2011年7月17日日曜日

日曜日の話し(7/17)

19世紀の絵画革命は印象派の登場だった。それはフランスの国難とも言える時代に開花した。その後、ゴッホ、セザンヌらのポスト印象派も世を去り、そこで出てきた主観主義というか、表現主導の美術の流れ。小生の好みもあり、どうしても話題にすることが多い。

写実ではなくて、自分自身の感覚に重きをおく。これはそのまま現代につながる感性であり、その感性は第一次世界大戦直前の時代に芽を出し、四年間の戦争の後、花を開き、大きな流れとなっていく。

時代が奔流する中で、色々な人が色々な人生を辿り、ある人は命を失った、ある人は功成り名を遂げて大家となった ― カンディンスキーはその一人だ。

その同じ時代に、日本人美術家はどんなことを考えながら、自らの才能と向き合っていたのだろうか?小生、とても関心があるのだ。日本画を志した人は、ある意味、割り切っているし、自分のよって立つ地点は日本の伝統の中にある。西洋画を志した人は、どんな風に自己の存在を確認したのだろうか?

この辺の事情は、芸術、学問分野を問わず、若い時は例外なく迷うと思うのですね。

しかし、1910年代の日本の西洋画の遺産というと、(小生も美術史の専門家ではないので)中々数多くは見当たらないのだ。

その頃、大御所である黒田清輝は既に晩年。有名な青木繁の「海の幸」は明治37年(1904)。藤島武二が欧州留学から帰国したのは1910年。まだ若い。一人挙げると中村彝(なかむらつね)になる。37歳で死ぬまでに存在感のある作品を残している。


中村彝、少女裸像、1914年

中村彝、エロシェンコ氏の像、1920年

麗子像で有名な岸田劉生は、黒田清輝の外光派から入り、後期印象派の影響を受けたあと、写実主義に転じていた。1910年にはまだ19歳。

岸田劉生、切通之写生、1915年

藤島が帰国してから、安井曾太郎や梅原龍三郎、はたまた佐伯祐三、荻須高徳、藤田嗣治らが続々と出てくるのは1920年代から30年代の日本だ。その意味で、日本の大正時代は、まだ近代日本が若く、日露戦争を乗り越えて訪れた平和の中、何も疑うことなく前を向いて走っていた。そんな時代である。

偉大ではあったが封建的な<明治>からモダンな<大正>への時代の移り変わり。文学では白樺派だ。

経済的にも、昭和11年まで曲がりなりにも続く、近代日本の<第一次高度成長時代>を謳歌した。

明るい時代だった。もうとっくに亡くなりましたが、祖父の青春時代にあたります。

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