2012年2月28日火曜日

宇宙エレベーターの話しをするならニーズを言わないと

朝の珈琲を飲みながらフジの「とくダネ!」の画面を何気なく観ていたら、宇宙エレベーターの建設構想の話しが出た。日本を代表する某大手ゼネコンのエンジニアが何人か、「100%本気で推進します」と力んでいた。人工衛星軌道だから1000キロだったか、2000キロだったか、それ位の上空までカーボンナノチューブを通して、人工衛星の遠心力とバランスさせて静止させようというもの。そのチューブ内をエレベータが往復する。チューブが自分自身の重量とアンカーとなる人工衛星から加わる引っぱり力の作用で破損することを防ぐには、チューブは極めて薄く、軽く、かつ強靭な素材で製造しなければならない、それがカーボンナノチューブである、というのが勘所だった。

宇宙エレベーター自体の話しは大変陳腐なものであり、たとえば著名なSF作家アーサー・クラークによる「楽園の泉」は、正に同じ構想をテーマにした傑作だ。随分昔に読んだが、今でも手元にある。手に取ってみると裏表紙に「オークランド空港で読了」とある。多分、日本が消費税を導入するとき、統計上の取り扱いを研究するためニュージーランド統計局を訪れたとき、機中で読んだものと思われるのだが、全く記憶がない — だから本というのは読み返しても面白いのだな、忘れちゃうということだ。

× × ×

ただ今日のテレビは、残念なことに、必ずしも若い頃に読んだSFを思い出し、そこに込められた夢がよみがえるという、そんな風にはならなかった。

確かに、宇宙エレベーターを建設するだけの高度の技術を大手ゼネコンは持っているのだろう。しかし、顧客のニーズはあるのか?そもそも顧客は何人いるのか?なぜ作るのか?需要はあるのか?というか、これはビジネスですか?そんな素朴な疑問である。需要がなければ、作れるとしてもムダ、とまでは言わないが必要性の薄い技術だろう。多くの人が求めている技術を磨くのが先決なんではないですか、と。民間企業なんだから、と。どうしても、小生、こんな思いになるのですね。

小生が少年の頃、<新幹線>という言葉はなく、<夢の超特急>と呼ばれていた。夢である。しかし夢は夢でなく、新幹線というビジネスとして成功した。それは非常に多くの人の役に立ったからである。多くの人が求めていることを見抜き、それを現実に解決してあげることこそ、優秀なエンジニアの証しなんじゃないですか?誰でも、同じことを言うのではないだろうか?

<優秀>という言葉の定義を問うているのである。

需要があって、顧客評価が高ければ、テレビで話しをせずとも、とっくに事業に着手しているだろう。それをしないでテレビで手の内をあかすのは、グローバル・プロジェクトか、せめてナショナル・プロジェクトにして、大口の仕事をつくってほしいということか。市場競争では勝てなくなったO社を、世界の国民が支援する。それだけの技術を経営資源として持っているのです。なくなったら勿体ないでしょう。それが狙いか。

小生も「楽園の泉」を夢中で読みふけったのだが、テレビの話しを聞きながら思ったのは、<夢>ではなく、<もたれあい>という言葉である。確かに100の価値があるのであれば、ないよりはあったほうが良いに決まっている。しかし、それを実現するのに200の支援を必要とするなら、それは多くの人にとっては迷惑である。まして作った後の運営コストは将来世代へのツケとなるのだ。

夢を語るのであれば、20年前に夢として語るべきであった。クラークの作品は読む人の心を広々と広がる宇宙空間に連れて行ってくれるような気がしたが、大手ゼネコンが同じ話しをテレビで語ると、内容は夢であるが、観る人にはおカネの話しにきこえてしまった。すばらしいテーマであるだけに残念だ。

2012年2月26日日曜日

日曜日の話し(2/26)

窓の外では海越しの強い風が吹き、雪が舞っているが、一月、二月に比べると随分と日差しが強くなった。少しでも晴れ間が出ると、積もった雪がとける。三月に入ると、坂の多い街の道路には雪がとけて流れ落ちるようになる。そうすると雪の下から蕗が坊主のような芽を出してくる。凝った肩が軽くなるのは今時分である。

先週は雪の絵の話をした。「雪の絵」というと、高校の美術では必ずブリューゲルが登場した。下の絵は大変有名だ。



ブリューゲル、雪の中の狩人、1565年
Source: WebMuseumから

ブリューゲルはブラバント公国の人である。ベルギーにあるブリュッセルやアントワープを含む地域だ。ベルギーといえば大家ルーベンスもそうだが、彼はアントワープの人であり、画家であると同時にフランドル伯国の外交官としても活躍したそうだ。本当にベルギー、オランダ、ルクセンブルグ辺り、伯領、公領 ― さらには侯領もあるのだろうが ― 入り乱れて複雑極まりない。ま、江戸時代の日本も天領、藩領、飛び地が入り乱れて、迷路のようであったというから同じようなものか。

画家の一族でもあった。上のブリューゲルは父の方のブリューゲルだ。調べると、父ブリューゲルは1520年乃至30年に生まれ1569年に亡くなっている ― ルーベンスは1577年から1640年。ブリューゲルが生きた16世紀中葉という時代は、いわゆる<ハプスブルク時代>だ。Paul Kennedy"The Rise and Fall of the Great Powers"では16世紀から17世紀初頭を"The Habsburg Bid for Mastery, 1519 - 1659"と呼んでいる。神聖ローマ帝国の帝位とスペイン世界帝国の王位の双方を得たカール5世以降、ハプスブルク家はスペイン、オーストリア二流に分かれるも、絆は強く、欧州を普遍的なカトリック理念で染め上げようと奮闘する。その果てがドイツ30年戦争であり、その戦争は1648年のウェストファリア条約で終結をみて、ハプスブルグ家の夢は潰える。以後、欧州を普遍的に支配しようとする権力はナポレオン一世まで登場しない。

ブリューゲルの住んだブラバント公国は、12世紀に成立したようだが15世紀以降はハプスブルグ家が公を世襲するようになったという。16世紀後半から17世紀にかけては、ネーデルランド(オランダ)独立戦争で大変であったのだが、ブラバント公国は結局二つに分解して、それぞれオランダ、ベルギーに属するという顛末となる。勉強のためにウィキペディアと地図を下に貼り付けておく。



ブリューゲルはブレダ出身だとも言われているそうな。だとすると、ベルギーというよりオランダの人である。この辺の事情、モーツアルトはザルツブルグ出身だから、オーストリア人ではなくドイツ人だと言うべきであろうと云うのに似ている。

地図の右下にルクセンブルグが見える。現在、ルクセンブルグ大公国には欧州統計局(EUROSTAT)が置かれており、欧州全体の統計作成を統合調整している。欧州は色々な機能が既に統一化されている。財政だけが国家主権として残されてしまったことが、ギリシア問題の背景だ。また同国にはLuxemburg Income Study(LIS)という国際的な所得分布データベースを管理する研究所がある。小生も、既に相当の昔だが、一度ならずお世話になったことがある。麦酒も葡萄酒も美味しく、物価は安く、のんびりと滞在できる都市、というか国であった。ルクセンブルグから鉄道に乗ると、すぐにドイツに入り、最初の町がトリエル(Trier)である。そこには黒の門(Porta Nigra)というローマ時代の遺跡がある。古名をアウグスタ・トレヴェロールムという。この街も大変懐かしい場所である。

2012年2月25日土曜日

「平均値」を理解しない大学生の学力低下?

日本数学会が主催した数学力テストの結果が話題をよんでいる。対象者は国公立・私立大学生8千人。テストだからゼロ点から(おそらく)100点満点までに得点は限定されているし、また全国大学生の正答率を推測するにしても、サンプル数は十分だ ― マスメディアがやっている所謂<世論調査>もこのくらいはコストをかけて実施してほしいものだ。

その結果のうち、平均値を理解していない大学生が多い、というのが話題になっている。小生の専攻分野でもあり、これは面白いとなった。以下のような内容だ。
(出所)日本経済新聞、2012年2月25日朝刊から引用

新聞を読みながら、かみさんが近くにいたので質問してみた。カミさんだが、女性には珍しく、数学が好きで歴史と国語が苦手であり、最近の趣味は「ナンプレ」、つまり数独なのである。

設問(1)は平均値以下の人が半数いる、以上の人が半数いる。こうは断言できないことはカミさんも正答した。(2)は出来なかった大学生がいたこと自体が不思議な現象。(3)はカミさんも間違えた。身長の分布は概ね左右対称であるし、平均身長が163.5センチであれば、その付近の人が一番多いだろう。そう考えたのだな。解答の鍵は「生徒100人の・・・」というところ。たとえ全体としては平均を中心に左右対称になっていたとしても、100人の分布だと違うだろう。凸凹がある。低い人と高い人がそれぞれ多く、並の人が少ない100人かもしれない。だから(3)もやはり×なのだ、な。

× × ×

しかし、どうなのだろう?上のクイズは、「平均値」についての理解度がよくチェックできる良質のクイズだと小生も思うが、これだけで「平均値も理解できない大学生の低学力」とは言えないような気がする。

そもそもデータにはランダムな揺らぎが含まれている。だから、大事なことは、測定結果を丸ごと信じるのではなく、得られたデータは想定内であるかどうかという判断である。データを活用する前に特定の想定を持っていないと<判断>はできない。このような場合、二種類の間違いをおかす可能性があることは、統計学の授業でも大きな聞かせどころになっている。一つは「第1種の判断ミス」と呼ばれる。これは<ヌレギヌ型>というか、想定は正しいのだが、データが想定外に思われる時だ。もう一つは「第2種の判断ミス」。これは<見のがし型>というか、実際には想定が間違っているのに、データは正常のように見える場合だ。本当にこわいのは、無論、後者の場合である。「おかしい!」と思ったところ、何も異常はなかったとしたら、ムダに騒いだ点はとがめられるが、何もなかったこと自体は良いことに違いない。反対に、「測定結果は想定内であります」といえば、その場は丸くおさまるが、実際には想定に誤りがある。大惨事の可能性が見逃されてしまう。これでは手間ひまをかけて測定している意味がないことになる。

怖いのは<第2種の誤り>の方である。想定内と判断する正にその時にこそ、失敗の芽が隠れているのである。

話が横道にそれた。さて大学生の学力だ。

全体としては大学生の学力は低下していないと想定しようか。今回の日本数学会が行ったテスト結果は、確かに不安を抱かせるものであり、この低い正答率は<想定外>の結果なのかもしれない。しかし、20年も昔の大学生に同じ数学テストをしたわけではなかろうと思う ― 寡聞にして聞いたことがない。「学力が十分だったはずの」昔の大学生なら、まずこんな回答はしない。事実、もっとできた。この点が確かめられているのであれば、今回の結果は現在の学生の学力低下を証拠付けるものになる。そうではなく、昔の大学生だって間違える問題なのであれば、今の大学生だって間違えて当然であろう。日本数学会はそこをはっきりとさせて頂きたいのだ、な。

つまり厳しすぎる目で、もっと言えば<先入観>をもって、今回の数学テストの結果を新聞は論評しているかもしれない。ま、結果オーライ(=学力は下がっている)なのだろうが、報道姿勢が問題である余地はある。そう思うのだ。

× × ×

小生自身は、統計学という授業を担当しながら、常日頃どんな感想を持っているかといえば、今年度入学の大学生についても、昨年度までに比べて驚きに値するような低い学力を感じることはない。ズバリ、定期試験の出題レベルをこの10年間に下方に修正したかと聞かれれば、修正してはおらず、試験のレベルは10年前と同じである。しかし、20年前と同じレベルかと問われれば、「それは確かに易しい問題にしているような気はしますねえ」と答えざるをえない。しかし、強いて言うなら・・・、その程度のことである。

