2012年4月2日月曜日

数学ブームを呼ぶ一つの背景とは? 電力会社による原子力研究支援の是非

数学ブームであるとは耳にしている。実際、書店の数学書コーナーに行くと、啓蒙書や入門書が非常に増えているのに驚かされる。

統計ブームでもあるという。金融工学の成功と破綻が興味を刺激したのだろうか?そればかりでなく、やはりリスクなるものに社会の関心が向き始め、不確実な状況でもとにかく決断しないといけない状況に、さすが安全第一の日本人も慣れて来たということなのか。

さて、大学の法学部の入試で数学を課している所が少なからずある。愚息も二次試験の数学で爆発して、入試センター試験の失敗を取り返し、やっと滑り込んだ経験をした(当人は違ったことをいうかもしれないが)。数学で爆発したはよいが、大学に入った後の法律の勉強ではやっぱり数学は、全然、使わない(当たり前だ)。

証明するという感覚を磨くのにいいんだよね。愚息もこの位のことは言ってほしいのだな。<証明する>ということと、<主張する>ということの違いが、分かっているようで全然分かっていない人が余りに多いのではないかなあ、というのは小生の感想だ。証明されるということは、もはや反対はできないという感覚。論破された以上、相手の言い分を(嫌でも)認めざるを得ない感覚。どんな強大な権力をもっていても、どんなに感情的共感をもっていても、論理で負けてしまうと、それだけでダメ。この感覚は数学でないと中々磨かれないのかもしれない。『君主でさえも論理には服する』、数学を学ぶ者がよく口にする格言だ。その数学ブーム。背景として日本企業の海外展開があることは確実だ。「こういう場合はこうなんですから」といくら言ってもダメでしょうから。常識などは時代や国が違えば全く違う。<説得>の根本的要素はロジックだということだ。目的設定を承認してしまえば、こういう手段をとることがベストである。これは論理の世界だから相互理解のチャンスが高まる。ロジックが万国共通のコミュニケーションツールであるのは否定しがたいわけである。

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こんな報道がある。
電力各社とその業界団体電気事業連合会(電事連)が、国の原子力研究の中心を担い、原発の安全審査機関に委員を多く送り込んでいる独立行政法人・日本原子力研究開発機構(JAEA、茨城県東海村)に長年寄付を続け、2008〜11年度だけで計約2億5千万円に上ることがわかった。 
東京電力福島第一原発の事故で電気料金の値上げが浮上した後も続けていた。原発の関連組織や立地自治体に対する電力会社の寄付は電気料金に反映される仕組みになっているが、電力各社は寄付の総額も公表していない。今回、朝日新聞は機構に情報公開請求し、08年度以降が公開された。 
電力会社や原子炉メーカーが安全審査機関でメンバーを務める大学研究者に多額の寄付をし、原発の推進と審査の線引きがあいまいな実態はこれまで明らかになっているが、規制にかかわる機構と電力業界も金銭面でつながっていた。(出所: 朝日新聞デジタル、2012年4月2日)
 Wikepediaによれば、原子力研究開発機構についてこんな風に述べている。
独立行政法人日本原子力研究開発機構(にほんげんしりょくけんきゅうかいはつきこう、Japan Atomic Energy Agency、略称:原子力機構、JAEA)は、原子力に関する研究と技術開発を行う独立行政法人日本原子力研究所 (JAERI、略称:原研) と核燃料サイクル開発機構(JNC、略称:サイクル機構、旧動力炉・核燃料開発事業団 = 略称・動燃)を統合再編して2005年10月に設立された。
研究開発部門と事業推進部門に分かれていて、核燃料サイクルから核セキュリティまで多くの事業をてがけていることが分かる。 この研究機関に電力会社は寄付をしてきたというのだな。

報道されている記事内容はニュアンスとしては批判しているようだ。

どこを批判しているのか?寄付がいけないのか?しかし、核関連技術の進歩は電力会社の利益にもかなうはずだ。それ故、研究を支援する動機があり、寄付行為は合理的である。それほど関心があるなら、国への寄付ではなく、自社研究するべきではないか。そういう批判だろうか。しかし、自社研究をすれば得られた知見は社外秘にするのが常識だ。それだと各電力会社で重複研究される結果となり非経済的であろう。だから国の研究機関に研究奨励金として寄付をして共有知の増進につとめるのは、決して悪くはないやり方だ。こういう理屈を論破しなければ批判にはならないだろう。

あるいはまた、批判しているのは安全審査を担当するかもしれない研究者に広く寄付を行っていた点か。それは事業推進サイドと安全審査サイド、分かりやすくいえば敵と味方が取引をしている、と。そういう批判なのだろうか?

