2011年9月30日金曜日

いわゆる「将来世代への負担転嫁」をよしとする意識について

内閣府の経済社会総合研究所が、防災コストの負担と意識の関係をめぐる分析結果「防災対策と世代間公平~持続可能な防災・減災政策のあり方に関するアンケート調査~」(永松 伸吾・佐藤主光・宮崎毅)を公表した。

上記ディスカッション・ペーパーの要旨は以下のとおり。
低頻度高被害型の災害リスクへの対処が、今日の我が国の防災・減災政策の主要な課題の一つである。本稿では、持続可能性をキーワードにした新しい防災・減災政策の方法論を示すため、巨大災害対策の世代間公平の観点からのアンケート調査を実施し分析を行った。
ここでの主要な質問項目は次の通りである。第一に、大規模地震対策、大規模水害対策のそれぞれについて、どの程度の期間でそれを完成させるべきかについて質問した。第二に、それらの対策の費用負担は現在世代と将来世代のどちらが行うべきかについて質問した。第三に、過疎地の防災対策について、どの程度国による支援を実施すべきかについて質問した。第四に、土地の利用規制方策について質問した。第五に、防災対策における政府の関与の程度について質問した。これらを被説明変数として、個人の属性や、また将来の日本や地球環境、災害リスク、科学技術の進展などに関する楽観性を表す因子を説明変数に加え、回帰分析や順序ロジット分析、多項ロジット分析を実施した。
これらから得られた主要な結論は次の通りである。まず、性別、年収、子ども・孫の有無でかなりはっきりとした政策選好の違いが見られることである。女性についてはリスク回避的であるが、将来世代への負担転嫁を望んでいる。また世帯年収が上がれば上がるほど、防災対策を長期に分散させ、将来世代の負担とすることを選好する。子ども・孫が存在することは、女性と同様にリスク回避的であるが、将来世代の負担転嫁を望まない傾向がある。なお、将来への楽観度については、様々な政策選好に影響を及ぼしている。将来の日本の状況や巨大災害リスクへの楽観度は防災対策の完了期間をより長期で実施することをのぞみ、そのための負担は将来世代にわたって負担することを望む。これは、将来状況を悲観的に捉える人ほど、そのための対策と負担を前倒しすることを選好することを意味している。
(出所)http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis280/e_dis276.html 
本文には詳細な分析結果が記述されている。まだ公表直後なのでまだ精読はしていないが、以下の結果は面白いと感じた。


各質問項目への回答は相互に相関しているが、その相関から潜在的な因子を抽出した結果が上の表だ。どうやら独立因子をとっているようだ。4つの因子を引き出しているが、寄与率をみると、最初の3つで75%を説明できる。その3つの因子はどれが重要ということはなく、独立して回答者の回答に影響している。因子の名称と因子負荷(各係数)の正負の符号がマッチしていないとも思われるのだが、係数の符号をすべて逆にしても因子の存在と作用に変わりはないので、特に問題ではない。

地球温暖化というキーワードを共通して使った以上は、それを地球環境と一般化するのは少々無理だろうとは思う。ま、とにかく、<環境問題への関心>、<明るい未来を信じるか>、<子や孫が受ける災害への関心>。こんな意識が防災意識を形成していることは、よくわかるし、データ分析からこれが確認されたことは、一つの前進だと思う。

さて16ページには次の結果が示されている。文章を少し引用させてもらおう。

この費用分担のうち大地震向けの防災投資(質問 17)に係る実証結果は次のように示す通りである。ケース 1,2 において年齢が 10%水準でプラスに有意となっている。年齢層の高い回答者ほど、費用負担の将来世代への転嫁を志向(逆に自分らの世代が多く負担することに反対)していることになる。社会(有権者)の高齢化が進む中で増税等による負担増には反対して、社会保障や財政赤字の問題を将来へ先送りする傾向が強まっている。防災投資のコストも例外ではないことが伺える。女性ダミーもプラスに有意であり、将来世代の負担を求める傾向が見受けられる。他方、子ども・孫のいる世帯ダミーは全てのケースでマイナスに有意(有意水準は 1%)であり、むしろ、現在世代が費用の多くを負うことに賛同している。将来世代に対する配慮(利他主義)が反映されたものと解釈される。
上の結論を得た分析の方法は、防災コストを将来世代へ転嫁してもよいと考える度合いを被説明変数とし、説明変数を以下の表のように選んだ順序ロジット分析である。


この結果を見ると、確かに本文で記述しているように、将来世代へ防災コストを転嫁しても良いと意識するかどうかは、回答する人の年齢と、その人が現に子供や孫を有しているかどうかに強く依存する。子や孫をもっている人は「後世代への転嫁はよくない」と考える傾向にあり、それとは別に一般に年齢が高くなるに伴って、後世代にコストを負担してもらうことを肯定的に考える傾向がある。そして女性。<以下修正します。係数の正負を逆に読み取っていました>

修正後: 女性は将来世代への転嫁を肯定的に考えている。ふ~~む、そうか。下にあるオリジナルのように女性は子供たちへ負担を押し付けるのを良しとは考えないと思っていたが。母子一体。そういうことなのかなあ。基本因子の三番目<子や孫が受ける災害への関心>に女性ファクターは有意に影響を与えている。子や孫を現に有していることで、それだけ子や孫が受けるかもしれない災害を自分もまた辛いと考える傾向がある。この心理的な傾向は、女性において更に強まるという結果が上で得られている。その女性が、防災コストの負担を子や孫に託してもよいと考える。いかなる心理なのであろうか?ちょっと考えこんでしまう。

オリジナル: 女性は利己的ではなく、利他的なモチベーションに沿って行動を選ぶ傾向がある。だから子供たちには負担を押し付けようとしない。自分が引き受けようと考える。正に、母なる心性が伝わってくるではないか。う~ん、そうだろうなあと何となく感じてきたことではあったが、ここまで客観的データから明瞭に浮かび上がってくるとは ・・・・。

ただ、本文には「社会(有権者)の高齢化が進む中で増税等による負担増には反対して、社会保障や財政赤字の問題を将来へ先送りする傾向が強まっている」と、高齢者がいかにも自己本位というか、逃げ得、もらい得を狙っているというか、ややネガティブな文章表現でまとめているのだが、今回のデータ分析結果から、ここまでは言えないと思う。寧ろ、高年齢になるに従って、防災コストは結果として子や孫に託するしかしようがない、そう意識するようになると受け取るべきだろう。実際、基本因子の三番目<子や孫が受ける災害への関心>に年齢ファクターは有意な影響を与えてはおらず、年齢が高くなるからといって、その人が利己的になるという証拠は不十分だ。

今回確認できたことをどう解釈するか、それをどのような政策に反映させていくかが鍵となるだろう。要点は、

  1. その人が現に子や孫を持っていない場合は、子や孫の世代が受ける災害には、より無関心となる。
  2. と同時に、防災コストを子や孫の世代に転嫁しても問題はないと考える傾向が強まる。

所詮は他人の子だからねえ・・・身も蓋もないかもしれないが、こうした原因でこうした心理が社会の根底に形成されていく可能性があるのであれば、単にライフスタイル選択の自由ばかりではなく、より持続可能な社会の観点から、注意をしながらフォローしていく必要があるのではあるまいか?防災コストにとどまらず ― 上で引用した本文からも同じ思いは伝わってくるが ― あらゆる社会保障コストについて同じことが言えるかもしれないのだ。いわゆるDINKs(Double Income, No Kids)の増加は、それ自体として今の社会を自己本位化し、(声なき)子や孫にとって一層過酷な現在世代を作り出す原因になる。そうも言えるかもしれない。意図的にそんな風に考えている人がいるとは思えないが、傾向としてそんな傾向のあることを否定できない。この事実は、それなりに重い、そう思われる分析結果である。

2011年9月28日水曜日

東電社員の給与を公務員並みに引き下げよという提案について

やはり出てきたというのが枝野経済産業大臣が提起している「東電社員給与引き下げ論」である。

日経には以下のような報道がされている。
東京電力福島第1原子力発電所の事故被害の損害賠償を支援する「原子力損害賠償支援機構」が26日、開所式を開いて本格始動した。枝野幸男経済産業相は式典のあいさつで、東電の役員報酬や給与について、公務員や独立行政法人の職員並みに引き下げるなど厳しいコスト削減が必要との認識を示した。(2011/9/26 13:11配信)
 経産大臣としての公式発言だから、枝野氏の個人的思想によるというよりも、行政組織である経済産業省の見方もかなり含まれていると思われる。

さて、これをどう考えるかということだ。

制度として発送電市場の独占を認め、総括原価方式に基づいて、ほぼ言い値の電力料金を国に認めさせておきながら、驚くような役員賞与、平均を遥かに上回る給与を社員が得ているなら、これは典型的な<既得権>であり、これ以上の<アンフェア>はない。この種の既得権は絶対に除去しなければならない。この理屈は非常に分かりやすい。国民は電力、エネルギーという基幹産業だからこそ、競争市場に委ねた場合の万が一の不安を回避して、法に基づく独占を認め、その代りに安定供給をより確実にした。事実として電力会社は市場を独占しているからと言って、普通の独占企業のように独占利潤を形成してよい、正常な水準よりも高い給与をもらえるという論理にはならない。法で独占を認めたからと言って、国民は自らの負担で電力会社の高収益・高所得を支える義務はない。それはその通りであり、100%正しい考え方だと小生は考える。

しかし、「正常な」役員賞与、「正常な」賃金で電力会社を経営し、会社も「正常な利益」を享受せよというのであれば、そうした上でなおも制度的独占を認めておくよりは、エネルギー産業を自由化する方がずっと簡明・透明・賢明である。市場にゆだねれば、同じ結果が、国会や官庁の介入もなく、もっと低コストで享受できるはずだ。もちろん政府・独占企業が一体で事業を行うよりは、競争メカニズムにまかせる分、現在とは異なった問題が生じてくるだろう。しかし、生じた問題は解決すればよいではないか。市場メカニズムを補正する理論・政策はずっと研究され、ツールも多岐にわたるが、閉鎖的な独占体制が堕落した時に問題を解決するための理論はほとんどない。<修正力>は働きようがないのである。

市場によってエネルギー産業を運営すれば、全国津々浦々、過疎地への100%送配電あるいは停電ゼロ%など、過剰なほどの安定供給は難しくなるかもしれない。それは郵便事業と同じである。市場による最適化とは、需要サイドの欲求を与えられたものとして行う生産の最適化ではなく、供給サイドの欲求とも両立させながら行う需給両面の最適化だ。しかし、過疎地でのエネルギー生産、エネルギー消費のためには、バイオマスや地熱発電など自然エネルギー利用が研究され、道が開かれることになるのではないか。そこから新しい公共サービス、新しい集落形成、新しい地域振興戦略を展開する余地も出てくるのではないか ― 本ブログ投稿者は新しいことが好きなものですから。

産業自由化からもたらされる全ての結果が出尽くした後、(東電が今後どうなるかは知らないが)大手電力会社、エネルギー企業の役員賞与・社員給与が、どの位の水準に落ち着くか?

決して即断はできないが、その給与水準が公務員程度の高さにとどまるとは到底考えられない。事業経営者は事業リスクを負担する。わかりやすく言えば、株主への配当と役員賞与とはほぼ比例するはずである。その配当が理論的株価に対してどの位の利回りになるかだが、事業リスクのある分、国債利回りよりは高くならなければ、そもそも事業に資金が投下されない。政府はリスクを負っていない ― いや、最近は金融機関への公的資金注入、公的年金事業などの形で政府も多くのリスクを引き受けているが、この話題は別に論じる ― 無リスク部門である。だから、政府で働く職員は失業リスク、収入変動リスクなどにはさらされていない。そんな政府職員よりは、リスク部門で働く社員の給与は高くなければならない。考えてもご覧あれ。東電は原発が本来有している事業リスクが顕在化して、実質、民間企業としては寿命が尽きていると判断してもよい。これがエネルギー産業の現実である。公務員並みの報酬で人材を投入できる理屈にはならないと思いませんか。

枝野大臣が提起しているように、電力会社の経営陣、社員の給与を公務員並みとするのであれば、電力会社の事業もまたパブリックセクター並みの低リスクでなければならない。そこで働く社員が負担する収入変動リスクも公務員並みのリスクにならなければならない。そうなれば、エネルギー事業が本来もっている様々なリスク(原発リスク、燃料費高騰などの価格リスク等々)は、すべて国民全体が共同して負担するということにならざるをえないのだが、もしそうならば、エネルギー事業は全部まるごと国営化するのが本筋ではないか?

形は民間企業にしておいて、いざトラブル発生という時には国民の負担でトラブル発生に立ち向かうこともせず、そのまま倒産させる、そして新しい事業主体を立ち上げる。万が一、こんな発想でエネルギー産業の再編成を考えているなら、これこそ誠の<アンフェア>。アメリカ社会でいま懸念されている<制御不能な無責任社会>の到来を避けることはできない。

2011年9月26日月曜日

覚書き ― 経済発展と自殺率について(トッドから引用)

昨日の投稿でエマニュエル・トッド「世界の多様性」に言及した。この本は500ページ以上もあり、読みかけのまま、長らくうっちゃっておいたのだが、最近、また読み始めた。

その内、総合的な感想をまとめようとは思うが、ここでは印象的だった個別的な論点をメモしておきたい。

まず第3章「権威主義型」(=家族構成原理の一つ)から。
ひとりが選ばれ、もう一人は排除される。長子相続、末子相続、さらには父の遺産を分割せずに相続するその他すべての方法のメカニズムは、継承であると同じ程度に排除でもある。それは兄弟の不平等を意味しており、その結果として社会空間の非対称的なヴィジョンを含んでいる。この家族の中では、すべての個人は同等の場所と価値を持っていない。すると全ての人間が平等であるとは考えられないことになる。さらに先へ進めると、すべての民族が平等であるとは考えられないことになるのである。権威主義的家族の理想を実践している人間集団のリストは多くを語っている。そこには、あらゆる特殊主義、自民族中心主義、普遍の拒否が凝縮されている。 
(中略)
東ヨーロッパでのドイツの失敗は、征服された民族に平等の原理を適用しない軍事的、文化的な拡大が引き起こした逆のプロセスを描き出す。ドイツは中世以来、商人、職人、言語、さらにはそのきわめて活性力の高い文化によって、オーデル河を越えて至るところに進出していたが、スラブ民族やマジャール民族を同化することは遂になかった。ドイツはヨーロッパのこの地域を文化的なモザイク状態のまま放置することで、それらの民族の文明が形作られることに貢献したのであった。千年の交流の末に、ナチズムはこれら東方の民族を劣等民族だと宣言する。1945年、悲劇は終わる。千年帝国は、権威主義的家族構造が内包する人間の不平等という原理の上に築くことはできないのだ。(108ページ)
権威主義的家族構成原理の特徴としては、相続における兄弟間の不平等、結婚し相続する子供と両親が同居する慣習などが挙げられる。関連する主要な地域、民族は、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、スコットランド、アイルランド、更に日本、韓国・朝鮮、ユダヤ、ジプシーが挙げられている。

日本においては、現民法によって上のような長子相続は否定されているが、同居した息子(娘)夫婦に土地家屋など不動産を、その他の兄弟姉妹には金銭を遺贈する形は、今なお広くとられていると思われる。著者であるトッドは、これこそ権威主義的家族構成原理を特徴付ける行為であると、別の箇所で述べている。

市場経済とその地域の家族構成原理との相性は本書の要点の一つである。たとえば第4章「二つの個人主義」では絶対核家族と平等主義的核家族がとりあげられている。絶対核家族は、アングロサクソン世界で慣習的にとられてきた家族原理である。相続に明確な規則はなく、遺贈は遺言という親の自由意志によって行われる。したがって結果的に兄弟間で不平等が生じる。しかし絶対核家族原理の支配する社会にあっては、親世帯と子世帯は完全に独立していて、親と子が拡大家族を形成することはない。絶対核家族社会では、親子の間に世代的連結はない。故に、相続も親の意思によるのである。平等主義的核家族は、子は親の権威を否定するが、相続は平等である。

識字化、都市化、工業化の複合的なプロセスによるイングランドとフランス(北部)の伝統的社会の根無し草化は、両親と子供たちの補完性に固執する家族的理想によって統合された社会の根無し草化ほどには、苦痛を伴うものではなかった。農村からの脱出が世代を分離し、複合家族の核を破壊するのは、外婚制共同体モデルと権威主義モデルの場合である。核家族を特権化する構造においては影響がない。なぜなら、そのような社会システムでは家族の統一性の早期の分裂は、価値あるものとされており、個人的な自立が幼少期から始まる訓練によって準備されているからだ。
(中略)
きわめてデュルケーム的な変数である自殺の例は意味深長である。19世紀の近代化の段階を通じて、ヨーロッパのいたるところで、自己破壊の頻度が増大した。イングランドの場合はこの増大の現象が顕著に小さいのである。フランス北部の場合は、自殺の増大は大きかったが、20世紀の中葉からは減少が始まり、はるかに問題の少ない水準に戻った。ドイツ、スウェーデン、ハンガリー、フィンランド、オーストリアのような稠密な家族構造の国々では、20世紀は減少期ではなく、むしろ高い自殺率が安定化する時期となっている。(166~167ページ)
スカンディナヴィアの福祉大国では歴史的に自殺率が高い水準にある。このこと自体は、これまで議論されたこともあり、その原因を行き過ぎた社会保障政策に求める意見が比較的多いようだ。トッドの視点は、福祉を志向する社会民主主義の浸透自体が、タテの統合を重視し、国家の役割を重視する権威主義的な家族構成原理からもたらされたものであるとして、その権威主義的原理に含まれている細分化の意識が現代社会のもたらす不安をむしろ増大させるという矛盾に、高い自殺率の根因を求めている。う~む、中々、深い認識であるなあと感じいったところである。

日本も戦前期までは、この国で連綿と続く<家の制度>を柱とした完全な権威主義的家族構成原理をとっていた。戦後に民主化されたものの、祭祀権は依然として長子が継承するものと規定されていたり、長男が特別視されたり(そもそも皇室がそうである)、嫡出子尊重の意識は払拭されてはいない。正統を尊び、本流を尊ぶ意識も日本人の潜在意識に濃厚に残っている。その意味では、日本はいまだ完璧な権威主義的な家族構成原理に立つ国だと見られる。

本ブログで、「なぜ日本人の幸福度は低いのか?」を以前に投稿したが、その中でOECDによる幸福度指標を紹介した。さらに、幸福度指標の低い国はいずれも自殺大国である点にも言及した。それらの国は、ロシア、中国、日本、韓国、フィンランド等々も含め、家族構成原理が共同体型であるか権威主義型である、核家族原理をとっていない国である点は、大変意味深いと思うのだ。

家族構成原理は、その社会の人類学的な特徴であって、いわば<社会のDNA>とも形容できるだろう。現在のグローバル経済を特徴付ける経済システムが、競争原理に基づく市場経済だとすると、流動的な社会組織を良しとする国は価値規範ととるべき行動とがマッチするため時代が求める課題を容易に解決できるはずである。しかし、それ以外の国では、市場経済に即した問題解決を図ると、社会的不安が増大する可能性がある。

ま、論点が多岐に渡るので、短い議論で全てを語ることは難しいが、一つあげておくと、社会のあり方を、市場メカニズムのもたらす利点に基づいて議論するやり方は、ひょっとすると特定の文化人類学的前提にたった、特殊な議論であるのかもしれない。

2011年9月25日日曜日

日曜日の話し(9/25)

19世紀から20世紀初め、第一次世界大戦にかけての時期、ヨーロッパ世界は激動期にあった。近代欧州の古き良き時代、Concert of Europeの終焉をもたらした要因の第一は、普仏戦争においてフランスが敗北し、ドイツ帝国が誕生したことにとどめをさす。1871年。これ以降の世紀末30年、英仏対立という何百年来の関係が独仏対立へ変質。英仏協調、露仏協調、ドイツ民族主義の台頭へ国際関係は大きな曲がり角を迎えた。この後の進展は周知のとおり。

ハプスブルグ帝国末期の文芸興隆と言えば、平日ならばメンガー、ベーム・バヴェルク、ハイエク、シュンペーターといった錚々たる経済学ウィーン学派を語らずにはおかない。精神分析のフロイトもそうであった ― 但し、フロイトの学説は権威主義的家族構成を原理とするドイツ民族(アングロサクソン、ロシア、中国などとは異なる)に当てはまる特殊なものであるとの指摘もあり。たとえばエマニュエル・トッド「世界の多様性」を参照。

クリムト。いいですね。2,3年前にはクリムトの作品をデスクトップに飾っていました。
Klimt、The Kiss、1908年

クリムトもまた帝国末期のウィーンでグループ「分離派(Wiener Secession)」を主導し、古典を規範とする伝統派からの離脱を目指して、自ら行動した。文芸革新を目指すこの理念は、ドイツのミュンヘンで先に結成されたミュンヘン分離派からも刺激を受けたものだそうだ。何度も本ブログに登場しているロシア人カンディンスキーはミュンヘンで画業を開始している。一群の人たちが旧来の規範から離脱して、新しい模範、新しいスタイルを創造しようと苦心した。第2回分離派展を開催するため分離派会館を建設したが、その建設をカール・ウィトゲンシュタイン(論理哲学者ルートビッヒ・ウィトゲンシュタインの父)が支援している。本当に多くの若い世代が参加した運動だったわけである。それが帝国の崩壊を是認し加速するものであったかはまだ詳しく調べていない。しかし、20世紀の欧州を特徴づけた帝国の崩壊と革命の進行をもたらす精神的基礎にはなったのだろうと思う。

ここで小生が非常に関心をもって、これから調べていきたいと思っているのは、この時期に重なるようにグローバル・パワーとして登場したアメリカ合衆国。アメリカ的精神と第一次世界大戦直前のヨーロッパ的精神には断絶があるような気がするのだな。第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて世界のヘゲモニーには新旧転換が行われたのだが、ここで時間的連続性が途絶えている。未来を志向したのか、初期の混じりけのない何かの精神に先祖帰りしたのか、特定の民族のイデオロギーが支配的位置についてしまったのか、まだよくは分からないが、大きすぎるテーマでもあり、これはまたいずれ場を改めて書き記すことにしよう。

2011年9月24日土曜日

リンク集 ― 産業空洞化への正論・世界経済二番底

円高進行+企業の海外移転→産業空洞化と日本衰退。こんな因果関係が高校の化学の教科書にある化学反応式のように唱えられ、かつ信じられている。

以下のように正論が堂々と出てくるのは喜ばしい限りだ。ただ書いている筆者が外国人であるため、外国人は気楽なものよと根拠もない忌避感に出会わなければよいがと思う。

「海外移転=空洞化」と考えるのは誤りだ(リチャード・カッツ、東洋経済オンライン)

特に以下の下りは、政策当局の人たちにも、是非、しっかりと考慮の中に入れて欲しいと思う。
生産の一部を海外生産に移行している製造業者を見た場合、海外生産比率は、1990年の17%から97年には31%へと上昇している。その後は30~33%あたりで推移してきたが、今後この比率は大幅に上昇するだろう。 
海外への投資は国内にも好影響 
しかし、米国の例を見ればわかるように、生産の海外移転は必ずしも空洞化を招くわけではない。逆に、前向きなグローバル化が国内の経済成長を後押しする可能性もある。企業の海外での成長と国内での成長との間にプラスの相乗作用を生み出すこともできるのだ。
(中略)
ただし、今日の海外直接投資の増加は、単なる「空洞化」以上の効果をもたらす可能性を示している。これまで国内市場に依存してきた企業の売り上げが拡大する傾向が見えてきたのだ。
資生堂を見てみると、海外での売り上げが占める比率は、10年前の10%から現在は40%へと急上昇しており、13年の目標を50%に設定している。マッキンゼーが発行した『Re-imagining Japan』(邦訳『日本の未来について話そう』)の中で、資生堂の前田新造会長は、日本企業は多様性に乏しく、現在の思考パターンを変える努力は、会社のトップから始めるべきだと訴えている。事実、資生堂は、経験豊富な外国人、カーステン・フィッシャー氏を国際事業担当の役員として迎えた。
 日本企業が多様性を実現できないでいるのは、社内・関係先の保守的集団が余りにも強い発言力をキープしているからだ。技術革新は創造的破壊という位だから、必ず反対する人たちがいる。イノベーションは日本語では「新結合」と訳している。結合されるのはモノとヒト、両面を含む。全てのテクノロジーは新結合を経て、世の中に登場した。国籍をとわずヒトを採用して、製造元を問わずモノを調達して、新結合を試そうとする努力を「企業活力」と呼んでいる。受け身から攻勢へ。これは日本で業務を続けようが、外国に打って出るかを問わず、これからの時代の流れだろう。 ― でも反論はあるだろうなあ。創業の理念、本店だけになっても守りたい発祥の地、コーポレイト・アイデンティティをどう継承していくのか、等々。最後は、現場の頑張りと判断で決まることだ。

実はこういう趣旨の議論は、日本人エコノミストであれば、たとえば野口悠紀雄氏も同じ見方をしてきた。同じ今週の東洋経済オンラインで同氏は<日本製造業の農業化>を論じている。戦後早々の昭和20年代、日本政府は弱体であった。政府も企業も家計も財産を失っていた。しかるにホンダ、ソニーはこの時代に誕生して成長した。トヨタが自力成長路線をたどったのも戦後だ。ダイエーも東レもそうだ。

ところが、いま海外に打って出るべき時代であるのに、日本政府に要請というと耳あたりはいいが、法人税を下げてくれとか、電力料金を上げないでくれとか、つまりは財政収入は他人の財布から集めてくれ、と。いまお上の保護を声高に求めるのは、農業だけではなく製造業もそうなってしまった。それを野口氏は鋭い論理で指摘している。

国と企業の強さは関係するのか?(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

世界経済情勢も7月から9月にかけて急速に悪化している。

How to Prevent a Depression (Nouriel Roubini, Project Syndicate)

Roubini氏の見解で面白いと思ったのは、最初と5番目の意見。
First, we must accept that austerity measures, necessary to avoid a fiscal train wreck, have recessionary effects on output. So, if countries in the eurozone’s periphery are forced to undertake fiscal austerity, countries able to provide short-term stimulus should do so and postpone their own austerity efforts. These countries include the United States, the United Kingdom, Germany, the core of the eurozone, and Japan. Infrastructure banks that finance needed public infrastructure should be created as well. 
Fifth, debt burdens that cannot be eased by growth, savings, or inflation must be rendered sustainable through orderly debt restructuring, debt reduction, and conversion of debt into equity. This needs to be carried out for insolvent governments, households, and financial institutions alike.
先日、朝日新聞に寄稿した榊原英資元財務官の見解と上のRoubini氏の意見は、景気対策との関連で判断する限り、概ね同じであると見た。

興味を引くのは、5番目だ。確かに返済しきれない債務は出資(≒所有権)への振替で弁済義務からは免れる。しかし、これって暮らしてもいいが、今日からはこの土地、建物とも▲▲様のものだからな、そう心得ておけ、と言われて心細そうに身を寄せる住人たち、そんな時代劇のシーンを思い起こさせる。そんな場面が国境を超えて、白い騎士を演じる▲▲国とギリシアの間で見られたりするのだろうか?ま、どちらにしても国家も破産する時代である。

The Great Debt Scare (Robert Shiller, Project Syndicate)

こちらは消費者態度指数などの心理調査が急速に悪化したことを論評している。たとえば最後の下り。
The timing and substance of these consumer-survey results suggest that our fundamental outlook about the economy, at the level of the average person, is closely bound up with stories of excessive borrowing, loss of governmental and personal responsibility, and a sense that matters are beyond control. That kind of loss of confidence may well last for years.
That said, the economic outlook can never be fully analyzed with conventional statistical models, for it may hinge on something that such models do not include: our finding some way to replace one narrative – currently a tale of out-of-control debt – with a more inspiring story.
借金棒引きは制御不能な無責任社会を(一時的にもせよ)作り出す。債務のリスケジュールは金融恐慌のあとでは必ず必要になる政策ツールなのだが、社会全体に及ぶ副作用もまた甚だしいものがある。小生は上の下りを読んで、アメリカ社会はいよいよ<日本病>の症状を呈してきたと思った。

Project Syndicateを見ていると、次の記事を見つけた。「幸福の経済学」。本ブログに昨日投稿した文章の趣旨にも関連するので、つい読んでしまった。ま、当たり前のことが書かれている。GDPと幸福とは全く別でしょう。 ブータンが国是としているGross National Happiness (GNH) が主たる話題になっている。

The Economics of Happiness (JeffreyD.  Sachs, Project Syndicate)

2011年9月23日金曜日

社会科学で幸福を製造できるわけではない

今日は秋彼岸。毎年、近くの寺である彼岸会に参詣することにしている。小生は、既に父と母を亡くしており、たまたま今日は母の命日にもあたるので、寺院の儀式というより、法要のつもりで参加している。

宗旨柄、その中で住職が法然の一枚起請文を読む。我々はそれを聞いている。小生は、大体、最初から最後まで眼をつぶっている。が、今日は配布された読本を目で追いながら聴いた。

聞いている内に「ああ、こういうことなのかもしれないなあ・・・」と、思うこともあったので、書き留めておくことにした。

オリジナルはこんな文章、というか古文である。
一枚起請文
源空述 
もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。  為証以両手印
浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を
存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。
建暦二年正月二十三日
源空(花押)
下線部を引いたところだが、つまりは、専門家が議論に用いる色々な概念や論理では、人間は救済されない。それは単なる学問であり、現実の救済とは無関係である。金銭欲とか、出世欲とか妬みとか、人間が本来持っている色々な心の汚れは当人をも傷つける病だが、そういう性悪的本質を乗り越えて、曇りのない、朗らかな人生の境地に達する。そんな救済を希望しているのであれば、議論ではなく、人間を救済する力のある主体に祈るしかないわけである。<人事を尽くして天命を待つ>。超越的な議論をしても、相手を批判ばかりしても、それは空の理屈にしか成らぬわけで、余計な議論はせず、懐疑をもつことなく、救済主に対する信念(=信仰)に基づく行動をとるべきだ。それなくして、議論をいくらしても意味がない。要は、議論より実践。頭じゃなくて、体を使え・・・・

ああ、そういうことであったか、と。

小生は哲学なる学問が、どの程度まで人間の知識を向上させるのか、専門外でもあるので深く研究したことはない。 しかし、木田元「反哲学史」(講談社学術文庫)は、これまで何度も読むことがあり、その度に気がつかなった文意をすくいとることが常であり、これだけは自信をもってお勧めできる。

この本は、ニーチェまでをとりあげているが、主題は、人間の認識の限界をどこにひくか?どんな問題をとりあげても、筋道を整理して考えて議論をすれば、<正解>というか<正しい認識>に至ることができるのか?考えてもムダである問題はあるのじゃないか?どこに限界があるのか?神がいるかどうかを考えることに意味があるのか?幸福な人生は何かを考えることに意味があるのか?ま、とにかく面白い本であり、単なる入門書ではない。

今日、目をつぶって(寝ていたわけではないが)聴きながら考えたことは、学問的議論をいくら積み重ねても、人生の最も大事なことは分からないものだ。だとすると、西洋の哲学史でも、同じ問題をずっと議論していたなあと。これは古くて新しい問題だ。この問題意識を一枚起請文の中にも感じた。そういうことであった。

たとえば社会科学がある。経済学では経済政策を議論する。そこでは物価の安定や雇用の確保、国際収支や財政均衡などを議論する。これらは政策の目標だと言う。しかし、物価を安定させたり、雇用を提供すれば、人々がそれで幸福になれると言っているわけではない。まして産業空洞化を阻止できれば良い日本でいられる。財政を再建すれば日本は幸せな国になれる。そんなことは全然考えてないわけである。考えていると政治家が言うから誤解を招く。そうではなく、設備や人が余っているのに、仕事がなくて働きたいという人がいる。これは理屈に合わないよね。あくまでもそういう問題である。非自発的失業の発生が<論理的>に説明されるなら、それは合理的であり、人為的に操作しようとするほうが非合理になる。科学は、どこからどこまでも、理屈に合うか合わないか、だけである。

一方には、この国に生まれてきて良かった。もう一度、こんな人生を生きられたらどんなにいいだろうと思う人がいる。その正反対に、生まれ変われるとしても、此の国だけは嫌だ。自分の人生をもう一度繰り返すのは嫌だ。そんな人がいる。自殺を選ぶ人もいる。それは、後者の状態に陥っている人を前者の状態にすることができれば、いいに決まっている。そうできるだけの科学的理論があれば、政策技術もついてくるわけで、もはや宗教はいらない。その時、人間社会は<幸福製造技術>を手にするわけだ。

しかし、<幸福のレシピ>は、物質的な素材だけではなく、精神的なものも含まれていると小生は思う。科学が発展すれば、そのうちエネルギー制約も克服するかもしれない。不安は一つなくなるはずだ。しかしその分、人間は自分の寿命を心配して不安になる。自分の子供の命を心配して不安になる。他人を妬むことは止められない。名誉欲を止められない。金銭欲も捨てられないだろう。人間は精神的な面で満ち足りることはない。矛盾に満ちた怪物である。そんな人間が、平穏な心で、他人を愛し、世の中を愛し、ああ生まれてきて良かった、などと思うのは、それが神様の求める道であり、倫理の求める道であるという揺るぎない心がいる。つまりは、信仰なくしては本来は無理かもしれないのだな。

1945年以来の戦後日本 ― 第◯天皇制になるかは知らないが ― は、モノで栄えてココロで滅ぶと言われてきた。精神的価値の喪失というと、まるで三島由紀夫の模倣のようであり恥ずかしいのだが、一枚起請文が書かれた建暦2年というのは西暦1212年、天皇の治める日本から武家政治の世に変わる激動期だった。大層古いのだが、結構、現代世界にも通じる観点じゃないか、そう気がついた次第であり、書いておいたわけだ。

そのココロで滅んでいる現代日本人が、モノでも大震災と原発事故、円高で滅んでしまうと、物心両面で滅ぶことになる。この10年が崖っぷちだろう。

2011年9月22日木曜日

米FRBのツイスト・オペレーション

第三次量的緩和(=QE3)がいずれ実施されるのではないかと予想(ないし期待)されているアメリカのFRBだが、今回は先ずバーナンキ議長主導下で、短期債売り、長期債買いのツイスト・オペレーションが採られることになった。

Bloombergでは以下のように報じられている。
The Federal Reserve will replace $400 billion of short-term debt in its portfolio with longer- term Treasuries in an effort to further reduce borrowing costs and counter rising risks of a recession.
The central bank will buy bonds with maturities of six to 30 years through June while selling an equal amount of debt maturing in three years or less, the Federal Open Market Committee said today in Washington after a two-day meeting. The action “should put downward pressure on longer-term interest rates and help make broader financial conditions more accommodative,” the FOMC said. (By Scott Lanman - Sep 22, 2011 8:17 AM GMT+0900)
効果としては、いまの実体経済の状況から、短期金利はわずかに上昇あるいは横ばい。長期金利は低下。長期金利の低下は設備投資需要を刺激するはずであるという目論みだ。

学部レベルのマクロ経済学の目線で議論すれば、金融政策で長期金利を低下させれば設備投資需要を増やせるという話しになり、投資需要の増加は経済全体に波及して景気拡大に結びつくという結論になる。しかし、実際に設備投資を決めている要因は長期金利ではなく、長期的な期待成長率であり、さらに現有設備の稼働率がもっと重要だ。従来事業とは別の新規事業に打って出るのであれば、従来事業とどう取り組むか、現有設備をどう処理するか。バランスシート全体のバランスなども考慮するべきポイントになる。金利が低いままで続くこと自体はいいのだが、金利だけではいかにもインパクト不足だ。

マネーの量的緩和ではなく、ポートフォリオ管理政策を使って短期金利を強めにしようと考えたのは、為替レートへの配慮だろう。しかし、開放体制の下で金融政策が財政政策よりも景気拡大政策としては有効である理由は、金融緩和が安めの為替相場を誘い、それが輸出需要を刺激するという副次効果を期待できるためだ。為替相場も両にらみで、長短金利のイールドカーブを補正することで経済全体を上に持っていこうと考えるのであれば、それよりは量的緩和をしっかり行った上で(=長期国債を買い支えた上で)、政府が財政政策を行う方が、景気拡大にはずっと確実だ。かつ即効性もある。加えるに、いまの時期にドルの短期金利を上げるのは、欧州金融機関にとっては、切ない仕打ちになるのではないだろうか。

要するに、このところの野田新政権への批判 — というより政治評論サービス専門家たちの流行の言い回しでもあるが — 「何をしたいのか、それが分かりませんね」。同じく、今回のFRBの措置も、何が目的であるのかハッキリとしないと思うのだな。

いずれにしても国際通貨としてのドルの信認は、アメリカ経済の構造を考えれば、長期的に低落するのに決まっている。今後時間をかければ、金融部門を立て直すことくらいはできるだろうが、経常収支で黒字を稼げない以上、できるのは海外から借りて高利回りで運用することしかないわけである。である限り、ドルが国際通貨の座を降りるという今の流れを逆転させるのは、もう不可能であると見る。アメリカはまず自国経済の回復を確実にするという観点に立つべきではないだろうか。

2011年9月20日火曜日

マスメディア・ビジネスは品質管理・社内統治とも大丈夫なのか?