世の中には「いやいや、最近の大学生は激しく学力が低下しています」、そんな指摘があることも知っている。それは、しかし、教えられていないからではありませんか、と。だとすれば、この原因は二つある。一つは高校までの授業を受ける側の意欲の低下、もう一つは教える側の学力低下である。どちらも高校までの授業が「想定通りに」機能していないことになる。もしも低学力の大学生が二年次以上であれば大学という「学校」に対しても当てはまることだ。いずれにしても、これらは学生当人たちの「学力不足」という言葉で認識する事柄ではなく、学校を含め営利・非営利の教育サービス部門の組織・顧客分析という目線でアプローチするべき問題だ。一口に言えば、教育サービス部門の構造改革が滞っている証拠の1つとして、今回の数学テストの結果を受けとるべきか否か?そんな問題設定になるのではないか。それ故、大学生の学力低下という議論をしても、問題解決には寄与せず、甚だしく不毛である。どうしても、小生、そう思えるのだ。

もう一つ、新聞報道で気になる点。<ゆとり教育>が学力低下をもたらしているとすれば、それは<全ての学力の低下>になっているはずだ。しかし<全ての学力>という概念定義は難しく、これを確認することは容易ではないだろう。まして以前のデータと比較するなどは不可能であろう。<数学力>が低下したからといって、ゆとり教育が原因であるとは結論できない。高校までの数学授業が劣化している可能性もあるし、入試数学の問題の品質が劣化している可能性もある。学力低下の犯人探しは、それほど簡単な議論で決着はしまい。「てっとり速い議論」がもたらす「マイナスの価値」は、政治の世界を歪めるだけではない。良い教育を破壊するパワーをも秘めているのである。

2012年2月23日木曜日

「無縁死」社会は民主主義と矛盾するはずだ

昨日、いろいろとインターネットを見ていると、入居者が無縁死を遂げた時の損失をカバーするため「オーナーズ・セーフティ」なる損害保険商品が賃貸アパート・マンション経営者向けに販売され、それがいま急成長を遂げつつある。そんな記事を見つけた。

「何とやるせないことよなあ」と思いつつ読んでいると、さらに下の記事が芋づる式に目に入ることになった。こうした点、ネット閲覧の便利性は紙媒体のメディアでは到底太刀打ちできない。

(ダイヤモンド・オンライン)

たとえば、こんな下りがある:
就職氷河期で正社員として就職できず、契約社員として会社を転々としてきた女性。終身雇用が崩れ、働き方の変容する一方、競争社会では当たり前に求められる「自己責任」。「自己責任」という言葉に縛られ、厳しい生活でも他人に頼らずに生きてきた結果、40歳を目前に「無縁死は選択肢のひとつ。そう覚悟している」と語っていた。 
 「親戚付き合いもほとんどないし、深い付き合いの友人もいないから、結婚でもしない限り、無縁死する可能性は高いな」 
これは、 コンピューター関連会社の社員、35歳の男性のつぶやきだった。
自己責任 ― この言葉は、しかし、無縁死を強要する言葉ではないはずだ。責任を持つべき人がしっかりと責任をもつ。当たり前のことを意味する言葉で、本来はあるはずだ。なぜ自己責任という観念を持つが故に、他人に頼らずに生きなければならない、そういう結論になるのだろう?

小生の友人なら言いそうなことは決まっている。耳に聞こえてきそうだ。

日本の民主主義は未熟なんだよ、というか日本に真の民主主義はねえんだよ!

確かに日本で社会に対して真の発言力をもっているのは<会社>であり<組織>であり<集団>である。既成の組織に正規に帰属できない人は疎外されてしまう。それを差別とは認識せず、自由な契約に基づく帰結だと見なす傾向がある。それはおかしい。不平等な交渉力を濫用した結果であるとみなさない。それが無数にあるイデオロギーの中の特定の一つに基づく価値判断であることを自覚していない。アンフェアに対する怒りが社会的広がりで高まってこない。生きている生の個人が発する声に、社会はまじめに耳を傾けているだろうか?まるでジャーナリストのような言い草だが、こういうしか言いようがない。

「それってあなた個人でなさっている活動なんですか?」
「もちろん個人としてやっていて、誰の指示も受けているわけではないです。」
「そうですか?安心しました。それならお手伝いさせて頂きます。いやね、あなたが何かの組織に属してらして、その組織の意志決定の下で活動していらしてるんだとしたら、信用できないじゃないですか。だって、組織次第で別の人に交代するかもしれないし、組織のトップの意志決定でどうなるかわかりませんから。いやいいんです。あなたが個人として活動しているんなら、あなたを信用すればいいんですよね。お手伝いさせて頂きましょう!」
橋本大阪市長は「船中八策」なる提案を公開した。幕末の志士坂本龍馬の跡を襲っているのだろう。しかし、幕末の志士は個人として志をたて、個人として活動し、支援する人も志士個人を信用して応援した。それは長州藩という組織に属しているかに見えた志士たちにも言えることだ。長州正義派が俗論派を制し、維新を成し遂げるまでの間、彼らは組織内で自らリスクを引き受けて個人として ― 時には弾圧もされながら、それでもなお ― 活動し、藩の国境を越えて他と交わりを結んだのである。それでも彼らを支援する豪商、豪農など富裕層がいた。

もし迷走する今という時代を乗り切るために幕末明治の時代を思い起こすのなら ― というか、他にどの時代を思い出せるだろう、私たち日本人は ― せめて上に書いたような会話がなされるようでなければならない。個人よりもその人が属する会社を知りたがり、その人を信用するにはその人の組織内の地位を知りたがる社会では、幕末から明治にかけて日本で沸騰したようなエネルギーは<絶対に>これからも出てくるはずがないのである。これはロジカルな結論だ。

幸福は個人が追求するものであり、会社や組織や集団が追い求めるものではない。組織は組織の<利益>を求めるものであり、それは個人の<幸福>とは違うものだ。組織が大事であると考える人は、幸福よりも利益を本音では優先している理屈である。日本の政治家が個々の日本人よりも先に団体や会社の言うことに耳を傾けている間は、民主主義であるとは言っても、個人の幸福は真の意味で政治の目的にはなっていない。それがロジックである。

政治家が「幸福」を口にするなら、政治家が誰とどんな話をしているかをみるべきだ。行動がその人の本当の言葉である。無縁死が日本人をより不幸にするのであれば、無縁死が増加しているのであれば、日本の政治において、幸福は決して重要視されておらず、もっと優先されている政治目標があるということになる。これが論理的結論だ。「最大多数の最大幸福」というアングロサクソン流の功利主義思想とは違った政治思想に日本は立っていることになる。

しかし望ましい政治家を選ぶ権利は、実は個人としての日本人がもっている。組織や会社は選挙権をもっていない。無縁社会を招いている一半の責任は、実は個々の日本人自身にもある。そう考えるべきだ。

2012年2月22日水曜日

欧州 — ま、とりあえずの時間稼ぎ戦術

『ギリシア救済』合意については、例えば以下のような論評がある。「やったもの勝ちの国家戦略」という正論をどうどうと大手マスメディアで展開するAmbrose Evans-Pritchard氏が続編のような意見を開陳しているので書き留めておく。本文全体はここにある — ずっと保存されていればいいのだが。最長何年まで閲覧できるのだろう。これもその内調べておこう。まず基本的目線。
Greek elections in April are likely to sweep away the political class tainted by the hated "Memorandum" of the EU-IMF Troika, with the once dominant PASOK party down to 13pc in the latest poll and votes peeling away to the Communists, the Democratic Left, and Syriza.

春の国政選挙でギリシア政界は一変し、全ては元の木阿弥に戻るであろうという見方だ。小生も、ギリシアのユーロ脱退は経済的必然と思っているのだが、それまでの道筋は関係者、関係国の思惑でどうにでも紆余曲折すると見ている。この辺は、出たとこ勝負というか、成り行きまかせ。文字通りのケセラセラだ。一体誰に予測できるであろう。

今回の合意に参画していない野党はこう叫んでいる。

Alexis Tsipras, the Syriza leader, told the Greek parliament on Tuesday that his country was victim of a "terrorist" assault. "This agreement is binding only on those who signed it. The accord carries the signature of a government with no popular legitimacy. It does not bind Greek democracy, or Greek society, or the Left. Very soon the sovereign people will regain their sovereignty," he said.

あとは本文を読めば更に分かるというものだ。結論としてはこうだ。

There have been no bailouts so far, only loan packages. Countries trapped in EMU with overvalued exchange rates and no control over monetary policy face the choice of immense pain or "dignified exits" from the euro, he said.

For now, Europe's leaders are holding to their line that Greece is a special case, refusing to acknowledge that the EMU drama is at root a North-South trade crisis, compounded by contractionary polices that have tipped Club Med back into recession and made the task that much harder. It may take more than Greece to force epiphany. (Source: The  Telegraph, 9:13PM GMT 21 Feb 2012)
これまで、債務帳消し(=破産容認)ではなく追い貸しで絞ろうという対応ばかりしてきた点を批判している。ドイツは国内の労働市場を南欧の国民に同一の制度の下で完全開放し、それと同時にギリシアなど南欧地域の経済開発に積極的にコミットする責務を負う。南欧、東欧地域を収益性原理に基づく投資対象としてのみ見ることは許されまい。それを為さずして、競争力のあるドイツ製品を有利な条件の下で域内に輸出して稼ぐだけ稼ぐのでは、いずれユーロ圏ひいてはEU自体が崩壊するのは経済的必然である。ギリシアやスペインがドイツと最後までつきあう義務はないのである。本来ならばユーロ安ではなく、マルク高になって当たり前の状況なのだから。

しかし、あれですな。ああいう体たらくの欧州に安定基金拠出金協力を求められても、無責任に使ってしまうだけであり、はたまた域内保護には変化なく、何のメリットもないかもしれないなあ。そう思う昨今である。

2012年2月20日月曜日

バイキングの勝利 ― やったもの勝ちの経済政策

Ambrose Evans-Pritchard氏が英紙Telegraphに連載しているコラム記事によればアイスランド経済の劇的回復は、文字通り、国家戦略的大勝利ということになる。最初の部分を引用させてもらおう。
Congratulations to Iceland. 
Fitch has upgraded the country to investment grade BBB – with stable outlook, expecting government debt to peak at 100pc of GDP. 
The OECD's latest forecast said growth will be 2.4pc this year, after 2.9pc in 2011.
Unemployment will fall from 7pc last year to 6.1pc this year and then 5.3pc in 2013.
The current account deficit was 11.2pc in 2010. It will shrink to 3.4pc this year, and will be almost disappear next year. 
The strategy of devaluation behind capital controls has rescued the economy. (Yes, I know there is a dispute about exchange controls, but that is a detail.) The country has held its Nordic welfare together and preserved social cohesion. It is slowly prospering again, though private debt weighs heavy. 
Nobody is forcing the elected government out of office or appointing technocrats as prime minister. The Althingi sits untrammeled in its island glory, the oldest parliament in the world (930 AD). 
The outcome is a vindication of sovereign currencies and national central banks able to respond to shocks. (Source: The Telegraph, Monday 20 February 2012)
 アイスランドの基本戦略は<債務踏み倒し>であった。
【ロンドン=木村正人】欧州債務危機で単一通貨ユーロ圏の国債格下げが相次ぐ中、2008年の世界金融危機で金融システムが完全に崩壊した人口32万の島国アイスランドの格付けが「投資適格」に引き上げられるなど回復が顕著になってきた。民間銀行の海外債務を政府が肩代わりせずに大半を踏み倒し、金融危機ではアキレス腱(けん)になった小さな通貨アイスランド・クローナが切り下げられ、輸出ドライブがかかったためだ。(出所: MSN産経ニュース、2012.2.18 19:48配信)
 資本の取引規制はする。為替暴落は放置する。借金は踏み倒す。やりたいほうだい。批判はあれど、それでも回復に成功すれば、大手格付け会社は投資ランクを引き上げてくれる。国債の信用も回復し、マネーを再び呼びこむことができ、経済成長が可能になる。その間、国家的団結は見事に維持された。<国家>たるものこうでないとねえ・・・というのは小生も同感なのである。ドイツの国旗を燃やしてまで反発しつつも、今後何年もの間、忍従の日々をおくるギリシア。ま、国のサイズが違うからと言えば、それまでだが、ちゃぶ台をひっくり返して座敷を出て行きたくなる誘惑にギリシアもかられるのではないか。そう思う今日の午後である。

