2011年11月30日水曜日

井戸端会議2件

モーニング・ワイドショーを観ながら朝食をとるのは良くない習慣かもしれないが、一度ついた悪い癖は抜けないものだ。

1.皇族数と女性宮家の検討

女性皇族が結婚すると臣籍に降下する。それを新宮家として残すようにしようと。

こんなことをすると、宮家がどんどん増えて予算膨張の原因になるのではないか?

既存の宮家が養子をとれるようにすれば同じ成果は得られる。天皇家も宮家から養子をとれるようにすればよい。実際、幕府時代には家名存続のため養子制度を上手に利用していた。皇統というのは血統、つまりは家の継承という古制度だから、個人主義の現行社会制度の価値尺度を機械的に適用しても絶えるときには絶える。側室制度があった徳川将軍家ですらも、数代の後には直系が絶えて傍流から宗家に入って何とか継いだのが実態だ。

養子をとるしかない。宮家新設は宮内庁の予算要求戦略であろう。

2.荒川区刺殺事件

背後から一突き。

こう言う世情になれば反撃用武器の携帯が習慣化するのではないか?とすれば、相手と同種の武器を用いた上で、意図なくして相手を死に至らしめてしまった場合、それを無罪とする判例が定着する時代が来るのではないかと予想する。

<喧嘩>という概念と法律上の取り扱い。やがて時代が要請する課題になるだろう。

今日はとりとめなく書いた。夜は将来予測の授業がある。ボックス・ジェンキンズ流アプローチの核心である(偏)自己相関図の読図を今日はやる。<減衰型>と<カット型>の読み取りと意味解釈だ。

2011年11月29日火曜日

2011~2013年度の経済見通し

白川日銀総裁が11月28日に名古屋経済界代表者との懇談会を持った時の挨拶で以下のような見通しを示した由。資料を添付しておく。

世界経済の牽引役を務めてきた新興国の高い成長ポテンシャルを踏まえると、適切な政策対応によりソフトランディングが図られるという条件付きではありますが、海外経済の成長率も新興国に支えられる形でいずれ再び高まっていくと考えられます。また、国内では震災復興関連の需要も徐々に顕在化していくと考えられます。 
このため、わが国経済は当面減速した後、緩やかな回復経路に復していくというのが現在の私共の中心的な見通しです。日本銀行が先月末に公表した見通しの数字に即して申し上げると(図表1)、実質GDP成長率は、2011 年度は+0.3%と低めの成長にとどまるものの、2012 年度は+2.2%、2013 年度も+1.5%と、プラス成長を続けていくとの見通しを示しています。 
この間、消費者物価の前年比をみると、2009 年夏に下落幅のピークを付けた後、徐々にマイナス幅が縮小し、現在はゼロ%近傍で推移しています。先行きについては、マクロ的な需給バランスの改善傾向を反映して、2013 年度にかけてゼロ%台半ばになっていくとみています。
もしこの見通しが市場でかなり共有されているなら、実態経済は年末から年始にかけて低迷するだろうが、株価は年明け後、というか早ければ年末にかけて、反転上昇すると予測される。

となると、冬季賞与で金貨を買うよりも株を買った方がいいのか?
正直、迷っているところだ。
各種のアンケート調査によれば、企業からみた金融機関の貸出態度および企業の資金繰りについても、改善の動きがはっきりしています。この点、欧米では、欧州ソブリン問題に伴う市場の緊張を背景に、夏場以降、金融の引き締まり現象がみられているのとは対照的です。こうしたわが国の金融環境の改善には、先ほどご説明した日本銀行の極めて積極的な金融政策も貢献していると判断しています。
金融緩和が十分日本国内に浸透しているという上記判断については意見が分かれる所かもしれない。

2011年11月28日月曜日

TPP―農業お荷物論を考える

毎週日曜に掲載される日経「経済論壇」は中々面白いので小生は愛読している。経済論壇では、その時々の焦点になっている種々の話題について、専門家が論壇に寄せた意見をダイジェスト風にまとめている。現在の執筆者は東大の福田慎一氏である。

昨日27日付けの話題はTPPだった。メインタイトルは「TPPで通商戦略再構築を」である。

読んでいくと「関税撤廃によって打撃を受けることが予想される農業などに対して、一定の配慮を求める声は根強い」という見方がまずとりあげられ、具体的には
東京大学教授の松原隆一郎氏(週刊エコノミスト11月29日号)は、比較劣位にある日本の農業などは、仮に生産性が今後向上したとしても、壊滅的な打撃を受けると指摘。経済効率だけでは社会は成り立たないと述べ、比較劣位でも存在意義がある特定の産業は守るべきだと訴えている。
このように紹介している。

その国で何が比較優位をもつ産業となり、何が比較劣位におかれるかは、へクシャー・オリーン(さらにサムエルソンを加える場合もある)の定理が基本になる。つまり、土地、資本、労働、知的財産などなど、その国に比較的多く蓄積されている経営資源を集中的に使用する産業が、比較優位性をもつというのが結論だ。

理屈からいえば、それぞれの国が最も得意とする産業は違うのが普通だから、まずは各国が最も得意な商品に特化して生産をすれば、世界全体で最大量の商品が供給される。あとはそれを貿易で自由に交換すれば良い。これが<自由貿易>の狙いだ。確かに、あれもこれも、不得意な産業まで含めて各国で生産しようと思うと、非効率な産業にもヒト、カネ、資本を投入しないといけないので、本来得意な産業分野が拡大しない。拡大しないからスケールメリットもいかせない。R&D投資も行われない。そういう結果になる。これは国として損である。これが自由貿易論である。言いかえると、ズバリ<選択と集中>。世界を相手に勝負している民間企業であれば、半ば常識になっているとも言える。つまり、TPPの利益とは自由貿易の利益であり、それは集中の利益にほかならない。比較劣位にある産業を守らなければならないなら、自由貿易のメリットは限定的になろう ― というか、保護権益が政治勢力化し、その果てに堕落する可能性を考えると、あまりプラスになる政策ではない。

日本の国家戦略としてTPPを眺めてみると、それは農業からの<撤退戦略>である。日本の農業が縮小すれば、外国への食糧需要は増加する。だから外国は農業を拡大する。外国では資源が非農業から農業にシフトする。その分、外国では非農業、たとえば製造業は縮小する。それは日本が拡大したい非農業にとってメリットになるだろう。<選択と集中>の背後で進めるべき<撤退戦略>と同じロジックである。

× × ×

ここまで日本の農業は比較劣位にあると決めつけて書いてきた。日本の農業は比較劣位産業なのだろうか?

この20年間で製造業の商品は世界市場でずいぶん割安になった。だから日本にも海外の製品が目立って輸入されている。製造業の価格が、農業生産物の価格に対して、もし日本の方が世界市場よりも割高であるのなら、日本は製造業に比較優位をもってはいない。

世界市場でいま進行中の現象は、資源高と製品安、食料高と製品安、サービス高と製品安である。確かに日本の製造業は日本株式会社のコア・コンピタンスであり続けた。しかし、今後もずっとこれまでどおりのスピードで、日本の製造業は効率性を上げていけるのか?中国の農業生産性が停滞し、中国の製造業が効率化しただけで、中国は日本に対して製造業の比較優位をもつだろう。比較優位とは絶対優位とは違う。どちらの国の生産性が高いかではない。それぞれの国で進む生産性向上レースの順位と産業間格差が大事なのだ。中国の製造業が彼の国で大勝ちすれば、日本の製造業が絶対的な効率性ではトップを維持しながら、農業に僅差で勝っても、日本の製造業の比較優位は失われるのだ。比較優位とは、周辺国の結果次第で、変わってくる。ここが勘どころだ。

芸術品のように鍛え抜かれた日本の国内製造業をこれ以上磨き上げることができるのか?これに反して、戦後日本政府の無策とも言える農業政策が「幸いして」、日本の農業は「泥だらけ」だ。今後将来にかけて期待できる生産性の向上は大きいとみるべきだ。だとすれば、日本の比較優位を製造業が占めると断言するのは、時機尚早というか、少なくとも将来の貿易競争で製造業が不動の四番バッターだと思いこむのはやめたほうがいい。

2011年11月27日日曜日

日曜日の話し(11/27)

小生の職場では現在トップを選出するための選挙運動が繰り広げられている。先日も対立候補に投票してほしいという依頼を聴いたところだ。そこで話したことは、かなり小生の本音に近いことだった。
候補が超一流の人材であり、高い見識を持っていることは、専門分野も同じで熟知しているが、しかし現在私達が置かれているマクロ的な条件を考えると、トップに座るたった一人の人間を現職から別人に変えることで、今後の帰結が別のものになるとは思えない。この組織がどうなっていくかは、社会全体のマクロ的な動きの中で決まっていくことであり、一人ひとりがどう考えるかということとは別のことだ思う。ましてやトップを自分たちに近い人物に変えれば、私達が助かるという考え方は、完全な錯覚であって、候補を応諾したご本人にも大変迷惑なことではないのか?
大体そんなことを話したのだな。

人は何らかの思想をもっているものだ。しかし、自分の思想が▲▲思想に該当するか、それを正しく自覚しているとは限らない。小生は、本ブログでも何度か書いているように、社会がこれからどんな風に進んでいくかは、個々の人間の思惑とは別のことであり、政治家がなすべきことは、<自分がやりたいこと>をするのではなく、その時にその社会が進もうとしている方向を洞察して、それを妨害しないように、無意味な抵抗をして意味のない努力を強制しないようにすることである。そんな風な考え方をするのだが、振り返ると若い時からずっとそんな風に社会を見ていたような気がする。

この立場は<歴史主義>と思っていたが、よくよく考えると<唯物史観>だな、これは。つまり<社会主義>そのものだ。自分でも驚くが、まさにそう。社会は巨大な現実であり、人間の理性はそれを解釈したいように解釈しては、色々と意味付ける。しかし、現実そのものは私たちの理解とは全く別の存在であって、社会の変動や本質を人間が理解するのは、そもそもできないのだ。理解出来ない以上、社会の進展をあらかじめ予測することも不可能だ。管理することも不可能だ。あれよあれよと戦争が始まることもあれば、信じられない形で新しい国ができたりする。信じられないのは、人間社会の現実を理解できていないからだ。ま、そんな風な見方である。

社会の発展は、歴史の中で決まってくる帰結である以上、社会の現実を洞察する先導者がいる。社会の<前衛>である。それは<共産党>が担わざるをえない・・・ここまで書けば、小生の社会観がマルクスの唯物史観と50歩100歩であることは明らかだ。なるほどねえ・・・と。これは面白い!

