は、このような外側からの攻勢に対しては、外側においてパワーバランスをとる戦略を選ぶべきだ。自国の戦力を隣国との対立に投入して、経済取引の機会を失うのは愚かだ。タイ、ベトナム、朝鮮半島、モンゴルなどの諸国が、近い将来、中国と結託し日本に対して攻撃的態度をとることにより、自国の利益を求める誘因を持つ可能性は、歴史的にも、民族的にも、論理的にも、小さい。理がそこにあるなら、日本のプラスになるような関係に強化できるよう、国家戦略を実行していくべきだ。

こうした議論をするからにはロシアを含めない訳にはいかない。TPP騒動では「アングロサクソン陣営をとるのか、中華帝国をとるのか?」という巷の噂が飛び交ったが、いずれ「中国と結ぶのか、ロシアとつきあうのか?」という選択も日本は迫られるだろう。同じ日本ではあるが、北はロシアとの交流で大きなプラスを得られるし、南は中国との経済取引が利益を約束するだろう。しかし、東アジアにおいて、中国とロシアが利益を分け合う関係を形成するのはほとんど不可能だろう。だから、日本はここでもまた選択を強いられるだろう。

いまのTPP騒動など呑気な騒動だった。そんな感想が出てくると予想する。中国とアメリカはシェアのとりあいではゼロサムゲームを繰り広げようが、GDPの数字で見れば協調が可能であるし、協調の利益は大きい。この利得表は中国とアメリカには当てはまるが、中国とロシアには当てはまらないだろう。そんな国際事情が顕在化する日が遠からずやってくるのではあるまいか?

消費税率引き上げは、一家の収入をどのように配分するかという話しだ。収入管理の次は、一家がどのように活動していくかという話しにならないといけない。内輪の話しの次は必ず<遠交近攻>の話しになる。野田政権と民主党は財政再建でやるべきことをやったと思ってはいけない。財政再建は、やっておかないと前に進めない単なる助走、それも第一歩でしかない。

政治家がやっておかないといけない宿題に、やっとのことで取り組み始めた。そのくらいに考えておくのがよいと思われる。

2011年11月21日月曜日

中流社会のリスク回避症

昨日は5時起きをして深夜に帰宅した。東京は25度の高温で、北海道に帰ると零度で雪が降っていた。疲れた。急逝したM叔父に別れの挨拶をすることが目的であったのだが、一週間も経っているのに、昨晩が通夜であるときいた。それに通夜は都心の会館で行うという。自宅に伺った小生、線香をあげることすらできない。通夜に出席する時間もなく、また春の彼岸に焼香にうかがいますと言い置き、叔父宅をあとにした。昨晩が初七日だと思い込み、それにいずれにせよ日曜日しか往復できないので、電話で確かめもせずに、東京まで赴いた小生も愚かであった。それはそうだが、地方で暮らしていると葬式の順番待ちなど、想像すらできないものだ。いや全く、世の中移り変わっている。小生が知っている首都圏はもはや20余年も昔のことになってしまった。

そうしたら今朝の日経朝刊の経済指標欄では日本のエンゲル係数をとりあげていた。エンゲル係数は周知のように消費合計に占める食費の割合のことである。このエンゲル係数だが日本は他の先進国に比べて高いことが知られている。これは日本人が外国人より食に贅沢であるからではない。日本国内の食材が割高であるためだ。日本の一人当たりGDPの高さから類推すれば、国際価格で食材を調達できれば、日本のエンゲル係数は概ね半分の高さに低下するだろう。それで浮いたお金で日本の消費者はいろいろなものを買えるはずである。その方が豊かであるに違いないじゃないか?日経の言いたいことはこういうことである。TPPには恩恵と損失が同時に発生するが、日本で暮らしていると食費がバカにできない事実は、日常慣れっこになっているので、案外気が付きにくいのではないだろうか?

いずれにせよ世の中というのは移り変わるものである。帰宅して書棚を整理していると付箋を貼っている本を見つけた。ホワイトヘッド著作集第6巻「科学と近代世界」だ。付箋のあるページを開けると、傍線が引かれている。
<画一の福音>(gospel of uniformity)もほとんどこれに劣らず危険なものである。高度の発達を遂げうる条件を保持するためには、国家や民族の相違が必要である。(中略)人類は樹上から平原へ、平原から海岸へ、風土から風土へ、大陸から大陸へ、生活習慣から生活習慣へ、と移動を続けてきた。人間が移動を止めたとき、もはや生の向上を中止するであろう。身体の移動も重要ではあるが、人間の魂の冒険 ― 思想の冒険、熱烈な感情の冒険、美的経験の冒険 ― の力は、なおもっと偉大なものである。人間の魂というオデュッセウスに刺激と材料を与えるために、人間社会間の相違が絶対に必要である。異なる習慣をもつ他国民は敵ではなく、ありがたいものである。(286頁)
異なる商品を異なる方式で生産していると、商品の価格体系が違ってくる。そんな二つの国では、必ず交易によってプラスの恩恵が生じる。そのためには、得意な分野に<特化>することが必要だ。あれもこれもと百貨店のように国民経済を運営するのではなく、各国が一番得意な分野に特化する。その時に、世界全体としては、最も多くの商品を作り出す。これは簡単な理屈だ。これを貿易によって世界に流通させればよい。米をどこでも作っていた江戸時代と殖産興業を進めた明治日本の違いがここにある。