× × ×

<債務踏み倒し戦術>は、幕末の薩摩藩がやった。上方資本に対する500万両の債務を無利子250年分割払いにリスケジュールすることに成功したのが調所広郷である。実質的には踏み倒しである。というより、明治維新と廃藩置県は、経済的に窮迫していた封建大名による体のよい債務踏み倒しである。結果として、破綻したのは借りた方ではなく、貸した方であった。その意味で明治政府は、あくまで武士による新政権であって、武士をカネで支配していたはずの商業資本による政権ではなかった。それだけは明白だ。ずっと昔に本を読んでいて思ったことだが、いま書いても、考え直す必要はないようだ。

ま、重債務問題から逃れるには色々と手はあるということだ、な。イギリスから見ると、ギュウギュウと絞られるギリシアは、ある意味で愚かにも見えるのでありましょう。

2012年2月19日日曜日

日曜日の話し(2/19)

「ゴッホの手紙」(岩波書店)を読んでいると、アルルに移って得たものは豊かな色彩であることがよく伝わってくる。その色彩に満ちた風景を表現するために、弟テオに何度も出して絵具の宅送を依頼している。何よりも絵具が必要だったのだろう。ゴッホが求めている絵具のリストを目にするだけでも大変楽しい。それにしても弟からの送金が遅れたときには週末の何日かをコーヒー36杯(だったかな?)とパンのみで過ごしたという下りを読むと、<創造>は誰にでも可能なことではない、そう思って痛切な気持ちになる。そう思いながら窓の外をみると、久しぶりに雪があがっている。

ドイツ、北欧では、フランス印象派のような色彩分割が今ひとつ徹底しなかった、というか<究極の写実主義>のようなモネのような作品が少ないと思うのだが、それは単純に考えて、冬のせいだ。そう思っている。北海道に住んでいると、つくづくそう考えるのであります。

「雪だって、というか雪だからこそ、複雑な色彩が目に映るではありませんか」。確かにそう。しかし、写生なんてできないよ。日の出の時刻には暖かい地域でもマイナス10度になるし、吹雪になると戸外にイーゼルなど立てられません。死んでしまう確率が高い。眼前に降り積もりつつある雪の複雑な表情は、写生をしないと表現できないというものだ。しかしどうしても冬は室内制作になる。それ故、ゴッホが北海道で暮らしていれば、絶対に彼が目指した絵画は生まれえなかった。そう確信する。理由は単純で、ズバリ、自然条件である。

しかし、雪を描いた作品に傑作は多い。小生、先日もとりあげたが、雪の絵はとても好きだ。日本人では岡鹿之助は雪を描いた作品が多い。下はブログ「スピカ逍遥」から拝借させて頂いた。

雪といえば浮世絵にも名品は多い。広重の蒲原は誰でも知っている。切手にもなった。下の北斎は富嶽三十六景から。これはブログ「浮世絵に聞く」から引用させたもらった。

葛飾北斎、富嶽三十六景「礫川雪ノ且」

晩年、ダボスで療養したドイツ表現主義の一人キルヒナーも雪の絵を遺している。

Ernst Ludwig Kirchner, Davos under Snow, 1923
Blog"Expressionism"から

「雪を描く」と一口に言っても、それによって何を表現したいと意図しているか、願っているか?絵を描く人によって、それは様々であることが分かる。

美は料理に似て、表現としては一方通行だ。できあがったものが心に届いて、共振すれば感動するが、共振しなければ「嫌いだ」もしくは「分からない」となる。であれば、「いい絵、ダメな絵」というよりも、多数の人にとって一般性のある測定基準は<市場価格>だけが、有意味であるのかもしれない。その市場価格が芸術家それぞれについて長期的にどのようなトレンドを辿っていくのか、それもまた社会の世代交代の中で予測が困難なものの一つであろう。ゴッホの絵の市場価格も制作当時には予測が不可能であったに違いない。

美をテーマとする学問に可能なことは、現実に高い評価を得た作品がなぜ高い評価を得られたのか、その必然性はあったのか、そんな要素が含まれていたのか、これらの問いかけを事後的に解決して理解する。経済分析も多分に似た側面があるのだが、つまりはそういうことだろうと考えているのだ。実例を見ながら<美>について理解する。生まれる前から生得の価値として美しさを人は知っている訳ではない。う〜ん、こう言うといつの間にか「経験主義対直観主義」の古い論争に引き込まれそうだ。これはまた日を改めて。

2012年2月18日土曜日

Nation State ― 二つの目線


独紙Die Zeitでも、ギリシアで燃えさかる反財政緊縮デモ、それと他の欧州大国、特にドイツに対する反発感情が高まっている様子を大きく報道し始めている。 ― 日本とは物理的・文化的な距離が違うので当然でもある。中国、韓国の反日感情と類似の感情と見てよいかどうかも要慎重だろう。


写真までここで引用していいか、ちょっと迷うのだが、まあ公開されているものであるし、出所を明示しておけばいいのではないか。そう思って覚書きにしておく。


Bei den Protesten gegen das neue Sparprogramm verbrannten griechische Demonstranten vor einigen Tagen deutsche Fahnen. Seit Ende des Zweiten Weltkriegs haben Bürger in Europa nicht mehr derart öffentlich ihren Hass gegen ein anderes Land auf dem Kontinent gezeigt. Auch wenn es sich nur um eine kleine Gruppe von Demonstranten gehandelt hat: Wie konnte es soweit kommen? (Source: Die Zeit, 16.02.2012 - 18:34 Uhr)

上に引用した本文にもあるように、ごく一部の群衆とはいえ、同じ欧州の国が別の欧州の国の国旗を公然と燃やすという第二次大戦以来の事態が、なぜ起こっているのか、というか起こりえたのだろうか?そういう疑問であります。


× × ×


国民感情によって、国民的利害計算によって、国民という集団が行動を起こすことがある。紛争になればそれを戦争という。しかし、紛争を起こしている集団を全て<国家>というわけではない。集団的武闘を繰り広げても、直ちに双方の側を別々の国家とは呼ばない。人は様々な集団への帰属意識を持ちうる。現に日本だって19世紀後半には内戦を引き起こしている。<帰属感>や<愛郷心>という感情の発露を人の行動の動機として、それもかなり強い動機として、無視するわけにはいかない。いまギリシア国民がドイツ国旗を焼いても、ギリシアも、ドイツも自分たちを欧州世界の一員だと考えることには違いがないだろう。複数の国家の連合体には、常に一定の斥力が作用しているものだ。とはいえ、万邦を統べる帝国はそうそう簡単には打ち立てられない。国家は興亡生滅するが、帝国は国家を超えて永遠の存在である。いまの欧州は決してそんな帝国ではない。ギリシヤは既にユーロ離脱、EU離脱という軌道をたどり始めているのかもしれない ― そうでないかもしれない。今のデータでは識別できないということだ。


ダニ・ロドリック氏がプロジェクト・シンジケートに寄稿している"The Nation State Reborn"は、交通通信技術が高度に発達したグローバル世界においても、国境が意味をなさなくなったと言われる現代においてもなお、国民国家という存在は強固であり、国際機関はむしろ脇役であることを述べている。特に次の下りは経済学者というプロ集団にとって、非常に考えさせられる指摘だと思う。

But who will provide the market’s rules and regulations, if not nation-states?Laissez-faire is a recipe for more financial crises and greater political backlash. Moreover, it would require entrusting economic policy to international technocrats, insulated as they are from the push and pull of politics – a stance that severely circumscribes democracy and political accountability. 
In short, laissez-faire and international technocracy does not provide a plausible alternative to the nation-state. Indeed, the erosion of the nation-state ultimately does little good for global markets as long as we lack viable mechanisms of global governance.

いかにマクロ経済政策が専門的技術の領域だといっても、政治がソーシャル・エンジニアに従う状態というのは、もはや民主主義とは言えないのではないか?そういう問いかけである。であれば、グローバル経済を責任をもって管理する主体は、何等かの世界政府しかないわけだが、それはまだ存在しない。

But today’s challenges cannot be met by institutions that do not (yet) exist. For now, people still must turn for solutions to their national governments, which remain the best hope for collective action. The nation-state may be a relic bequeathed to us by the French Revolution, but it is all that we have.

Nation State (国民国家)という観念はフランス革命が人々に遺した聖なる価値なのかもしれないが 、いま私たちにあるのはNation Stateしかない。国民国家がいまのグローバル経済に立ち向かい、問題を解決していくしかないということを言っている。


実際、自らが帰属する集団として、自分を<世界市民>と考える人よりは<国民>と認識する人の方が多い。これは当たり前かもしれないが、(自分が暮らす)地域社会を第一に上げる人よりも、<国家>に帰属すると考える人が多いという事実も確認されているのだ。これはアメリカでも欧州でも中国でもインドでもそうだ。

A few years ago, the World Values Survey questioned respondents in scores of countries about their attachments to their local communities, their nations, and to the world at large. Not surprisingly, those who viewed themselves as national citizens greatly outnumbered those who regarded themselves as world citizens. But, strikingly, national identity overshadowed even local identity in the United States, Europe, India, China, and most other regions.

× × ×

ロドリック氏の意見は、小生、相当説得力があると思うのだ。ただどうなのだろうなあ?国家は<国益>を追求するのではないか。それを認めておいて、世界政府が存在してはいないのは事実だから、国民国家が意思決定をするしかないではないか。そんな結論になるのだろうか?

個人は自由に幸福を追求する権利をもつ。その幸福が利益から形成されるなら自己利益を追求してよい。その時に ― その時でも、かつその時にこそ ― 社会全体の生み出す価値は最大化される。最大多数の人が最も幸福になれる機会を得る。この結論を<定理>として証明するため、現代経済学は発展してきたと言ってもよい。ここには行動の正・不正は、それがもたらす帰結が多くの人の幸福を増進するかどうかで決めるべきだという功利主義の哲学がある。ロドリック氏の考察も、同じではないか。個々の国民国家は、それぞれが最善と思うように国益を求めてもよいだろうし、その権利を認めるべきだ。その結果として、世界が全体として進歩していくなら、いま国民国家が為そうとしている行動は、それ自体正しいことなのだ。ま、正邪善悪をそれがもたらす帰結から決定しようというアングロ・サクソン流の功利主義の香りがどことなくするのである。


しかし、このような考え方は当の欧州議会と官僚達の理念とかなり違いがある。それは本ブログに以前投稿した「欧州官僚の観点 ― 一つの典型」からも窺うことができるように感じる。


欧州内の国家間で紛争があったとき、その紛争が良いか悪いか、正しいか誤りか、その紛争が有意義なものか、意味のないものか、その判断は、それがもたらす帰結に基づいて下すべきであろう。絶対善や絶対悪というのはこの世にないのだ。それが一つ。国家間の紛争が起きるのは欧州議会の調停機能が不十分のためである。地域内の安寧と秩序を守らなければならない。暴力を用いた解決は決して良い結果をもたらさない。それが一つ。やはりここには最も古い議論「経験主義対直観主義」が隠れ味としてきいている。そう思うのです、な。直観主義、すなわち理性主義にくくっておくとしよう。Nation State(国民国家)をみる二つの目線は交わることがない。