ロシア革命は第一次大戦中の1917年のことだ。1920年代のロシアでは、ロシア・アバンギャルドと呼ばれる潮流が思想界、芸術界で花開いた。何度か登場するカンディンスキーも第一次大戦が始まり、それまで暮らしを共にしていたガブリエレ・ミュンターと別れてロシアに帰国した。そこで再婚をして新しい人生を歩き始めたのだった。

フィローノフ、Formula of the Cosmos, 1919

ロシア・アバンギャルドの自由な発展は、やがて社会の「前衛」たる共産党の指導に服すべきだとされた。1920年代末から30年代にかけては、時のスターリン政権下で、もっぱらロシア社会の更生を正確に写実するミッションを与えられ、芸術家達は主観を放棄し、<社会主義リアリズム>の実践に邁進することになった ― その結果、新しい創造は何も生まれなくなった。カンディンスキーはロシアを再び捨て、戦後ドイツでバウハウス運動に貢献した後、パリに赴いてそこで死んだ。

フィローノフはロシア国外ではあまり知られていない。ロシア共産党政権は、第一次世界大戦直前の時期から発展した象徴主義、抽象主義、立体主義など新しい潮流は、すべて個人の主観を社会という現実の上におく<ブルジョア思想>そのものであり、ソ連国内では抑圧する方針をとった。上の作品は、ロシアという国が、そんなソ連社会に変質していく前に到達していた一つの地点を伝えるものである。



2011年11月25日金曜日

国債は窮極の不良債権か?

ドイツの国債入札不調で欧州危機は新たな局面に入ってきたようだ。健全財政、インフレ防止姿勢の権化とも形容できるドイツですら、国債札割れを起こす。ここまで国債が金融資産として忌避されているのはなぜか?

いうまでもなく国債は民間企業の社債と同じく債券の一種である。それは弁済を請求できる債権を証明する証券なのだが、国債には返済不能に陥った時の担保が債券価格に応じて設定されているわけではない。国債が予定期日に償還されない場合でも、債権保有国が債務の弁済を求めて提訴する先はない ― 提訴受付機関として唯一資格(?)のありそうな組織はIMFくらいだが、ギリシア国債、イタリア国債等が返済不能に陥った時に、資産差し押さえに動く気など、当のIMFにもさらさらない。国債というのは「ただ信じてくれ」という債券である。日本の歴史で言えば、豪商が藩に融資した<大名貸し>が類似の例であろう。もちろん欧州にも類例はあった。

本来なら、債務を弁済できないときは、担保を差し押さえられ、それでも不足する時には損害賠償請求を受けることになり、その請求に即時に対応できないときには破産宣言を行った上で、返済スケジュールを再設定してもらうわけだ。債務弁済のリスケジュールは、いかなる種類の債務についても、支払が危機に陥った時に必ず行われる。担保に対する所有権を失うことも覚悟しなければならない。では、ヨーロッパに端を発するソブリン危機において、国債償還は担保されているのか?

担保されてはいない。なぜなら国債を返済する能力を喪失した時に、国債発行国は実物資産を売却し、それでも不十分ならば国土を外国に売却してでも返済する意志は持ってはいないからだ。せいぜいやることは、不換紙幣を増発して、返済のための国債発行を行ない、資金繰りをつけるだけのことだ。しかし、それはインフレか為替急落を通して、実質的には何も弁済しない行動と同じである。もしも、国土や歴史的建造物を海外に売却してでも返済を確約している国債、いわば<担保つき国債>を発行していれば、国債が債務危機をもたらすことはない。もしも国債残高対GDP比率が上昇し続け、国債償還に懸念が持たれるようであれば、追加担保を求めればよいという議論にもなる。もしもこうした議論を行なっていれば、ギリシア危機はなかった ― その代わりにギリシアという国は、国まるごと、ドイツなどに買収されるだろう。それはフランスの国益と衝突し、ドイツにとって実行困難だ。しかし、解決策はこれしかない。

多数国が、その国ごとに不換紙幣を発行し、加えて国ごとに国債という債券を無担保で発行できる金融制度をとっている場合、債務国は常に不換紙幣を増発し、為替レートを切り下げる誘因をもつ。債務国が信頼を裏切るとしても、有効なペナルティを信頼を裏切った国に対して行使できないからだ。その債務国が、債権国と深い国際関係にあるとすれば、全体組織を崩壊させるほどの報復を債務国に対して実行することはできない。

国債といえばアメリカ国債についても同様だ。米債保有国はドル高への誘因をもっている。債務国であるアメリカはドル安への誘因をもっている。双方に合理的であるのは、安定した通貨を維持することだが、当事国の利己的動機を考えれば、それは安定的なナッシュ均衡ではない。

そもそも実質価値が制度的に確定された国際的統一通貨なくして、国際金融市場を運営するのは極めて脆弱(Vulnerable)である。何に対して、脆弱かといえば、個別国家の利己的動機に対して無防備なのである。資金を受け入れた国は、必ず為替相場を安めに誘導する動機をもつ。故に、債権国は債務国を信頼できないのである。19世紀の自由資本主義の時代には金本位制度の下、一定のハードカレンシーに支えられていた。欧州にはEUROという統一通貨がある。しかし個別国家が無担保の債券を発行する権限を認めていた。個別国家をただ無担保で信頼するのみであった。債務弁済を強制する制度的メカニズムに欠けていた。こうした状況では、個別国家は必ず相互信頼を裏切る誘因をもつ。裏切ったほうが絶対に得だからだ。欧州危機は、個別国家の無責任でいいかげんな行動を予防するメカニズムを持たなかった統合組織からもたらされた必然的危機である。

本日の日経朝刊に紹介されているように、10月28日以降の株価変動率は
イタリア: ▲16.4%
スペイン: ▲16.1%
フランス: ▲15.7%
ドイツ: ▲14.0%
香港: ▲10.4%
日本: ▲9.8%
アメリカ: ▲8.0%

このように、欧州の株価暴落ぶりが際立っている。これは統合組織としての不完全性があらわになったEUを世界が見る不信の念にほかならないが、結果としてユーロ安を誘い、EUに「逃げ得」を許す道を提供するだろう。その一方で、EUは<評価と名声(=Reputation)>という資産を代償に取り崩すことになる ― その名声あるが故に中東産油国の資金を吸収できたのだが、この話はまた改めて記したい。大体、EURO圏に英国は入っていない。

2011年11月23日水曜日

アメリカの財政緊縮ショックと金融政策

アメリカの強制的財政緊縮が現実のものになるとの報道で揺れている。しかし、今夏のアメリカ国債格下げに端を発した政権・議会調整で、来年以降は相当激烈な財政緊縮インパクトが出て来るだろうと予想しておくべきであったし、事実ほとんどのプロフェッショナルは予想しているはずだ。騒いでいるのはマスメディアだけである。マスメディアがその不見識のために不必要に騒ぎ、それが原因となって経済動向に詳しくはない一般の人々を不安にさせ、それがきっかけになって不安が社会化し、ネガティブな衝撃を生み出すとすれば、マスメディアが作り出している付加価値はマイナスであると断言してもよいほどだ。

さて英紙Financial Timesには、アメリカのFEDが第3次量的緩和(QE3)を検討するのかという解説記事がある。
The US Federal Reserve is unlikely to ease monetary policy any further until it has settled on a new communication strategy, according to the minutes of its November meeting released on Tuesday. 
Only “a few members” of the rate-setting Federal Open Market Committee thought that the sluggish economic outlook “might warrant further accommodation”, suggesting that any move towards a new round of quantitative easing – QE3 – is still some way off. (Source: Financial Times, 22 Nov 2011)
どうやら年末から年明けにかけての経済動向によってはQE3実施がありうるものとされているが、それはまだ先のことである。そんなニュアンスだ。いまFEDが考えている、というか議論しているのは新たなコミュニケーションツールだと言う。
The FOMC considered a wide range of communication tools in November, but chairman Ben Bernanke instructed a subcommittee to concentrate on two in particular: “a possible statement of the Committee’s longer-run goals and policy strategy” and publishing what FOMC members think will be “appropriate monetary policy” in the future. 
A statement of the Fed’s longer-run goals could be a way for the FOMC to finally adopt an explicit inflation target, something that Mr Bernanke has pursued since he became chairman in 2006. Such a statement could make clear that the Fed is still committed to maximum employment as well.
長期的政策意図について、国民、市場にどのようにして正確な認識を形成できるのか、形成すること自体が一つの有効な金融政策であるという点が非常に大事だ。バブルは予想に基づいて発現するマクロ経済的症状であるし、バブル崩壊後の低迷も心理的萎縮に基づく部分が多い。マクロ経済において企業、消費者、政府は主要なプレーヤーである。政府の働きかけが有効なフォーカル・ポイント(≒合図、標識という意味のゲーム論用語)となることによって、低位均衡点から高位均衡点へ移ることができるのであれば、そんなプラスの結果をうむような政府の行動、政府が行うコミュニケーションはどのようなものであるべきか?それがコミュニケーション・ツールの研究に込められた狙いだ。

インフレーション・ターゲットは、時間的不整合があると言われて来た。つまり、インフレ率引き上げにコミットしているように見えて、実際にインフレ率が上がれば、それを抑えにかかる動機を中央銀行は最初から持っているので、インフレーション・ターゲットという政策手段は効力を持たないのだ、という考えだ。しかし、バブルの発生の背後にはそもそも中央銀行を見る何らかのマーケット側の予想があった。だとすれば、バブル崩壊という負の衝撃から立ち直る際にも、政策当局がとるべきパフォーマンスがあるのだろう。これが戦争であれば、総司令官の一挙手一投足が注視されている。その司令官の一つ一つの行動、一つ一つの言葉が、ひいては部隊全体の集団行動を変えることになる。それが勝敗を分ける鍵になることは言うを待たない。

日本でも、以前は経済白書が毎年注目されて来た。数年ごとに総合経済計画を作り替えてきた。国土利用計画もそうであった。これらの△△計画は市場経済には似つかわしくないものという声があがり、どれも21世紀になってからは、あるかないかという状態になった。◯◯白書も「いまさら公務員に分析してもらわなくとも、民間に専門的エコノミストがいる」という声が上がり、最近では評判になることもない。しかしながら、政府の計画や白書公表は、それ自体に強制力や権威があったわけではなく、企業、消費者、関係国など日本と関係のあるプレーヤーが共通の予想、将来ビジョンをもつコミュニケーション・ツールとして役立って来たものである。それもまた政策ツールであった。そんな指摘は前世紀末の中央官庁再編成においてもあったはずなのだ。

