2012年3月30日金曜日

原発抜きの電力安定供給は電力会社の責任なのか!?

また地元の新聞である道新から話題が提供された。本日の社説である。「誠実さを欠く北電の姿勢」。ウンウン、確かに独占企業だから、不誠実な民間企業だとしても仕方のない面はあるよな、と。
現時点では再稼働の是非を論じることはできない。
東日本大震災後、道内でも節電意識が芽生え、昨年4月から今年1月までの電力販売量は前年水準を1.6%下回った。
一層の節電と省エネを進めるには、北本連携を通じた融通分や自家発電の電力購入なども含めた信頼できる需給見通しが欠かせない。
北電は需給関係を公開し、道民の協力を得て原発なしの夏を乗り切る方策を練るべきだ。
言おうとしていることは十分理解できる。しかし、道内のエネルギー政策を練る責任を負っているのは利益を追求する電力会社ではなく、北海道庁と各市町村である。北本連携を通じた電力取引の見通しや電力全体の生産・販売を展望する責務は中央の資源エネルギー庁にあると考えるべきだ。電力会社が<公正な>エネルギー需給見通しを策定するなど、そもそも会社の側に動機がない。小生が取締役であるとしても、策定するのは北電の経営上の観点から最も望ましい計画になるであろう — もちろん社会的に許容される範囲内であるが。そうしようとしない取締役は、その会社にとって、無能である。

政府と道庁が、原発再稼働を基本ラインにして、その方針に沿ったエネルギー政策を進めることに反発して、せめて北海道では北電が原発抜きの電力供給が見通せるのか、その見通しを<道民>の協力を得てやるべきだ。そんな意味が込められた主張であるとすれば、小生、率直に言って、この社説の筆者は頭に血が上ってしまっているのじゃあないか、と。政治・行政・経済が一つ鍋の中で混じっているのが私たちの社会だが、考える時は個別の食材を分けて扱わないと — きたない表現で申し訳ないが — ミソもクソも一緒に話しだしたら話しは落ちるでしょう。そう思うのですな。

新エネルギー計画は国家戦略である。この夏の、あるいはこの冬の節電計画は、<国民生活の安定>という行政そのものである。行政そのものの弱体化を、民間企業の心意気で穴埋めすることは、企業の行動原理を考慮すれば、そもそもないものねだりである。ここは政府と各自治体にハッパをかけるべき局面である。不十分な行政機構があるとすれば、その点を問題提起するべきである。個別の民間企業に、法に定めてもいない<夢>のような社会的責任を負わせても、不信と抑圧の悪循環に陥るだけである。

× × ×

ただこの数日来の東電資本注入決定(とここでは書いておく)に至るまでの報道をみていて、つくづく思うのだ。<民間>であることを理由に給与や利益は独立して決定できる<権利>がある。その民間に<官僚>が退職後、あるいはキャリア途中で移動する。移動した後の元官僚はあくまでも民間人として行動する。行動できる権利があるからだ、と。

もしも<公的企業>というマネジメント・システムがなければ何の問題もないはずなのだがなあ、と。そう思ったりもするのですね。<産業育成+公的企業+職業公務員→経済発展>という成長モデルが、資本主義経済の中で色々な<異形の組織>を生み出してきた。その成長モデルが問われるようになってきた。問われている中で、東電が国有化されるのは、コウモリが鳥か獣かいずれかを選ぶのと似て、まあ来るべき時がきたという印象もある。

日本国の従来モデルを是とするのであれば、これであるべき姿になったのかもしれないねえ。そうも思うのだ、な。もともとお上の規制下にあった異形の企業が、名実ともにお上の一部局になるのだから。もちろんこれによって給与は減るだろうが、仕方がない。民間企業として経営ミスをしたのだから。実家に送り返されるようなものだ。ま、議論はあろうが、これはこれで、小生、すごく納得できるのである。逆に、従来モデルを否とするなら、ポスト国有化の展望がなければなるまい。やはりそれは独占否定の企業分割になるのだろう。競争市場への信頼だな。それ以外には選択可能なモデルがないのではないか。東電国有化決定をみて思うのは、これが結論ではなく、これは<選択の延期>であるということだ。それは日本国のビジネスモデルを選び直すということにもなるだろう。その中で、公務員制度改革問題は自然と収束していくことであろう。

2012年3月29日木曜日

大学秋入学制 — 大学経営と教育のあり方を区別するべきではないのか

本日は本ブログ再開後、300本目の投稿になる。記念する程のことでもあるまいが、少し長めの文章でまとめておきたい。2本分くらいというところか。

話題というのは大学についてだ。
東大が提案した大学秋入学制をめぐって議論が進んでいる。

今日の日経3面および46面には、日本私立大学連盟が加盟123校に実施したアンケートの結果が報じられている。それによると、回答した82校のうち67校が秋入学移行の是非を検討中か検討予定であるとのことだ。ただ移行の賛否は、いまのところ7割が「どちらとも言えない」と答えている。

46面の詳細解説によれば、移行賛成派は学生数1万人以上の大規模校で過半を占める。所在地としては首都圏、近畿圏の大学が主である。その理由は国際化であり、外国人留学生を受け入れやすくなる点を評価している、とのこと。一方、中小規模、地方に所在する大学では秋入学移行には慎重な姿勢が目立つという。

思うに、この結果は当然予想されるものである。

× × ×

大学の生き残り戦略としては、まずは<定員充足>が不可欠である。でなければ授業料をあげるか、人件費などのコストをカットしなければならない。授業料をあげるには顧客評価をあげるしかない。簡単に顧客評価を上げられるなら、とっくにやっているだろう。国内の顧客が先細りなのであれば、海外から受け入れるのが有望であるとは子供だって分かる。そのためには、先方の立場にとって利便性の向上をはかるべきである、という方向になる。

これまでは日本国内の若年層をターゲットとする一方、社会人教育にも教育サービスを拡大して来たが、やはりビジネスマン市場には限界がある。というのは、大学院教育が主軸になるが、どうしても少人数教育を求められる。授業によっては複数教員が担当することになる。課題の出題・添削もする。ここまで徹底的にスキルアップ教育をするのであれば授業料は、少なくとも年間200万円超になるのが国際相場だ。しかし、いかにハイレベル・少人数教育とはいえ、顧客であるビジネスマンの所得環境が悪すぎる。費用負担者として企業も考えられる。推薦による派遣が行われているのも事実だ。しかし、戦略的人材育成メソッドを支える柱に<大学>を考える習慣は(歴史的に)日本にはなかった。派遣はキャリアパスにおける一種のシグナリングとして機能しているだけである。内容に対する顧客評価の裏付けがあるとは、一寸、思えないのだな。それゆえ、社会人教育コストをカバーするだけの高額授業料が日本では成立困難である。それが10年僅々という僅かな経験ではあるが、小生のビジネススクール教員体験に基づく印象である。

日本の大学は、社会人教育から利益を稼ぐことはできない。プロフィットセンターとは真逆のコストセンターになっている。よく言えば、せいぜいのところ、その大学の看板であるに過ぎない。

それ故に、海外顧客に<大学生き残り戦略>を構築するのは、至極当然のロジックである。

× × ×

しかし、どうなのだろう。初等中等教育を現在のままにして、大学を海外に開放して、(おそらく)授業も英語を主たる使用言語にして展開する。そうすれば日本の大学経営事情は改善される可能性が高まる。が、その一方で、現状の小中学校、高等学校から大学に入学した日本人学生にとって<教育の効率性>は上がることになるのだろうか?

英語によるコミュニケーション能力は上昇するだろう。しかし英語は言語でしかない。英語で何を語るかがキーポイントではないのか。英語力のアップ自体に関心があるならば、外国語教育の分量と品質を上げればよいのである。そもそも — 仮に数学や統計学担当の教員に英語で授業を展開するスキルに全く不安がないにしても — 数学や統計学を日本語でなく、英語で勉強する方が<教育の効率性>が上がるという推論はありうるのだろうか?小生の印象では、そんな推論はこれまでの経験では、100%ありえないのだ、な。

大体、「十分条件であることを確かめましょうか」というところを、"sufficiency"を確かめましょうか、更に"... then the next problem is to prove the sufficiency of these conditions"と述べれば、日本国内の大学教育は実質的にレベルアップすることになるのだろうか?この種の問いかけは無数に出てくるだろう。

言語はコミュニケーションのためのツールである。ツールは目的に合わせて選択すれば良い。何を理解し、身につけようとしているかに応じて、最も便利な言語を使うのが効率的である。国際学会に参加するためのインフラは英語でコミュニケートできる能力である。英語が有用なツールとなる。他方、現状の初等中等教育を前提とする限り、大学の学部教育の場では日本語が有用なコミュニケーションツールであると(小生は)感じている。

× × ×

学部教育を、これまでどおり日本語による授業を中心に展開し続けるというのであれば、たとえ秋入学に移行したとしても、海外から日本の大学に入学する学生が大きく増加し、先細りの国内市場を埋め合わせてくれるだろうか?小生は、悲観的である。むしろ、外国から来てくれるのを待つより、海外に進出する方がまだ海外の大学進学者にとっては便利であろう。しかし、それでも海外事業がその大学のプロフィットセンターになるかといえば、海外での顧客価値をどこまで上げられるか、どれだけ高い授業料を学生に支払ってもらえるかという<顧客評価>に帰着する。

秋入学、英語授業制等々、日本の大学では灰カグラが立つように、新規なボキャブラリーが次々にバブルのように誕生しているが、帰するところは顧客評価である。大学の社会的使命は<学問の府>、<真理の追究>にあると<大学人>は口にするが、そんなことは大多数の人は無関心なのではないか?大半の顧客(=入学者)が大学に対して求めている願いは、ズバリ、<生涯収入の上昇>である。国際労働市場でより高い収入が約束されるようなスキルとマインドを身につけたいと思って大学に入学する。そう推定するべきではないのか。であれば、それに応えられる教育体制を組むべきであろう。海外進出を選んでもよいし、海外大学とのジョイント体制を構築してもよい。授業料メニューにもオプションを導入すればよいのである。日本の大学が何をするか、それは内外の需要と供給で自然に決まってくることだ。いつ入学するか、それは枝葉末節ではないだろうか?

