2012年2月5日日曜日

日曜日の話し(2/5)

本日は大学のビジネススクールで行う後期入学試験で、その試験監督をやった。解答時間は2時間、椅子に座ってもいいが、やはり歩いたり、窓辺に佇んで戸外の雪景色を何気なく見ていたりする。終わって、早速、採点をしたら、やっぱり疲れた。


先日、機種更新をしたiPhone 4Sで青空文庫を ― 特に札幌から住んでいる町にバスで帰る時などは ― 読んでいるが、昭和8年の三陸津波について記された寺田寅彦「津波と人間」には切なくなるような予言じみた文章が満載だ。
学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
昨年の東日本大震災で東北地方を襲った津波は、寺田寅彦が綴った津波とは同じ津波ではないが、法則性をもった自然現象としての津波の発生という意味では、書かれている津波は同じ三陸津波である。寅彦がこうも言っているのは誠に切ない。

津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
その寺田寅彦が大正時代の青年画家中村彜について随筆を書いているとは知らなんだ。「中村彝氏の追憶」がそれである。文中に出てくる田中舘先生というのは明治の地球物理学者田中舘愛橘のことであろう。寅彦は訪れた中村彜の下宿をこんな風に表現している。追憶している寺田寅彦は既に晩年である。
部屋の一体の感じが極めて荒涼ドレアリーであったように記憶する。どうせこういう種類の下宿屋住居で、そうそう愉快な室もないはずであるが、しかし随分思い切ってわびしげな住まいであった。具体的な事は覚えていないが、そんな気持のした事は確かである。
 机と本箱はあった。その外には幾枚かのカンヴァスの枠に張ったのが壁にたてかけてあったのと、それから、何かしら食器類の、それも汚れたのが、そこらにころがっていたかと思うが、それもたしかではない。
貧しさというのは青年が志を遂げるため成長する上で最高の贈り物なのだろう。そんな時代だったのだろう。何もかもが与えられた現代から大正時代をみると、そんな風に感じてしまう。

 中村彜、静物、1915年頃

寺田寅彦はレンブラントが描くような中村彜の自画像に気が付いていたようだ。上の作品はセザンヌが描くような静物画である。中村彜も若かったが、その画家を記した寺田寅彦もまだ若く、日本という国も本当に若かった時代のことだ。

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