2012年2月19日日曜日

日曜日の話し(2/19)

「ゴッホの手紙」(岩波書店)を読んでいると、アルルに移って得たものは豊かな色彩であることがよく伝わってくる。その色彩に満ちた風景を表現するために、弟テオに何度も出して絵具の宅送を依頼している。何よりも絵具が必要だったのだろう。ゴッホが求めている絵具のリストを目にするだけでも大変楽しい。それにしても弟からの送金が遅れたときには週末の何日かをコーヒー36杯(だったかな?)とパンのみで過ごしたという下りを読むと、<創造>は誰にでも可能なことではない、そう思って痛切な気持ちになる。そう思いながら窓の外をみると、久しぶりに雪があがっている。

ドイツ、北欧では、フランス印象派のような色彩分割が今ひとつ徹底しなかった、というか<究極の写実主義>のようなモネのような作品が少ないと思うのだが、それは単純に考えて、冬のせいだ。そう思っている。北海道に住んでいると、つくづくそう考えるのであります。

「雪だって、というか雪だからこそ、複雑な色彩が目に映るではありませんか」。確かにそう。しかし、写生なんてできないよ。日の出の時刻には暖かい地域でもマイナス10度になるし、吹雪になると戸外にイーゼルなど立てられません。死んでしまう確率が高い。眼前に降り積もりつつある雪の複雑な表情は、写生をしないと表現できないというものだ。しかしどうしても冬は室内制作になる。それ故、ゴッホが北海道で暮らしていれば、絶対に彼が目指した絵画は生まれえなかった。そう確信する。理由は単純で、ズバリ、自然条件である。

しかし、雪を描いた作品に傑作は多い。小生、先日もとりあげたが、雪の絵はとても好きだ。日本人では岡鹿之助は雪を描いた作品が多い。下はブログ「スピカ逍遥」から拝借させて頂いた。

雪といえば浮世絵にも名品は多い。広重の蒲原は誰でも知っている。切手にもなった。下の北斎は富嶽三十六景から。これはブログ「浮世絵に聞く」から引用させたもらった。

葛飾北斎、富嶽三十六景「礫川雪ノ且」

晩年、ダボスで療養したドイツ表現主義の一人キルヒナーも雪の絵を遺している。

Ernst Ludwig Kirchner, Davos under Snow, 1923
Blog"Expressionism"から

「雪を描く」と一口に言っても、それによって何を表現したいと意図しているか、願っているか?絵を描く人によって、それは様々であることが分かる。

美は料理に似て、表現としては一方通行だ。できあがったものが心に届いて、共振すれば感動するが、共振しなければ「嫌いだ」もしくは「分からない」となる。であれば、「いい絵、ダメな絵」というよりも、多数の人にとって一般性のある測定基準は<市場価格>だけが、有意味であるのかもしれない。その市場価格が芸術家それぞれについて長期的にどのようなトレンドを辿っていくのか、それもまた社会の世代交代の中で予測が困難なものの一つであろう。ゴッホの絵の市場価格も制作当時には予測が不可能であったに違いない。

美をテーマとする学問に可能なことは、現実に高い評価を得た作品がなぜ高い評価を得られたのか、その必然性はあったのか、そんな要素が含まれていたのか、これらの問いかけを事後的に解決して理解する。経済分析も多分に似た側面があるのだが、つまりはそういうことだろうと考えているのだ。実例を見ながら<美>について理解する。生まれる前から生得の価値として美しさを人は知っている訳ではない。う〜ん、こう言うといつの間にか「経験主義対直観主義」の古い論争に引き込まれそうだ。これはまた日を改めて。

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