いま日本人は、国際経済に組み込まれる利益・不利益のどちらが大きいかを、再び考えあぐねている。いつか来た道だ。これだけは言えること、それは同じ社会の成り立ちを守ったままでは、TPPのメリットは引き出せない、ということだ。得意分野にヒトとカネを集中しないといけない。これは一見すると<ハイリスク>だ。

こんなことをホワイトヘッドは言っている。本が出た1925年は、第一次大戦に勝利したものの英国の没落が明瞭になっていた時代である。
19世紀を支配した富裕な中流階級は、<生活の平穏>を過度に重んじた。彼らは新しい産業組織の課した社会改革の必要を正視することを拒み、また今日は新知識の課する知性改革の必要を正視することを拒んでいる。世界の未来について中産階級の抱く悲観論は、<文明>と<安全>とを混同するところから来ている。手近な未来には手近な過去におけるよりもなお安定が乏しく、安定が欠けているであろう。もちろん、不安定も度を越せば文明と両立しなくなることは認めなければならない。しかし、一般的にいって、偉大な時代はいつも不安定な時代であったのである。(277頁、但し括弧はブログ投稿者による)
経済的に成功した国家では必ず層の厚い中流階級が形成され、その中流階級が非常に長期にわたるその国の安定成長を約束するものである。しかし、中流階級の拡大は、副産物として安定を志向する社会、リスクを回避する社会を作り出すものだ。中流階級という社会のマスが、自己資産の喪失を怖れるようになるとき、それでもなお自己資産を増やしたいと願望し、海外投資に明け暮れるようになるとき、その国は没落への道をたどり始める。このくらいに考えておいたほうがいいだろう。

少なくとも、世の中が進歩すれば<安全>になるとか、<リスク>を考えなくともよくなるとか、そんな風なメンタリティが広がるとすれば、これくらい間違った認識はないと言えそうだ。

とはいえ、ホワイトヘッドが上のように記しているにも関わらず、英国が再び活性化への道を歩み始めるのは1980年代を待たねばならなかった。眠りから覚めて、再びチャレンジ精神に満ちた社会を取り戻すまで、半世紀以上の時間を必要としたわけだ。

日本にとってTPP参加が活性化への特効薬になるのだろうか?そんな風には、小生、どうしても思えないのだな。経済的ロジックに沿っている以上、TPP参加と自由貿易拡大が日本全体としてメリットをもたらすとは思う。TPP参加で豊かになったと感じる日本人の方が、損失を被る日本人よりも多いだろうとは思う。しかし、当面のメリットが出尽くした後、さらなる成長への道を日本は歩めるだろうか?そうは思わない。それを可能にするには、当の日本人が過剰に安定を志向しているように感じる。失うことを恐れるようになった社会は、そこで進歩を諦めなければならない。この見方だけは、ホワイトヘッドの目線に100%同感なのだ。

2011年11月19日土曜日

日曜日の話し(11/20)に代えて

明日の日曜日は東京まで往復しなければならない。それで今日のうちに「日曜日の話し」を書いておく。

用事は亡くなったM叔父と別れの挨拶をするためだ。父にはたくさんの弟妹がおり、亡くなったM叔父は小生よりも7歳だけ年上である。幼い頃には、夏休みといえば遊びに行き、M叔父と二人で蜻蛉とりをしたり、セミをとって炎天下の中を歩き回ったりしたものだ。ある時、暮らしていた小さな町から叔父のいる県庁所在市まで自転車で延々とこいで行ったことがある。まだ健在だった祖母が驚いて、小生の好物だったチキンライスを作ってくれた。母にも電話で知らせたのだろう。帰りは夜だった。子供だけで返すわけにもいかず、亡くなったM叔父が当時はまだ中学生であったろう、私につきあって夜道を自転車でこいで同行してくれた。今にして思えば、帰り道は真っ暗で怖かったろう。当時の楽しかった時間を小生は忘れたことはないが、成長して色々と大人のやりとりをし、父と叔父達との微妙な関係を知るにつけて、段々と疎遠になり、最後に話しをしたのはもう20年も昔になるかもしれない。とはいえ、歳もそれほど違うわけではなく、これから将来にかけて、また会って話しをする時間は無限にあると思っていた。明日は古いアルバムに貼ってあったM叔父とのツーショットをもって、最後の別れの挨拶をする。


クレー、死と炎、1940年

かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしゃべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえてゆくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに
 
(出所)谷川俊太郎「クレーの絵本」

2011年という年は、本当に死の香りにむせ返るような一年だ。存在から非存在へ移ることの意味をこの一年ほど考えさせられた一年はない。




2011年11月17日木曜日

政治>宗教が近代化と分かってはいるのだが・・・それにしても

こんな報道がある:

