2012年2月8日水曜日

国家直営の社会保障は本当に必要なのですか?

北海道限定のワイドショー「のりゆきのトークDE北海道」(UHB)の今日のテーマは「女ひとり・・生活が大変です」で、先週末からずっと休みなく仕事が続いていた疲れを休めながら  — とはいえ今晩も最後の授業があるのだが — 何気なくみている。

子供を二人養育して今はすでに独立している。今は夫が亡くなったあとの遺族年金とわずかなパート収入で生計を立てている。しかし仕事はいずれ辞めなければならない。その後は、最低限の基礎年金しかないのである。不安で仕方がないと話していた。ただその人には父が遺してくれた家がある。同僚はそんな恵まれた状況にはない。気の毒だとも言っていた。

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小生、ずっと前から何度も本ブログに書いていることだが、本当に国家直営の社会保障は必要なのだろうか?つまり、個々の日本人が幸福になるために、社会保障という国の仕掛けが、真に不可欠なのだろうか、ということだ。

小生は、年金保険料を毎月約5万円払っている。それにプラス医療保険料に約2万円(だったかな?ま、その位だ)。加えて介護保険料がいくらだったか、払っている。更に、雇用保険料が(大学が法人化したので)ある。以上は自動車で言えば自賠責に相当する強制保険料だ。任意保険である生命保険料も月々4万円くらい払っている。これに終身の医療保険料も加わる。こんな風に並べてみると、文字通り、我が家計は保険料漬けであることを実感する。しかし、普通の日本人は、まあみんな似たり寄ったりではないのだろうか。

確かに、この世はリスクにみちている。しかし、あらゆる生物にとって、リスクを乗り越える最大の工夫は何だろう。それは<繁殖>である。家族を増やしていくことが<最大の保険>である。これは人類史的事実というより生物史的事実だ。

もし政府強制の保険料がなければどうしたろう。年間で数十万円の年金保険料が浮く。やはり子供をもう一人養育したのではないかと思う — 異動で転居が多かったから大変ではあったろうが。子供は何よりの宝であり、かつ老後の支えである。医療保険も民間のかけ捨て型保険が便利だ。子供達の保険は学童保険。子供の世帯は、年金保険料を負担しない。その分は子供 — つまり小生の孫 — の養育と親への仕送りとなる。子供の世帯は、自分の子供、つまり小生の孫を共同で育てることになる。そうするだけの経済的基盤を持てるだろう。

そもそも日本では家族がこのように相互に扶けあってきた。

過大な年金保険システムを国民に強制すれば、個々人は子供を養育する経済的余裕をその分失うことになり、同時に、自らの老後は年金でまかなわれるという期待が生まれ、結果として子供を養育するモチベーションを喪失する。これを防止するためには、子供の養育を抑えるネガティブな副作用を打ち消すプラスの養育支援策を同時並行的に実施しておく必要があった ― 単に15歳になるまでお金を支給すればいいというものではなく、才能が開花し有為な人材になるまで支援するのでなければ意味がない。ヨーロッパはそれをしている。それでも少子化の傾向は認められるのである。

国家直営の社会保障システムは、日本の家族の助け合いを経済的にも、また社会心理の面でも破壊してきている。小生、いまの日本の社会保障システムは、日本人を幸福にしているどころか、マイナスの価値をすら生み出しているのではないかと考えるようになった。どうも — 原子力政策も全く同じなのだが — 社会保障政策においても、日本の政策体系はバランスが悪く、ある分野を偏重し、結果として不必要な副作用をもたらす傾向があるとみている。

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いまの日本が陥っている閉塞感にみちた社会不安は、一つには十分な社会的理解なくして過大な社会保障システムを、それも老齢年金を偏重する形で、立ち上げてしまった点にある。これはまずデータによる検証すら必要ないほど確実なことだと、小生、見ているのだ。

その意味で、日本の現在の状況は不況とか不景気という言葉で形容するべきではなく、むしろ1980年代に社会主義国が陥ったシステミック・リスクに近い。やれ市場原理主義とか、競争万能主義とか、言葉のゲームを繰り返しながら正当化された既得権益を死守する正義感にばかり執着していると、肝心の経済基盤が、近い将来、瓦解することになるだろう。正義が実は正義ではなかったと知るきっかけは、いつの時代でも、現実である。正邪善悪は、人の心にあるのであり、現実の中にはない。

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