2011年8月31日水曜日

予測なき問題指摘は単なるアラ探しである

マスメディアは菅直人氏を首相、野田佳彦氏を新首相と表記しているようだ。それは単なる形式だから何の意味ももたないが、こんな時期になると「党内融和重視は諸刃の剣」であるとか、「薄氷を踏む人事」とか、「主流派にわだかまりを残す」とか、「党内調整は難航が避けられない」等々、政治記者やら、専門家の面々が意見を開陳する。

このように四方八方、タテ・ヨコ・ナナメの視点から、様々な分析を加え、残されている問題点を指摘するのは、それ自体良い事には違いない。しかし、これから始まる事柄について問題を指摘するからには、「◯◯を実行しなければ、高い確率で◯◯になる。そのリスクを避けるには、△△という方策が有効である」という意見になるはずだ。有効な方策を提案できないなら、せめて「このまま放置すると、◯◯のようになるリスクがある」という予測が欠かせないと思うのだ。このくらいの眼力は、(少なくとも)文章でカネをとる商売をして世を過ごしているのであれば、必要不可欠の職業的義務ではあるまいかと思うのだな。

「党内調整は難航が避けられない」というのは、予測に見えるが、これだけでは何の条件も付記されておらず、文意は「必ず党内調整は難航するから、そのまま見てごろうじろ」となる。しかし、記事にはいつ頃までに党内が紛糾するのか明記されていない。だから、今後将来何かの新しい原因で紛糾したとしても、今日時点で「絶対に紛糾します」という見方が正しかったのか、誤りだったのか、検証することは不可能である。

おそらく、新首相が打っている手に落ち度があり、それが原因になって、ありうべき紛争が予測されるとしても、その紛争がいつ頃までに起きて、どの程度まで激化するか。そんな自然科学的予測を政治分野において行うのは不可能だろう。社会科学の精度はそこまで高くはない。というか、一定の予測が確実なものとして全員に共有されるのであれば、それは新しい段階なのであり、予測通りの成り行きによって損失を被る集団が戦略を変更する誘因になる。そして状況が変化する。つまり予測精度の向上それ自体が、予測の的中を突き崩す方向で働いてしまうのだ。それ故に、意志をもった多数の人間集団を対象に、社会科学的な予測をする場合、そこには一定の限界がある。

多種多様な動機で行動する政治家集団の成り行きなど、分かるはずがないのである。分かるとすれば、日本国と世界が置かれている時代と状況を観察して、現在の課題のありかを憶測することだけだろう。時代の進む方向に沿った選択をする政治家は、結果として、受け入れられるはずではないか?政治家が失敗するのは、時代の進展と逆行する場合であり、政治家個人の人柄とか信念は社会の中では何の意味もないからである。少なくともマスメディアという場で、多数の読者に読んでもらう文章を書くのであれば、第一の目的は、何の予測をするわけでもなく、ただ「◯◯であるのが懸念される」とか、「△△となる可能性がある」と書きっぱなしにするのではなく、解決するべきアジェンダを分かりやすく整理し、政治家と国民の問題意識共有に貢献することではあるまいか?

それでも将来の成否は分からないはずである。現時点の特定の政治家の行動など、その人の意志や信念によるし、大体一寸先は闇なのである。分からないことは分からない、と書くべきだ。と同時に、(現時点までの知識とデータから)政治家が果たすべき責任として、これこれの課題がある、と。小生は、そんな風な記事を期待して、購読料を払っているのですね。課題を解決するのに失敗をした、力量が足らない。政権を降りるとすれば、それが理由になるはずで、<マニフェスト>など大震災勃発前の約束ではないか。武士の一言ではあるまいし、家が倒壊すれば、家を建て直すのが先決で、家族旅行の約束は<いずれ必ず果たすから>になるのが当然のロジックである、と小生は考えるのですね。そのロジックの下で、現時点のアジェンダを共有するためのツールとして、日本のマスメディアは是非貢献してもらいたい。

首相が入れ替わるたびに毎度の報道ぶりなので、本日はこんな思いを書き留めておくことになった。

2011年8月30日火曜日

政治家はそれほど増税を言い出しにくいのか?

野田佳彦氏が新首相に就くことになった。今日、明日の話題は幹事長や財務相、経産相、外相、官房長官などの要職に誰がつくかであろう。

今回の民主党代表選挙で目についたのは、増税の方向を明確に打ち出したのは野田氏ただ一人であり、他の候補は増税時期尚早、そもそも反対など、色々な理屈はあるにせよ、増税反対論を唱えていたことだ。

周知 ― ではないかもしれない。本当は周知であってほしいのだが ― かもしれないが、IMFは日本の増税が避けて通れない道であると、かねてから指摘している。昨年5月の時点で
Asked what tax rate would be necessary for fiscal reconstruction, James Gordon, senior adviser at the IMF's Asia and Pacific Department, replied that a rate of around 15 percent will give Japan an opportunity for success.(出所: The ASAHI SHIMBUN、2010年5月21日)
のように15%程度まで消費税率を引き上げるべきだと助言している。本年6月には、しっかりした調査レポート"Raising the Consumption Tax in Japan: Why, When, How?"を公開している。

ところが日本国内の政治家は、増税というと極めて慎重であり、待ったをかけるのが常である。このこと自体は、何も不思議ではなく、普通選挙によって国民から選ばれる政治家が、選ばれた後は臆面もなく増税路線を突っ走る、そんなことがあったら国民は大迷惑を被る。しかし、公的年金の収支バランスが維持不可能であることが誰の目にも明らかとなり、加えて今年3月の東日本大震災である。日本政府が破綻しても、日本国民の生活はこれまで通り続けられると思っているような国民は、極く少数のはずである。政府が破綻すれば、ギリシアのように公務員給与の引き下げが行われるばかりではなく、年金引き下げ、医療負担引き上げ、各種補助金カット、各種増税の実施が相次ぐことが必至である。大部分の国民の生活水準は確実に大幅に切り下がる。日本では国債が国内で消化されているから、償還される国債の裏側で、現金を受け取る国民もいる。しかし、デフォールト一歩手前の日本の国債に引き続き投資する人は誰もいないだろう。資金は100%国外に流出するのである。

こんな恐怖のシナリオが近づきつつある中で政治家は何故増税に拒否反応を示し続けるのだろうか?正直、こればかりは小生にも分からない。実際にマスメディアによる世論調査をみると、国民は増税もやむなしと考えているようだ。

朝日新聞社(2011年8月25、26日実施)
復興増税: 賛成51  反対37
復興増税: 賛成41  反対56
復興増税: 賛成53 反対38

同じ新聞社が近接した時点において、ほぼ同じ質問をしても、回答がかなり大きく違うことがあるようだ。回答者は1000人前後だから、サンプリングによる誤差の大きさは1.6%前後。最大誤差の目安は標準誤差の2倍、つまり3%程度までを見込んでおけば十分だ。ある時には、賛成が40%、別の時は50%という結果を示すのは、その時点、その時点で、世論自体が定まっていないことの証拠である。更に、ほぼ同一時点であるはずなのに、別の会社が調査することで大きく異なる結果が示されることもあるようだ。8月下旬に実施されている上の二つの結果はそれが言える。ま、いわゆる<世論調査>は、その時々に国民が政府に対して抱いている気持ちや、各社が回答者にどのような言葉で質問をしているかなど、細かな点に影響されてしまうものなのだ、その程度のデータとしてみておくのが適当である。

留保条件はあるにせよ、日頃の報道ぶりを思い出しても、半分程度の国民は今後の財政需要を賄うのに一定の増税を仕方がないと考えている。いまはそう見ても良いのではないか?少なくとも、支出を収入に合わせる(=小さい政府)、赤字を放置してもよい(=国債リスケ・交付公債など新管理政策)を国民が支持しているとは思いにくいのだ。

しかし、しかし・・・政治家は増税は不可だという。一体、いかなる理由で待ったをかけるのだろうか?それが、小生、とても面白く感じるのだ。

だってそうでしょう。ランダムサンプルで約半分が増税もよしと回答するのであれば、政治家の地元選挙区でも約半分の有権者は増税もやむなしと(本当は)考えている。そう思うのが素直な見方であろう。仮に、自分が増税を支持するポジションをとって、ライバルが増税に反対する意見を述べるなら、アメリカの茶会と一緒で歳出をカットしようと企む福祉カッターとして攻撃すればよい。福祉はカットしないというなら公共事業をカットする市場原理主義者として攻撃すればよい。それもしないというなら、ムダ削減と公務員給与カットだけで財政赤字を解決できると主張する無責任政治家として批判すればよいのである。世界トップの財政不健全度という錦の御旗があるのだから、増税反対によってこれだけ自分自身が攻撃されやすくなる選挙はないはずである。データは明瞭。半数の有権者は、まあまあリーズナブルな増税容認論に傾いているのである。

増税に言及してこそ、憂国の士。増税は不可と言えば、難しい説明責任を負うことになるのが、現在の政治経済的状況ではありませぬか?そんな状況で、なぜに日本の政治家は敢えて困難な<増税不可>を貫こうとするのか?現実に、増税路線をとる野田氏が勝利したにもかかわらず。

民主党が増税を提案した時、本当に自民党は増税反対を貫けるのか?貫けないでしょう。そんな反対の論陣を張ったら、自民党は従来のエネルギー戦略の誤りと一緒に、無責任な財政赤字放置論者として米紙、欧州紙から猛烈な批判を浴びること必定ではないか。

だから、小生にとっての政治家七不思議は、現在の国民的意識の下で、何故に日本の政治家は増税反対論に群れ集うのか?その誘因と真の目的を知りたいのである。イギリスのキャメロン首相が暴動が続発してもなお財政健全化路線を邁進する姿を見るにつけ、国民と政治家は正にオーナーと監督の関係。要するに「勝ってなんぼ」の世界、好機には敵を攻撃する。政治も同じではないかと感じるからである。

日本の政治家、というより民主党は、政治的に勝利する絶好のチャンスをみすみす逃し続けている。これが小生の現在の感想だ。

2011年8月28日日曜日

日曜日の話し(8/28)

用事があり札幌に出かけた。愚息に二本目の万年筆を買い与え、某画材店で買い物をして通りに戻ると、人出が多く、騒然としている。何かと思うと、今日は北海道マラソンの日である。

大通り前のバスターミナルまで歩き、高速バスで帰ろうとしたところ、目当ての便は交通規制のため本日運休とのこと。仕方なく駅の方角へ歩いて戻ることにする。そうしたら、スタートしたマラソンランナー達の走る姿を目にすることができた。これは嬉しい誤算。

嬉しい誤算は、そうなってしまったというだけで、なぜかという説明は不可能だ。まずい誤算も、そう。運と不運は、前もっては分からない。その時、降りてくるものだ。

小生が愛読している一気描きブログの筆者は、「いい作品は、数限りなく描くうちに、予期せぬ時に生まれるもの」、確かそんな趣旨の話しをしていたと記憶している。

ことほどさように、運という要素は<創造>にとって不可欠だ。降りてくるもの、というか<出会い>のイメージにも通じるかも。

自分の好きな音楽、好きな小説、好きな美術作品、好きな人・・・。すべて出会いである。自分の描く作品だって、もう一度描けと言われても描けない、だから出会いだ。


長谷川等伯の松林図。昨年(だったかな?)、国立博物館の平成館で展覧会をやっていた。いま日本経済新聞の連載小説で安倍龍太郎の「等伯」をやっている。等伯といえば、上の松林図だが、これもやっぱり出来てしまったものなのか。同じものは当人だって描けないのか。だとすれば、他の人間には描けない。模写をしても、模写しようと思った分、落ちる(これは小生にもピンとくる)。正確に模写しようと、人間の欲が出るから、落ちるのだな。

ターナー、赤と青‐海の入日、1835年頃

高校時代は図書館でターナーの画集ばかりを見ていた。モネの「日の出」か、ターナーか・・・、偏屈な高校生だったと思いますよ、誠に。

ターナーも「こんなのが出来ちゃったんだけどね」。そんな風だ。しかし、先にイメージがなければ、筆が動かないはずだ。イメージなら凡人の小生にもあることはある。が、描き出すとイメージが消えてしまうのだな。イメージの通りには描けない。ターナークラスになるとイメージ通りに描いているのかなあ、と。

分野は違うがモーツアルトは、トイレの中で楽譜を書き上げていたらしい。これはイメージが湧いてきて、その通りに楽譜に書き写したのだろう。

最近、下塗りばかりやっていて、中々、描けない日が続いているのである。「描けない」というのは、おこがましい限りではあるが・・・。イメージは、というかイメージだけはある。凡人は、自分のイメージでは描けない。目の前に手本があれば模倣できる。普通の人は創造なんてできない所以なのかもしれない。

ポスト産業社会では創造が価値である。価値の本質があらわになる。模倣は価値にならない。とすれば、価値を生み出すには、どんな人間が必要か?どんな教育が必要か?どんなモラルが必要か?今までどおりでいいのか?

どう答えるか、イメージはあるが、文章に描くのは難しい。書きだすとイメージが消えてしまう。絵と同じだ。何ごとによらず凡人です。

2011年8月27日土曜日

リンク集 ― 新興国は先進国に追いつくか?

菅首相が退陣を表明する一方で、次期首相の予想は皆目立たず、それでいて「どうでもいいんじゃないの?」という風な冷めた雰囲気があります。これもまあ、仕方がないとは思うが、少なくとも国としてはあんまり健全ではないなあと、そう感じる人も小生だけではないと思う。

民主党は自民党から引き継いだ色々な路線を総点検すると見ていたのだが、案外、そうでもないようだ。配信元はロイターだから、カテゴリーとしては速報になる。

後退する電力改革、民主党は発送電分離と距離

理屈では有効とわかっている構造改革があって、一方の当事者も原則賛同しているにもかかわらず、その改革が現実には難しいとすれば、それにはたった一つの理由しかない。<既得権益>である。

本ブログでも何度か使っている表現をまた使うと、<社会経済の癌>である。すべての既得権益は、最初は社会の必要性、市場の裏付けがある正当な利益として生まれる。それが恒久的な制度となり、法的に保証される段階で、既得権益への道を歩み始め、その周辺に関連業界が集積することによって、除去はおろか変更することも困難になる。経済的な見地から、その制度が不必要になり、むしろマイナス面が顕著になっても取り除くことはもはや出来ず、その国の資源を吸収し続ける。であるが故に、あらゆる既得権益はその国の経済全体を停滞させる原因となる。小生は、既得権益を<既成事実による社会保障>と呼ぶことが多い。その運営コストは国民全体が負担している。

そうかと思うと、こんな記事もある。

馬渕澄夫首相候補によるリフレ政策提唱(Economics Lovers Live Z)

為政者がどのような政策構想を持っているのか?最も重要な点はこれであると、小生は思うのだが、(現時点における)どの首相候補も政策を語らずして、小沢一郎議員とどう向き合うか、それだけを語っている(と報道されている)。これはマスメディアが作った状況なのか、それとも首相候補の頭の中をそれなりに映し出している鏡であるのか?