これもおかしい論理だ。たとえば野球で言えば、1敗すれば相手が1勝し、優勝に一歩近づく。相手の得は自分の損となるゼロサムゲームである。こういう場合にはカネをもらって相手に勝ちを譲る行為は、自チームの負けを誘う背信行為となる。勝負をかけた試合をやっている外見と実際に進行している事態が異なってしまい、結果としては観衆を欺いてカネをとっている行為となる。これはスポーツ興行として詐欺に該当し、だから犯罪なのである。

電力会社が原子力研究者に寄付をするのは、野球でいう八百長と似た行為なのだろうか?研究支援はゼロサムゲームだろうか?電力会社の寄付は原子力安全技術の進歩を阻害する行為なのだろうか?論理的にそうだとは言えないだろう。安全技術を進歩させる研究の成功は、研究者と電力会社とで利益が一致していると考えられる。だから安全研究の進展には相互協力の誘因がある。そうではなく、電力会社は、安全性向上とは無関係の — たとえば低コスト化、燃料効率上昇などの — 原発関連技術に偏った寄付をする動機があるのだろうか?電力会社による多額の寄付と研究サイドの安全技術志向は(有能な研究者総数は一定だから)トレードオフなのだろうか?もしそうなら電力会社の寄付が、安全性技術の進歩を抑えて来たというロジックになる。この点は、確かに今後の研究課題であろう。もしそうなら、政府は電力会社が直接に研究支援することを禁じるか、研究上のバイアスを矯正するため国費は安全性研究に重点投入するべきであった。その原資は、たとえば<原子力技術開発負担金>なる負担を電力会社に課して調達すべきであった。紹介した記事はこんな風に代替戦略案を提案する文意になる。

電力会社から資金を提供してもらったことのある研究者が、電力会社が推進している事業の危険性を認知しながら、電力会社の利益を顧慮してそのことを知らない振りをする。上の報道記事は、上のような事実があったと言いたいのかもしれない。あるいは、電力会社が研究結果の記述の仕方に、資金の出し手の立場から、影響力を行使した。そのために客観的な研究活動を妨害した。そういう指摘かもしれない。

もしそうなら、電力会社は研究支援と広報活動とを混同していたことになるから、それは支出の目的を正しく理解しないことによる<経営の失敗>に他ならない。つまり、経営者が無能であったという解釈になる。経営者の無能とシステム上の不備を混同してはならない。むしろ無能な経営者が、社内トップに就任できた原因を探らなければならない。無能な経営者の災禍は、会社を滅ぼす意思決定を、自覚することなく、下してしまう点にある。今回の東電は文字通りその轍を踏んだわけだが、その失敗の原因が研究支援システムにあったと考えれば、それは<たらいの水と一緒に赤子を流す>行為と同じになろう。Aという失敗を繰り返すまいという思いから、今度はBという失敗を犯す例は世間に多い。血が頭に上った状態が他ならぬリスク拡大要因である。

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このように考えると、電力会社や電気事業連合会が、国の原子力研究機関に研究奨励金(=寄付)を拠出して来た行為のどこが誤りであったのか?必ずしも判然としない。むしろ朝日新聞のほうが簡単に論破されてしまいそうだ。

水も漏らさぬロジックが頭の中にある文章と、何となく主張しておきたいニュアンス中心の文章は、読んですぐ分かる違いがある。法廷では、ロジック抜きの主張や感覚ばかりを述べても相手はもちろん納得しない訳であって、だから<数学くらい分かっておけよ>という意味で数学入試をスクリーニング手段にしている。多分、こんなところなのだろう。

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