天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)が指定暴力団山口組(総本部・神戸市)に対し、寺内で安置している歴代組長の位牌への参拝を拒否する通知を送っていたことが17日、分かった。延暦寺では平成18年、山口組歴代組長の法要が営まれたことが発覚。今後の法要を拒否する方針を表明しながら、その後も少人数の参拝は受け入れていた。近年、暴力団排除の機運が高まり、ようやく“絶縁”に踏み切った格好だ。 
 延暦寺では18年4月、初代~4代目山口組組長の法要が阿弥陀堂で営まれ、全国の直系組長ら幹部約90人が参列。滋賀県警が前日に中止を要請したが、延暦寺は「慰霊したいという宗教上の心情を拒否できない」として応じなかった。(出所: MSN産経ニュース2011.11.17 14:39配信)
小生がずっと縁を有している宗派は浄土宗であり、延暦寺は天台宗なのだから、考え方が異なるのは異なるのだろう。しかし浄土信仰を宗派として開いた法然は延暦寺で勉学した。そもそも延暦寺は日本の大乗仏教の総合大学とでも言える存在で、歴史に名を残す仏教思想家の多くは比叡山出身である。だから、延暦寺と浄土信仰とは全く無関係というわけではない。

倉田百三「出家とその弟子」は今でも中学生向けの推薦図書リストに入っているのではなかろうか?その最初の扉には
極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我
の正信念仏偈の仏句が掲げられている。この「出家とその弟子」という戯曲の主人公は親鸞である。親鸞が法然の弟子であり、現代日本でも最大の信徒を有する浄土真宗の宗祖となったことは、歴史の授業で必ず登場する事柄だ。その親鸞といえば、どんな言葉を思い出すだろう?教科書にも登場しているので誰でも知っていると思う。

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

である。善人が極楽浄土で救済されるというのに、悪人が救済されないはずがないという文意だ。決して逆ではない。悪人すら救済される以上、善人が救済されないわけがない、こう言っているわけではない。あくまでも、悪人こそが救済されるはずなのだという思想である。これを<悪人正機説>という。その思想が、倉田百三「出家とその弟子」の冒頭にある第一句でも唱えられているわけだ。

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 
親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 
左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 
親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・
テーマは心の救済と浄土信仰であるが、文章は論理的であり、なぜ<悪人>の魂を救済することこそが、宗教的課題にならなければならないのか。普通でない説得力に満ちているからこそ古典であるのだろう。

さて、延暦寺は暴力団参拝を拒否するとのことだ。上に引用したような、悪人の魂をこそ救済しなければならないという思想は、この措置からは到底窺うことはできない。そんな考えは捨てたのか?もともと、そんな思想は天台宗にはなかったのか?

おそらくあれだろう。延暦寺観光収入に依存している以上、警察からの指導に従わざるを得ないということなのだろう。本当にこの邪推が当てはまっているようならば、延暦寺はもはや宗教施設ではなく、生命を失った観光資源である。天台宗という教団は宗教法人と名乗ることをやめて、観光ビジネスを展開する事業法人になれば善いのではないのか?

思わずこのように感じられたわけなのだが、これが極論としても、少なくとも組織暴力団の参拝を拒否することが宗教上の必要に合致する、まあ、いわば山口組を<破門>するだけの理由がある。そのくらいは示さなければ、いまもいるかもしれない宗徒は納得しないのではないか。そうも思われたわけだ。

 

2011年11月16日水曜日

年末年始までの景気の足取り

夏場の日本の実質GDPは瞬間的には回復への動きを見せたが、10月以降、年末年始までの景気を見通すと決して明るくはない。そもそもアメリカの財政緊縮への転換は、早々に打ち出されていたのだから、今年後半のグローバル経済がある程度失速することは、予想はできていたことだ。

OECDのComposite Leading Indecatorをみても、既に中国、インド、ブラジルは景気後退が明瞭であり、欧州もピークアウトしていることが明らかだ。アメリカも今後どの程度まで沈むかという段階だが、アメリカはまだ第三次量的緩和(QE3)という手が残されている。そんな中の日本だが、確かに震災復興特需に期待できるとはいうものの、日本は世界景気に非常に敏感である。輸出入とも海外景気の落ち込みで低下し、運用先を求めて日本円に資金が集まるとさらなる円高もありうる。日本の生産活動も今後順調に拡大していくとは思えない。

2012年は<景気調整>で年が明けるだろう。

本日の日経をみると、ヨーロッパの景気後退は3つの政策ミスが招いたと記されている。

  1. 金融不安があるにもかかわらず、インフレを懸念したECBが7月に金利を引き上げた。
  2. 域内銀行の経営健全化の名のもとに、自己資本比率規制を強化した。これが貸し渋りをうむ。
  3. ギリシア危機への対応に手間取り、当局への信頼に傷がついたこと。

3は、EUという組織の限界が反映したものと考えられるが、1と2は何故にこんな判断をしてしまったのか?不思議である。経済学を勉強した人が欧州にはいないのか?思わず、そう言いたくなるくらいだ。ま、生身の人間の命を預かる医師と、メカニズムの理解が脆弱な経済学者の違いといえば、身も蓋もないが、2011年夏の判断ミスが<欧州の敗着>にならなければよいがと思うばかりだ。

2011年11月14日月曜日

7~9月期のGDP速報の第一印象

本日、7~9月期GDP統計速報が公表された。今年の夏場は震災後の生産回復、節電騒動による生産下押し、更にはギリシアの財政破綻、米国債の格下げなどによる金融市場の混乱が重なり合い、これらのプラス、マイナス両面の影響がどう出てくるかが注目されていた。

対記者クラブ説明では季節変動を取り除いた季調済み系列の前期比を主に説明する。それは<足元の景気の足取り>を伝えるためだ。公表資料によれば、この季調済み前期比は1.5%、年率では6%成長という拡大スピードを達成した。いうまでもなくこれは大震災後の生産落ち込みの反動である。下は季調済前期比を図に描いたものだ。