アメリカでもトップの発言に注目が集まるのは同じだ。

BERNANKE: WE STILL HAVE TOOLS THAT CAN HELP THE ECONOMY(Pragmatic Capitalism)

これに対して

Keynes/Bernanke(Krugman、Conscience of a Liberal)

バーナンキFRB議長の発言は、その一言一言がすべて米金融当局によるコミットメントである。「経済回復とデフレ防止のためには、他に実行可能な政策はいくつもある」。その中身は具体的には言明しない。標準的に解釈すると、投機ファンドの意思決定に影響を与えているわけであり、ズバリ警告であるとも考えられる。いま使った言葉「・・・と考えられる」、これ即ち、コミットメントですよね。

これに対してクルーグマンの指摘。これも言い得て妙。小生は知らなんだが、アメリカ金融当局も、ホント、本音を見せないというか、狸だねえと思います。日本政府、日銀は、「これは介入せずばなるまい」、「もうやむをえまい」、「それではまいるぞ」等々と前口上が長すぎるものだから、狡猾な投機ファンドは何も実損を被らない。懲らしめられるのは呑気な素人投機家である。源平合戦じゃないのだから、フェイクをかけておいて、いきなりルール違反者を斬らないと駄目だと思われます。ま、日本は司法取引も、囮捜査も駄目であると、禁止しているお国柄だから・・・元の話題に戻ろう。

国債格付け引き下げ、ギリシア危機などのソブリン危機、これらは全て、本質は通貨危機である。不健全貸し出しによる民間金融機関の経営不安が惹き起こしたパニックを、公的資金を用いて解決してきた副作用として、国家財政の信用が不安視されるようになった。無理に返済しようとすれば国債買い支えしかないので、通貨危機となる。こうした事態を根本的に防止するには、というテーマで下の記事が出てきた。

すべてのソブリン債務危機の根源を語ろう(エドマンド・フェルプス、アマル・ビデ)

これを読むと、江戸時代に大名貸しを行い、それが不良債権化して没落していった伝統的金融業者を思い起こす。金融業者は多く没落したが、大名の方も年貢は差し押さえ同様であり、幕末の時期、ほとんどの藩財政は破綻していた。藩が消滅すれば、藩主は債務から解放される。華族にしてくれるというし、大名達は喜んで廃藩置県に応じた。これが実際の状況であったと言われる。そういう意味で、明治維新は江戸時代250年の債権債務関係が棒引きされた、文字通りの革命=出直しであったわけだ。それでも明治時代の日本経済は、約20年の準備期間の後、憲法を定め、法を整備して、産業革命をテイクオフさせ、富国強兵に成功したのである。金融浄化は、シュンペーター流の創造的破壊の一面なのではあるまいか。小生、そんな風に考えることもある。であれば、バーナンキ議長が述べた「(いまは荒れているが)長い時間の後には、平穏な海に戻る」。この言明こそ、透徹した認識ではないか、と。

さて、先進国はリーマン危機後遺症にまだなお苦しむだろう。その傍らで新興国は高度成長路線をひた走っている。経済学では経済成長のコンバージェンス仮説というのがある。遅れて経済成長を開始した国は、先進国へのキャッチアップ過程で高度成長を遂げ、最終的には全ての国が概ね等しい生活水準を達成するという仮説である。最近の状況はコンバージェンス仮説を裏付けているのではないか?

ダニ・ロドリック氏の見解からいくつか引用しておきたい。

The Future of Economic GrowthCan you get rich without democracy?

CAMBRIDGE – Perhaps for the first time in modern history, the future of the global economy lies in the hands of poor countries. The United States and Europe struggle on as wounded giants, casualties of their financial excesses and political paralysis. They seem condemned by their heavy debt burdens to years of stagnation or slow growth, widening inequality, and possible social strife.
Much of the rest of the world, meanwhile, is brimming with energy and hope. Policymakers in China, Brazil, India, and Turkey worry about too much growth, rather than too little. By some measures, China is already the world’s largest economy, and emerging-market and developing countries account for more than half of the world’s output. The consulting firm McKinsey has christened Africa, long synonymous with economic failure, the land of “lions on the move.”
ラテンアメリカ、アフリカもさることながら、民主主義国であるとは認め難い中国の高度成長をどう解釈するか?ロドリック氏も予測は難しいと言っている。ただデータ的には、今日の中国の高度成長はレアケースである。

 上のグラフの縦軸は政治的民主化度を数値化したもの、横軸は一人当たり実質GDP(ドル)である。全体としてプラスの相関があり、民主的国家ほど高い生活水準を実現している。右下の領域には、非民主的でありながら平均以上の一人あたりGDPに到達している国がある。中国も該当するし、シンガポールもある。チュニジアもそうであったが、今春のアラブの春の中で、民主化された。

コンバージェンス仮説に対するロドリック氏の見方は懐疑的なものだ。
Optimists are confident that this time is different. They believe that the reforms of the 1990’s – improved macroeconomic policy, greater openness, and more democracy – have set the developing world on course for sustained growth. A recent report by Citigroup, for example, predicts that growth will be easy for poor countries with young populations.
But igniting and sustaining rapid growth requires something more: production-oriented policies that stimulate ongoing structural change and foster employment in new economic activities. Growth that relies on capital inflows or commodity booms tends to be short-lived. Sustained growth requires devising incentives to encourage private-sector investment in new industries – and doing so with minimal corruption and adequate competence.
非民主的な体制を維持しながら、教育を通じて国民の平均的な知的水準を高め、(私有財産制度を確立したうえで)多くの人材が新しい産業分野に進出し、そこで新しい投資を行って効率的な企業経営を行う、そして政府内の腐敗を極力防止する。そんな芸当が可能なのか?

新興国の高度成長と先進国の低成長は目立つだろうが、富の存在が逆転するとまで予想することは無理ではないか。これがロドリック氏の結論のようだ。

新興国の高度成長の多くの部分は、リーマン危機以前に長期間継続した先進国全体の安定した成長と開放的な経済体制に負っている。今後、新興国が更に成長する中で、先進国の雇用機会は奪われ、社会内部の対立が激しくなるかもしれない。開放的な経済政策が見直されるかもしれない。

事実としては、先進国、新興国双方の経済成長にとって、開放的で安定した経済体制は不可欠の必要条件である。いま不安定化しているとすれば、世界市場を安定化させるには何が必要か?それがあるべきアジェンダだ。上の命題が「新興国にとっては・・・・必要条件である。しかし、先進国にとっては有害である」。こんな認識が先進国の側で台頭するとすれば、1992年のスペイン・バルセロナ五輪から2008年の中国・北京五輪までの16年間が、後々、黄金の16年と言われるだろうことは間違いない。

2011年8月25日木曜日

金投機犯=経済暴走族と考える理由

金価格が反落した。上がったものは下がる、の当然の理屈だ。

日経WEB版から引用すると、次のように報道されている。
高騰を続けていた金価格が急落した。ニューヨーク先物市場では24日、中心限月の12月物が前日比104ドル安の1トロイオンス1757.3ドルで通常の取引を終えた。下落率は5.6%と2008年3月以来、下げ幅としては現物価格で850ドル台の高値からころげ落ちた1980年1月以来、31年ぶりの大きさという。先高観は根強いとはいえ、最近の高騰がいかに過熱していたかが分かる。(出所:日本経済新聞、8月25日14:45配信)
1日の下落率としては31年ぶり。株価、商品市況は、大きな下落率が実際に発生すると、それが与件となって、以後の価格変動も拡大される。一定期間ごとに静穏な時期と値動きが荒い期間が交代し、ボラティリティ・クラスターが形成されることが知られている。金市場においても、今後は荒い値動きが続くだろう。ということは、さらなる暴騰も暴落もありうべし、ということだ。

金価格は1990年代は低価格安定。2000年代に入ると、にわかに上昇を始め、10年間で約4倍の水準にまで高騰したが、その間の上昇軌道は比較的安定していた。その背景には新興国による安定した需要があったのだが、今回の激しい金価格変動をもたらした主因としては、例によって投機マネーの存在が示唆されている。
このところの相場高騰で一番謎だったのは、いったいだれが買いの主役なのかということだ。中長期の上昇トレンドを支えるのはインド、中国といった新興国の買いだが、こうした買い手は高騰相場を追いかけない。今回のような調整局面、いわゆる押し目を拾うのがアジア実需勢の習性だ。相場の底上げはしても、上昇を加速する買い手ではない。

一方、ニューヨーク先物でヘッジファンドなど非商業部門の大口売買動向を見ても、直近発表の8月16日時点まで2週連続で買越残高は減少している。むしろ、ここ3週間は売りポジションが増えており、「目先の相場下落」に賭けていた。これらから推定できる“買いの主役”は宵越しのポジションを持たないような超短期売買の投機マネーだ。
これだけ高くなると、当然、空売りを仕掛けたくなる。当たり前だ。とにかく高いうちに売っちゃおう、と。安くなってから金を調達して返済すればいい、と。映画「エデンの東」でもジェームズ・ディーンがやっていた。「こんな汚いカネが受け取れるか」と、父親から拒否されていましたね・・・映画では暴騰を予想しての行為だったが、同じ投機である。空売りではないが、日本の貴金属取扱い業者にも手持ちの金地金とか、金細工品を売却のために持ち込む人が増えていたというから、もはや急落することは目に見えていたわけである。下がる可能性を意識する人が出てくるだけで、バブルは必然的に崩壊する。

実は、小生も金地金を買うつもりでいた。それは、あくまでおカネ(=マネー)としてである。日本国債の暴落、日銀による買い支えが、物価上昇をひき起こすためだ。いま小生を含めて、誰もが知りたいのは、暴落のあとは暴騰で元に戻るか、さらなる続落となって一挙に金バブルが崩壊するか。その辺であろう。普通に考えれば、一度は既往ピークに戻って二つ山を形成してから、後はジグザグと下落していく。そんなパターンになると思われるのだが、まあ、色々と思惑が入り乱れているはずである。

こうした予測は<チャート分析>であるが、予測の定番であるARIMA分析を行ってもよい。計算はまだやってない。90年代、2000年代、直近まであるデータのどの範囲を対象にして計算するかで結果は随分違うはずだ。


日経に示されていた上のグラフ ― 本年7月以降の日次データ ― を見ると、1750ドル/オンス程度までは当面下がるような気がするが(追加23:20→実際、報道のとおり下がったわけでもある)、8月15日付け投稿で使った月次長期時系列を対象にすれば、今後1年くらいの間に1200ドル/オンス程度まで下落するのではないかとも思われる。但し、2000年代以降の価格上昇が確定的なものと考えてよいなら、傾向としての上昇傾向には変わりがなく、予想は随分楽観的なものになるだろう。正しい予測というものは(理屈からして)ない。

ま、計算は気の向いた時にやるつもりだが、金投機もまた通貨投機と本質は同じである。ここがポイントだと思うのだな。金価格が急上昇するというのは、商品価格が急落するのと同じである。金を基準とした一般的な商品デフレ率が、激しく変動するという状況は、金自体がリスク資産になっているというよりも、つまりは物価の不安定。金以外のその他の商品、金融証券及び各国のマネーが、ハイリスク商品になっているのと同じだと思うのだ。

国債は、本来、無リスクの金融資産のはずだ。ところがギリシア危機、アメリカ国債格下げの後、国債どころか、ある国のおカネを持つことさえ、「ひょっとすると財産を失ってしまうのではないか・・・」という懸念から免れなくなった。その意味で、ドルもユーロも円もリスク資産になってしまっている。だから、金が究極のマネーになっている。というか、おカネの役を果たしている。こういうことではないか?

だとすれば、本当の無リスク金融資産とは<金建て国債>になる理屈だ。金建て国債なら、為替変動リスクもないし、「こんな国債欲しいなあ・・・」、そう思っている人は多いのではないだろうか?金を売らず、金建て国債のほうが欲しいという人はいるはずだ。しかし、これは金を本位貨幣として復位させるということになる。もしそんなことをすれば、激しいデフレーションと世界恐慌になるのは必定。世界の実体経済とパラレルに量的拡大が可能で、かつ節度なき増発からは免れることが担保されているような証券。そんな証券を利用できるなら、それは世界のマネーとなり、経済暴走族が金を買い占めて混乱するなどということはなくなる。それは世界の中央銀行にしかできない仕事であり、既存の機関から候補を探すとすれば、IMFだけであるだろう。

しかし、現実には簡単ではない。ユーロですら苦労しているわけだから。とはいえ、世界経済を安定させるには、世界の物価を安定させなければならない。その物価は世界がマネーと認める基準で測った物価である。それには、世界の本源的貨幣の管理が必要である。安定したマネーサプライの供給が必要だ。金は希少な自然資源であって、供給増加には制約がある。戦間期の金本位制の失敗を待つまでもなく、金にマネーとしての役割を果たさせることは、極めて危険である。その危険が亡霊のように見えてくる。

実態の根拠がない過剰な投機は、理由なく速度制限を超えて走る暴走族と同じである。少数の者が狂騒して荒れた雰囲気のプールになれば、そこで楽しもうと訪れた一般の客は帰るだろう。いま求められているのは、世界経済の暴走族を取締り、市場の安定化を約束することではあるまいか?

2011年8月23日火曜日

働かないことの社会的意義とは?

本日付けの北海道新聞朝刊15面に大変面白い解説記事がある。原題は「働かないアリに意義がある」というもので、筆者は北海道大学の長谷川英祐氏である。氏の専門は進化生物学であり、原題と同じ著書は既に16万部を超えるベストセラーになっているのでご存じの方も多いだろう。

本文をまるごと引用しても良いのだが、ここでは要点をかいつまんで記しておきたい。

働きアリは、毎日、総動員でそれぞれの仕事に没頭しているように見えるが、実はアリの巣で暮らしている働きアリの7割は、仕事をしないで休んでいる。
巣の中を見ると、ある瞬間では働きアリの7割ぐらいはボーッと何もしていません。餌を集めたり、卵を育てるなど、コロニー(集団)のためになる労働はせず、じっとしていたり、自分の体をなめている。さらに観察すると、ずっと働かない個体も2割ぐらいいることが分かりました。
説明の仕方が非常に興味をそそられるのだな。

なぜこんなことが集団内部で許されているのか?何もしない彼らのために餌を集めるなどバカバカしいではないかとも思われる。
よく働く個体が働けなくなったり、みんなで働かなければならない非常事態に備え、常に余剰労働力を確保しておくシステムを採用しているのです。・・・(投稿者補足:想定外の事態では)誰かが助けに入らなければコロニー全体が滅んでしまう。コロニーを長期的に存続させるために必要なのです。
余剰生産能力を保有しておくことの意義は、ビジネススクールでも徹底的に教えられるテーマである。需要が100しかない時に、なぜ150もの生産能力をもっているのか?プラス50の設備に投入したカネは何も収益を生んでいないではないか?これは無駄ではないのか?そんなことはないのであって、この余剰生産能力は<戦略的余剰能力>である。潜在的ライバルが、自社のテリトリーに参入してきて、攻撃的な顧客奪取を仕掛けてくる時に、いつでも対抗して増産競争、安値競争を展開できるような能力を持っておく、これがひいてはライバルの攻撃を抑止する有効な戦略となる。このロジックは、使いもしない強力な軍隊を整備しておくのと、全く同じである。そういう理屈なのですね。

― 働かないアリだけの集団をつくると働くものが現れ、逆によく働くアリばかりを集めても働かないものが現れると書いていますね? 
働くものだけを取り出してつくっても個性のばらつきは存在します。きれい好きな人を集めても、結局、その中で最もきれい好きな人が掃除をしてしまう。人間の組織も同じで優秀な人だけを集めても、必ず落ちこぼれは出るのです。 
― 餌のルートを間違えるようなオッチョコチョイのアリが集団に交ざると、時には作業効率が上がることも例示していますね。 
生き物の世界では、環境はいつも一定ではないのです。ルーティンワーク(=日常の決まった仕事)のような一定の目的に特化した個体だけではうまくいきません。余力や多様性を確保していなければ、いろいろと変化する状況には対応できない。普段は働かないアリのように、組織も癖はあるけど新しいアイデアを出せるような人材をおくことが必要です。
イノベーションの理論と関係することは言うまでもない。組織の正統派、つまり<オーソドックス>と呼ばれているサブ集団(=党派)からは、予想できないやり方やニュービジネスはまず絶対に出てこない。<カイゼン>はできても<創造的破壊>はできない。これが正統派の限界である。

真のイノベーションは、常に組織の中の異端派から提案される。これが組織の勢力交代を促し、新たな環境の下での組織の存続を可能にしていく。ほぼ同意されているはずのこの認識が、社会という次元でもスムーズに進展する国民国家もあれば、非常に不得意な国もある。そういうことではないか。

<官僚組織>というのは、稀にしか登場しない少数の天才に国家の運営を任せるより、才能は普通だが勤勉で誠実な普通の人を多数投入し、あらかじめ設計した業務分担システムに沿って仕事をさせれば、低コストかつ効率的に必要な行政運営ができるはずである。このような考え方が土台にある。普通の人は容易に得られるので、組織の新陳代謝を行いやすい、これもまた行政の安定性に寄与する一因となる。

ただ、官僚組織は決められた行政を行うために徹底した合理化をどうしても行ってしまうのだな。(普通レベルの中でも)優秀なはずの人材を集めても、結局は怠ける人間が出てくるのは避けようがないわけだ。これらのことから、官僚組織は想定外の大問題を解決するにはそもそも不適切となる。官僚組織の更に上に位置する真の統括者が社会には必要で、官僚がしっかりしているからどんな国難にも対応してくれるはずだ、というのは土台無理なのである。

アリは労働量の不公平が生じても、コロニー全体で遺伝子を次の世代に残せれば、他の個体をうらやましがったり嫉妬したりすることはありません。しかし、人間は感情の生き物です。
アリの社会はどうやら<共産主義>である。それもエリートが管理支配する共産主義ではなく、行動原理がDNAに埋め込まれている先天的共産主義であるから、嫉妬や羨望という社会的害悪は生じないのであろう。

福沢諭吉が「学問のすすめ(13編)」で力説しているように「不善の不善なるは怨望(=嫉妬)の一箇条なり」。人間のあらゆる感情は、良い一面もあれば悪い一面もある、しかし嫉妬がプラスの結果をもたらすことは全く一つもない。すべてマイナスに働く。こう言っている。だとすれば、共産主義ではなく、民主主義を構築して、理性も感情もある人間が集団を円滑に運営していくのは、そもそも困難を極める課題なのかもしれない。

2011年8月22日月曜日

覚書 ― 米国はなぜ日本の二の舞にならないのか?

ウォール・ストリートジャーナル日本版(8月21日12:20配信)に、アメリカ経済が日本化する危険はあるのかないのか、という解説記事が掲載されていた。

本日のタイトルのとおり、それはない、というのが筆者の結論である。その根拠として三つ挙げられている。後で読めなくなるかもしれないので、本文を引用させてもらおう。
野村証券のエコノミスト、ポール・シェアード氏は米国が日本の二の舞を演じることはないと主張、主な相違点を指摘した。
「1990年の資産価格バブル崩壊以降の日本の特徴は、資産圧縮やバランスシート調整といった問題を抱えことや、低成長が長引いたことではない。むしろ、政策の誤りが繰り返された結果、デフレに陥り、そこからずっと抜け出せないでいることが日本の特徴だ。日本が犯した主な政策の誤りは3つある。まず、日本は金融機関が抱える資産の減損問題を認識し、それに対応するのに時間がかかりすぎた。この問題は金融政策を妨害し続けた。 さらに、中央銀行は金融政策において、デフレ払拭のために必要な「何でもする」という姿勢(例えば、十分に積極的な量的緩和を行う)を取ることはなかった。そして財政再建路線への転換が早すぎた」
つまり、シェアード氏の言葉の裏を読むと、90年代日本の失敗の原因は<政策当局の判断ミス>である。具体的には、

  1. 金融機関監督当局が不良債権問題から目をそむけ続けたこと。というより金融機関に騙され続けた。
  2. そのことによって金融政策が手足を縛られたこと。具体的には金融機関の支払金利負担軽減を目的にゼロ金利政策を余りにも長期間継続し、それが日本経済から金利機能を奪いさり、不効率な事業が非常に長期間温存されることになってしまった。
  3. デフレ防止の覚悟が不十分だった。

 こういう分析である(但し、この箇所には本ブログ投稿者の解釈がやや混ざっている)。アメリカは、確かにデフレが発症していないとはいえ、すれすれの状況であり、症状としては今後デフレーションに陥る危険性がないとは断言できない。しかし、アメリカの政策当局はデフレーションの危険性を既に十分認識し、その防止のためにはどんな政策手段をも実行する覚悟をもっている。加えて、民間金融機関も自らが抱える不良債権を温存することの危険性、それが国民経済全体に与える危険性を正確に理解している。政府が、財政再建路線を性急に進めようとする可能性がないとは言えないが、その場合にはその場合で、必要な対策が何かをアメリカは分かっている。それ故に、今後のアメリカ経済が90年代日本の二の舞を演じるとは(現時点では)考えにくいのだ。

確かに客観的かつ冷静な見方である。小生も同感だ。

80年代末のJapanese Bubbleは90年初から株価、6大都市市街地価格指数でみる土地価格が下げに転じ終焉を迎えた。しかし、根拠なき将来見通しからバブルの余熱は残り、無謀な投資プロジェクトは90年以降も実行され続け、GDPなどでみる景気循環は93年10月になって、ようやく底打ちしたのであった。国内卸売物価はバブルが終焉しても直ぐには低下しなかったが、91年後半には前年比がマイナスとなった。95年からは、消費者物価指数やGDPデフレータからも日本経済がデフレーションに陥ったことが明らかになった。この時点までの日本経済の変化に政策当局の判断ミスはそれほど大きくはないと小生は考えている ― 但し、株価や市街地価格指数が下げに転じている中で、資産価格の動きをそれほど重要視せず、インフレ抑制にウェートを置きすぎたのではないかという指摘はあってもよいだろう。

そのデフレーションが一過性、急性で終わることなく、日本の経済構造に深く織り込まれた慢性的なものとなったのは、これはどう見ても政策当局の政策運営ミスとしか言えないのであって、この辺りアメリカは非常によく研究しているなあと感じる次第なのだ。

病根を放置したまま ― 当時の流行語で表現すれば「ゾンビ企業」を生かしたままで ― 何を考えたか、血迷ったか、その時点の大蔵省が唐突に弱者切り捨て路線へ金融行政を大転換し、拓銀をいきなり破綻させ、三洋証券、山一証券を消滅させたのは、ショック療法とはもはや言えず、ズバリ「無責任行政」ではないかと、後世の歴史には記述されるのではないだろうか。その後の長銀国有化、銀行統廃合をここで書いても仕方がないが、官僚集団の行政判断は余りに場当たりで、かつ無計画、というより成り行き任せであったように記憶している。この辺り、既に10数年が経過し、当時政策現場にいた人たちも、ある人は既に故人となり、まだ健在の人も次第に当時の思い、経験について記憶が薄れていくだろう。既に大量の資料、書籍は出ているが、なお一層のこと<失敗の経験>のドキュメントと肉声を後の世のために残してほしいものだ。振り返れば、住専問題紛糾で公的資金投入には懲りたのだろうが、一連の失策は戦前期の1927年金融恐慌の引き金を引いた片岡蔵相失言事件に匹敵するというより、官僚組織では乗り越えることのできない政策課題が顕在化したケースとして、大学院教育でも研究素材にするべきだ、当事者たちの能力不足とか、プロがいなかったとか、そういう問題ではない、小生はそう見ている。

いままた原発事故とエネルギー危機が到来し、日本の産業構造計画とエネルギー戦略の見直しが求められている。熟慮するべき課題ではあるが、熟慮する時間が長きに過ぎれば、日本経済は一層衰退の道をたどるだろう。今回、再び不適切、かつ成り行き任せで無責任な行政判断を行い、それが原因で日本経済が大きく毀損すれば、さすがに明治以来の伝統ある官僚組織も決定的に信頼を失い、政策立案の権限も重要政策の実行権限も全て失うだろうと予想している。万が一、そうなれば、それは近代プロシアから直輸入した官僚国家モデル、その寿命が尽きたということでもありましょう。敗戦の後、象徴天皇制となってなおよくも頑張ってきたものだ、そんな一抹の思いもする。・・・一片の新聞記事から、こんなことまで予想するか!?そう言われるかもしれませんけどね・・・

2011年8月21日日曜日

日曜日の話し(8/21)

好きなBGMを流しながら好きな本を読むのは癒しの時間としては最高だ。絵を見るのにも、旅行をする時にも音楽があったほうがいい。それにしては美術館は、ただ混雑しており、あれは疲れる。

19世紀の最後の20年から20世紀の第一次世界大戦まで、長さであれば一つの同世代の人たちがそれを担ったとも思われるのだが、象徴主義は最も広く世に浸透した思想上の、また芸術上の立場の一つだった。

いま久しぶりに千住真理子の「夢のあとに」(フォーレ)をiPhoneで聴きながら仕事をしているのだが、前の壁面にどんな絵画作品があったらいいだろう、と。そういえば、象徴主義で最高の芸術分野とされたのは、文学でも宗教画でもなく音楽だったなあ、と。

何となしに象徴主義の巨匠モローが連想されたのですね。

Moreau, サロメ、1876年

時間的には、第1回印象派展が普仏戦争敗北後の1874年だから、活動時期としては重なっている。

◯◯主義、△△主義という風な言葉が出てくると、順番に世の中に登場して、それらが何かレベルの高さとか、完成度の順位のような受け取り方をされることが多いが、現実は色々な理念が雑居していた。

様々な思想や芸術は、どれが優れているとか、何がどれに先行しているとか、そんな編年体の発展史には当てはまらず、むしろ林や森の成長にも似て、ある種類の植物が増えたかと思うと、別の場所では別の種類が広がったりして、実は互いに何の関係もない、全く自由で独立した多種併存が世の現実なのだろう。そんな風にも思われるのだ。

モローは、マティスやルオーの先生で、弟子たちを自由に「放牧」していた由。先生というより親方というイメージであったそうだ。水やりの上手な造園師のように若い人達を伸ばしたのだろうねえ・・・そういえば幕末長州で松下村塾を開いた吉田松陰も弟子たちに何かを教えるような先生ではなかったらしい。「君ならどうする?」、「君ならどう考える?」と、繰り返しきいていたそうだ。ま、どんな育て方が優れているか、理論には全く興味がないが、結果として弟子を多く残し、その弟子が孫弟子を多く残していけば、その集団は結果として生き残り、歴史を形作っていく。そうして彼らの主義が世に広まって大集団となる。キリスト教も仏教もそんな風に浸透したのでしょう。

そういえば、子供なんて、いつの間にか育っていくからなあ。小生もダーウィンの思想には洗脳されているようだ。だとすると・・・「中央官庁の官僚が定める学習指導要領なんて、世の中に必要というか、あったほうが良いのだろうか?」。

飛行機のキャンセルで出張がダメになって、どうも調子が悪い。

2011年8月20日土曜日

リンク集 ― 製造業の衰退をどう考える

昨日は東京出張だった。今回は愚息が面会したい先輩がいるというのでついてきた。東京へ行くときは、この10数年、いつも10時30分新千歳発のANA56便を使っている。ところが昨日は、離陸後に東京というか首都圏周辺の天候がにわかに悪化し、雷雨となり、40分間仙台上空で旋回を繰り返すも、燃料切れとなり札幌に引き返した。折しも、お盆で代替機を用意することもできず、そのままキャンセル、払い戻しになった次第。着陸後は、欠航手続きを待つ長蛇の列。2時間ほどを費やして、ようやく欠航証明書を受け取った。こんな感じなもので、いつもは離れて暮らしている20代半ばの愚息と、かなりな量、会話できたわけである。

「法律の職業資格は国が独占しているだろ?だけど、いくら弁護士を増やしても、みんな大都市圏に溜まって、競争が激しくなるだけで、ちっとも地方に開業しない。もし職業資格を北海道が認定したらどうだ?開業は道内に限られるけど、北海道にはそれがプラスだろ?これができるなら、北海道立のロースクールを作って、道が実施する司法試験で資格を得て、道内で弁護士を開業する。まあ、おそらく、日弁連は反対するだろうけどね。だけど、地域社会にはこれが一番望まれていると思わないかい?」

「北海道にはそれが一番いいだろうね。」

「地方分権の話が進んでいるんだけどサ。職業資格認定権限を地方に移せって議論が必ず出ると思うよ。というか、出なけりゃ、おかしい。医者や薬剤師もそうだよね。道内で開業できる医師資格を道が経営する専門学校で与えれば、正規の医師をサポートすることだってできるはずだよ。大体、地域、地域で風邪をなおしたり、インフルエンザの診断をするのは、それほど高等な医療技術じゃない。ほとんどの治療はルーティン・ワークだよ。それをするのに、何百万円の授業料を払って私立の医大に行ったり、勉強ばっかりして国立や公立の医学部に行く必要はないと思うんだが、お前はどう考える?」

「検事とか裁判官はどうなるかなあ?」

「警察が自治体警察になったのは戦後なんだけど、これ形だけなんだ。おかしいと思わないかい?検事も中央から来て、単一の官庁が一律に起訴権限を独占しているなんて、おかしいって思うだろ?裁判だって地方社会で習慣、価値観が違っていても、おかしくはないだろ?」

仕事柄、勉強分野柄、上のような会話をしたのだが、こんな風に文章にメモってみると、何だか国家顛覆を謀議しているようではある・・・

× × ×

急速な円高もあって、毎日の新聞では「加速する海外移転」という見出しが絶えることはない有様だ。移転するってことは、何か財産を失ってしまうというつもりで書いているのだろうか?別に、「涙をのんで、断腸の思いで、当社も海外移転もやむなしとの結論に至ったわけでございます」。こんな演説をする代表取締役がいるわけはありませんよ。誰から命令されているわけでもありませんからね。移転するのは、海外に置くだけの生産資源を既に保有しているからである。それは財産保全のためである。なぜこう考えないのであろうか?やはり「コップの水は半分しかない」と考えるか、「半分も水がある」と考えるか、例のポジティブ・シンキング対ネガティブ・シンキングの議論がここでも該当するのだろうかと思う此の頃の報道ぶりである。

野口悠紀雄氏の論説。


震災後に加速している製造業の海外移転(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)
製造業の海外移転で300万人の雇用減(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

企業の海外移転は国内の従業員にはマイナス、海外の従業員にはプラスである。300万人の就業機会が日本で失われるなら、ほぼ300万人程度の就業機会が海外に生まれるだろう。と同時に、日本企業は競争上より有利になり、海外企業は日本企業に対して競争優位をその分だけ失うであろう。

もし300万人の新しい就業機会を日本国内で作れるなら、作れる以上は出ていく職場よりベターであるに決まっている理屈だ。問題はそんな機会があるかだ。

日本から移転する企業は当該国の資源を吸収するわけで、当該国でその産業分野の競争は激しくなる。価格も下がる。ということは、他の商品は当該国で割高になる。故に、日本は日本に残る(海外移転が必要でない)産業分野に資源を集中すればよい。

その産業分野とは何か?それが<新成長戦略>というわけなのだが、これについては「政府が無能であっても政策を立案する権限を独占しうるのか?」という根源的疑念がある。本来は、職業公務員ではない人材が、選挙で選ばれて政府の職を占め、民間にある人材が法律を定め、制度を作り、官僚はその手足となる。これが本来の民主主義国家のあり方だ。日本では、職業公務員が政策研究までをやっている。「これはおかしいのではないか」という感覚は、過激にすぎるのだろうか?
機能しない政府に政策立案を独占させるな!(田村耕太郎、ダイヤモンド・オンライン)

製造業の海外移転は(国家の観点から別の議論がありうるとしても)国民の利益にはプラスである。普通のエコノミストはこう考えるわけだが、これに異を唱えるというか、疑念を呈する向きもあるのだ。ロドリック氏の以下の見解には説得力がある ― ポスト産業社会は一日にして成らず。一言でいえば、そうなる。

The Manufacturing Imperative(Dani Rodrik, Project Syndicate)
The United States has experienced steady de-industrialization in recent decades, partly due to global competition and partly due to technological changes. Since 1990, manufacturing’s share of employment has fallen by nearly five percentage points. This would not necessarily have been a bad thing if labor productivity (and earnings) were not substantially higher in manufacturing than in the rest of the economy – 75% higher, in fact.
The service industries that have absorbed the labor released from manufacturing are a mixed bag. At the high end, finance, insurance, and business services, taken together, have productivity levels that are similar to manufacturing. These industries have created some new jobs, but not many – and that was before the financial crisis erupted in 2008.
製造業という衰退産業が海外に移転するのであれば、もっと多くの付加価値を生産できるニュービジネスが国内に育つはずである。それらニュービジネスとの国内競争に破れて旧来型の製造業は衰退し、したがって海外に新天地を求め出ていくのである。オーソドックスな経済学は、物事をそう見るのである。しかし、アメリカでも「新しい産業は十分育っては来なかった」、ロドリック氏はそう言っている。出ていく産業は出ていったが、代わりに育つサービス業が十分枝葉を伸ばせていない。そのために大量の負け組が発生した。

