2011年8月20日土曜日

リンク集 ― 製造業の衰退をどう考える

昨日は東京出張だった。今回は愚息が面会したい先輩がいるというのでついてきた。東京へ行くときは、この10数年、いつも10時30分新千歳発のANA56便を使っている。ところが昨日は、離陸後に東京というか首都圏周辺の天候がにわかに悪化し、雷雨となり、40分間仙台上空で旋回を繰り返すも、燃料切れとなり札幌に引き返した。折しも、お盆で代替機を用意することもできず、そのままキャンセル、払い戻しになった次第。着陸後は、欠航手続きを待つ長蛇の列。2時間ほどを費やして、ようやく欠航証明書を受け取った。こんな感じなもので、いつもは離れて暮らしている20代半ばの愚息と、かなりな量、会話できたわけである。

「法律の職業資格は国が独占しているだろ?だけど、いくら弁護士を増やしても、みんな大都市圏に溜まって、競争が激しくなるだけで、ちっとも地方に開業しない。もし職業資格を北海道が認定したらどうだ?開業は道内に限られるけど、北海道にはそれがプラスだろ?これができるなら、北海道立のロースクールを作って、道が実施する司法試験で資格を得て、道内で弁護士を開業する。まあ、おそらく、日弁連は反対するだろうけどね。だけど、地域社会にはこれが一番望まれていると思わないかい?」

「北海道にはそれが一番いいだろうね。」

「地方分権の話が進んでいるんだけどサ。職業資格認定権限を地方に移せって議論が必ず出ると思うよ。というか、出なけりゃ、おかしい。医者や薬剤師もそうだよね。道内で開業できる医師資格を道が経営する専門学校で与えれば、正規の医師をサポートすることだってできるはずだよ。大体、地域、地域で風邪をなおしたり、インフルエンザの診断をするのは、それほど高等な医療技術じゃない。ほとんどの治療はルーティン・ワークだよ。それをするのに、何百万円の授業料を払って私立の医大に行ったり、勉強ばっかりして国立や公立の医学部に行く必要はないと思うんだが、お前はどう考える?」

「検事とか裁判官はどうなるかなあ?」

「警察が自治体警察になったのは戦後なんだけど、これ形だけなんだ。おかしいと思わないかい?検事も中央から来て、単一の官庁が一律に起訴権限を独占しているなんて、おかしいって思うだろ?裁判だって地方社会で習慣、価値観が違っていても、おかしくはないだろ?」

仕事柄、勉強分野柄、上のような会話をしたのだが、こんな風に文章にメモってみると、何だか国家顛覆を謀議しているようではある・・・

× × ×

急速な円高もあって、毎日の新聞では「加速する海外移転」という見出しが絶えることはない有様だ。移転するってことは、何か財産を失ってしまうというつもりで書いているのだろうか?別に、「涙をのんで、断腸の思いで、当社も海外移転もやむなしとの結論に至ったわけでございます」。こんな演説をする代表取締役がいるわけはありませんよ。誰から命令されているわけでもありませんからね。移転するのは、海外に置くだけの生産資源を既に保有しているからである。それは財産保全のためである。なぜこう考えないのであろうか?やはり「コップの水は半分しかない」と考えるか、「半分も水がある」と考えるか、例のポジティブ・シンキング対ネガティブ・シンキングの議論がここでも該当するのだろうかと思う此の頃の報道ぶりである。

野口悠紀雄氏の論説。


震災後に加速している製造業の海外移転(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)
製造業の海外移転で300万人の雇用減(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

企業の海外移転は国内の従業員にはマイナス、海外の従業員にはプラスである。300万人の就業機会が日本で失われるなら、ほぼ300万人程度の就業機会が海外に生まれるだろう。と同時に、日本企業は競争上より有利になり、海外企業は日本企業に対して競争優位をその分だけ失うであろう。

もし300万人の新しい就業機会を日本国内で作れるなら、作れる以上は出ていく職場よりベターであるに決まっている理屈だ。問題はそんな機会があるかだ。

日本から移転する企業は当該国の資源を吸収するわけで、当該国でその産業分野の競争は激しくなる。価格も下がる。ということは、他の商品は当該国で割高になる。故に、日本は日本に残る(海外移転が必要でない)産業分野に資源を集中すればよい。

その産業分野とは何か?それが<新成長戦略>というわけなのだが、これについては「政府が無能であっても政策を立案する権限を独占しうるのか?」という根源的疑念がある。本来は、職業公務員ではない人材が、選挙で選ばれて政府の職を占め、民間にある人材が法律を定め、制度を作り、官僚はその手足となる。これが本来の民主主義国家のあり方だ。日本では、職業公務員が政策研究までをやっている。「これはおかしいのではないか」という感覚は、過激にすぎるのだろうか?
機能しない政府に政策立案を独占させるな!(田村耕太郎、ダイヤモンド・オンライン)