2012年2月17日金曜日

慎重もいいが、臆病と見られたら、やるべきことはできぬ

日本銀行が米FRBと概ね同路線の政策を採ることを言明した。量的緩和政策ならとっくにやった。ゼロ金利ならとっくにやった。現在、世界中の金融政策当局はこれまで日本銀行がやってきたことを後追いしているに過ぎない。ところが、いつの間にか日本銀行はFRBのマネをしているかのように言われている。 ロイターでは次のように報じている。
[東京 14日 ロイター] 日銀が14日の金融政策決定会合で決めた資産買い入れ枠増額と物価政策の表現変更について、金融市場からは、2つの政策をセットにしたサプライズとして評価する声がある一方、物価をめぐる表現変更は単なる「言葉遊び」に過ぎず、デフレ脱却に向けた実行への不信感も根強い
場心理を制御する米連邦準備理事会(FRB)流の情報発信力に比べて見劣りするとの見方もある。金融マーケットにとって今回の決定が単なるサプライズで終わるのか、あるいはその効果が持続して円高是正などにつなげていけるのか、日銀の実行力とコミュニケーション力が問われている。
日本銀行はデフレ脱却に本心で取り組んで来た訳ではない。そこを見透かされているようだ。実は、その点は政府も同じである。物価全般は過去においては経済企画庁物価局が担当して来たが、90年代半ばから日本の物価下落基調が鮮明になったとき、それをデフレであるとは政府は認識していなかったことは事実である。デフレではなく<内外価格差の解消>プロセスであると見ていた。高い日本の国内物価が適正な価格に調整されているのではなく、これは正にデフレーションであると政府が公式に認めて、はじめて実施されたのが<量的緩和政策>である。この辺の事情は岩田一政「デフレとの闘い」に詳しい。

今回、日本銀行がデフレ解消と「インフレ・ターゲット』、というよりインフレ・ゴールにコミットしたわけなのであるが、最も大事なのは政策当局の真の意図である。アメリカ、欧州はインフレであり、日本はデフレである。デフレの解決を本気で実行するなら、必ず円安になるはずである。円安にするんですか?できるんですか?

英紙ファイナンシャル・タイムズのブログ"Money Supply"から、少し長いが、一部引用させてもらおう。タイトルは"Japan's Odd Inflation Target" である。

Central banks are nothing if not dedicated followers of fashion. Less than a month after the Federal Reserve opted for an explicit inflation target, the Bank of Japan has followed suit
However, the BoJ’s adoption of an inflation target probably owes more to political pressure than the whims of its central bankers; unlike Ben Bernanke, BoJ governor Masaaki Shirakawa has never been a proponent of the framework. 
And this perhaps explains why the BoJ has been more original than most on how it plans to target inflation.
When adopting inflation targets, most advanced economy central banks — including the Fed, the Bank of England, and the ECB — have plumped for a figure of about 2 per cent. The aim is to hit this target in “the medium term”, which is usually interpreted as a period of about two years. 
Like its peers, the BoJ has also adopted a “price stability goal in the medium to long term” of 2 per cent or lower.
However, its policy board will also review the inflation target each year and, for the time being, has opted for a target of 1 per cent.
(Source: Financial Times, February 14, 2012 5:26 pm, by Claire Jones) 
 一口に言うと、目標数値としては一応2%をあげてはおくけど、毎年のリビューはこれまで通り行うことにするし、その際の目安は当分の間(for the time being)1%とする。

日本銀行の真の意図は分かりますか?小生には分かりません。日本国外の人にも分からないであろう。意図が分からない新しい政策を実行に移せば、よく転んで何の効果もない。悪い場合には、予想外の効果が現れるはずである。日銀の保守性が市場に見透かされ、円投機を仕掛けられる可能性もなしとしない。その後の暴力的な円安もありうる。本当に日銀は物価問題と取り組む決断をしたのだろうか?常に言えることは、<敵正面>に顔を向けて対峙しなければならない、ということだ。

2012年2月16日木曜日

欧州GDP報道 ― このヘッドラインはないでしょうが

本日の日経が欧州GDPの公表値を報じている。ヘッドラインは以下。
ユーロ圏マイナス成長、10~12月GDP0.3%減  独も失速 
本文の一部を引用すると以下のように説明している。 

今回の欧州債務危機を主因としてユーロ圏がマイナス成長になるのは初めて。EU統計局によると、ユーロ圏の年率換算の実質成長率はマイナス1.3%だった。

ユーロ圏の3割弱の経済規模を持つドイツの実質GDPは前期比0.2%減と、09年1~3月期以来のマイナス成長。独連邦統計庁によると、設備投資は堅調だったものの、輸出から輸入を差し引いた純輸出と個人消費が成長を押し下げたという。

フランスの実質GDPは前期比0.2%増。ただ、フランスを除くとユーロ圏の中核国のほとんどはマイナス成長。イタリアは0.7%減と2四半期連続のマイナス成長で、景気後退局面に入った。スペインは0.3%減だった。(出所:日本経済新聞2月16日朝刊)
 一口にいって、ドイツ経済の見方は連邦統計庁の発表趣旨と違う。
WIESBADEN – The German economy suffered a slight dip at the end of 2011: compared with the previous quarter, the gross domestic product (GDP) decreased by 0.2% in the fourth quarter of 2011 after adjustment for price, seasonal and calendar variations. As further reported by the Federal Statistical Office (Destatis), the German economy grew by 3.0% (in calendar-adjusted terms: 3.1%) over the entire year of 2011. This is in line with the first calculation of January this year. 
When compared with a year earlier, the gross domestic product also rose in the fourth quarter of 2011: the price-adjusted GDP was 1.5% higher than in the fourth quarter of 2010. Consequently, despite the slowdown in GDP growth at the end of 2011, the gross domestic product was clearly above the previous year’s level in all quarters of 2011 also in the second year after the economic crisis.  
マイナス成長は昨年の10月から12月までの数字を7月から9月までの実績と比較した増減率を季節変動を除いて出した結果である。経済の基調を判断するのが、データ作成の主目的だ。昨年1年間を通して見ると3%成長を実現し、すべての四半期で前年を上回る生産活動を行った。この点に発表側のポイントが置かれていることは明瞭だ。実際、設備投資は、唯一のプラス項目とはいえ、増えている。特に建設投資が拡大している点が大事だ。<季節調整済み前期比>というのは、割り切って言えば、<フィクション>ですぞ。この数字が<失速>に見えるのですかねえ?


もちろん欧州全体としてみると、イタリアなど南欧の引き締めがきつく、ドイツの拡大基調との綱引きが続いている。今後、4月、5月にかけて失速するかもしれない。が、それはまた別の話だ。現時点で、ドイツ失速といえる数字は、どこからも出てないはずだ。日経経済部は先入観をもって数字を見てはいないか?

2012年2月15日水曜日

多数の意見を求めた方がよい場合と悪い場合について

大学入試センターでは今年度の配布ミスについて検証委員会を設けて、問題点の所在、改善への方向を討議するようだ。ところが今日の各種報道によれば、検証委員会委員の氏名が非公開であるよし。最終結果が得られてから公表することにしたいらしい。

検証委員の氏名を非公表としたことをどう思うか?Yahooではクリック・リサーチでアンケートをとっている。結果だけをみると、公開した方がいいという回答が85%、非公開がいいという回答が12%となり、圧倒的多数は公開を求めている。

× × ×

小生、アンケートによる回答を確かめることがプラスである場合とマイナスである場合、全く意味のない場合、それぞれのケースが(理屈上は当然のこと)あると思っている。

たとえば販売されている自動車の価格は上がる方がいいと思いますか、下がる方がいいと思いますか?そんな質問があったらどう答えるだろう。

消費者の立場から言えば、安い方がいいに決まっている。品質が保証され、取引が通常通りの取引であれば、タダが一番いいのに決まっている。しかしメーカーの立場からいえば、コストが一定額かかっているのだから、高く売れる方が儲かる。高い方がいいに決まっている。正解がないばかりではなく、人によって、立場によって、<望ましい状態>が分かれている、その望ましい状態のいずれか一方を、社会が正しいと考えることもまた不適切である、両者のバランスにこそ最適な状態がある。そう考えるべきである。だからこそ、そこには専門知識が必要になり、経済学や経済政策という専門領域も発達してきたわけだ。

× × ×

今回、入試センターが設けた検証委員会では、以下のような説明がされている。
センターによると、2月3日に設置した検証委員会は大学・高校関係者、弁護士、危機管理の専門家ら計8人で構成。ただ、委員の氏名は「公表されると、委員がミスをした大学をおもんぱかったり、関係者などから直接、委員に意見が伝わったり、自由な議論の妨げになる可能性がある」として、委員長の青山彰・全国高等学校長協会長以外は公表せず、「結果公表時に明らかにする」とした。(出所: 読売オンライン、 2月15日(水)8時19分配信)
確かに委員が誰であるかが最初から分かっていれば、様々な経路でコンタクトを求められてくるだろう。小生が、同じ立場であるとしても、審議がまとまるまでは自らの経験と考え方で意見を述べたいと思うだろう。

少し一般論から補足しよう。今年度の配布ミスは受験者により広い選択肢を与えようという意図から採用された変更が引き起こしたものだ。そもそも大学入試は大学側が行う選抜ツールなのだが、大学側は<良い人材>を選抜したいと考えている。良い人材は相当部分は感性による部分があり、受験勉強をしたから高い得点をとれるような問題ではない問題を(理想状態においては)作りたいと思っている。しかし、受験生は<頑張ったかどうか>で選んでほしいと考えているのではあるまいか?人材の良否と努力の多少とは、同じようで実は同じではない。だから、大学側と受験者側、大学側と高校側とは、考え方がそもそも一致しないと見ておくべきである。いま述べたのは一例に過ぎないが、このように大学入試をどう実施するかは、その人の立場によって望ましい方向が違うはずである。それ故に、望ましい入試の在り方も、結局はバランスをどうとるかで決めるしか、決めようがない。上の自動車の価格と同じタイプの問題である。

× × ×

何が望ましいか、何が良いか、その人が置かれている立場によって異なった見方がある場合、いずれが正しいと決めることはできない。どちらも合理性があるからだ。だから、どんな状態で社会のバランスがとれるかを考えるしかない。バランスをとる仕組みを作るしかない。<良い入試の仕組みをどのように作るか>もそうである。だとすれば、どのような関係者から検証委員会の委員が人選されたかの方が情報としては有用だ。この構成が分からないので、氏名を公表せよというのであれば、Yahooが公開しているアンケート結果(まだ回答受付中のようだが)は誠に適切である。しかし、名前を知りたいという、それだけの動機であれば、それは単なる好奇心であり、<知りたいよね>、それだけのことであると小生には思われるのだ、な。

<アンケート>は万能ではない。プラスの価値を社会に提供することもあるし、マイナスの価値を発生して社会に害毒を与えることもある、どうでもよいものもある、様々である。善悪具有の性質は、人間の発明したあらゆる道具と同じだ。原子力、ダイナマイト、自動車と同じだ。原子力は悪なりや?よし、アンケートで決めよう、と。危ないねえ。決め方こそ<バランスをとる仕組み>の肝(キモ)ではないか。アンケートで八方丸く収まるのですか?「天動説が正しい?それとも地動説が正しい?」 ― ここは多数の人に決めてもらおうではござらぬか、ナア、おのおのがた。バカバカしいでしょう。物理学者に聞けば、<正確な知識>が得られる。2の3乗は・・・確か8だと思ったが、エイ、ここは多数決とゆこう、そなたたちはどうお考えか?いや、最後の一つは余計であった。

