2011年10月6日木曜日

スティーブ・ジョブズの死を悼んで記す

アップル・コンピューターの前CEO、というより創業者の一人であるジョブズが死去した。

小生のコンピューター経験は富士通の大型汎用機FACOMからである。当時は、80カラム様式のパンチカード1枚に1行のステートメントを穴を開けて入力し、さらにIBM準拠のMVS言語で書き下したジョブ制御文(JCL)を加えてから、カード一式をカードリーダー上に据え置き、それを光学式に読むとることでコンパイル、リンク、実行までを指示していた。一回に読み取るカードは、千枚にもなったが(とにかく重いのだ)、考えてみれば誠にささやかなものだった。その頃、小生が担当していたプログラムのうち最大のサイズはFORTRANで1万5千行程度だったが、最近のソフトは多くなるとソースプログラムで100万行にもなり、その他に数十個のライブラリが加わって、一つの製品になる。

コンピューター、というより<電算機>は、縦横30メートル程度の電算機室に配置され、内部は15度位であったろうか、適温に維持されていた。電算機といっても、1個の本体が置かれているわけではなく、演算装置、磁気ディスク装置、磁気テープ装置、ラインプリンター、制御装置等々の各種機器が整然と配置されていたわけだ。

「電算機ではなくて、電算機システムなんだよね。操作はシステム・オペレーターの資格がないとできませんから。」
「このレコードサイズとか、ブロックサイズとか、何の意味ですか?」
「それはね・・・テープを読む時に1行ずつ読んでいると時間がかかるから、他のユーザーに迷惑でしょ。だから10行とか100行ずつとか、まとめて読んでバッファーに置いておくんですよ。」

いやあ、最初は全然分からなかったなあ、電算機って奴は。それを制御装置のキーボードを叩いて運用するオペレーターの人たちは白衣などを着て(単に寒かっただけでしょうが)、神々しいオーラを見るようであった。

計算はカードで指示をしたジョブ1単位ごとに優先クラスが設けられ、緊急性に応じて、順番に処理されるというバッチ処理が原則だった。オペレーターの資格を持っていない一般のユーザー達は、室外のディスプレイの前に群がり、空港で離発着状況を確かめようとしている乗客よろしく、自分が依頼した計算業務がどの段階にあるのかを知ろうと、画面に見入っていたものだ。

「あれ、まだやってないの!?遅いねえ。ああ、こんなに混んでいるのか、仕方ねえなあ」
「これじゃあ結果が出るまで、まだ1時間はかかるだろうよ」

電算機と飛行機は、正に同じ感覚のエリート御用達のツールであったのだ。パンチ室は生暖かったが、扉向こうの電算機室内は真夏でもカーディガンをして入った。中央の制御盤では無数のランプが点滅していた。磁気テープ装置ではフルサイズ(何インチだったかなあ?)のオープンリール・テープが順方向に半回転しては、逆方向にリワインドされている。アメリカのNASAがアポロ計画を推進している時と全く同じ風景であり、その中で仕事をすることに興奮したものだったなあ、と。実際の演算能力は今のPCの何十分の1位のものだったのだが、それでもなお小生が知る電算機の原風景であったことに変わりはない。

パソコンは、NECのPC98が最初だ。最初は9801-UVだったかと記憶している。ワープロはどこかのメーカーが作った「EW」(イー・ダブリューとそのまま読んでいたと記憶している)。そのうちラップトップ型のLTを購入し、これはオフィスに持って行っては、自宅に持ち帰っては、という具合に大いに活躍した ― 小生の青春時代そのものだったのかも。

DOSユーザーが登場間もないMacintoshを見ると文字通りの別世界でありました。とはいえ、PC98のRA2辺りまではマック文化を横に見る傍観者であり続けた。そんな小生が、最初に買ったマックはSE/30。これは素晴らしい名機であり、動かなくなった今も部屋の本箱の上に鎮座している。まるで横浜港に係留されている氷川丸である。当時愛用していた日本語FEPのスウィート・ジャムとインクジェット・プリンターDesk Writerの印字品質には目を見張ったものだった。何しろ大型汎用機のラインプリンターとドットインパクト式プリンターしか知らなかった私である。その後マックはカラーになった。形も普通のパソコンのような筐体になった。1990年代の終りに衝動買いしたQuadra。これもいい機械だった。小生が最初に専門学術誌に掲載することができた論文、そこで報告したデータ解析はQuadraのお陰である。計量経済分析ソフトウェアTSPで何から何までやっていたものだ。

ジョブズ氏が、一時期、アップル社を去っていたのはその頃ではなかったか。まさかまた復帰して、iMacをヒットさせるとは思わなかった。更にiPod、iPhone、iPadと想像を絶する様な製品を切れ目なく出し続け、パソコンというよりデジタル世界のあり方を一変させてしまったのは、文字通り、夢のようであった。本日の投稿はパナソニックのLet's Noteで書いており、OSはWindows7である。とはいえAppleは小生の仕事道具から家族の愛用品として宅の中に浸透した。カミさんは隣室でAir Macを使っている。いつの間にか家族全員がiPhoneを持つにいたり、愚息一人はiPadを買うに至った。iPodも何個か転がっている。思えば拙宅におけるアップル製品の数量とソニー製品の数量は、マイナスの相関関係にあると感じる。2000年代における我が宅内のアップルの増加はソニーの退潮とシンクロしている。野口悠紀雄氏が東洋経済オンライン上でアップルとソニーの10年間を語っていたが、この2社が目指すべきであった事業は、かなり重なっていたのに違いない。そしてアップルはやるべきことをやった。・・・コンピューター屋が電話を作って売るなんてねえ、ATTとも相談しないでねえ、つぶされるぞ、えっ、何?音楽をネットで売るって、あの電算機メーカーが、iTunesって、ハッ・・・、謙譲の美徳ってやつを知らんのかねえ。日本の経営者はビジネスマナーが良いので、こんな風に批評していたのではないかと思う。

書けばそれだけ、いくらでも細かなことを書きたくなる。今日はプライベートな思いをつづってしまったようだ。これも素晴らしきアントレプレナーMr. Jobsに敬意と哀悼をこの場に書き留めておきたかった。それだけである。

A lot of thanks, Steve,  for your great fun, creative things and beautiful destruction !

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