× × ×

秋以降云々も大事な論点であるが、日本の大学は<こうでありたい>論ではなく、改めて<顧客志向>の観点に徹底するべきだと(小生の目には)思われるのだ、な。そうでなければ、今回の秋入学制移行は、単に国立大学、いやいや国立大学の中でもエスタブリッシュメント層を形成している<旧七帝大>の単なる生き残り戦術、それだけの話しになってしまうだろう。

絶対にそんなことはないと思うが、万が一、上に述べたことが秋入学制移行提案に秘められた目的であるとすれば、東大の議論の仕方も、随分、不誠実であろうと感じる。ま、間違っているでしょうけどね。

しかしながら、こうした<将を射んと欲して馬を射る>というべきか、<敵は本能寺にあり>というべきか、本音を隠して<我田引水>を意図する戦術は、日本国においては比較的採用頻度が多いように感じるのだがどうであろう?単なる印象だろうか。であれば、この<大義名分+利益拡大の一石二鳥戦術>こそが、義と和を重んじる日本国においては、最も有効な戦い方なのかもしれないなあ、と。最近は、小生、そう考えたりすることが増えているのである。

2012年3月27日火曜日

福島第1、社会保障、統治機構 ― 三つの亀裂

今朝の北海道新聞を読んでいると、色々と一面を飾っている文字が目に飛び込んでくる。

「介護保険料上げ8割」。道内65歳以上で平均4千円を超す。これは65歳以上の人が負担する介護保険料(基準額)の新年度改定によって、運営市町村の約8割が保険料を引き上げることが分かったというもの。高齢者の自己負担は限界に近づいているとの報道だ。自己負担が限界なら、税を投入するしかないでしょう ― 公債の新規販売でこれ以上の支出はまかなえないと前提するなら。

その下には「福島第一原発2号機容器水位60センチ」。これは内視鏡検査によって想定で3メートルあるはずの水位が60センチしかないことが判明したというもので、東電は汚染水が建屋外に漏れているとみているということだ。しかしながら、これを解決するのは建屋に接近することすら困難な現在、ほぼ不可能なことだろう ― だからこそ内視鏡で確認したのだから。汚染水漏出は<放置>するしかないというのが現実なのだろう。だとすれば、その行く末はどう予測されているのか?近隣の住民はどのように対応していくのが賢明であるのか?専門的情報と知識を有している人はそれを語るべきであろうし、第一に政府がその点に触れるべきであろうと思う。

最も望まれている事柄に答えられないでいるというのは、事実上、いまの日本国の統治機能は決定的な損傷を被っている。その証だ。こう解するしかないのではないか。日本の立法府は<ネジレ現象>の下で、各政党が相互不信の罠に陥っており、政治活動らしい活動はストップしている状態だ。行政府は、また戦後官僚システムのうえに官僚排除を唱えて政権についた民主党が着座していて、たとえて言えば「木に竹を継いだ」状態だ。北海道という遠方から見ていても、まともに機能しているとは、到底、見られないのだ、な。

暗い気持ちになって1面をめくり、2面をみる。

「北電、送電網増強7千億円必要 ‐ 再生エネ受け入れで試算」。これは2011年度に接続申請があった風力発電と大規模太陽光発電所(メガソーラー)をすべて受け入れようとすれば、送電網増強に2千億円、天候によって不安定化する電力供給を本州に回電するための北本連系線を60万キロワットから240万キロワットに拡充するために5千億円、合計で7千億円のコストがかかるという試算を公表したものだ。そのコストをすべて(電力料金を通じて)道民に負担させるのは理にかなわない。なぜなら北海道内の電力需給という観点からいえば、それほど大規模な再エネ電源は必要ではないからだ。増加する電力供給は、東北電力経由で、首都圏を顧客として電力取引の場を設けない限り、むしろ道内電力需給の不安定化要因になる。それゆえ、送電網拡充コストの一定部分は顧客、ないしは国が補助金によって負担するべきであろうという趣旨の ― 北電はそう言いたいのであろう ― 記事である。

しかし細かな話しになるが、北電がインフラ建設コストを負担するのであれば、そうしてできる電力を道内需要者も消費する訳であるし、道外需要者もそうだ。北海道が<電力余剰地域>として、常時、電力を道外に販売すれば、そのプロセスの中で道外顧客が道内インフラ建設コストを負担する結果になるはずだ。コストを事後的に負担するのは顧客である。これが理屈だ。もちろん、北海道内のエネルギー政策として、ラディカルな再エネ拡大が<道民>にとって最適かどうか?これはまた別の論点だ。ま、いずれにせよ、食糧基地のみならず、エネルギー・ベースキャンプとしての役割も北海道に求めるのであれば、これは<国家戦略>である。であれば、今夏に大枠が明らかになってくるはずの新エネルギー計画を含め、新たな国土利用計画、経済発展総合計画でも記述するべき事柄のはずだ。

ところが、そうした国家戦略策定の場は政府内にはない。否、ないというと誤りになろう。まるで第一次世界大戦後に中欧の大国ハプスブルグ帝国が崩壊し、残骸国家とも思われるオーストリアが残ったように現・内閣府の中に旧・経企庁が所管していた計画業務担当の統括官が現にいる。しかし、みな知っているのだろうか?いまでもそんな総合計画策定の仕事を続けていることを。総理大臣すら知っているかどうか怪しいものだ。民主党国会議員に至っては、誰一人意識してもいないのではないだろうか?

これをみても、日本の行政府は<亀裂の入ったピラミッド>であると、文字通り断言できる気がするのだ。

2012年3月26日月曜日

忠義の士が国をつぶす

雪の博士というか、随筆家として知られている中谷宇吉郎であったと思うが「雪国の春のすばらしいことは、そこで暮らしている人にしか分からない」という意味の下りがある。

今日は大学からのんびりと町の方へ歩いていった。海は、春らしく明るく青く光り、その彼方には白銀色の増毛連山が輝いている。風は冷たいが、大分、暖かくなり日の射した雪がとけて流れている。北国の早春である。美しい。

駅前の書店に入る。ぶらぶらと書棚を見て回る。おっ、これはまだ買ってなかったなというのが江藤惇・松浦玲「海舟語録」(講談社学術文庫)。パラパラ頁をめくると、こんなことが書いている。
何でも、己が為そう、なそう(原文:繰り返しの〱)といふのが、善くない。誰がしてもいゝ。国家といふものが善くなればいい。第一、その目途が違ふのだもの。
田舎の者等から、どうなりませう、どうなりませう(原文:繰り返しの〱)と聞くから、『ナニ、心配はない、西洋人が来れば、それにお前方は食はして貰ふのだ。横浜でも、二十人も来れば、それで、あンなに大勢が食ってるぢやアないか』と言ふと、みンな嫌がるよ。
うちの男でも、女でも、みなそれぞれ役があって、それに慣れて居るのに、急に主人が代わって、何でも主人がするといふことは出来まいではないか。今の政治家は、それをしようといふのだ。(注:257ページから引用)
この節のタイトルは「忠義の士が国をつぶす」である。

大学も昨今の流行で構造改革ばかりが議題にあがる。若い衆は<危機感>に燃えているようだ。しかし小生は、元々へそ曲がりであるし、「やるべきこと」が見つかってやれ嬉しやと、それに狂じるなどは、趣味に合わぬ。それ故、国のお覚えが悪しくなり「お取り潰し」になるのであれば、それもまた一興なり。蘭学が無用になれば蘭学者は静かに世間から退場すればよいのであると、悟りすましている。嫌な男だねえ・・・と、我ながら実感する。というか真面目な話し、小生は職人である。生涯をかけて磨いてきた技量がいまの世で無用だと言われるのであれば、それは仕方がない、もはややるべきことはなし、後は自分で生きていくしかないと、その位は達観しているつもりなのである。

2012年3月25日日曜日

日曜日の話し(3/25)

よく「夢のような暮らし」とか、「これが夢でないことを願う」という言い回しがある。よほどヒト様は、夢の中では願いがかなって幸福であるのかなあ、と思ってしまう。小生は、夢の中では概ね不幸である。母も淋しさと諦めにみちた表情をしている。父も悲しそうな顔をしている。妹とは言葉をかわすこともない。目が覚めると、ああ夢であったのかと知って、むしろ安心をする。現実は、夢ほど不幸ではない。夢のように悲しくもなく、淋しくもない。夢の中で不幸を十分経験している、そんな夢を数多く見るのだ。

それは、現在、小生が十分幸福であるという理屈になるのか?分からない。

× × ×

東日本大震災では、結局、約2万人の方が亡くなった。犠牲者数は巨大だ。しかし、太平洋戦争中の「大日本帝国」の犠牲者は、戦闘員が174万人、民間人が39万人、合計で約210万人と言われている。太平洋戦争に限定せず、第2次世界大戦全体でとなると、諸説あるものの、枢軸国側が軍民合計で1200万人、連合国側が軍民合計で約5000万人とされている。連合国の犠牲者数が多いのは、ソ連国内の犠牲者が膨大であったためだ。とにかく戦争の災禍というのは、想像を絶する規模である。

悪夢を時々見ることがある。家族と一緒に、何かガレキというか、家が全て倒壊した中を、家族を連れて住むところを探しながら放浪しているのだ。とある古い建物に入る。二階に上がり周囲を眺める。夜になると、どうしてだか水が出るので、なぜか残っているステンレスか何かでできた浴槽に水を張ろうとしたら、ゴキブリのような虫が一面這いずりまわっているのだ。で、意識が覚醒して夢だと知る。現実は昨日のままだと知って安堵する。そんなことがある。

太平洋戦争の犠牲者2百万人は、巨大であるが約1億人の日本人に対して2%程度だ。しかし、小生、いずれは総人口の半分が死に絶える。いや、生き残る人は、せいぜい3分の1程度であるような、そんな神による過酷な懲罰とも形容されるであろうような大災害も、いつかは起こりうるものと考えている。というか、これに類したことは実際に起こったことである。

× × ×

それは14世紀のヨーロッパで発生した<ペスト流行>である。最近は16世紀の話しを続けていたが、14世紀はもっと以前だ。日本では鎌倉幕府が滅亡する頃である。13世紀にジンギスカンのモンゴル帝国が誕生して、カスピ海以東のユーラシア大陸全体がほぼ統一されてしまった。モンゴル帝国の通貨が国際通貨となり、それが契機となって商業の大発展が見られたが、それによってペスト菌という病原菌も広く移動できることになった。Wikipediaによると、ペスト菌のヨーロッパ上陸年まで具体的に分かっているようだ。このペスト禍が過ぎ去ったあと、ヨーロッパの当時の人口は大体半分になっていたということだ。3分の1にまで減っていたという説もあるようだ。2000万人ないし3000万人がペストで病死したことになる。1348年の第一次流行から14世紀末に至るまでのことだ。これまた第2次世界大戦程の絶対数ではないが、総人口に対する割合で測れば、14世紀のペスト禍のほうが遥かに大規模であった。

労働人口がこれだけ減少すると、賃金が高騰して余剰生産物が残らないため封建領主の農業経営は困難となり、それが農奴と地代に依存した騎士階層の没落を早めた。特に小規模騎士階級は、経済基盤を失い、結果として大貴族への富の集中が進んだわけだ。英国では、農業から牧畜への産業構造シフトも進行した。人口構造の大変動は、必ず経済構造を根本的に変え、ひいては価値観、文化のあり方までをも変えてしまう程のパワーを持っているわけだが、14世紀欧州においては、その原因はペストという病原菌であった。

× × ×

14世紀という時期は、イタリア・ルネサンスの特徴が現れ始めているとはいえ、なお萌芽期であり、文化史上の大きな潮流はゴシック文化であった。<ゴシック>というのは、盛期ルネサンス時代のイタリア文化人が半ば軽侮の念をこめて使い始めた蔑称であるが、現在ではネガティブな意味合いはなく、むしろロマンチックな響きと感性を帯びた言葉になっている。

ピエトロ・ロレンツェティは、当時のシエナ派に属するイタリアの画家である。下はアッシジのサン・フランチェスコ教会下堂に描かれているフレスコ画『最後の晩餐』である。ロレンツェッティの代表作とされている。


Lorenzetti , The Last Supper, 1320
Source: Web Gallery of Art

ピエトロ・ロレンツェッティの弟アンブロージョ・ロレンツェッティもまた歴史に名を残す美術家である。その兄弟二人とも1348年に死亡している。前年にシチリア島に上陸したペストがイタリア本土で流行し、それに二人とも感染して亡くなったことが容易に想像できる。

2012年3月23日金曜日

コンドラチェフの超長期循環?日本は例外であってほしい

英紙TelegraphにJeremy Warner氏による興味深いコラム記事が載っている。コンドラチェフ循環に沿って考えれば、これから何年もの間、下降局面が続く可能性があるという。コンドラチェエフ循環というのは、周期が50~60年に及ぶ超長期循環として知られている。
Subsequent students of Kondratieff cycles have placed the end of this third cycle during or shortly after the Second World War, which seems logical enough, and have identified a further two cycles thereafter, with the fifth upswing beginning in the 1980s and ending with the current crisis. On past durations, we are now in a downswing phase lasting anything between ten and forty one years. Dating the beginning of the crisis from 2008, that's between five and thirty six years to go (See table below).(Source: The Telegraph, Friday 23 March 2012)