アンケートは、それ自体に価値があるのではなく、ツールである。はさみも上手に使わなければ、害がある。同じことである。そう思うのですな。

2012年2月14日火曜日

「日本の大学教育は確かに劣化しているよなあ」という話し

今日は休稿の予定だったが、そう言えば昨日久しぶりにかかってきた研究上の先輩からの電話。それを思い出した。先輩A.M氏は、つい先年、川越にある大学に転じたが、移ってから不便になったものだから、ご無沙汰することが多く、失礼している。

それにも関わらず、先輩の用件というのは、来年度の統計学授業で使う教科書。引き続き小生の拙著を使ってくださるということで、改訂版を出す予定はないのか、ということだった。小生もそろそろ大台。アラカンであり、体力的に書きなおすのはきつい。出版社からお願いされるならともかく、そんな風にグズグズ調で対応している間に、話は自然と世間話となる。

× × ×

「だけど君の教科書はさあ、難しいといえば難しんだけど、このくらいは勉強しておけよって、そう思うよ、おれは。」

「いやあ、僕もそう思ってるんですけどね。だけど、最近は、とにかく薄くて、易しくなってますよ、大学の教科書。安くするためか、難しいのは嫌なのか、どちらもあると思うんですけどね。」

「去年、アメリカのオレゴン大学で授業を担当してきたんだけどね。使った教科書が君のやつと大体同じ順番なわけよ。あんなもんだよ。君の教科書を使うって言っても、全部やるわけじゃなくてさ、要点をひろうわけなんだけど、自分で読むところもないとダメだぜ。大学院に行くとさ、アメリカで、そうなりゃGreeneとかやるわけだしね、あれやっぱり使ってるし、アメリカは学部はゆるゆるでさ、だけど大学院にいってガンガン勉強する準備だけはやるって感じだよ。」

「Greeneを全部読ませるでしょ、アメリカでは?」 ※Greeneは600頁位だったか、ぶ厚い

「そうそう。ここは自分たちで勉強しておくようにって言いながらね、全部やる。とにかく授業は滅茶苦茶はやいんだよ。学部はその準備なんだけどね、結構、教科書はいいの使ってるぜ。」

「ずう~っと見ていると分かるんですけどね。英語で書かれた教科書って、売れてる本は変化して来ているんですが、薄くなっている傾向はないですよね。内容も、どっちかって言うと、増えている。そんな風に思いませんか?」

「それはそうだな。ま、レベルが上がってるんだからさ、しょうがないよ。追いつくにはそれなりに昔より頑張らないといけないからさあ、当たり前だよな」

「日本だけじゃないですかね?教科書が薄くて、易しくなりつつある国は?日本語の本だけですよ、レベルが落ちてるの。」

「ハッハッハ、そうだよなあ」

× × ×


この後は、K大から来た数理統計学の専門家(というか数学者)Y.N氏の講演が始まる時刻が迫ってきたので、その話になった。マルコフ過程の推移確率を検定するための検定統計量が演題で、バックグラウンドペーパーをみると、やれ関数空間上のスペクトル分解定理を用いればとか、こんな感じ。これ聴く人いるのかね?そうか、統計やっている人が少ないから、吾輩にも普段はないお呼びのメールが届いたわけなのか。やれやれ、枯れ木も山のにぎわいというか、つまり枯れ木を演じてくるってことね。そんなこんなで、電話は間もなく終わった。

× × ×

覚書きに記しているまでなのだが、確かに日本の大学で使っている教科書のレベルは、20年はおろか、10年前に比べても格段にレベルダウンしてきている。かつてのベストセラーが改訂版、三訂版を出す時、見てみると、字が大きくなり、図が増えて、説明が相当やさしく書き直されていることが多い。これって教科書の<マンガ化現象>?やれやれ、大学もガラパゴスかよって思うと心が折れますね。海外から日本に来てもらうと、外来種ってことで、国内の大学は絶滅したりするのかしら?いやいや、英語の教科書は使いたくないってことで、学生が来ず海外勢は3年位たってから撤退するかも。どちらの可能性が高いだろう?

<ゆとり教育>の歪みであると言われているようだが、これまで<ユトリ>があったなら、アメリカ人と同じで、20歳前後には勉強したくてしたくて、たまらなくなっているはずだろうが?いやいや、生粋の(?)のアメリカ人はやっぱり怠け者になっていて、ガンガンやるのは留学生だ。そんな指摘もある。ということは、日本の大学が留学生誘致に熱心だとしても理屈はとおる。単なる定員割れ穴埋めが目的ではない。そういうことか?

今現在の日本の大学がかかえている問題の一断面なのである。その問題は、国内企業がかかえている問題と同質かもしれない。とすれば、これは日本国の問題なのかもしれない。

2012年2月13日月曜日

左の小指をつめれば、右もつめろ、最後は詰め腹となる

野田総理、岡田副総理の「まず身を切れ」戦術が中々功を奏することができないでいる。消費税率引き上げ、社会保障と税の一体改革へ国民の「より一層の」理解を得ようと、自民党谷垣総裁の地元(京都府舞鶴市)に副総理が乗り込んだとのこと。そうしたところ「官僚の給料や数を減らしてほしい」、「衆院の比例定数削減をやってほしい」との声が相次ぎ、専守防衛に徹さざるを得なかった。北海道新聞を読んでいるとこんな記事が目に入った。

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なにかそんな感じで議論が進んでしまっているのだなあ、と。最近よく口にされている数字に沿ってもう一度書く。大体、国の予算規模は支出が90兆円。ところが、税という自己収入は半分の45兆円もない、というかまあ半分とみてよい。身を切れというが、議員・職員の人件費は5兆円位だ。給料をゼロにしたって、まだ40兆円の赤字である。「これどうするの?」というのが、正に今しなければならない議論である。岡田副総理、このこと分かっていらっしゃるのか?身を切る議論などしている場合じゃあ、ないのである。

赤字事業をどうするか?これが議題である。「給料をさげれば、クビを切れば、何とかなる」話しではないのである — クビを切ってしのごうという経営自体がそもそも失敗の象徴ではあるが。

だから岡田副総理は地方公務員の給与も下げてほしいと言い始めた。だとすれば、国家予算だけではなく、中央・地方の政府全体で赤字を考えないといけない。<国民経済計算>という日本株式会社の決算報告がある。そこから「一般政府の部門別勘定(GFS)(6ー2表)」を取り出してみる。国の予算とは少し違う様子が見えてくる。

支払い項目のうち<雇用者報酬>をみると、平成22年度は中央政府が6兆円、地方政府が23兆円、他に社会保障基金という部門があるが、会計上の存在なので、発生している人件費はせいぜい7千億円程度だ。つまり政府部門全体の人件費は、約30兆円という金額になる。これに対して、業務収支(=収入−支出)は38.3兆円の赤字だ。更に、固定資産の取得など資産取引を加算すると、結局、政府全体の借金は40兆円増えた。これが平成22年度である。全国・全職員の給料をゼロにしても10兆円の赤字だ。

給料ゼロにするんですか?あとはどうするの?これが最大の問題なのである。そもそも、いま検討されている給与引き下げは25年度までの時限措置であり、恒久的な引き下げ措置ではない — 団体交渉権なくして人事院勧告を超えて使用者側の裁量で恒久的に給与を引き下げるのは明らかに憲法違反だからだ。

民間企業であれば、赤字はどの事業部から発生しているかを問うだろう。「赤字なら仕方がない、賃下げを飲んでもらおう」と経営陣が言うのは仕方がないが、賃金が高いから赤字が出ているわけではなく、赤字は赤字事業から出ている。市場賃金を下げないで、その企業の賃金を下げれば、人が出て行く。残るのは低賃金が相応の人材である。賃金をゼロにしても、その企業の赤字は解消されない。組織がなくなるだけの話しである。政府部門の管理の話しをしないといけない。身を切る、指をつめる話しをせよと言っている訳ではない。自からそんな話しにしているだけのことである。そんな話しに自らするのは、身を切るから、あとは任せてくれと言っているのに等しい。

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26年度になったら公務員給与を元に戻すんですか?戻せるんですか?左の小指を詰めたら、右も出せと言われませんか?最後には、腹を切れと言われませんか?恒久的に給与を下げたままにしようと言い出したら、労働組合は行政訴訟に出て、憲法裁判に持ち込まれますよ、と。そうなったら政府には打つ手がないよ、と。日本社会は混乱するよ、と。それが心配なのではありませぬか。

野田総理、岡田副総理、ならびに民主党は、国民と正面から向き合って、正々堂々、議論を開始するべきである。この赤字を何としましょうか、と。ギリシアはそれで往生しているが、欧米先進国は淡々とやっている。日本にできないはずがない。

2012年2月12日日曜日

日曜日の話し(2/12)

昨晩出席した結婚披露宴で隣席にいたのは、小生のサラリーマン時代の先輩であり、現在はある英系商社の再生可能エネルギー事業の統括CEOをしている。

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「世紀末の閉塞状況にあって、ウィーンではなおかつあれだけの爛熟した文明の華が咲いた。すごいと思うんですよね。クリムトなど、確かに頽廃してますが、いまだに人を魅惑します。不健康でもそこで美を創ってます。同じ閉塞状況にある今の日本に文明はあるでしょうか?」

「日本にも生まれつつあると思うよ。俺もクリムトは好きなんだ。だけど初めに凝ったのはラファエル前派だ、な。ロセッティも真物を観たよ。」

Rosseti, Alexa Wilding, 1868

ラファエル前派は<イギリス分離派>とも言える芸術運動である。様式化・完成化されたルネサンスのラファエロ以前へ遡る<原点回帰運動>である。原初ルネサンス、いやそれ以前の中世の美を再認識したのはラファエル前派である。運動はフランス印象派やドイツ表現主義よりもずっと早い1848年、ロセッテイなどが旗揚げして始まった。この年はフランス2月革命、ドイツ・オーストリア3月革命の年にあたる。ナポレオン戦争後の欧州保守体制は完全に瓦解した。

Rosseti, Rossovestita, 1850
上と同サイトから

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その頃まで、ウィーンの街は小市民的なビーダーマイヤー文化の中にいた — 音楽家シューベルトはその代表である。クリムトもシューベルトを画題にしている。ラファエル前派は古典的様式を捨てて自然に回帰する運動であり、作画法としては自然の細密描写へと向かった。ありのままの自然へ回帰する精神は後のフランス印象主義につながる。この点、美は自己の内心にあると考える独墺の分離派とはベクトルが違う。ここが面白い。ラファエル前派は夏目漱石の作品にも頻繁に登場する。「草枕」でミレーのオフィーリヤが出てくるが、こちらはジョン・エバレット・ミレーでラファエル前派の仲間である。

ミレー、オフィーリア、1852年

ただ漱石が趣味に描いたのは水彩画のようでもあり、俳画のようでもある。草枕の主人公である画家も油の匂いを語ってはいないので、持参したのは水彩画具のはずだ。いま手元でパラパラと全集第2巻の頁を繰って確かめようとしたが定かではない。そのかわり、画家が温泉に向かう途中、峠で雨宿りをした時の句が目に入ったので、書き留めておくことにする。
春風や 惟然が耳に 馬の鈴

2012年2月11日土曜日

日本の優れた技術、というのは本当か?