東日本大震災は生産サイドを襲ったショックである。生産組織は寸断されたが、需要が急低下しない限り、国内のどこかに生産が移動する。世界規模のマネー収縮による需要蒸発がリーマン危機では起こった。やはり図をみると、いかに大惨事であったとはいえ、経済的災害評価の規模という点でリーマン危機と東日本大震災を横並びでは論じきれないことがわかる。いずれにしても、夏場の増加は明瞭である。

しかし、同じ数字を原系列の前年比でみると全く異なる。


ようやく前年同期の水準に並んだレベルでしかなく、今年に入って水面から頭を出したことは一度もない。リーマン危機で10%減に沈んだ後、6%増という高さに回復したあと、またマイナスに沈んでいるということはリーマン危機直前の生産にまだ復帰できていないことでもある。

これはリーマン危機の後、鮮明になってきた国内民間企業の<過少投資体質>の帰結でもある。日本の経済問題は、まずは財政赤字であると言われてきたが、いまの日本の財政赤字は煎じつめれば日本国内の資金偏在でしかなかった。国内民間企業が生産のための投資をしなくなったということの意味合いは財政赤字を上回る本質的問題である。政府は、なぜそうなっているかを真剣に考える必要がある。

2011年11月13日日曜日

日曜日の話し(11/13)

三島由紀夫「葉隠入門」がどこかに行っていたが、最近、ひょっこりと又出てきた。本はよくそんなことがある。どこかに消えたと思うと、また戻ってくるのは他にも印鑑がある。失くしたと思っていたら、鞄の隅や服のポケットから出てきたりする。そんな時には、相手が単なるモノであっても<縁>を感じたりするものだ。

「そう言えば、どこが好きな下りだったかなあ・・・」と、パラパラ、ページを繰ってみると色々な所にうっすらと線が引いてある。大半は「こんな所になんで線を引いたのか・・・」という感じだが、中には赤線ではっきりと強調までしている所もある。
トインビーが言っていることであるが、キリスト教がローマで急に勢いを得たについては、ある目標のために死ぬという衝動が、渇望されていたからであった。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで及んだローマの版図は、永遠の太平を享受していた。しかし、そこににじむ倦怠を免れたのは、ただ辺境守備兵のみであった。辺境守備兵のみが、何かそのために死ぬ目標を見出していたのである。(新潮文庫版、26頁)
現代の世界においても、頻繁に戦争や内戦を繰り返している国は多数ある。先進国は自動小銃や砲撃から無縁であり、そんな戦闘が展開されているのは未開発国であると思ってはならない。そもそもアメリカは日常的に戦争を繰り返している国であるし、イギリス、フランス、ドイツ、韓国など必要な時に戦闘に参加している先進国は多数にのぼるのが現実である。日本も人的支援を行なっている ― ただし「国権の発動たる戦争」だけは禁止されている。
現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、あるいは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝はじつに簡単に「勘定者」と呼んでいる。合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(同63頁)
人によっては過激な思想であると言うかもしれないが、小生はこの下りを今日読んでも、同感を禁じ得ない。戦後日本は素晴らしい理念に基づいて開かれたが、堕落をするとすれば三島由紀夫が非難するような形で堕落するのだろうなあと、やっぱり納得してしまうのだな。


 Manet, バリケード, 1871

自らは印象派展に出品はせず、印象派に所属してもいなかったが、19世紀フランスにおける美術革命への道を切り開いたマネの作品「バリケード」。この作品は、日本の国立西洋美術館に所蔵されている。マネがこのリトグラフを制作した1871年は、普仏戦争でフランスが敗れ、それでもパリがバリケードを築いてプロシア(=ドイツ)に徹底抗戦した年である。パリ・コミューンという。フランスがフランスであろうとしたのは、ナポレオン3世による第2帝政が崩壊した混乱の中であったことを忘れてはならない。

創造は敗北と破壊に基づいて行われるしかないのかもしれない。とすれば、勝利と太平の中で進むのは退廃なのだろう。平和であるからといって、全ての国で退廃が進むわけではないが、よほどモラルと理念が強固でない限り、平和は創造の敵であるのかもしれない。

だとすれば、生死をかけるという意味で究極のリスク要因である戦争と破壊が、創造的活動の導火線であることになり、これは一寸信じられないことでもあるのだが、一概にバカバカしいと否定することもできないと思うのだ。


2011年11月12日土曜日

日本の<過小投資体質>が意味すること

何度も繰り返し書いている事実だが、日本はカネが余っている国である。

カネが足らなくて困窮しているのは政府だけである。この事実をすら、よく知らない人が多いような感覚を覚える ― この勘違いが本当に広く社会に浸透しているのであれば、大事な事実を伝えることが使命のはずのマスメディアに責任があるのだろう・・・。

カネが余っていることは、海外に資金を融資し続けていることからわかる。それは日本の経常収支(=貿易収支、サービス収支、所得収支、移転収支の合計)がずっと黒字であることの帰結だ。たとえ貿易で赤字になっても、海外からの資産運用収益が流入し続ければ、経常収支の黒字は続く。前にも述べたが、日本の黒字の半分以上は、モノの取引ではなく、資産収益からもたらされている。

