2011年8月28日日曜日

日曜日の話し(8/28)

用事があり札幌に出かけた。愚息に二本目の万年筆を買い与え、某画材店で買い物をして通りに戻ると、人出が多く、騒然としている。何かと思うと、今日は北海道マラソンの日である。

大通り前のバスターミナルまで歩き、高速バスで帰ろうとしたところ、目当ての便は交通規制のため本日運休とのこと。仕方なく駅の方角へ歩いて戻ることにする。そうしたら、スタートしたマラソンランナー達の走る姿を目にすることができた。これは嬉しい誤算。

嬉しい誤算は、そうなってしまったというだけで、なぜかという説明は不可能だ。まずい誤算も、そう。運と不運は、前もっては分からない。その時、降りてくるものだ。

小生が愛読している一気描きブログの筆者は、「いい作品は、数限りなく描くうちに、予期せぬ時に生まれるもの」、確かそんな趣旨の話しをしていたと記憶している。

ことほどさように、運という要素は<創造>にとって不可欠だ。降りてくるもの、というか<出会い>のイメージにも通じるかも。

自分の好きな音楽、好きな小説、好きな美術作品、好きな人・・・。すべて出会いである。自分の描く作品だって、もう一度描けと言われても描けない、だから出会いだ。


長谷川等伯の松林図。昨年(だったかな?)、国立博物館の平成館で展覧会をやっていた。いま日本経済新聞の連載小説で安倍龍太郎の「等伯」をやっている。等伯といえば、上の松林図だが、これもやっぱり出来てしまったものなのか。同じものは当人だって描けないのか。だとすれば、他の人間には描けない。模写をしても、模写しようと思った分、落ちる(これは小生にもピンとくる)。正確に模写しようと、人間の欲が出るから、落ちるのだな。

ターナー、赤と青‐海の入日、1835年頃

高校時代は図書館でターナーの画集ばかりを見ていた。モネの「日の出」か、ターナーか・・・、偏屈な高校生だったと思いますよ、誠に。

ターナーも「こんなのが出来ちゃったんだけどね」。そんな風だ。しかし、先にイメージがなければ、筆が動かないはずだ。イメージなら凡人の小生にもあることはある。が、描き出すとイメージが消えてしまうのだな。イメージの通りには描けない。ターナークラスになるとイメージ通りに描いているのかなあ、と。

分野は違うがモーツアルトは、トイレの中で楽譜を書き上げていたらしい。これはイメージが湧いてきて、その通りに楽譜に書き写したのだろう。

最近、下塗りばかりやっていて、中々、描けない日が続いているのである。「描けない」というのは、おこがましい限りではあるが・・・。イメージは、というかイメージだけはある。凡人は、自分のイメージでは描けない。目の前に手本があれば模倣できる。普通の人は創造なんてできない所以なのかもしれない。

ポスト産業社会では創造が価値である。価値の本質があらわになる。模倣は価値にならない。とすれば、価値を生み出すには、どんな人間が必要か?どんな教育が必要か?どんなモラルが必要か?今までどおりでいいのか?

どう答えるか、イメージはあるが、文章に描くのは難しい。書きだすとイメージが消えてしまう。絵と同じだ。何ごとによらず凡人です。

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