少し古くなったが、浅羽茂氏が昨年9月28日に日経「経済教室」に寄稿した「閉塞打破ー企業経営の条件(下)」は、「日本の優れた技術」と「成長戦略」を論じた秀逸な記事になっている。

氏の意見は非常に的を射ており、たとえば「市場を創るということ」でも話題になっている。広く読まれた文章であったはずだ。

今晩は元ゼミ生の披露宴がある。その学生にも合理的行動では達成できないことが実は多いのだとよく話した。創業の理念が風化したとき、嵐に襲われる企業は<危機>を迎える、と。なぜ続けなければならないのか、それが分からなくなったとき、人はもろいし、企業はもっともろいのだ、と。夫婦だって、そうであります。家族もそうである。

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今後の日本の成長は、縮小する国内市場ではなく、海外市場に進出することが鍵となる。日本企業の技術水準はどこにも負けないので必ず海外に進出できる。ところが日本企業の生産技術は優れているので、海外市場では価格が高くなってしまう。だから売れない。これから低コスト・低品質の製品を拡大する必要がある。果たして、こんな風に考えて本当によいのか。これが浅羽氏の問題意識にある。

同氏は述べている。確かに客観的にみて、日本企業の技術は優れているかもしれないが、その技術は主に日本市場という狭い空間で競争することで磨かれたものだ。狭い空間で競争に没頭した結果、携帯電話では<ガラパゴス化>が進んでしまった。海外市場で成功するには、海外市場で求められている<顧客ニーズ>をつかまないといけない。顧客ニーズに合致した製品を作り出す上で、日本企業は必ずしも優れた技術を持っている訳ではない。むしろ技術が劣っている。そのように見る視線も必要ではないかと述べている。真の顧客ニーズをつかみ、顧客に満足を与えるためには、市場に入り込む必要がある。日本国内で製品開発陣が最先端の技術を駆使して作り上げたものであっても、それが海外市場の顧客が求めるものと合致するというロジックはない。海外の現場に入りこみ、市場を創る人材がいま必要である。それが氏の意見である。

<顧客満足>を与えるかどうか。この点に尽きる。文字通りの正論であります。

よく言われていることだが、Apple Computer Inc.という企業は、コンピューター技術のイノベーションに寄与する程の真のブレークスルーを生み出したことは意外なほどに少ない。しかし顧客が真に求めているものを作り出す技術には他の追随を許さないものがある。これもまたアップルという企業が保有している技術資源であり、それがアップルの競争優位を築いて来た。

グローバル経済においてもまた、<何が正しいのか>という問いかけは意味がなく、<勝ち残ったもの>が正しいのだ。何故なら創るべきものを創る企業が勝ち残るからだ。すなわち市場で求められていた企業だからだ。う〜ん、天才は為すべきことを為し、秀才は為し得ることを為す。この名言と重なりますなあ。企業を文明と置換してみよ、市場を世界と置換してみても、やはり意味が通る。

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ただし、浅羽氏はこんなことも言っている。日本は高齢化という道筋を辿っている面では世界で最先進国である。これまでは日本は遅れて来た者の利益を得る側であったが、いまでは世界が非日本化政策(De-Japanization Policy)を進めるのに懸命だ。であるから、次の20年間を日本が乗り越えたとき、その市場開発技術は海外の企業にとっても有用となる理屈になる。日本が大事にしてきた、また大事にするべき価値は、いずれ海外市場で価値となる時機が来るのは必然である。海外市場で成長しようとすれば海外市場に入り込むことが大事だが、それは日本市場で形成されて来た経営資源を捨て去ってよし。そうではないと浅羽氏は考えているようだ。やはり人が書いた文章から、その人の真の考えを残す所なく汲み取るのは、易しくはない。

大事なのは<バランス>である。そのバランスをとるうえで不可欠なもの。それは企業理念であり、志である。不動の一点がなければ、守るべき理念がなければ、あとは損得計算しか残らない理屈であり、企業などは一寸不振に陥れば、激動する波の中で、あっという間に消えていくだろう。

2012年2月9日木曜日

世界景気の潮の目は変わるか?

株価が上がっている。年明け後、市場は妙に明るいが、本日の日経朝刊には次のように説明されている。
市場では、米景気が予想を上回るペースで回復するとの期待が浮上。7日のニューヨーク市場でダウ工業株30種平均が2008年5月以来の高値を付け、投資心理の好転につながった面もある。
欧州債務問題への懸念が後退したとの見方から、独仏など欧州株も底堅い展開だ。先進国を中心とする金融緩和を受けてブラジル、中国など新興国市場にも資金が流入している。こうしたなか「出遅れ感のある日本株にも海外投資家が資金を向けている」(大和証券投資情報部)という。(出所:日本経済新聞朝刊、2012年2月9日付けから引用)
ま、<期待>といえば、期待の上で踊っている乱舞とも評されよう。ちょっと虚しい。

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そのギリシア債務問題だが現在進行中のユーロ・グループ協議で何等かの合意に達する見込みが出てきたとのこと。ロイターでは次のように報道している。
(Reuters) - Prospects for a deal on a second international bailout for Greece brightened on Wednesday when euro zone finance ministers were summoned to talks in Brussels while Greek political leaders met to approve a tough new reform and austerity program. (Source: Reuter, Wed Feb 8, 2012 4:53pm EST)
上の情報は半日程度前の情報だ。日経WEB刊には、
【パリ=古谷茂久】ギリシャのパパデモス首相は8日、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)が求めている緊縮策の受け入れについて連立与党3党首と会談した。9日未明(日本時間同日午前)まで続いた協議後、首相は「1項目を除き合意した」との声明を発表した。仏AFP通信によると年金改革に関する項目が未解決という。協議は9日に再開し、同日夜に開かれるユーロ圏財務相会合までに結論を出す。(出所: 日本経済新聞WEB刊、2012/2/9 8:51)
とある。

合意近しとはあるが、ロイターではさらに次のような解説を加えている。
However, the leaders have been loath to accept the lenders' tough conditions, which are certain to be unpopular with voters, as they face parliamentary elections possibly as early as April. 
After a series of delays, the leaders finally received a 15-page document on Wednesday morning laying out the principles of the bailout and its conditions, a party official told Reuters. Attached were a further 30 or so pages laying out how the program will be implemented. 
The leaders will have to decide whether to push through a 15 percent cut to supplementary pensions or a combination of cuts in main and supplementary pensions, the official said. (ditto.)
最後に残ったのは<年金問題>であるようだ、やはり政治的に最も困難な項目でもめているのか。協議で合意しても、ギリシアに持ち帰ってから、本当に国民が受け入れるのか、受け入れると期待して現在の株式市場は明るいのか、それは分からない。ロイター報道の最後に次のような指摘がある。
An opinion poll on Wednesday showed that PASOK, which ruled Greece until Papandreou's government collapsed last November, has most to fear from elections. The monthly survey by Public Issue for Kathimerini newspaper showed support for PASOK had collapsed to eight percent from the nearly 44 percent it commanded when it returned to power in 2009. (ditto.)
マラソン競技の果てに<ギリシア与野党との合意>(後刻注:連立与党と報じられている、与野党というと誤りのようだ)が達成されるにしても、ギリシアに帰ってから<ちゃぶ台返し>にあう可能性はそれなりにある。関係者多数もギリシアをそんな風に見ているようでありますな。ギリシア現政権のみならず、(仮に生まれるとして)次期新政権をどこまで束縛できる合意になるのか。小生、関心があるとすれば、そこである。ま、文章にかいても、いつでもひっくり返せるが。

英紙ファイナンシャル・タイムズでは、ギリシア国内で反政府デモに参加している労働者の声を伝えている。例によって引用について厳しいのでリンクをつけておく。次は最後の下りである。
A 24-hour general strike called by unions to protest against wage cuts disrupted public transport, including ferry services, and shut down schools and government offices. 
Several thousand members of the ADEDY and GSEE labour federations, the country’s largest, staged an anti-austerity demonstration outside parliament in driving rain. A group of leftwing unionists clashed with riot police after burning a German flag outside the building. 
“We fought for two decades to get European standard labour rights and now they’re being taken away by the troika, the Europeans themselves, ” said Alexis, a 53-year-old port worker. (Source: Financial Times, 8 Feb 2012)
ギリシアのユーロ脱退が取り沙汰されているとしても当然の状況なのだが、メルケル独首相は、これまた当然のことながら、ギリシアがユーロから抜けるという結果は絶対にありえないと発言している。
Am Dienstagabend hatte sich Merkel allerdings abermals gegen einen Euro-Austritt Griechenlands ausgesprochen. „Ich will, dass Griechenland den Euro behält. Ich werde mich nicht daran beteiligen, Griechenland aus dem Euro raus zu drängen. Das hätte unabsehbare Folgen“, sagte Frau Merkel vor Studenten bei einer Veranstaltung in Berlin. Griechenland habe wesentlich größere Chancen, als es heute wahrnehme. (Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 8, Feb, 2012)

日本銀行はギリシア債務問題の協議暗転の可能性を予測範囲の中に入れているようだ ― 当然のことである、確率ゼロとは言えない以上は。ロイター報道。
[東京 8日 ロイター] 日銀は13、14日に開く金融政策決定会合で、追加緩和を検討する。国内景気には底堅さがみられるものの、ギリシャ情勢の緊迫化など世界経済の先行きに不透明感が広がっていることに加え、米連邦準備理事会(FRB)が1月末に打ち出した金融政策運営に関する情報発信強化を受けて円高圧力の再燃懸念も高まりつつある。

こうした中で、事実上の踊り場にある日本経済の先行き下振れリスクに対し、資産買入基金の増額など先手を打った対応策を議論する。また、日銀の物価見通しの示し方について工夫の余地がないかも検討する可能性がある。複数の関係者が8日、明らかにした。 
日銀が追加緩和を検討するのは、ギリシャの債務削減や第2次支援交渉が難航するなど、欧州債務問題に対する緊迫感が高まっているためだ。事実上の交渉期限とされる2月中旬が迫るなかで、ギリシャが債務不履行(デフォルト)と判断されれば、ユーロの急落や他の欧州周辺国の国債価格下落(利回りは上昇)が引き起こされ、欧米金融機関にも影響を与えかねない。日本経済にも株安・円高という金融ルートを中心に悪影響が直ちに及ぶ可能性がある。 
日銀は現時点で、ギリシャ支援の交渉が妥結、欧州中央銀行(ECB)による大量の資金供給などを背景に欧州危機は収束に向かい、世界経済は新興国にけん引される形で次第に成長率を高めていくとの従来シナリオを維持している。それでも欧州の実体経済の悪化が貿易を通じて世界・日本経済に波及してきており、自己資本増強を急ぐ欧州金融機関による資産圧縮が今後本格化すれば、信用収縮による新興国経済への悪影響の強まりが懸念される情勢だ。
× × ×

 ギリシア債務問題とは独立に、欧州金融機関の不良債権処理がまだまだ未解決であることこそ、今後の世界経済にとってはより本質的である。

そして、この問題はアメリカ経済についても言えることである。政府と家計部門の重債務問題から目をそらすことはできない。アメリカの住宅価格はいまなお下図のように反転気配をみることができない。

(Source: FRED, Federal Reserve Bank of St. Louis)

確かに足もとの経済動向だけをみれば、OECD景気動向指数(Composite Leading Index)が示すように、そろそろ底打ちするタイミングである。アメリカ経済は、明らかに底を打ちつつあるようだ。中国も景気後退局面から上昇局面に移る時機である。ヨーロッパは、ドイツ経済が予想外に明るい。

とはいえ、アメリカ経済の明るさは金融緩和からもたらされており、財政は緊縮へと向かうはずである。ヨーロッパも金融緩和でマネーは拡大しているが、それは突然の破綻がないというだけであって、財政は緊縮へと向かうはずである。金融機関の貸し渋りは進むはずである。

× × ×

こうして考えると、世界経済はバブル崩壊後の1995~96年頃の日本経済に非常に近似しているように思う。

ヨーロッパは、再度金融不安が高まり、ユーロが70円程度まで暴落する局面もありうるのではないか。ヨーロッパの次はアメリカ国債問題に市場の関心が向くだろう。日本の国債もそうだ ― ただ、日本の場合、小生は国債市場が混乱した場合、当局は強権的対応をとる、というかとりうる立場を利用すると予想している。というのは、日本の国債は大半が国内で保有されているからだ。日本は自国の債務問題を解決する上で関係国との合意を必要としない ― いざとなれば国内から自己資金を強権的に調達して国債とチャラに出来る。これを日本政府が利用しないはずはない。売買を制限することは更に一層ありうる。もちろん、お上が強制する国債の継続保有によって、日本の投資家(特に銀行)は損失を被るわけであり、そのつけは一般預金者が我慢することで帳尻を合わせる訳であるが、ともかくも強権的対応が可能なことは可能であると見ている。無論、その時点では消費税率は25%に達するであろう。誰がやるかはさておき、ともかくも理屈上は逃げ道がある。

さて欧州の話に戻る。欧州財政統合だけではなく、ドイツの黒字を南欧の赤字地域に再配分する欧州財政交付金システムが発足するまでは地域内のインバランスに永遠に苦しむことは必定である。しかしまた、欧州財政を地域間で均衡化するためには、欧州議会の権能を強化する必要がある。その方向にドイツは前向きであろうが、イギリスは消極的であり、おそらく<スネをかじられる>立場のオランダ、オーストリア、スカンディナビアも消極的ではなかろうかと予想する。北欧は基本的に<一国福祉主義>と見ているので尚更のことである。

つれづれなるままに覚書きを書き綴ったが、世界経済は、依然、シナリオなき回復を歩んでいる。そう見ているところだ。

2012年2月8日水曜日

国家直営の社会保障は本当に必要なのですか?