カネが余るのは国内で使うあてがないからだ。消費や投資や建設投資に使えばカネは余らない。日本の家計の貯蓄率は、退職した高齢者世帯が増えているので、次第に下がっている。だから日本は貯蓄過剰にはあたらない。カネが余っている原因は、貯蓄率の低下以上のはやさで、既存の民間企業が国内投資にカネを使わなくなったからである。本来の理屈で言えば、企業は使う当てのないカネを配当に回すべきである。配当を受け取った個々の資産家が、資産収入をどう運用するかを自分の責任で決めるべきである。企業が巨額の余裕資金を抱え込むのは、企業統治上、またマクロ経済の観点からも、大きな問題だと小生は思っている。

内閣府が公表している機械受注統計(9月実績と10~12月期見通し)の数字が意外と強めに出ているので国内景気の悲観的見方がやや後退しているようだ。しかし、トレンドをみると到底楽観できるものではない。下図は指標となる民需(電力船舶を除く)の受注実額の増減である(上記資料から抜粋した)。


月々の増減よりも、平成20年度のリーマン危機後に日本の民間企業の<過小投資体質>が一段と鮮明になってきたことが分かる。今年の春先までは、それでも徐々に少しずつ増えては来たが、大震災後の混乱、急速な円高が国内メーカーから事業を継続する意欲を奪っている。それで海外への製造拠点シフトが急増している。

× × ×

いくら政府が巨額の借金を続けていても、日本全体で見れば、カネが余って仕方がない状況であるから、日本全体が資金繰りに困ることはない。ということは、円が通貨不安にさらされる心配はあるはずがない。心配なのは、日本国内の<資金偏在>、<収支インバランス>であって、国内のマネーの流れが妨げられる事態である。具体的には、カネを持った民間経済主体が政府の資金調達に応じなくなるとすれば、政府の信頼性に傷がつき、政府が被る傷を拡大させないために対応措置を講じる日銀の信頼性にまで傷が広がる。そのことが(予想外の結果として)円の危機を招くことになるはずだ。

国としては、資金繰りに全く問題はないにもかかわらず、国内におけるやり方がまずいために、国民経済全体が混乱する可能性がある。これはとても愚かなことではあるまいか?

図に示されるように、民間企業の過小投資体質が一層ひどくなってきたが、企業は余ったカネで対外投資を行なっている。製造業に投下されている資本は国内を諦めて、海外で利益をあげようとしているわけである。伝統的大企業で蓄積されている使い道のない余裕資金を、株主にちゃんと配当すれば、個々の国内投資家は日本の中の色々な成長産業に投下できているはずである。本来は、このように日本の産業ポートフォリオが新陳代謝されるはずだが、日本の財界本流は岩盤のように強固である。

× × ×

日本経済の成長戦略を政府が本気で立案するつもりであれば、法人税率を下げるのではなく、据え置くべきだ。安定した国内需要が期待できる一次産業と三次産業を支援する産業基金を創設、拡大、支援するべきだ。同時に、医療、教育、介護、法律、財務、企業経営支援等々、サービス業全体を覆っている職業資格、開業規制を改革するべきである。そこにカネとヒトを投入するべきである。そうしてこそ日本は暮らしやすい国になるだろう。製造業が海外に移転すれば、輸出は減るが、輸入も減るのである。国際収支はマクロ経済の戦術要素であって、それ自体を国家戦略にするのは本末転倒である。

こうした総合政策は総合経済政策を担当する行政組織がなければ、政治家や役人の雑談で終わってしまう。ところが民主党政権は、いまだに経済財政諮問会議を休眠させたまま、国家戦略会議を非公式のミーティングのような存在に据え置いたままである。一人ひとりの人間に出来ることは限られているが、ここにも日本の政治家と言われる人たちの無責任体質が覗いているではないか。

現在の日本は、<雇用確保>の名のもとに、極言すれば三井、三菱、住友、芙蓉グループ等々、伝統的な財界本流に属する大企業の利害に沿った経済政策が展開されようとしている。既に成功した専門的職業集団の利害に沿った政策が実行されようとしている。政府は日本社会のエスタブリッシュメントから恫喝されているに等しい。TPP論議の決着もそうした観点から見てこそ、背後の構造を洞察できるのではあるまいか?誰が得をして、誰が損をするか?得をしている人が日本の政治を動かす駆動力なのである。そう考えるしかないのではあるまいか?

2011年11月11日金曜日

想定外こそ進歩をもたらす

今日は学部の一年向けに統計学の授業をする。ちょうど正規分布をやっているところだ。正規分布はガウス分布ともいい、ノーマル分布とも呼ぶのであるが、ノーマルとは「言い得て妙だなあ」と話すたびに思う。ノーマル=正常、という意味だからだ。

川の水位も津波の高さも、株価の毎日の変動率も高低さまざまでバラバラである。そこで、発生した値を整理して、どんな値が多く現れて来たかを分布図に描く。これが統計分析の第一歩だ。分布図に描くと、平均的な大きさと併せてばらつきの度合いも分かる。そのばらつきの度合いは、普通のデータ解析では標準偏差を見るのだが、正規分布では標準偏差の3倍を超える値はまず考えないものだ。まして標準偏差の4倍はありえないと考える。大体、正規分布の数値表にしてからが、通常は標準偏差の5倍までしか表にしていない。標準偏差の5倍を超える事態は<想定外>になる。しかしリーマン危機では標準偏差の15倍程度の大暴落が発生した。文字通り<信じられない>出来事だったのだ。

マグニチュード9の地震はどの程度発生する確率があると考えられていたのか、小生自身はこの分野のことをよく知らない。知らないが、専門家達は今後はありうると考えよう、そう話しているそうだから、まずゼロに近い確率だと思っていたのだろう。川の水位には正規分布は当てはまらない。これはマンデルブロ「禁断の市場」にも詳しい。<想定外>と思うのは、人間がそう思うのであって、起こることは起こるべくして起こるのである。

いま金融工学の分野ではリスク評価、極値分析が急速に発展している。たとえば日本統計学会から以下の案内が届いた。
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日本統計学会分科会 「金融のリスク管理」の
第2回のセミナーが下記の日程で行われます.