上の表から分かるように、直近の上昇局面は1980年代半ばに始まり、その終焉がリーマン危機である。コンドラチェフの超長期循環の背後にあるのは、技術革新であると言われている。例えば1940年代に始まった上昇局面を主導したのは、何と言っても自動車産業だ。オートモーバイル革命が戦後の世界景気、経済発展をずっと支え続けてきた、というと余りに印象的・象徴的に過ぎるだろうか。その伝で言うと、直近の好景気は、言うまでもなく、インターネット革命であったことに異論は少ないはずだ。"ICT"ととも俗称されるようにネットワークとコミュニケーションが主導した第何次かの産業革命であったわけだ。

しかし、待てよっと・・・・上の表に基づいて予想すると、リーマン危機後の長期停滞はこれから多分20年とか30年程度は続く計算になる。日本は、そもそも1980年代半ば以降、というか日本のバブル崩壊以降に本格化したIT革命、それによる世界景気の長期上昇局面に同調せずじまいであった。それが、「これからIT革命一巡に伴って20年~30年の長期停滞局面に移りますから」と言われてしまっては、われわれ日本人としては<失われた20年>は一体何であったのですかと、血涙ともに下る愁嘆場と化そう。いやいや、日本経済に対しては上のコンドラチェフ超長期循環は当てはまらないはずである、というかそう思いたい。

実際、こんな点にもワ氏は言及している。
Well maybe, but research by Andrey Korotayev and Sergey Tsirel published by the University of California on its eScholarship website suggests that there is indeed some correlation between the long K-cycle and world GDP. 
However, somewhat confusingly, their analysis suggests two interpretations of the current global economic crisis. One is that it doesn't mark the start of the fifth Kondratieff downswing at all, but can be interpreted as a temporary depression between two peaks on the upswing, where the second peak may even exceed the first. On this interpretation, the big meltdown doesn't begin until 2018-2020 (memo to self: liquidate all positions by 2020).
2020年前後までは長期上昇局面だというわけだ。しかし、最後には以下の指摘を行なっている。
However, there is also quite a bit of evidence to suggest that the current financial crisis does indeed mark the start of the downswing. Given that this is not a normal recession, but a downturn caused by an all-embracing banking crisis, 2008-2010 seems the more likely inflection point. It also correlates quite closely with the separate "40 year rule", an old piece of Wall Street folklore which has it that really serious banking crises only happen once every forty years because this is how long it takes for all institutional recollection of the last one completely to die out, allowing the new generation of banking hotheads to let rip once more.
金融市場の<40年ルール>だ、な。要するに、大恐慌から40年経った頃に一度変調になり ― ベトナム戦争泥沼化と米政府による大砲もバターもという偉大な国家政策でついには石油危機につながった時代だ ― さらに40年経った頃にリーマン危機がやってきた。しばらくは<あつものに懲りてナマスをふく>という状態が続くだろうという格言だ。

これは寺田寅彦の天災観と合い通じる見方でもある。例えば『津波と人間』では、
災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
 鉄砲の音に驚いて逃げていた鳥がまた集まってくる現象にたとえている。いまは、まあ、まだ怖くてリスクに挑戦できない状態であるわけだ。状態が遷移するには、はっきりと覚えている人が大体は死んでしまう時間が必要ということだ。それが20年とか30年になる。

どうも日本経済にとっては暗い話になる。みんなが好景気を謳歌して、思いっきり盛り上がっていた頃、日本にもやりようによってはチャンスがあったのに、智慧が足らなくて波に乗れず、そしていま波自体が引き潮になってきた・・・もしそうなら、天は我らを見放したか、と。『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)の世界になる。

まあ、コンドラチェエフ循環自体は、統計分析的に本当に確認されている景気循環とは(まだ)いえない。それでも何となく心配で心がざわついてくるようなコラム記事ではないか。

2012年3月22日木曜日

欧州 — この複眼的・戦略的思考には驚く

ヨーロッパ全体で<経済成長第一>の考え方が急速に台頭しているようだ。
Überall in Europa heißt es derzeit, die EU müsse mehr Wachstum „schaffen“. Der französische Präsidentschaftskandidat François Hollande fordert Wachstumsimpulse für Europa, um sich gegen den Fiskalpakt in Stellung zu bringen. Der Chef der Eurogruppe bedauert, dass Griechenland bislang nur zum Sparen gezwungen worden sei und zu wenig „Wachstumsperspektiven“ eröffnet bekommen habe. Andere fordern einen „Marshallplan“ für Athen. Auf zwei EU-Gipfeln sind „Wege zu wachstumsfreundlicher Konsolidierung und beschäftigungsfreundlichem Wachstum“ beschworen worden. (Source: FAZ, 22.03.2012)
ただただ財政緊縮、節約、債務返済だけでは、生産全体が低下するだけであり、結果として債務返済すらも不可能になるのは分かりきったことだ。ケインズが創始したマクロ経済学は、このような経済状況で間違った政策を選択しないために誕生したと言ってもよいくらいだ。
Viele der aktuellen wachstumspolitischen Vorschläge haben mit „Europa 2020“ die Vorstellung gemeinsam, dass sich das Wachstum vor allem mit Geld vom Staat fördern lasse. Diese Vorschläge zielen nicht auf kurzfristige Konjunkturförderung, sondern auf langfristig wirkende staatliche „Investitionen“ ins Wachstum, etwa auf höhere Ausgaben für Forschung und Entwicklung, auf staatliche Infrastrukturprojekte, auf den Ausbau der europäischen Projektfinanzierung, etwa durch die von Barroso propagierten „Projektbonds“.
"Europe 2020"というのは、欧州が今後10年を対象期間として策定している<成長戦略>である。 まずは国家財政が成長を支えるという考え方がそこには出てきている。国家の存在意義は国民経済の成長を実現することにあるという基本認識だな — 日本では何かというとhow-toにばかり関心が向かい、理念は単なるお経と軽く見る傾向があると思うが、しかし基本認識が脆弱だと、わずかな状況変化ですぐに行動方針がぶれるものである。行動方針がすぐにぶれるのは戦略不在だからであり、戦略がなければ戦略的勝利もなく、得られる成果はチャンスをものにするチマチマとした得点だけである。この辺り、まず基本認識の足固めを盤石にしておこうとする欧州の思考スタイル。まことに羨ましく存じる次第なのである。

短期の景気刺激だけではなく、まずは教育・研究への支出拡大 ― 個々人の能力開発に国のカネを使うことは、個々人の所得能力を高めることで、どこで働くにしても生きていけるようにするわけだから、結果としてカネが生きる最大の道になる。更には、社会的インフラの建設のために公債で財源を調達できる新しい仕組みを整えることを欧州委員会のバローゾ委員長が提唱している。社会的インフラを新たな観点から充実させることは、ニュービジネスを域内に呼び込むための必要条件であるという認識だ。

ギリシアの全面的破綻は何とか避けられているものの欧州の先行きは依然として展望が開けない。しかしながら、欧州は限られた資金で経済を底上げしていこうと考えている。節約、緊縮一点張りではない。<複眼的思考>がそこにはある。考えている。知性的である。ただひたすら「どうしたらしのげるのか?」、「どうしたら助かるのか?」、そんな風に<やり方>ばかりを気にする日本のhow-to思考とはレベルが違う。

ここまで中枢機能のレベルが違うとなると、今後20年間で日本と欧米のパフォーマンスには又々大きな差ができて、気がつくと日本の生活水準は一人当たりGDPはおろか、GDP合計で見ても世界のトップ20から消え去るのではないかなあ、と。

中枢機能のレベル差・・・これはどうみても日本と欧米の教育理念の違い、教育システムの違い、教育予算の違いとしか思えない。

日本政府の責任で、毎年300人程度の10〜12歳児童を精選して選び、欧米の複数の国をまたいで、各国の超一流・全寮制教育機関に送り、以後その国に留まらせて徹底したエリート教育を受けさせるべきではないか。それが現状では効果的ではないか。東大の秋入学制度移行を待つユトリなどもうないのではないか、と。もちろん派遣した児童の半数程度は祖国・日本には戻らないだろう。しかし、日本出身の有為の若者が日本の外で活躍することは日本の国益にかなう。たとえ若者が日本に戻らずとも才能ある若者の教育に国費を投入することには十分意味があるだろう。

2012年3月20日火曜日

Next Financial Crisis - China?

金融市場の自由化とバブル生成・崩壊が軌を一にして進行しがちなことはよく言われることである。その伝で言えば、次の金融危機は中国発になるだろう。Financial TImesの最近のコラム記事の趣旨である。コピー管理が厳格な新聞なので、元記事へのリンクをここに作って、あとはポイントだけを紹介しておこう。
The next big global financial crisis will emanate from China. That is not a firm prediction. But few countries have avoided crises after financial liberalisation and global integration. Think of the US in the 1930s, Japan and Sweden in the early 1990s, Mexico and South Korea in the later 1990s and the US, UK and much of the eurozone now. Financial crises afflict every kind of country. As Carmen Reinhart of the Peterson Institute for International Economics and Kenneth Rogoff of Harvard have remarked, they are “an equal opportunity menace”. Would China be different? Only if Chinese policymakers retain their caution.
...
Happily, arguments for domestic reform are powerful. Dynamic financial markets are an essential element in any economy that wishes both to sustain growth and to begin rivalling rich countries in productivity, as China surely aspires to do. More immediately, as Nicholas Lardy of the Peterson Institute for International Economics notes in a recent study: “Negative real deposit rates impose a high implicit tax on households, which are large net depositors in the banking system, and lead to excessive investment in residential housing. Negative real lending rates subsidise investment in capital-intensive industries, thus undermining the goal of restructuring the economy in favour of light industries and services.”*  (Source: February 28, 2012 7:42 pm)
金融市場は、一国の経済全体が健全に発展できるかどうかの鍵を握る最重要な戦略的部門である。自信がないなら開放して海外の優秀な金融機関に参入してもらうのが最良である — 中国政府にそんな意志は毛頭ないようであるが。そして、マクロ経済の健全な発展は正常な価格メカニズムが働くことによって、というより、正常な価格メカニズムのみによって、実現されるものである。この点も忘れるべきではない。

価格機能は、政府の規制によって歪められるか、自然に機能するかによらず、必ず社会の中で作用する。価格メカニズムから逃避できる社会は、歴史を通じてこれまで一つもなかったし、これからもありえない。金融政策が価格を想定もしていない、思わぬ方向へ歪ませて、その結果として想定外のマクロ経済的帰結を招いてしまうという指摘は、中国ばかりでなく、日本経済にも当てはまる — 過去も現在も含めて。バブルの主因は、ロジカルに考えれば、想定外の水面下に隠れているはずであり、だからこそ当初はバブルであるとは気がつかず、気がついたときにはそのバブルは修正され、崩壊して、ノーマルな状態に復帰する。これが何度も反復されているメカニズムだ。

経済学には「マクロ経済学」と「ミクロ経済学」がある。マクロ経済学のミクロ経済的基礎のうち、この30年間エスタブリッシュされていた標準的体系は、リーマン危機の到来で半ば破産宣告を受けている状態である。さりとてGDPや投資、金利、貿易など集計量に当てはまる統計的関係だけから、自律的かつ強固な経済理論が構築できるとも思われない。価格理論とマクロ経済的真理との接合は今後も経済学全体の重要課題である。経済理論の出番はなくならない理屈である。

2012年3月19日月曜日

石原幹事長「沈む船に乗れない」 — このリスク嫌悪症候群

ビジネススクールで統計学を講じていると、様々なケースに応じた利益の確立分布を示して、期待収益率及びリスク指標である標準偏差を説明する段階が必ずやってくる。説明を一通り終えて、さて色々な期待収益率とリスクの組み合わせをもつ幾つかの投資プロジェクト案をパワーポイントで投影して、「あなたはどの投資プロジェクトを選びますか?」と質問する。

いうまでもなくハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンという投資特性を学ぶことが目的であって、危険回避度の高い人はローリスク・ローリターンを選ぶ傾向があるし、リスク・チャレンジャーならハイリスク・ハイリターンをとる傾向が強い。期待収益率が同じであってリスクがより高いプロジェクトは普通は選ばないものだが、中にはリスクを楽しみたいという「天性のギャンブラー」もいる。そんな人は危険愛好者(Risk Lover)という。まあ、大体、標準的な教科書にはこんなことがかかれているわけだ。

そんな狙いで「あなたならどの投資プロジェクトを選びますか?」と、質問するのですな。そうしたところ、小生はいつも驚くのだが、期待収益率にかかわらずリスクが小さい方をとる。そんな人が多い — 半々というのではなく、大半の人がリスクはないほうがいい、と答える。<リスクゼロ願望症>か!吃驚することの多い、今日この頃なのですな。

これはおかしいのである。ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンとどちらが望ましいか、理詰めの議論では結論できないはずだ。リスクが高い分、それを保障するだけのリスクプレミアムが付与され、期待収益率が高くなるという計算なのだから。いくらプレミアムをつけても、リスクが高ければもう駄目。それはとらない。ほぼ全員がリスク最小化を良いことと考えているので、私はいつも吃驚する。なるほど、これが日本の社会的傾向であれば、日本企業の資本収益率が国際的に際立って低いというのは当たり前だわ、と。安全志向なのだから仕方ないよな。そう考える訳であります。リスクに挑戦せずして、儲かるはずがありません。

× × ×

下の報道を読んで思い出したのは、上に述べたようなリスク・マネジメントを説明する時の授業風景であった。
岡田克也副総理が自民党の谷垣禎一総裁に近い幹部に民主、自民両党の大連立を打診していたことを受け、18日、両党幹部から大連立に否定的な発言が相次いだ。
自民党の石原伸晃幹事長は仙台市内で講演し、「それが事実なら(消費増税関連法案をめぐる)民主党内の説得を諦めて野党に話をしたということ。今ごろ何をやっているんだ、というのが率直な気持ちだ」と不快感を表明。その上で「党内をまとめられないのに、野党に協力してもらいたいと言われても、私たちはいつ沈むか分からない船に一緒に乗って航海を助ける余裕はない」と断じた。
同党の町村信孝元官房長官もフジテレビの番組で「まさに(民主、自民両党が)国会で相対峙(たいじ)して議論しようというときに、実は一緒にやるなんて話が通るわけがない」と述べた。
一方、民主党の輿石東幹事長は沖縄県南風原町内で記者団に「野田佳彦首相とも、党内でも議論していない」と述べ、党の方針ではないと強調。「コメントは差し控えたい」として深入りを避けた。民主党で進めている消費増税関連法案の事前審査への影響については「そういうものに惑わされず、冷静に議論していただく」と語った。 
[時事通信社]
(出所:The Wall Street Journal日本語版、2012年 3月 18日 22:06 JST )
自民党も増税を考えている。もっと良い増税案を提案することもなく「沈む船には同乗しない」というのでは、仮に解散、総選挙 — いくら何でも野田政権の後を別の人がまた党内調整だけで継ぐというのでは政権自体がもちますまい — となっても、その後の民主党の協力を望むどころか、消費税率引き上げを提案すること自体が政治的には不可能になるのではないかなあ、と。

日本経済のマクロ的安定性と国民生活の両方を人質に取った政略を敢然と実行できている点で、自民党は今やなぜ自分たちが国会議員という職についているかに目を向けない、そういう意味では純粋の野党になりえたことを痛切に実感するのである。さびしいねえ・・・。純粋の野党たる心構えを身につけたからには、この努力をムダとせず、これから何年も野党として活動していくべきである。そう思ってしまうのですね。他方、民主党も与党というより所属する議員の行動形式は、やはり野党的である。つまり自民党も野党、民主党も野党、みんなの党も野党、共産党も野党、いま日本国は<大空位時代>というか、<全党総野党>の時代となった。

これは日本国の運営に身を捧げようと言う政党がなくなってしまった状態であるから、日本国は大変危険である。その国家的リスクの高まりと、個々の政党、個々の議員のレベルにおける<沈む船には乗りたくない>という極端なリスク回避、安全志向の高まりが同時に観察される。まこと甚だ皮肉な現象である。まあいわば国家的な自律神経失調症とでも言うべきであろうか?

思うに国家のトップ、つまり<国家元首>の存在意義は、政治勢力がにらみ合いとなり、政治的付加価値の生産能力を失ったこんな時であろう。ゲーム論的にいえば複数均衡下で均衡選択を行う触媒となるフォーカル・ポイントを失った状態だ。国会でも可否同数の際の決定ルールがある。これも同様の知恵である。しかしながら、日本においては将軍がいた明治以前ならともかく、戦前期においても<天皇無答責>であり、戦後においては単なる<象徴>である。日本国は国民自らそうであってほしいと思っているのか、考えているのか知らないが、<CEOなき株式会社>と同類の組織となっている。

2012年3月18日日曜日

日曜日の話し(3/18)

四国に里帰りしていた — とはいえ兄が一人いるだけであり、その兄も難しい病気なのであるが — カミさんが、本日、北海道に帰る。そのカミさんの実家がらみで16世紀の話しになっていた。

× × ×

尻取りのようにしてもう少し続けよう。16世紀欧州の一方の大立て者が神聖ローマ皇帝カール5世であることは意見が一致するだろう。そのハプスブルグ家出身の皇帝の最大のライバルがフランス王フランソワ1世であった点も意見が一致するだろう。フランソワ1世はヴァロワ家から出た王である。彼の王はフランス芸術の確立にも力を注いだ。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチを招きアンボワーズ城に隣接するクロ・リュセ(Château du Clos Lucé)に住まわせたのはフランソワ1世である。それ故、イタリア人画家レオナルドの名作モナリザがパリ・ルーブル美術館に所蔵されることになった。

フランソワ1世の下でフランス的美の感覚が生まれた。その美意識はフランス絵画の伝統にもなり、何度かの芸術革命を経て色彩や形の表現は変容しながらも、本質的な感性は今日に至るまで継承されていると言われる — それは日本の芸術についても言えると思うが。ただフランソワ1世の宮廷で主流であったのはイタリア芸術の流れを汲むフォンテーヌブロー派であるそうだ。ロッソ・フィオレンティーノはイタリア・ルネサンス末期のマニエリスムをフランスに移植する役割を果たした画家である。

ロッソ・フィオレンティーノ、十字架降架、1521年
Wikepediaから引用

16世紀から17世紀にかけて欧州の宗教対立 — 純粋に宗教思想上の対立のみではない、国民国家が太陽系のように誕生しつつある時代であり経済的要因も見逃せない — は拡大激化し、遂にはドイツ三十年戦争となる。ハプスブルグ時代は終焉を迎え、フランス・ヴァロア朝を継承したブルボン朝が勝者となる。同じ頃、日本では幕藩体制が確立し、中国では明から清に王朝が交代した。17世紀は歴史の中では現代のすぐ下の地層であり、今日もなお残香を感じられる時代である。しかし、その下には16世紀という前の時代があり、更にその前には遥かな過去がある。

× × ×

そう考えると人生は駅伝のようなものであって、いま生きている世代は前の世代から襷をもらって次の世代に渡そうと走っているようなものかもしれない。実は、先日、愚息にそんな話しをしたのですね。
「お前、これから生きていく中で最も大事にするものは何だ?」
「・・・」
「仕事か?仕事の成功を一番大事にするつもりか?」
「それは違う、仕事は自分にとって一番大事なことではない」
「じゃあ、何だ?家族か?仕事はおれにとっては三番目に大事だ」
「そうだなあ・・・家族ってことになるのかなあ・・・」
まあ、たかだか24歳の若造から正解が出てくるはずはない。小生だって、悟りの境地にはまだまだ、日暮れて道遠し、だ。ただこんな風には話しておいた。

「気がついたら生きているのが人生だ。それはおれの両親も同じだったよ。長生きできていたらもっと幸せだったかもしれないけどね。だけど一番大事なことはやり遂げた、さ。その前の爺さんや祖母さんも、な。3代前、4代前もずっとそうだ。こうやって全体を振り返ってみるとな、何度も生き死にを繰り返しながら、いままでこの家は生きて来た。それは否定できない事実だ。意味があるとすればこの事実だな。だから、お前がやるべきことは、それを続けて、生き続けるってことだ。襷を渡せ。渡す相手を作って育てるのもお前のやるべきことだ。そのためには、ジャングルに放り込まれたら、生きて戻る。病気になったら必ず治して生還する。リタイアするなんて権利はお前にはない。走り通すんだ。それ以外ないな。仕事はそのための手段だよ。手段と目的をゴッチャにしちゃあいけない。何が大事な目的で、何が手段かを間違えるなよ。手段に合わせて目的を変えるんじゃない。目的を実現するために手段を変えるんだ」。

セイコーマートの500円ワインが侮りがたい程の味を実現しているのに驚きながら、そんな話しをした。

2012年3月17日土曜日

21世紀の日本に派閥対立があるとすれば

今日はまとまりのない雑駁なことを覚書きとして書いておきたい。

それは<派閥>についてである。
政策の選択では常に対立があるものだ。

誰もが必要と客観的には認めるしかないのが消費税率引き上げなのだが、それでも「小さい政府」路線をこれから過激に追い求めるのであれば、増税は必要ない。しかし、それには公務員ゼロ賃金などでは追いつかない。焼け石に水だ。それこそ、年金、医療、介護、教育、公共事業、国防まであらゆる事業の経費をスリム化しなければならない。そもそも日本の財政状況はギリシアよりも悪いのであるから、求められる財政緊縮も(機械的に考えれば)ギリシアよりも過酷であって当然なのだ。

戦後日本、昭和20年代には「開発主義」と「貿易主義」の路線対立があった。貿易主義は、その当時の産業別競争力をベースにして貿易を行って、日本人の経済的利益を実現していこうという、まあ経済理論にも沿ったオーソドックスな考え方。開発主義はいまアジアが実行しているような戦略的な輸入代替路線である。輸出志向産業政策と言っても、まあ、近い。

いまの日本には真の意味で路線対立がないとよく言われる。どっちに向かったらよく分からないという気持ちなのかもしれない。だからこそ<閉塞状況>と言われるのかもしれない。確かに高齢者と若年層は利害が対立している。しかし<老人党>と<青年党>など、韓流時代劇の「老論派」と「少論派」じゃあるまいし、そんな政党はできませんって。

× × ×

しかし政党でも派閥でも、<対立>というのは、本来、社会の活力の源である。戦争ばかりでなく、論争する時も人たるもの、全力で立ち向かうものだ。知恵は静寂の中で、力は激流の中で、だ。ただし、対立の基軸なき対立は単なる茶番である。茶番には本心からエネルギーを投入できない。価値というか、理念というか、目的の違いから自然に形成されるのが本来の<派閥>である。

だとすると、現在の日本にも派閥対立の基軸は厳然としてある。それは個人の<幸福>を最終目標にするか、国家・組織の<利益>を目的指標におくかだ。

「公益」がないって?ありませんよ、そんなものは。公益は国家の利益、公的利益である。利益と反対側にあるのが賃金だ。社会主義は鏡の裏側にある利益重視思想と解釈できる。ただし所得分配はゼロサムゲームではない。国民所得が成長するときには協調が成り立つ。その意味では労使協調体制も組織重視・利益重視のデリバティブである。利益重視の観点に立てばどうなるだろう。政治は組織重視型になる。組織の拡大、組織の成長、組織の管理、効率性と戦略という言葉がキーワードになる。これは論理的には当然のことだ。同じ利益でも国家の利益と私的企業の利益の区別がある。が、それは単なる山分けの話であって、本質的な問題ではない。