北海道限定のワイドショー「のりゆきのトークDE北海道」(UHB)の今日のテーマは「女ひとり・・生活が大変です」で、先週末からずっと休みなく仕事が続いていた疲れを休めながら  — とはいえ今晩も最後の授業があるのだが — 何気なくみている。

子供を二人養育して今はすでに独立している。今は夫が亡くなったあとの遺族年金とわずかなパート収入で生計を立てている。しかし仕事はいずれ辞めなければならない。その後は、最低限の基礎年金しかないのである。不安で仕方がないと話していた。ただその人には父が遺してくれた家がある。同僚はそんな恵まれた状況にはない。気の毒だとも言っていた。

× × ×

小生、ずっと前から何度も本ブログに書いていることだが、本当に国家直営の社会保障は必要なのだろうか?つまり、個々の日本人が幸福になるために、社会保障という国の仕掛けが、真に不可欠なのだろうか、ということだ。

小生は、年金保険料を毎月約5万円払っている。それにプラス医療保険料に約2万円(だったかな?ま、その位だ)。加えて介護保険料がいくらだったか、払っている。更に、雇用保険料が(大学が法人化したので)ある。以上は自動車で言えば自賠責に相当する強制保険料だ。任意保険である生命保険料も月々4万円くらい払っている。これに終身の医療保険料も加わる。こんな風に並べてみると、文字通り、我が家計は保険料漬けであることを実感する。しかし、普通の日本人は、まあみんな似たり寄ったりではないのだろうか。

確かに、この世はリスクにみちている。しかし、あらゆる生物にとって、リスクを乗り越える最大の工夫は何だろう。それは<繁殖>である。家族を増やしていくことが<最大の保険>である。これは人類史的事実というより生物史的事実だ。

もし政府強制の保険料がなければどうしたろう。年間で数十万円の年金保険料が浮く。やはり子供をもう一人養育したのではないかと思う — 異動で転居が多かったから大変ではあったろうが。子供は何よりの宝であり、かつ老後の支えである。医療保険も民間のかけ捨て型保険が便利だ。子供達の保険は学童保険。子供の世帯は、年金保険料を負担しない。その分は子供 — つまり小生の孫 — の養育と親への仕送りとなる。子供の世帯は、自分の子供、つまり小生の孫を共同で育てることになる。そうするだけの経済的基盤を持てるだろう。

そもそも日本では家族がこのように相互に扶けあってきた。

過大な年金保険システムを国民に強制すれば、個々人は子供を養育する経済的余裕をその分失うことになり、同時に、自らの老後は年金でまかなわれるという期待が生まれ、結果として子供を養育するモチベーションを喪失する。これを防止するためには、子供の養育を抑えるネガティブな副作用を打ち消すプラスの養育支援策を同時並行的に実施しておく必要があった ― 単に15歳になるまでお金を支給すればいいというものではなく、才能が開花し有為な人材になるまで支援するのでなければ意味がない。ヨーロッパはそれをしている。それでも少子化の傾向は認められるのである。

国家直営の社会保障システムは、日本の家族の助け合いを経済的にも、また社会心理の面でも破壊してきている。小生、いまの日本の社会保障システムは、日本人を幸福にしているどころか、マイナスの価値をすら生み出しているのではないかと考えるようになった。どうも — 原子力政策も全く同じなのだが — 社会保障政策においても、日本の政策体系はバランスが悪く、ある分野を偏重し、結果として不必要な副作用をもたらす傾向があるとみている。

× × ×

いまの日本が陥っている閉塞感にみちた社会不安は、一つには十分な社会的理解なくして過大な社会保障システムを、それも老齢年金を偏重する形で、立ち上げてしまった点にある。これはまずデータによる検証すら必要ないほど確実なことだと、小生、見ているのだ。

その意味で、日本の現在の状況は不況とか不景気という言葉で形容するべきではなく、むしろ1980年代に社会主義国が陥ったシステミック・リスクに近い。やれ市場原理主義とか、競争万能主義とか、言葉のゲームを繰り返しながら正当化された既得権益を死守する正義感にばかり執着していると、肝心の経済基盤が、近い将来、瓦解することになるだろう。正義が実は正義ではなかったと知るきっかけは、いつの時代でも、現実である。正邪善悪は、人の心にあるのであり、現実の中にはない。

2012年2月6日月曜日

「ギリシアはあくまで例外である」という納得感

独政界でもギリシアのユーロ脱退やむなしとの見通しが語られるようになった。


独経済紙Handelsblattに以下の報道あり。
Sollte das zweite Rettungspaket im Umfang von 130 Milliarden Euro nicht zustande kommen, droht Griechenland im kommenden Monat die Zahlungsunfähigkeit. Am 20. März werden Staatsanleihen im Wert von 14,5 Milliarden Euro fällig, deren Refinanzierung Athen aus eigener Kraft nicht bewältigen kann.(Source:  06.02.2012, 09:56 Uhr)
3月20日に満期になるギリシア国債の借り換えが出来なければ(現状ではキャッシュで償還せざるを得ないだろうが)、デフォールトとなる。14.5(10億)ユーロということは、日本円で約1兆円強ということか。ギリシア政府は独力では調達できないと見られている。 日本の経済規模から言えば小額である。しかしカネがなくなる時というのは、誰も貸してくれないということでもあるから、詰まりはこんな感じで折れるように破綻するのだろう。


その可能性はかなり高いようだ。上の記事のヘッドラインは

Söder hält Griechen-Bankrott für unvermeidlich06.02.2012, 09:56 Uhr
In Griechenland streiten Regierung, Opposition und Gläubiger weiter über den Schuldenschnitt. Bayerns Finanzminister Söder hat die Hoffnung bereits aufgegeben – und legt Athen den Euro-Austritt nahe.

与党のバイエルン州ゼーダー財務相(キリスト教社会同盟)は「ギリシア破綻は回避不可能」とドイツ・ラジオ放送局で語ったよし。

これは、無論、アドバルーンであり、結果がダメでも市場に衝撃を与えないだけの時間を稼ぐ腹だろう。仮にどんでん返しがあって、ギリシアが今からラディカルな構造改革を確約すればポジティブ・ショック。やっぱりダメな場合でも、準備はできている。その地ならしだ。そういうことでしょうなあ、と。

ただギリシアはあくまで例外。国も小さいし(と言いたいのか?)、大したことはないと言い始めている。
Er sehe durchaus, dass ein Austritt Athens aus der Euro-Zone auch für andere Staaten Probleme bringen könne, allerdings „nicht in der Dramatik“ wie viel glaubten, sagte Söder. Griechenland sei „eine absolute Ausnahme“ und „mit Abstand das schwierigste Land“ unter den Schuldenstaaten. Im Gegensatz etwa zu Italien, sei in Griechenland in einem Jahr in Sachen Reformen „de facto nichts passiert“.
この一年間、構造改革らしきことは何一つしていない。そこがイタリア辺りとは一線を画す。同じ<重債務国>の中でも断トツの例外的存在だから・・・。いや、全く、ここまで<劣等生>扱いをされても、恬淡としているギリシア国民は流石に老舗の風格がある。小生、そう感じてしまうのだ。日本が、将来いつの日か、近隣の中国、韓国、タイなどから、「日本は全くの例外、アジア共通通貨から脱退するとしても、大したことはない、実際、この一年間やるべきことは日本人は何もやってないしね、もうダメだろう」。そんな風に言われる日が来るとすれば、その時の日本人は悲憤慷慨するだろうか?小生の個人的感想としては、発奮してほしいなあ、やはり。

2012年2月5日日曜日

日曜日の話し(2/5)

本日は大学のビジネススクールで行う後期入学試験で、その試験監督をやった。解答時間は2時間、椅子に座ってもいいが、やはり歩いたり、窓辺に佇んで戸外の雪景色を何気なく見ていたりする。終わって、早速、採点をしたら、やっぱり疲れた。


先日、機種更新をしたiPhone 4Sで青空文庫を ― 特に札幌から住んでいる町にバスで帰る時などは ― 読んでいるが、昭和8年の三陸津波について記された寺田寅彦「津波と人間」には切なくなるような予言じみた文章が満載だ。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
昨年の東日本大震災で東北地方を襲った津波は、寺田寅彦が綴った津波とは同じ津波ではないが、法則性をもった自然現象としての津波の発生という意味では、書かれている津波は同じ三陸津波である。寅彦がこうも言っているのは誠に切ない。

津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
その寺田寅彦が大正時代の青年画家中村彜について随筆を書いているとは知らなんだ。「中村彝氏の追憶」がそれである。文中に出てくる田中舘先生というのは明治の地球物理学者田中舘愛橘のことであろう。寅彦は訪れた中村彜の下宿をこんな風に表現している。追憶している寺田寅彦は既に晩年である。
部屋の一体の感じが極めて荒涼ドレアリーであったように記憶する。どうせこういう種類の下宿屋住居で、そうそう愉快な室もないはずであるが、しかし随分思い切ってわびしげな住まいであった。具体的な事は覚えていないが、そんな気持のした事は確かである。
 机と本箱はあった。その外には幾枚かのカンヴァスの枠に張ったのが壁にたてかけてあったのと、それから、何かしら食器類の、それも汚れたのが、そこらにころがっていたかと思うが、それもたしかではない。
貧しさというのは青年が志を遂げるため成長する上で最高の贈り物なのだろう。そんな時代だったのだろう。何もかもが与えられた現代から大正時代をみると、そんな風に感じてしまう。

 中村彜、静物、1915年頃

寺田寅彦はレンブラントが描くような中村彜の自画像に気が付いていたようだ。上の作品はセザンヌが描くような静物画である。中村彜も若かったが、その画家を記した寺田寅彦もまだ若く、日本という国も本当に若かった時代のことだ。

2012年2月3日金曜日

欧州危機とドイツの負担

ドイツの五大研の一つであるIFO InstituteからNews Letterが届いた。

IFOが公表している景況感指数(Business Climate Index)はドイツと欧州の景気を把握するうえの主要データに含まれる。これによると1月に入っても、やはりドイツ経済は拡大を続けている。特に今後の見通しは顕著に明るくなっている。驚きますねえ・・・。フランスのサルコジ大統領が最近ドイツかぶれ呼ばわりをされているそうだが、それも無理ないか。現在の独経済の勢いには幻惑されてしまいます。ドイツを模倣して増税を言い出すのも無理はない。