日時:2011年11月17日(木) 18:20~19:50
会場:学術総合センター6階第2講義室 (一橋大学大学院国際企業戦略研究科
キャンパス)

講演者は次の通りです.


・ 講演1:山下 智志氏(統計数理研究所) 「信用リスクモデルの精度評価手法とパラメータの最適性」

・ 講演2:三浦 良造氏(一橋大学)「(仮題)Antoch論文紹介:信用リスク計測(あるいは分類)手法の比較」

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各講演の要旨,および参加申し込みは分科会のホームページ

http://fs.ics.hit-u.ac.jp/risk/

をご覧ください.
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これも金融パニックという<想定外>のことが発生したからだ。リーマン危機が<想定内>の現象であったなら、その後の混乱は金融機関の過失に原因があったのであり、金融工学理論に問題はなかったことになる。

想定外の出来事が起こって、はじめて従来の考え方が間違いであったことに痛切に気がつく。同じ間違いは繰り返したくないので、正しい考え方を懸命になって探す。これは自然科学、社会科学だけではなく、習慣、法律、制度、行政などすべてにおいて言えるだろう。もちろん何事が起こっても<想定外>とは考えずに、<バッドラック=神の思し召し>と受け取ってもよい。こうすれば何事もサプライズではなく、別の正しい考え方を探すつもりもないだろう。信念や信仰とは、そういうものだ、割り切ってしまえばそうなる。

社会が進歩していく中では、新しいやり方を試す段階を避けることができない。想定外のクラッシュを覚悟しなければならない。試用、臨床実験、治験などの行為は、研究開発活動への寄付と同じであり、それがたとえば無になる、場合によっては損害を被るとしても「それもあろう」。そんなスピリットが社会に溢れているかどうかが、その国が前向きか、後ろ向きかを決めるのだと思われるのだな。<想定外>を社会のマイナスと決めつける社会は、そもそも進歩をリードすることが不得意な社会である。これだけは言えるのではあるまいか?

少なくとも<想定外>のことが絶対に生じないように100%努力せよという社会は、リスクを絶対に避けよ、と言っていることと同じだ。リスク負担なき社会は進歩をリードすることはできず、他国の進歩を真似することしか出来ない。これが良いという心理は、以前、小生が本ブログで使った<確実な議論をしましょうよ症候群>。この症候群に罹患している政治家やマスコミ、評論家がホント多いのだなあ。TPP論議を聞いていると、つくづくと感じるのである。

2011年11月9日水曜日

「飛ばし」は罪悪か?

オリンパスの損失隠しが大問題になっている。同社は1990年代以降、財テクに失敗して千数百億円の含み損を抱えた。その損失を隠蔽するため損失を抱えた資産を高値で複数のファンドに売却。同社は損失を決算に計上しなかった。ただ当初から時価を上回る価格で当該資産を購入したファンドを助ける必要がある。そこでオ社は直接に比較的高値で当該資産を買い戻してもよいし、その資産を購入した第3社に何かの報酬を高値で支払ってもよい。その第3社が、どうやら野村系金融マンが経営する投資顧問企業であるらしく、そこに支払うサービス料が高すぎると異議を唱えたオリンパスの英国人前社長が解任されたことは記憶に新しい。

カネの流れは、あっちに行ったり、こっちに行ったりで、込み入っているが、要するにババをパスしたり、戻したりしながら、含み損を決算対象から外すという狙いは一貫している。現実には発生している<含み損>を広く公衆に公表しないのは、責任を免れるために他ならない。それ故に、こうした隠蔽行為は金融商品取引法に違反し、おそらく地検特捜部事案になっていくであろう。違法配当で会社法違反に問われる可能性もあるよし。逮捕される者も複数でて来るに違いない。

ただ含み損を飛ばしたとはいえ、せいぜい千数百億円である。それが許されざる犯罪であるのなら、たとえば私たちが延々と支払って来た公的年金保険料だが、それは今どのような形になって管理されているのであろうか?