As economies develop and become richer, manufacturing – “making things” – inevitably becomes less important. But if this happens more rapidly than workers can acquire advanced skills, the result can be a dangerous imbalance between an economy’s productive structure and its workforce. We can see the consequences all over the world, in the form of economic underperformance, widening inequality, and divisive politics.
人間はすぐには変われない。必要なスキルや知識を自由自在に身に付けるわけには行かない。製造業であふれたからと言って、もっと良いサービス部門でいい仕事がありますよ、という具合には行かないというわけだ。この側面は放置して、成り行きに任せておけば、新しい世代が自らの歩むべき道を見出して、社会状況は自然に落ち着くべき均衡点に落ち着くのか?それは必ずしもわかっているわけではない。

あの市場原理主義に最も近い、規制の緩やかなアメリカにおいてすら、ニュービジネスの成長速度は不十分だと見る向きがあるのだ。まして官僚資本主義と言ってもよいほどのガチガチの規制国家であり、みんな平等を愛し本音では護送船団方式こそ最も慈愛に溢れた政策理念であると信じている、こんな風にすら思われる日本ではどうか。新しい成長産業など、そうそう出ては来れないのではないか?まるで新興産業が伝統ある製造業を追い出すようではないか。今日の日本を築いた大企業の名士を、新興成金が国外に追放するようなことをする、これを放置することが正しいのか?これこそ下克上ではないか?日本では、詰まるところ<是か非か>という正義論に焦点があたり、議論は極めて法学部的議論になってしまうものなのだ。

ロースクールの発想とビジネススクールの発想が常に拮抗しているアメリカとは構造が違うと思うのですね。

エネルギー戦略もそうである。一次エネルギーの最適ミクチャーが変化したとしても、古い均衡点から新しい均衡点に摩擦なく、コストなく、移ることはできない。移るための関連コストとありうべき混乱による非効率も全て計算に入れて、エネルギーの経済性を判断しないといけない。わずかな経済性の違いを、七転八倒して追い求めるなど無意味であろう。

Who Will Win the Clean-Energy Revolution?Phyllis Cuttino and Michael Liebreich, Project Syndicate)

LONDON – After less than a year and a half in which so much energy news seemed troubling – nuclear meltdowns, oil spills, rising gas prices – it might be startling to find out that worldwide installed capacity of renewable energy has now surpassed that of nuclear power. In fact, global investment in clean energy, driven by enlightened, forward-looking national policies, grew to a record $243 billion in 2010, up 30% from the previous year.
既に、世界全体では再生可能エネルギー施設が原発施設を容量では凌駕している(無論、在来型の水力発電なども入れてのことであろう)。本日の日経朝刊には、三井化学、東芝、三井物産が愛知県に5万キロワット級のメガソーラーを建設する計画とのことだ。他方、三菱重工は沸騰水型原子炉を多く利用している西日本を中心に、原発安全投資が出てくることを見込んでおり、経営資源をその分野に重点投入していくそうである。おそらく加圧水型原子炉を得意とする日立、東芝もそうするだろう。

日本のエネルギー戦略も、政府が決められるかといえば、能力に余り、結局はビジネスの進展の中で自然解決されていく。それが(現在のところ)ありうべき将来かもしれない。

だとすると、政策の立案をなぜ政府だけが行えるの?現実にはそうでないでしょ。だったら議論を透明化したら、と。どこが本当は決めるのですか?この問い掛けが益々重要になってくると思われるのだ。

2011年8月18日木曜日

覚書 ― ビル・エモット氏のニッポン再興論

昨日の日経経済教室「ニッポン再興の時(上)」にイギリスの経済誌The Economistの元編集長であるビル・エモット氏が寄稿している。どんなことを書いているのだろうと、思わず読んでしまう。

要点は最後に近い以下の下りであろう。
日本は何をめざすべきだろうか。遠くから日本をみている外国人として、筆者は知識、ライフスタイル、サービスの面で大国をめざすのが日本にとって実現可能な正しい方向であると考える。別の言葉でいうなら、日本の真の長期資産を本当に生かせるような事業、産業、職業に集中することだ。この真の長期資産とは、日本の人々であり、その知力であり、助け合いや触れ合いである。 
過去半世紀、日本は主に製造業に力を入れてきた。かつては適切だったが、いまとなっては現代にふさわしいとはいえないし、筆者のみるところ真に日本的でもない。
日本の製造業を国内で経営しようとしても、もはや限界に来ている、何年も言われ続けていることであるが、大震災後の原発事故と電力不足で堰を切ったように海外移転が増えてきている。その中での上の指摘である。なぜ製造業は<現代的>ではなく、かつ<日本的>でもないと言うのだろうか?
現代的といえないのは、今日の富裕な先進国ではモノよりもサービス(法務、娯楽、レジャー、マーケティング、芸術、教育、医療、観光など)の取引の方が圧倒的に多いからである。経済活動の7割以上はサービスで占められているにもかかわらず、日本ではこうしたサービスが非常に遅れているうえ非効率だ。
日本的と思えないのは、日本文化の本質は助け合いや共同体づくりや問題への協調的な取り組みにあると考えるからだ。これらは工場で生み出されるものではない。人々の協力を促し強化するような知識やサービスこそが、威力を発揮する。日本は日本的であることをめざし、知識、ライフスタイル、サービス大国をめざすべきである。そのためには自信と共同体の連帯感を取り戻す必要がある。きっと日本にはできるはずだ。
サッカーと同じですね。日本人が日本のサッカーに徹することでライバルに対する優位性を獲得する。実にオーソドックスである。技術導入で勝てる時代ではありません。

だから今は「ポスト産業社会である」と、誰しもが耳にする。「もはや産業社会ではない」というのは、単なるモノを製造しても高い価値を認めてくれないからである。というより、もはやモノ作りは時代の最先端を切る産業分野ではなくなりつつあるからである。「付加価値をつけろ」というのは、コモディティという次元には属さない、自分と他者との違い(=差別化)を求めるということであり、それはオンリーワンの価値であるという意味で<自己表現>である。本当に他国・他人が高く評価するのは、単に<作れる>ということではなく、それを<創造>したということだ。<安く作れる>ことは本当に価値あることではなくなった。そんな認識が根底にある。ルーティン・ワークは重要ではあるが、誰でも訓練次第で出来るが故に、本当にかけがえのない価値ある働きではない。これは、やはりそうなのだ、と小生も思うわけだ。

客に対するそんな自己表現は、<馳走>であり、<一期一会>であり、伝統的な日本文化そのものでないか?言われれば当たっていると思うのですよね。

日本人は製造業ではなく、知識やライフスタイル、(他人への)サービスにおいて、どこよりも高い評価を目指すべきではないのか?筆者のエモット氏はそう言っているわけで、その目線はやはりイギリスから、というより歴史を通して外国が日本を見てきた目線なのではないか。そう感じてしまうのだ。自分の長所や強みは、中々、自分では分からない。もちろん短所や欠点も自分では分からないものだ。他人だから、日本に住んでない外国人だから、よく見えるってことはある。

本日の日経朝刊のコラム記事「新しい日本へ」。本当に戦争にでも負けて再出発している国なのか?タイトルだけをみるとそう見えますよね。IT企業セールスフォース・ドットコム社会長のマーク・ベニオフ氏の談話が載っている。

― (日本人は)ハードウェアの「ものづくり」は得意だが、ソフト・サービスは苦手という固定観念もあるようだ。

そんなことはない。携帯電話向けサービスを展開するグリーやディー・エヌ・エー(DeNA)は世界的にも有力なIT企業だ。楽天などインターネット企業も育っている。まつもとゆきひろ氏が開発したプログラミング言語の『ルビー』は世界に普及したではないか。
現実と先入観(もしくは偏見)に乖離があるということだろう。

先入観といえば、日経ビジネスの本年3月21日号に「日本人の競争力」が特集されていた。その中に「データで見る日本人 ― 内向き論のウソ」があった。学力や所得格差などにおいて傾向的に上位に来る小国を除き人口4千万人以上の大国だけで比較をすると、評価項目31項目のうち7項目で日本はトップとなり、2位ないし3位であるのが6項目ある。内向きであるとの批判が、特に若年層に向けて口にされることが多いが、確かにアメリカへの留学生の絶対数をみれば97年比で4割も減っている。しかし、18歳から29歳までの留学適齢期人口に占める比率で見ると、ずっと上昇傾向にある。留学先も、アメリカ集中型ではなく、北米が47%、アジアが30%、欧州が16%と分散型になってきている。減ったのは社内派遣の留学生であり、個人留学は増えている。

海外で働きたくないと回答する新入社員が49%もいたという調査結果(産業能率大学調べ)が公表されてショックを与えたが、「どんな国・地域でも働きたい」と答える新入社員も27%を占めて過去最高になっている。海外勤務・異動に積極的なのは、20代であり、30代、40代にかけて低くなっている。若年層が内向きというイメージと現実は随分違いがある。

日本勢が新興国との競争で苦戦を強いられることが多いのは、日本人の強みを発揮できない仕組みの下で勝負しているからではないのか?調査データをみても、本日引用した外国人の寸評とほぼ同様の実態が浮かび上がってくるのである。

事実認識が間違っていたら、どんなに頭を使っても勝利の方程式は絶対に見つからない。3月以降の福島原発騒動をみても、住民避難を見ても、共有するべきは正しい情報であり、間違ったデータや、タメにする流言を共有しても無意味である。というより有害である。正しい情報は、社会のニューラル・ネットワークであり、社会全体の生命を維持する公共財である。その意味で、ウソや隠ぺい、虚偽報告は、狭量な仲間意識と派閥主義がなせる社会悪であって、放置すれば日本人の相互信頼に亀裂が入り、連帯感が解体され、集団知が劣化することになる。

日本人は、特に日本のマスメディアは、党派的な情報操作行為に対して、もっと遥かに厳しい厳罰主義で臨むべきであると思うのだが、いかがだろうか?と同時に、政局の権謀術数で流れる噂や蔭口の類まで、コストをかけて提供するべき重要情報であるかのように、無批判に垂れ流す日本のマスメディアには、その経営方針を一度考え直してほしいものであると思うのだ。

2011年8月16日火曜日

韓国の不動産神話崩壊?

毎月曜日の日本経済新聞朝刊には「景気指標」というページがある。主要経済データの表が1ページ全面で掲載される。経済学を勉強するゼミ生には、その景気指標欄は必ず見るように話していたのですね。特に、個別の数字が上がっているか下がっているかだけではなく、毎週テーマが変わる解説記事は必読ですよ、と。最近はビジネスマン学生が主となったので、引き合いに出すのも大分減ってはきたが。

今日は火曜日だが、今朝、例によって「面白い話題はないかなあ・・・」と見ていると景気指標がある。そうか、昨日は終戦記念日だったよなあ、だからだな。解説記事は・・・ン?韓国も不動産神話が崩壊?これは面白いねえ、というわけで本ブログにメモっておこうという気になる。

韓国の実質GDP成長率は2010年が6.2%。2009年は0.3%だったから劇的回復だ。ところが解説によると、ソウル首都圏のマンション価格は低迷を続け、このところ16週連続で下落しているという。

朝鮮日報の論説主幹によれば、日本の生産年齢人口のピークは1995年。日経ダウが下落し始めたのは90年初からである。韓国の生産年齢人口のピークは今から4、5年後に来る。日本のパターンをそのままたどると、資産価格下落傾向に入ってもおかしくない時機である。<危険水域>にいつの間にか入ってきた。そんな危惧が韓国内には漂っている由。

韓国は55歳定年が多い。ところが年金の支給開始が65歳で10年間の無年金期間がある。預金は平均で400万円だが、住宅ローンの残債が平均で600万円あるという。これは非常に危うい家計状況なわけである。これから予想されるのは、リタイア後の生活資金作りのために持家を売却する世帯が増えるのではないか。これは住宅市場にとって相当の下落プレッシャになる。いつ不動産神話が崩壊してもおかしくない状況になってきた。そんな悲観的見通しを韓国のKB金融経営研究所が発表したというのだ。

こんな解説記事を読んで「韓国もこれから生活が苦しくなるみたいだねえ・・・預金をはたいてもローンを返しきれないとなるとなあ」とつぶやくと、小生のカミさん曰く「一緒に住んでる子供たちが親の面倒をみるから、困らないんじゃない?家は代々伝えていけばいいんだから」。

なるほど。その手があったよなあ。預金をはたいて無一文になって、それでも住宅ローンの残債が残ったとしても、子供たちが家を相続するつもりで、返済すればいいわけか。無年金10年間は、子供たちが恩返しに面倒をみればいいわけか、と。ふ~む、誠に「しろがねも こがねも玉も なにせむに まされる宝 子にしかめやも」であるのだなあ。

ただ、待てよ・・・55歳でリタイアするとして、子供たちは上の息子(娘)が大体、25歳から30歳くらいか。まだまだ若手で、あんまり収入も多くはない。子供はまだ小さく養育費はかからないとしても、両親の生活費を払えるかなあ?そうだ。<無年金特定親族扶養控除>を退職老親に認めてやって、所得控除とか税額控除をしてやればいい。その控除額も年収の増加に伴って抑えていき、ある金額以上の収入を得ている子供世帯には控除はゼロとする。で、65歳になって両親が年金を支給されるようになれば、子供世帯も控除を受けられない。こうすればいいのでないの?

年金という形ではないが、子供の税金をまけてあげて、子供が親にお金をあげるのだから、実は年金と同じである。というか、甲斐性のある子供がいるのなら、ずっと子が親の面倒を見ることにしておいて、はなから老齢年金は減額してもいいのじゃないか?収入の低い子供世帯には、多めの控除を認めておけば、最低限の国庫負担で<福祉国家>が建設できるではありませぬか?「身体髪膚、すべてこれ父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり」。モラルを政治利用していけないはずがない。それでも残る低収入老齢世帯だけは、生活保護制度で救済すればよい。

ここまで徹底的に割り切ることができれば、財政再建は1日にして成る。ま、できればの話である。

× × ×

経済データの方もざっと見た。

消費者物価指数は、2009年度が1.6%の下落。2010年が0.8%の下落。2011年度もずっと前年比マイナスを続けていて、直近の6月はマイナス0.2%。恐慌ではないが、これをデフレと言わずして、何をデフレと言う。先日、CPIは基準改定が行われ、物価下落品目のウェートが上昇した。値下げ品目の動向が旧基準指数より強く出るようになったのだ。パーシェ効果である。

生産は、鉱工業生産指数が2008年度にマイナス12.7%。2009年度は3月に底打ちするも年間ではマイナス8.8%。2010年になって8.9%のプラス。前年の低下を取り戻す。2011年に入ってからも、前年比でプラス水域にあったが、大震災で再び前年比でマイナス15.5%(4月)。ところが、速やかに立ち直って、現在の生産水準は昨年の10月時点とほぼ同じ高さだ。稼働率は、と・・・稼働率も今年6月と昨年10月が大体同じ。製造業の生産現場は、昨年10月頃と同じレベルにまで戻っている。

ポスト・リーマン、大震災前がいまの生産状況だ。

実質GDPも4~6月期の速報が8月15日に公表された。季節調整済み前期比で0.3%減。年率ではマイナス1.3%だ。減ってはいるが、このマイナスは予想ほどではない。日本経済はもはや「大震災直後」ではない。

先行指標はどうか。

まず景気動向指数の先行指数は、前月差で5月からプラスになっている。レベル的には大震災直前の2月とほぼ同じ景気状況にまで戻っている。現場の生産よりも前を走っているようだ。

国際商品市況は、ロイターが昨年末にかけて急上昇したが2011年に入ってから下がっている。日経国際商品指数の方は・・・下がっている。こちらは本年4月がピーク。以後、下げている。国際商品価格の低下は世界景気の停滞、新興国の金融引き締めが大きい。円高・政治・海外景気。これが日本にとっては心配のタネということだが、むしろ怖いのは、先行き不透明感。ボラティリティの拡大の方だろう。

2011年8月15日月曜日

金はマネーか財産か?