一方、幸福重視の観点に立てば、どうだろう。組織は幸福を享受する能力がない。幸福を享受しうるのは現実に存在する個人だけである。従って政治は個人志向になる理屈だ。小生の勘に過ぎないが、まずは政治と宗教の分離の見直しが論じられるはずだ。英国国教会のような形もあれば、独キリスト教民主・社会同盟などキリスト教民主主義の流れもある。宗教と政治には色々な関係が本来はありうる。日本でも「人間重視の党」や「フォーラム共生と命」等々の政党が、比較的大規模でブランド価値のある ― まずはまとまりの良い浄土真宗系か、キリスト教系か ― 宗教団体の支援を得て結成されるであろう。現在、世界で広がりつつある「みどりの党」がそれに該当する党派であるのかどうかは、小生はまだ判断しかねている。次に「憲法上の天皇の地位の見直し」も議論の俎上に乗るかもしれない。天皇制は ― 元々そんな意図は全く込められていないにせよ ― 日本人を(理屈上どうしても)天皇に近い位置の仕事を担当するかどうかで、上下の階層に序列化するように(暗黙のうちに)機能してしまうからだ — 首都での仕事を地方での同一の仕事より上位に感じる心的傾向はその一例である。税制も見直されよう。法人実体説ではなく法人擬制説が主になろう。更には、会社有限責任主義の見直しもアジェンダに入ってくるかもしれない。仮にそうなれば、近代経済成長を支えた自由資本主義は根底から消滅し、新しい歴史の段階に入って行くだろう。ラディカルに方向転換がなされると、今よりは<経済音痴>の社会へと至るかもしれない。全体としてイノベーションへの動機が弱まり、非効率化し、集権から分権に向かうかもしれない。生活水準は停滞するかもしれない。

もちろん上に述べた対立軸とて時間の中で風化するだろう。党組織は時代の中で<適応>し、自己変革していかないと、頑固な老舗のように朽ち果てるだけである。ちなみに組織の耐用年数は30年と言われる。30年以上の寿命を得るには自己革新する必要があるというわけだ。だから、はるかな将来のことは誰にも分からない。

× × ×

今の<社会保障と税の一体改革>をめぐる騒動は、理想と理想のぶつかりあいではなく、たまたま入った政党組織の主流派と反主流派による<口喧嘩>であり、かつて吉田茂元首相がいった<猿山のサル的な猿芝居>である。

2012年3月16日金曜日

一生「やること」をやりながら人生を終えるのか?

一昨日は兵庫三田まで赴き、いまはもう縁者とて住んでいないが、阪神大震災で倒壊し、知らぬ間に無縁仏になっていたカミさんの先祖の塚から魂を抜く儀式を執り行ってきた。

昨日は小生の親の墓参りをしてきた。

で、今日、北海道に戻るのだが、時間に余裕があり芝離宮公園を散策した。老夫婦がいる。ご主人はカメラを持っている。いいねえと思いながら二人を眺めていた。それほどシゲシゲとみていたのではないが、ご主人、撮影対象をこまめに見つけては、小走りに動き回り、奥さんはあとを追っている。もどかしげにレンズキャップをとるご主人から、それを預かったりしている。そのキビキビとした動きからは<勤勉の徳>をよく感じ取ることができた。ああ、そんな風に仕事をこなしてきたのだろうなあと、真面目な人柄が伝わってくるようなのである。

この投稿はiPhoneアプリのBloggerを使っている。初稿の投稿も芝離宮公園からだ。便利だが、日本語モードのキーボードとはまだ同調されていない。日本語キーボードにすると、変換候補で邪魔されて文の最終行が見えないのだ。但し、英文モードに切り替えれば画面が修正されて最終行から書き足せるのだが、日本語での操作感は合格水準には届いていない。この最終稿は帰宅してから完成させたものだ。


さて老夫婦である。この二人は撮影に余念がないせいであろうか、会話がないように窺えるのだ。老夫婦の間に会話がないからといって、べつに小生がとやかく言うべきことじゃない。しかし、老夫婦を見ていると、小生の両親を思い出した。小生の父も真面目なエンジニアだった。自宅で余暇があっても勉強をしないといけないと言って本を読んでいた。「勉強」という言葉を小生は小学校にあがる前から、いわば憧れにも近い語感で聞いていたように記憶している。隔世の感があります。「勉強して下さいよ」と小売業者の人にいうのは「まけてくださいよ」という意味であった。ベクトルとしては上方、前向き、明るいイメージの言葉でありましたな。いま「勉強」というとどんな感覚なのだろう?方向感すらも失った単なる普通名詞になってしまったか。

さて芝離宮公園を撮影しつつ奥さんと散策しているご主人のこと。その人は退職して間もないようだ ー 大体今日は平日だし、他の入園者も高齢である。そのご主人、やることが文字どおりなくなって、写真の撮り歩きに熱中しているのかもしれない。最近のデジタル一眼レフは使いやすい。バシバシとレンズを向けては撮っている。奥さんは旦那さんがやることを手伝っているのかもしれない。多分、そうやって生きてきたのだろうし、これからもそのように生きていくのだろうなあ、と。そんな風なことを思いながら、早春にしては寒い風の中、時間を過ごした。他人の小生がどうこういう筋合いではないが、この老夫婦をみていると確かに暖かくなる心の片隅で<淋し味>をも同時に感じる。

ひと様のありようを評するようなことは、小生、大嫌いだ。評されるのはもっと嫌いである。ただ、人の価値は「やったこと、やっていること」で決まる。これは常識なのだろうか。では小生は非常識である。やることがないと不安だから退職してからやることを探す。まるで社会の中で居場所を探すように。社会から認めてほしいために。人間の価値は「やること」で決まると思い込んでいるのだろうか。だとすると、これこそ人間を<不幸>にする間違った見方だと思っている。

小生はへそ曲がりだから、今の仕事を定年退職したら「やる」ことを探すなぞ、そんな気持ちは毛頭ない。「くう、ねるところ、住むところ」があれば、かみさんと話したいことを話して、空を流れる雲の行方を観察しようと思っている。それで文句あるかと思っている。漱石の猫と同じで、生まれて来て気がついたら此の世にいた。それだけで沢山だと思っている。社会なんてクソ食らえと思っている。

神を信じるものが救われるとキリスト教は論じている。南無六字を唱える信仰からその人は救われると浄土宗教は説いている。救われるのは個人である。社会なんて神や仏がお出ましになるほどの大事じゃない。国なんてなくなってもよいのである。「国破れて山河あり」というでしょう。幸福になるのは個人である。社会や組織は<幸福>を感じることができない。個人の幸福を目指す能力を社会や組織は持っていない。持っていると議論するのは欺瞞であり偽善であると思っている。社会や組織が目指すのは公益であり、利益である。それは幸福とは違う。空行く雲を眺めながら、「シャカイ?そんなものはクソ食らえだ」、大きな声で言うのを、小生は密かな楽しみにしているのである。

2012年3月13日火曜日

小国ギリシャは今や政争の具になっていないか?

社会保障と税の一体改革を人質にして解散を迫る自民党のやりくちは政治家集団として美しくはない。日本の将来を<政争の具>にして党利党略にふけっている。そんな言い方がされる。

× × ×

ロイターが以下のように報じている。
[ブリュッセル 12日 ロイター] 2人の欧州連合(EU)当局者が12日、明らかにしたところによると、ギリシャの債務交換への民間投資家の参加率が今後高まれば、ギリシャのソブリン債務は2020年までに対国内総生産(GDP)比120%を大幅に下回る可能性がある。
国際通貨基金(IMF)と欧州委員会が実施したギリシャ債務見通しに関する最新の分析によると、同国の債務水準は、今後どの程度多くの民間投資家が債務交換に応じるかによって、対GDP比116─117%に低下する可能性がある。
ギリシア3月危機は何とか避けられそうである。しかしながら、債務交換に応じて資産を一部分にせよ失ったわけだから、債権者の立場からいえば「ギリシアが破綻するというのは事実だった」と、そう感じるだろう。これからギリシアの財政緊縮がどれだけ過激に進められるかにギリシア国民の未来はかかっている、と — これが世間の受け取り方である。

一方、欧州では金融取引税の検討が進みそうな塩梅になって来た。積極的なのはドイツとフランスだ。議長国になったデンマークは本音では反対だが、大国の圧力に屈した様子である。英国は、ギリギリの債務調整をやりながら、あくまでもギリシアをユーロ圏内にとどまらせ、その上でギリシアに財政再建を強要するドイツを継続的に批判している。金融取引税については「狂っている」の一言である。日米が導入しないのに、欧州だけが金融規制するのは反対だと言っている。アイルランドも導入するなら導入するで足並みをそろえよと言っている。スウェーデンもそうだ。オランダもそうじゃないかな?

独仏が無理を通そうとしているのは<政略>である。ドイツが金融取引税導入に前のめりなのは、欧州財政統合案を議会で批准してもらうには、「みどり」や社民党が求める金融規制に同調する必要があるからだ。フランスのサルコジ大統領は再選を目指しているが、対立候補は金融規制の強化を主張している。この面では差異化を強めるよりも模倣を選ぶほうが有利だと踏んだのだろう。ドイツは、ズバリ、議会対策、フランスは再選戦略から金融取引税を導入しようとしているわけだ。ここをイギリスは「狂ってる」と批判しているわけだ、な。小生も、イギリスの言い分の方に合理性があると思う。

ではギリシアをユーロから脱退させないのは何故か?それはギリシア通貨ドラクマの暴落を嫌悪しているからだ。 それはユーロにも衝撃を及ぼすだろう。アク抜けしたユーロは急騰するかもしれない。将来を不安視されて暴落するかもしれない。急騰する事態は、既に輸出比率が50%を超えたドイツ経済だけではなく — 欧州は水平貿易が多く、輸出比率は日本よりもずっと高い — ソブリン危機に怯えるスペイン、イタリア経済からみても、絶対に避けたいところだ。暴落すれば欧州金融界の破滅である。それゆえ、ギリシアにはユーロにとどまってもらう。ギリシア人には我慢してもらって借金返済と節約に励んでもらう。これまた、独仏伊西という大国の身勝手であると言えるだろう。

× × ×

しかし、まあ、こうして整理すると欧州の政治経済は、してはならない重要案件を政争の具にする日本と五十歩百歩。汚く表現すると目糞、鼻くそではないか。そう感じながら記事に目を通したところである。

2012年3月12日月曜日

ワイドショーの専門家の「専門家」ぶりについて

北海道某TV局で放送している地方番組でも、復興庁による復興交付金一次配分が問題になっていた。被災県の間で違いがありすぎるという批判だ。文字通りマスメディアは袋叩きの憤激ぶりであって復興相が陳謝するような雲行きだ。いずれも国に「袖にされた」宮城県知事に同情する意見を開陳している。

今朝テレビに登場した「専門家」は概ねこんな風に発言していた — 細部までこの通りというわけではない、発言趣旨ということだ。

事業費も結局は官僚が配分するわけですからネ、そこで官僚は自分たちの存在を主張できるわけです・・・私が考えますに、まず何も言わずにお金を県にあげるべきなんですよ。何がいけなかったか、何が悪かったか、実情調査をすることから始めるべきだと思います。やはり失敗例を公開して、共有知にする。そうしないとまた同じ間違いを繰り返すと思うのです・・・
やれやれ、と思いましたなあ。