厚生労働省の公表資料にもあるように年金積立金残高は22年度末で概ね120兆円である。その収益動向だが22年度は3千億円の損失が発生している。収益率でみればマイナス0.26%だが、損失額はとても僅かな金額であるとは言えまい。もちろん公表しているのだから「飛ばし」ではない。しかしながら、我々はたとえ政府が愚かな資産運用をしており、預けたお金の一部がなくなっていると知っても、年金契約を解消し保険料支払いを止めることが自らの意志ではできない。ちなみに金融市場が大混乱した20年度には9兆3千億円の損失が発生している。一切運用せず、現金で預かっておけば良かったのである。

リーマン危機で仕方がなかったという言い方もできるだろうが、小生が卒業した大学のトップは金融投資の失敗の責任をとって、次の選挙には立候補できなかった。年金積立金運用の責任をとって辞任した政治家や官僚を小生は寡聞にして全く聞いたことがない。多分、一人も責任をとっていないのであろう。

このような状況が一方にある中で、民間企業の不正経理を裁く。それも当然必要な行政行為ではあるが、では政府が現に為しつつあることは不正ではないのか?法に従っているという点では「不正」でないのかもしれない。しかし、権力を行使して所得の一部を徴収し、それを投資でスッても責任をとる人間がいない。不正ではないかもしれないが、無責任であり、政府と国民の間に構築するべき<信義>を壊している。

オリンパス社の行為は、同社と一般投資家との間の信義をないがしろにするものである。信義をないがしろにしているという点では、オリンパス社も政府も同じ穴のムジナである。

2011年11月8日火曜日

経済格差拡大をどう見ればいいのか?

アメリカで格差拡大が進行している。所得分配の不平等化のことだ。そのために街頭デモンストレーションも起こっている。もちろんこれは極端な市場原理主義である「茶会」に対抗した政治行動でもあって、民主党(特に左派)支持層が駆動力になっているのは間違いない。この動きは日本にとって他人事ではない。日本でも1990年代以降、格差拡大、一億総中流意識の崩壊が指摘されているからだ。欧州では社会民主主義が浸透している国が多いのだが、それでも世界経済から隔離されているわけではない。中国など新興国の所得分配の実情が社会不安を引き起こしているのは周知のことだ。

日本については本年10月31日に公表された総務省統計局「平成21年全国消費実態調査」から所得・資産分配のジニ係数が求められる。所得分配(等価可処分所得)について「ジニ係数を国際比較すると,日本(0.283)はドイツ及びフランスとほぼ同等」という結果であり、資産分配については「家計資産の分布をジニ係数でみると,平成16年と比べ,住宅・宅地資産では0.579とほぼ横ばいとなっている一方,貯蓄現在高などではやや上昇」となっている。貯蓄とは金融資産である。資産分配は、概ね土地住宅価格が上がれば平等化が進み、株価が上がれば、より不平等になる傾向がある。いずれにしても、0.283という所得分配のジニ係数はそれほど高いわけではなく、この数字を見て「日本の所得分配も不平等になった」と即断することはできない。但し、数年前に評判になった橘木俊詔「日本の経済格差」(岩波新書)では、厚生労働省の「所得再分配調査」のデータを利用している。上の「全国消費実態調査」では格差を過小に評価する傾向があると以前から指摘されているためだ。逆に、「所得再分配調査」は不平等度を過大に示す傾向があるとも言われている。こうした留保するべき点もあるが、日本の所得分配は、アメリカ並み ― いくらなんでも新興国並みに不平等度になっているという感覚はない ― より少しは低く、欧州より少し高くなりつつある。そう見ておくのが妥当ではないか。

これだけは言える点。それは、どんな指標をみても<経済格差>は拡大しているのであり、それは日本、アメリカ、欧州だけではなく、新興国でもそうである。世界全体で所得分配は不平等化している。いまの世界は格差拡大の時代である。これだけは事実として認めなければならないだろう。

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世界には非常に多くの国がある。市場経済が浸透しているとはいえ、経済制度は様々だ。そんな多様性を包括しつつ、グローバル規模で経済格差が拡大しているならば、必ず原因がなければならない。それは<市場原理主義>であると以前からよく指摘されている。しかし、市場原理主義は技術革新、生産システムの変容に迫られる形で、結果として登場した政策理念に過ぎないと、小生は見ている。大体、考えてもご覧あれ。政治家や経済学者が口にする舌先三寸の一言半句が実際に主因となり、世界規模の所得分配が現実に変わっていくなど、考えられるだろうか?もしそんなことが可能なら、あらゆる悲惨な戦争を政治家の言葉の力で避けることができるはずである。しかし、現実はそうではなかった。現実を動かすのは現実の力でなければならない。

実は19世紀(特に後半)にも所得分配は不平等化した。第一次世界大戦後の1920年代から第2次世界大戦をはさんで1970年代までは逆に平等化の流れが定着したかに見えた。不平等化が再び上昇するようになったのは1980年代以降である。時あたかも、サッチャー革命、レーガン革命と重なっていた。自由資本主義であった19世紀にも格差が拡大したから、市場経済こそ不平等度を上げるのだと批判されるのは仕方がないとも考えられる。確かに、物事の表面だけを見ればその指摘はある程度当たっているだろう。

しかし、経済学の基本定理は「市場競争の行きつく果ては自由な参入による価格競争と利潤喪失である」。高利益は決して永続はしない。低収益に陥ったエクセレントカンパニーも結局は市場から排除されてしまう。資産さえも永続はしないのだ。奢れるものは久しからず。これが理論的命題だ。自由資本主義だから不平等化するという因果関係は出ては来ない。

ここでは一つのポイントだけを指摘しておきたい。イノベーションは創造的破壊であり、既存の事業者の顧客を根こそぎ奪う。そのような新規事業に挑戦する人材は実は多数いる。が、その中で成功するに至る企業は実に少ない。成功企業は巨額の<創業者利益>を獲得する。その企業が成長して市場を半ば独占すれば、長期間、独占利潤を獲得し続ける。フォードがそうであったし、GMもそうだった。IBMもマイクロソフトもそうだった。Googleもアップルもそうだ。今はフェースブックがそうなっている。現在はネットワーク基盤の上のICT技術革新が伝播している真っ最中である。まだなお終わらないだろう。

