2012年4月9日月曜日

TPPは日本農業のどこを変えるのか?

昨日(8日)付けの北海道新聞には札幌で行われたシンポジウム「TPP 農と食どうなる」(主催:全国地方新聞社連合会、株式会社共同通信社、後援:北海道新聞社など)の要旨が掲載されていた。各分野の専門家をはじめ政府関係者として経済産業副大臣、農林水産副大臣もパネリストとして参加していた。

中にはこんな意見が出されていた:
平均耕作面積はオーストラリアが2千ヘクタール、米国は200ヘクタール。自然条件の違いから北海道(投稿者が補足:戸当たり経営耕地は20ヘクタール、十勝地方では40ヘクタール)でも競争力を持つのは不可能だ。
もしこのロジックが正しいなら、オーストラリアは米国の10倍の耕作面積で経営されているので米国農業はオーストラリアとは太刀打ちできないことになる。奇妙である。おかしな生産関数を念頭においているのであろう。

こんな意見もあった:
安全性と食味などの品質は、日本産食品は世界一だと確信している。安全性に関して米国から規制緩和が求められるが、これは日本農業の強さを消す結果となってしまう。
おそらく日本国内で流通している食品の過剰安全、過剰品質は、米国を初めとする海外からの圧力で規制緩和はされるだろうと小生も予想している。しかし、日本の食品は<安全と食味で勝る>と言いながら、同時に規制緩和をしたらそれができなくなる。米国、豪州産の農産物と同質のものを作らざるを得なくなると考えるのは、安全と食味が差別化要因になっていないということだから、そもそも矛盾した思考である。それが価値になっているなら、相手はそれを持っていないのだから、戦えるはずだ。

更にこういう意見がある:
積極的に国産品を買うことで、農業の現場を支えたいが、現実には年収が下がっていく中で果たして買い支えることができるか。明日の食べ物を作ってくれる農業をどうやって守っていくのか。
海外から低品質(それでも国際市場では標準クラスの)の農産物が輸入されれば、それと同等の国内農産物は駆逐されるだろう。しかし、それは少数の農業経営者には打撃だが、大多数の消費者にとってはプラスである。プラスだからこそ、下がる年収の下では安い外国産の農産物を買うのである。ちょうど中国産のうなぎを食し、チリ産の鮭を食べるのと同じである。しかし、食の安全、微妙な食味を求める日本人消費者の好みは、自由化後も残るのではないか。特に安全性はそうだろう。だとすれば、安全と味が確証された国内ブランド食品は割高になる。国内ブランド食品を食べる余裕のある消費者が、日本の農業を買い支えていくことになるだろう。それは牛肉自由化後に進展した国内牛肉生産構造の変化と同じである。

農業だけではなく、工業、サービス業すべての産業において、評価されているものは高額となる理屈だ。高額商品を購入できる顧客がその商品の生産者を買い支えることになる。市場を閉鎖することで、安全で美味しい食品を中くらいの値段ですべての日本人が買っている。そんな状態から、真に価値あるものは高く、標準並みの品質でしかないものは国際標準価格で流通する。予想されるのはそういうことだ。

一方にだけ販路がある貿易はロジックとしてはない。カネが自国に戻ってこなければ、相手の商品を買うことができなくなるからだ。それがTPPというか貿易自由化の論理、貿易の理屈である。ただ市場開放をすれば、顧客の構造が変わる。激変する。当然、新規マーケティング戦略が必要だ。サボっていれば、結果は出ない。それは「学校生活」と同じである。しかしそれは貿易自由化の問題ではなく、国内の組織の問題である。組織に問題があれば、自由化をしてもしなくても、必ず衰退する。放置するより、開放という強風をあてるほうが、未来が開ける。こんな見方に小生も賛成だ。

日本の農業を小生は心配していない。上級農産物を生産する農家は、日本人の中の余裕のある階層、及び(それを買うことが困難になった国内消費者がいることの裏腹の理屈として)高額でも日本産農産物がほしいという海外顧客。この二つのセグメントに販売するだろう。その顧客が日本農業を支えていくはずである。

<日本人>と<日本の農業>は歴史を通して、ずっと一心同体で生きてきたと言えるのだが、TPPはその一体感を打ち砕くものであるとは、小生も考えている。そのことが日本文化にどのような影響を与えるのか。そんな問題意識もありえるのだろう。しかし、いまの時代、これも日本の農業の発展の一つのあり方なのではないか。江戸時代にすでに<米>は日本市場全体で生産、流通していた。安くてまずい米も高くて美味い米もあったのである。それと同じことである。

0 件のコメント: