2011年10月16日日曜日

日曜日の話し(10/16)

摘録 劉生日記」(岩波文庫)を購入する。画家岸田劉生が記した大正9年から大正14年までの日記である。日記は大正12年9月に起こった関東大震災を間に挟んで、同氏が藤沢市鵠沼に住んだ時分から、震災の後、京都市南禅寺艸川町に転居しそこで暮らした頃にまたがる。その後、劉生は京都から鎌倉に居を移すのであるが、京都在住時代の画家岸田劉生の評判はあまり良くはない。その辺をめぐる人間的内面のひだが当人の日記の文章からもそこはかとなく匂ってくる。魅力はここにある。

というより本書の魅力は酒井忠康氏の手になる巻末の解説にもある。大変些事にわたるが、同氏は小生がいま住んでいる所の隣町の出身であり、また小生と大学が同じなのだ。そんな人物が尊敬する画家の評論を書いていることもあって、ま、店頭で手にとってみて、何がなし親近感を覚えたのが購入したきっかけである。
この年月のうちから父が得た物は、父の仕事をより幅広いものにし、この年月のうちから失ったもののために、父は命を縮めたといってもさしつかえはないと思う。父が心の淋しさにもう少し堪え得る強さを持っていたら、またもう少し早く酒と遊びの生活の誘惑から抜け出すことができていたら、もう四、五年、いやあと十年は生きられたかもしれない。では、父の失ったものは何か。失ったものは一つではない。日向と影とがあるように、得たものの後ろには失わなければならないものがある。父の失ったものの一つは友情であった。(470頁、麗子の回想)
小生も「内地」の大都市圏から二十年ほど前に北海道に移住した者であるから、たとえ交通事情が劉生存命の当時と比較にならないとしても、気持ちとして上の文章は非常によく分かったりするのである。

岸田劉生、寺子屋舞台図、1922年

上の作品を制作して一年後、劉生は震災で鵠沼の宅も被災し、名古屋を経て、京都に引き移った。彼は春陽会を脱退し、画壇から孤立し、京都で金の工面をしながら古美術収集と遊興に毎日を過ごすようになった。彼は昭和4年に38歳で病気により急逝するのだが、震災後の作品をみることは少ない。しかし、劉生が「避難先」の京都でどんな風に暮らしていたか、日記に記されている。

岸田劉生は1891年の生まれである。昭和時代になるが早いか亡くなっているので、随分昔の、歴史上の人物であるように思える。ところが、たとえば藤田嗣治は1886年生まれで劉生よりも年長である。藤田は長命で、東京オリンピックが開催された後、1968年に82歳を迎えるまで長生きした。藤田嗣治の名を聞くとき、藤田に関心を持っている人は<現代>の香りを感じるはずだ。少なくとも<過去>を感じない。しかし、藤田より岸田劉生のほうが年下である。

長生きをすると、仕事を続けない限り、子供でもいない限り生活資金に困るわけであるが ― そこを解決するのが公的年金という社会共同体理念に基づく制度なのだが ― 多くの時間を持つことができて、多くの後世代の人々と交際することができて、色々な仕事をし、色々な成果を残すことができる。早く死んだ者には与えられないものが、長生きをしたものには与えられるのが浮世の現実だ。

長生きをするものが、早く死ぬものから金まで頂戴する。年金保険の原理は実に残酷なものだ。早く死んだものが残した保険料は遺された家族に与えたい、それが生命保険だ。こんな風に考えると、年金保険や生命保険や火災保険や盗難保険など、万が一の備えは家族とも相談しながら、本来は個人個人が名々で決めるべきものだろう。

人生をどう送るかに国家が介入する必要はない。介入をさせないためには甘えないことが大事であると思う。

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