2012年3月30日金曜日

原発抜きの電力安定供給は電力会社の責任なのか!?

また地元の新聞である道新から話題が提供された。本日の社説である。「誠実さを欠く北電の姿勢」。ウンウン、確かに独占企業だから、不誠実な民間企業だとしても仕方のない面はあるよな、と。
現時点では再稼働の是非を論じることはできない。
東日本大震災後、道内でも節電意識が芽生え、昨年4月から今年1月までの電力販売量は前年水準を1.6%下回った。
一層の節電と省エネを進めるには、北本連携を通じた融通分や自家発電の電力購入なども含めた信頼できる需給見通しが欠かせない。
北電は需給関係を公開し、道民の協力を得て原発なしの夏を乗り切る方策を練るべきだ。
言おうとしていることは十分理解できる。しかし、道内のエネルギー政策を練る責任を負っているのは利益を追求する電力会社ではなく、北海道庁と各市町村である。北本連携を通じた電力取引の見通しや電力全体の生産・販売を展望する責務は中央の資源エネルギー庁にあると考えるべきだ。電力会社が<公正な>エネルギー需給見通しを策定するなど、そもそも会社の側に動機がない。小生が取締役であるとしても、策定するのは北電の経営上の観点から最も望ましい計画になるであろう — もちろん社会的に許容される範囲内であるが。そうしようとしない取締役は、その会社にとって、無能である。

政府と道庁が、原発再稼働を基本ラインにして、その方針に沿ったエネルギー政策を進めることに反発して、せめて北海道では北電が原発抜きの電力供給が見通せるのか、その見通しを<道民>の協力を得てやるべきだ。そんな意味が込められた主張であるとすれば、小生、率直に言って、この社説の筆者は頭に血が上ってしまっているのじゃあないか、と。政治・行政・経済が一つ鍋の中で混じっているのが私たちの社会だが、考える時は個別の食材を分けて扱わないと — きたない表現で申し訳ないが — ミソもクソも一緒に話しだしたら話しは落ちるでしょう。そう思うのですな。

新エネルギー計画は国家戦略である。この夏の、あるいはこの冬の節電計画は、<国民生活の安定>という行政そのものである。行政そのものの弱体化を、民間企業の心意気で穴埋めすることは、企業の行動原理を考慮すれば、そもそもないものねだりである。ここは政府と各自治体にハッパをかけるべき局面である。不十分な行政機構があるとすれば、その点を問題提起するべきである。個別の民間企業に、法に定めてもいない<夢>のような社会的責任を負わせても、不信と抑圧の悪循環に陥るだけである。

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ただこの数日来の東電資本注入決定(とここでは書いておく)に至るまでの報道をみていて、つくづく思うのだ。<民間>であることを理由に給与や利益は独立して決定できる<権利>がある。その民間に<官僚>が退職後、あるいはキャリア途中で移動する。移動した後の元官僚はあくまでも民間人として行動する。行動できる権利があるからだ、と。

もしも<公的企業>というマネジメント・システムがなければ何の問題もないはずなのだがなあ、と。そう思ったりもするのですね。<産業育成+公的企業+職業公務員→経済発展>という成長モデルが、資本主義経済の中で色々な<異形の組織>を生み出してきた。その成長モデルが問われるようになってきた。問われている中で、東電が国有化されるのは、コウモリが鳥か獣かいずれかを選ぶのと似て、まあ来るべき時がきたという印象もある。

日本国の従来モデルを是とするのであれば、これであるべき姿になったのかもしれないねえ。そうも思うのだ、な。もともとお上の規制下にあった異形の企業が、名実ともにお上の一部局になるのだから。もちろんこれによって給与は減るだろうが、仕方がない。民間企業として経営ミスをしたのだから。実家に送り返されるようなものだ。ま、議論はあろうが、これはこれで、小生、すごく納得できるのである。逆に、従来モデルを否とするなら、ポスト国有化の展望がなければなるまい。やはりそれは独占否定の企業分割になるのだろう。競争市場への信頼だな。それ以外には選択可能なモデルがないのではないか。東電国有化決定をみて思うのは、これが結論ではなく、これは<選択の延期>であるということだ。それは日本国のビジネスモデルを選び直すということにもなるだろう。その中で、公務員制度改革問題は自然と収束していくことであろう。

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