2011年9月23日金曜日

社会科学で幸福を製造できるわけではない

今日は秋彼岸。毎年、近くの寺である彼岸会に参詣することにしている。小生は、既に父と母を亡くしており、たまたま今日は母の命日にもあたるので、寺院の儀式というより、法要のつもりで参加している。

宗旨柄、その中で住職が法然の一枚起請文を読む。我々はそれを聞いている。小生は、大体、最初から最後まで眼をつぶっている。が、今日は配布された読本を目で追いながら聴いた。

聞いている内に「ああ、こういうことなのかもしれないなあ・・・」と、思うこともあったので、書き留めておくことにした。

オリジナルはこんな文章、というか古文である。
一枚起請文
源空述 
もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。  為証以両手印
浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を
存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。
建暦二年正月二十三日
源空(花押)
下線部を引いたところだが、つまりは、専門家が議論に用いる色々な概念や論理では、人間は救済されない。それは単なる学問であり、現実の救済とは無関係である。金銭欲とか、出世欲とか妬みとか、人間が本来持っている色々な心の汚れは当人をも傷つける病だが、そういう性悪的本質を乗り越えて、曇りのない、朗らかな人生の境地に達する。そんな救済を希望しているのであれば、議論ではなく、人間を救済する力のある主体に祈るしかないわけである。<人事を尽くして天命を待つ>。超越的な議論をしても、相手を批判ばかりしても、それは空の理屈にしか成らぬわけで、余計な議論はせず、懐疑をもつことなく、救済主に対する信念(=信仰)に基づく行動をとるべきだ。それなくして、議論をいくらしても意味がない。要は、議論より実践。頭じゃなくて、体を使え・・・・

ああ、そういうことであったか、と。

小生は哲学なる学問が、どの程度まで人間の知識を向上させるのか、専門外でもあるので深く研究したことはない。 しかし、木田元「反哲学史」(講談社学術文庫)は、これまで何度も読むことがあり、その度に気がつかなった文意をすくいとることが常であり、これだけは自信をもってお勧めできる。

この本は、ニーチェまでをとりあげているが、主題は、人間の認識の限界をどこにひくか?どんな問題をとりあげても、筋道を整理して考えて議論をすれば、<正解>というか<正しい認識>に至ることができるのか?考えてもムダである問題はあるのじゃないか?どこに限界があるのか?神がいるかどうかを考えることに意味があるのか?幸福な人生は何かを考えることに意味があるのか?ま、とにかく面白い本であり、単なる入門書ではない。

今日、目をつぶって(寝ていたわけではないが)聴きながら考えたことは、学問的議論をいくら積み重ねても、人生の最も大事なことは分からないものだ。だとすると、西洋の哲学史でも、同じ問題をずっと議論していたなあと。これは古くて新しい問題だ。この問題意識を一枚起請文の中にも感じた。そういうことであった。

たとえば社会科学がある。経済学では経済政策を議論する。そこでは物価の安定や雇用の確保、国際収支や財政均衡などを議論する。これらは政策の目標だと言う。しかし、物価を安定させたり、雇用を提供すれば、人々がそれで幸福になれると言っているわけではない。まして産業空洞化を阻止できれば良い日本でいられる。財政を再建すれば日本は幸せな国になれる。そんなことは全然考えてないわけである。考えていると政治家が言うから誤解を招く。そうではなく、設備や人が余っているのに、仕事がなくて働きたいという人がいる。これは理屈に合わないよね。あくまでもそういう問題である。非自発的失業の発生が<論理的>に説明されるなら、それは合理的であり、人為的に操作しようとするほうが非合理になる。科学は、どこからどこまでも、理屈に合うか合わないか、だけである。

一方には、この国に生まれてきて良かった。もう一度、こんな人生を生きられたらどんなにいいだろうと思う人がいる。その正反対に、生まれ変われるとしても、此の国だけは嫌だ。自分の人生をもう一度繰り返すのは嫌だ。そんな人がいる。自殺を選ぶ人もいる。それは、後者の状態に陥っている人を前者の状態にすることができれば、いいに決まっている。そうできるだけの科学的理論があれば、政策技術もついてくるわけで、もはや宗教はいらない。その時、人間社会は<幸福製造技術>を手にするわけだ。

しかし、<幸福のレシピ>は、物質的な素材だけではなく、精神的なものも含まれていると小生は思う。科学が発展すれば、そのうちエネルギー制約も克服するかもしれない。不安は一つなくなるはずだ。しかしその分、人間は自分の寿命を心配して不安になる。自分の子供の命を心配して不安になる。他人を妬むことは止められない。名誉欲を止められない。金銭欲も捨てられないだろう。人間は精神的な面で満ち足りることはない。矛盾に満ちた怪物である。そんな人間が、平穏な心で、他人を愛し、世の中を愛し、ああ生まれてきて良かった、などと思うのは、それが神様の求める道であり、倫理の求める道であるという揺るぎない心がいる。つまりは、信仰なくしては本来は無理かもしれないのだな。

1945年以来の戦後日本 ― 第◯天皇制になるかは知らないが ― は、モノで栄えてココロで滅ぶと言われてきた。精神的価値の喪失というと、まるで三島由紀夫の模倣のようであり恥ずかしいのだが、一枚起請文が書かれた建暦2年というのは西暦1212年、天皇の治める日本から武家政治の世に変わる激動期だった。大層古いのだが、結構、現代世界にも通じる観点じゃないか、そう気がついた次第であり、書いておいたわけだ。

そのココロで滅んでいる現代日本人が、モノでも大震災と原発事故、円高で滅んでしまうと、物心両面で滅ぶことになる。この10年が崖っぷちだろう。

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