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格差が拡大しながらも、経済成長率がそれほど高くないのは、大成功と同頻度で大失敗が生じているからだ。大失敗が多いのは先進国であるが故だ。キャッチアップ過程にあるなら大失敗は少ないが、トップランナーになれば進歩のためのリスクを負担しなければならない。先進国はそうして生きていくしかない。リスクを負担するからリスクプレミアムを上乗せした高収益を獲得できると考えないといけない。こう考えるしかないではないか。

困難な課題に一生を捧げ、ブレイクスルーを果たす人間が出てくるためには、所得分配は不平等になっていなければならない。夢を求めるには夢のエグザンプルがいる。だから巨万の富をある特定の人物が築くのを許容しないといけない。格差が拡大する現象をも許容しなければならない。

行政が、真に防止しなければならないのは、格差拡大ではなく、<独占の害悪>の方である。不当な市場支配、参入障壁は当然だが、更に圧倒的な交渉力を使って地方の優良企業を囲い込んだり、ベンチャー企業を押さえ込んだり、自由な経営を抑圧したりする行動をも含め、全ての種類の独占的行動をモニターし、違反を摘発し、処罰し、フェアなルールで市場を運営すれば、そもそも<市場経済>という言葉に日本人がアレルギーを起こすことは絶対にないと小生は見ている。

この最も大事な<成長のための行政戦略>において、日本政府はしっかりした理念を有してはいないのではないか?一番心配しているのはここだ。

2011年11月7日月曜日

アジアのインフレ動向といま必要なこと

「最近のインフレ動向」というからには日本経済の話ではない。

月曜日の日経朝刊には「景気指標」という欄があることは以前にも引き合いに出した。全面に国内外の主要経済指標の変動が作表されていて、中央にあるのが「景気指標」という短い文章だ。<今週のポイント>のようなものだ。今朝は「中国、統計が映さない物価高」。

中国の消費者物価指数は、前年比で8月が6.5%と直近のピークを形成し、以後9月、10月と6.2%、6.1%とインフレに落ち着きが見られ始めている。物価指数の水準は掲載されている表にはないが、これだけの鈍化が前年比に出ているなら、物価の高さそのものは夏以降、横ばいになっている気配だ。ところが、消費者物価指数には反映されていない値上がりが中国国内では観察されているよし。たとえば、幼稚園の月謝。正規の月謝以外の協賛金を要求されることが多いという。協賛金はあったり、なかったりするので、継続調査が原則の物価統計では採用品目にならないと思われる。更に、安い粗悪品が市中に出回っているらしい。食品や生活用品でまがい物が増えていると書かれている。同じ価格で品質が向上すれば、それはデフレだが、品質が悪化して価格が変わらなければインフレを意味する。また北京の食材市場では卵が1キロ10元程度だが、スーパーの末端価格はその6,7倍することもあるという。卵の産地、等級、包装状態の違いもあるから断言はできないが、これまた物価統計の調査対象に何が含まれているかで、データは全く違ったものになる一つの要因だ。

そもそも物価統計は生活実感に合わないという指摘が日本においても昔からある。それは当然だ。たとえばタクシーが値上げされてもタクシーを使わない人にとっては関係のないことだ。ビールやワインの価格が急騰しても、お酒を飲まない人にとっては痛くも痒くもない。また米が値下がりしても、米の嫌いな人には何も嬉しくはないだろう。一人ひとりが感じる<物価>は、買っている商品の中身次第であり、それぞれ異なったものなのだ。政府が公表している物価は、全国民の平均的なライフスタイルに応じた物価だから、大半の人にとっては実感と合わない理屈だ。

それでも中国のインフレは6%水準の高さにある。それに対して、韓国は概ね4%水準、直近の10月は3.9%に鈍化している。台湾は大体1%台半ばである。シンガポールは5%台。他方、アメリカは3%台のインフレだったが、次第に4%に接近している。台湾の鎮静ぶりが気になるが、大体、4ないし6%のインフレがアジア新興国の最近の状況だ。インフレ率格差だけをみると、元高、ドル安局面には自然にはならないが、中国にとっては元高容認は自国のインフレ緩和に役立つはずだ。中国のインフレは2008年に5.9%のあと、09年にマイナス0.7%、10年に3.3%の上昇だった。リーマン危機による落ち込みを財政拡大とリフレ政策で乗り切ったことが明らかである。

中国政府は4%程度までインフレ率を落としたいのではないか?現在はまだ前年比6%である。中国の金融財政政策が拡大へと切り直されるのは、あと4ヶ月ないし半年は必要ではないか?しかし中国のGDPは今年に入って、四半期ごとに前年比9.7%増、9.5%増、9.1%増と急低下している。台湾は6%成長から3%台に落ちた。アジアはすべての国で拡大が鈍化している。生産活動の実態は、拡大への方針転換を求めている。

アジア新興国は、目標を自国通貨高へ置き、インフレを緩和し、併せてアメリカ、ヨーロッパ経済を下支えする政策を当面はとるべきだ。それは同時に、日本にとっても非常にプラスになるだろう。先進国と新興国との政策調整が今は大変重要である。単にギリシア危機を解決するためのカネ集めだけの話しにしてはならない。