製造業の海外移転は(国家の観点から別の議論がありうるとしても)国民の利益にはプラスである。普通のエコノミストはこう考えるわけだが、これに異を唱えるというか、疑念を呈する向きもあるのだ。ロドリック氏の以下の見解には説得力がある ― ポスト産業社会は一日にして成らず。一言でいえば、そうなる。

The Manufacturing Imperative(Dani Rodrik, Project Syndicate)
The United States has experienced steady de-industrialization in recent decades, partly due to global competition and partly due to technological changes. Since 1990, manufacturing’s share of employment has fallen by nearly five percentage points. This would not necessarily have been a bad thing if labor productivity (and earnings) were not substantially higher in manufacturing than in the rest of the economy – 75% higher, in fact.
The service industries that have absorbed the labor released from manufacturing are a mixed bag. At the high end, finance, insurance, and business services, taken together, have productivity levels that are similar to manufacturing. These industries have created some new jobs, but not many – and that was before the financial crisis erupted in 2008.
製造業という衰退産業が海外に移転するのであれば、もっと多くの付加価値を生産できるニュービジネスが国内に育つはずである。それらニュービジネスとの国内競争に破れて旧来型の製造業は衰退し、したがって海外に新天地を求め出ていくのである。オーソドックスな経済学は、物事をそう見るのである。しかし、アメリカでも「新しい産業は十分育っては来なかった」、ロドリック氏はそう言っている。出ていく産業は出ていったが、代わりに育つサービス業が十分枝葉を伸ばせていない。そのために大量の負け組が発生した。

As economies develop and become richer, manufacturing – “making things” – inevitably becomes less important. But if this happens more rapidly than workers can acquire advanced skills, the result can be a dangerous imbalance between an economy’s productive structure and its workforce. We can see the consequences all over the world, in the form of economic underperformance, widening inequality, and divisive politics.
人間はすぐには変われない。必要なスキルや知識を自由自在に身に付けるわけには行かない。製造業であふれたからと言って、もっと良いサービス部門でいい仕事がありますよ、という具合には行かないというわけだ。この側面は放置して、成り行きに任せておけば、新しい世代が自らの歩むべき道を見出して、社会状況は自然に落ち着くべき均衡点に落ち着くのか?それは必ずしもわかっているわけではない。

あの市場原理主義に最も近い、規制の緩やかなアメリカにおいてすら、ニュービジネスの成長速度は不十分だと見る向きがあるのだ。まして官僚資本主義と言ってもよいほどのガチガチの規制国家であり、みんな平等を愛し本音では護送船団方式こそ最も慈愛に溢れた政策理念であると信じている、こんな風にすら思われる日本ではどうか。新しい成長産業など、そうそう出ては来れないのではないか?まるで新興産業が伝統ある製造業を追い出すようではないか。今日の日本を築いた大企業の名士を、新興成金が国外に追放するようなことをする、これを放置することが正しいのか?これこそ下克上ではないか?日本では、詰まるところ<是か非か>という正義論に焦点があたり、議論は極めて法学部的議論になってしまうものなのだ。

ロースクールの発想とビジネススクールの発想が常に拮抗しているアメリカとは構造が違うと思うのですね。

エネルギー戦略もそうである。一次エネルギーの最適ミクチャーが変化したとしても、古い均衡点から新しい均衡点に摩擦なく、コストなく、移ることはできない。移るための関連コストとありうべき混乱による非効率も全て計算に入れて、エネルギーの経済性を判断しないといけない。わずかな経済性の違いを、七転八倒して追い求めるなど無意味であろう。

Who Will Win the Clean-Energy Revolution?Phyllis Cuttino and Michael Liebreich, Project Syndicate)

LONDON – After less than a year and a half in which so much energy news seemed troubling – nuclear meltdowns, oil spills, rising gas prices – it might be startling to find out that worldwide installed capacity of renewable energy has now surpassed that of nuclear power. In fact, global investment in clean energy, driven by enlightened, forward-looking national policies, grew to a record $243 billion in 2010, up 30% from the previous year.
既に、世界全体では再生可能エネルギー施設が原発施設を容量では凌駕している(無論、在来型の水力発電なども入れてのことであろう)。本日の日経朝刊には、三井化学、東芝、三井物産が愛知県に5万キロワット級のメガソーラーを建設する計画とのことだ。他方、三菱重工は沸騰水型原子炉を多く利用している西日本を中心に、原発安全投資が出てくることを見込んでおり、経営資源をその分野に重点投入していくそうである。おそらく加圧水型原子炉を得意とする日立、東芝もそうするだろう。

日本のエネルギー戦略も、政府が決められるかといえば、能力に余り、結局はビジネスの進展の中で自然解決されていく。それが(現在のところ)ありうべき将来かもしれない。

だとすると、政策の立案をなぜ政府だけが行えるの?現実にはそうでないでしょ。だったら議論を透明化したら、と。どこが本当は決めるのですか?この問い掛けが益々重要になってくると思われるのだ。

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