大国のソブリンリスク台頭の中で資産保有としての金が注目されている。そもそも金(さらに銀も)は、人類社会において財産保全に最も適した形として、ずっと選ばれ続けてきた。俗に言う<金銀財宝>は人を裏切らないという奴だ。

実際には、90年代を通して金価格は低迷し、金に執着する人たちはその愚かさを嗤われたものであった。


ところが、1オンス当たり450ドル程度であったのが、2000年代に入ってから急上昇を始め、最近は1800ドルを越していこうかという歴史的高水準に達している。実に4倍!金をマネーとしてではなく資産として見れば年率70%以上(17:50修正→15%程度)の高収益率となる。これはドル表示価格だが、円に換算しても2000年時点の対ドルレートは100円を少し上回る高さだった。それが最近は80円を割り込み、これは「円高」だと騒がれている。とはいえ、10年で30%高でしかない。円ベースの収益率はドル・ベースの収益率からマイナス3.5%だけ差し引いておけばよい計算になる。ドルで毎年平均70%以上(17:50修正→15%)も上がってくれたわけだから、円でみても文字通り<オンの字>である。それがこの10年の金価格の推移である。

その間、石油価格は下図のように動いてきた。



[世] 原油価格(WTI)の推移(年次:1980~2010年)


90年代を通して概ね1バレル当たり25ドルというところだ。それが90ドル超まで上がって急落。いまは元に戻っている。

そのボラティリティをみても、収益率をみても、何と金に投資する方が石油で投機を行うよりも効率的であった!信じられる?こんなことってある?

かつての金本位制を考えれば、ちょっと考えられないのである。金といえばマネーであった。マネーを持つことでこれ程まで儲かるというのは、デフレであるという理屈だ。もし今が金本位制の世界であるならば、過剰な工業製品にマネーサプライが追いつかず、価格が低落、実質金利が高止まりして長期停滞になっていたであろう。そうならなかったのは、不換紙幣制度、つまりはペーパーマネーのお陰である。特に国際通貨であるドルが金交換を停止し、そればかりではなく米国債をどんどん発行してドルを世界に供給してくれたお陰である。そう考えることもできるわけだ。

それにしても、2000年代に入って以降の金価格の急上昇はすごい。これはどう解釈しておけばいいのか?

日本で株式投資しても2000年時点より直近時点の方が株価は下回っている。概ね2000年時点の1万4千円から2010年の1万200円。大体30%のマイナス。この間の円の対ドル増価率にほぼ見合っている。ドルベースでは実質トントンであったことになる。日本で事業投資するよりも金投資をしたほうがはるかに収益率は高かったことになる。

Made In Japanの製品はずいぶん割安になったが(株価停滞はその反映)、世界の農産物に対する評価はぐんと上がった。たとえば農林水産省の資料「穀物等の国際価格の動向」を見ると、商品によって違いはあるが2000年以降、価格は大体3倍から4倍になっている。

金は、価格が上がると予想されるから保有するという投機的動機で買われている側面もある。しかし、成長する新興国が自国の外貨準備の実質購買力を失うことなく安全確実に保存しようと考える場合、農産物、エネルギー資源とパラレルに価格変動する金は価値保蔵手段として信頼性がある。そんな一面も見逃せない。

いや自国の財産保全に高い関心を持っているのは新興国ばかりではない。イギリスではTelegraph紙が前のブラウン政権による金売却を批判的に報道している。

金を基準として見ると、現在の世界経済では、工業製品についてデフレが進行している。しかし、農産物など一次産品については必ずしもデフレが進行しているわけではない。世界市場で全商品を対象にして考えると、比較的物価は安定している、ないし僅かなデフレ状況なのではあるまいか。

貨幣は国の数ほどある。しかも不換紙幣であるとすれば、貨幣表示の価格だけをみてインフレであるとか、デフレであるとかを議論しても意味がなく、特に特定国の通貨で議論することは全く無意味となる。経済は、80円で仕入れて100円で売るという具合に、相対価格によって状況が決まる。

そう考えると、国の数ほど通貨があって毎日レートが変動する現在の世界経済は、それ自体が極めてスパゲッティ的な状態と言ってよい。マネーだけを見ていると、分かりにくいこと夥しい。「分かりにくい」というのが小生だけであれば全く世の中に害はないが、企業経営者が「今の世の中は利益が出るのか出ないのか、全く読めん・・・」と、そんな風な心理が蔓延するとすれば、それは<個別国家>が世界経済の発展を阻害している主因であると責められても仕方がないところだろう。

2011年8月14日日曜日

日曜日の話し(8/14)

小生が、仕事にあきた時、 ― 簡単にいえば、怠けているわけなのだが ― ページをめくる一冊が中川一政の「いのち弾ける!」である。

中川は、大正初めに岸田劉生に認められたのがきっかけと言われているが、基本的に独学で大成した人であると聞いている。

ゴッホが、ヒマワリの画家と呼ばれているのに対して、中川は薔薇の画家である。というより、中川は陶芸にも書にも秀でた万能の芸術家である。日本には珍しい存在だと思うのだ。陶芸もやり、書もやると聞けば、かの北大路魯山人を思い起こすが、中川は料理の道にまで足を踏み入れることはなかったと思う。

薔薇、1973年

私は薔薇をかく。向日葵をかく。
しかし、私は薔薇をかいているのではなく、向日葵をかいているのでもない。
・・・「いのち弾ける!」、56ページ

画の勝負は美しいとか醜いとかいうものではない。生きているか、死んでいるかが問題だ。
美しいように見えて、死んでいるのがある。みにくいように見えて、生きているのがある。
・・・「いのち弾ける!」、58ページ

長崎風景、1960年

素人の道を、ゴッホ、セザンヌが開拓した。
先ず、身辺からはじめよ。目が進めば手が進むのだ。手が進むから目が進むのではない。
学校は技術を教える。教えられることには限度がある。大切なことは教えられない。
・・・「いのち弾ける!」、101ページ

われはでくなり、1981年

学校で何かを教えるには、まず体系的なカリキュラムを定める。単位を定める。配当年次を定める。卒業所要単位を定め、担当教授陣を整えて、授業料を定める。客観的な技術を教えるつもりでいながら、学校では既に特定の物差しをあてはめた結果が教えられている。特定の主義・思想が織り込まれている。というより、教師が授業で<話し>をしている。それをどう受け取るか?受け取るべきように受け取る人は学校では良い成績をとる。想定外の受け取り方をする人は成績が悪くなる。学校という組織である以上、これは仕方のないことだ。

それでも学校というシステムにはプラスの価値があると考えられてきた。

佐伯祐三がパリでブラマンクに初めて会ったとき、持って行った作品をみて「このアカデミズムが!」と怒鳴られたという。このアカデミズムが・・・こんな言葉が使える人が、いま日本にどのくらいいるだろうか?

所得格差が学歴格差を招き、学歴格差が社会階層の固定化を招くといわれる。そんな問題を考えているときに、中川一政を思い出すたび、小生は胸がすっとするのだ。

そんなものじゃないでしょ、と。
中川一政美術館は真鶴にある。

2011年8月13日土曜日

リンク集 ― 脱原発の風潮をめぐって

いまの時節、世はお盆にかけて夏休み一色になるのであるが、小生は商売柄もあって一年で一番忙しくなる。試験を採点して、成績をつけないといけない。北海道の大学は、夏季集中講義などもあって、学生はお盆もなく勉強させられます。昨日12日も、小生は追試験を一本実施した。最近は自己評価シート記入作業もある。これまた面倒。加えて、いま書いている本の初校ゲラが届いて、盆明けには戻してほしいと電話あり。勘弁してくれよと泣きを入れたいほど、せっぱつまっている。

そんなわけで本日は、最近の脱原発をめぐって、メモっておいた資料を簡単に並べておいた。

広島市長、首相発言「脱原発」を批判(中国新聞8月10日付け)

確かに、正式に閣議決定され国会でも決議された政府方針であるのであれば許されもしようが、世界が注視する広島原爆記念日の式典において首相が話す公式の演説としては極めて不適切。顰蹙をかうのは無理もない。

脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている(田原総一郎、Nikkei BP Net)

東京電力、経済産業省、経団連を、最近<TKK>と呼んでいることは初めて耳にした。小生自身は<財界本流>という言葉を愛用しているし、上の三者を指す時は単に戦後日本エスタブリッシュメント層と言っている。

でもまあ、「とにかく、あいつら駄目だよな」という思考は世に広まりやすい。既得権益の形成と固定化、拡大が社会の癌だとすれば、分かりやすい一過性の激論は発熱のようなものだ。抑える一方ではいけないが、放置すると社会が損壊を被るだろう。

それにしても「60年安保」とは懐かしいですなあ。幕末ならば「攘夷」が時の流行思想であったろう。戦時中なら「鬼畜米英」かなあ。亡くなった両親がよく想い出話しに口にしていました。あれは、政府が一番熱心に指導していたようです。普通の人は、リプトン紅茶はもう買えないわねえとか、クラシック音楽はダメなのかなあとか、お上のいうことだから・・・位の態度であった由。ま、何にしても、頭に血がのぼっては家族ですら相談は成り立たないってものだ。大事な話はできぬ。

脱原発を唱えている人にとっては自然エネルギーの拡大が是ということになる。しかし、審議中の再エネ法案に関しては次のような指摘もある。

再生可能エネルギー特別措置法案に望む(飯田哲哉、ダイヤモンド・オンライン)

本日付けの北海道新聞によれば、北海道電力は風力発電による電力買取りをこれ以上増やすつもりはないとのこと。既に買取限度一杯まで買っているからであり、この措置は再エネ法案でも認められている例外規定に基づく。故に、風力発電の潜在的能力は大きいものの、北海道で新規参入事業者が現れる可能性は小さい。

報道によれば脱原発依存を支持する世論は、このところ頭打ちになっているとのこと。とはいえ、化石燃料依存を強めるのは、経済的な脆弱性を高めることになる。

覚えているだろうか?リーマン危機後の底打ちから何とかやってきて既に2年。今年の春先にかけて石油価格が非常に高くなってきた。最近の先進国の景気後退の前には<石油価格上昇>が必ず起こっている。投機だけではない。新興国も含めて景気拡大は石油価格の上昇プレッシャを生みだし、それがバブルとなって、世界経済を混乱させる。こんなパターンを既に何度も繰り返しているのである。

A Weakening Economy (econbrowser)

石油依存はもう限界である。

そこでシェールガス革命が進む液化天然ガス(LNG)が、自然エネルギー効率化までをつなぐ有望なエネルギー源として注目されるようになった。しかし、中東一極集中よりはましかもしれないが、国際的な価格支配力はどうなっているだろう?

玄葉国家戦略相は分散立地型の小型新鋭原子炉を有力な選択肢として考え始めた様子だ。Wall Street Journalが先に報道していたが、日本の新聞でもとりあげられていた。
TOKYO—The Japanese government's minister in charge of national strategy said a new generation of smaller nuclear reactors might be the answer for a country traumatized by the March Fukushima Daiichi crisis, at a time when much of the nation is looking toward a nuclear-free future.
<< WSJ, 2011 August 12
日立、東芝などの原子力メーカーは、輸出を想定して小型原子炉を開発してきたらしいが、今後は日本での販売も想定しながら新製品を開発していくとのことだ。それでも製品化されるには、10年程度は必要で、やはり当面の脱原発依存は中々難しい。福島県は<脱原発>を県の復興計画で宣言するようだし、廃炉になる第一はもちろん、第二も再稼働は不可能だろう。となると、新潟県も福島に右へ倣えするのではあるまいか?それを霞が関が抑えるのは、もう無理ではないか?というより、中央官庁が東京を捨てて、全国分散設置を目指すかも知れません・・・

そんな中で、製造業の海外移転は加速する見通しだ。

トヨタ、HV基幹部品の生産を海外へ

量的な制約もあるが、電力価格は必ず上がる。これを否定できる人は日本にはいないのではないか?企業経営者もそう思っている。

具体的に、何を一次エネルギーとして活用していくかは、これから審議される「新エネルギー基本計画」いかんによるのだが、ただ一つ、電気料金は上がる。これだけは、ほぼ確実に決まっている。秋口の台風予測ではないが「確率95%で電力料金はアップする」。これだけは言えると思うし、だとすれば日本人のライフスタイルは頼まれずとも自ら変えていくしかないだろう。

2011年8月12日金曜日

円高を解決するのは財務省か日銀か?

今週の週刊エコノミスト(8月9日号)の特集テーマは<強固な円高>である。英国のThe Economistはイギリス国内の暴動がメインである。ま、置かれている立場、起こっている事件、それぞれであって雑誌編集も違っていて当然であります。

日本のエコノミストの方が(当然ながら)面白かったので目を通したが、色々と意見が分かれている。どれもが一面の真理をついていると思われるが、(それほど高度のツールや概念を活用しているわけでもないのに)精読すると理解しにくい記事があるのも事実である。

明晰かつシンプルなメッセージを伝えているのは翁邦雄氏による「中央銀行と為替相場」。それから安達誠司氏による「円高の理由 ― マンデル・フレミング効果」である。ほかにも円高の理由として、熊野英生氏がバラッサ・サミュエルソン効果を引き合いに出し、会田卓司氏が特に日本の民間企業部門の過剰貯蓄体質をとりあげている。

翁レポートは趣旨が明快である。
「為替相場は?」とサマーズが聞く。ローマーは「他のさまざまな価格同様、市場の力で形成され・・・・」と答え始める。「違う!」とサマーズが怒鳴る。「為替相場は財務省の管轄下にあり、米国政府は強いドルを志向している、が答えだ!」。
公聴会等に備えた会話の一部分である由。筆者曰く「日本でも為替相場は財務省の管轄下にある」、この点に間違いはないのである。但し、本ブログにも投稿したように、財務省の裁量のままに為替レートをコントロールすることは、実際は(長期的に)不可能である。

翁氏が言うように
日本企業の競争力を正確に測るには、マスコミが注目するドル・円相場よりも各貿易相手国との為替相場変動をインフレ格差で調整し貿易額などで加重平均した実質実効為替相場を見る方がよい。この指標でみると、現在は既往ピークに比べ、かなりの円安である。しかし、この事実に(日銀)総裁が言及すれば、それ自体が円高容認と受け取られかねない。
その意味で、筆者が指摘するように「日銀総裁の為替相場についての発言には大きな制約がある」。この辺り、日銀出身の超一流エコノミストとして面目躍如たるものがある。日銀の本音を憶測している点も見逃せない。

  1. 金融政策は、為替相場を変動させる多様な要因の中の一つに過ぎない。
  2. 経済へのインパクトという観点からみて、円安はプラス、円高はマイナスという単純な図式はあてはまらない。
  3. 金融政策は経済全体とのバランスの下で決められる。為替相場の変動と1対1の関係で決まるわけではない。 ― 物価と為替相場という二つの変数を制御するには二つの手段が必要。失業率にも関心があるなら更に多くの政策手段が必要だ(本ブログ投稿者追加)。
  4. とはいえ、急速な円高が企業マインドを委縮させる点は重要。経済の実態として注意を払う必要がある。

金融当局、というよりもマネーと実体経済との関係をどう見るかという点で、翁レポートは大変オーソドックスである。

しかし、それと同時に安達氏の提起する事実もまた正統派経済学でよく議論されていることだ。

安達は、現在の円高は、必ずしも米国要因(ドル安)だけで進行しているわけではない、と強調している。

氏が引き合いに出しているのは<アセット・アプローチ>である。そもそも為替相場の理論だが、2カ国の投資収益率に違いがある場合、等しくなるように為替レートが調整される、というのが基本的な理屈だ。たとえば、高金利国(アメリカ)と低金利国(日本)で収益率がバランスするためには円高期待がなければならない。この期待は、先物市場でまず形成されるのだが、先物市場での期待は現物市場によって裏付けられないと持続しない。で、実際に円高傾向をたどるという議論になる。しかし、現実はそうではなく、高金利国の為替相場が強くなりがちなのですね。理論通りに為替相場は中々動いてくれない。

そこで安達氏が指摘するように、中央銀行の政策スタンス、具体的には、マネー拡大に中央銀行がどの程度コミットしているか、それを重要視する観点がある。中央銀行のバランスシートの資産側を見るわけだ。下の図は、阪神大震災当時のマネタリーベース(日銀券+日銀当座預金残高)と円ドルレートの動向。

95年1月に阪神大震災が発生して、まずは復興事業のため補正予算が組まれた。ところが日銀はマネタリーベースを低めにキープしたことが図から読み取れる。標準的なマンデル・フレミング・モデルによれば、国際的な資本移動が自由で、かつ変動相場制を採用している場合、必ず金利の上昇圧力が発生して円高になる。円高が緩和されたのは、日銀のスタンスがマネー拡大に転換してからであることがグラフから明瞭に見てとれる。

下の図は、今回の大震災前後の同様のグラフである。


東日本大震災後に、日銀当座預金が急増しているのは、大量の資金供給のためである。現在は、市場からマネーを回収しつつある段階である。実際、日銀当座預金残高は震災直後に比べれば低目の高さにある。こんな状況で7月25日には第1次補正予算が成立しているから、現在の財政金融政策は<財政拡大・金融引き締め>に当たるというのが、安達氏の見解である。

つまり、阪神大震災が起きてから間もなくの時点と同じようなロジックが働いて円高を招いている、という趣旨だ。もちろん、今回の円高の全てが日本の政策当局の行動によって引き起こされたものであるとは言えないような気がする。アメリカにもドル安の原因があり、欧州にもユーロ安の原因がある。アジア通貨安には各国それぞれの政策的意図が無視できない。

しかし、「為替レートを政策目標に割り当ててない日銀にとっては、大震災直後の大量の資金供給はあくまでも金融システム全体についての健全性を監視するマクロ・プルーデンス政策に則ったものだった。システミック・リスクが後退すれば、その政策的役割は終えた、として資金を吸収するのは妥当かもしれない」、この指摘は非常に説得力があるのですね。痛い所ではあるように思う。少なくとも事後的に(つまり事前の意図はないにしても)、4月以降夏までの日銀の行動が今回の円高進行を促進する方向で寄与したとは、言えるのではないか?