そもそも何を話しているのか、さっぱり分かりませぬ。

「事業費は官僚が配分する」ことを批判してらっしゃるが、「配分作業」自体に反対なのであろうか?先着順で受け付けて、全部お金を使い切ったら、もうありません、と。手続きが遅れたのは、そのこと自体、復興への熱意が足りないことですよね、と。そんなことを言って、お引き取り願う。そう諭すのが良いとお考えか?聞いてみたいですねえ。

配分作業に官僚がタッチするのがいけないと云うなら、誰がせよ、と。大臣自ら、鉛筆を舐め舐めせよとでも。アメリカでは長官のことをセクレタリー(Secretary)という。元来の意味は「秘書」であるのだな。長官は大統領から見れば、個別分野を所管する秘書室長であり、その手足が官僚という書記官だ。日本では大臣はミニスター(Minister)だ。そのミニスターの下僚が国家公務員であり、命じられる業務の報酬として給与をもらっている。予算を被災地に配分せよというのは、大臣からの業務命令である。いくら官僚でも、復興予算を自分のカネだと思う輩はいない。いれば横領だ。

今回の騒動は、岩手県が90%超の採択率であるのに対して、宮城県は申請の50%程度しか配分されなかった。その差が大きすぎるというのが直接のきっかけだ。申請額に対する採択率だけではなく、配分額についても語るべきだ。北海道新聞では次のように報じている。


復興交付金の配分額決定 7県に計3053億円
復興庁は2日、東日本大震災で被災した自治体に対する復興交付金の第1回配分額を決定した。対象は7県59市町村、総額は3053億円で、県別では岩手957億円、宮城1436億円、福島603億円、青森、茨城、栃木、千葉が計56億円。産業復興や住宅再建など緊急性の高い事業への配分を優先した結果、自治体側の要望額4991億円の約6割に圧縮された。市町村別では仙台市の509億円が最高。 
配分額は地方負担を含めた総事業費ベース。地方負担は後日、特別交付税で穴埋めする。2日に各県と市町村に通知され、工事の発注が可能になる。第2回配分要望は3月末まで受け付ける。(出所:北海道新聞、03/02 12:32、03/02 13:09 更新)

宮城県は、申請に対して採択率が50%程度ということは、申請が2800億円程度であったことになる。岩手県はほぼ申請通りの960億円程度であったのだろう。もし申請通り満額を手渡すとして、岩手県には申請通りに960億円程度、宮城県には2800億円程度をそのまま支給してもいいのだろうか?それが賢明なのだろうか?どうしても、小生、金額をみるとアンバランスに思えるのだなあ。東北地域一帯を襲った地震による被害復興だ。宮城は岩手の3倍もらって当然なのだろうか?

震災被害は、宮城県では津波が中枢部を襲ったので、中央部分に集中しているという特徴がある。反面、岩手県は陸中海岸沿いに広く災害が南北に拡散している傾向がある。小規模の町では行政機能が崩壊している箇所もあると聞く。そんな地域では復興計画をとりまとめ、申請を出すにも時間がかかるのではあるまいか?それが岩手県と宮城県の今回の申請額の違いになって現れたのではないか。まして福島県は原発被害と避難の継続で地元に帰れないという事情もある。復興計画など作成できるのか、福島は?福島県への配分額は岩手県よりもさらに小額だが、申請自体が少なかったのではなかろうか。

こういう時は、先に出した者勝ちだ。宮城県がそんな気持ちでいるわけではないと思う。しかし採択率が低すぎるという理由で憤激するのは、あまりにも地域の状況の違いを無視した身勝手だと思うけどねえ。決して好感を感じませぬ。それが小生の偽らざる心情である。

この位、専門家であれば、語ってほしいのである。何が「官僚は予算配分で自己主張できますからね、カネを出すなら口も出すってことですよ」なのか・・・その辺の奥さんがやっている井戸端会議でももっとマシな話しをしている。いやしくもテレビという画面に<専門家>という立場で出るなら、もう少し素人では見落とすようなことを堂々と語るべきではないか。

テレビ番組の低品質ぶりには落胆することが多く、特にリーマン危機後は激増しているのであるが、今日の「専門家」の方にも呆れた次第であった。

2012年3月11日日曜日

日曜日の話し(3/11)

東日本大震災は一年前の今日だった。カミさんと買い物に出かけて帰宅したちょうどその時刻、ユラユラと揺れるような気がしたのでテレビをつけると、震度7の大地震が東北地方を襲った映像を流していた。巨大津波が来襲した様子を画面でみたのは間もなくである。

× × ×

16世紀は前の15世紀末から次の17世紀初頭までをひっくるめて「長い16世紀」と呼ばれることもある。経済的には価格革命が進行した大インフレーションの時代である。芸術的にはイタリア・ルネサンスが完成期を迎えマニエリスムと呼ばれるようになるのと並行して、ベルギー、オランダ、ドイツなど北方にも人間復興の精神が伝播して北方ルネサンスが開花した。そんな時代だ。宗教的にはローマン・カトリックの権威が失墜し、ルターによる宗教改革が始まった。政治的にはハプスブルグ家による欧州制覇を目指した戦争が繰り広げられ、その途中には神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊によるローマ略奪もあった。これは盛期ルネサンスの終焉を画した大事件になった。

この時代、日本では雪村周継による水墨画が創作されていたのだが、ドイツでとなるとグリューネヴァルト(Grünewald)を挙げたい。下は彼の傑作「イーゼンハイム祭壇画」の<平日面>である。


Grünewald, Isenheimer Altar, 第1面、1511-1515

祭壇画は仏壇のように観音開きの扉を開閉して見える絵を交替させる。上は扉を閉じた状態で平日はこの作品を人はみた。

日曜になると扉をあけて下の<日曜面>を鑑賞することになっていた。


Grünewald, Isenheimer Altar, 第2面、1511-1515

祭壇画はヨーロッパ北方で普及していた。先日、東京の国立西洋美術館に行ったが、そこにも幾つかの祭壇画が展示されていた。誰のだったか?ちょっと思い出せないが。

× × ×

今週は、とある用事で兵庫県三田市に行く。カミさんの実家の先祖は三田藩士だったそうだ。そのカミさんの実家の先祖がらみで一寸片付ける用事があるのだ。三田は九鬼家の殿様が支配していた土地である。九鬼家は伊勢地方の海賊をしていたのだが、たまたま織田信長が大阪本願寺との戦争で苦戦し、その苦戦の原因が毛利家による後方支援にあることを知って、九鬼水軍に命じて補給に向かう毛利水軍を迎撃させた。そんな武勇でなる家柄だそうだ。その九鬼家も関ヶ原では西軍についたため徳川家康の措置で伊勢から三田に移されたよし。海がないので自慢の水軍も解散となった。これらのことは全て長い16世紀のことである。

日本にとっての16世紀は、鉄砲伝来とフランシスコ・ザビエル来日のほうが歴史上は有名か。同時代の人々にも歴史の時計が回転する音を聞ける時代はそうそうは訪れないが、16世紀はその一つだったろう。それはヨーロッパでも、歴史の偶然か、ほぼ同様だった。

2012年3月10日土曜日

官僚派 vs 党人派の政争の二番煎じはいただけません

自民党の派閥政治が華やかなりし時代、官僚派や党人派というニックネームが流行した。官僚派は簡単に言えば、昭和20年代に主流であった吉田派の流れを汲む議員グループで、池田勇人や佐藤栄作が率いた派閥。党人派というのは選挙に当選して這い上がって来た議員で河野一郎や三木武夫といった面々がいた。田中角栄は官僚派の佐藤派に所属し官僚操作の達人であったと伝えられるが、経歴はもちろん党人派の典型である。二つのグループは政策路線ばかりではなく、人脈、感性までをも異にし、その違いが派閥の雰囲気にまで染み通っていたらしい — そう耳にしている、ただし小生自身近くで観ていたことも昔あったが、体感的感覚はない。

現在の社会保障と税の一体改革、消費税率引き上げをめぐる政争をみていると、使い古された官僚派と党人派の抗争を思い出してしまうのだ、な。あれっ、民主党は<政治主導>ではなかったっけ?それはそうだが、官僚集団が提案してくる政策構想にどれだけストレートに則して政治を行うか、こうした面から眺めると野田現政権は<直官内閣>である。そうは言えると思うのだ、な。大体、野田首相の厳父は自衛官である。岡田副総理は元官僚である。党税調会長の藤井議員は古手の元大蔵官僚である。古川戦略相も元官僚である。玄葉外相は県議出身であるが政治家一家で育ったエリートである。枝野経産相は弁護士出身とはいえ、法曹専門家はエリートの一翼をなす。官僚派という形容から外れているとするなら、では中国流に<太子党>と呼ぶのはどうか。中々よい形容ではないかと感じるのだが。

ただ、どう見ればいいのか?太子党なる人間集団に共感を感じることはない。それでも確かに、巨額の国債発行に原発停止、最近の原油高が重なり合って、日本経済は緊急事態に突入している。それが持つべき認識だと小生は思う。放置すれば<マクロ経済的失速>という大事に至るかもしれず、万が一そうなれば、ギリシア的な<緊急引き締め>、具体的に言えば<公定歩合の緊急引き上げ>が絶対にないとはいえない状態になって来た。金利引き上げですよ。そうでなければ貿易以外の為替取引の許可制導入。資金流出の防止。この位は財務省の権限で簡単にできる。そうなれば日本はIMFと事態打開の協議を開始し、結局、増税を約束し、消費税率は15%程度に上がるだろう。その間、国内の物価は激しく変動して、国内の経済取引は麻痺するであろう。これが最近、時折、思いめぐらす近未来の悪夢である。

巡航速度で社会が発展しているときには民意をうけた政治家が日本国の将来を決めていくべきである。しかし、緊急状態においては必ずしもそうは言えないと、小生、思うのだな。

乱気流で衝撃的な急降下を経験すると、地面が見えることに恐怖を感じるようになる。しかし、着陸するには降下しないといけない。地面が見えると、子供が泣く、母親が「やめて」と叫ぶ。そんな時に<民意>を受けたパイロットが操縦していれば、飛行機が墜落するのは時間の問題であろう。システミック・リスクを回避するには、専門家が期間限定で権力を行使しなければならない。緊急事態は<敵国>が来襲するときに限ったことではないのである。そんな風にすら思われてくる、この頃である。

それにしても小沢一郎議員の判決はどうなるのか?状況証拠だけで死刑を判決できる国情である。判決は裁判官次第であろうと思う。有罪、無罪、どちらを出しても政治的意図を勘ぐられるだけに、裁判官も実に「やりたくない」と思う判決であろう。ま、今やこの話題は些事ではあるが、当該議員グループからは、いにしえの党人派的な、別の表現を使うと<大衆政治家>的な体臭を感じるのですね。<国民の本音>を当該グループが伝えているのか?それが、小生、このところ分からなくなっている点なのである。