マスメディア産業のあり方も、インターネットの拡大の中で、激変期を迎えている。新聞、テレビという伝統的なビジネスモデルが、実は崩壊していることは、随分前から指摘されている。実際、欧米ではマスメディア業界の再編成が進んでいる。

今朝の新聞朝刊には各週刊誌の広告も載っている。「欧州発金融恐慌 — リーマンショックより深刻な事態が来る」。これは週刊エコノミストだ。「日本車が消える」。これは週刊東洋経済。それから「読者のみなさんゴメンナサイ!野田内閣、屁のような醜聞10大ニュース」。これは週刊ポストである。北海道新聞の政治面には「野田首相、公明に接近」、「民主輿石幹事長、党内で求心力急低下」。同じ頁には、「道内12選挙区はいま(下)」がある。

日経朝刊には、首相「小説よりリアル」と。エッ、と思ってさらに読むと「現場を目の当たりにし、小説よりはるかにリアリティーをもって、こういう人たち、こういう仕事を支えていかなければならない」と、フンフン、それと「直木賞を受賞した小説『下町ロケット』(池井戸潤)を読んだことに触れ、夢と志を・・云々」。ああ、そうか。リアルというのはそういう意味だったのかと悟った次第。しかし、「中小の工場視察」と題をうって「首相、小説よりリアル」とサブタイトルをつけるのは、いかにも首相の呑気坊主振りを吹聴しているような書き方じゃなあ。首相がぶら下がりや記者会見に消極的であるので悪意でも芽生えたか?意図的に誤解を与えるつもりではないかと、突っ込まれても仕方がないと思うなあ。そう感じた次第だ。

週刊ポストの方の「屁の醜聞」は、おそらく代金を払ってでもそんな文を読みたいという需要があるのだから、付加価値をまったく生産していないわけではないのだろう。しかし、会計上の付加価値が計上されているからといって、本当にそれは価値なのだろうか?

マスメディア産業もつくづく<売文業>なのだなあと、そう感じるのは小生だけだろうか?事実の伝達、正確な情報の速やかな提供は通信社の役割である。<誤報>を流せば、社の代表者による謝罪が求められる。事実かどうかで通信社には経営規律が加わる。だから不確定な段階では、まだ未確認情報であることを付け加えて報道する。ロイター通信社を初め、通信社の情報販売事業は、電信の発明とともに成長したのであったが、同時にジャーナリズム部門も拡大して、事実をどう見るかを解説するサービスが商品価値をもつことになった。これらをマスメディア産業と呼んでいるのだが、マスメディア事業の原材料と販売商品は何だろうかと時々考えるのですね。

ま、一つ確実なのは広告。これは100%正確な情報だ。間違った宣伝をすれば宣伝をした企業が信頼を失うので、正しい情報を伝えようとする規律が自動的に働く。では、広告以外の記事については規律は、いかなる風に働くのだろうか?

少なくとも毎日印刷しなければならない新聞にとって、首相のぶらさがり、記者会見は、使いつぶしのきく原材料を提供して来た事は間違いがないだろう。その開催頻度が低下した、というより開いていないという現状は、中国政府によりレアアースを止められた日本メーカーの苦境と相通じるように思うのだな。マスメディア企業は、いまの状況を打破したいという誘因を当然もっているはずだ。

今朝のモーニング・ワイドショー「とくダネ!」でニューズウィーク日本支社の竹田圭吾編集長が、数年単位で政策を考えていかなければならないテーマについて、毎日ぶらさがりで取材して、その一言、一言をあげつらう。こんなことは必要ないと思います。ただ記者会見を2週間に一度とか、定期的に開くことは必要だと思うのですよね。こんなことを言っていた。まあ、常識的な見方でしょう。もっと取材コストをかけて、全国津々浦々の政治、行政、産業、国民生活の様々な断面を丁寧に伝えることが、購読者から真に望まれているのではあるまいか?

何を書いてもそれが<報道>に該当するとは限らない。嘘をかけば名誉毀損罪にもなる。本当に事実確認がとれていることのみをマスメディアは書いているのだろうか?そんな審査機関は、事前段階にも事後段階にも、マスメディア社内に公式に設けられてはいないのではないだろうか?まして一定の権威をもち指導権限を有した第三者による「報道内容調査委員会」などは、どこにもないと思っている。

偽装商品が経済犯罪であるのはどうしてだろうか?不当表示が処罰されるべき企業行動であるのは何故だろうか?それは、当該商品に関する正確な知識・情報が欠如している場合、市場による資源配分は適切なものではなくなる。これが経済学の大事な結論であるからだ。不正確な情報の流通が、社会経済の正常なメカニズムに対する障害になるからだ。医療、製薬はその典型的ケースである。それ故、上のような産業では特に正確な情報の開示が求められ、買い手がコンテンツについて十分な理解を得ることが権利として認められている。マスメディアが販売する商品は、文字通りの情報であり、知識であり、見方である。<情報>の伝達と<流言>の伝達は識別困難であることが多い。<情報>と<洗脳>も外見は類似している。正確な情報を得るには取材コストを要するが、流言の取得は低コストである。創作は更にコストが低い。社内統治が必須である理屈だ。

一定の労働と資本を投入すれば、何らかのアウトプットは必ず生産される。しかし、労働価値説は適用できないわけであり、頑張ったから出来たものに必ず価値があるわけではない。価値は<価値>として市場が受け入れることによって、初めて価値になる。価値の生産に市場規律は不可欠なのだな。マスメディア企業は、販売する文章に含まれている事実的要素と虚構的要素を自由にミックスしてよい。そんなことが言えるはずはない。日本語という壁と様々な保護行政に守られ、なすべき社内統治を怠っているという事は本当にないのだろうか?再販売価格制度によって価格が規制され(=保護され)、事業としての存立に国民的負担が投入されている以上は、報道活動、報道内容について、定期的に市場外の審査を受けるべきではあるまいか?

2011年9月19日月曜日

経済発展と民主主義

先日の投稿で民主主義に関するロドリック氏の見解を紹介した。そこでは、あるステージ以上に経済が発展していくためには、どうしても民主主義、民主的な制度が必要なのだという見解が述べられていた。その例外が中国、シンガポールなど。権威主義的政府が支配している東洋の国である。日本も1945年までは万世一系の天皇がこの国を統治するというのが建前だった。

<民主主義不可欠仮説>に立てば、これから中国は変わる、という予想になる。しかし、中国については
呉邦国全人代委員長は、共産党一党独裁が揺らげば内乱の可能性もあるとして「政権交代のある多党制や三権分立、二院制は導入しない」と言い切った。
という紹介もある。本日の日経朝刊に掲載された「西洋の没落、東洋の復権?」(土谷英夫)である。東洋の復権とは以下の下りにあるように欧米の専門家では相当程度まで通念というか合意事項になりつつあるようだ。
ADBは先月、2050年を見通した「アジアの世紀」シナリオを公表した。アジアの勢いが続けば、1人当たり所得は今の欧州並みに、世界総生産に占めるシェアは5割を超え、産業革命以前の地位に復帰するという。(グラフ参照)
イアン・モリス米スタンフォード大学教授は、昨年出版した『Why the West Rules――For Now(西洋が支配してきた理由)』で、歴史をさかのぼり西洋と東洋のどちらが進んでいたかの判定を試みている。
エネルギー消費、都市化度、情報技術、軍事力の4項目から成る社会開発指数で比べると、まず「西」が先行し、ローマ帝国盛期の西暦100年ごろに最初のピークをつけた。
中国が中心の「東」が初めて西を抜くのは6世紀半ば。宋の盛期にあたる1100年ごろがピークで、指数で西を4割方上回った。
1200年ほど続いた東の優位が覆されるのは18世紀後半。西が産業革命(エネルギー革命)で東を突き放し、今日にいたる「西洋支配」の時代になった。
そのシーソーが、また戻ろうとしている。
アジア人の小生にとっても、そしておそらくは日本語で書かれている本ブログを現に目にする皆さんにとっても、このこと自体はそれ程不愉快な予想ではないはずだ。とはいえ、元の状態に戻るだけのこと、そう言ってもいいわけで、別に奇跡的な激変が起こると言っているわけではない。それに小生が生きているうちに、そんな復権の時代は来ないと思う。


 世界総生産に占める中国の国内総生産の比率は歴史統計学の所管だが、清王朝の乾隆帝時代(18世紀)に一つのピークを迎え、その時代、中国は一国で世界の生産の3分の1程度を占めていたという記憶がある - 数字が間違っていたら申し訳ありません。上図をみると、18世紀にアジア全体で50%を超えている。これにはインドが入っているのだろう。ま、これまでの理解とそれ程は違っていない。

民主主義不可欠仮説は、近代産業革命が成功した西洋と東洋の逆転劇から帰納された結論でもあろうが、理論的に人間行動を考えても、私有財産制と自由な起業を認める民主主義制度なくして、技術革新を長期的に持続的に推し進めていけるのか?私的利益の追求、幸福の追求を許容して、自由に参入する権利を認めておかないと発展は無理だろう。そう考えられるというのが、民主主義不可欠仮説の根拠であろう。

しかし、どうなのだろうなあ?ローマ帝国は共和制から帝政になってから大いに発展して生活水準も向上したそうだ。それでも3世紀までは元首政であって、世襲による絶対君主制ではなかった。しかし社会が混乱し、それをディオクレティアヌスやコンスタンティヌスが独裁制、言い換えると真実の意味における皇帝による政治体制に変革したのだった。それで社会はある程度安定した。東ローマ帝国が15世紀まで存続した一因にもなった。民主主義政体をとっていたなら空中分解したのではないかなあ、と。そうも思うのだな。

古代ギリシャのアテネは民主政治をある程度確立した。繁栄はしたが、ペロポネソス戦争で非民主的なスパルタ陣営に敗れ、以後衆愚政治が続き、最終的にギリシア世界はアレクサンダー大王による広大なヘレニズム世界として統合された。どの国も東洋の香りをもつ王朝国家である。

アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである。

大体、民主独裁制の一変種であったヒトラー時代のドイツ、社会主義時代のソ連を民主主義というか?言わないとすれば、どの国からどの国までが民主主義か?民主化インデックスを作るにしても、かなり恣意的であろう。

小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが。

但し、一つ思うことがある。アテネが個人主義的、自由主義的、民主主義的であったのは商業に従事する住民のシェアが農業都市国家スパルタより遥かに高かったためではないか。遊牧民族であるモンゴルは、農業国家中国に比べて、君主の絶対権限がそれほどでもなかったと耳にしているし、世襲による血統崇拝もそれほどではなかったと聞いている。

社会の産業構造、職業構造。その時代を主導するリーディング産業にとって最適である生産システムが、強い共同体を作ってしまうのかどうか、これらが民主主義思想のポジションに反映しているような気はする。だから、小生はこの問題については、マルクスと全く同一の目線をとっているわけであり、正に「下部構造が上部構造を決める」。そう思っている。

インターネットは極めて分権的なシステムである。情報が個人間を自由に流通する。この点をみると、IT技術による発展が一巡するまでは、民主主義国家の優位は続くような気がする。しかし、IT技術は経験カーブが急勾配でスケールメリットが大きい。巨額のR&Dを行い、先発企業となり、世界市場で戦略的優位を占めることが重要になる。少数のメガ企業が世界経済を支配する可能性も小さくない。そうであれば、そんな社会の正当性が理論化されよう。そして上意下達の組織の論理が社会を支配する。そんな可能性もあると思う。

だから、技術とイノベーションの果てにどんな社会が選ばれるか?それは、技術とイノベーションが生み出す果実を活用するのに最も便利な政治制度が、自発的に選ばれていく。そういうことじゃないだろうか?現に選ばれている社会制度は、その時代を生きている人にとってはベストであり、大いに賛美したくなるのも分かるのだが、その制度が永遠にベストであり続けるとは、到底、賛同できない。子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。

そんな風に思ったりもするから、しばしば小生は反民主主義者だとか、アナーキストだとか、変な形容をされたりすることもあるが、自分ではそんなに珍妙な立場に立っているつもりはなく、長い歴史を素直にみれば、誰でもそう思うのじゃないかなあと考えている。

2011年9月18日日曜日

日曜日の話し(9/18)

人間はいつも明日の事を考えて今日やる事を決めているわけではない。
3分後に言うことを決めて、いまやる動作を決めているわけではない。決めているとすれば、それを<演技>という。

すべて人間は、その人の将来予測を前提に、期間全体から得られる満足度を最大にするような行動を選ぶ。経済学では、そんな仮定をおいた上で、消費理論、生産理論を体系化している。いかにも合理的だが、実はおかしな所がある。将来予測など的外れに決まっている — 予測が本筋をついていると分かっているならこんな楽なことはない。的外れの見込みに立って、理詰めで計画した行動など、はなから的外れに決まっている。だから人間、バカばかりするわけだ。大体、いつも先ばかりを読んでいる人間はつまらない行動をとるものだ。これではジョークにもならないので、人間が考える将来は基本的にその通りになる。経済学はそう仮定して理論を作っている。<合理的期待仮説>はそんな風にうまれてきた — ちょっと脚色が混じっているけれど。

今日の道新に、先日大臣を辞任した鉢呂吉雄氏のインタビュー記事が載っている。

「死の町」という言語表現は、本当に心からそう思ったから、そう話したということだ。放射能云々の場面だが(インタビュー記事によれば)議員宿舎に戻ると記者が5、6人いて、当日の積算放射線量が85マイクロシーベルトにもなった、と。そんな話しをした記憶があるが、他は何を話したかよく覚えていないそうだ。記者に近寄っていって、ホレホレという仕草をしたというのは、その場の人が大体話しているようだが、やりとりした台詞がどうだったか、報道自体もマチマチだ。記者の皆さんも、とっさでよく覚えていないのだろうなあ。

多分、何か定まった事を言おうと思って、意図的に近寄っていったのではないのでしょうなあ。何か言おうと思って、近寄っていったが、いい言葉が思い浮かばなかったので、動作でホレ、ホレと・・・これはありうるな。

ま、とにかく分からない。でも、こんないい加減なところ、よくあるでしょ。いい加減と言えば、報道も非常にいい加減であった。これって、第三者による<報道内容調査委員会>を立ち上げなくてもいいのだろうか?でも、人間、こんなものじゃないか、ギシギシ、詰めなくともいいか。

3月27日付け投稿で小生が暮らしている町の近郊風景を描いている絵の途中段階をお伝えして、枠線で囲んだ箇所には、たとえば犬と散歩する少年を書き加えようか、そんな抱負を記している。いやあ、そんなことを考えてたんだなあ、と。


結局、カンディンスキーが描いたミュンターをそのまま拝借してしまった。オリジナルは以下のとおり。
Kandinsky, Gabliele Muenter Painting, 1903

生身の(それも愛している)人間を描いているのと、描かれた絵を自分の絵の一素材に借用している違いが、生なましく出ている。ホント、情けないねえ。一筆一筆にこめる愛情のレベルが全く違っている。それとも事前の計画どおりに描くべきであったのだろうか?しかし、計画どおりにやるなんて、そんな風に決めてしまって、自由などないではありませぬか?自由なきところに創造なし。その位は小生程度のアマチュアも言ってよいのではないか。哲学者スピノザが言ったそうだ。投げられた石に自由意志があれば、自分は自由に空を飛んでいると考えるであろう、と。実は、その石はそのように飛ぶしかなかったわけである。