政策当局の行動が、レートの決定には有意な影響を与えないとしても、変動を拡大させているとすれば、このことによって実体経済にマイナスの影響を与えている。この指摘は(指摘として)有効かもしれない。

ちょうど、株価は株式の価格であって、財貨・サービスの価格ではない、だから生産活動には影響を与えない理屈だ。だからといって、根拠のない期待に基づく、根拠のない株価変動を抑制することに意味がないわけじゃない。実態経済から余計なリスクが除かれれば、生産活動にはプラスの効果が期待できる。為替相場はマネーという資産の価格である。資産価格安定に政策当局はどのような考え方でコミットすればよいのか?最後は、この問題に行きつくわけである。

2011年8月10日水曜日

日本の脱原発は世界で好感されているか?

今日のタイトルは必ずしも適切ではないかもしれない。本当に総理自らが唱える自然エネルギー重視路線が、日本のエネルギー戦略として採用されるのか?色々な国が期待をもって、というか虎視眈々と、あるいは嬉々として、更にはまたハラハラとしながら、日本を見ている。そんな所ではないだろうか?

Wall Street Journalの日本版だが、「日本の脱原発 ― 避けられない国民的議論」というコラム記事が掲載されていた。要点は次の下りからも推察されよう。
温室効果ガスの25%削減に原発停止とくれば、どんなに準備万端のプランナーもお手上げだろう。しかし、この2つの発表は、2人の異なる首相によって、明らかに事前準備も通告もなく、即興で行われたようだ。
それだけでも、日本政府に対する内外の信頼を揺るがすには十分だ。実際、今週の報道は、日本のエネルギー政策が経済活動と世界のエネルギー市場に及ぼす影響について、より具体的な説明を米国が日本に求めたことを示していた。
エネルギーは、今後10年、日本経済を論じるうえで焦点となる可能性が高い。政治的迎合でも空想の飛躍でもなく、真剣な国民的議論が必要だ。日本の将来は、いかにこの議論を最後まで貫くかにかかっていると言っても過言ではない。(7月29日18:46配信)
鳩山首相による温室効果ガス25%削減も、菅首相による脱原発宣言も、何か根拠があって提示した政策ではなく、時の総理大臣の「個人的思い」なのでしょ?そう言いたげであって、そんな即興的なコメントは政策方針という名には値せず、「それだけでも日本政府に対する内外の信頼を揺るがすには十分だ」と書いている。ここまで言えるのは、やはり日本版とはいえ外国紙だからである。この一点だけでもウォール・ストリート・ジャーナルが日本版を出してくれているプラスの価値がある。本国版と日本版とではポジションに違いがあるが、端的にいって、この目線は世界どの国をとっても、いま共通ではないかと思うのだ。「一体、日本は何をどのようにしようとしているのか?」、それを外国は聞きたいと希望していると思うし、日本は海外との取引を通して、現在の豊かな暮らしを実現しているのだから、いま考えている行動計画を広く説明する責任がある。この点は、誰もが同感すると思うのですね。

上に引用した箇所の前の部分を読むと、日本を破壊するようなエネルギー戦略を、日本人自らが選択するということが、ありうるのか?そんな懸念が伝わってくる。
 菅首相の行動は、福島原発事故に対する国民の怒りを受けたものだろう。しかし、原発が停止された時、相当量の代替供給を見つけられないとしたら、首相、もしくは次期首相はどう対応するのか。さらに多くの計画をもってしても、日本の蒸し暑い夏を乗り越える家庭の電力需要は満たされないだろう。
その代替シナリオとは、日本が、世界のエネルギー市場で石油・天然ガスの調達を増やすことだ。それは、世界のエネルギー価格を押し上げるだけでなく、輸入原油への依存度を減らしてきた日本の長期的傾向を覆すことになる。企業とエネルギー会社は、エネルギー効率向上の目標にはおかまいなしに、どこであろうと供給確保に素早く動くと思われる。
この結果、日本の消費者にとってエネルギーはさらに高いものとなるだろう。政府はすでに、電力会社による代替エネルギー買い入れ費用を負担するため、消費者負担につながる補助金の上乗せについて検討している。こうしたことで消費財価格は上昇し、予想される原油価格の上昇とともに、一層の内需が必要という時に個人消費を圧迫する。と同時に、それは、急激な円高がすでに輸出企業の痛手となっているなかでの、海外での日本製品の価格上昇を意味する。(出所:上と同じ)
大震災以降、産業界で進展したサプライチェーン再構築は本当に信じられない程のスピードだった。民間部門は、常にライバル企業との競争裏にあって、自らの組織と活動の最適化を求められている。だから、経営の真の目的が<企業の存続と成長>にあると、一度び目的関数を定めてしまえば、どんな条件、どんな変化の中でも、次に下すべき意志決定はロジカルに決まってくるものなのである。東日本大震災と原発事故、そして電力危機という激烈な環境変化に対しても、日本経済の生産システムは、強靭な復元力を失ってはおらず、現場が優秀であることは昔とほとんど同じである。だとすれば、日本国がどんなエネルギー戦略を選択するにしても、日本企業はしっかりと対応する。改めてそう思うのだ。

しかし、・・・ビジネスは、詰まるところ、<何を>、<どこで>、<誰のために>、<どのように>売るか?これだけである。経営戦略はこの四点を考えている。日本企業は、<日本人の求める商品を>、<日本で>、<日本人のために>、<日本の雇用を維持するように>生産する。そんな風に経営されるとは限らない。それは条件による。資本の利益と国民の利益は一致することもあるし、対立することもある。そういうことだろう。

日本が、脱原発路線を化石燃料による代替で進めようが、自然エネルギーの拡大により進めようが、電力価格は上がる ― 税金を企業への補助金に回せば電力価格は低水準に維持できる。しかし、それは家計が極端に高い電力価格を引き受けるのと同じだ。

電力価格上昇は、日本企業には不利、他国のライバルにとっては有利に働く。しかし、東アジアなど周辺国に日本企業が移転をするに伴って、日本国内のエネルギー需要圧力は和らぐ。同時に、東アジアに移転した日本企業は、当該国の低電力コストの恩恵を受ける。周辺国のライバル企業にとって、これはマイナス要因に違いない。しかし、優良な雇用機会が増える当該国政府にとってはプラスであろう。全体としては日本企業の海外移転は、日本企業の株主にはプラスであり、従業員にはマイナス、相手国の雇用者にはプラスであり、ライバル企業にはマイナスに働く。移転した企業とは関係のない一般的日本人にとっては、エネルギー高価格から解放された日本企業が海外から輸出する低価格商品の恩恵を受ける余地が生まれる。電力市場への需要圧力が緩和される。周辺国では参入した日本企業に資源が振り向けられる。日本では流出した部門から新興産業に資源が振り向けられる。経済の重心が移動するわけだ。それが関係国にとってプラスかマイナスか、よく考えないけといけない ― 小生自身は新しいことが好きですが。

電力価格上昇と製造業海外移転の目先の影響だけをとっても、効果が効果を生み、波及が波及を生む。もちろん、日本の高い電力コストを避けて海外に移転する企業があるのであれば、高い電力コストがさほど不利にならない外資系企業が日本に流入する。そうでないと、出るばっかりじゃあ、日本も苦しいはずだ。技術が外に出るなら、日本も外から取らないと。

今月2日に宮城県庁を訪れたシュタンツェル駐日ドイツ大使と話した村井知事は次のように語ったと報道されている。
村井知事は「県の復興計画には自然エネルギーの活用促進を盛り込んだ。風力やバイオマスなどドイツ国内の取り組みを先行事例として参考にさせていただきたい」と話した。
大使はこの日、ドイツ製のバイオマス発電機械を導入している仙台市泉区の産業廃棄物処理業「新興」を視察。東北大の川内キャンパスも訪れ、学生向けに講演した。(出所:河北新報08月03日付け)
 日本が、3.11の大災害をきっかけに進める産業再編成が、周辺国には技術と資本の波となって浸透していくだろう。アメリカもドイツもその波の中にビジネスチャンスを見つけようとしている。その他の国の目線も一様に同じであろう。
 

2011年8月8日月曜日

「デフレの解決」が最優先課題なのか?

我が家では8月6日の広島原爆記念日から16日の京都大文字焼きまでの10日間を「鎮魂週間」と言っている。この間、9日の長崎原爆記念日、12日の御巣鷹山慰霊祭、15日の終戦記念日と、弔いの行事が続き、折しも一年で一番暑くもあり、求められずとも外出はせず、家の中で昔のことを思い出したり、家族で語り合うことも増えるのである。

昔、読んだ本を取り出すこともある。今日は白川一郎「内外価格差とデフレ経済」(通商産業調査会)を読み返してみた。すると、
95年春から始まったデフレ論議は、日本経済の先行きに悲観的な見通しを投げかけ、これまで取られた景気対策に加えて95年11月にはさらに戦後最大の景気対策が実施されることになった。
こんな下りが目に入り、う~ん、確かにそうだった。それで、96年には景気が急速に回復して、橋本内閣は自信を深め、構造改革路線を突っ走ったのだったなあ。97年の消費税率引き上げは景気判断がカギだったなあ。色々なことが思い出されます。阪神大震災は95年の1月17日に起こったのだが、被災面積が限定的でもあったので、むしろ復興特需のプラス面が強調されてもいた。意気消沈という感じではなかった。バブル景気は終焉したが、まさかそれが失われた20年につながるとは夢にも思わず、日本人は「まだまだやれる」と信じ切っていた。本当に、夕映えのような時代でありました。

読んだのは第1章「内外価格差とデフレ経済」で編者の白川氏(当時、立命館大学教授)自らが執筆されたところだ。
少なくとも、筆者の認識によれば、現在の価格下落は財界を問わず一般に共通した認識であった内外価格差是正のために取られた政策の結果生じていると理解するのが素直な見方であろう。
氏は経済企画庁出身の官庁エコノミストであるが、このような見方は官庁で仕事をされた人たちにとっては相当共通の目線であったようである。たとえば、2003年に出版された「日本はデフレではない―インフレ目標論批判―」(小菅伸彦)でも、概ね同様の見方が展開されている。小菅氏も経済企画庁で経済分析を担当したエコノミストである。

内外価格差を簡単に説明すれば、
内外価格差=購買力平価÷為替レート
という式で求められる。つまり、昨今のように為替レートが円高に振れた時、たとえば100円から80円にレートが変化したときには、1ドルの商品が100円ではなく80円で流通していることになる。だから、日本国内の価格も100円から80円に値引きしないと割高であることになる。この値引きは、デフレではなくて、<内外価格差の是正>である、そう認識するわけだ。

1985年のプラザ合意をきっかけに猛烈な円高が吹き荒れ、これでは日本経済は持たないということで「前川レポート」がまとめられた。その後、89年から日米構造協議が進められ、日本経済の構造を自由市場型に再編成していこうと、多くの規制緩和が実施されたわけだ。中でも流通産業の規制緩和は有効に作用して、郊外型のディスカウントストアの開店と<価格破壊>が日常的に聞かれるようになった。

読んでいると、誠に懐かしい思いがする・・・・

上の見方はほとんど正しいのだが、「待てよ」という点がないこともない。デフレと称していた日本の物価下落は、割高であった日本の商品価格を世界水準に是正していただけであったのか?悪い所を治していたのだから、良くなってきたはずですよ。これは現実感がある説明だろうか?

この20年間、世界市場で安くなってきたのは、どこでも製造できる工業製品だ。世界で安くなっている物は日本でも安くならないとおかしい。日本では、特別に割高な価格で販売できると考えた製造メーカーのほうがおかしかったのだ。だから流通を自由化して価格破壊が進んだ。これはよい。しかし、割安になった商品があれば、割高になる商品もあるはずだ。高い、安いは比較の問題なのだから。

アメリカでは、金融、教育などの専門的サービスの価格が非常に高くなった。モノには金を払わないが、知識・技術には金を払うという「知価社会」の時代だ。だから価格の合計指標であるGDPデフレーターも、アメリカでは下がっていない。日本では、GDPデフレーターが下がっている。それは、日本では高くなるべき商品の価格が十分高くならなかったためである。それは、高く売れるはずの商品が開発されなかったから?開発できなかったから?学力低下のため?それとも、本来、もっと高く売れるのに政府が価格を規制しているから?事情は様々である。

アメリカのサービス価格が日本のサービス価格より高いなら、アメリカ人は日本人の同じサービスを買うはずだ。日本人がアメリカ市場に出張って行って、そこで営業すれば、繁盛するはずだ。そういう理屈が働いていない。国境という壁は、日本を外国人から守るためだけではなく、日本人の対外進出を抑える働きもしているのです。いずれにしても、結果として、世界市場におけるMade in Japanに対する評価が、全体として下がり続けた。「負け犬商品」があれば、「金のなる木」を育てるのがビジネスの鉄則だ。金のなる木が育ってないから、どこをみても負け犬だらけだ。あけすけに言ってしまうと、こんなことではないだろうか?だとすると、話しはデフレであったとしても、それは単に内外価格差の是正ではすまないだろう。

もし金融立国で繁栄を謳歌していた時のニューヨーク、いや香港でも、シンガポールでもいい。国際的に信認が確立された巨額の円資産と優良顧客を持っている日本の銀行を世界のM&A市場に提供していたら、いま現在の日本はどうなっていたであろう?それは波乱や不安はあっただろう。しかし、日本が、今後半世紀、たどるに値する未来予想図が、今時分は誰の目にも見えていた頃ではないのかな、と。少なくとも純債務国アメリカに資金を預けて、ドル安で大損を何度もしながら、それでも「アメリカ国債は安全です」と忠義を尽くす、それよりは日本に営業拠点を開いてもらって円資産を有利に運用してもらったほうが良いではないか?金融商品開発のノウハウも移転されるではないか?日本から中国に流出している技術があるなら、日本だって取る技術がないと、苦しいではないですか?どうせ外国人に資金運用を委託するのであれば、NYや香港でやってもらうより、東京でやってもらうほうが、多くのプラスがあるだろう。課税だって出来るのだから。そう思うのだが、いかがだろう?