この10数年の間、規制緩和と小さな政府という政策潮流の中で、私たちは侍が髷を捨て、刀をすて、脇差しをすて、裃を捨て、果ては武士道を捨て、行動規範をも捨てて来たように、何か有用な、一度捨ててしまうと作り直すのが至難な大事な道具を捨ててしまったのかもしれない。というか、小生は事実そうではなかったのかと、ほぼ確信している。

ま、文字通り<覆水盆に返らず>ではあるのだが。<役に立っていないものはないのじゃよ>、ご隠居がよく宣う台詞だが、流行といえば流行だったが、ちと軽率な進め方でありましたな、日本政府は。


2011年11月22日火曜日

次は国家経済戦略を討論する番だ

今朝あたり消費税率引き上げ案が、ようやくにして政府から出て来たようだ。政府部内でそれなりに煮詰まって来たのだろう。14年度からまず8%へ引き上げ。15年4月か10月に10%まで上げる案が(いまのところ)有力だそうだ。

実際には、消費税率10%でも財政再建は無理だろう。消費税率15%まで引き上げを長期目標としては掲げておかないと、出尽くし感を形成し、日本の将来に希望を持つ心理を再構築するには不十分で、結果として<不透明感>が残ることになるだろう。今の原案のままでは、日本政府は依然としてその場しのぎの<瀬戸際戦略>をとり続けるという印象をぬぐえない。これは間違いないが、それでも目先3〜5年間くらいは世界に向かって、日本も変わり始めたというプラスのインパクトを与えられるだろう。

さて、Nikkei BP Netを時々見るのだが、大前研一氏が洪水で被害をうけたタイ復興のため2兆円規模の支援をするべきだと提案している。いうまでもなく日タイ関係は歴史的にも深く親密である。日本の経済援助(→円借款に限る)の中で対タイ援助と対インドネシア援助は二本柱であった。現在でもタイの輸入相手国としては日本が最大であり、タイの輸出相手国としては他のASEAN諸国が20%を占め、次いで中国、日本の順である。日本の製造業は2000年代に入って以降、東南アジアとの工程間分業ネットワークを形成してきたとよく指摘されるが、タイはそのネットワークの拠点に位置づけられる。

そればかりではなく、中華帝国再建という明確な国家戦略をもつ中国に対して、日本がどう向き合って彼の国のエネルギーを日本の利益につなげていくかを考察することこそが、日本の利益につながる。その国家経済戦略を議論する中で、タイ、ベトナム、インドネシア、台湾、韓国、モンゴルなど、周辺アジア諸国というプレーヤー群は極めて重要だ。歴史的なわだかまりと足元の損得勘定から、中国の対日批判が今後将来において逆転するとは考えにくい。日本は、このような外側からの攻勢に対しては、外側においてパワーバランスをとる戦略を選ぶべきだ。自国の戦力を隣国との対立に投入して、経済取引の機会を失うのは愚かだ。タイ、ベトナム、朝鮮半島、モンゴルなどの諸国が、近い将来、中国と結託し日本に対して攻撃的態度をとることにより、自国の利益を求める誘因を持つ可能性は、歴史的にも、民族的にも、論理的にも、小さい。理がそこにあるなら、日本のプラスになるような関係に強化できるよう、国家戦略を実行していくべきだ。

こうした議論をするからにはロシアを含めない訳にはいかない。TPP騒動では「アングロサクソン陣営をとるのか、中華帝国をとるのか?」という巷の噂が飛び交ったが、いずれ「中国と結ぶのか、ロシアとつきあうのか?」という選択も日本は迫られるだろう。同じ日本ではあるが、北はロシアとの交流で大きなプラスを得られるし、南は中国との経済取引が利益を約束するだろう。しかし、東アジアにおいて、中国とロシアが利益を分け合う関係を形成するのはほとんど不可能だろう。だから、日本はここでもまた選択を強いられるだろう。

いまのTPP騒動など呑気な騒動だった。そんな感想が出てくると予想する。中国とアメリカはシェアのとりあいではゼロサムゲームを繰り広げようが、GDPの数字で見れば協調が可能であるし、協調の利益は大きい。この利得表は中国とアメリカには当てはまるが、中国とロシアには当てはまらないだろう。そんな国際事情が顕在化する日が遠からずやってくるのではあるまいか?

消費税率引き上げは、一家の収入をどのように配分するかという話しだ。収入管理の次は、一家がどのように活動していくかという話しにならないといけない。内輪の話しの次は必ず<遠交近攻>の話しになる。野田政権と民主党は財政再建でやるべきことをやったと思ってはいけない。財政再建は、やっておかないと前に進めない単なる助走、それも第一歩でしかない。

政治家がやっておかないといけない宿題に、やっとのことで取り組み始めた。そのくらいに考えておくのがよいと思われる。

2011年11月21日月曜日

中流社会のリスク回避症

昨日は5時起きをして深夜に帰宅した。東京は25度の高温で、北海道に帰ると零度で雪が降っていた。疲れた。急逝したM叔父に別れの挨拶をすることが目的であったのだが、一週間も経っているのに、昨晩が通夜であるときいた。それに通夜は都心の会館で行うという。自宅に伺った小生、線香をあげることすらできない。通夜に出席する時間もなく、また春の彼岸に焼香にうかがいますと言い置き、叔父宅をあとにした。昨晩が初七日だと思い込み、それにいずれにせよ日曜日しか往復できないので、電話で確かめもせずに、東京まで赴いた小生も愚かであった。それはそうだが、地方で暮らしていると葬式の順番待ちなど、想像すらできないものだ。いや全く、世の中移り変わっている。小生が知っている首都圏はもはや20余年も昔のことになってしまった。

そうしたら今朝の日経朝刊の経済指標欄では日本のエンゲル係数をとりあげていた。エンゲル係数は周知のように消費合計に占める食費の割合のことである。このエンゲル係数だが日本は他の先進国に比べて高いことが知られている。これは日本人が外国人より食に贅沢であるからではない。日本国内の食材が割高であるためだ。日本の一人当たりGDPの高さから類推すれば、国際価格で食材を調達できれば、日本のエンゲル係数は概ね半分の高さに低下するだろう。それで浮いたお金で日本の消費者はいろいろなものを買えるはずである。その方が豊かであるに違いないじゃないか?日経の言いたいことはこういうことである。TPPには恩恵と損失が同時に発生するが、日本で暮らしていると食費がバカにできない事実は、日常慣れっこになっているので、案外気が付きにくいのではないだろうか?

いずれにせよ世の中というのは移り変わるものである。帰宅して書棚を整理していると付箋を貼っている本を見つけた。ホワイトヘッド著作集第6巻「科学と近代世界」だ。付箋のあるページを開けると、傍線が引かれている。
<画一の福音>(gospel of uniformity)もほとんどこれに劣らず危険なものである。高度の発達を遂げうる条件を保持するためには、国家や民族の相違が必要である。(中略)人類は樹上から平原へ、平原から海岸へ、風土から風土へ、大陸から大陸へ、生活習慣から生活習慣へ、と移動を続けてきた。人間が移動を止めたとき、もはや生の向上を中止するであろう。身体の移動も重要ではあるが、人間の魂の冒険 ― 思想の冒険、熱烈な感情の冒険、美的経験の冒険 ― の力は、なおもっと偉大なものである。人間の魂というオデュッセウスに刺激と材料を与えるために、人間社会間の相違が絶対に必要である。異なる習慣をもつ他国民は敵ではなく、ありがたいものである。(286頁)
異なる商品を異なる方式で生産していると、商品の価格体系が違ってくる。そんな二つの国では、必ず交易によってプラスの恩恵が生じる。そのためには、得意な分野に<特化>することが必要だ。あれもこれもと百貨店のように国民経済を運営するのではなく、各国が一番得意な分野に特化する。その時に、世界全体としては、最も多くの商品を作り出す。これは簡単な理屈だ。これを貿易によって世界に流通させればよい。米をどこでも作っていた江戸時代と殖産興業を進めた明治日本の違いがここにある。

いま日本人は、国際経済に組み込まれる利益・不利益のどちらが大きいかを、再び考えあぐねている。いつか来た道だ。これだけは言えること、それは同じ社会の成り立ちを守ったままでは、TPPのメリットは引き出せない、ということだ。得意分野にヒトとカネを集中しないといけない。これは一見すると<ハイリスク>だ。

こんなことをホワイトヘッドは言っている。本が出た1925年は、第一次大戦に勝利したものの英国の没落が明瞭になっていた時代である。
19世紀を支配した富裕な中流階級は、<生活の平穏>を過度に重んじた。彼らは新しい産業組織の課した社会改革の必要を正視することを拒み、また今日は新知識の課する知性改革の必要を正視することを拒んでいる。世界の未来について中産階級の抱く悲観論は、<文明>と<安全>とを混同するところから来ている。手近な未来には手近な過去におけるよりもなお安定が乏しく、安定が欠けているであろう。もちろん、不安定も度を越せば文明と両立しなくなることは認めなければならない。しかし、一般的にいって、偉大な時代はいつも不安定な時代であったのである。(277頁、但し括弧はブログ投稿者による)
経済的に成功した国家では必ず層の厚い中流階級が形成され、その中流階級が非常に長期にわたるその国の安定成長を約束するものである。しかし、中流階級の拡大は、副産物として安定を志向する社会、リスクを回避する社会を作り出すものだ。中流階級という社会のマスが、自己資産の喪失を怖れるようになるとき、それでもなお自己資産を増やしたいと願望し、海外投資に明け暮れるようになるとき、その国は没落への道をたどり始める。このくらいに考えておいたほうがいいだろう。

少なくとも、世の中が進歩すれば<安全>になるとか、<リスク>を考えなくともよくなるとか、そんな風なメンタリティが広がるとすれば、これくらい間違った認識はないと言えそうだ。

とはいえ、ホワイトヘッドが上のように記しているにも関わらず、英国が再び活性化への道を歩み始めるのは1980年代を待たねばならなかった。眠りから覚めて、再びチャレンジ精神に満ちた社会を取り戻すまで、半世紀以上の時間を必要としたわけだ。

日本にとってTPP参加が活性化への特効薬になるのだろうか?そんな風には、小生、どうしても思えないのだな。経済的ロジックに沿っている以上、TPP参加と自由貿易拡大が日本全体としてメリットをもたらすとは思う。TPP参加で豊かになったと感じる日本人の方が、損失を被る日本人よりも多いだろうとは思う。しかし、当面のメリットが出尽くした後、さらなる成長への道を日本は歩めるだろうか?そうは思わない。それを可能にするには、当の日本人が過剰に安定を志向しているように感じる。失うことを恐れるようになった社会は、そこで進歩を諦めなければならない。この見方だけは、ホワイトヘッドの目線に100%同感なのだ。

2011年11月19日土曜日

日曜日の話し(11/20)に代えて

明日の日曜日は東京まで往復しなければならない。それで今日のうちに「日曜日の話し」を書いておく。

用事は亡くなったM叔父と別れの挨拶をするためだ。父にはたくさんの弟妹がおり、亡くなったM叔父は小生よりも7歳だけ年上である。幼い頃には、夏休みといえば遊びに行き、M叔父と二人で蜻蛉とりをしたり、セミをとって炎天下の中を歩き回ったりしたものだ。ある時、暮らしていた小さな町から叔父のいる県庁所在市まで自転車で延々とこいで行ったことがある。まだ健在だった祖母が驚いて、小生の好物だったチキンライスを作ってくれた。母にも電話で知らせたのだろう。帰りは夜だった。子供だけで返すわけにもいかず、亡くなったM叔父が当時はまだ中学生であったろう、私につきあって夜道を自転車でこいで同行してくれた。今にして思えば、帰り道は真っ暗で怖かったろう。当時の楽しかった時間を小生は忘れたことはないが、成長して色々と大人のやりとりをし、父と叔父達との微妙な関係を知るにつけて、段々と疎遠になり、最後に話しをしたのはもう20年も昔になるかもしれない。とはいえ、歳もそれほど違うわけではなく、これから将来にかけて、また会って話しをする時間は無限にあると思っていた。明日は古いアルバムに貼ってあったM叔父とのツーショットをもって、最後の別れの挨拶をする。


クレー、死と炎、1940年

かわりにしんでくれるひとがいないので
わたしはじぶんでしなねばならない
だれのほねでもない
わたしはわたしのほねになる
かなしみ
かわのながれ
ひとびとのおしゃべり
あさつゆにぬれたくものす
そのどれひとつとして
わたしはたずさえてゆくことができない
せめてすきなうただけは
きこえていてはくれぬだろうか
わたしのほねのみみに
 
(出所)谷川俊太郎「クレーの絵本」

2011年という年は、本当に死の香りにむせ返るような一年だ。存在から非存在へ移ることの意味をこの一年ほど考えさせられた一年はない。




2011年11月17日木曜日

政治>宗教が近代化と分かってはいるのだが・・・それにしても

こんな報道がある:

天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)が指定暴力団山口組(総本部・神戸市)に対し、寺内で安置している歴代組長の位牌への参拝を拒否する通知を送っていたことが17日、分かった。延暦寺では平成18年、山口組歴代組長の法要が営まれたことが発覚。今後の法要を拒否する方針を表明しながら、その後も少人数の参拝は受け入れていた。近年、暴力団排除の機運が高まり、ようやく“絶縁”に踏み切った格好だ。 
 延暦寺では18年4月、初代~4代目山口組組長の法要が阿弥陀堂で営まれ、全国の直系組長ら幹部約90人が参列。滋賀県警が前日に中止を要請したが、延暦寺は「慰霊したいという宗教上の心情を拒否できない」として応じなかった。(出所: MSN産経ニュース2011.11.17 14:39配信)
小生がずっと縁を有している宗派は浄土宗であり、延暦寺は天台宗なのだから、考え方が異なるのは異なるのだろう。しかし浄土信仰を宗派として開いた法然は延暦寺で勉学した。そもそも延暦寺は日本の大乗仏教の総合大学とでも言える存在で、歴史に名を残す仏教思想家の多くは比叡山出身である。だから、延暦寺と浄土信仰とは全く無関係というわけではない。

倉田百三「出家とその弟子」は今でも中学生向けの推薦図書リストに入っているのではなかろうか?その最初の扉には
極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我
の正信念仏偈の仏句が掲げられている。この「出家とその弟子」という戯曲の主人公は親鸞である。親鸞が法然の弟子であり、現代日本でも最大の信徒を有する浄土真宗の宗祖となったことは、歴史の授業で必ず登場する事柄だ。その親鸞といえば、どんな言葉を思い出すだろう?教科書にも登場しているので誰でも知っていると思う。

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

である。善人が極楽浄土で救済されるというのに、悪人が救済されないはずがないという文意だ。決して逆ではない。悪人すら救済される以上、善人が救済されないわけがない、こう言っているわけではない。あくまでも、悪人こそが救済されるはずなのだという思想である。これを<悪人正機説>という。その思想が、倉田百三「出家とその弟子」の冒頭にある第一句でも唱えられているわけだ。

左衛門: あなたがたは善いことしかなさらないそうだでな。わしは悪いことしかしませんでな。どうも肌が合いませんよ。 
親鸞: いいえ悪いことしかしないのは私の事です。 
左衛門: どうせのがれられぬ悪人なら、ほかの悪人どもに侮辱されるのはいやですからね。また自分を善い人間らしく思いたくありませんからね。私は悪人だと言って名乗って世間を荒れ回りたいような気がするのです。・・・ 
親鸞: 私は地獄がなければならないと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならこの世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです・・・
テーマは心の救済と浄土信仰であるが、文章は論理的であり、なぜ<悪人>の魂を救済することこそが、宗教的課題にならなければならないのか。普通でない説得力に満ちているからこそ古典であるのだろう。

さて、延暦寺は暴力団参拝を拒否するとのことだ。上に引用したような、悪人の魂をこそ救済しなければならないという思想は、この措置からは到底窺うことはできない。そんな考えは捨てたのか?もともと、そんな思想は天台宗にはなかったのか?

おそらくあれだろう。延暦寺観光収入に依存している以上、警察からの指導に従わざるを得ないということなのだろう。本当にこの邪推が当てはまっているようならば、延暦寺はもはや宗教施設ではなく、生命を失った観光資源である。天台宗という教団は宗教法人と名乗ることをやめて、観光ビジネスを展開する事業法人になれば善いのではないのか?

思わずこのように感じられたわけなのだが、これが極論としても、少なくとも組織暴力団の参拝を拒否することが宗教上の必要に合致する、まあ、いわば山口組を<破門>するだけの理由がある。そのくらいは示さなければ、いまもいるかもしれない宗徒は納得しないのではないか。そうも思われたわけだ。

 

2011年11月16日水曜日

年末年始までの景気の足取り

夏場の日本の実質GDPは瞬間的には回復への動きを見せたが、10月以降、年末年始までの景気を見通すと決して明るくはない。そもそもアメリカの財政緊縮への転換は、早々に打ち出されていたのだから、今年後半のグローバル経済がある程度失速することは、予想はできていたことだ。

OECDのComposite Leading Indecatorをみても、既に中国、インド、ブラジルは景気後退が明瞭であり、欧州もピークアウトしていることが明らかだ。アメリカも今後どの程度まで沈むかという段階だが、アメリカはまだ第三次量的緩和(QE3)という手が残されている。そんな中の日本だが、確かに震災復興特需に期待できるとはいうものの、日本は世界景気に非常に敏感である。輸出入とも海外景気の落ち込みで低下し、運用先を求めて日本円に資金が集まるとさらなる円高もありうる。日本の生産活動も今後順調に拡大していくとは思えない。

2012年は<景気調整>で年が明けるだろう。

本日の日経をみると、ヨーロッパの景気後退は3つの政策ミスが招いたと記されている。

  1. 金融不安があるにもかかわらず、インフレを懸念したECBが7月に金利を引き上げた。
  2. 域内銀行の経営健全化の名のもとに、自己資本比率規制を強化した。これが貸し渋りをうむ。
  3. ギリシア危機への対応に手間取り、当局への信頼に傷がついたこと。

3は、EUという組織の限界が反映したものと考えられるが、1と2は何故にこんな判断をしてしまったのか?不思議である。経済学を勉強した人が欧州にはいないのか?思わず、そう言いたくなるくらいだ。ま、生身の人間の命を預かる医師と、メカニズムの理解が脆弱な経済学者の違いといえば、身も蓋もないが、2011年夏の判断ミスが<欧州の敗着>にならなければよいがと思うばかりだ。

2011年11月14日月曜日

7~9月期のGDP速報の第一印象

本日、7~9月期GDP統計速報が公表された。今年の夏場は震災後の生産回復、節電騒動による生産下押し、更にはギリシアの財政破綻、米国債の格下げなどによる金融市場の混乱が重なり合い、これらのプラス、マイナス両面の影響がどう出てくるかが注目されていた。

対記者クラブ説明では季節変動を取り除いた季調済み系列の前期比を主に説明する。それは<足元の景気の足取り>を伝えるためだ。公表資料によれば、この季調済み前期比は1.5%、年率では6%成長という拡大スピードを達成した。いうまでもなくこれは大震災後の生産落ち込みの反動である。下は季調済前期比を図に描いたものだ。


東日本大震災は生産サイドを襲ったショックである。生産組織は寸断されたが、需要が急低下しない限り、国内のどこかに生産が移動する。世界規模のマネー収縮による需要蒸発がリーマン危機では起こった。やはり図をみると、いかに大惨事であったとはいえ、経済的災害評価の規模という点でリーマン危機と東日本大震災を横並びでは論じきれないことがわかる。いずれにしても、夏場の増加は明瞭である。

しかし、同じ数字を原系列の前年比でみると全く異なる。


ようやく前年同期の水準に並んだレベルでしかなく、今年に入って水面から頭を出したことは一度もない。リーマン危機で10%減に沈んだ後、6%増という高さに回復したあと、またマイナスに沈んでいるということはリーマン危機直前の生産にまだ復帰できていないことでもある。

これはリーマン危機の後、鮮明になってきた国内民間企業の<過少投資体質>の帰結でもある。日本の経済問題は、まずは財政赤字であると言われてきたが、いまの日本の財政赤字は煎じつめれば日本国内の資金偏在でしかなかった。国内民間企業が生産のための投資をしなくなったということの意味合いは財政赤字を上回る本質的問題である。政府は、なぜそうなっているかを真剣に考える必要がある。

2011年11月13日日曜日

日曜日の話し(11/13)

三島由紀夫「葉隠入門」がどこかに行っていたが、最近、ひょっこりと又出てきた。本はよくそんなことがある。どこかに消えたと思うと、また戻ってくるのは他にも印鑑がある。失くしたと思っていたら、鞄の隅や服のポケットから出てきたりする。そんな時には、相手が単なるモノであっても<縁>を感じたりするものだ。

「そう言えば、どこが好きな下りだったかなあ・・・」と、パラパラ、ページを繰ってみると色々な所にうっすらと線が引いてある。大半は「こんな所になんで線を引いたのか・・・」という感じだが、中には赤線ではっきりと強調までしている所もある。
トインビーが言っていることであるが、キリスト教がローマで急に勢いを得たについては、ある目標のために死ぬという衝動が、渇望されていたからであった。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで及んだローマの版図は、永遠の太平を享受していた。しかし、そこににじむ倦怠を免れたのは、ただ辺境守備兵のみであった。辺境守備兵のみが、何かそのために死ぬ目標を見出していたのである。(新潮文庫版、26頁)
現代の世界においても、頻繁に戦争や内戦を繰り返している国は多数ある。先進国は自動小銃や砲撃から無縁であり、そんな戦闘が展開されているのは未開発国であると思ってはならない。そもそもアメリカは日常的に戦争を繰り返している国であるし、イギリス、フランス、ドイツ、韓国など必要な時に戦闘に参加している先進国は多数にのぼるのが現実である。日本も人的支援を行なっている ― ただし「国権の発動たる戦争」だけは禁止されている。
現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、あるいは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝はじつに簡単に「勘定者」と呼んでいる。合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、誰も喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもって自らを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。(同63頁)
人によっては過激な思想であると言うかもしれないが、小生はこの下りを今日読んでも、同感を禁じ得ない。戦後日本は素晴らしい理念に基づいて開かれたが、堕落をするとすれば三島由紀夫が非難するような形で堕落するのだろうなあと、やっぱり納得してしまうのだな。


 Manet, バリケード, 1871

自らは印象派展に出品はせず、印象派に所属してもいなかったが、19世紀フランスにおける美術革命への道を切り開いたマネの作品「バリケード」。この作品は、日本の国立西洋美術館に所蔵されている。マネがこのリトグラフを制作した1871年は、普仏戦争でフランスが敗れ、それでもパリがバリケードを築いてプロシア(=ドイツ)に徹底抗戦した年である。パリ・コミューンという。フランスがフランスであろうとしたのは、ナポレオン3世による第2帝政が崩壊した混乱の中であったことを忘れてはならない。

創造は敗北と破壊に基づいて行われるしかないのかもしれない。とすれば、勝利と太平の中で進むのは退廃なのだろう。平和であるからといって、全ての国で退廃が進むわけではないが、よほどモラルと理念が強固でない限り、平和は創造の敵であるのかもしれない。

だとすれば、生死をかけるという意味で究極のリスク要因である戦争と破壊が、創造的活動の導火線であることになり、これは一寸信じられないことでもあるのだが、一概にバカバカしいと否定することもできないと思うのだ。


2011年11月12日土曜日

日本の<過小投資体質>が意味すること

何度も繰り返し書いている事実だが、日本はカネが余っている国である。

カネが足らなくて困窮しているのは政府だけである。この事実をすら、よく知らない人が多いような感覚を覚える ― この勘違いが本当に広く社会に浸透しているのであれば、大事な事実を伝えることが使命のはずのマスメディアに責任があるのだろう・・・。

カネが余っていることは、海外に資金を融資し続けていることからわかる。それは日本の経常収支(=貿易収支、サービス収支、所得収支、移転収支の合計)がずっと黒字であることの帰結だ。たとえ貿易で赤字になっても、海外からの資産運用収益が流入し続ければ、経常収支の黒字は続く。前にも述べたが、日本の黒字の半分以上は、モノの取引ではなく、資産収益からもたらされている。

カネが余るのは国内で使うあてがないからだ。消費や投資や建設投資に使えばカネは余らない。日本の家計の貯蓄率は、退職した高齢者世帯が増えているので、次第に下がっている。だから日本は貯蓄過剰にはあたらない。カネが余っている原因は、貯蓄率の低下以上のはやさで、既存の民間企業が国内投資にカネを使わなくなったからである。本来の理屈で言えば、企業は使う当てのないカネを配当に回すべきである。配当を受け取った個々の資産家が、資産収入をどう運用するかを自分の責任で決めるべきである。企業が巨額の余裕資金を抱え込むのは、企業統治上、またマクロ経済の観点からも、大きな問題だと小生は思っている。

内閣府が公表している機械受注統計(9月実績と10~12月期見通し)の数字が意外と強めに出ているので国内景気の悲観的見方がやや後退しているようだ。しかし、トレンドをみると到底楽観できるものではない。下図は指標となる民需(電力船舶を除く)の受注実額の増減である(上記資料から抜粋した)。


月々の増減よりも、平成20年度のリーマン危機後に日本の民間企業の<過小投資体質>が一段と鮮明になってきたことが分かる。今年の春先までは、それでも徐々に少しずつ増えては来たが、大震災後の混乱、急速な円高が国内メーカーから事業を継続する意欲を奪っている。それで海外への製造拠点シフトが急増している。

× × ×

いくら政府が巨額の借金を続けていても、日本全体で見れば、カネが余って仕方がない状況であるから、日本全体が資金繰りに困ることはない。ということは、円が通貨不安にさらされる心配はあるはずがない。心配なのは、日本国内の<資金偏在>、<収支インバランス>であって、国内のマネーの流れが妨げられる事態である。具体的には、カネを持った民間経済主体が政府の資金調達に応じなくなるとすれば、政府の信頼性に傷がつき、政府が被る傷を拡大させないために対応措置を講じる日銀の信頼性にまで傷が広がる。そのことが(予想外の結果として)円の危機を招くことになるはずだ。

国としては、資金繰りに全く問題はないにもかかわらず、国内におけるやり方がまずいために、国民経済全体が混乱する可能性がある。これはとても愚かなことではあるまいか?

図に示されるように、民間企業の過小投資体質が一層ひどくなってきたが、企業は余ったカネで対外投資を行なっている。製造業に投下されている資本は国内を諦めて、海外で利益をあげようとしているわけである。伝統的大企業で蓄積されている使い道のない余裕資金を、株主にちゃんと配当すれば、個々の国内投資家は日本の中の色々な成長産業に投下できているはずである。本来は、このように日本の産業ポートフォリオが新陳代謝されるはずだが、日本の財界本流は岩盤のように強固である。

× × ×

日本経済の成長戦略を政府が本気で立案するつもりであれば、法人税率を下げるのではなく、据え置くべきだ。安定した国内需要が期待できる一次産業と三次産業を支援する産業基金を創設、拡大、支援するべきだ。同時に、医療、教育、介護、法律、財務、企業経営支援等々、サービス業全体を覆っている職業資格、開業規制を改革するべきである。そこにカネとヒトを投入するべきである。そうしてこそ日本は暮らしやすい国になるだろう。製造業が海外に移転すれば、輸出は減るが、輸入も減るのである。国際収支はマクロ経済の戦術要素であって、それ自体を国家戦略にするのは本末転倒である。

こうした総合政策は総合経済政策を担当する行政組織がなければ、政治家や役人の雑談で終わってしまう。ところが民主党政権は、いまだに経済財政諮問会議を休眠させたまま、国家戦略会議を非公式のミーティングのような存在に据え置いたままである。一人ひとりの人間に出来ることは限られているが、ここにも日本の政治家と言われる人たちの無責任体質が覗いているではないか。

現在の日本は、<雇用確保>の名のもとに、極言すれば三井、三菱、住友、芙蓉グループ等々、伝統的な財界本流に属する大企業の利害に沿った経済政策が展開されようとしている。既に成功した専門的職業集団の利害に沿った政策が実行されようとしている。政府は日本社会のエスタブリッシュメントから恫喝されているに等しい。TPP論議の決着もそうした観点から見てこそ、背後の構造を洞察できるのではあるまいか?誰が得をして、誰が損をするか?得をしている人が日本の政治を動かす駆動力なのである。そう考えるしかないのではあるまいか?

2011年11月11日金曜日

想定外こそ進歩をもたらす

今日は学部の一年向けに統計学の授業をする。ちょうど正規分布をやっているところだ。正規分布はガウス分布ともいい、ノーマル分布とも呼ぶのであるが、ノーマルとは「言い得て妙だなあ」と話すたびに思う。ノーマル=正常、という意味だからだ。

川の水位も津波の高さも、株価の毎日の変動率も高低さまざまでバラバラである。そこで、発生した値を整理して、どんな値が多く現れて来たかを分布図に描く。これが統計分析の第一歩だ。分布図に描くと、平均的な大きさと併せてばらつきの度合いも分かる。そのばらつきの度合いは、普通のデータ解析では標準偏差を見るのだが、正規分布では標準偏差の3倍を超える値はまず考えないものだ。まして標準偏差の4倍はありえないと考える。大体、正規分布の数値表にしてからが、通常は標準偏差の5倍までしか表にしていない。標準偏差の5倍を超える事態は<想定外>になる。しかしリーマン危機では標準偏差の15倍程度の大暴落が発生した。文字通り<信じられない>出来事だったのだ。

マグニチュード9の地震はどの程度発生する確率があると考えられていたのか、小生自身はこの分野のことをよく知らない。知らないが、専門家達は今後はありうると考えよう、そう話しているそうだから、まずゼロに近い確率だと思っていたのだろう。川の水位には正規分布は当てはまらない。これはマンデルブロ「禁断の市場」にも詳しい。<想定外>と思うのは、人間がそう思うのであって、起こることは起こるべくして起こるのである。

いま金融工学の分野ではリスク評価、極値分析が急速に発展している。たとえば日本統計学会から以下の案内が届いた。
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日本統計学会分科会 「金融のリスク管理」の
第2回のセミナーが下記の日程で行われます.


日時:2011年11月17日(木) 18:20~19:50
会場:学術総合センター6階第2講義室 (一橋大学大学院国際企業戦略研究科
キャンパス)

講演者は次の通りです.


・ 講演1:山下 智志氏(統計数理研究所) 「信用リスクモデルの精度評価手法とパラメータの最適性」

・ 講演2:三浦 良造氏(一橋大学)「(仮題)Antoch論文紹介:信用リスク計測(あるいは分類)手法の比較」

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各講演の要旨,および参加申し込みは分科会のホームページ

http://fs.ics.hit-u.ac.jp/risk/

をご覧ください.
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これも金融パニックという<想定外>のことが発生したからだ。リーマン危機が<想定内>の現象であったなら、その後の混乱は金融機関の過失に原因があったのであり、金融工学理論に問題はなかったことになる。

想定外の出来事が起こって、はじめて従来の考え方が間違いであったことに痛切に気がつく。同じ間違いは繰り返したくないので、正しい考え方を懸命になって探す。これは自然科学、社会科学だけではなく、習慣、法律、制度、行政などすべてにおいて言えるだろう。もちろん何事が起こっても<想定外>とは考えずに、<バッドラック=神の思し召し>と受け取ってもよい。こうすれば何事もサプライズではなく、別の正しい考え方を探すつもりもないだろう。信念や信仰とは、そういうものだ、割り切ってしまえばそうなる。

社会が進歩していく中では、新しいやり方を試す段階を避けることができない。想定外のクラッシュを覚悟しなければならない。試用、臨床実験、治験などの行為は、研究開発活動への寄付と同じであり、それがたとえば無になる、場合によっては損害を被るとしても「それもあろう」。そんなスピリットが社会に溢れているかどうかが、その国が前向きか、後ろ向きかを決めるのだと思われるのだな。<想定外>を社会のマイナスと決めつける社会は、そもそも進歩をリードすることが不得意な社会である。これだけは言えるのではあるまいか?