でもまあ、カンディンスキーの作品と自作が互いに接して上のように並べられるなどは、自分のブログでくらいしか、実現されえない。これまた一場の一興ということで。

2011年9月17日土曜日

リンク集 - 日・米・欧の今日この頃

復興財源プランが昨日、今日あたり出揃ってきた。これに平行して、当初は世論調査で驚異的支持率の数字を叩き出した野田新内閣にも死角ありというか- 簡単にいえば嫌がらせにも感じられるが- 色々とネガティブな文章表現が目に入ってくるようになった。

さしづめ以下の記事は元友人・知人の証言も含まれており、やっぱり読んでしまいますね(ミーハーでゴシップ好きなものですから)。

「ドジョウ・バブル」はいつはじけるのか?(出井康博、時事ドットコムより)

小宮山洋子厚労相が発言したタバコ増税。復興財源のB案に所得税定率増税と併せてタバコ値上げが挙げられているが、さては小宮山発言が伏線であったのか・・・。タバコは価格弾力性が低いように思われるので、増収にはなるだろうなあ、とは思う。しかし、これは「イジメ」ではないか、と。小生自身も若い頃には愛煙家であったので、まだ続けていたらやっぱりイジメ論には賛同するかもしれない。代替商品が見当たらないからなあ。噛みタバコとか、嗅ぎタバコとか、トルコ風水タバコとか、ちょっと調べると健康に問題があって、代替品にはならぬ。酒は飲めない人がいるし、このストレス社会で嗜好品は必ず必要でありんしょう、どうしてくれるのでござんすか?小生だってそう叫びたいと思う。幸いなことに、我が身はいまのところ毎晩の晩酌で事足りているが、カネのないお上に情けを求めてもダメだろう。

たばこ増税の意味(佐藤健、政治ブログより)

アメリカ経済の日本化がいよいよ避けられなくなったと見る専門家がボツボツ出てきている。移民に対して開放的で、若年人口がまだ増えているアメリカで、そんなことはないだろうとは思うが、<アメリカ商品の国際競争力>が焦点になれば、確かに危機である。下の記事はそんな目線の一つの典型。

What could America be good at? (Econbrowser)

ただアメリカには、現状を打ち破る(打ち破ろうとする)人間に対して社会がウェルカムである。株式市場に玄人も素人もすべて参加して決まってくる株価という企業評価。それを素直に受け入れる社会的土壌もある - おなじ<ドジョウ>でも、こちらは社会の進歩を左右する大事な要素だ。

アップルとソニー - その差はどこにあるか?(野口悠紀雄、東洋経済オンライン)

野口氏も言うように、「あれは大したことはない」と言っているようでは、戦前期の陸海軍と全く同じである。ライバルをなめていますな。夜郎自大だ。上の記事でソニーとアップルがこの10年でたどった株価の推移が描かれているが、つまるところ企業の価値は人の価値、仕事の価値。小生は、亡くなった父親が昭和30年代にソニーのテープレコーダーを購入した時以来の大ファンであったが、いまは宗旨替えをした。いま本投稿を編集しているPCはパナソニックのLet's noteである。ビデオカメラもキャノンである。テレビもパナである。ソニーのVAIOをずっと前に勤務先で買ってもらったことがあるが、余りの鈍速ぶりに企業の良心に疑問符をつけ、以後は宗旨替えをしてしまった。本当に残念である。小生の母親が亡くなる直前まで愛用していたのがウォークマンであっただけに。

日本の部品メーカーは「すごい」という自画自賛で見落とされた日本企業の弱点(ダイヤモンド・オンライン)

これは製品戦略の議論になるが、つまりは競争回避と参入障壁形成である。確かに、ライバルが参入するためのコストを高めに維持しておくことは参入障壁になる。そのためには製品多様化でブランドの傘を林立させておけばよい。究極の多様化が顧客との密着路線になるのは分かる。

なぜこれほど競争を回避するのだろうか?かつて模倣をして相手を駆逐したアグレッシブネスはどこへ行ったのか?そう思ってしまう。アップルの成功をみても、全ては為替レートのせいではないと思うがどうだろう?

最後にユーロ圏について。


もちろんアメリカ人Krugmanから見れば、不思議に思われる現象もあるようだ。

Math is hard, Euro Edition (Krugman, The Conscience of a Liberal)

欧州では、ソブリンリスクと金融機関の経営不安、ユーロ安に中々歯止めがかからない。

しかし、欧州は問題発生の原因が相当程度までわかっている、やることがわかっている。やるべきことを残してきたのだから、それをやればよい。つまり財政政策の統合である。治療方針の明らかな経済問題であるから、治療を進めるプロセスにおいて抵抗はあろうが、それしかないのだから、結局は解決していくしかないだろう。前へ進むだけである。そんなタイプの問題だと思うのだ。

ひるがえって、ここ日本では実に長い期間、ずう~っと、増税は是か非かでグズグズしている。これほど山手線のようにグズグズと同じ議論をしている国はない。小さい政府を志向して年金カット・歳出削減。それとも年金維持・増税のいずれをとるかで激論がおさまらないというなら、まだ見込みがある。理屈は二者択一であるのに、その二者択一に向き合っていない。

こんな問題は正解がないのだから、選挙で決めるしかないのである。だから先ずどちらかを実行して、解散をすればよいのである。勝てば変更はしないし、負ければ路線修正がされる。いくら世論調査をしても、一回の選挙にはかなわない。

このアタリマエのことがなぜできないのか?小生には原因が分からない。原因が分からない分、治療が難しく、欧州よりも日本の方が問題は深刻だと思っている。

2011年9月16日金曜日

榊原元財務官は増税時期尚早論

二日続けて官僚論を書いてしまったが、「官僚論」なる話題、これ自体日本以外の国にもあるものだろうか?

そりゃまあ、レーガン大統領が就任間もない1981年に連邦政府職員である航空管制官組合がスト権なきストを敢行した際、ストに参加した職員を全員解雇し、代替職員を任用した、米国民はその強硬姿勢をこぞって支持した・・・そんな目を引くような事件でも起これば、官僚なり公務員が話題になることはある。

しかし、外国で政府与党の唱える基本方針に現場の官僚が異を唱えているとか、たとえば中国の閣僚が国務院と国務院の下部機関である民生部、財政部など、縦割り組織ごとに洗脳されて、政治家自体が財政族とか、民生族とか、国防族のように利害集団を形成しているだろうか?温家宝首相は▲▲畑出身だから▲▲部の官僚全体がバックにいるというようなニュースは絶えて聞いたことがない。

日本においても、江戸時代に大老や老中が、町奉行、勘定奉行といった玄人衆の縦割り組織に分断されて、業務範囲ごとに族をつくって対立した。そんなの聞いたことがありませんなあ。荻原重秀が一勘定奉行の身をもって老中すら一目をおく存在であったらしいが、それは個人としての信認であり、彼が率いる勘定奉行所エキスパート達が一大派閥を形成し幕府を壟断したわけではない。第一、荻原は失脚している。

官僚は、単なる事務執行担当職員である。英国でキャメロン首相が推進する財政再建に対して英国大蔵省次官が異論を唱えているとか、英国の内閣が親大蔵省、反大蔵省に色分けされているとか、オバマ大統領の基本方針に国務省の担当局長が反対論を述べているとか、(水面下の日常世界では色々あるだろうが)、こんなニュースは流れてこない。あったとしても、そもそも大したニュースではない。越権行為を行った職員が規則に基づいて処分されるだけのことである。これはビッグニュースにはなりえない理屈である。

ところが日本では<官僚>の存在がかくも大きい。奇妙である。それはやはり彼らの権力であろうと思う。だから、今日で三日も連チャンで、書くことになってしまったのだな。

与党民主党は選挙に勝利して政権交代を果たし、誰もが認めざるを得ない<正統性>を有していたのだから、何も事業仕分けなどを大々的にやってから、予算組み替えをしようなど、そんな下手な手順を踏むことなく、財務大臣が財務事務次官に与党の方針に沿った組み換えを命令すれば良かったのである。反対すれば幹部クラスを総入れ替えするべきだし、技術的にできないと言うなら出来るという別の職員と交代させればよいのである、というか、それが公約を国民から付託された新内閣の義務ではないかと思うのだがなあ・・・不思議だ。もちろん結果の責任は内閣がとらないといけないが。

× × ×

今日は昼まで会議があり、終わってから久しぶりに町まで坂を下り、いきつけの蕎麦屋に入った。なめこおろしを食べながら、朝日新聞をパラパラとめくる。すると榊原元財務官の談話が載っている。
恐慌とはいわないまでも、世界は同時不況の局面に入った、というのが私の認識だ。
アメリカでも33年の大底からニューディール政策によって回復して、その後37年にもう一度落ち込んでいる。
リーマン・ショック直後は新興国が世界経済を支えることもできたが、いまは金融緩和であふれたマネーが生んだバブルやインフレのせいで、それが難しくなっていることも問題だ。(中略)新興国は中期的には成長を続けるだろうが、米欧とのバトンタッチがうまくいかないために世界の危機は深刻化しそうだ。
先進国では金融機関が不良債権を抱え込み、マネーが事業投資に回らず、新興国では急速な需要膨張で賃金が上昇、物価に跳ね返り、不動産バブルも制御できなくなっている。このままでは新興国でバブル崩壊が起こり、新興国の金融機関が機能を停止するかもしれない。金鉱山でも見つかれば、金が世界に出回り、信認性あるマネーの拡大は各国の貯蓄積み増しへの動機を弱め、支出を刺激し、かくして世界の総需要がまた拡大するかもしれない。

しかし、金鉱山が見つかるチャンスは限りなくゼロに近い。
ドルは引き続き基軸通貨だが弱くなっていき、やがて通貨の「無極化」つまり混乱の時代に陥るのではないか。米国は積極的なドル安政策とまではいえないが、ゼロ金利継続に伴うドル安放置政策であり、欧州も信用不安と超低金利を背景にユーロ安が続くだろう。このため円相場は年末までに1ドル=70円台前半から60円台に上昇することも想定される。
(中略) 
国際通貨基金(IMF)や欧州中央銀行(ECB)などの国際機関があることが救いだ。大恐慌を防ぐために、たとえば世界的な公共事業の促進が、ひとつの解決策になる。(中略)まずは思い切って財政出動をやれというクルーグマン教授(米プリンストン大)の指摘は正しい。30年代と似てくれば、ケインズ政策しかない。各国が一斉に財政を引き締めたら共倒れになってしまう。 
アメリカ政府は国際通貨ドルを維持する意欲、能力ともに喪失したかのような様子である。国際通貨不在の状況が到来すると、世界の貿易は縮小の一途をたどり経済成長は困難になる。マイナス成長に陥る国が多数にのぼるだろう。ドルやユーロを市場に供給しても、ただ実物資産に変えるだけなのであれば、マネーは中央銀行に還流するだけ。生産活動を刺激するツールにはならない。世界が流動性の罠に落ちかかっているのだな。そこで国際機関の発行する国際通貨ではどうだ、と。本当に価値が保証されるのか・・・・?しかし、ドルやユーロよりは有効かもしれない。
日本も短期的には財政出動すべきだ。増税でそれをやれ、というのは間違いだ。中長期的にはもちろん、増税による財政再建をしなければならない。(中略)増税の時期は2014年か15年ごろでいい。
元財務官の頭の中には世界的ケインズ政策があるのか。出来るだけ早期に増税、ではなくて、3年後か4年後ですね、と言っている。本ブログで紹介したIMFレポートとは全く違う。

経済専門家の間でこんな違いは珍しくはない。何しろエコノミストが7人いれば8通りの意見が出てくるというのが経済専門家の世界だ。しかし、これでは普通の人は混乱してしまう。ここが臨床実験データがとれない経済学の最大の欠点であり、「このやり方がきくと思うんですよねえ」と、この程度の議論しかできない。困ったものである。必然的に<ギャンブル>になる。

ただ元財務官も中長期では絶対に増税が必要であると話している。財政再建は基本的に良いことである。そのプラス効果は国民にも広く及ぶ。ならば、善は急げ、と言うではないですか、とも言えそうだ。

2011年9月15日木曜日

脱官僚は見当違いの方針だったのか?

今日は久しぶりに日経の記事を話題にしたい。
本日朝刊の経済教室に伊藤之雄氏が寄稿している。本欄は言うまでもなく、仕事柄、小生が常に愛読しているコーナーである。掲載されている図が「歴代内閣の官僚との関係」を見ると、大体、どのようなことが述べられているのか見当はつくし、文章全体を通して戦前の大政治家である原敬の名前があがっているので、ますますその印象を強くした。
ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、浜口首相らは極めて強引な手法で海軍に条約をのませ、条約を成立させた。陸軍と異なり、海軍はこれまで政党を背景とした内閣との協調を基本としてきたが、浜口首相らの手法に、東郷平八郎元帥が政党内閣を信用しなくなったように、海軍では強硬派が台頭する。
この結果、満州事変や、海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した5.15事件など、戦争と軍拡の道につながった。
こう記述されているのであるが、前後の文脈から趣旨を憶測すると、陸海軍も軍官僚であって、使いこなすことが肝要であり、批判するだけではコントーロールができない。政治家が官僚を批判ばかりして、使いこなすことを怠ったために、ひいては官僚集団をコントロールすることが困難になり、最終的に軍官僚の独走を招き、首相暗殺など軍国主義への道を開くことになった。一口に言えば、官僚バッシングの結果は、官僚独走につながりかねず、政治の混迷という結果につながるおそれがあるということであろう。

また最近の若手官僚についても印象論的描写が述べられている。
20年ほど前と異なり、最近の官僚には傲慢さがなくなり、給与が減らされているにもかかわらず、公に奉仕するのを喜びとする意識が強まってきている。
このように温かい視線がそそがれている。

昨日の投稿では、本質的に戦前期とほぼ同じ中央集権的な行政機構が継承されておりながら、そこで権力を執行することが想定されているタイプの人材が、戦後教育システムの下では養成されておらず、公に尽くすというより、むしろその人自身の「幸福追求」の観点から業務を遂行しているのではないか、と。そんな考えを記しておいた。

幸福追求というのは極めて広い概念である。それは必ずしも金銭的満足には限らない。だから金銭欲がそれほど強くはなくとも、個人的幸福追求動機が弱いとは言えない。求めるものは金銭ではなく、名誉であるかもしれず、多数の人から賞賛されたいという向上心かもしれず、ずばり他人に命令をしたいという権力欲かもしれない。要するに何らかの意味で一身上の価値に帰着することであれば、その人自身の<欲>となりうるし、それが<動機>となる。それを言ったつもりである。

いまはサムライがいなくなったと昨晩は書いたのだが、それは武士、つまりは家臣のスピリットを言ったつもりである。具体的には<葉隠>の精神をさしている。奉公を支える第一原理は上意絶対であって、自分の主人の命令に従うという気持ちである。その命令を遂行することによって、一身上の名誉が保証されることは必ずしも言えず、可能性としては犬死を強いられることもあるし、不名誉な汚れ仕事を命令されることも十分考えられる。しかし、主人の命令に従うことを自分自身が生存している根拠と認識している人間にとっては、いかなる命令も受容して実行するのである。であれば、主人が<公>を体現している人格を備えているのであれば、何を実行する場合であっても、自分が不徳義なことを実行することはありえず、たとえ一身上の次元では不名誉であるとしても、<公>に奉仕する人間として不名誉を受容できるのである。最上位の倫理レベルにおいて自分自身は常に救済される。その確信が公に尽くす覚悟を支えていた。たとえ世間に批判されたとしても、それを超える主体が公として存在し、それ故に救済されるわけである。概略、このような意味において、公に奉仕する気構えをもった人間はもやは消え去った。そう記したわけだ。

小生は、そのような人間を養成するには、徹底した教育が必要であると考えている。仮に、そのような人間が育てられたとして、付き合いやすい人間であるかといえば、それはまた別だ。<公>という存在は一点に凝縮されていると認識されるに違いなく、したがって一切の妥協なく業務を遂行することは間違いない。おのれ信じて直ければ、敵百万人ありとても我往かん、の志は公に殉じる、国に殉じる、崇高な理念に従うという確信がなければできないことである。公に奉仕することが全てであるから、金銭欲も名誉欲も物欲もない。西郷隆盛が言ったように、何も欲しくはない人間が一番始末がおえないのである。ま、欲から解放された人間は、不動の一字でありますな。

繰り返すがこのようなタイプの人間を戦後日本の教育システムでは、倫理的にも養成してはいないし、むしろ日本人全般は不必要と考えているのではあるまいか?

最近の若手官僚が給与が引き下げられているにもかかわらず、公に奉仕するのを喜びとする意識が強まっていると指摘されている。しかし、公務員の給与は民間と比較して同程度に下がってはいない。寧ろ処遇としては恵まれているのが現実である。また、公に奉仕することを喜びとする意識が強まっているとのことだが、<本当に公に奉仕する意識が強まっている>のであれば、何故国民は広く公務員を批判するのであろうか?なぜ脱官僚のスローガンが国民から肯定的に評価されるのであろうか?なぜ公務員人件費の公約を政府に迫るのであろうか?なぜ官僚が唱える増税論に対して、国民から広く賛同の声がわきあがってこないのか?小生には不思議である。

小生は、現在の公務員を批判したいという気持ちは毛頭ないのだが、事実とは違う点を事実であると信じる気持ちにはなれない。公に奉仕するつもりであれば、前内閣で公務員給与1~2割引き下げという法案が提出された時、澎湃としてそれを受け入れる現場の公務員の声が届かなかったのは何故か?それが廃案となった時、すぐさま再提出の機運が湧き起こらないのは何故か?国の財政が困難に陥った時に、一身上の境遇よりも公の利得を重視する官僚であれば、必ず給与の一部自主的返上を提案するはずであるし、あるいはまた、復興事業に充当するための寄付金を職場単位で率先して募っていなければならない。しかし、これらに類した行動は、全くないとは思えないが、官僚集団全体の広がりにおいて観察はされないのである。

これらの点を考えると、政治家、官僚をとりまく現状は、文字通り公益に尽くすというより、一身上の何らかの利益を追求するために公務員という職業を選んだ人たちが多数であることを暗示していると思うのだ - その辺の事情は政治家とて同じだと小生には思われるし、おそらくそうだろう。そして、この状況が現実であると想定し、そんな中でも普通の人間集団が公務を担っていく、それでいて日本国の意思決定が行われていく仕組みを再構築する必要がある。それが昨晩の投稿の趣旨である。

そのプロセスの中で所謂<脱官僚>は、広い言葉の意味において、日本が避けては通れない大きな課題なのではあるまいか?

2011年9月14日水曜日

増税 VS 反増税はもはや経済政策論争ではない

野田総理は所信表明演説で増税路線を示唆した、というより税負担の引き上げは現在世代の責任ではないか、と。与党、野党それぞれで総理演説には毀誉褒貶があるのは仕方がない。

本ブログでも何回かとりあげているが、マスメディアやインターネット上の世論調査では、増税容認論が半分もしくは過半を占めている。質問を示す文脈、調査日時前後の報道ぶりなどが強く影響するので、世論調査が統計データとしてどの位信頼できるのか、大いに議論はある。それでもなお、ランダム抽出によるデータであるし、それ故に特定のバイアスを含んでいるとも思えない。何度調査が行われても安定的に「半分程度の人が増税を容認」という結果を示しているのは、日本社会の現実としてそうなのだろう。これは認めなければならないだろう。敢然と正反対のことを主張するのは難しいと思うのですよね。

当然、財務省内、エコノミストの面々も税率引き上げのシミュレーションは行っているはずだ。また、税率を引き上げない時に予想される結末も計算されているはずである。それらをこそ、日本のマスメディアは一回限りの特番ではなく、頻繁に私たちの目に触れるように、丁寧に報道してほしい。いまや日本の財政健全化の成否は国際的にも関心の的になっているのである。それは共通の問題を多くの国が抱えているためであって、日本が財政健全化に成功するとすれば、それがモデルケースになるからである。また、失敗すれば、それがもたらす世界的な経済混乱からどの国も無縁ではいられないからでもある。

IMFが本年6月16日に"Rasing the Consumption Tax in Japan: Why, When, How?"を公表している。本日の投稿ではその要点をまとめておこう。

● 消費税率を15%まで引き上げることが必要である。それも出来るだけ早期(Soon)に、段階的に(Stepwize)ずっと継続(Sustain)して、税率を差別化することなく均一(Simple)に実行することが日本経済にとってプラスになる。こんな<4Sの政策原則>を提案している。

その理由と効果だが、まず日本の消費税率は欧州型付加価値税(VAT)の一変種なのだが、税率が外国に比べて非常に低い。

Figure 5: International Comparison of VAT

図5に示すように、日本はOECD諸国の中で最低である。更に、消費全体の中で消費税が課税されている割合(C-Efficiency)でみると、日本の消費税は70%と高く、付加価値税としては漏出がなく良質の税目である。特定商品の税率を引き上げると、資源配分に歪みを与え、マイナスの影響が大きくなるが、日本の消費税率の引き上げにはその種のマイナスが少ない。

● ではなぜ15%の税率が必要なのか?それもできるだけ早期に必要なのは何故か?

Figure 6: Debt Dynamics

図6左図に見るように、消費税率が11%以下であると日本政府の純債務残高対GDP比率が今後も上昇を続け、日本全体としては持続不可能であるためである。仮に2012年から2017年に渡って、5%から15%まで消費税率を引き上げる場合には、政府部門の純債務残高対GDP比率は2016年以降に低下に転じると予想される。しかし消費税率の引き上げを2年遅らせ、2014年から実行するとすれば、政府の純債務残高が2015年時点で10%も高くなり、その後も尾を引くことが予想される(図6右図)。それ故に、財政再建への着手は早いほどよい。

● 消費税率引き上げは景気回復にはマイナスではないか?回答は、「痛みは伴うが、政府の純債務残高が低下し始めるのと並行して、成長にとってプラスの効果が顕在化する」というものだ。下の図7に示されている。

Figure7: Comparison of Gradual and Fast Tax Increases

消費税率を引き上げ、増収分をそっくり復興事業費などに充当するとすれば、その年だけのロジックとしては、需要にはプラスであるはずだ。しかし、消費税率の負担が将来とも見通せることから、増収額以上の消費低下が実際には発生するだろう。しかし、図7からも分かるように、成長へのマイナス効果は5~6年程度であり、その後は財政健全化とマクロ経済政策への信認の回復、事業リスクの低下から設備投資の回復が期待できるので、成長にとってはプラスの効果が顕在化する。グラフはGDPの水準について政策効果が描かれているので、2017年で既に何もしない場合のGDPと同等、それ以降は消費税率を引き上げる方が引き上げないよりもGDPが高くなるという結果になっている。それも早期に消費税率を引き上げる方が、より速かにGDP拡大効果が顕在化する。そんな予測が得られている。

● 実際に年金財政の破たんに直面したスウェーデンやデンマークなどが実行した税率引き上げが、その成功例になっていて、日本も参考にできるだろう。

Figure 8: Selected Advanced Economies - VAT Standard Rate (in percent)

● 消費税はしばしば所得に対して逆進的であると批判されている。これをどう考えればいいか?下の図は、各年齢層別の消費性向と世代別の年金純受取額を示している。

Figure11: Consumption and Lifetime Net Transfers by Age Group

そもそも所得は若年期には低く、年齢を加えるにつれて上がるものだ。若年層で消費性向が高いのは後年の所得上昇を生涯所得として計算に入れているからだ。消費は、年齢変化に応じた所得変化にパラレルに増減するものではなく、所得が少ない時期には貯蓄を減らして消費割合を高く、多い時期には貯蓄を増やして消費割合を低くする。退職すれば、年金収入だけになるが、金融資産を保有していることが多い。保有している資産は所得には入らない。人間は、生涯全体でみれば消費水準をできるだけ平準にしようとするものである。だとすれば、その時々の所得に対して消費税の割合を見ても大したことは分からない。むしろ消費支出こそ、その人の経済力を正しく反映している。とすれば、その人の消費支出に対して消費税は何%の引き上げになるのか、そこを見るべきだ。いうまでもなく、消費税率を10%上げるのであれば、消費支出に対して消費税が10%だけ余分にかかる。この負担増加割合は全ての人にとって(原理的に)同一である。

所得税率は所得に応じて税率に高低があるが、低所得層への生活保護費を拡大することによって、均一な消費税負担の問題点には十分対応できるはずだ。

更に、高年齢層にとって消費税負担は過重であるという指摘もある。しかし、高年齢層は年金を受給しており、年金の生涯受給額から保険料の生涯支払額を差し引いた純移転額を年齢階層別にみると、高年齢層は大幅なプラスである。純移転額が大幅なマイナスである若年層との公平を考慮すると、高年齢層が高い消費税を余計に負担しても決してアンフェアであるとは言えない。

このようにIMFペーパーは相当丁寧に日本の消費税率引き上げの効果を分析している。おそらく、ほぼ同様な試算、シミュレーションは政府部内でも行われているに違いない。それらの分析は、いずれもIMFの計算結果と大きくは違わないはずである。データに基づいた計算結果を素直に見れば、経済政策論のロジックからは財政健全化を目的とする税率引き上げ、その早期実施がごく自然に出てくる。小生にはそう思われる。

ただ現実に日本において増税に至る道筋は困難であり、かつ遠いと思われる。

IMFペーパーでは、こんなことも述べられている。
Though the spending impact is likely modest, pre-announcing a gradual increase in the VAT could bring forward consumption and strengthen the credibility of fiscal adjustment. (pp.12)

つまり消費税率10%引き上げ(5%から15%に)への道筋を公表することによって、消費需要の前倒し効果が期待でき、それが結果として景気回復をもっと早期に顕在化させることになり、政策への信認性を高めることで、日本のマクロ経済は計算が示すよりもっと早期に成長軌道へ復帰できる。そんな見通しである。

× × ×

今日は学科会議があり同僚と近くのレストランで食事をした。食後、談論がはずみ3時頃までその店で粘った。そこで上のIMFペーパーが話題となり、そのうち、戦後日本の<真の戦略>って何だろう?そんな雑談をした。

「それは戦後の復興でしょ?」
「でも、それは経済大国になることによって、十分以上に達成したよね。まさか共産主義打倒の最前線、そんな意識も全然なかったよね?」
「冷戦体制で得をした国ですからね」
「もっと海外資産をためて、もっとカネをためたいって思っているだろうか、みんな?」
「アメリカ人なら、自由と民主主義の守護神でありたい。国をあげて、そう思ってますよ。そのためなら戦争も辞さない」
「ビン・ラーディンが殺害されたときにオバマ大統領が、Justice has been done.と述べましたね」
「そうジャスティスという感覚だよね。日本の国の姿とはちょっと違うよね」
「何ですかね、日本国が守って、後世代に残していこうという価値」
「武士道と言いたいとこだけど、現状では、国債か?価値というか、マイナスの価値!!」
「アッハッハ・・・」

ま、そんな風な話をした。

× × ×


小生は、国民の日本政府に対する信認性が決定的であると思うのだ。ある政党が、いやある内閣が消費税率10%引き上げへの道筋を決定したとしても、その既定路線を後継内閣がきちんとコミットし維持するかどうかは、今の日本の現状を振り返ると確言はできない。むしろ消費税率の段階的引き上げは、いつか必ず実行困難になり(当然、選挙も何度かあるわけだ、野党は税率引き下げを訴えるであろう、与党はその選挙に負けるかもしれない)、そう予測がつくのであれば国民はむしろ既定の政策路線が破綻するのを待って、消費税率が元の5%に下がってから物を買おうとするであろう。というより、これ程までに国民の信認を失った統治体制であれば、段階的な消費税率引き上げを政府部内、国会で議決することすら、異論百出、百家争鳴に埋没して、限りなく不可能ではないか。そうとも思われるのである。

それ故に、上記のIMFペーパーは、そこで記載されていることは本筋にかなっており、計算を他の誰かが行っても、ほぼ大筋は同じ結果が得られると思う。専門的意見としてコメントをつけたくなる個所は、(細部については疑問もあるが)、基本的にはない。それでもなお、提案通りに事が運んで、日本が現在の問題を解決できるかと言えば、正解が選択される保証はないなあ、と。その最大の理由は、(敗戦で微修正されたとはいえ)戦前から連綿と続く中央集権的官僚国家という行政機構と、そんな統治体制の下での立法府に対して、日本国民は信頼を失いつつある、そんな感覚も覚えたりするからである。

追加23:00: そして更にその根本的な背景を考えると、その人自身の私利追求ではなく、<ご奉公>という価値観から維新を支え、国民主義的企業精神によって産業近代化をリードした士族階層、というよりそのスピリット。この魂が此の国から消え去ったという事実があらわになってきた点を見過ごす事はできない。簡単に言うと、サムライがいなくなった。数人いても駄目なのだ。老壮青のつながりとしてサムライ集団がいなければ、いないと同じなのだ。であるので、伝統的な行政機構とそれを担うべき人材として想定される階層、この組み合わせがもはや幻想になっている。いまは全く異なったタイプの人間になるように教育された現代日本人が、昔と同じ行政機構に座り、強い権限で日本を動かしている。そのことに多数の国民は我慢できなくなりつつある。そう見るわけであります。(参考)高橋亀吉「日本近代経済発達史」第3巻、pp.383

この段落も追加0:20:  思い起こせば、日本国の原型は近代プロシアから直輸入した中央集権的官僚国家モデルだ。敗戦で象徴天皇制となり、軍がなくなったが、行政機構と陸海軍以外の官僚組織はそのまま戦後に連続している。近代プロシアは、農村地主層であるユンカー達が主導して建設した国家である。明治期の日本も農業国家であり、その生産活動は地主層が担っていた。だからプロシア型官僚組織、プロシア流の憲法が日本とマッチし受容することができたのである。(陸軍の編成、参謀本部の機能など微妙に異なる点もあった)この伝統的行政機構は、ドイツとは異なり、ほとんど同一の組織文化のまま連綿と引き継がれ今に至っている。

振り返ると1945年に第2次大戦が終わって、まず戦勝国であるはずの中国では国民党政府が倒れ中華人民共和国になった。中国の国家理念は中華帝国の再建にあると誰もが思っているし、おそらくそうであろう。フランスは戦争終結時に第4共和政が発足したが、1958年にドゴールがクーデターを起こし、現在の第5共和制が誕生、憲法も新憲法になった。ドイツは1990年に再統一された。全体に西欧世界はEU統合と欧州世界の維持拡大を追求するはずだ。アメリカでは、政府転覆という事態は生じなかったが、憲法改正は頻繁に行われ、1980年以降のレーガン革命でルーズベルト以来の福祉国家、混合経済は根こそぎ否定された。アメリカの理念は自由と民主主義にあり、この点が変わることは建国の経緯からして考えられない。英国も革命はなかったが、「サッチャー革命」によって国の姿が一新された。韓国も朝鮮戦争、軍事独裁政権、民主化と激しい歴史の一コマ一コマを刻んできた。ソビエト連邦は消失し、ロシアなど個別国家に解体された(1991年)が、ロシアが追い求めるのは大国ロシアの再建であろう。

戦後日本の真の国家理念とは何なのだろう?戦前の日本には明確にあった(皇国思想と富国強兵)。国家もまた拡大を求めるのではあるまいか?だとすれば、製造業を高コストの日本国内に縛り付けるのではなく、むしろ海外進出の必要性を認め(利益拡大が実現される)、と同時に日本人もまた海外企業に雇用機会を求められるように、教育・訓練体制を整備し、その方向に沿って経済外交を推し進めていく。日本本国では最先端の研究と開発に資金を集中投資する。こんな方向に国家的価値が認められるのではないのか?しかし、現実には企業の海外移転を阻止しようとしている。その理念とは何か?

ここも追加12:30: ポスト産業時代の日本の国家戦略とは何なのか?それがない。ここが問題の核心なのですな。

ある意味では、戦後日本の統治体制そのものが問われている。このことは間違いのないところだろう。現政府(=というか、その執行システムである官僚)の外側において政治結社(=政党になるのだろうが)が成長し、その政党が現・行政機構を凌駕する権力基盤を得る(おそらく武力基盤を含めて)、そんな事態でも到来しない限り、現在のような不安定な統治権力不在の状態が続くのではないか。そんな心配すら胸中にはわきあがってくるのだ。

2011年9月12日月曜日

足もとの日本経済と世界景気

金価格の動向が毎日のようにマスメディアを賑わせている。景気の先行き不透明により金市場へマネーが流れ込んでいる。こんな言い方は、実は経済の本質を誤解させるような気もするのだが、その根拠は最近の本ブログ投稿を参照してほしい。

ともかくも7日に内閣府が公表した景気動向指数を見よう。

本年7月分の景気動向指数速報(内閣府)

内閣府では、いわゆるComposite Index(CI)とDiffusion Index(DI)の二つを作成している。それぞれ一長一短があるが、まずは主たる指標であるCIは下図のような動きになっている。

CI、2000年1月から2011年7月分速報まで

何といってもリーマン危機による深い谷が目立つので東日本大震災の影響はすぐには分からない。ごく最近の浅い低下が3月のデータ、つまり大震災のショックである。この凹みを含めて、えび茶色の一致指数の動きに示されているように、日本のマクロ経済は、昨年の春以降、巡航速度に復帰し、順調に(とはいっても構造改革が停滞しているので低成長ではあるが)拡大してきたことがわかる。3月の大震災にもかかわらず、その大きな傾向が崩れることはなかった。データはそんな形になっている。

内閣府は、直近(7月時点)における先行指数の大幅な上昇に着目しているが、昨年春以来の先行指数をみると、ほぼ水平飛行を続けていて、むしろ変動が激しくなっている。このグラフだけをみると、CIの先行指数が明るい先行きを伝えているとは言えない。

では、結局、7月、8月を経て、これから景気はどう動いていくと見ればいいのか?いまは景気後退に陥りつつあるのではないか?その判定には、むしろDIのほうが見やすい。

DI、2000年1月から2011年7月分速報まで

景気動向指数(DI)は、採用系列の中で上昇を示したデータ系列が全体の何%を占めるかという簡単な方法で作成されていて、誰でも<マイDI>を作ることができる。しかしながら、これが実に使い勝手が良いのだ。景気拡大期には概ね全データ系列が上昇を示す。だからDIは100%になる。景気の山付近では、下降を示すデータが増えてくる。はっきりと景気後退に入れば上昇を示すデータ系列が50%を割るはずである。それ故に、上の方から50%ラインを割れば、その時点が景気の山。同様の理屈で下の方から50%ラインを越せば、その時点が景気の谷であったことになる。

上の図をみると、リーマン危機に先立って2007年末には景気は山を越えていたことがわかる。この判断は各国政府の公式見解に一致している。

さて、ポストリーマン段階を見よう。すると、一致指数が50%を上からわずかに割っていた時期が最近あったことが確かめられる。それは2010年6月から10月にかけてである ― 但し、この時期、CIをみると、ジグザグしながら回復を続けていた。CIは、全てのデータ系列を加重平均した値に概念的には対応する。そのため大きく増加している個別データがあると、それに引っ張られて指数全体が増えることもある。で、最近のDIであるが、3、4、5月と9%、15%、0%と50%を割っていたが、6、7月は95、100と急回復している。DIの動きは、実感にもかなり沿っていると思うのだがどうであろう?

さて、DIの先行指数は東証株価指数などに基づいて作成されていて、景気の先行きを教えてくれる性質をもっている。それが6月時点では36%とはっきりしなかったが、7月には80%まで上昇し、はっきりと50%を超えてきている。こんな点も考慮して、内閣府は7月時点のCI先行指数の急上昇を前向きに解釈しているのであろう。

以上のように、日本国内の経済データだけを見る限り、景気の先行きはそれほど暗くはなく、むしろ7月までの数字に限れば、今後は明るくなってくると見る。それが自然な判断だ。

一方、日本経済は輸出需要に大きく影響される。世界景気の先行きを考慮しなければならないことは当然である。その世界景気だが、OECDが先行指数を毎月公表している。

OECD Composite Leading Indicators (6月分)(OECD統計局、8月8日公表)

この中からアメリカ、欧州、中国、OECD地域全体をまとめたグラフを見ておこう。
OECD Composite Leading Indicator、2011年6月まで

中国がはっきりとピークアウトしている ― というより金融引き締め中である。欧州も景気後退局面に入りつつあるのは明瞭。アメリカは微妙だが、財政緊縮への動きが表面化しているので、いくらFRBがQE3(第3次量的緩和政策)を発動しても、この先順調に拡大するかどうかは怪しいとみている。

7月までの数字に関する限り日本経済の足元は明るいと言えるが、世界景気の先行きを考慮すると、それは暗くなる前の最後の明かりになる可能性も高い。鍵は、国内需要がどれだけバンと出るかである。具体的には大震災復興需要、再エネ関連投資、原発再稼働に向けた原発安全投資が目下のところ期待できる需要だろう。

しかし、野田新内閣がテキパキと仕事をこなしていけるか、それはまだ不透明である。リスクを無視できない。

いま現在時点は、日本国内、国外とも株式投資を増やすタイミングではない。それは断言してもよいのではないだろうか。

2011年9月11日日曜日

日曜日の話し(9/11)

「便利さは美の一番の敵だと思います」。遅い朝食をとりながらサンデー・モーニングを観ていると今日は11日。東日本大震災から丁度半年。アメリカ同時多発テロから丁度10年という節目になるのか、災害特集「二つの出来事を考える」の第3回目であったようだ。

日本国籍を取得したドナルド・キーン氏が被災地を訪れ「便利さのために金銭だけではなく他の多くのものを犠牲にして来た」、一番最初の言葉が出て来たのは、このすぐ後である。

機能美という言葉もあるのだが・・・と思いをめぐらせたが、いや機能美と言っても、美という以上は定まった様式になっていなければならんな、と。

便利さは美と相容れない。それはつまり、便利さの追求は世のあらゆる様式を追放し、価値として認められた有り様もまた、次の瞬間にはこれも存在意義を否定される。そんな風に根こそぎな変化を世に強いて行く。そういうことなのか?確かに「このままではいけないと思うんですよね」、「変わらないといけないと思うんですよね」、「変わったようでも、世の中は先を行っているんですよね」等々、ビジネス・コンサルタントの方達は口にするのだが、これって文字通りの<諸行無常>。私たち日本人が<もののあはれ>とよんできた生き方そのものだよね。そう口にするなら、これは最早ブラックユーモアである。それはむしろ<火宅>であり、生きる人間を<餓鬼>に変えようという哲学と言うべきでしょうね。

ま、テレビを見ながら、こんなことを考えた。

× × ×

14世紀から16世紀まで古典的なルネサンスがイタリアで花開いたが、17世紀になると激しく、バランスを意図的に崩して、激情的というか、大仰というか、そんなバロック美術が台頭した。たとえばカラバッジオは代表的な画家である。

Caravaggio、聖マタイの召命、1600年

バロック流の表現は当時のヨーロッパ(=西洋世界)全体を風靡したが、フランス人をみると、ニコラ・プーサンやクロード・ロランがローマで活動し、イタリア芸術を学びながらも、フランス人独自の感性を捨てることなく、抑制と落ち着きを主調とする独自の画風を確立した。
Poussin、サビニの女達の略奪、1634年

Lorrain、海港、1637年

グローバルにみると、たとえば日本での知名度はそれほどでもないが、フランスではプーサンがフランス美術の父、ロランは元祖風景画家と言うべき影響力をもった。

この時期に確立された表現様式が、ルイ14世時代の豪華絢爛な文化、その後のロココ趣味を通して、外観は変化しながらも、基軸はぶれずにフランス的表現をしっかりと守り、19世紀の印象主義、象徴主義、20世紀の現代美術にまでつながっていった。

× × ×

美術学校の教授方法もほとんど変更はないそうですね。そういえば、小生が担当しているのは「統計学」なのだが、つい先日、亡父が業務で品質管理を勉強しなければならんというので、仲間と一緒に統計学を勉強したときに使っていた教科書が見つかった。森口繁一「初等數理統計學」(昭和27年、廣文館)である。50年ほども前の教科書なので「どんな事を教えていたんだ?」と頁をめくると、データの特性値、確率分布、統計量の変動(→標本分布と今では呼んでいる)、抜取検査、管理図、仮説検定、推定、分散分析、回帰分析、という具合で、字体は旧字体であるが、教える内容も順番も現在販売されている教科書と同一である。

というか、中学校で出てくるピタゴラスの定理は2500年前に亡くなったピタゴラスが発見した結果である。高等数学と言われる微積分は、高校で学ぶが、その程度の微積分は17世紀のバロック時代、ニュートンやライプニッツが見つけた方法と同じである(記号はライプニッツが創案した)。

小生も、ついうっかり、イノベーションを言ったり、変われないものは生き残れない、などと日頃書いているのだが、先祖の知的活動と創造の成果の上に、私たちは<現代>という世を生きていることは、当たり前の事実である。当たり前すぎて説明の必要もない。私たちの感性や価値まで捨ててしまっては、いつか人間であることすら捨ててしまわなければならないかもしれない。そんなことまでして、小生は生き残ろうとは思わないし、霊魂として存在し続けられるのであれば、全てを捨ててしまおうとする末裔たちに「幕は降りたのだよ」と伝えたくなるだろう。。しょっちゅう書いていることと真逆のことではあるが、それは当たり前だから書かないということであって、それでも念のため一応書き留めておく次第だ。

2011年9月10日土曜日

リンク集 - 新内閣を見る目・ギリシア再燃、ホント大変だ

経産相の舌禍事件で野田新政権が早々に困惑している模様だ。そもそも、民主党政権になってから新首相は三代目である。初代の鳩山氏は、党代表として総選挙を勝ち抜いたのだから、指導者に就く資格を形式としては有していた。しかし、2代目の菅氏、3代目の野田氏は、いわば仲間内で職を継いでいるだけであり、何の権威性も与えられていない。まあ、自分の子供に継がせないだけマシである。その程度の手続きしか踏んでいない。内閣成立の背景がもつ脆弱性、非正統性を思えば、些細な不祥事ですぐに信任性を失うとしても、ロジックとしては当たり前のことである。

次の二つの記事は、この国の指導者養成・選択システムそのものに欠陥があることを指摘していて、同じ問題意識をみてとることができる。

指導者の要件(小野直樹ブログより)
問題は党首の選び方である(岩本康志のブログより)

先週のリンク集ではロシア・中国が放射能汚染に対して損売賠償を請求するかもしれないとの指摘を紹介した。それに対して

国家賠償と除染で財政が破綻する(池田信夫blog part2)

では、数値を示しながら、反論している。絵画では印象派が歴史を作ったが、政策選択において印象派は常に破綻への道をたどるものだ。データの確認は常に重要である - と同時に、統計によるウソを見破る心構えも大事である。

日本が国として資金繰りがつくのか?災難に遭遇して大打撃を被ると、大体は経済的困窮に陥ることが心配される。国も同じである。しかしながら、日本国全体をみれば、日本は貯蓄投資差額が大幅にプラスであり、最大クラスの資金余剰国。現時点においても、海外資産を増やし続けているのが事実だ。最近の円高により海外企業のM&Aが急増している。つまりカネに窮しているのは<政府>なのである。カネに余裕のある階層が国債を買うことで政府の金繰りをつけている。端的に言うと、「貸すのはいいが、税として取られっぱなしになるのは嫌だ」。この言い分を政府が突破できないわけである。もっと言い換えれば、カネに余裕のある階層が、余裕のない世帯にカネを貸してもいいところを、政府が借りてから、社会保障(医療・介護・年金)という形であげている。返済義務主体が、現実の受益者ではなく、政府になっている。政府が代わりに借りている。これが20世紀型福祉国家の基本図式である。この事自体は、多くの国民が窮状に陥ることを防いでおり、ほとんどの国民はこの制度に賛同すると思う。財政不健全化はその副作用だ。

下は竹中平蔵氏が海外論壇に投稿したもの。

Will the Sun Still Rise? (Heizo Takenaka, Project Syndicate)

要点は次の下りだろう。
As a result, more companies are likely to create and implement business continuity plans. Indeed, “BCP” is set to become a key term in the region’s economic discourse. Using BCPs to determine alternative producers means that regional economies will be integrated in a new form, with companies establishing cooperative relationships even with their competitors.
Unfortunately, Japan’s public officials appear incapable of similar flexibility. The disaster confirmed the traditional view of Japan as a country that combines a dynamic private sector with an anemic public sector and central administration. The government’s mistakes in so-called “risk communication” regarding the Fukushima nuclear plant, and its slowness in getting necessary aid to people displaced by the disaster, have once again put the stereotype on full display.
有能な現場(民間)と無能な本社(政府)。この対照は、本当に日本的組織原理を特徴付けるものとして、広く世界的に知られるところとなった。なぜこんな組織原理になるのだろう、日本では?やはりトップに指導力を求めるのか、調停力を求めるのか?ヒントはこの辺りなのかもしれない。
Soon after the disaster, the government announced that reconstruction demand and higher prices would bring about relatively rapid economic recovery. I think this view is too optimistic, because I suspect that the government wants to finance its new expenditure with a tax hike. Moreover, the extremely sharp contraction in first-quarter GDP may indicate that the disaster’s negative impact on the economy was more significant than expected.
次第に将来見通しを悲観化させているのは奇妙ではない。しかしその理由というと、増税のマイナスが強調されている。

小生は、財政健全化が日本経済に与えるプラスの効果は否定できないと思うし、実際、世論調査では半分程度の国民が増税を容認しているという結果が、安定して得られている。世論調査は、統計データとしての品質に色々な問題があるとは思うのだが、それでも専門家の発言とか、政治家の一言に比べれば、よほどニュートラルであり、有害なバイアスからは自由であると思っている。だから、半分程度の日本人は本音では「増税は仕方ないんじゃないの」と考えているのは事実であると、小生は見る。加えるに、増税で得た収入をそのまま復興事業として支出すること自体、プラスの需要創出効果が期待できるのであり、景気のマイナスになるという理屈はない。

ところがテレビや週刊誌、週末の政治討論ショーに出てくる政治家達は、ほとんどが増税反対を声高に唱えている。本当に、これミスマッチなんだよなあ、そう感じているのが正直なところだ。しかし、これって幕末の<攘夷>と同じなんじゃないか、と。武士、豪農、町人とも<尊皇攘夷>と言っておけば、「おう、そうとも!このニッポンをいい国にするために、身を捨ててゆこうぜよ」。それが今では「増税!?なにを言うちょる。その前にやることがあるがぜよ。無駄の削減、役人のリストラ、そっちが先にやることじゃないんかえ?」。故に、小生、最近は<いまのムダ削減=幕末の攘夷>と考えるようになった。ということは、<ムダ削減>は、本当は反政府、反主流派の旗印であり、究極的には政府不信任。反体制論。これが本音なのではあるまいか?

攘夷を唱える急先鋒が、実際には開国を主導したように、いまムダ削減を主張している人たちは、本心からそう言っているわけではないのであろう。あれは戦略。パフォーマンスである。そう眺めている次第だ。

竹中平蔵氏は日経WEB版でも以下のような意見を開陳している。
また、行き詰まった経済政策を前進させるため、経済政策の司令塔づくりの立て直しを進めるという。政府・与党で乱立している会議を集約し、首相官邸と国家戦略室を中心とする「国家戦略会議」(仮称)に、政治家、官僚、経済界・民間人から人材を集約する構想だ。これまで官僚を過度に排除する偏った政治主導が目立ったが、かつて経済財政諮問会議を活用した小泉スタイルを目指すようにも見える。
(中略) 
そのうえで問われる問題が2つある。
第1は、枠組みができたとして、それを運用するリーダーシップが新首相に本当に備わっているかどうかだ。早々に環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加を巡り、閣僚間で意見がまだら模様になっている。鉢呂吉雄経済産業相は2日の記者会見で、TPPへの参加問題について「国民的に合意できる形が大事だ」と述べ、交渉参加の判断時期について明言を避けた。TPPについては他の閣僚からも異論が出ているという。
こうした重要な問題を新たな「国家戦略会議」でオープンに議論し、そのうえで最終的に首相から強い指示が出されなければならない。 
第2は、大きなものでなくてもいいから、新政権として最初の成功事例「アーリー・スモール・サクセス」を1~2カ月のうちに示せるかどうかだ。TPP参加への方向を示すこともその1つだが、加えて円高への対策と成果が問われることになろう。現下の円高のマクロ的背景は、相対的に日本の実質金利が高い(つまり円資産の利回りが高く、円が買われる)ことにある。こうした問題に対応するため、政府と日銀の新たな協力体制の構築が必要になろう。この点について古川元久経済財政・国家戦略相は適切な発言をしているので、期待したいところだ。 
現実主義の立場で政策を粛々と進めることは重要なことだ。しかしこれがすぎると、官僚主導・霞が関依存の極めて古い政策スタイルになってしまう。結局のところ、重要なのは「どじょう」のようになることではなく、「どじょう」になって何を実現したいのか、である。この点がまだ野田首相自身から明らかにされていない。
(出所:日本経済新聞WEB版 2011/9/6 7:00)
残念ながら鉢呂経産相の「放射能をうつしてやろうか」発言があり、ファースト・スモール・サクセスの前に、アーリー・ミステイクを犯してしまったようだ。同省官僚たちが、早々に脱原発、ゼロ原発を高らかに宣言してしまった経産相に対して、丁寧な現状説明や「要注意発言のポイント」を供することなく、放置していた様子も窺えないでもない。しかし、これとても言い訳にはならず、政治家としての能力が不十分だったという結論になるのであろう。

さて、欧州のギリシア危機は7月中に独仏が手打ちをして解決したはずであったが、あれはその場しのぎであったことが、どうやら見透かされつつある。ギリシャは債務を返済できないであろうという冷厳な事実を認めなくてはならない。そういうことである。

G7 communique: "Central Banks stand ready to provide liquidity as required" (Calculated Risk)

各国がマネーを供給して経済をサポートすると言っても、金繰りがついた人は直ちにゴールドに(文字通り)換金して財務の保全に心がける。その国の政府が発行するマネーの信任性が低下していることが、金価格急騰を誘発している。で、中央銀行当座預金のブタ積みばかりが積み上がる。それでもベースマネーは十分供給されていることになる。


「破産させるべき組織(=企業も国も)は、一度破産させる方が良いのではないか?」。シュンペーター流の<経済浄化>がいずれ到来するかもしれない。だとすると、持つべきものは<金>ですね。中央銀行が発行するマネーは低金利で融通されるにしても、金が本源的マネーとして認知されているなら、現実は高金利状態であり、将来は大きく割り引かれて評価され、事業をスタートさせるには過酷な経済環境になってしまっている。こう見る方が現実的ではないだろうか?


