2011年5月2日月曜日

公(オオヤケ)とはなにか?

国の利益とは何か?公私混同の公(オオヤケ)とは何か?


江戸時代であれば、公益=将軍家の隆盛だ。明治憲法のような君主制国家であれば国益=陛下の栄えであったろう。


たとえば福沢諭吉の「帝室論」に次のような下りがある。少々長いが省略しながら引用してみよう。


『明治10年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾万の兵を募集して戦地に用いたることあり。然るにその募に応ずる者は大抵皆諸旧藩の士族血気の壮年にして、然も廃藩の後未だ産を得ざるもの多し。・・・事収まるの後に至りてこの臨時の兵を解くの法は如何にすべきや。・・我輩はその徴募の最中より後日のことを想像して密かに憂慮したりしが、同年9月、変乱も局を結で、臨時兵は次第に東京に帰りたり。我輩は尚この時に至る迄も不安心に思いし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡単なる慰労の詔を以て、幾万の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩のあつきを感佩して郷里に帰り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云うべし。仮に国会の政府にて議員の中より政府の首相を推薦し、その首相が如何なる英雄豪傑にても、明治10年の如き時節に際して、よくこの臨時兵を解くの工夫あるべきや。我輩断じてその力に及ばざるを信ずるなり。』(慶応義塾大学出版会、福沢諭吉著作集第9巻、174~175頁)


公=君主を原理原則にすると、いざという時に「苦労をかけた。礼を言う。そなた達のおかげで国が救われた」と、お上のその労いの言葉だけで恩を感じ、それで十分であるという気持ちになり、他には何も求めずに郷里に戻った。国会に指名された首相にそんな芸当はできない。そう指摘しているわけである。


学問用語を使うと、抽象的な公益が君主という一人の人間に人格化されていると考えるわけであり、これが君主制という国の仕組みだ。憲法が制定されていると立憲君主制になる。ただ文字通りの君主国家は現在では少数派である。公(おおやけ)という理念が本当に人々の心に根を下ろしているのか。この問題に悩むとき、小生はどうしても福沢の上の議論を思い出すのである。


以上、いささか時代がかったイントロではあるが議論を先に進めよう。


原子力発電といい、TPPといい、最近よく「国益にかなう」、「国益に反する」、「国益のことを考えろ」等々と頻繁に国益という用語が使用される。これまた公(おおやけ)である。


いまの世の中、日常会話、井戸端会議では使いませんな、この<国益>という言葉は。
「あなた、きいた?」
「きいた、きいた、何あの発表・・・」
「信じられないわよね、あんなにいい幼稚園が経営難で閉鎖されるなんて、国益に反するわよ」
こんな会話は、どんなに意識の発達した奥方連でも、まずしない。


というより、国益なるものを眼前に出して明瞭に見せられるものならば、もっと規模の小さな県の利益、市の利益だって誰にも理解できる言葉で示すことができるはずだ。まして家族全体の利益、家族全体の願いなら、たかだか数人のことでもあるので、明快に述べられるはずだ。行き違いが生まれるはずがない。家族崩壊などありうるはずがない。


私は、政治・経済専門家が「それが国益というものだろう」と口にするのを聞くたびに、迷いも臆することもなく堂々と「国益」という言葉を使える人は、おそらく家に帰っても「俺が家族のためを思って働いているのに何だその言い草は!」だとか、「これほど家族全体のことを考えているのに、どうしてお前たちは分からないんだ!」と言う風な科白をしょっちゅう口に出しているのだろうなあ、と想像してしまうのだ。


「きけ、わだつみ」ではないが、戦時中に命を散らした特攻兵達は何か大切なものを守るということに死の意味を求めたことがあったろうと想像する。私ならやはり同じ状況に置かれれば自分の死の意味を考えるに違いないからだ。その大切なものは、しばしば国とか、社会という言葉で括られているのだが、具体的にどんな風な気持ちが記述されているのかを読んでいくと、自分が愛する故郷であったり、両親であったり、友人であったりする。理念としては、その延長に日本人全体がいて、それらが国というものをなし、国の利益が即ち国益だという論理になる。


しかし、私は想像力が乏しいので、社会というとせいぜいが現に住んでいる町、その町が存在する地域くらいまでが関の山であり、「国益」なるもののために我が地域が犠牲となるのは、正直いって腹がたつ。国益のために自腹をきって奉仕することばかりを迫られるなら、いっそのこと独立をして、我が地域社会が考えるように政府を作り、税制を設け、望むような教育システムを作り、子弟を育てていきたい、我が地域が望む国と経済交流関係を深め、貿易を展開していきたい。我が地域社会の利益のために。どうしてもそう考えてしまうのである。


今般、普天間飛行場の代替施設を滑走路2本のV字型にすることで日米政府が合意したという報道があった。大震災以後の状況は周知のことだ。むべなるかな、という思いがする。しかし、第2次大戦と言わず、遠く江戸期に清朝からも冊封を受けていた琉球王朝時代からこのかた、明治維新後の日本編入、そして沖縄戦を経て戦後の45年体制までの長い時間を振り返って、沖縄県の人たちは「仕方がない、これが国益だ」と考えるのであろうか?私はそれをじかに聞いてみたい。


たとえ首相が国益という言葉を連呼しても、収まらないものは収まらないのである。その人が無私で国のみを思っているのか、何らかの欲に駆られて行動しているのか、いずれが本当なのか分からないのである。自分の属する党派の利益のために行動しているのではないかと憶測されるだけで駄目なのである。国会で選ばれたというだけでは駄目なのである。そこが大問題なのだ。


日本国憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。明治憲法に幾つかの欠陥があったことはもう陳腐な知識である。日本国憲法にも幾つかの欠陥があろう。象徴天皇制の具体的意味合いについて形式を超える肉付けを欠いている点は、その欠陥の一つに含めてもよいかもしれない。

0 件のコメント: