2011年12月18日日曜日

日曜日の話し(12/18)

20世紀初めは19世紀末から続いた「世紀末文化」の時代だ。市民社会の理想が行き詰まったその時代、ヨーロッパの自殺率が上昇をたどっていたことからも、社会の不安と退廃を窺い知ることができる。その頃、自殺率(=人口10万人当たり年間自殺者数)がフランス、ドイツとも20の大台を超えたというので大きな社会問題になっていた。ヨーロッパの自殺率の動きが反転低下した契機は皮肉なことに戦争である。両度の世界大戦が終了し、また自殺率は上昇傾向をたどっていたが、1980~85年を境にして、下降傾向への転換に成功している。その背景として、社会主義思想の退潮を指摘することができるのかどうか、そこまで言えるのかどうかは明瞭ではない。

日本は先進資本主義国の中では、現在、断トツに高いのだが直近時点では韓国に逆転されている - 喜ぶべきことでは決してないが。日韓ともこの30年間、自殺率が一貫して上昇をたどってきているのが共通の特徴である。その歴史的フェイズは、ちょうど20世紀初頭のヨーロッパ社会と似通っているかもしれない。

さて不安と退廃のヨーロッパ社会においては、価値規範の崩壊が進んでいたが、それは結果として表現主義と呼ばれる行動につながっていた。前の日曜日はゴッホ、ゴーギャンらの後期印象派を話題にして、それはフランス表現主義であると記したのだが、日本の大正期「白樺」も、日本表現主義と呼ばれることはないものの、個人の内心の動機を優越させる点は互いに通底している。フランスのほうが少し先行しているが、大体、同時代のことなのだな。まったく日本とパラレルになっていたのがドイツ表現主義である。

小生の好みでカンディンスキーをよくとりあげるが、彼の根っこにはロシアがある。いかにもドイツを感じるなあというと、ドレスデンを拠点に活躍したブリュッケ派。その中でもキルヒナーを語らずにはいられない。

Kirchner、Street Berlin, 1913 (TheArtStory.orgより)

キルヒナーは、トーマス・マンの「魔の山」の主人公、また「トニオ・クレーゲル」を彷彿とさせるような青年である。第一次大戦で応召されたが神経を病み除隊となる。サナトリウムで療養を続け、ダボスに転地療養をかねて移るのだが、結局、台頭したナチス政権から「退廃芸術」との批判を浴びピストル自殺を遂げる。

Kirchner、Blick Auf Davos, 1924

どこか病んだ内面がそのまま絵の色彩になって表現されている。その時代の文化はやはり<不安と退廃>から出発しているところがあったのだろうなあと感じる。その不安は、誰でもなく先ずは<青年層>の不安であったわけだし、それが解決するべき社会的テーマであったのだ。

さて現在の日本は、依然として、自殺大国である。とはいえ、その自殺大国の地位は青年層が支えているのではない。

日本の高自殺率を支えているのは主として団塊の世代、つまり中高年である。男性に限るが日米比較グラフをつけておこう。後期高齢者の自殺率が高いのは日米共通の現象である。10代の自殺率はアメリカのほうが寧ろ高いくらいである。青年層では日米は概ね同レベルだ。そして最も大きな違いは、50代後半にさしかかる中高年の自殺率。その年齢層を過ぎると、日本は自殺率が逆に下がってしまうというのが、非常に特徴的である - この点については以前にも投稿したことがある。

明瞭なのは、日本の将来を背負う青年層に<不安と退廃>の心理が浸透しているようには、どうしても思えないことだ。惨めな心理、悲哀の心理、不幸の心理は、必ず自殺率というデータに現れてくるものだからだ。新しい文化の形成は中高年が担い手になることはない。もしも中高年が担い手になって新たな文化が形成されるなら、それは不安をモチーフにするはずだ。しかし、若い年齢層は不安と退廃の感覚を共有しているわけではない、少なくとも日本では。これからの日本で世紀末ヨーロッパに似た退廃芸術が広がるとは思われないのだな。

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