いろいろな問題を、経済的には(お金の面、モノ作りの面では)、どんな風に考えればいいのか?海外には多数の良質のブログがあり、様々な意見が公開されている。それらのブログによって、社会全体の政策討論のレベルが上がって、正しい政策を選択できることに寄与しているのか?なにも社会的な啓発に寄与していないなら、わざわざブログなどを公開しても、(個人的覚書としては使えるが)社会的には無駄である。現実はどっちだ?上の記事は、そんな問題意識に立っている。


2011年9月9日金曜日

リスク回避・ペーパーマネー・野田内閣

神戸、三田に私用があって回ってきた。都心部であれば新千歳から神戸直通便があるので楽に往復できるが、今回は三田市郊外に足を運ぶ用事があった。出発前に台風12号、13号の進路に悩まされたが、行けば行けばで残暑がきつく、昨晩帰宅した時はもはや疲労困憊。

用事というのは、四代前までの(カミさんの実家の)ご先祖の調査であり、菩提寺の住職に話をうかがい、明治大正期の過去帳まで出して来て頂いて、ある程度は概略が分かった。江戸期を通じて、その寺で世話になってきたという証拠も得られた。しかしながら、江戸期から明治大正期初めまで続いているはずの代々の墓は、別の場所に移り、そこも1995年1月17日の阪神大震災で過半の石塔が倒壊し、その後に整理が行われたこともあって、何がどうなっているやら、何も確認することができなかった。結論としては、1,2の証が菩提寺で確認されたことを除いて、当時のご先祖がどんな行動をして、どんな決断をしたのか、もうほとんど分からない、ということが分かった。

このように、まさしく<ルーツ>を確かめる旅をしてきた。痛感したのは、20年、40年という時間は、現役一世代の記憶にも残っている事柄であり、本当に短い時間なのだということ。今回調べたのは、明治44年前後において、その時のご先祖〇〇さんがどこで何をしていて、その息子▲▲さんは何故はるか昭和30年に至って、あのような選択をしたのか、そういう性質の事柄であった。ご先祖がとった一連の行動の因果関係を知りたい、そういうことであった。明治44年は西暦1911年。丁度100年前である。100年前から60年前にかけてご先祖たちが考えたり、意志決定したりした背景を再現したくなる。そんな希望を、現在という時点において、末裔が実際に持つことがある。その意味において、ご先祖は我々子孫にツケを回している。なぜこんなツケが回ってきたのか、その理由を知りたい。このように、人間社会はいつも歴史に束縛されていることを体感感覚として感じたのだ。

× × ×

いま100年前とか60年前と言った。今朝の日経朝刊4面にも
ドル安と金の高騰の果てに、70年近く前に挫折したケインズの国際通貨構想はよみがえるのか。
こんな問いかけで結んでいるコラム記事があった。タイトルは<ケインズはよみがえるか>だ。

金価格は一時急落して、金バブルははじけたかとも思われる節もあったが、再度ピークをつけ二山を作っている。


以前の投稿でも言及したが、<金バブル>というと経済の実態が見えにくい。金をニュメレール(=評価基準)に設定すれば、金以外の一般商品と資産価格が激しいデフレに陥っているだけのことである。

上の上記コラム記事では、世界銀行のゼーリック総裁の提言が紹介されている。提言というのは、金を通貨価値や物価を測る指標とする新しい通貨体制の構築である。モダナイズされた金本位制構築であるが、この提言は「現代のバンコール」とも呼ばれているよし。

バンコールというのは、第2次大戦終結後の国際通貨体制再構築について英代表のケインズと米代表のホワイトが論争を繰り広げた際、ケインズが主張した提案のことである。ケインズは、新設する国際機関が世界の中央銀行の役割を果たし、その機関が金などのハードマネーを基礎にバンコール(=国際通貨)を発行する方向を主張した。結果はホワイト案が選択され、1オンス=35ドルの金価格でドルと金との交換を保証し、そのドルとの交換レートが固定されるというブレトン・ウッズ体制が発足したのだった。ドルが国際通貨となることで、アメリカはドル紙幣で商品・資産を購入することが可能となり、莫大な通貨発行益を得ることができた。この辺の事情は、経済学部の国際金融論でもとりあげられるテーマでもある。

White - Keynes

金価格の高騰は、バブル投資の再燃というより、本源的マネーへの逃走、つまりリスク回避がもたらす逆バブルとして見る。これが本筋である。その筋合いからゼーリック総裁の提言が出てきている。たとえば昨秋のG20では次のように報じられている。
Tensions over currencies and trade gaps are simmering ahead of a summit of global leaders this week as America's move to flood its sluggish economy with $600 billion of cash triggers alarm in capitals from Berlin to Beijing….Export-reliant nations, many of them poor, fear the US Federal Reserve move will drive more cash into their markets in search of higher returns, driving their currencies even higher and hurting manufacturers that provide jobs and security for fast-growing populations. At the same time, China has maintained tight control over its currency, the yuan, adding to criticism it is kept artificially low and gives Chinese exporters an unfair export advantage….” [Associated Press/Factiva]

アメリカの国内事情に基づく金融緩和が国際通貨としてのドルの信認性を傷つけている背景がまず確認される。
BBC adds that “…one solution – proposed by World Bank President Robert Zoellick – is to return to a modern version of the gold standard. Unlike the original gold standard… he does not advocate rigidly fixing the value of currencies against the price of gold.
Instead, Zoellick suggested that a future system of flexible exchange rates should reference gold – instead of the US dollar – as a common point of valuation. The implication of Zoellick's suggestion is that countries like China would rely much less on buying US dollars, and more on buying gold and other currencies to build up their reserves….” [BBC News]
古典的金本位制に戻ることは、金ベースで考えた場合に見えてくる、現在の激しいデフレーションを考えるだけでも恐ろしいことである。しかし、アメリカの国内事情で国際通貨の信認が左右されるのは経済のロジックに合わない。適切な評価尺度が現在のグローバル経済には必要である。不必要なリスクの高まりは、適切な国際通貨の下で国際的な物価安定を達成することで回避できるはずである。物価の不安定が続けば、相対価格の変動と物価の変動を識別できない。生産と資源配分は相対価格で決まるので、市場は相対価格情報を分かりやすく伝えなければならない。物価安定が政策目標となるのはそのためだ。物価安定を一国内だけで達成するのではなく、世界全体で達成するべきだという提案は、まさに経済の本筋をついていると小生も思う。

× × ×

旅先で、小宮山洋子厚労相が就任記者会見で「たばこ代を700円程度まで引き上げたい」と発言したことに対して、それが閣内で波紋をよんでいることを知った。たばこの価格は、税制と同じく、財務省の所管であり、厚労省が口を出すべき事柄ではない。そんな指摘である。

確かにその理屈はわかる。

建前としては、政府が関係する全ての事柄には所管省庁が決まっており、個々の業務は必ずただ一つの官庁が担当することになる。だから政府の行政事務というのはモザイクのような設計であり、各省庁の所管する業務が統合されることによって、政府全体が機能することになる。重複はないのが原則だ ― 重複する業務があればそれは非効率であり、直ちに仕分けられるはずだろう。であるが故に、政府として決定をする時には閣議がそれを行い、閣議は全員一致を原則とする。互いに相手の縄張りを侵すことがなければ、同一事項について、意見が分かれるはずはないからだ。政府の単一性、内部無矛盾性の保証ですね。

もし互いに相手の所管業務について意見を述べることができるのであれば、閣議は多数決によることになるだろう。しかし、多数決によって論理的に無矛盾な意思決定を行うことは不可能であることが証明されている。だから政府の閣議において多数決を意志決定方式にすることは不適切である。であるが故に、たとえ政治家、閣僚といえども、官庁の縄張りを侵すことはタブーなのだ。

ロジックはこのとおりになるのであろうが、もしこれが当たっているのであれば、典型的に官僚的な思考でありますな。そもそも一人の人間が決めることですら、1年前の選択と現在の意志決定が矛盾することは、自然なことである。判断の基礎となった情報が同じではないし、情報を利用して決定を行った個人の判断尺度が同じではない。人間は変わるし、社会はもっと変わる。だから、時間を通じて矛盾のない論理を貫徹させようとする志向は、法学部の専門家が大事にしているだけであって、いまを生きている人間にとっては、自由と幸福を阻害する邪魔ものでしかない。そのように、小生は思ったりもするのだが、「では貴公はこの日本の社会がどのような方向へ変わって行こうとも、それを追認して放置するつもりか?」、「たとえば切腹が再び是とされる社会が来ても、それも時代の流れだと認めるつもりなのか?人命尊重をなんと考えるのか?」と、ギリギリ詰めた議論を仕掛けられるであろう。故にこんな発言は、殿中において、そうそう許容されるものではありませぬ。

とはいうものの、小宮山議員は閣僚である前に国会議員である。国会議員が閣僚に就くのは議院内閣制の理念に沿うものだ。官僚的思考に染まらない議員が、論理やら法律、制度など全く頓着することなく、「私は私の価値観でものを申し上げる」と・・・本来はこうでなくっちゃいけないのではないか?過去、現在、未来とあるが、過去から現在までの一貫性ばかりを言い募る自称専門家ではなく、現在から未来にかけて、何をどうしていくのがいいか?そんな発想で国会議員が発言するなら、これは誰にも止められぬ。この点は譲れないなあ、そんな感想をもった。

2011年9月5日月曜日

今はデータ待ち。新政権の体制作りを見る。

本日の日経朝刊の1面ヘッドラインは、政府が検討しているという<企業の国内立地補助拡充>。狙いは、円高・空洞化に対応とのことで、どうやら経済産業省が三次補正で予算要求するそうである。昨日、都内某ホテルで開催されたという経済関係四閣僚会合で話に上ったのだろう。

元より、全ての補助金は企業利益を水増しするための財政措置である。戦後ずっと食糧管理制度が続けられてきたが米価公定は補助金の最たるものだった。政府(=食管特別会計)が農家から標準米を買い取る時には例えばキロ千円で買い取る。それを消費者に販売するときには低価格のキロ300円で売る。差額の700円は財政資金から食管会計に振り込む。その財政資金は税金であるわけだから、農家に米を作ってもらうために、本来なら儲けが出ず、農業をやめるところを日本人全体がお金を出して農家に提供することで、農家に利益が発生するようにした。これが補助金の基本ロジックだ。だから日本人は国内米を食べることができたわけであり、その後の自由化の下、ブランド米を育てる農業基盤も維持できたわけだ。どんな産業でも一度び消失すると、人的資源、技術資源は、たやすくは戻らないものだ。

本来なら日本で事業を継続しても損失が発生するから経営者は海外に移転したいと思っている。しかし、日本人はこれでは困ると思うので、税金を企業に支給し、会計上の利益を下支えする。税金を100だけ投入することによって、企業が国内にとどまり、そのお陰で500の就業機会と雇用者所得が守れるなら、差し引き国民全体にとってプラスである。そういう理屈である。米価補助と本質は同じである。

ただ、本来なら損失が発生するような事業を国内で継続するわけだから、日本の将来を開くものではないし、こんな制度を10年続けても、生産性も所得も上がらず、日本全体が疲弊していくことは確実である。このように補助金は、痛み止めのモルヒネのようなものであり、楽だからといって継続すると、国の経済は死に至ることを忘れてはならない。本筋は、伸びる事業を立ち上げること、この一点に尽きるのである。

× × ×

同じ1面にはシリーズ「野田政権」が連載されている。今日は「成長と財政両立、連携を」。
民主党政権は分配重視で、成長というパイを増やすことに冷淡という印象をなお拭えていない。「会議で何度同じことを言わせるのか。実現しないなら時間の無駄」。成長戦略を議論する政府の会議で、ある経営者は最近怒りを爆発させた。
確かに、分配オンリーの経済政策はあり得ない。一方がとる分は、片方から見ると、とられるのであるから、成長戦略と併せて推進しない限り、分配政策は常にゼロサム・ゲームになる。というより、客観的にゼロサム・ゲームであるかどうかというよりも、経営層と従業員という個別プレーヤー達がゼロサム・ゲームと感じているのかいないのか?主観的にそのゲームをどのように認識しているか?それが、各プレーヤーの行動を決めてしまうのだな。

成長軌道に復帰できないのは、規制緩和が不徹底であるのが根因である。こんな指摘を行うエコノミストは多い。本ブログ投稿者もそれは的を射ていると思う。しかし、全体の成長が、自分自身の生活水準向上につながるかといえば、確信を持てない。格差拡大が進行している中で予想すると、色々な改革が自分にも及んでくるとなると、自分自身の収入が低下したり、サイアク、所得基盤を失ったりすることまでをも意識する。

技術革新が社会に浸透し、全体の生産性が上昇する時期は、適応組と非適応組の差が拡大する。跛行性が広がる。格差が拡大するが、これ即ち、リスクの高まりであって、経済全体のギャンブル性が増しているという言い方もできる。新しい技術、新しい商品、新しい原材料、新しい売り方、・・・イノベーションが鍵になる時代というのは、経済=ギャンブルです、これってとても本質を突いていると思われませんか?実際、産業革命が各国に波及し、更に化学工業、電気という新エネルギーが登場したりした19世紀、所得分配は一貫して不平等化した。平等化へ進み始めたのは第1次世界大戦が終わった20年代からである。<科学の時代>と言われる19世紀は<格差拡大の時代>でもあったのだ。(参考文献:コーリン・クラーク「経済的進歩の諸条件」)

過去の日本が、一億総中流社会を維持したままで高度成長を成し遂げ、1980年代には経済大国にまで到達したのは、いわば<確認済み>の技術を導入したり、応用したり、精密化することが発展につながったからである。先進国へのキャッチアップを終えて、フロンティアに位置してしまったからには、何を研究し開発するかでも、高いリスクへの挑戦が避けられない。故に、勝ち組と負け組に別れてくるのは、ロジックからして避けられないのだな。

だからこそ、格差拡大≠ゼロサムゲーム化、ここをしっかり認識する、意識として日本人が共有することはとても大事だと思うのだ。国内外のライバル企業を含めて、ビジネスの自由を拡大して、イノベーションに挑戦する企業を日本でバックアップすることは、あなたの損には決してなりません。自分をとりまく状況を、正確に認識しておくことが、いまは非常に大事なことであると思うのだ。その意味で、次の指摘は(当たり前なのだが)確かめておくに値する。そう思うのだ。
改革実現への鍵を握るのが経済政策の司令塔。(中略)政治家たちが互いに矛盾した発言を繰り返し、経済政策が右に左にぶれる。そんな政策決定への不安感が企業活動や市場にも悪影響を及ぼしていた。気がつくのが遅すぎるという不満は残るものの、司令塔構築は歓迎すべき変化である。
実質的に、これは小泉政権時代の経済財政諮問会議の復活です。「いまは技術革新の時代、民間主導の時代、だから政府が経済政策をリードするという発想は過去のものなのです」。そんなことを平気で言う人が1990年代から2000年代にかけて、それこそ雨後の筍のように目立っていた。確かに、「経済資源を政府の定めた分野に重点投入するのはもう終わりにしよう」という、そういう民営化論は的を射ていたが、日本の国民とビジネス界が将来についての認識を共有し、経済戦略を共有することの価値までも否定したのは、たらいの水と一緒に赤子を流してしまいましたね、こんな指摘もできるわけであり、とても愚かなことであった、小生はそう思う。家族ですらも「これからどうする?」と話しあうことは大事だ。それは親が子に指示することが目的ではない。話すということが何より大事なのである。まして、誰が得をして、誰が損をするのか、よく分からない国民経済においてをや、ではないか。

認識の共有がなければ、人間集団は個々の小集団に別れ、組織は非組織化され、全体合理性は失われ、社会は囚人のジレンマに陥り、結果として全てのプレーヤーは利益を失う。

分け前をうるさく言う<初期民主党政権>が、より成熟した<本格化政権>への道を歩んで欲しいと願うのは小生だけではないだろう。

× × ×

と思いめぐらせつつページをめくっていると、タイミングよく、三井住友AMのチーフエコノミスト宅森昭吉氏のコメントが載っていた。
内閣府は7日、7月の景気動向指数の速報値を発表する。景気の現状を示す一致指数は4ヶ月ぶりに前月を下回るだろう。だが、これは東京電力と東北電力の管内で7月1日に始まった電力使用制限による一時的な生産抑制の影響だ。6ヶ月程度先の景気を映す先行指数は106.1前後に達すると見られる。そうなれば3ヶ月連続で前月を上回り、景気の先行きは明るい。
7月の数字に関する限りは、明るい判断でよいと思うのだが、にわかに雰囲気が変わってきたのは8月に入ってからである。
8月以降の指数がどうなるかは不透明だ。電力使用制限は9月上旬の前倒し解除が発表されたものの、米国債の格下げなどで、記録的な円高水準が定着しつつある。輸出産業は大きな打撃を受ける。
話は本日投稿の冒頭、円高緊急対策に戻るわけである。新政権の進める政策が、地に足の着いたものになるかどうか?野田内閣は正に文字通りの<離陸段階>にある。離陸成功を祈るばかりである。



2011年9月4日日曜日

日曜日の話し(9/4)

ゴッホの手紙」(岩波文庫)を読んでいると、この人にとって日本と日本人は本当に夢の国のようであったのだなあ、と感じてしまう。

たとえば、同書上巻108ページには
日本人は再現の抽象化をやる、平面的な色彩を並列させて、動きや形を独特な線で捕える。(中略)黒と白もまた色である以上、多くの場合、色彩として認めなければならないし、その組み合わせは緑と赤と同じく刺激的である。日本人もこの方法を用いている。・・・いつも病気のゴーガンはまた悪いそうだ。
と述べている。ここでいうゴーガンは、アルルで短い期間、ゴッホと同居したあと、ゴッホが自分の耳を切り落とすに至る、その友人ポール・ゴーガンである。

もっと読んでいくと、弟テオにあてた第500信の中で(同書中巻104ページ)
たとえ物価が高くても南仏に滞在したいわけは、次の通りである。日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通なのに、日本へ行こうとはしない ― つまり日本に似ている南仏に。結論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。(中略)君が当地にしばらく滞在できるとうれしい、君はそれをすぐ感じとり、ものの見方が変わって、もっと日本的な眼でものをみたり、色彩も違って感じるようになる。
ゴッホの創造活動において日本絵画(浮世絵)の模写は大きな比重をもっていたようだが、新しい目を我が物にしようとする志が伝わってくるではないか。これこそ<価値の転換>を試みる苦闘だ。

Goch, Japonaiserie‐雨の橋、1887年

日本文化をゴッホのように形容してくれる外国人が、今もなおいてくれれば、嬉しいものだ。

下は、オリジナルの歌川広重の「箱根」である。東海道五拾参次は江戸期天保年間、1833年から34年にかけて、描かれたと手元の「広重」(平凡社)巻末の年表に記されている。

歌川広重、箱根、1833‐34年

平面上で立体を立体らしく表現するために、陰影をつけたり、透視遠近法を重視する西洋美術とは全く違うことは明瞭で、これがいわゆる<色面分割>だ。幕末期、パリ万国博覧会に出品された日本の文物をみて彼の地の若手芸術家志望の青年達は大変吃驚した。これが新しい潮流を作っていったわけだ。日本も国を開いて激しい社会変動に陥ったが、外国も新しいものの見方を知って、自己革新に入っていったのだな。

Gauguin、Arearea、1892年

ゴッホによると抽象化は日本美術を特徴付ける技法だった。20世紀になってカンディンスキーが道を開いた徹底した抽象化も、その源流は欧州に流入した日本美術にあった。そうも言えるのではないか。

日本的、フランス的、ドイツ的、アメリカ的・・・という形容詞があるのは仕方がないが、「日本では」、「フランスでは」、「イギリスでは」という物の見方が、現実を理解するうえで有効なツールになるのか、小生は疑わしいと思っているし、少なくとも芸術の世界では最初のコンタクト直後の段階から、相互交流が始まっているのが現実である。

140年を経て、なおも残っている違いは、個性と呼ばれるものであって、なぜ違いとなって表れているのか説明困難な要素であり、それと同時に、その違いこそが国ごとの文化を作ってきた。そう見るべきなのではないだろうか?