少なくとも<想定外>のことが絶対に生じないように100%努力せよという社会は、リスクを絶対に避けよ、と言っていることと同じだ。リスク負担なき社会は進歩をリードすることはできず、他国の進歩を真似することしか出来ない。これが良いという心理は、以前、小生が本ブログで使った<確実な議論をしましょうよ症候群>。この症候群に罹患している政治家やマスコミ、評論家がホント多いのだなあ。TPP論議を聞いていると、つくづくと感じるのである。

2011年11月9日水曜日

「飛ばし」は罪悪か?

オリンパスの損失隠しが大問題になっている。同社は1990年代以降、財テクに失敗して千数百億円の含み損を抱えた。その損失を隠蔽するため損失を抱えた資産を高値で複数のファンドに売却。同社は損失を決算に計上しなかった。ただ当初から時価を上回る価格で当該資産を購入したファンドを助ける必要がある。そこでオ社は直接に比較的高値で当該資産を買い戻してもよいし、その資産を購入した第3社に何かの報酬を高値で支払ってもよい。その第3社が、どうやら野村系金融マンが経営する投資顧問企業であるらしく、そこに支払うサービス料が高すぎると異議を唱えたオリンパスの英国人前社長が解任されたことは記憶に新しい。

カネの流れは、あっちに行ったり、こっちに行ったりで、込み入っているが、要するにババをパスしたり、戻したりしながら、含み損を決算対象から外すという狙いは一貫している。現実には発生している<含み損>を広く公衆に公表しないのは、責任を免れるために他ならない。それ故に、こうした隠蔽行為は金融商品取引法に違反し、おそらく地検特捜部事案になっていくであろう。違法配当で会社法違反に問われる可能性もあるよし。逮捕される者も複数でて来るに違いない。

ただ含み損を飛ばしたとはいえ、せいぜい千数百億円である。それが許されざる犯罪であるのなら、たとえば私たちが延々と支払って来た公的年金保険料だが、それは今どのような形になって管理されているのであろうか?

厚生労働省の公表資料にもあるように年金積立金残高は22年度末で概ね120兆円である。その収益動向だが22年度は3千億円の損失が発生している。収益率でみればマイナス0.26%だが、損失額はとても僅かな金額であるとは言えまい。もちろん公表しているのだから「飛ばし」ではない。しかしながら、我々はたとえ政府が愚かな資産運用をしており、預けたお金の一部がなくなっていると知っても、年金契約を解消し保険料支払いを止めることが自らの意志ではできない。ちなみに金融市場が大混乱した20年度には9兆3千億円の損失が発生している。一切運用せず、現金で預かっておけば良かったのである。

リーマン危機で仕方がなかったという言い方もできるだろうが、小生が卒業した大学のトップは金融投資の失敗の責任をとって、次の選挙には立候補できなかった。年金積立金運用の責任をとって辞任した政治家や官僚を小生は寡聞にして全く聞いたことがない。多分、一人も責任をとっていないのであろう。

このような状況が一方にある中で、民間企業の不正経理を裁く。それも当然必要な行政行為ではあるが、では政府が現に為しつつあることは不正ではないのか?法に従っているという点では「不正」でないのかもしれない。しかし、権力を行使して所得の一部を徴収し、それを投資でスッても責任をとる人間がいない。不正ではないかもしれないが、無責任であり、政府と国民の間に構築するべき<信義>を壊している。

オリンパス社の行為は、同社と一般投資家との間の信義をないがしろにするものである。信義をないがしろにしているという点では、オリンパス社も政府も同じ穴のムジナである。

2011年11月8日火曜日

経済格差拡大をどう見ればいいのか?

アメリカで格差拡大が進行している。所得分配の不平等化のことだ。そのために街頭デモンストレーションも起こっている。もちろんこれは極端な市場原理主義である「茶会」に対抗した政治行動でもあって、民主党(特に左派)支持層が駆動力になっているのは間違いない。この動きは日本にとって他人事ではない。日本でも1990年代以降、格差拡大、一億総中流意識の崩壊が指摘されているからだ。欧州では社会民主主義が浸透している国が多いのだが、それでも世界経済から隔離されているわけではない。中国など新興国の所得分配の実情が社会不安を引き起こしているのは周知のことだ。

日本については本年10月31日に公表された総務省統計局「平成21年全国消費実態調査」から所得・資産分配のジニ係数が求められる。所得分配(等価可処分所得)について「ジニ係数を国際比較すると,日本(0.283)はドイツ及びフランスとほぼ同等」という結果であり、資産分配については「家計資産の分布をジニ係数でみると,平成16年と比べ,住宅・宅地資産では0.579とほぼ横ばいとなっている一方,貯蓄現在高などではやや上昇」となっている。貯蓄とは金融資産である。資産分配は、概ね土地住宅価格が上がれば平等化が進み、株価が上がれば、より不平等になる傾向がある。いずれにしても、0.283という所得分配のジニ係数はそれほど高いわけではなく、この数字を見て「日本の所得分配も不平等になった」と即断することはできない。但し、数年前に評判になった橘木俊詔「日本の経済格差」(岩波新書)では、厚生労働省の「所得再分配調査」のデータを利用している。上の「全国消費実態調査」では格差を過小に評価する傾向があると以前から指摘されているためだ。逆に、「所得再分配調査」は不平等度を過大に示す傾向があるとも言われている。こうした留保するべき点もあるが、日本の所得分配は、アメリカ並み ― いくらなんでも新興国並みに不平等度になっているという感覚はない ― より少しは低く、欧州より少し高くなりつつある。そう見ておくのが妥当ではないか。

これだけは言える点。それは、どんな指標をみても<経済格差>は拡大しているのであり、それは日本、アメリカ、欧州だけではなく、新興国でもそうである。世界全体で所得分配は不平等化している。いまの世界は格差拡大の時代である。これだけは事実として認めなければならないだろう。

× × ×

世界には非常に多くの国がある。市場経済が浸透しているとはいえ、経済制度は様々だ。そんな多様性を包括しつつ、グローバル規模で経済格差が拡大しているならば、必ず原因がなければならない。それは<市場原理主義>であると以前からよく指摘されている。しかし、市場原理主義は技術革新、生産システムの変容に迫られる形で、結果として登場した政策理念に過ぎないと、小生は見ている。大体、考えてもご覧あれ。政治家や経済学者が口にする舌先三寸の一言半句が実際に主因となり、世界規模の所得分配が現実に変わっていくなど、考えられるだろうか?もしそんなことが可能なら、あらゆる悲惨な戦争を政治家の言葉の力で避けることができるはずである。しかし、現実はそうではなかった。現実を動かすのは現実の力でなければならない。

実は19世紀(特に後半)にも所得分配は不平等化した。第一次世界大戦後の1920年代から第2次世界大戦をはさんで1970年代までは逆に平等化の流れが定着したかに見えた。不平等化が再び上昇するようになったのは1980年代以降である。時あたかも、サッチャー革命、レーガン革命と重なっていた。自由資本主義であった19世紀にも格差が拡大したから、市場経済こそ不平等度を上げるのだと批判されるのは仕方がないとも考えられる。確かに、物事の表面だけを見ればその指摘はある程度当たっているだろう。

しかし、経済学の基本定理は「市場競争の行きつく果ては自由な参入による価格競争と利潤喪失である」。高利益は決して永続はしない。低収益に陥ったエクセレントカンパニーも結局は市場から排除されてしまう。資産さえも永続はしないのだ。奢れるものは久しからず。これが理論的命題だ。自由資本主義だから不平等化するという因果関係は出ては来ない。

ここでは一つのポイントだけを指摘しておきたい。イノベーションは創造的破壊であり、既存の事業者の顧客を根こそぎ奪う。そのような新規事業に挑戦する人材は実は多数いる。が、その中で成功するに至る企業は実に少ない。成功企業は巨額の<創業者利益>を獲得する。その企業が成長して市場を半ば独占すれば、長期間、独占利潤を獲得し続ける。フォードがそうであったし、GMもそうだった。IBMもマイクロソフトもそうだった。Googleもアップルもそうだ。今はフェースブックがそうなっている。現在はネットワーク基盤の上のICT技術革新が伝播している真っ最中である。まだなお終わらないだろう。

× × ×

格差が拡大しながらも、経済成長率がそれほど高くないのは、大成功と同頻度で大失敗が生じているからだ。大失敗が多いのは先進国であるが故だ。キャッチアップ過程にあるなら大失敗は少ないが、トップランナーになれば進歩のためのリスクを負担しなければならない。先進国はそうして生きていくしかない。リスクを負担するからリスクプレミアムを上乗せした高収益を獲得できると考えないといけない。こう考えるしかないではないか。

困難な課題に一生を捧げ、ブレイクスルーを果たす人間が出てくるためには、所得分配は不平等になっていなければならない。夢を求めるには夢のエグザンプルがいる。だから巨万の富をある特定の人物が築くのを許容しないといけない。格差が拡大する現象をも許容しなければならない。

行政が、真に防止しなければならないのは、格差拡大ではなく、<独占の害悪>の方である。不当な市場支配、参入障壁は当然だが、更に圧倒的な交渉力を使って地方の優良企業を囲い込んだり、ベンチャー企業を押さえ込んだり、自由な経営を抑圧したりする行動をも含め、全ての種類の独占的行動をモニターし、違反を摘発し、処罰し、フェアなルールで市場を運営すれば、そもそも<市場経済>という言葉に日本人がアレルギーを起こすことは絶対にないと小生は見ている。

この最も大事な<成長のための行政戦略>において、日本政府はしっかりした理念を有してはいないのではないか?一番心配しているのはここだ。

2011年11月7日月曜日

アジアのインフレ動向といま必要なこと

「最近のインフレ動向」というからには日本経済の話ではない。

月曜日の日経朝刊には「景気指標」という欄があることは以前にも引き合いに出した。全面に国内外の主要経済指標の変動が作表されていて、中央にあるのが「景気指標」という短い文章だ。<今週のポイント>のようなものだ。今朝は「中国、統計が映さない物価高」。

