2011年9月9日金曜日

リスク回避・ペーパーマネー・野田内閣

神戸、三田に私用があって回ってきた。都心部であれば新千歳から神戸直通便があるので楽に往復できるが、今回は三田市郊外に足を運ぶ用事があった。出発前に台風12号、13号の進路に悩まされたが、行けば行けばで残暑がきつく、昨晩帰宅した時はもはや疲労困憊。

用事というのは、四代前までの(カミさんの実家の)ご先祖の調査であり、菩提寺の住職に話をうかがい、明治大正期の過去帳まで出して来て頂いて、ある程度は概略が分かった。江戸期を通じて、その寺で世話になってきたという証拠も得られた。しかしながら、江戸期から明治大正期初めまで続いているはずの代々の墓は、別の場所に移り、そこも1995年1月17日の阪神大震災で過半の石塔が倒壊し、その後に整理が行われたこともあって、何がどうなっているやら、何も確認することができなかった。結論としては、1,2の証が菩提寺で確認されたことを除いて、当時のご先祖がどんな行動をして、どんな決断をしたのか、もうほとんど分からない、ということが分かった。

このように、まさしく<ルーツ>を確かめる旅をしてきた。痛感したのは、20年、40年という時間は、現役一世代の記憶にも残っている事柄であり、本当に短い時間なのだということ。今回調べたのは、明治44年前後において、その時のご先祖〇〇さんがどこで何をしていて、その息子▲▲さんは何故はるか昭和30年に至って、あのような選択をしたのか、そういう性質の事柄であった。ご先祖がとった一連の行動の因果関係を知りたい、そういうことであった。明治44年は西暦1911年。丁度100年前である。100年前から60年前にかけてご先祖たちが考えたり、意志決定したりした背景を再現したくなる。そんな希望を、現在という時点において、末裔が実際に持つことがある。その意味において、ご先祖は我々子孫にツケを回している。なぜこんなツケが回ってきたのか、その理由を知りたい。このように、人間社会はいつも歴史に束縛されていることを体感感覚として感じたのだ。

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いま100年前とか60年前と言った。今朝の日経朝刊4面にも
ドル安と金の高騰の果てに、70年近く前に挫折したケインズの国際通貨構想はよみがえるのか。
こんな問いかけで結んでいるコラム記事があった。タイトルは<ケインズはよみがえるか>だ。

金価格は一時急落して、金バブルははじけたかとも思われる節もあったが、再度ピークをつけ二山を作っている。


以前の投稿でも言及したが、<金バブル>というと経済の実態が見えにくい。金をニュメレール(=評価基準)に設定すれば、金以外の一般商品と資産価格が激しいデフレに陥っているだけのことである。

上の上記コラム記事では、世界銀行のゼーリック総裁の提言が紹介されている。提言というのは、金を通貨価値や物価を測る指標とする新しい通貨体制の構築である。モダナイズされた金本位制構築であるが、この提言は「現代のバンコール」とも呼ばれているよし。

バンコールというのは、第2次大戦終結後の国際通貨体制再構築について英代表のケインズと米代表のホワイトが論争を繰り広げた際、ケインズが主張した提案のことである。ケインズは、新設する国際機関が世界の中央銀行の役割を果たし、その機関が金などのハードマネーを基礎にバンコール(=国際通貨)を発行する方向を主張した。結果はホワイト案が選択され、1オンス=35ドルの金価格でドルと金との交換を保証し、そのドルとの交換レートが固定されるというブレトン・ウッズ体制が発足したのだった。ドルが国際通貨となることで、アメリカはドル紙幣で商品・資産を購入することが可能となり、莫大な通貨発行益を得ることができた。この辺の事情は、経済学部の国際金融論でもとりあげられるテーマでもある。

White - Keynes

金価格の高騰は、バブル投資の再燃というより、本源的マネーへの逃走、つまりリスク回避がもたらす逆バブルとして見る。これが本筋である。その筋合いからゼーリック総裁の提言が出てきている。たとえば昨秋のG20では次のように報じられている。
Tensions over currencies and trade gaps are simmering ahead of a summit of global leaders this week as America's move to flood its sluggish economy with $600 billion of cash triggers alarm in capitals from Berlin to Beijing….Export-reliant nations, many of them poor, fear the US Federal Reserve move will drive more cash into their markets in search of higher returns, driving their currencies even higher and hurting manufacturers that provide jobs and security for fast-growing populations. At the same time, China has maintained tight control over its currency, the yuan, adding to criticism it is kept artificially low and gives Chinese exporters an unfair export advantage….” [Associated Press/Factiva]