2012年3月9日金曜日

中国経済、いよいよアクセルを踏むか

中国経済については本ブログでも昨年12月1日にこんなことを書いている。
中国の預金準備率引き下げも3年ぶりである。中国のインフレ率はまだなお5%程度と高く、政策当局はこれを4%程度まで押さえ込みたいと考えているはずだ、そのように小生は予測した。だから先進国が対欧州で足並みを揃えるとしても、中国が直ちに金融緩和に動くとは思わなかった。おそらく市場にとっても、中国が参加する形のグローバル協調緩和政策は、ちょっとしたサプライズではなかったか。実際ニューヨークのダウ30種平均は430ドルも上げた。英独仏の株価も3~5%も上げたというから、相当のプラス・ショックではあった。
本日、CNNMoneyではこんな報道が流れてきた。中国の消費者物価である。
NEW YORK (CNNMoney) -- Inflation in China slowed dramatically in February, as temporary price hikes related to Lunar New Year faded.
Consumer prices rose 3.2% from a year ago, China's National Bureau of Statistics reported Friday -- a steep slowdown from a 4.5% inflation rate in January.(Source:  By Annalyn Censky @CNNMoney March 8, 2012: 10:29 PM ET)
同じくBloombergではこんな風だ。
March 9 (Bloomberg) -- China’s inflation eased to the slowest pace in 20 months in February, giving policy makers more room to stimulate the world's second-biggest economy as investment and export growth weaken. 
Consumer prices rose 3.2 percent from a year earlier, the National Bureau of Statistics said on its website today. That was less than a median estimate of 3.4 percent in a Bloomberg News survey of 35 economists and January's 4.5 percent rate. Data in the first two months of the year are distorted by the timing of a weeklong Chinese holiday. 
Moderating inflation pressures may give the ruling Communist Party more room to keep boosting wages and to ease price controls on resources such as energy and water. The government this year may also cut required reserves for banks and the benchmark interest rate, according to Patrick Bennett, a strategist at Canadian Imperial Bank of Commerce in Hong Kong.
“With inflation continuing to trend downwards, it leaves policy makers with fewer obstacles to relax economic policies,” Helen Qiao, Hong Kong-based chief China economist at Morgan Stanley, said before the release. 
・・・
Inflation Target 
Premier Wen Jiabao this week set an inflation target of about 4 percent for 2012, unchanged from last year. The goal takes into account risks from imported inflation and rising costs of land, labor and capital and will leave room to change the way prices of resources including electricity and oil are set, he told lawmakers at the National People’s Congress.
中国のインフレ率は政策目標を下回るようになっている。既に昨年末には準備率引き下げで一歩拡大へとスタンスを変えているのだが、今年ははっきりとアクセルを踏むのではないか。そんなデータが出てきている。OECDの景気動向指数をみても、中国経済はピークアウトしてから既に1年半程度が経過し、経験則的からも底打ちするタイミングに来ている。

ギリシアの債務調整不透明など、暗い話題が続く欧州である。欧州の停滞は中国経済にも影を落としている。そうしたところが、アメリカ経済の拡大トレンドがかなり明瞭になり、中国経済がギアチェンジできるだけの条件がそろってきた。明るい話題も出てきている。

あとは日本の政治。これだけだねえ・・・もう十年一日のように、こればかりである。<持病>ですな、日本社会の。誰の目にも短所と映る行動パターンであれば、日本人は根は真面目だし批判にも弱い、反省もするだろうし、注意もするのではなかろうか。しかしながら、失われた20年はそんな風に過ぎ去ったのではない。バカだ、チョンだと罵倒されながら(ギリシアのようになって)過ごして来たのではない。日本の停滞を招いている主因の一つに日本的ヒューマン・ファクターが挙げられるのだとすれば、それは反面では日本人の長所に数えられる、というか長所だという自意識がある側面が作用しているのだろうと思う。そうでなければ、危機と隣り合わせでこのユッタリとした政治ゲーム。それをじっくりと見守る有権者。余裕ある待ちのスタンス。あまりに奇妙なことである。

正直な所、小生、ギリシアの暴動に時に羨望を感じたりもするのである。

2012年3月8日木曜日

今日の話題は<ボヤキ>です: 司法試験、公認会計士試験、etc.

今日はぼやきを書かせてほしい — 公開している本ブログでぼやくなど、本来はないはずだが、他人のぼやきを目にするのは嬉しくもあり、そんなボヤキは贅沢というものであろうとか、人は色々な気持ちになると思う。それをこそ、小生、密かに喜びとするものである。意地悪だねえ、ほんとに。

× × ×

ぼやきというのは、国家試験と就職についてである。普通、仕事の選択、人の採用は市場メカニズムに任せられている。それゆえ、教育投資をたっぷりとかけて、才能にも恵まれた人は高い収入を得る。誰でも出来る仕事に携わる人は供給過剰になっているので安い給料に甘んじることになる。

医師になるには医学部に進学し、最終的には国家試験に合格し、研修を受けないといけない。研修は(原則)希望する地域で受けることが可能であり、『適正な給与の支給と研修中のアルバイトの禁止などが定められた』(Wikipediaより)。確かに収入としては低額であり、医学書は高額だし、研究の個人負担もあるかもしれない。それでも医師になるための投資支出と、当人が人的資本として成熟していくプロセスとの間には、一対一のパラレルな関係があるように思うのですね。特に以前の過重労働にあえぐ臨床研修医と比べれば「月とスッポン」」である。いろいろあっても、医師になる人、教育する人、カネを出す保護者、支援する政府などのバランスがうまくとられている。そう感じるのですね。

息子は法律家になるためロースクールに通学している。職業に就くには新司法試験を受ける。受けるのはロースクールを卒業した後の5月である。在学中に貸与される奨学金は3月で支給が停止される。卒業するのだから当然だ。合否は夏に判明する。合格すれば11月から10ヶ月間の司法研修が始まる。その研修は昨年度までは特別措置により有給であったが、今年度から制度に沿って無給である。加えて、アルバイトは勉学に集中するとの意味合いから禁止される。そのため生活費が貸与される。貸与された生活費は返済しなければならない。

理屈が通らないと思うのだな。受験後、研修が始まるまでの7ヶ月間、その間の生活費の工面を卒業生ができると期待する根拠は何か?アルバイトか、保護者の支援を期待するという趣旨であろうが、それならば研修が始まったあと、アルバイトの継続を禁止する根拠はなにか?資金が貸与されるからだ。しかし、貸与は当人負担と同じ意味である。当人が負担するのだから、アルバイトを禁じるとか、その人の行動を拘束する権利は国にはないだろう。

どうも医学教育の制度的成熟度をみると法律家養成制度と全くバランスがとれていない。そう感じるのですね。公認会計士の場合は、別の状況でもっと大変かもしれない。国家試験に合格した後、実務研修を2年以上受けることが必要だが、合格者数と受け入れ機関の数との需給がバランスしておらず、そのため『実務要件を充たさない一般事業会社や会計事務所に就職したり、生活のためにパチンコ屋アルバイトをして生活をしている者』(Wikipediaから引用)が発生している。これが<待機合格者>である。

制度は国が決めるものである。自由契約に基づく市場メカニズムに任せるのではなく、制度を決める以上は、市場メカニズムに勝る結果を生み出さないと存在意義がない。司法試験は、法律専門職に携わる人のスクリーニング機能を果たしている。と同時に、専門的職業人としての品質を保証するシグナリング機能も受け持つものである。このように制度で職業資格を規制するなら、そうすることで社会的にはプラスの価値を生んでいなければならない。専門的職業を、他の職業機会と同じく自由に開放してもよいのである。優秀な人は多くの顧客を獲得し、そうでない人は顧客を失うだろう。政府機関は独自に採用試験を実施すれば良い。それでもよいのである。それよりは現行制度の方がはるかに合理的である。そう考えるに十分な根拠がなければなるまい。

現行の司法試験、公認会計士試験など、国が決めた職業試験制度を眺めると、その不合理性によるマイナスは、制度が保証するプラスを(ひょっとすると)上回っているのではないか。そんな風に感じられるのだ、な。それは近年の制度変更が、まあ「イソギ働き」で、少数の人の大きな声に影響されすぎたのではないか?そんな風にも勘ぐられるのであります。

2012年3月7日水曜日

最近の石油価格上昇を楽観して良い国と悪い国

石油価格上昇は先進国の景気を悪化させる主因である。これほど一貫して確認されてきた法則はない。2008年のリーマン危機ですら、その背景に石油価格急騰があった。石油価格急騰とそれがもたらす景気先行き懸念の高まりがあったからこそ、金融不安は現実のバブル崩壊につながっていった。ここの関連は大事だ。金融激変の背景には、リアルな面での相対価格変動があるわけだ。

その石油価格が再び上昇し始めていて、回復の緒についたと思われる世界経済に冷水をかけている。


ニューヨーク市場(WTI)は上図にみるとおり昨年10月から40%弱上昇した。この急な石油価格上昇が今後の景気回復の足を引っ張らないはずがないという意見が増えている。

ハミルトンによる著名なブログeconbrowserでは以下のような見方が述べられている。
Although the prices of oil and gasoline have risen significantly from their values in October, they are still not back to the levels we saw last spring or in the summer of 2008. There is a good deal of statistical evidence (for example, [1],[2]) that an oil price increase that does no more than reverse an earlier decline has a much more limited effect on the economy than if the price of oil surges to a new all-time high.
実際、上のブログでも指摘されているようにアメリカで販売されている自動車のうちSUVなど軽トラック 部門の動向は2007年の2月よりまだ28%も低い数字である。どうもリーマン危機以降のアメリカ人は、ようやくにして省エネルギーに目覚めたというか、これまでの消費行動とは明らかに変化の兆しが認められる。ここはアメリカ経済をみる上で注目するべきポイントかもしれない。

更に、下の図を拝借させて頂いた。総消費にしめるエネルギー支出の比率をアメリカの家計部門についてみたものだ。


これによれば最近の石油価格急騰を反映して、確かにエネルギー支出の比率は上がっているが、家計の消費全体において今やエネルギー支出は低い割合にとどまっている。石油価格上昇がアメリカ経済を悪化させる経路として、それがアメリカ人の消費行動を急変させる ― たとえば燃料多消費型の大型車から海外の省エネ車に需要が急激にシフトするなど ― といった点が挙げられていた。そのような負のショックは、今後生じるとしてもボリュームとしては限定的であると予想される。

こうしたことから最近の石油価格急騰が回復過程にあるアメリカ経済に重大な負の影響を与えるとは考えにくい。これが趣旨である。石油価格上昇に対する抵抗力はアメリカにおいて随分高まっている。もちろん、このこと自体は、日本経済にとっても一面ではプラスなのである。

反面、日本経済は石油価格上昇に対してかなり脆弱になっている。そう考えておくべきだろう。その理由は、言うまでもなくエネルギー構造の「先祖返り」である。原発再稼働がいつになるか分からない状況で石油価格が上昇すれば、それはそっくりエネルギーコストに上乗せされる。電気料金をあげなければいいのだと単線的に考えてはいけない。エネルギー生産においてより高い石油代金を海外に支払うという事実がある以上、国内の購買力合計は必ず減るのである。当面、電力会社に負担をさせても、それは電力会社の資金繰りを圧迫し、設備投資・更新の余力を奪い、供給余力を低下させて製造業の海外シフトを加速させるだけのことである。復興事業の高まりは、国内の生産を増やすというより、単に日本の輸入を増やし、経常収支を悪化させるだけ、そうなるかもしれない。それが明らかになった段階で急激な円安が始まるかもしれない。もちろん、それは悪夢にとどまると思うが。

天然ガス価格も上がっている ― 密接な代替品であるから当然であるが。

今夏には、多分、新エネルギー計画の大枠が見えてくると予想される。そこで原子力発電がどう位置づけられるのか、再エネがどう加速されるのか、電力買取価格がどのように設定されるのか、産業構造はどのように変わっていくと展望されるのか等々、戦略的に重要な点が決定されることになるだろう。どちらにしても原発再稼働は避けて通れない問題だ。新規建設はまず認められないと予想するが、ずるずると全原発停止のまま放置すると、石油価格急騰が日本の製造業、経常収支、ひいては為替レート、国債市場に<想定外>のショックを与えることになるかもしれない。おそらく当局は経済的というよりか、日本の場合は政治的というべきだが、乱気流(Turbulence)に入った時の強権的アクション・プログラムについて、既に極秘のシミュレーションを終えているはず、小生にはそう思われるのだ、な。

このように、いま日本は相当に、というか非常に危ない橋を渡っている。日本の政治家やマスメディアは悠然と構えているように見えてしまうのだが、事実悠然としているのであれば、彼らがそんな余裕をもてる根拠を、小生は想像できない。

2012年3月6日火曜日

公務員採用抑制 — この涙ぐましいほどの媚態戦術から何をみる?

