2012年2月18日土曜日

Nation State ― 二つの目線


独紙Die Zeitでも、ギリシアで燃えさかる反財政緊縮デモ、それと他の欧州大国、特にドイツに対する反発感情が高まっている様子を大きく報道し始めている。 ― 日本とは物理的・文化的な距離が違うので当然でもある。中国、韓国の反日感情と類似の感情と見てよいかどうかも要慎重だろう。


写真までここで引用していいか、ちょっと迷うのだが、まあ公開されているものであるし、出所を明示しておけばいいのではないか。そう思って覚書きにしておく。


Bei den Protesten gegen das neue Sparprogramm verbrannten griechische Demonstranten vor einigen Tagen deutsche Fahnen. Seit Ende des Zweiten Weltkriegs haben Bürger in Europa nicht mehr derart öffentlich ihren Hass gegen ein anderes Land auf dem Kontinent gezeigt. Auch wenn es sich nur um eine kleine Gruppe von Demonstranten gehandelt hat: Wie konnte es soweit kommen? (Source: Die Zeit, 16.02.2012 - 18:34 Uhr)

上に引用した本文にもあるように、ごく一部の群衆とはいえ、同じ欧州の国が別の欧州の国の国旗を公然と燃やすという第二次大戦以来の事態が、なぜ起こっているのか、というか起こりえたのだろうか?そういう疑問であります。


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国民感情によって、国民的利害計算によって、国民という集団が行動を起こすことがある。紛争になればそれを戦争という。しかし、紛争を起こしている集団を全て<国家>というわけではない。集団的武闘を繰り広げても、直ちに双方の側を別々の国家とは呼ばない。人は様々な集団への帰属意識を持ちうる。現に日本だって19世紀後半には内戦を引き起こしている。<帰属感>や<愛郷心>という感情の発露を人の行動の動機として、それもかなり強い動機として、無視するわけにはいかない。いまギリシア国民がドイツ国旗を焼いても、ギリシアも、ドイツも自分たちを欧州世界の一員だと考えることには違いがないだろう。複数の国家の連合体には、常に一定の斥力が作用しているものだ。とはいえ、万邦を統べる帝国はそうそう簡単には打ち立てられない。国家は興亡生滅するが、帝国は国家を超えて永遠の存在である。いまの欧州は決してそんな帝国ではない。ギリシヤは既にユーロ離脱、EU離脱という軌道をたどり始めているのかもしれない ― そうでないかもしれない。今のデータでは識別できないということだ。


ダニ・ロドリック氏がプロジェクト・シンジケートに寄稿している"The Nation State Reborn"は、交通通信技術が高度に発達したグローバル世界においても、国境が意味をなさなくなったと言われる現代においてもなお、国民国家という存在は強固であり、国際機関はむしろ脇役であることを述べている。特に次の下りは経済学者というプロ集団にとって、非常に考えさせられる指摘だと思う。

But who will provide the market’s rules and regulations, if not nation-states?Laissez-faire is a recipe for more financial crises and greater political backlash. Moreover, it would require entrusting economic policy to international technocrats, insulated as they are from the push and pull of politics – a stance that severely circumscribes democracy and political accountability. 
In short, laissez-faire and international technocracy does not provide a plausible alternative to the nation-state. Indeed, the erosion of the nation-state ultimately does little good for global markets as long as we lack viable mechanisms of global governance.

いかにマクロ経済政策が専門的技術の領域だといっても、政治がソーシャル・エンジニアに従う状態というのは、もはや民主主義とは言えないのではないか?そういう問いかけである。であれば、グローバル経済を責任をもって管理する主体は、何等かの世界政府しかないわけだが、それはまだ存在しない。

But today’s challenges cannot be met by institutions that do not (yet) exist. For now, people still must turn for solutions to their national governments, which remain the best hope for collective action. The nation-state may be a relic bequeathed to us by the French Revolution, but it is all that we have.

Nation State (国民国家)という観念はフランス革命が人々に遺した聖なる価値なのかもしれないが 、いま私たちにあるのはNation Stateしかない。国民国家がいまのグローバル経済に立ち向かい、問題を解決していくしかないということを言っている。


実際、自らが帰属する集団として、自分を<世界市民>と考える人よりは<国民>と認識する人の方が多い。これは当たり前かもしれないが、(自分が暮らす)地域社会を第一に上げる人よりも、<国家>に帰属すると考える人が多いという事実も確認されているのだ。これはアメリカでも欧州でも中国でもインドでもそうだ。

A few years ago, the World Values Survey questioned respondents in scores of countries about their attachments to their local communities, their nations, and to the world at large. Not surprisingly, those who viewed themselves as national citizens greatly outnumbered those who regarded themselves as world citizens. But, strikingly, national identity overshadowed even local identity in the United States, Europe, India, China, and most other regions.

× × ×

ロドリック氏の意見は、小生、相当説得力があると思うのだ。ただどうなのだろうなあ?国家は<国益>を追求するのではないか。それを認めておいて、世界政府が存在してはいないのは事実だから、国民国家が意思決定をするしかないではないか。そんな結論になるのだろうか?

個人は自由に幸福を追求する権利をもつ。その幸福が利益から形成されるなら自己利益を追求してよい。その時に ― その時でも、かつその時にこそ ― 社会全体の生み出す価値は最大化される。最大多数の人が最も幸福になれる機会を得る。この結論を<定理>として証明するため、現代経済学は発展してきたと言ってもよい。ここには行動の正・不正は、それがもたらす帰結が多くの人の幸福を増進するかどうかで決めるべきだという功利主義の哲学がある。ロドリック氏の考察も、同じではないか。個々の国民国家は、それぞれが最善と思うように国益を求めてもよいだろうし、その権利を認めるべきだ。その結果として、世界が全体として進歩していくなら、いま国民国家が為そうとしている行動は、それ自体正しいことなのだ。ま、正邪善悪をそれがもたらす帰結から決定しようというアングロ・サクソン流の功利主義の香りがどことなくするのである。


しかし、このような考え方は当の欧州議会と官僚達の理念とかなり違いがある。それは本ブログに以前投稿した「欧州官僚の観点 ― 一つの典型」からも窺うことができるように感じる。


欧州内の国家間で紛争があったとき、その紛争が良いか悪いか、正しいか誤りか、その紛争が有意義なものか、意味のないものか、その判断は、それがもたらす帰結に基づいて下すべきであろう。絶対善や絶対悪というのはこの世にないのだ。それが一つ。国家間の紛争が起きるのは欧州議会の調停機能が不十分のためである。地域内の安寧と秩序を守らなければならない。暴力を用いた解決は決して良い結果をもたらさない。それが一つ。やはりここには最も古い議論「経験主義対直観主義」が隠れ味としてきいている。そう思うのです、な。直観主義、すなわち理性主義にくくっておくとしよう。Nation State(国民国家)をみる二つの目線は交わることがない。

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