2011年9月4日日曜日

日曜日の話し(9/4)

ゴッホの手紙」(岩波文庫)を読んでいると、この人にとって日本と日本人は本当に夢の国のようであったのだなあ、と感じてしまう。

たとえば、同書上巻108ページには
日本人は再現の抽象化をやる、平面的な色彩を並列させて、動きや形を独特な線で捕える。(中略)黒と白もまた色である以上、多くの場合、色彩として認めなければならないし、その組み合わせは緑と赤と同じく刺激的である。日本人もこの方法を用いている。・・・いつも病気のゴーガンはまた悪いそうだ。
と述べている。ここでいうゴーガンは、アルルで短い期間、ゴッホと同居したあと、ゴッホが自分の耳を切り落とすに至る、その友人ポール・ゴーガンである。

もっと読んでいくと、弟テオにあてた第500信の中で(同書中巻104ページ)
たとえ物価が高くても南仏に滞在したいわけは、次の通りである。日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通なのに、日本へ行こうとはしない ― つまり日本に似ている南仏に。結論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。(中略)君が当地にしばらく滞在できるとうれしい、君はそれをすぐ感じとり、ものの見方が変わって、もっと日本的な眼でものをみたり、色彩も違って感じるようになる。
ゴッホの創造活動において日本絵画(浮世絵)の模写は大きな比重をもっていたようだが、新しい目を我が物にしようとする志が伝わってくるではないか。これこそ<価値の転換>を試みる苦闘だ。

Goch, Japonaiserie‐雨の橋、1887年

日本文化をゴッホのように形容してくれる外国人が、今もなおいてくれれば、嬉しいものだ。

下は、オリジナルの歌川広重の「箱根」である。東海道五拾参次は江戸期天保年間、1833年から34年にかけて、描かれたと手元の「広重」(平凡社)巻末の年表に記されている。

歌川広重、箱根、1833‐34年

平面上で立体を立体らしく表現するために、陰影をつけたり、透視遠近法を重視する西洋美術とは全く違うことは明瞭で、これがいわゆる<色面分割>だ。幕末期、パリ万国博覧会に出品された日本の文物をみて彼の地の若手芸術家志望の青年達は大変吃驚した。これが新しい潮流を作っていったわけだ。日本も国を開いて激しい社会変動に陥ったが、外国も新しいものの見方を知って、自己革新に入っていったのだな。

Gauguin、Arearea、1892年

ゴッホによると抽象化は日本美術を特徴付ける技法だった。20世紀になってカンディンスキーが道を開いた徹底した抽象化も、その源流は欧州に流入した日本美術にあった。そうも言えるのではないか。

日本的、フランス的、ドイツ的、アメリカ的・・・という形容詞があるのは仕方がないが、「日本では」、「フランスでは」、「イギリスでは」という物の見方が、現実を理解するうえで有効なツールになるのか、小生は疑わしいと思っているし、少なくとも芸術の世界では最初のコンタクト直後の段階から、相互交流が始まっているのが現実である。

140年を経て、なおも残っている違いは、個性と呼ばれるものであって、なぜ違いとなって表れているのか説明困難な要素であり、それと同時に、その違いこそが国ごとの文化を作ってきた。そう見るべきなのではないだろうか?

だとすると、世界全体をユニバーサルにみる社会科学を適用して、個別の国の現象を説明しようとしても、対象全体の半分も語ることができれば御の字であり、残る違いは国ごとの固有因子で説明するべきだろう。ま、多くの人にとっては当たり前のことを書いているつもりなのだが、最近は海外から(特にアメリカを分析するのに成功した)<標準理論>を輸入して、日本の分析 ― だけならいいのだが、政策の助言まで ― を、文字通り<丸ごと>やってしまおうとする例が目立つので、書き留めておいた。 一般因子と固有因子の働き方が独立でなく、互いに相関しているなら、世界共通の一般因子だけに着目して政策を立案するのは、極めて危険である。そう思われるからだ。

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