経済学にフェルドシュタイン・ホリオカのパズルという逆説がある、というよりあった。それは本当に国際的な資本市場が機能していれば、投資は収益率の高い国で盛んになり、収益率が低い国では投資が低迷する。たまたま収益率が高い国の家計があまり貯蓄しないとすれば、資金が余っている国から調達できるはずである。それゆえ、その国の投資水準と貯蓄水準は何の関係もなくなる。経済学のロジックにそえば、こんな予想ができる。しかるに、マクロデータで検証すると、実際は貯蓄率の高い国では投資も高く、貯蓄率の低い国では投資も低い。こんな傾向がみられることをフェルドシュタイン・ホリオカの二人は見いだした。

これはパラドックスである。というより、あったと今では言うべきだ。なぜなら1990年代後半以降、2000年代にかけて、正にフェルドシュタイン・ホリオカが予想したように、投資と貯蓄とは何の関係もなくなったからだ。アメリカは盛んな設備投資、IT投資を行うのに他国の — 主として日本であるが — 貯蓄資金を自由に活用した。そしてアメリカ経済の復権をみごとに果たした。リーマンショックという金融危機到来後は、ドル安に任せることによって、実質的な債務調整というオマケまで演じてしまった。マネーの貸借は時代を問わず行われて来たが、往々にしてトラブルのツケは貸した側が負担するものである。

× × ×

日本政府が進めようとしているリクルート活動を知って、上の話しを思い出した次第だ。本日、以下のような報道がある。
政府は、2013年度新規採用の国家公務員数の上限を前年度から2割超減らし、4700人以下(防衛省採用分除く。以下同)とする方針を固めた。
6日の行政改革実行本部(本部長・野田首相)で、行政改革担当の岡田副総理が全閣僚に協力を要請する。消費税率引き上げを柱とする社会保障・税一体改革の遂行を目指す野田政権として、行政改革に力を入れることで、国民に増税への理解を広げる狙いがある。 
政府・民主党は2009年の政権交代以降、自公政権時代の09年度に7845人だった新規採用者数を、11年度は09年度比39%減の4783人、12年度は同27%減の5761人に抑えた。12年度は東日本大震災への対応強化のため採用を増やしたが、13年度は改めて、「09年度比で4割超削減する」4700人以下に抑えることにした。
(出所:YOMIURI ONLINE, 2012年3月6日07時56分)
資金繰りがきついときには人の採用を減らし、余裕ができたら人を多めに採用するつもりなのだろうか?

昨晩、知人の警察官OBの人から話しを聞いたのだが、警察でも若手有望人材のリクルート活動に本腰を入れるよし。というのは、退官する人の数が近年急増している背景があるからであり、必要な警察業務を遂行するためには、退職する世代を補充する若手の人材がいる。その若手の人材が警察内部では不足しているという現実があるそうだ。それはそうだろうなあ、と。若い世代はそもそも絶対数が減少している。有望な若手人材の取り合い合戦になっているのが今の状況である。その知人は退官後、リクルーターに任命され、小生が暮らす町を管轄にして道警本部、所轄署が進める人材発掘活動のサポートをするとのことだ。意欲のある人材争奪戦に警察も参入するということだ、な。そしていま、というかそれに反して、日本政府は採用人数を減らすという。バカではないか・・・と。

職員数は仕事の量に応じて最適配置するべき生産要素である。業務計画の見直しなくして、職員採用計画を先にいじるなど、論理的にありえない。 『行政改革に力を入れることで、国民に増税への理解を広げる』ために<職員数>を抑制するというが、その「行政改革」とはどこの官庁のどのような業務の改革なのだろうか?その改革プランが先にあるはずだ。そんなものがあるとは寡聞にして聞いたたことがない。人を減らすことが即ち行政を<改善>することならば、自衛隊だけを残して、他の職員をゼロにしてはいかがか?いや自衛隊だって本当に要るのですか?なければ地域社会が自発的に自衛部隊を作るだろう。そもそも中央政府って本当に要るのですか?ゼロベースで議論することもできるのだよ。ずっとそう言いたいなあ、と、気持ちとしてはもっている。

カネが余ったら、投資先に苦慮して土地にでも投資するかとなる。カネが不足したら、上手な資金調達を工夫することなく、ただ投資を節約する。こんな単細胞的経営者がいれば、企業はあっという間に衰退するだろう。目的に応じて手段は決まる。政策があって職員数は決まる。採用を抑制するなら業務量スリム化を進めるべきだ。労働節約的な行政システム改革を推進すればよいのだ。しかしそんな理念・戦略は語られていない。増税、つまりカネを増やすために人を減らすというだけだ。民主党は日本国政府の管理運営に何の定見も持っていない。その証明ではなかろうかと思う。

一番の疑問は、こんなことをしたいと政府与党が言っていると、そのことのみを報道するばかりで、理屈からして下敷きになっているはずの行政システムの改革方針を確認しようとしないマスメディアの報道姿勢である。「あっ、そうですか・・・」ということで、流しただけかもしれない。しかし、それでは日本のマスメディアが、より一層、低品質・高コスト体質になってしまうのではありますまいか。


2012年3月2日金曜日

日曜日の話し(3/4)

前の日曜日は、16世紀のベルギー ― というか、オランダ ― の画家ブリューゲルの雪の絵の話になった。まるで尻取りのようだが、その頃、日本人による美術創作はどうなっていたか?

時代は戦国時代であるが、織田信長による統一戦争が始まるのは1560年の桶狭間の戦いだとみてよいだろう。とすると、ハプスブルグ家による「欧州制覇の戦い」が繰り広げられたブリューゲルの時代よりは少し後である。信長に見出された天才、狩野永徳は1543年に生まれ、秀吉が日本統一を成し遂げた90年に世を去っている。ブリューゲルと少し重なっている。永徳というと中学校の美術教科書にも載っているはずの唐獅子を思い出すが、晩年の作品「檜図屏風」も渋い。夕暮れ時に燭台の灯の中でほのかに浮かび上がる金屏風はカトリック教会のステンドグラスにも勝るとも劣らぬ荘厳な美的世界を作り出すだろう。

もう一人、水墨画家の雪村周継(1504年~1589年)を挙げるべきだろう。雪村の生きた時代は、そのままブリューゲルが生きた時代と丁度重なり合っている。先日、NHKの「日曜美術館」でやっていた。一枚『列子御風図』を拝借させて頂こう。


画聖・雪舟に対して、画仙・雪村との異称がある。雪村が、晩年、独り退隠の日々を過ごした三春(現・福島県郡山市)には弟の義父母が暮らしている。

下は京都・野村美術館に所蔵されている風濤図だ。これも日曜美術館で紹介されていた。


風濤図
(出所: 野村美術館より)

異なった文化圏に属する異なった人が異なった対象を異なった技法で表現しているが、確かに<美の本質>は人間の生得の観念として存在するのかもしれない。そう思わせる何かがある。

美ではなくて、善についても全ての人間は<善>という観念を生まれた時から持っている。そう考えるなら<直観主義>というか、根は<理性主義>にあると見るが、アングロサクソン流の功利主義とは異なった哲学に立つことになる。

投資不適格判断 ― ギリシア破綻はすでに織り込み

独紙Financial Times Deutschlandではギリシア破綻を予想しつつあるようだ。そのきっかけはS&Pによるギリシア国債評価である。

ヘッドラインは「直近のギリシア引き下げが意味すること」。

Was die jüngste Hellas-Herabstufung bedeutet


ギリシアの第二次財政支援がまとまって、まだ舌の根も乾かないうちに、市場はダメと評価した、そんな論調である。
Den Schuldenschnitt für Griechenland haben die Märkte abgehakt. Dass aber Standard & Poor's den Staat als "teilweise zahlungsunfähig" eingruppiert, ist für Privatinvestoren und Banken des Pleitekandidaten brisant.
先日の財政支援は不十分だという判断である。もう間に合わぬ。
Nun hat es eine Ratingagentur offiziell klargestellt: Griechenland ist zahlungsunfähig. Standard & Poor's (S&P) verpasste Hellas in der Nacht zum Dienstag die Note "Selective Default" (SD). Default bedeutet Zahlungsausfall. Die Einschränkung "selective" - also "teilweise" - beruht darauf, dass der geplante Schuldenschnitt nur einen Teil der Verbindlichkeiten Griechenlands betrifft: Es geht ausschließlich um die Anleihen, die von privaten Gläubigern gehalten werden. Besonders für die griechischen Banken bedeutet das herbe Verluste. (FTD, 28.02.2012, 17:32
それ故、ギリシアは破綻した。S&Pは明確にそう判定した。先日の債務軽減はギリシアが負担する債務の一部分をのみカバーするに過ぎない。ギリシアの銀行は巨額の資産を喪失するに至るだろう。それはギリシアの銀行資本が毀損されることを意味する。金融不安高まりがイタリア、スペインの危機につながる確率は相当程度あると見るべきだろう。

ドイツで<ギリシア死に体報道>が広まれば、第三次財政支援はメルケル首相がいくら頑張っても、国内を通るまい。これでギリシアの破綻はほぼ確実となったのではなかろうか。破綻から回復するにはユーロから脱退するのが効果的、というよりそうしなければ不可能だ。こちらもまた概ね確実だと見る。

あとは南欧地域の経済成長を支援するための<財政トランスファー・システム>をどの国がいつ発案し、ドイツが合意の意を表明するかである。これが現時点の小生の関心事項。それを表明した時点でドイツ株式市場は大きく下げ、フランス、イタリア、スペイン市場が盛り返す。これは何である、な。欧州政界とつながった投資家の間に<インサイダー取引>の好機が到来することを意味する ― 現時点の日本において東電株もそうである。もし政治が信頼を失い、欧州が混迷すれば、それは世界経済にとってはメガ・リスクとなる。

理屈からすれば、そんな道筋が思い浮かぶが、はてさてどうなることか?

2012年3月1日木曜日

徐々に浮かび上がるグローバル景気の方向

ドイツのIFO研究所が景気動向指数(IFO Business Climate Indicator)を公表した。これによるとドイツ経済の拡大基調は変化なし。特に建設投資が非常に旺盛である。

グローバルにみると、どこも一様にどんどん拡大を辿っているわけではない。とはいえ、概要をみると、やはり昨年夏から急落した景況感は既に底打ちして回復しつつある。そういう判断である。


同じことをOECDの景気動向指数(Composite Leading Indicator)でみると、足もとの景気判断は共通するようである。折れ線グラフの高さの平均線をとおる座標軸には高低差があるが、これは数値化する時の方式によるもので、実質的な意味はない。グラフの示す上下動は概ねパラレルである ― ほぼ同じ経済時系列から構成されている指数だろうから、まあ、当たり前ではあるが。


OECDの指数を見てもグローバル景気は、昨年夏以来の低下局面は、既に底打ちし、今後は回復へ向かう段階にあることを示唆している。

但し、ユーロ圏の経済は既に底打ちしているのかどうか、まだ分からない状況だ。その中で、ドイツ経済は<絶好調>、というほど弱みがないわけではないが、やはりこの背景として<ユーロ安>の恩恵をドイツが(ほとんど)単独で享受している。この点を挙げてもよいのではないか。だとすれば、ドイツ経済の現在の好調は破綻した南欧地域のお陰であるとも言えるわけであり、低生産性地域に対する経常的かつ資本的な資金移転をもっと本気で実行しても、というかそれこそが経済政策の本筋ではないか。そんな方向を予感させるデータである。

もちろんドイツのみについて書いているわけではない。PIGS諸国に対して強い姿勢であると見られる、オランダ、北欧諸国など「欧州の勝ち組」と言われている地域全体のとるべき姿勢が今日の話題である。