2012年5月20日日曜日

日曜日の話し(5/20)

中世1千年という。西洋の古代社会が民族大移動に飲み込まれて崩壊したのが400年代(5世紀)の末。したがって大雑把にとらえて500年から1500年までの1000年間が西洋の中世である。その1000年は、ちょうどトルコからギリシアを含むバルカン半島一帯を支配する東ローマ(ビザンティン)帝国が存在した1000年でもあった。本ブログの美術史探訪で再三とりあげているビザンティン帝国は、宗教と政治が混然一体であった文字通りの中世型帝国であったわけだ。

先週、久しぶりの委員会のあと親しい同僚と食事をした。大学の裏には海の見える小さなレストランがある。古い洋館を改造した店の窓から眼下に広がる街と海を眺めると、いつの間にか若葉の緑が細雨に煙る様ににじんでいる。

「こんな風な景色も横浜のある地点からは観ることができますけどね、そんな店で珈琲を飲むと千円はとられますよ」
「そんなにしますか?」
「しますね。払う人がいる以上、とれますから。高い価格が通ってしまいますよね。だから普通の人には、こんな風景を楽しみながら、コーヒーを飲むなんて出来ませんよ。贅沢ですよねえ」
「△△先生、いまお客さんは我々二人だけじゃないですか。貸切状態ですよ。それで900円もしないランチサービスのあと、お替り自由のコーヒーを飲みながら、談論を楽しんでいる。生活水準って何でしょうね。わたし、いますごくハッピーなんですよ」
「カネじゃないよね。すごく田舎に行ってしまうと、こんな店はなくなってしまうでしょうね。大都市では満席で座れない、ほんとにハッピネスにはちょうど良い状態がいるんでしょうけど、そのバランスをとるのは難しいですよね・・・」

遅い葉桜の時分とはいえ、薪ストーブではまだ炎がチロチロと燃えている。燃やしているのは桜材だろうか?木の薫りが室内に漂っている。

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Amazonに「カロリング朝美術 ― 人類の美術」(ジャン・ユベール、吉川逸治訳)を注文した。カロリング朝というのは、周知のようにフランク王国であり、クロビスが建国したメロビング朝から数えると500年から1000年まで概ね500年間、形の上では存在した。その黄金時代は有名なシャルルマーニュ(カール大帝)の時代である。大帝がローマ教皇から皇帝位を戴冠され西ローマ皇帝を名乗るようになったのは西暦800年のことだと記録されている。その頃のフランク王国は西欧・中欧全体を支配下におさめるヨーロッパ史上空前の大帝国になっていた。西ローマ帝国の再興と言われることもある。しかし、ローマ帝国がライン川を越えてドイツを版図におさめたことはない。あとにも先にも、ドイツ・フランス・イタリアを含め、欧州全域を統治した国家はフランク王国だけである。

ところが、そのフランク王国カロリング朝で、どのような文物が生み出されていたのかが、よく分からないというか、小生に知識がない。どうしても知りたいと思い、上記の本を注文したわけだ。シャルルマーニュの時代、首都はパリからドイツ・アーヘンに移動し、文芸復興が進められ「カロリング・ルネサンス」と称されている。


カール大帝とローマ教皇
Karl der Große mit den Päpsten Gelasius und Gregor I. 
(Hofschule Karls des Kahlen, um 870).


上で述べたようにフランク王国時代は中世に属する。ビザンティンによらず中世美術は主として宗教芸術として今日まで伝えられている。教会に保存されている作品は、略奪、焼亡に遭うことも比較的少なく、保存状態も良かったのだろう。この辺の事情は、欧州だけではなく中国、朝鮮、日本など東洋にも当てはまる。

日常生活の中で広く使われていたはずの世俗的な装飾や挿絵は洋の東西を問わず消え去った。わずかに残っているのは、模写か写本である。残念なことだ。

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権力は四百年。文物は千年。人間社会の遺産は、いずれ歴史の古層の中に埋もれて、後世の人が掘り出すようにして再発見するのだろうが、それでも千年という時を超えて後の世の人に伝えることは誠に至難の業と思える。それは奇跡をまつようなものだろう。プラトンの創立した大学アカデメイアがユスティニアヌス皇帝の命令で閉鎖されるまで概ね一千年。アレクサンドロスが紀元前300年代に建設した学術都市エジプト・アレクサンドリアがアラブ人の手に渡ってしまったのは600年代。その間、約一千年。パピルス、羊皮紙も残らない。紙は頑健だが、それでも残らない。かろうじて写本によって再現するしかない。その写本も焼亡の危機がある。

確かにシャルルマーニュは欧州全域を統治したが、学芸・知識の水準は古代の世から大きく退歩していたのである。というか、西暦14年時点において、既に一人当たり所得はイタリア半島を850とすると、エジプトが600、トルコ・ギリシア一帯が550、それに反してフランス中央部、アルプス以北は400程度であり、経済水準は完全な東高西低であった。(参照: Angus Maddison,"Contours of The World Economy I-2030 AD")。統治機構が寸断された後の西ヨーロッパ地域はなおのこと東より貧困であったろう。

今日のヨーロッパが再興され、東に追いつき、追い越すのはベネチア、ジェノア、ピサ、フィレンチェなどのイタリア都市国家群が勃興する1000年代を待たねばならない。中世後期はイタリアの時代である。そしてルネサンスが終息するまでの600年間は、イタリア人が再び経済的なヘゲモニーを手中にした。特に第4次十字軍がコンスタンティノープルを劫略した1204年以降はイタリア人達が中世ヨーロッパの経済的文化的リーダーとなった。

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このように経済構造の変動は、歴史の進行過程の中では、まるで人生80年の中の1週が過ぎるように1年と言う時間が過ぎていく。そういう感覚で変化を待つべきなのだろう。

良い政治の課題は、自然のままならば30年かかるような進化をせめて15年程度に短縮する、そのための努力を払うことだろう。そしてその間に起こるはずの不必要な対立、混乱そして死をできるだけ少なくする。これに尽きるのではあるまいか。

日本では何かというと<改革>の2文字を使っては政治に要求しているが、そもそも日本人がいう「改革」は外国では普通の政治の中で普通に行われていることのように感じとれる。それから何故いつも<改革>なのか?ヨーロッパで努力が傾注されているのは<改革>というより<再興>であることも多い。崩壊した国家、社会を再興する努力が求められることも多いはずである。中国ですら、共産党政権がやっていることは中華帝国の再興であるように感じることがある。日本は敗戦後の喪失から国家を真面目に再興したのだろうか。自信をもって再興したと言えるのだろうか?改革と称して制度・手続きを変えてばかりいると、細部にとらわれ、失敗も多くなるだろう。まるで誤差を含んだ世論調査に一喜一憂するような愚かさに堕する可能性もある。小生思うに、この「改革好き」の背景として、直近世代の努力を強調したいという願望があるのではないか?改革に失敗しても「力及ばず。。。」という弁明ができる。それに対して「再興」を目標とすれば、遠い過去から現在へ下降線をたどってきた最近世代の失敗を認めることになる。それを嫌がっている、責任を認めたくないという潜在心理。だから<改革>という言葉になるのじゃあないか?

もう一つ。これほど<改革>を求める日本人でありながら、徹底的な改革である<革命>を願う気配すら窺われないのは、小生、理解しがたいことである。この点、本当にいぶかしく感じているのだ。

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