同じニューズレターに欧州債務危機と不良債権処理に伴うドイツの負担を試算した結果が掲載されていた。


解説の部分だけを引用させてもらおう。本文はリンクしておきたい。
Figure 1 presents three different breakdowns of total exposure. The middle column shows the total potential exposure. This represents the guarantees and/or credit volumes provided via the bail-out initiatives and packages of the Eurozone countries, including contributions from the International Monetary Fund (IMF), as well as the sums that the European Central Bank (ECB) has spent on purchasing sovereign bonds and the Target credits granted to the central banks of Greece, Ireland, Portugal, Spain (referred to collectively as the GIPS countries) and Italy. The column on the left shows the amounts of this total that have already been paid out and/or firmly pledged to each recipient country, and which could potentially have to be written off should the recipient country become insolvent and any potentially available collateral be lost. The column on the right shows Germany’s share in the exposure depicted in the middle column and is based on the assumption that the GIPS countries and Italy drop out as warrantors. (Source:  IFO Newsletter, No.1, January 2012)
右端のドイツの不良債権(=資産喪失)は、ギリシア、アイルランド、ポルトガル、スペインというGIPS諸国に加えてイタリアまで破綻する場合の負担予想額である。単位は10億ユーロ。円に換算すると大体ドイツだけで60兆円になるのか・・・?EU合計では潜在的に1975(10億ユーロ)。約200兆円になる??まあそんなところかなあ。

どちらにしても心配されているようなスペイン破綻、イタリア破綻というドミノ破綻が進行すると、リーマンショックを超える谷底に世界経済が落ちてしまうことは確実なことだ。アメリカ経済とヨーロッパ経済、両者の間には経済政策当局の柔軟性、労働市場の柔軟性、競争メカニズムの徹底、個々の企業経営の柔軟性に大きな差があると見ている。リーマンショックからアメリカ経済は最終的には立ち直るだろうが、ヨーロッパ経済が日本の失われた20年をそのまま再演してしまう可能性はかなりあると思う。

× × ×

それにしても痛感するのは良質の情報を提供する能力の違いである。アメリカが発信している経済経営情報が極めて高いレベルであるのはずっと以前から言えることである。小生の専門分野である統計分析手法を試すサンプルデータを収集する源泉は、日本に居住しているにもかかわらず、最近はアメリカのFRBや商務省の経済分析局、労働省など米政府の公表サイトであることが多い。本当におかしなことである。日本政府も努力していないことはないのだが、情報提供にかける熱意の違いが、質量両面で歴然とした優劣につながっている — そう考えざるを得ないのだな。今回とりあげたIFOは民間組織である。日本の民間シンクタンクで、これだけ詳細なデータ、レポートを<無料で>提供している機関は一つもない — 小生の調査不足であったらお詫びしますが、まず確実にそうだと思う。

沈黙の経済大国であると見られても抗弁できない点は確かにある。日本で暮らしていてもそう感じることは多いのだ。

2012年2月1日水曜日

この異なるもの ― NHKの放送受信料

NHKではBS放送を視聴する場合、衛星受信料を払わないといけない。小生が住んでいるマンションではBSデジタル共同アンテナを設置したため、NHKの担当者が定期的に訪れ、衛星受信料を支払うように督促するようになった。

拙宅も通常のBSアナログは観ているので放送受信料は払っている。NHKのホームページでも説明されているが、放送受信料は月額1345円。衛星契約をしてBSデジタル放送も含めるとプラス945円が加算され月額2290円になる。マンションの屋上にBSデジタルアンテナ新設を確認して、それではとばかりにマンションの個別訪問をして、衛星契約に移行するように説得するという気持ちは分からないでもない。しかし、そもそも衛星放送はB-CASカードを挿入して視聴するものだ。アンテナだけあるから、なぜ観ていることになるのか。NHKの電波だけを外す設定はできないものの、衛星放送を見ているかどうかの取引内容確認がいるのではないか。取引内容の確認ステップを設けないまま、アンテナがあるからと言って ― それもマンション管理組合が共同の意志として設置した設備であり個別の世帯が意志決定したわけではない ― 個別世帯に衛星契約移行を説得するというのは、いかなる所存か?交渉上の地位の濫用に当たらないか?小生、決して好感をもてないのです、な。

× × ×

そういえば、ずいぶん昔、経済統計を勉強したとき、日本国内の米軍基地はNHK放送受信料を払う義務があるかないか、そんな問題があった。確か、放送法の現行規定が整っていないその時は、支払う必要はないという結論だったと記憶している(反対だったかもしれない)。その理由の要点は、NHK放送は公的に提供される公共サービスであるか、対価を払って取得する私的サービスであるかということに帰着する。公共サービスであれば、それは税によってまかなうのが筋となる — 一部には、例えば住民票の交付など受益者が特定できるサービスがあり、その場合には手数料になる。公共サービスに伴うコストは<公租・公課>と呼ばれる。米軍基地内では公租・公課を免じられる税目がある。固定資産税は免税だったはずだ。テレビ受信機があったとしても(確か)公租・公課ということであれば負担する必要はない。だからNHK受信料は払わない。他方、サービス取引の対価だとすれば、それは売買なのだから、米軍と言えども売買対価は100%支払う必要がある。そんな議論ではなかったかと記憶している。

NHKの放送受信料は税か、対価か?

当のNHKの設置理念、経営理念とも関連するようなのだが、NHKは放送の自由を確保したいと考えている。公権力がNHKの放送内容に関与しているわけではない。その意味では、NHKは国家機関の一部をなすものではない。故に、NHKの放送は公的サービスではなく、NHKの放送受信料も公租・公課ではない。だとすれば、何らかのサービス取引に伴う対価として支払われるものである。

× × ×

だとすれば、放送サービス取引には当事者の任意性がなければなるまい。任意性があるというのは選択の自由があるということと裏腹である。ところが、そのNHKの受信契約が大変奇妙な契約であって、受信設備を設置した全ての者はNHKと受信契約を結ばなければならないと法で規定している。現在では、放送法でNHK放送受信料支払いの義務を明文化している。

【放送法第64条(受信契約及び受信料) 】
第1項  協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。
<受信設備>とはアンテナのことか、それとも受像機のことか?ここを規定しないと、混乱を招く。が、使用している用語は放送法の他の条文で明らかに定義されているのであろう。そう推測しよう。

この規定から、アンテナを設置した者は全てNHKと受信契約を結び、BSデジタルアンテナを設置した者は、やはり衛星受信契約を結ぶ義務を負うわけである。いや待てよ。法には衛星受信契約にともなう受信料増額は規定していない・・・。まあ、いいか。法律談義が主目的ではない。最初の話に戻る。

× × ×

租税ではないが、関係機器を購入すれば、支払い義務が発生する
たとえば自動車購入者が必ず支払う自賠責保険料がある。放送受信料の性格と酷似している。自動車を自動車として使用するには必ず自賠責保険料を払うことが義務付けられている。これは当事者の自由な意思決定にゆだねていると、不確実性や情報の非対称性などにより、交通事故に伴う損害保険サービスの供給が過小になったり、成り立たないためである。だから自賠責保険の義務付けは社会にとってプラスになっているのだ。ロジックとしては。

ただ、自賠責保険を結ぶ保険会社は、当事者の意思で選択可能である。これまた当然の論理である。保険引受先が一社しかなく選択の余地がないならば、独占的な保険料で契約せざるを得ず、そのマイナスが大きい。もちろん、数社の保険会社に競争をさせても、強制保険であるから必ず保険会社は結託して共同利益を最大にする。あるいは、保険料を安く規制すればすればで、商品開発が自由である以上、保険会社は自賠責保険の充実には努力しない。公的な視点から本当に必要なサービスは、公的年金と同じく、政府が関与しなければ適正にはならない。それでも、選択の自由があるので、個々の消費者は大きな不利益を避けうることが保証されている。

一方、NHK放送受信料はNHKという単独の組織が徴収している。消費者にはNHKから別の放送企業に受信料支払先を変更する機会が与えられていない。市町村民税ですら転居によって節税の機会を持てる。しかし日本国内でTV受像機を持つ者は必ずNHKという単独の組織に受信料を支払う。選択の余地がない。
日本国内で受信機を使用するものは、必ずNHKという単独の組織に受信料を納めるよう強制するロジックは何か?
× × ×

一つには<良質の番組=公共財>という見方がある。電波は ― 少なくとも昔は — 都市公園のような<等量消費性>をもっていて、かつただ乗り利用者を排除できない<排除不可能性>をもっていた。電波にただ乗りすることが可能だった。民間事業者に番組編成をゆだねていると、最大多数の視聴者が望むものを制作し、コストの負担者であるスポンサーも放送局のそんな行動を是とする。それでは<良質の番組>が過小にしか提供されない。良質な番組を希望者から料金をとって放送をしても必ず受信料を支払わずにタダで見るフリーライダーが現れる。それ故に例外なく全員から徴収する。つまり良質な番組を十分に提供するためのツールとして受信料という制度が生まれた。こう考えるべきだろう。全員から受信料を徴収していれば、特定の関係者との利害関係を取り結ぶ必要もなく、中立的な経営が可能になるという論拠もあるのだろう。

しかしこう考えると、NHK受信料は放送内容を最適なものにするための公租公課であるという結論になる。実際、NHKは、世間では<国営放送>と呼ばれている。大多数の人はそう考えているのではないか。NHKの公的性格が明らかになれば、「このマンションにはBSデジタル共同アンテナがありますから、お宅にも衛星契約に移行してほしいのですよ」と、<義務の履行をお願いして回る>という異な現象を見ることもなくなるはずだ。

そうであれば、何が公共放送であるのか、過剰に提供されていないか、過小に提供されていないか等々、公的な事業を運営する会社として経営全般について会計検査を受け、その活動は公的なモニターの下に置かれるべきだ。給与水準についても公務員給与に準じたものであるべきだろう。

× × ×

もう一つ。良い放送サービスが公共財的な側面を持つからと言っても、単独の公的企業を一社だけ設置する方法が最善であるという理屈にはならない。良質な番組を編成するための<受信料>を業界団体である<放送連盟>がプールして、それを各社が制作する公共放送の企画に配分する方式でも目的は十分に達成できるはずだ。既得権益が構造化しやすい特別会社を設けるより、そのほうが遥かに効率的であるばかりではなく、資金の使徒をモニタリングすることによって受信料の支払い側と受け取り側との相互信頼が守られるはずだ。真に緊急性のある報道、真に中立的かつ正確な解説番組など、公共的視点から提供が望まれる番組編成については、NHKであるかないかとは別に、また視聴率とは別の基準で、多数の事業者が受信料を活用できる体制にしておく方が国民の便益にかなうのではないか。

もっと大事なことは、放送は完全有料制で流すことが技術的に可能になった点だ。もはや電波は等量消費性、排除不可能性をもたず、私的財に近くなっている。真に良質の放送であれば有料で提供できるので、それを評価する顧客がいれば、受信料がなくとも費用は回収できる。優良な情報は書籍、データベースであっても有料かつ高額であり、放送だけが無料でなければならないというロジックはない。

「政府から独立した民間団体である」とNHKがいうなら、なおさらのこと、強制力のある受信料ではなく、真に良質の番組を中心に、サービス販売拡大戦略を中心にするべきだ。そうすれば真に公共的な視点から必要な受信料は現在よりもずっと低額で済むはずである。まっとうな常識で考えても、衛星第一や第二、ハイビジョン放送で流されている放送が、公共的な視点から広く求められているとは、小生、どうしても感じないのだな。需要と供給の経済原理で資源の投入を決定するべきである。

NHKという「会社」は、名目と実態が複雑にもつれあい、乖離していて、<異形な組織>である。東京電力をはじめとする電力企業も21世紀資本主義において<異形の民間企業>であったが、NHKもまた異なる・怪なる・奇にして妙な存在だ。

・・・いやはや、今日は長話しになった。受信料のみならず、電気代、ガス代 etc.、規制料金は何となく高いなあと感じている日頃のモヤモヤが出てしまったのかも。