アメリカの国内事情に基づく金融緩和が国際通貨としてのドルの信認性を傷つけている背景がまず確認される。
BBC adds that “…one solution – proposed by World Bank President Robert Zoellick – is to return to a modern version of the gold standard. Unlike the original gold standard… he does not advocate rigidly fixing the value of currencies against the price of gold.
Instead, Zoellick suggested that a future system of flexible exchange rates should reference gold – instead of the US dollar – as a common point of valuation. The implication of Zoellick's suggestion is that countries like China would rely much less on buying US dollars, and more on buying gold and other currencies to build up their reserves….” [BBC News]
古典的金本位制に戻ることは、金ベースで考えた場合に見えてくる、現在の激しいデフレーションを考えるだけでも恐ろしいことである。しかし、アメリカの国内事情で国際通貨の信認が左右されるのは経済のロジックに合わない。適切な評価尺度が現在のグローバル経済には必要である。不必要なリスクの高まりは、適切な国際通貨の下で国際的な物価安定を達成することで回避できるはずである。物価の不安定が続けば、相対価格の変動と物価の変動を識別できない。生産と資源配分は相対価格で決まるので、市場は相対価格情報を分かりやすく伝えなければならない。物価安定が政策目標となるのはそのためだ。物価安定を一国内だけで達成するのではなく、世界全体で達成するべきだという提案は、まさに経済の本筋をついていると小生も思う。

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旅先で、小宮山洋子厚労相が就任記者会見で「たばこ代を700円程度まで引き上げたい」と発言したことに対して、それが閣内で波紋をよんでいることを知った。たばこの価格は、税制と同じく、財務省の所管であり、厚労省が口を出すべき事柄ではない。そんな指摘である。

確かにその理屈はわかる。

建前としては、政府が関係する全ての事柄には所管省庁が決まっており、個々の業務は必ずただ一つの官庁が担当することになる。だから政府の行政事務というのはモザイクのような設計であり、各省庁の所管する業務が統合されることによって、政府全体が機能することになる。重複はないのが原則だ ― 重複する業務があればそれは非効率であり、直ちに仕分けられるはずだろう。であるが故に、政府として決定をする時には閣議がそれを行い、閣議は全員一致を原則とする。互いに相手の縄張りを侵すことがなければ、同一事項について、意見が分かれるはずはないからだ。政府の単一性、内部無矛盾性の保証ですね。

もし互いに相手の所管業務について意見を述べることができるのであれば、閣議は多数決によることになるだろう。しかし、多数決によって論理的に無矛盾な意思決定を行うことは不可能であることが証明されている。だから政府の閣議において多数決を意志決定方式にすることは不適切である。であるが故に、たとえ政治家、閣僚といえども、官庁の縄張りを侵すことはタブーなのだ。

ロジックはこのとおりになるのであろうが、もしこれが当たっているのであれば、典型的に官僚的な思考でありますな。そもそも一人の人間が決めることですら、1年前の選択と現在の意志決定が矛盾することは、自然なことである。判断の基礎となった情報が同じではないし、情報を利用して決定を行った個人の判断尺度が同じではない。人間は変わるし、社会はもっと変わる。だから、時間を通じて矛盾のない論理を貫徹させようとする志向は、法学部の専門家が大事にしているだけであって、いまを生きている人間にとっては、自由と幸福を阻害する邪魔ものでしかない。そのように、小生は思ったりもするのだが、「では貴公はこの日本の社会がどのような方向へ変わって行こうとも、それを追認して放置するつもりか?」、「たとえば切腹が再び是とされる社会が来ても、それも時代の流れだと認めるつもりなのか?人命尊重をなんと考えるのか?」と、ギリギリ詰めた議論を仕掛けられるであろう。故にこんな発言は、殿中において、そうそう許容されるものではありませぬ。

とはいうものの、小宮山議員は閣僚である前に国会議員である。国会議員が閣僚に就くのは議院内閣制の理念に沿うものだ。官僚的思考に染まらない議員が、論理やら法律、制度など全く頓着することなく、「私は私の価値観でものを申し上げる」と・・・本来はこうでなくっちゃいけないのではないか?過去、現在、未来とあるが、過去から現在までの一貫性ばかりを言い募る自称専門家ではなく、現在から未来にかけて、何をどうしていくのがいいか?そんな発想で国会議員が発言するなら、これは誰にも止められぬ。この点は譲れないなあ、そんな感想をもった。

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