2012年3月29日木曜日

大学秋入学制 — 大学経営と教育のあり方を区別するべきではないのか

本日は本ブログ再開後、300本目の投稿になる。記念する程のことでもあるまいが、少し長めの文章でまとめておきたい。2本分くらいというところか。

話題というのは大学についてだ。
東大が提案した大学秋入学制をめぐって議論が進んでいる。

今日の日経3面および46面には、日本私立大学連盟が加盟123校に実施したアンケートの結果が報じられている。それによると、回答した82校のうち67校が秋入学移行の是非を検討中か検討予定であるとのことだ。ただ移行の賛否は、いまのところ7割が「どちらとも言えない」と答えている。

46面の詳細解説によれば、移行賛成派は学生数1万人以上の大規模校で過半を占める。所在地としては首都圏、近畿圏の大学が主である。その理由は国際化であり、外国人留学生を受け入れやすくなる点を評価している、とのこと。一方、中小規模、地方に所在する大学では秋入学移行には慎重な姿勢が目立つという。

思うに、この結果は当然予想されるものである。

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大学の生き残り戦略としては、まずは<定員充足>が不可欠である。でなければ授業料をあげるか、人件費などのコストをカットしなければならない。授業料をあげるには顧客評価をあげるしかない。簡単に顧客評価を上げられるなら、とっくにやっているだろう。国内の顧客が先細りなのであれば、海外から受け入れるのが有望であるとは子供だって分かる。そのためには、先方の立場にとって利便性の向上をはかるべきである、という方向になる。

これまでは日本国内の若年層をターゲットとする一方、社会人教育にも教育サービスを拡大して来たが、やはりビジネスマン市場には限界がある。というのは、大学院教育が主軸になるが、どうしても少人数教育を求められる。授業によっては複数教員が担当することになる。課題の出題・添削もする。ここまで徹底的にスキルアップ教育をするのであれば授業料は、少なくとも年間200万円超になるのが国際相場だ。しかし、いかにハイレベル・少人数教育とはいえ、顧客であるビジネスマンの所得環境が悪すぎる。費用負担者として企業も考えられる。推薦による派遣が行われているのも事実だ。しかし、戦略的人材育成メソッドを支える柱に<大学>を考える習慣は(歴史的に)日本にはなかった。派遣はキャリアパスにおける一種のシグナリングとして機能しているだけである。内容に対する顧客評価の裏付けがあるとは、一寸、思えないのだな。それゆえ、社会人教育コストをカバーするだけの高額授業料が日本では成立困難である。それが10年僅々という僅かな経験ではあるが、小生のビジネススクール教員体験に基づく印象である。

日本の大学は、社会人教育から利益を稼ぐことはできない。プロフィットセンターとは真逆のコストセンターになっている。よく言えば、せいぜいのところ、その大学の看板であるに過ぎない。

それ故に、海外顧客に<大学生き残り戦略>を構築するのは、至極当然のロジックである。

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しかし、どうなのだろう。初等中等教育を現在のままにして、大学を海外に開放して、(おそらく)授業も英語を主たる使用言語にして展開する。そうすれば日本の大学経営事情は改善される可能性が高まる。が、その一方で、現状の小中学校、高等学校から大学に入学した日本人学生にとって<教育の効率性>は上がることになるのだろうか?

英語によるコミュニケーション能力は上昇するだろう。しかし英語は言語でしかない。英語で何を語るかがキーポイントではないのか。英語力のアップ自体に関心があるならば、外国語教育の分量と品質を上げればよいのである。そもそも — 仮に数学や統計学担当の教員に英語で授業を展開するスキルに全く不安がないにしても — 数学や統計学を日本語でなく、英語で勉強する方が<教育の効率性>が上がるという推論はありうるのだろうか?小生の印象では、そんな推論はこれまでの経験では、100%ありえないのだ、な。

大体、「十分条件であることを確かめましょうか」というところを、"sufficiency"を確かめましょうか、更に"... then the next problem is to prove the sufficiency of these conditions"と述べれば、日本国内の大学教育は実質的にレベルアップすることになるのだろうか?この種の問いかけは無数に出てくるだろう。

言語はコミュニケーションのためのツールである。ツールは目的に合わせて選択すれば良い。何を理解し、身につけようとしているかに応じて、最も便利な言語を使うのが効率的である。国際学会に参加するためのインフラは英語でコミュニケートできる能力である。英語が有用なツールとなる。他方、現状の初等中等教育を前提とする限り、大学の学部教育の場では日本語が有用なコミュニケーションツールであると(小生は)感じている。

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学部教育を、これまでどおり日本語による授業を中心に展開し続けるというのであれば、たとえ秋入学に移行したとしても、海外から日本の大学に入学する学生が大きく増加し、先細りの国内市場を埋め合わせてくれるだろうか?小生は、悲観的である。むしろ、外国から来てくれるのを待つより、海外に進出する方がまだ海外の大学進学者にとっては便利であろう。しかし、それでも海外事業がその大学のプロフィットセンターになるかといえば、海外での顧客価値をどこまで上げられるか、どれだけ高い授業料を学生に支払ってもらえるかという<顧客評価>に帰着する。

秋入学、英語授業制等々、日本の大学では灰カグラが立つように、新規なボキャブラリーが次々にバブルのように誕生しているが、帰するところは顧客評価である。大学の社会的使命は<学問の府>、<真理の追究>にあると<大学人>は口にするが、そんなことは大多数の人は無関心なのではないか?大半の顧客(=入学者)が大学に対して求めている願いは、ズバリ、<生涯収入の上昇>である。国際労働市場でより高い収入が約束されるようなスキルとマインドを身につけたいと思って大学に入学する。そう推定するべきではないのか。であれば、それに応えられる教育体制を組むべきであろう。海外進出を選んでもよいし、海外大学とのジョイント体制を構築してもよい。授業料メニューにもオプションを導入すればよいのである。日本の大学が何をするか、それは内外の需要と供給で自然に決まってくることだ。いつ入学するか、それは枝葉末節ではないだろうか?

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秋以降云々も大事な論点であるが、日本の大学は<こうでありたい>論ではなく、改めて<顧客志向>の観点に徹底するべきだと(小生の目には)思われるのだ、な。そうでなければ、今回の秋入学制移行は、単に国立大学、いやいや国立大学の中でもエスタブリッシュメント層を形成している<旧七帝大>の単なる生き残り戦術、それだけの話しになってしまうだろう。

絶対にそんなことはないと思うが、万が一、上に述べたことが秋入学制移行提案に秘められた目的であるとすれば、東大の議論の仕方も、随分、不誠実であろうと感じる。ま、間違っているでしょうけどね。

しかしながら、こうした<将を射んと欲して馬を射る>というべきか、<敵は本能寺にあり>というべきか、本音を隠して<我田引水>を意図する戦術は、日本国においては比較的採用頻度が多いように感じるのだがどうであろう?単なる印象だろうか。であれば、この<大義名分+利益拡大の一石二鳥戦術>こそが、義と和を重んじる日本国においては、最も有効な戦い方なのかもしれないなあ、と。最近は、小生、そう考えたりすることが増えているのである。

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