だとすると、世界全体をユニバーサルにみる社会科学を適用して、個別の国の現象を説明しようとしても、対象全体の半分も語ることができれば御の字であり、残る違いは国ごとの固有因子で説明するべきだろう。ま、多くの人にとっては当たり前のことを書いているつもりなのだが、最近は海外から(特にアメリカを分析するのに成功した)<標準理論>を輸入して、日本の分析 ― だけならいいのだが、政策の助言まで ― を、文字通り<丸ごと>やってしまおうとする例が目立つので、書き留めておいた。 一般因子と固有因子の働き方が独立でなく、互いに相関しているなら、世界共通の一般因子だけに着目して政策を立案するのは、極めて危険である。そう思われるからだ。

2011年9月3日土曜日

リンク集 ― 野田新内閣への期待は?

野田政権の執行部と内閣が発足した。マスメディアには ― 新聞も週刊誌も含めて ― 様々な期待、はたまた冷めた批判が掲載されている。

手元にある本日の日経朝刊が経済政策上の課題を下のように整理している(3面)。


ヘッドラインは<復興増税まず関門>になっている。上の表をみるとタイムスケジュール的には、

  1. 三次補正予算、所得税・法人税の臨時増税が10月
  2. 消費税率引き上げ、社会保障と税の一体改革法案が来年3月
  3. 当面の対応課題として、円高対策
  4. 長期的課題としては、新エネルギー戦略、TPPへの参加の是非判断。何とTPPは11月には判断と記してある(ちょっと無理であろうが・・・)

まずは復興財源対策と円高緊急対策からスタートするというのは、共通の意識であろう。

エネルギー戦略はにわかに結論が得られるとは思われない。成長戦略と表裏一体であるから、いまから始めても1年程度の審議は必要ではないか。しかるに経済財政諮問会議をスリープさせ、無数の重複した会議が官邸内部に乱立しているから、いくら古川経財相が頑張っても、体制立て直しだけで3ヶ月はかかるだろう。ま、来年から新体制で成長について議論を始めるというところだろうね、そう予測しておきます。となると、税と社会保障をどうするか。これも3月には基本方向だけがアドバルーンとして出てきて、具体的には来年度、概要が公表されるのは来年9月ではないかなあと、小生は見ているところだ。

日経が社長100名にアンケートをとってみたそうだ(11面)。


足元の課題は<震災復興>と<円高対応>。中長期では<成長戦略>と<エネルギー政策>、エネルギーとほぼ同数で<TPPなど通商貿易政策>。短期はともかく、中長期の課題は要するに<何か、変えてください>という期待に尽きる、そう読んでおくべきだろう。

そう。変えるべきことは分かっているのだが、変えようとすると異論・反論が洪水のように溢れてきて、つぶれてしまう。そんなパターンが何度も繰り返されているのは、変える道筋が時代の課題に合致していないからですね。一言でいえば、日本経済のビジネスモデルはそのままにして、<カイゼン>で乗り越えようと考えるものだから、そもそも<イノベーション>を歓迎しない。成長ではなくて、合理化。所得倍増ではなくて、分配率の変更。もっと悪意をこめて表現すれば、所謂<搾取>を否定できない。技術進歩のプロセスにおいては、中低位の所得階層から高所得階層への富の移転が行われる局面もありうる。そう言われても、<ゼロサム・ゲーム>では人々は納得しない。国にとってこうするのが利益なのですと唱えられても、普通の人には損である。社会的な利得状況をそう考えてしまえば、集団全体としては適切な政策であっても、多くの人にとっては反対する誘因が生じる。

野田新政権の課題は、この認識のミスマッチ。パーセプセション・ギャップを解消しておくのが、絶対不可欠な政策課題である。それはゲーム論的にはコミットメントであって、これ以上の所得分配不平等化の進行を許さないという強い意志の表明である。具体的には、(追加9/3/14:30 所得税率の累進度を上げることと、併せて)納税者IDをたちあげて節税、脱税に厳しく対処する姿勢を決然と示すことが、政策不信を解消する第一歩になるわけで、まずここを押さえないと従来と同じく、発声は宜しいが走りだして転倒、同じ結末になりましょう。

その意味で「国家公務員の給与を2割下げます」と言ったところで、多くの人は「それはいいですよ」というだけであって、それが終われば「次は電力だねえ、で次は銀行。保険も高すぎるね。それからテレビ局か、というか、あらゆる大企業、もらい過ぎだよね・・・」という風に、<となりの芝生>の無限ループに陥るだけである。

さて前口上が長くなった。新政権への期待を、もう一度、ダイヤモンド・オンラインから。

野田新政権発足へ!DOL版・新内閣支持率調査

財務省の意向に沿って、フワッとした立ち上がりで増税を言ってしまうと、そこで終わり。この点は、同じダイヤモンド・オンラインで田中秀征氏が述べている。

野田新政権は「党強政弱内閣」か

同じダイヤモンド・オンラインを見ていて、次の岸博幸氏の東電処理案は小生も基本的に同感だ。

野田政権は東電破綻処理を急げ―このままでは日本は中国やロシアからの巨額賠償請求の餌食になる

放射性物質が海洋に流出していることから、いずれ汚染は北海道に及び、その後は北太平洋からアラスカを洗うだろうということは小生も予測していた。岸氏が懸念するように、中国が日本に損害賠償を求めるという可能性は高くはないと思っていたが、ロシアはまず確実に出してくるのではあるまいか。そう思っていたところだ。といっても、まあ漁業権の観点であるから、せいぜい10兆円か20兆円くらいじゃないか、取れてもそんなことをして対日関係を修復不可能なほど毀損させるよりは、北方領土を諦めさせ、同時にサハリン・北海道の天然ガス・パイプライン敷設を承認させ、併せて東シベリアの経済発展に協力させる。小生がプーチンでも、この位は、まず言うだろうなあ、と。よほど呑気でない限り、すぐに想像のつくことだ。

ロシアが言えば、当然、中国も原発汚染では地理的に無理筋だが、何か言わなければロシアに一方的にとられてしまうから、食品汚染とか、大気汚染を言い出して、保障を求めてくるだろう。

だから、東電を存続させ、国が責任をもって対応するという現体制は、対露、対中でみると極めてヴァルネラブルであって危険だ。これは合理的な指摘である。残しておくより、企業の論理を適用して整理したほうが、国益にかなう。もっともであります。

しかしながら、菅前首相は既に原発事故における国の責任を認めてしまっている。東電が消滅してもロシアは日本政府に対して損害賠償を求めるだろう。

来てもない要求を心配しても仕方がないが、後をひく大問題ではありましょう。

野田新政権が復興と原発収束を目下の課題とするのは当然だが、世界市場の環境はこれまでになく悪化している。

「日本病」が世界を襲う(池田信夫blog part2)

「日本病」という時、The Economistが先日とり上げた政治的「日本病」か、経済的「日本病」か、同じ「日本病」でも着目する症状は一様ではなくなってきたところが、小生、非常に面白いと感じている。

デフレを軽く見て、自発的に成長軌道に復帰できない経済体質になってしまったのは、治療ミスであろう。ところが経済的敗戦の中で、粗雑かつ不適切な責任追及が行われてしまったことが、今度は責任回避による各プレーヤーの利益を増やし、ここにおいて日本的政治経済ゲームの構造は変質してしまった。まずこの点を見ないといけないのではないか。

それ故に、それまでなら可能だった望ましい均衡点の実現が、リスクの高まりから、極めて困難になった。<党派主義>の蔓延は、大同団結よりも散開の利益を求めるものであり、その背景には本筋から離れ、あまりに形式にとらわれ過ぎた(と小生には見える)日本人の責任追求行動があるのではないか。自分には制御できない過失に対する激しい責任追求行動は、プレーヤーにとってはリスクの高まりであり、だからこそ大樹の陰で少人数グループが独立するという状況を形成している。そんな風に、小生は見ているのですね。とすれば、失敗、敗戦に際して行う原因調査委員会の調査精度、最終的な拠り所としての裁判の公正とスピードは、組織的失敗からの立ち直りを担保するうえで最も大事な社会的インフラストラクチャだと思うのだ。

ま、先進国経済全体に日本病的症状が現れ始めている。これは経済上のメカニズムから、ある一定期間、避けようがないと思われるのだが、大事なのは治す過程における評価主体(=国民)の態度である。そう思っているところだ。その点で、The Economistや先日のWall Street Journalで示された見識レベルをみると、「これは日本とはかなり違うみたいだなあ」と、そう感じてしまうのも事実なのだ、ちょっと残念な気もするのだが。

最後に

専業主婦年金の廃止(政治ブログ、佐藤健)

必ず出てくる指摘だと思う。ただ、どうなのだろう。「老後のことはカミさんと相談して民間保険会社と契約しますから、もう国は手を出さないでください」と、そんな意見もまた同時に出てくるのではないだろうか?

そもそも日本国憲法で国が国民に保証していることは第25条で定めているように<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>であって、第1項を受けて<国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない>とされている。就業期間中の平均生活水準に比例する老後の生活を送ることに国は責任をそもそも持っていない。最低限の年金にのみ国は責任をもち、その年金も受給できない国民は生活保護で救済する。これが本来の形ではあるまいか?だとすると、公的年金の運営そのものを見なおすべきであり、現行システムでカネが足らないからといって、現在の勤労世代の負担を増やすという選択は、本来、国の政策としては予定されていない。こんな風な反論が必ず出てくるように思うのである。

2011年9月1日木曜日

景気予測は修正されるか?

今年の春、日本がまだ大震災・原発事故で混乱の極みにある頃、民間のエコノミスト各氏は今年度の株価動向予測を開陳していた。個別にみると、上がり下がりの形に個人差はあったものの、概ね年度後半から株価は上昇軌道を辿るだろうというラインを考えていたようだ。

既に9月。この先、株価が年度末にかけて上昇軌道をたどるだろうと予想している専門家はどの位いるだろうか?復興需要は、三次補正予算の規模が明らかになり、成立の見通しが立つまでは計算には入らないだろう。いま計算に入っているのは、アメリカの財政緊縮への動き、欧州金融機関の不良債権問題とソブリン危機再燃の懸念、中国、インドなど新興国のインフレ防止、それから何といっても円高。マイナス要因はこれから確実に効いてきて、プラス要因は予定よりも大幅に遅れるだろう。春の予想はもはや実現困難ではないかと思われる。

振り返れば、欧米のソブリン危機(=財政危機)がここまで紛糾しようとは、まだ桜の花が咲いている時点では想像できなかった。円レートがこれほど急速に上昇しようとは想像できなかった。日本の国内政治がここまで混迷するとは想像できなかった。予測屋と統計屋は、とても想像できませんでしたという不規則要因を<ショック>と呼んでいる。分野によっては、<ノイズ>とも言う。不規則であるからには、その時点の情報に基づいて、ショックの大きさを予測することは(理屈からして)不可能だ。これから先も、やはり(現時点では)予想されていない事象が発生し、それが世界経済を更に不安定化するかもしれず、あるいは幸いにして安定化への道をたどるきっかけとなるか、現在はまだ分からない。つまり、予測というのは、その時々にどんなストーリーで明日のことを考えているか、その程度の営みである。だからこそ、リスクを常に計算に入れておかないといけないわけだ。

文字通り「神はサイコロをふり給う」のが、人間社会の現実である。

× × ×

少し前の週刊エコノミスト、具体的には本年4月5日号を図書館でパラパラめくっていた。すると、某商社系シンクタンクのエコノミストが商品価格の予想を述べている。
商品価格が再び上昇している。(中略)これを投機マネーによるマネーゲームと見る向きも多いが、そもそも「価格」は、あらゆる情報を集約したものだ。その「価格」が循環的な変化を逸脱する形で強い上昇基調を示し出したことは、背後にある経済構造が変化したことを意味する。
今となっては、リーマン危機からの回復のなごり、<夢のなごり>である。しかし、これこそロゴフ・ラインハート両氏による"This Time is Different"(邦題:国家は破綻する)。両氏がまさにメイン・タイトルにもしている認識パターンなのであります。価格変動には実体経済の裏付けがあるのだ。この認識は経済科学に立脚した物言いでもあるので、中々、反論しがたいのだ。しかし、これまでのバブル発生の根因として、現在までの価格上昇は投機マネーによる一過性のものではなく実態的原因があるという認識によって、その価格上昇の正当性が確認されていたことを、見逃すべきではない。<今はバブルにあらず>という認識が広く共有  ― より正しく言うと、無視できないほど多くの専門家によって主張 ― されていたという事実がなければ、過去のバブルはバブルにはなっていない。
世界経済のパワーシフト・・・(中略)中国、インドなど人口30億人弱の新興国へと変わり、新たな資源需要が累積的に増加するようになったのだ。(中略)商品価格は現物の需給関係だけでは決まらず、将来の需給を織り込む形で決まるようになった。
<新興国=エマージング・カントリーズ>という言葉を、かつて広く使用された<ニュービジネス>という言葉に置き換えれば、新しい認識に見えるが、実は古い定石を当てはめているということが分かる。

株価、為替レートをはじめ、一般に現物・先物売買がいつでも可能な(marketabilityのある)商品の価格は、確定的に分かっている変化はすべて前もって価格に織り込まれるから、価格変動は予測できなかったショックによって引き起こされる。不規則になる。結果として、価格変動はランダムになる。それ故に、価格の上昇局面と下落局面が(事後的には)交替しているとしても、同じパターンの変化は二度と繰り返されない。相場に限っては<デジャブ>は、ロジックとしてあり得ないのだ。一見したところ、実体経済の景気・不景気を商品市況が先行的になぞっているように見えるのは、好況期には一日、一日、Good Newsが多く発生するから、結果としてそうなるだけであり、その時点ごとにみれば、良いニュースは大体即時に消化されてしまうものである。

商品市況の世界では<歴史は繰り返す>ことはない。全ての上昇局面と下落局面は、一回きりの歴史の中で、それしかない個性をもっている。それが一つの<時代>である。図に描けば似ているようでも、必ず違った動きをするのである。

とまあ、さんざんエコノミストの記事をけなしてしまったが、最後に適切なことが書かれていた。
地球温暖化が急速に進んでいる状況では、省エネ、省資源、環境対策に力を入れて、そのスピードを緩和させるしかない。これらの課題に取り組むには、資源価格が、さらに高いレベルに移ることも必要だ。(中略)これは企業にとって大きなイノベーションの機会到来でもある。
エネルギー価格上昇は<必要>だ。価格上昇なき「節約」では真の省エネにはならない。何故なら、使いたいのを我慢しているだけだからである。あらゆる商品、サービスの中で、エネルギーが割高になって、初めて他の商品、サービスが割安になる。価格体系が変わって、はじめてライフスタイルは変わるし、(そうするのが得だという意味で)その新しい生活に納得できるのではないか。エネルギーに窮した時こそ、今までのやり方が過去のものになる。相次ぐ<創造的破壊>が現実となる。やはり基本的認識は、さすがに商社系シンクタンクだ。

この変化のプロセスの中で東電がどうなるのか?というより、どうするのか?それは別個に決めないといけない。

× × ×

さて、話題は変わるが、経済産業省から7月の生産指数(速報)が公表された。
(出所)経済産業省「生産・出荷・在庫指数速報」(平成23年7月分)

上の図をみて、どのような予測ラインを描くか?併せて公表された予測調査によると、8月は前月比2.8%のプラス、9月は2.4%のマイナスである。2か月をならせば僅かな上昇というところだ。<今後の生産は微増>というのが、直近の数字から出てくる予測といえる。

リーマン危機による激動、東日本大震災による激動があり、季節変動を識別するのが難しくなっている。とはいえ、今の生産活動は大震災直前というより、リーマン危機の落ち込みから漸く回復した段階と同じだ。夏場で生産の回復ペースが鈍化しているのは<電力不足>が主因だろう。

在庫が増えているのは、積極的に在庫を積み増しているのか、予想ほど出荷が伸びていないために売れ残っているのか明確ではない。小生は、自動車産業など強気な産業が一部あるものの、全体としては震災による生産能力の毀損、円高による海外移転、復興計画の遅れ、電力事情などから、低調なまま進んでいくリスクが相当あると思う。場合によっては、グラフの折れ線グラフは再び下へ向くのではないかと心配しているところだ。この見方は、4月時点に比べれば、明らかに情勢が悪化している。

だとすれば、年末に向かって一番憂慮するべき点は<企業倒産の増加>だろう。これが世界経済、大震災・原発事故の影響を含めた現状だろうと見ている。

秋口以降、民間シンクタンクが今年度の経済見通しの修正を発表するはずだが、多くは下方修正になると見ている。