中国の消費者物価指数は、前年比で8月が6.5%と直近のピークを形成し、以後9月、10月と6.2%、6.1%とインフレに落ち着きが見られ始めている。物価指数の水準は掲載されている表にはないが、これだけの鈍化が前年比に出ているなら、物価の高さそのものは夏以降、横ばいになっている気配だ。ところが、消費者物価指数には反映されていない値上がりが中国国内では観察されているよし。たとえば、幼稚園の月謝。正規の月謝以外の協賛金を要求されることが多いという。協賛金はあったり、なかったりするので、継続調査が原則の物価統計では採用品目にならないと思われる。更に、安い粗悪品が市中に出回っているらしい。食品や生活用品でまがい物が増えていると書かれている。同じ価格で品質が向上すれば、それはデフレだが、品質が悪化して価格が変わらなければインフレを意味する。また北京の食材市場では卵が1キロ10元程度だが、スーパーの末端価格はその6,7倍することもあるという。卵の産地、等級、包装状態の違いもあるから断言はできないが、これまた物価統計の調査対象に何が含まれているかで、データは全く違ったものになる一つの要因だ。

そもそも物価統計は生活実感に合わないという指摘が日本においても昔からある。それは当然だ。たとえばタクシーが値上げされてもタクシーを使わない人にとっては関係のないことだ。ビールやワインの価格が急騰しても、お酒を飲まない人にとっては痛くも痒くもない。また米が値下がりしても、米の嫌いな人には何も嬉しくはないだろう。一人ひとりが感じる<物価>は、買っている商品の中身次第であり、それぞれ異なったものなのだ。政府が公表している物価は、全国民の平均的なライフスタイルに応じた物価だから、大半の人にとっては実感と合わない理屈だ。

それでも中国のインフレは6%水準の高さにある。それに対して、韓国は概ね4%水準、直近の10月は3.9%に鈍化している。台湾は大体1%台半ばである。シンガポールは5%台。他方、アメリカは3%台のインフレだったが、次第に4%に接近している。台湾の鎮静ぶりが気になるが、大体、4ないし6%のインフレがアジア新興国の最近の状況だ。インフレ率格差だけをみると、元高、ドル安局面には自然にはならないが、中国にとっては元高容認は自国のインフレ緩和に役立つはずだ。中国のインフレは2008年に5.9%のあと、09年にマイナス0.7%、10年に3.3%の上昇だった。リーマン危機による落ち込みを財政拡大とリフレ政策で乗り切ったことが明らかである。

中国政府は4%程度までインフレ率を落としたいのではないか?現在はまだ前年比6%である。中国の金融財政政策が拡大へと切り直されるのは、あと4ヶ月ないし半年は必要ではないか?しかし中国のGDPは今年に入って、四半期ごとに前年比9.7%増、9.5%増、9.1%増と急低下している。台湾は6%成長から3%台に落ちた。アジアはすべての国で拡大が鈍化している。生産活動の実態は、拡大への方針転換を求めている。

アジア新興国は、目標を自国通貨高へ置き、インフレを緩和し、併せてアメリカ、ヨーロッパ経済を下支えする政策を当面はとるべきだ。それは同時に、日本にとっても非常にプラスになるだろう。先進国と新興国との政策調整が今は大変重要である。単にギリシア危機を解決するためのカネ集めだけの話しにしてはならない。

2011年11月6日日曜日

日曜日の話し(11/6)

歴史の必然性と言えば因果関係のことを指しているように思ったりもするが、そもそも<因果関係>という言葉というか、考え方自体からして、人間が生まれる前から持っている理解の仕方に過ぎない。いわゆるカントのいう<純粋悟性概念>というヤツでしかない。

身の回りの世界や社会を専門家たちは理解したかのように説明しているのだが、たまたま地球上に進化の結果として生まれたに過ぎない人間が、人間の知性でもって宇宙や生物界のあり方を理解できるなど、<究極のラッキー>をはるかに超えることであろう。理解できたかのように信じているのは、人間の頭脳で理解できる形で理解しているからに過ぎない。宇宙自体、社会自体、物自体がいかにあるのか。それは人間には永遠の謎である。ま、カントはこんな風に考えているらしい(木田元「反哲学史」を参照)。

しょせん人間は、物事を自分が理解したいように理解している、生きるために都合のいいように理解している、というこの目線が、小生、昔から相当好きであり、いまでも土台になっている。

北海道は普通の住宅の庭にも白樺が植わっているし、大学の裏山の斜面も一面の白樺林になっている。白樺は春先に花粉を飛ばし、その花粉でアレルギーを引き起こしてしまう人も多い。その白樺は秋になると早々に葉を落としてしまう。この10月に描き上げた自作を一品。

北海道の秋

カンディンスキーを並べておけるのも自分のブログならではの贅沢。

Kandinsky, Munich-Schwabing with the Church of St. Ursula, 1908

1908年だから画家カンディンスキーとしては幸福な時期であったに違いない。

その後の彼の人生は予想もできない形で変転するのであるが、後年、彼の生涯を全体として見る人は、そこに何か一貫した方向や志向を見出そうとするものだ。そんな一貫した志向や理念など空念仏であるのに・・・盲目の意志でしょ?孔明だって、ナポレオンだって、合理的に生きたわけではない。豊臣秀吉が織田信長に出会って、とんとん拍子に出世して、ついには本能寺の変の後、天下を統一するまでの<英雄の人生>がいかに馬鹿らしく、空想の産物であるか、福沢諭吉が「文明論の概略」で議論している。ラスベガスのギャンブルで大勝した人がヒーローになるようなものだ。ギャンブルなら偶然の産物ということをすぐに理解できるのに、歴史には運命とか必然を言いたくなる。

何につけ説明をしたがるのは、人間が生まれつき持っている<理性>がそう働くようにできているだけのことで、その説明と世の中の現実とは、実はしばしば何の関係もなかったりする。今日の話は昨日とは正反対。どっちを言いたい?どっちも。人間など一面は実相、一面は空、である(福翁百話)。

2011年11月5日土曜日

予測できること、できないこと

東日本大震災が今年の3月11日に日本を襲うとは誰も予測していなかったはずだ。このような事件はランダムで予測しようがない。しかし、1年間の交通事故死亡者数は、過去のデータからある程度予測できる。ただ、どこで誰が命を落とすか、それは分からない。小生が暮らしているO市内で、どこの家がいつ盗難事件に遭うかは全く分からないが、しかし今後半年間でどのくらいの盗難事件が起こるだろうかという予測は、それほど難しくはない。

国内には所得格差がある。収入の多い世帯や低い世帯が混在している。まるで理不尽な偶然から収入が低迷するのだと考えがちだし、高い収入を得るのも幸運であると考えがちだ。

しかし、同僚ともよく話すのだが、ある程度の必然性もあるように思う。小生は、随分前にサラリーマンから足を洗い、教師生活に転じた。授業のない日は割りと自由に過ごせる。中三日とか中四日となると、ある意味、プロ野球の投手のような生活だ ― もっとも彼らほど高給はもらっていない。その理由は彼らほど希少で価値のある才能を有していないからだ

自由時間が豊かにある一方で、カネはそれほどはない。小生の昔の友人は、小生の2倍から3倍は働いている。たまに会えば、彼らの髪は既に真っ白であり、随分、年齢を重ねたことを痛感する ― そういう出会いも最近数年間は少なくなった。彼らの仕事は生半可ではなく、負っている責任と求められるエネルギーに比例して、小生の2倍から3倍の収入を友人たちは得ているはずだ。「この大学にきて私の生涯収入は半分ですよ」、同僚はそんな風に言う。しかし、カネを求めて努力をすれば、カネ以外のものは、どうやら豊かではないらしい。ライバルとの出世競争、権力闘争にも勝たなければならないと思ってしまう。負ければ不幸だと思ってしまう。それもまた火宅の人生だ。自らは火宅を歩み、息子、娘そして妻とすら、語る時間もないままに歳月が過ぎ去ったと聞くことは多い。独立した息子とは何年も話したことはないという。一生の間に獲得できる成果は限られている。長生きをすれば老いの落日を経験しなければならない。カネの苦労をしなければならなくなるかもしれない。

ギリシアは国民投票を断念した。その結果、ギリシア以外の欧州主要国に安堵が広がっているようだ。しかしギリシアの首相は辞任するかもしれない。ギリシアは混乱するだろう。というか、ギリシアが<混乱するべき>なのかもしれない。だから混乱しているのかもしれない。

バブルとバブルの崩壊で日本経済は20年を失ったと言われる。その責任は政府・日銀の政策ミスにあると指摘されることが多い。しかし、80年代末のバブルが崩壊していなければ、経済格差の拡大、日本人の倫理観の混乱は、もっと激しいものになっていたかもしれない。日本が経験するべき混乱の総量は、そもそも何をどうやっても同じであり、一定の分量の混乱と衰退は必ず経なければならないのかもしれない ― おそらく100年もたてば、歴史必然論の観点から、この30年の日本経済と社会の歩みを総括する歴史家が現れてくるだろう。その議論は、1990年当時の日本社会が2090年当時の日本社会へと変容したその変化の過程は、「そうなるしかなかった」という意味で、避けることができなかったものである。そんな議論がおそらく現れるだろう。

スピノザが言うように、空中を飛んでいる石ころに理性があれば、「自分は自由意志でこうやって飛んでいるのだ」と、そう考えるだろう。今週は家内が松山に住むT一郎兄の見舞いに帰郷して、結構バタバタした。帰ってきた彼女から話を聞くと、どうも容態は楽観できないらしい。「これも運命だ」と考えることは、「そもそもこうなることは最初から決まっていたことで、避けようがなかったのだ」、人間はそう考えることで、また明日を迎える気になる生き物なのかもしれない。後悔は、その人の内面を食いあらす癌のようなものであり、心から死んでいく病である。

2011年11月3日木曜日

死せるギリシア、生ける独仏を走らす

国家財政としても、国民経済としても、死に体にあるギリシアという一小国が、何故にこれほどまで巨大メガ経済圏EU全体を揺るがすことができるのか?

ギリシアの不健全経済の為せる結果であるが、ギリシアが不健全である原因は過剰債務にある。その過剰債務はギリシア以外の欧州主要国が貸したために生じた。それ故に、ギリシアの過剰債務は他の欧州主要国の対ギリシア過剰融資と同義である。貸すか貸さないかの判断は、借りる側ではなく、貸す方が行うので、ギリシア不安の責任の半分以上はギリシアではなく、貸した主要国の側にある、と考えるのが理にかなっている。

先週、合意された欧州包括策 − ギリシア国債の50%棒引きもその一環だが − は、見返り条件としてギリシアの財政再建を求めている。同時に、経営不安に直面する欧州金融機関を公的資金で救済する(欧州金融安定化基金=EFSF)ため、資金余剰国である中国などにもカネを出してくれと要請しているところだ。中国はカネも出せば口も出すという姿勢をとっている。これは欧州が負わなければならないペナルティになるが、貸す中国にとっても、もし依頼を断れば余剰資金の運用先に困るだろう。結果として、世界市場でカネが回らず、中国製品の販売にもマイナスの影響が出るのは必至。だから中国はカネを出すだろう。日本は何も言わずカネを出そうと既に表明済みだ。

ところが、ギリシアのパ首相がこの救済策受け入れを国民投票にかけると表明した。ドイツ、フランス、EUの首脳は急遽会合をもち対応策を協議することになった。これは文字通り<死せるギリシア、生ける独仏を走らす>というか、シッポが胴体を振っている図である。

困ったものだ。とはいえ、経済学で<市場メカニズム>という時、それが最適である根拠の一つとして<資本市場の完全性>がよく挙げられる。資本市場の完全性とは、必要な資金は市場金利の下で常に無制限に調達できるというものだ。金融工学でも資本市場の完全性はしばしば前提される。資金が市場からとれない事態が起こりうるのであれば、標準的な金融工学は理論が相当複雑になるはずだ。有名なブラック・ショールズのオプション価格公式も成り立たなくなるはずだ。市場の完全性というのは、要するに「返せると言っているのが信じられないのですか?」、「分かりました。信じましょう」、そういう状況だ。もちろん借り手のリスクに応じて、金利(=リスクプレミアム)は上乗せされる。

ギリシアは(あくまでも)返すつもりで資金を調達した。そう考えるのが自然だ。貸しておいて、急に不安になったからといって、今すぐ返せというのは理不尽だ。これはポスト・リーマン危機で目立つボラティリティの上昇、そして金への逃避からも窺われるリスク回避度の上昇のためだ。つまり先が見えなくなったので、以前の貸し手心理ではなくなったのだな。今はマネーが大事というわけである。しかし、恐怖のあまり市場が資金需要に応じないのは、<金融市場>という経済インフラとしては、崩壊している。

ギリシアが死に体なのではない。金融市場組織が死に体というべきだ。

資金不足の裏側には、それと同額の資金余剰が必ず存在する。ギリシアの資金不足があったから、資金余剰国はいま保有しているだけの資金を蓄積することができたのだ、そうも言えるのだ。資金余剰国から資金不足国にマネーが流れないことがギリシア不安の根因である。いま大事なことはギリシアを悪者にすることではない。国際的な金融市場組織を再建し、資金取引をノーマルな状態にはやく復帰させることである。であれば、金融取引を規制するような政策は自殺行為である。

標準的な経済理論を信頼するエコノミストであれば、上のような議論になるのではあるまいか?

2011年11月2日水曜日

英国紙も円高防止を唱えるこの不思議、それとも作戦?

10月31日に政府が実施した大規模な円高防止介入については、明日から開催されるG20会議で「為替介入について米欧などに理解を求める」(日経11月2日付け朝刊)とのこと。ちなみに、その場で政府は2010年代半ばの消費税率引き上げを公約として打ち出す予定のようでもある。「お土産」を準備するのに、さぞ大変であったに違いない。

確かに円高防止=円安誘導であるのだから、米欧に理解を求めるという日本政府の姿勢は理解できる。しかし、「すいません、これはちょっと耐えられないと、そう思ったものですから・・・」、そんなニュアンスになってしまうのは大いに問題だ。為すべき介入、為すべき誘導は、マーケットが円滑に働き続けるためには不可欠の公的サービスだ。マーケットが余りにリスキーになると、ある意味で道路や公園などのパブリックスペースの利用が自粛される状態になる。不必要な乱高下を正常化し、荒れたゲームを正常状態に戻すレフェリーと同じ役割を、政府・中央銀行は果たさなければならない。

面白いのは日経が紹介している英国紙ファイナンシャル・タイムズの日銀報道である。タイトルが「円売り介入、抜本策にならず」だから、目を引く。
日銀は他の主要国の中央銀行より、はるかに高範囲の政策手段を長年、実験してきた。だが、実施規模はかなり控えめで、デフレに終止符を打つには至らなかった。
日銀がより大胆な量的緩和策を打ち出し、買い入れ対策を短期資産ではなく、10年もの国債にすれば、円の上昇圧力を抑えこむ有効な手立てとなるだろう。さらに重要なのは、長く低迷する国内経済を刺激する効果も大きいことだ。これこそ、日本が本気で取り組むべき真の課題だ。(11月2日付け日経朝刊6面、出所:FT11月1日付け)
日本政府と日銀は、もっと本気で量的緩和に踏み込んで、円高を抑えこんでいくことが何より大事なことである、と。円高防止の重要性を、イギリスの新聞すらも、指摘している。これは何という不思議!

これほどまで海外は日本銀行の及び腰の政策実施姿勢にやきもきしているのか、と。ま、ある意味エレガントであるのだろうが、外国の政府や中央銀行のやりっぷりは、もっとはるかにブルータルであり野蛮である。「何でそんな恩着せがましいことを言うかねえ?」、裏を読みたい御仁もいるだろうが、ここはFTの指摘が本筋だ。

日本政府は、米欧に対して「為替介入」の理解を求めるという姑息な姿勢ではなく、戦略的目的をもった金融政策を実行していると言うべき状況だ。この姿勢が、日本政府と日銀をみる海外の目を変えて、それが引いては日本の長期的国益に寄与すると見る。

2011年11月1日火曜日

公務員住宅は無駄づかいなのか?

朝食をとりながらTVをみると、大体はワイドショーである。「このワイドという形容詞は、政治、経済から殺人、誘拐、詐欺事件まで、それに料理関係やゴシップまで何でもあり。だからワイドなのだな・・・」そんな下らない語義分析を独り言でつぶやきながら ー これ自体が加齢現象だが ー 珈琲をのむと、公務員住宅は税金のムダづかいの典型なのか?そんな話題でコメンテーター達が話していた。

話しの流れとしては「ムダかムダでないかは、公務員がどんな仕事をしているか、仕事の内容によるでしょう」、「中には建築後39年、壁がはがれかけている老朽物件もあったりします。一概には言えないと思いました」、これはレポーター役をやった人の言。

とはいえ、ムダである仕事をしている公務員は、本来は、いてはならないはずだ。多すぎる公務員が配属されているなら、多忙な部署に異動させればよい。老朽化した建物も、傷んだ箇所を補修すればよいことだ。ワイドショーの話しはどうも政府公報のようであったのだな。

ただ、民間なら社宅、官なら官舎、これらは一体何なのか?ここが分かっていないと、「社宅?公務員住宅?ムダだろ、ムダ、ムダ!」という本筋をはずした議論に堕してしまうのも事実である。

社宅にしろ、官舎にしろ、市中の家賃相場と居住人が実際に支払っている家賃の差額は、経済データとしては<給与住宅差額家賃>として、企業(ないし役所)が払った給与に計上されている。つまり、社宅や官舎を市中相場よりも安く提供しているのは、給与の一部であり、つまりは<現物給付>である。

<現物給付>という形でなぜ給与を支払う必要があるのか?なぜマネーで支払わないのか?それは被用者側(社員や公務員)でなく使用者側に有利だからである。

実は、現物給付という形で報酬を支払う例は、非常に多く見られる。ベンチャー企業の役員報酬の一部に自社株をあてる、いわゆるストックオプションはその好例である。金額ベースの評価額がまだそれほどでもないときに自社株を支給された経営者達は、その評価額を向上させるべく懸命に努力するはずだから、ストップオプションという報酬支払い形態は理にかなっている。マネーによる支払いを節減することもできる。また、ずっと昔、高度成長時代にメーカーに勤務していた人たちは、不況時に自社製品を賞与の一部として支給されたことがある。たとえば小生の家庭は父が合成繊維メーカーに勤務していたのだが、時々、Yシャツや下着を支給されて帰宅したことがあるのを覚えている。住宅現物給付もこれと同じである。官舎や社宅の家賃をゼロにしてもよいのである。その場合は、差額家賃給付ではなく<丸ごと家賃給付>となり、その分、マネーによる給与支払いが低下するだけの話しである。

官舎や社宅の本質は、給与の一部を住宅で現物給付している。つまり住む所を<指定>しているところにある。

なぜ居住場所を指定する必要があるのか?指定する必要がなければ、住宅という現物でなく、おカネで報酬を支払えばよい。そうすれば、職員は広さと通勤時間を考えながら、自分が好きな所に住むであろう。実際、公務員や会社員である持ち家世帯は、首都圏ならば平均して40分位の時間をかけて、毎日通勤しているのではないか?住宅手当というマネーの形で報酬をもらうのが、もらう側にとってはもっとも有り難いものなのだ。

しかし、地方の製造工場、中央官庁、地方自治体では、特に管理職については、工場の隣接区域、あるいは都心部に社宅や官舎を建設している。これは家族とともに居住する場所を指定する、いや指定することは法律的にできない、指定するなら家賃はゼロにする必要がある。指定ではなく、一部現物給付。本人が支払う家賃を低くすることで、都心部に居を構える誘因を与えていると考えないといけない。(以下、この段落末尾まで追加)その理由は1時間もかけて職場に駆けつけてこられる場所では埒があかない。都心部に関係者が集住する必要性があるからだ。この事情は、第二次大戦中に英国のチャーチル内閣は防空壕に合宿して、朝から晩まで顔をつきあわせて、ドイツへの反撃策を練っていたのに対し、日本の海軍省では戦争中でも職員は定刻に退庁して自宅に三々五々帰っていたという事実とも関連する。役所の隣接地域に官舎を建設していれば、職員に24時間勤務を要請して、必勝の戦略を立案させる一助ともなったろう。地方工場の社宅の必要性は論をまたない。以上、官舎や社宅は被用者の満足を高めるためではなく、あくまでも使用者側の都合から発生したものである点を念頭に置かないと議論が迷走してしまう。それも致命的な愚かさをもって。

現物給付も含めて、幹部級官僚に支給している報酬は相当高額になるのであるが、その近隣で類似の管理的業務にあたっている民間企業の取締役が金額・現物両方のベースでどの程度の報酬を支給されているのか?ここを比較しないと、本当に公務員住宅はムダであるのかどうかを議論できないはずである。