2011年8月7日日曜日

日曜日の話し(8/7)

社会科学では人間を理性的存在と前提して、全ての人が合理的に行動する行き着く果てはどうなるのか?こんな問題を考えるために100年以上の時間を費やしてきた。ごく最近は少し変化が出てきたが。

しかし、人間は同時に情念の存在でもある。それに、理性でとらえられる範囲などたかがしれている。直観も必要だし、育ってきた環境というか個人的経験がその人の判断を左右する度合いも高い。

結局、ここに居て、こうして生きている以上、これありきとして物事を決めていくしかないであろう。特に先の読めない混乱した時代では。

そんな時、人はモラルを求める。倫理を求める。生き様を求める。小生は、画家カンディンスキーが何故か ― 法律、経済、統計を最初に研究してから美術の道を選んだという生き方に親近感を感じるという点もあるのだろうが ― 好きだが、生き方としては、「それで良かったのでしょうかねえ・・・・」と質問をぶつけたい所も多々ある人間だった。いやあ、一度、直接聞いてみたいですよね。あれで、ほんとに、良かったんですか?

カンディンスキーは、晩年になって、第一次大戦前にドイツで青騎士グループを旗揚げしてからの十数年が、一番輝いていた、そんな風に追憶していたそうだ。その時分、彼と同棲し ― 婚約していたと言うべきかもしれないが、彼にはロシアに残してきた前妻がいた ― お互いを支え合った女性が(ドイツでは大変有名な)ガブリエレ・ミュンターであったのだな。カンディンスキーがドイツで始めた画塾ファーランクスに入ってきた弟子でもあった。ま、早い話が生徒に手を出してしまった・・・・そう言ってしまっては身も蓋もないが、誠に純愛であったのでしょう、彼女がカンディンスキーと別れ、背信に直面しながらも、ずっと最後まで守り通したものを見れば。

 Muenter, Wassily Kandinsky, 1906

Kandinsky, Gabriele Muenter, 1905

 Muenter, Kandinsky am Harmonium, 1907

Kandinsky, Murnau, 1909

Muenter, Olympiastreet at Murnau, 1936

画風は微妙に違うが、一目瞭然にして、師弟である。画題に何度も登場するムルナウとは、ミュンターが住まいを構えた村であり ― カンディンスキーはロシア人であったので ― 二人はそこで第一次大戦まで暮らしたのである。

第一次大戦が勃発して、敵国人であるカンディンスキーは、ドイツを避け、ロシアに戻らざるをえなくなった。二人が旧縁に服することはなく、カンディンスキーは、ロシアに戻ったあと、別の女性と結婚した。一番下にある絵は、ずっと後年になってからミュンターが描いた作品である。第2次大戦後の1957年、自身の80歳の誕生日に、ミュンターは保管していた絵をミュンヘン市に寄贈した。寄贈した絵の中にはカンディンスキーの作品80点以上が含まれ、その他にグループ青騎士で活躍した若い画家たちの作品がまとまった形で残されていた。現在、ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館が世界的に著名であるのは、そのためである。

生きるという事業と為すべき仕事を連立方程式としてみると、これは永遠の難問であるなあ。小生はずっと解けずにいるのです。そもそも、この連立方程式には解はあるのかってね。

それにしても、彫刻家ロダンとカミーユ・クローデルといい、画家マネとベルト・モリゾもそうだが、直ちに映画化をしてもおかしくない人生模様が、西洋には数多ある。ところが、日本ではこうした風景があまり見受けられないような気がするのだ。

女流芸術家としては、日本画では上村松園、片岡球子のような人はいる。真摯で真面目であり、大成した人たちである。洋画では三岸好太郎の妻であって三岸節子女史あたりか。しかし三岸好太郎は、余りにも若く30歳で他界しているし、節子は節子であって、彼女のその後の人生にそれほど深い縁を残したとも感じられない。佐伯祐三の妻であった女流画家佐伯米子はどう?佐伯の作品を守り、愛と煩悩を生きたという側面では極めて近いかなあ。しかし米子は祐三の背信を経験したわけではない(と思う)。美術界以外ではどうだろう?三島由紀夫の弟子だった村松英子女史はどう?人生の縁というか、似てるかなあ・・・でも、まあ小生も御本人から直接話しをうかがったわけではないしね。

とまあ、こんな風なのであり、今のところ日本人美術家から感じるのは、(特に洋画においては)勉強というか、仕事としての美術活動であって、創造を通した<生のあり方>が心的エネルギーとなって迫ってくる。そんな感覚を覚えたことは、(小生の専門分野ではないので熟知していないだけなのだろうが)残念ながら、一度もないのである。


2011年8月6日土曜日

リンク集 ― 国際的な債務問題

7月末から8月初めにかけて、世界の話題は借金問題であった。リーマン危機を引き起こしたのも、元々は民間事業者の借金問題。今度は国民経済を救おうと、カネを借りて借金を肩代わりした政府が、その借金で首が回らなくなった。「政府は返せるのか?」。つまりは、同じカネの問題だ。バブルで浮かれ騒いだツケを政府に回して、政府がフラフラになっている。図式はそういうことだ。

やれやれ、政府が借金の肩代わりをするなど、しなければよいのです。

19世紀初め、薩摩藩は想像を絶する財政危機に陥っていた。どの程度、酷かったかというと、負債が約500万両、年間利子は60万両。これに対して、藩の歳入は約15万両。今でいう債務残高の対GDP比で測れば、何と33.3倍。パーセントなら3333%である。

現在の日本国政府は、2011年で213%。世界一である(先進国では)。日本がトップを占めるなど、そうあるものではない。これでも日本経済は冷静沈着に回っている。国債暴落パニックになど陥ったことはない。立派なものではないか。数字自体、幕末期薩摩藩の自暴自棄的というか、どうにでもなれというか、上の数字に比すれば「可愛いねえ」とすら言えるであろう。

薩摩藩の家老調所広郷が採った再建策は高校の授業でもとりあげられる題材だ。ズバリ、一言。<踏み倒し>。いや、踏み倒しと言ってしまうと、あの世の調所さんに叱られる。「返さない」とは言ってない。そうではなく、借金を無利子250年分割払い(つまり2085年まで)にした。壮大なリスケジュールである。新返済スケジュールがまだ有効であれば、今なお元本償還の途中である。いま世界で不安視されている債務問題はソブリンリスク。つまりは、徳川幕府が何を血迷ったか、「薩摩藩は外様の雄藩、金子が足らぬなどという事情で薩摩藩が立ち行かなくなれば、これすなわち幕藩体制の危機。御公儀の危機。ほうっては置けぬ」などと言い出して、幕府がカネを借りて、代わりに払ってやる(債権の一部は放棄させますけどね)。こんなことをすりゃあ、もっと早く幕府は瓦解していた。もちろん、そんな意志は幕府にはなかったし、そんな責任もなかった。幕府は、要するに、徳川家であり、島津家とは違う<私的存在>だ。ところが、現代世界の政府は民主主義社会における<公的存在>。最終的なリスク引受主体として振る舞う。そういう<責任>があるというか、少なくとも期待されている。いざとなれば、国民に対する全面的徴税権を有しているから。ここにソブリンリスクの根本的背景がある。

で、ギリシア危機、アメリカ債務上限引き上げ騒動になったわけである。

第1幕目は国債市場と言う金融問題であったが、第2幕は財政緊縮と増税という財政再建が主題となる。そういうシナリオだ。日本国民もそう思っているのですけどね。日本では演出がグダグダしているようで。

まず、この辺の見方について、日本人の目で見た意見。「牛さん熊さんブログ」から

米債務問題に置ける茶会の影響(牛さん熊さんブログ)


さて、アメリカの債務上限引き上げと財政健全化をめぐる今回の与野党合意については、色々な評価がある。

積極派は
アメリカの将来にとって間違ったやり方(Project Syndicate, Michael Mandelbaum)

オバマ大統領の果たした役割をこのように見る向きもある。
喜劇役者オバマ(Paul Krugman)

日本の白川日銀総裁も劇中のプレーヤーであった。これは読めなくなるかもしれないので、主な部分を引用しておこう。
Last week Bank of Japan governor Masaaki Shirakawa claimed that Europe’s sovereign crisis and the impasse over the debt ceiling could trigger a rise in government bond yields the world over
However, Mr Shirakawa skipped over just how events in Europe and the US – which bond markets view very differently – could lead to soaring yields elsewhere.
The New York Federal Reserve to the rescue. In a note published on Monday on its Liberty Street Economics blog, Vivian Yue and Leslie Shen argue an unexpected rise of 1 per cent in long-term US bond yields can lead to a 0.14 per cent to 0.19 per cent rise in bond yields in Germany, Japan and the UK.
(出所)Financial Times,August 1, 2011
欧米の国債危機が、安全と見られているドイツ、英国、日本の国債市場に波及することは経済の理屈として当然頭に置いておかないといけない。最終的には円でカネを持ちたい日本人が、外国の国債に投資するときには、為替リスクを負担しないといけない。そのリスクがいやなら、最初から先物で円転しておかないといけない。そうすると、利回りは日本国内の低金利とそれほど変わらない。かといって、元やルピーにヘッジなしで投資するのは怖い。しかし、金なら、どう?円はどうなるか分からないし、ほとんどゼロ金利。同じゼロ金利なら、最も安全なのは日銀券じゃなくて、ゴールドでしょう。

金は、新興国も買っている。多分、投機ではなくて、ずっと持つために買っているのだろう。もうドルには戻らないであろう。

先進国の債務問題と新興国の高度成長について(Economists' Forum)

国債が国内で消化されているのなら、何の問題もないのだろうか?外国にカネを借りているなら返す時に資金が海外に流出する。「国民の可処分所得はその分減る」。これは正しいのだろうか?

これは間違いである。所得は、生産水準から決まる。自動車や鉄鋼メーカーの経営者と従業員の目線に立てば容易にわかることだ。借金を返すために、残業を続け、その代わりに「働けど、働けどなお、我が暮らし・・・」という経済状況はある。そもそも借金を返す元手は所得の使い残しであって、<貯蓄>ができなければ借金は返せない。借金返済は、投資と同じである。借金返済で所得が減るのではなく、所得の大部分を債権者に取られてしまうのである。所得は消費と貯蓄に分けられるが、貯蓄を先取りされて、消費が減るのだ。だから生活水準が落ちる。

国債を国内で消化するかしないかは、その取る人が日本人か、外国人かの違いである。カネを取った人が、日本製品を買ってくれれば、需要を維持できるので、日本人の所得は落ちない。返せるのである。日本人が返済を受けても、その日本人が外国品を買えば、カネは流出するのである。

低成長・国債膨張を続けている先進国では、増税、経営資源の流出が予想される。資本は海外に逃避するだろうが、成長を完了した新興国の政府は、先進国の財産持分権を抹消して、先進国資本家に流出するカネを収納する誘因を持つだろう。誘因がある以上、放っておけば必ずそうすると考えておいたほうがよい。言うまでもないが、経営資源が流出すれば国債償還は難しい。流出した分、海外から入ってきてもらう産業分野を作らないといけない。

先進国は、新興国のそうした選択を先読みして、最適な世界戦略を選択しておくべきである。

最後に、アメリカのお気楽な見解を(内容は真剣です)。

アメリカ国債は格下げなんですって?(タイトルを筆者がつけるとすれば)
 I’m not sure how markets will respond, and I don’t think that an alarmist reaction about the market would be appropriate. A letter grade is a letter grade and the facts on the ground did not change today. It may or may not lead to a major sell-off. Still, years from now today may well be seen as a turning point of significance.
If this really does happen, let’s hope it serves as the needed wake-up call. If it doesn’t, well, back to…
今回のアメリカ与野党合意の後、アメリカ国債の格付けは現状据え置きとなった。ネガティブな方向だけが付け加えられた。でも・・・・いずれは下がるのでしょうねえ。こんなところだろう。これ以上のことは大統領といえども、成し遂げられなかった。しようがないよね。そういうことだろう。

8/6 15:35 追加:
本日正午前、S&Pが米国債格付けを引き下げた旨、報道された。先日、Moody社は現状据え置きにしたが、判断が割れた。日経は以下の報道をしている。
【ニューヨーク=西村博之】米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は5日、米国債の長期格付けを最上位の「トリプルA」から、「ダブルAプラス」に1段階引き下げた。同社が米国債を格下げするのは1941年の現行制度開始以来初めて。S&Pは「米政権と議会が合意した財政健全化計画が、政府の中期的な債務構造の安定に不十分と判断した」としている。格下げはドルの信認にも影響が出る可能性が高い。(出所)日本経済新聞WEB版、8月6日11:14配信
週明けの東京市場は大荒れとメディアは予測している。来週開催予定のFOMCでFRBがどんな対応をするかが焦点になっているのが今の状況だ。


2011年8月4日木曜日

日本化って世論への迎合のことですか?

英誌The Economist、7月30日号の特集テーマは<日本化(Turning Japanese)>だ。この記事の内容が日本の新聞でも続々と紹介されている。The Economistが使っていた下のカットを見た人も多いだろう。

ご覧のとおりオバマ米大統領とメルケル独首相が(古き良き時代の?)の日本人と化している。どうやら最近世を騒がせた世界同時国債危機。その危機に直面した首脳たちがとった行動は、エコノミスト誌の目には、「まるで日本人のようではないか」、そう思わせるものであったらしい。どこが?日本紙はその辺を「リーダーシップの欠如」と極端に要約して紹介している。とりあげるのは良いが、オリジナルはどんなことを書いていたのか、ある程度までは正確に紹介した方がいいようにも感じたのである。

リーダーシップが欠けている=日本化、というこの等式。まあ、これについて、我々日本人にさほど異論はないのだが、何故にリーダーシップが発揮できないでいるのか?この原因分析が非常に面白い読ませ所であったのだ、オリジナルは。ここでは、それを覚書までに、書き留めておきたい。

エコノミスト誌が、結論として言いたいことは次のことだ。
Now the politicians have become the problem.... Even if the current crises abate or are averted, the real danger persists: that the West’s political system cannot take the difficult decisions needed to recover from a crisis and prosper in the years ahead.
要するに、今回の方策や合意は痛み止めであって、単なるその場しのぎ。本当の問題は何も解決されておらず、為すべきことから逃げている。一番そう言いたいわけだ。ま、そうだろうね、専門家も余り評価していない。

その後、ヨーロッパとアメリカに分けて、本当に解決するべき問題は何なのか、結構詳細に論じている。しかし、今回の特集記事全体の勘どころは、次の下りであると小生はみた。
In both Europe and America electorates seem to be turning inward. There is the same division between “ins” and “outs” that has plagued Japan. In Europe one set of middle-class workers is desperate to hang on to protections and privileges: millions of others are stuck in unprotected temporary jobs or are unemployed. In both Europe and America well-connected public-sector unions obstruct progress. And then there is the greatest (and also the least sustainable) division of all: between the old, clinging tightly to entitlements they claim to have earned, and the young who will somehow have to pay for all this.

Sometimes crises beget bold leadership. Not, unfortunately, now. Japan has mostly been led by a string of weak consensus-seekers. For all their talents, both Mr Obama and Mrs Merkel are better at following public opinion than leading it.

The problem lies not just in the personalities involved, but also in the political structures. Japan’s dysfunctional politics were rooted in its one-party system: petty factionalism has survived both the Liberal Democratic Party’s resounding defeat in 2009 and the recent tsunami (see article). In America’s Congress the moderate centre—conservative Democrats and liberal Republicans—has collapsed, in part because partisan redistricting has handed over power to the extremes. In Europe national politicians, answerable to their own electorates, are struggling to confront continent-wide problems.
<日本化>(=日本病への罹患)という時に、最もそれを特徴づける症状。それは様々の"ins"と"outs"。要するに、利害集団に分断された党派対立。仲間とよそ者を区分する派閥行動が社会全体の知性と活力を奪いつつある。これが日本病の本質だとエコノミストはみているわけであって、この認識は小生も全くもって同感なのである。

欧州には既得権益を手放そうとしない中流階層がいる。それに対して、非常に多くの人たちは規制で守られていない臨時雇用者(=非正規労働者)である。アメリカでもヨーロッパでも公共部門の労働組合が社会の歩みを止めている。そうして最大の利害対立。それは高齢者と若年層の対立である。社会からカネをもらう権利があると(何故か)信じている集団と、そのカネを(実際には)負担している集団である。

社会が危機に直面すると、しばしば大胆なリーダーシップが発揮されてきたのであったが、今は違う。日本では、社会が危機に陥っているにもかかわらず、合意ばかりを尊重するひ弱な政治家が、もう何人も交代してきている。アメリカもヨーロッパも政治家がやっているのは、これと同じであって、今や彼らはRent-Seeker(レント・シーカー=既得権益追及者)ならぬ、Consensus-Seeker(コンセンサス・シーカー=合意追及者)である。オバマ大統領もメルケル首相も、社会に問題解決への道筋を指し示すのではなく、世論に従っている。指導者のこの姿勢が、社会をより重大な危機に誘導している。そんな危機感がエコノミスト誌には溢れているのであって、小生はこの点をこそ、紹介してほしかったと思うのだ ― 世論アンケートばかりをやっている日本のマスメディアとは矛盾する感性ではありましょうが。

問題を解決できないでいるという<危機>は政治家自身の人柄によるものではない。政治システムに原因がある。日本の政治システムは、ずっと一党体制であった点に今日の機能不全の原因がある。一党体制の中で日本の政治を切り刻んだ党派主義が、自民党を打倒した民主党にも、遺伝子のように伝わってしまっている。同じ症状がアメリカにも認められるようになった。民主党右派と共和党左派から構成される中道は、党派的利益に沿った選挙区割りをきっかけに崩壊し、その後には極端な言動をはいては注目を集める政治家が台頭した。ヨーロッパの政治家はヨーロッパ全体の利益を考えなければいけないのだが、実際には自国の選挙民の願望に応えようとしている。

考察がここまで進んでくると、<日本病=リーダーシップ欠乏症>という認識は、外見の症状だけをみた漢方的臨床診断であることが明らかだ。日本と類似の症状を呈してきたアメリカ、ヨーロッパの政治機能不全。もっと本質的な病因がある。それは政治の構造にある。その構造が様々の党派主義に浸食されている。まるで<思想的ウィルス>の発見でありますな、この認識は。病気の原因を微生物に求めた近代医学の視線である。こうした議論の進め方、本当にセオリティカルであって、小生はヨーロッパ的知性の香りというか、悪く言うと臭いを感ずるのだ。どちらにしても、日本がとか、アメリカがとか、欧州がとか、のような個別特殊的な議論をするのではなく、共通の原因による一般的な<政治的病気>であるという認識。そこから解決への方法を考え出そうとする態度。いや、全く流石に科学が根付いている国の雑誌である。この辺り、編集の本質が違うと思うのだ。

水俣病は日本の風土病かと思いきや、それには特定の化学物質が体内に吸収、蓄積されていたという原因があった。その原因が存在すれば、世界のどこでも水俣病は発生する。日本を特徴づけたリーダーシップ不在。それは日本特有とも思われたが、同じ要素が社会に導入されれば、日本以外のどの国(先進国限定か?)も同じ症状を呈する。

社会的医師の眼ではないか。やっぱりシャーロック・ホームズが誕生した英国の経済誌であるなあ。日本紙の紹介はどこか感性が日本的で、まるで翻訳で読む「シャーロック・ホームズの冒険」のようであったのは仕方がない。そんな印象を覚えたのである。

2011年8月2日火曜日

円高介入を正当化する論理は何か?

市場のことは市場に聞いてください。通貨・金融当局の責任者は常にこう言っている。為替相場もそうである。

円の対ドルスポットレートが、今日、どのような水準になるか、それは市場に参加する主体が自由に判断して取引するべきで、その大勢から相場が決まってくる、それが理想であって、当局の思惑から特定の相場を維持しようと市場に介入すれば、かえって不適切な為替相場を導く原因になり、経済にマイナスの影響を与えるし、しかもまた当局の本音が伝わらず、市場の乱高下をもたらす可能性すらある。

要するに、当局の介入に何も良いことはない。それがオーソドックスな経済学の標準的理解であって、市場介入のセオリーなど統制経済ならいざしらず、そんなものはない。そのように小生は理解してきた(国際金融の専門家ではありませんけどね)。

にも関わらず、日本では円高になると政府・日銀による市場介入が常に期待される。「市場はしょっちゅう間違うのだから、政府が正しい方向に導く必要があるだろう」、まあ以前はそんな風に考えられていたような気もする。現時点では、介入をするにも、もう少し意識が違ったものになってきているとは思うが。

アメリカの債務上限引き上げにケリがつき、外為市場もドル高に振れ、株式市場も上に振れたのだが長続きしない。今度は、アメリカ国債の格下げが心配になってきたというのである。

やれやれ・・・格下げくらい予想できていたのではないですか?そのくらい、織り込んでおきなさいよ、確実なんだから、と。本当に金融市場は情報を効率的に処理している<効率的市場>なのですか?そう思ってしまいます。

下は円の対ドルスポットレートのグラフである。月中平均をとった。青い点線は、日本と外国の物価で修正した実質レートである ― 日本がデフレ、外国がインフレなら、外貨建ての日本製品の価格は上がってしかるべき、つまりレートは円高にならないといけない。レート一定なら、実質的には円安になる。実質レートは日本製品の真の競争力を示している。

(出所)日本銀行「各種マーケット関連統計」サイトで作成

図をみると、名目レートには一貫して円高(目盛りは逆目盛りで上が円高を表す)傾向が認められる(本日追加:赤の実線、左目盛、逆目盛)。名目レートを、たとえば日本の通貨当局の思惑で一定方向へ誘導するなどは、所詮無理なことであろうというのは、上の図のありようからも分かると思うのだ。

そもそも為替相場の決定に当局が介入したところで、(統計的に有意な)影響を及ぼせるとは考えられない。

実質レート(本日追加:青の点線、右目盛、順目盛)を見ると、2000年代に入って実質円安の傾向が続き、日本製品の国際競争力は一貫して改善されてきたこともわかる。実質円高へと方向が変わってきたのは、ごく最近である。それでも1990年代に直面した状況に比べると、まだまだ実質円安である、という点は否定できない。

それなのに、何故にいま緊急市場介入なのですか?日本経済新聞には<円急騰、緊急対応へ>、「政府介入を準備」、「介入、米も容認姿勢」。まさに出動要請をしている観がある。う~~ん、正に財界本流支持メディアの面目躍如たるものがある・・・

ロイターでは
[東京 2日 ロイター] 野田佳彦財務相は2日午前の衆院財務金融委員会で、外国為替市場で円高が進行していることについて、米債務上限引き上げ問題など対外要因によって「思った以上に強く評価されている。日本経済のファンダメンタルズを反映しているとは思えない」とし、「特に今日は市場動向を注視したい」と語った。
為替介入については「コメントしない」としたが、日銀や各国通貨当局とコミュニケーションを「しっかりとっている」と語った。茂木敏充委員(自民)の質問に答えた。
また、野田財務相は、赤字国債発行の前提となる特例公債法案が成立しない場合に予算執行が困難となるタイミングについて「10月にその危険性が極めて高まる」と述べ、「そういうことにならないよう、今国会中の(法案)成立が大事だ」と理解を求めた。
溢れかえるような危機感はないようである。どちらかと言えば、淡々と伝えている。数字としては、特に「未曾有の国難」とは、とても世界に向けては言えないなあ・・・数字はそんな数字だ。

ただ、当局の市場介入が正当化される場合もあると、最近小生、考えるようになった。というのは、マネーの投機をどこまで許容するか、である。

<市場>が信頼されているのは、適正な価格を探しだして、その価格を低コストかつ効率的に市場で成立させることによって、社会経済全体の円滑な運営に寄与するからに他ならない。だから、個々の取引に政府が権力的に介入することは有害だと見なされる。

しかし、最近目立つ現実は、マネー増殖を願う投資家が新興国の株式市場に乱入したかと思うと、石油、その他の資源、農産物を対象に投機売買を行う。そこで市場価格を乱高下させたかと思うと、今度は石油市場からは逃げ、金に向かう。そうかと思えば、今度は円通貨を買う。マネーが奔流というか、暴走族のように流出入する。それに伴って経済の実態たる市場価格は激しく変動する。価格変動を激化させること自体、リスクの高まりをひき起こしている。ここだと思うのですね。

下の図は、円の対ドル・スポットレートの対前月比を描いたものだ。目盛りは逆目盛りで上がマイナス、下がプラスである。平均線を水平に引くと、少しマイナス側に引かれる。これは数字としては、レートが低下する、つまり名目レートは長期円高傾向にあったことを意味している。


図をみると、1980年代半ばのように激しくレートが変動した時期があったかと思うと、それほど変動しない平穏な時期が交代してきていることが分かる。ただ、ずっと横にたどると、この期間は変化率がプラス、この時期はマイナスという風に、「円高の時期」、「円安の時期」が明瞭に現れているわけではない。

小生が思うのは、通貨当局は<高さには無力>だが、<ばらつきを抑える力はある>。そんな風にもみてとれるのですね。言い換えると、通貨当局の介入は、速度制限をあからさまに無視した悪質な暴走車を抑えるくらいの効力はある。それで十分ではないか。暴走を抑制するだけで状況はうんと改善される。そんな見方をするようになっている。

これは不必要なリスクを消し、金融機能を健全化し、事業投資の冷え込みを回避することにより、経済の実態にプラスの貢献をする。このロジックはありうると思う(データに基づく検証は必要だが)。このような市場介入は、価格水準に対する介入ではないし、いわば暴走の取締り。誰はばかることなく、大いにやってほしいのである。

今日は久しぶりに日本経済新聞シンパの意見を、結論としては、述べることになった。

2011年8月1日月曜日

摘めるリスクはリスクではない

アメリカ債務上限引き上げ問題は、どうやら与野党が合意し、一件落着(?)となった。「そんなに心配することはないですよ」、「でも、もしダメだったら大変でしょう?」、「大丈夫だって!」、とまあそんなやりとりが、色々な所であったと思うのだが、今日の株価が上げているのは安心したからであろう。

そんな状況で、週明けの今日、何を書くかなあ・・・細かな数字を覚え書きに書きとめるのも面倒だなあと、例によって日本経済新聞の朝刊をパラパラとめくっていた。すると、また「これは書いておかずばなるまい」と思わせる解説記事があったのだな。別に、日経本社に含むところは決してないのだが、<リスク>を直視する眼差しの弱さが垣間見えるような気がして、「危ねえなあ」と感じた次第。

朝刊5ページに「中国の安全、なじれぬ日本 ― リスク摘む司令塔の不在」という解説記事が掲載されている。そこに
消費者は放射能のリスクゼロを求めて牛肉など食品検査の厳格化を望む。生産地の自治体などが安心を買うため全頭検査に踏み切る事情は無理もない。全頭検査を否定するつもりはないが、それが本当に安全の確保につながるのか疑問だ。
(中略)
むしろ対策の手抜かりに泥縄的な対策を重ねる中で、ヒトやカネを投じるべき本当に大切な安全対策が見落とされはしないかと心配になる。
本文を読みながら、「全頭検査かあ、そう言えばアメリカからの輸入牛肉をめぐって狂牛病騒動があったなあ・・あの時も日本は全頭検査を求めたっけ。アメリカ側はそれは科学的ではないし、不合理だと返答して、日本側の不興を買ったのだったなあ」、そんなことを思い出した。と、どうやら本日の筆者は全頭検査はやり過ぎであるから、もっとコストベネフィットに沿った合理的な手法を考えるべきであるという、そういう方向で考えているのではない、寧ろ反対で全頭検査にまで追い込まれる前に、システムとして安全対策を徹底しておくべきではないのか、そんな主張のようにも解釈されてきたのだ。

そう言えば、<リスク・ゼロ>という言語表現も文中で使われているし、理想状態においては<リスク・ゼロ>を達成しようと努力するべきだ。基本的立場はそれではないか。そう思われたのだ。

もちろん努力目標として<リスク・ゼロ>を置くことに反対があるはずがない。ゼロの方が良いに決まっているから。

しかし、小生、思うのだが、消せるリスクはリスクではない。消せるリスクを放置するのは、怠慢であり、つまりは経営戦略が最適化されていない。ただ、それだけのことである。どんなに合理化に努め、最適化に努めても、消せないリスクがある。そのリスクは、たとえば取り組んでいる事業特有の確率的性質から決まってくるものかもしれないし、マーケットの本来的不安定性に基づくものもある。一口に言って、リスクとは<悲しい誤算>であって、リスクあるところ<嬉しい誤算>が隠れている。

ベンチャー・キャピタルは、創業まもない起業家を支援するファンドなのだが、アメリカでも貸し倒れが8割を越えるという。ほとんどは失敗になるわけだ。全員の夢を叶えてあげることはできない。失敗する人は、成功する人の肥やしになる。文字通り<葉っぱのフレディー>の生命観です。どのプロジェクトがうまく行くか分かっていたら、誰も苦労はしない。少数でも未来に通じる道を見つけるから、後に続く者が助かるのである。社会はそうやって進歩してきたのではないですか?自分が負け組になったらどうする?暗転したらどうする?敗軍の将、兵を語ればよいのである。志を後続者につないでいけばよいのである。中国鉄道省も、敗因を率直に語ればよいのである。東電にもそれを語ってほしい。そういうことではないか?

本ブログにも投稿した<確実な議論をしましょうよ症候群>。1983年にオランダのPhilips社はCD製造工場をアメリカに建設するべきか迷っていた。まだまだCDというメディアが、マーケットに受け入れられるかどうか、定かではなかったからだ。「1年待とう、市場の動きがもう少し明らかになってからでも遅くはない」。で、待ったのだが、待っている間にSONYが先に建設した。そうなると、後からノコノコ出て行っても乱売合戦になるだけだ。フィリップスがアメリカに進出したのは、ソニーの工場がフル操業になってからのことである。相撲のように、「さあ、時間です、にらみ合って」、そんな勝負をしているわけではないのですね。どうやって生活を守り、仕事を守りながら、競争に勝って、国民、民族が生きていくか?それがテーマなのであって、それには何をしなければならないのか?リスクはどの位あって、リスクが顕在化する時はどうすればいいのか?その議論をしないといけないわけだ。リスクに満ちた現実世界に、安全ネットを張りめぐらせて、それで日本国民がリスク感覚を失って緊張の感覚への耐性を喪失したら、それこそ最大のリスクになるのではあるまいか?

欧州もアメリカも、ここまでやってくるのに七転八倒してきたのが現実である。フランス政府は、現在は第5共和制である。戦後になってドゴールが一度身を引いたのだが、アルジェリア紛争に手を焼き、クーデターが勃発して、ドゴールが政権に復帰し、新憲法を公布した。それまでの第4共和制は10年ちょっとの寿命でしかなかった。ドイツに占領されるまでは、第3共和制だった。その政府は、ドイツとの普仏戦争に敗北し、パリは徹底抗戦したのだが、市民に銃を向ける「血の一週間」を経て発足したのだ。まあ、フランスの歴史を書くつもりもないが、戦後日本が神武景気を謳歌した直後である1958(昭和33)年という時点において、先進国フランスではクーデターが起こっていた。憲法なんて、バッタバッタと取り換えている。意外ではありませんか?そんなバイタリティ、日本に残っている?・・・それが一番心配なのだ。

アメリカ合衆国憲法は修正27条まである。「1789年の憲法制定以来、1万件以上の修正案が議会に提出された。最近の数年をみても、毎年100件から200件が提出されている。」、ウィキペディアをちょっと調べても、国の仕組みと憲法をめぐって、喧々諤々の論争が常にある。国家社会はどう転んでいくか予想などつかない。これが世界の現実なのではありませんか?

リスクや危険はゼロにはできません。リスクがゼロだという時は、リスク感覚を喪失したからであって、それが最も怖い最大のリスクである。小生はそう思うのだが、どうだろう?