2012年5月27日日曜日

日曜日の話し(5/27)

本日は、戦前期日本であれば「海軍記念日」であり、戸口には国旗が掲げられ、大通りは華やかな喧噪の中、多くの人が練り歩いていることだろう。しかし、現代に暮らす日本人が、近々70年ほど前まで日常に根付いていた習慣を思い起こすことはなくなった。それは、その頃の社会システムがモラル的にも政治体制的にも否定されてしまったからである。このことを残念に感じている日本人はいまでも少なからずいるだろう。

その国の歴史的変革を引き起こすほどの大きな原因となると、いくつもあるものではない。一つは人口構造だ。もう一つは生産技術上のイノベーションである。人口変動は、中でも抗うことのできない決定的な力をもつ。古代ローマ帝国の運命もそうであるし、近くは中国・清王朝の衰退も乾隆帝の時代に見られた急速な人口増加が引き起こした現象である。西ヨーロッパが14世紀に見舞われたペスト禍は、労働と資本の価格構造を激変させて、欧州封建体制をくつがえした。戦争もまた国民の人口構造を激しく揺るがす主因であることは言うまでもないことだ。

人口と技術進歩は経済学の範疇であり、いわば社会の下部構造である。小生も、基本的には下部構造が上部構造を決めていく、そういう社会観に立って物事を考えている。この辺は(というより、この辺だけは)マルクスと同じ目線だ。しかし、歴史的変革をもたらす三つ目の主因(と小生が個人的に考えている)ものは、人間の精神や魂やモラルと関係するので上部構造に属する。つまり<宗教>の変革である。

中国歴代の王朝交代には、ほとんど常に新興の宗教教団の活動を見ることができる。東ローマ帝国は6世紀に第一期黄金時代を迎え、帝国全体の領土を概ね復元できたのであるが、狭量な宗教政策をとったために、シリアからエジプトに至る地域住民の離反を招き、それが7世紀のイスラム帝国(=サラセン帝国)誕生の遠因になってしまった。ヨーロッパの中世と近世を分ける区分に宗教改革があったことは言うをまたない。

本来、宗教は人間が心の中で考える世界であり、それが世間の実態を変えるはずはないのだが、住民の意識を変え、生産活動の在り方を変え、政治を変える中で、純粋な信仰が歴史を変えてしまうことは現実にあったことと認めざるを得ない。これを逆に考えて、まずその時代の生産システムを運営するのに最も便利なようなモラル、社会意識、それを支える哲学と宗教が生まれるのだと考えてもよいのだが、これはやはり余りに単眼的で割り切りすぎだと感じる。

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日本の歴史を振り返っても、6世紀の仏教伝来後の国内対立と7世紀初めの神仏習合政策が一つの時代を作った。その後、奈良を舞台にして仏教が拡大したが、その過程は日本の古代社会の発展と並行している。天皇家から摂関家に権力が移り、政治システムが変容する平安時代の初期、都が奈良から京へ移っただけではなく、天台宗・真言宗という平安仏教が新たに興っている。貴族政治から武家政治に変わる前後には、禅宗や浄土宗、日蓮宗などの鎌倉仏教が生まれた。このように振り返ると、時代の変革期には、宗教上の改革が並行して見られるのだ。もちろん、この宗教上の変革を、時代の進展の結果と見るか、原因と見るかは意見が分かれよう。

日本の中世と近世・江戸時代を区分する要点の一つは<政治>と<宗教>との権力関係である。<中世>という時代の特徴は、まず第一に宗教が政治を動かしていた、それほどの権威と力をもっていたことである。これは、ヨーロッパの歴史と日本史で共通している点でもある。というより、儒教や道教まで宗教とみなせば、東アジアも同じである。徳川幕府による仏教対策は確かに日本の中世と近世をわけるものである。では、明治維新をどう考えるか?天皇による王政復古は、神仏習合から神仏分離・廃仏毀釈への原点回帰運動でもあった。つまり明治政府の宗教政策は、国家神道=神道国教化路線でもあったのだ、な。これは日本史上初めての宗教政策である。つまり、宗教政策という次元で見ても、明治維新は大きな歴史的変革であったわけだ。

その明治期・宗教政策が、現実の政治にどのような影響を与えたのか?その考察は、日本史・近現代にかかわる無数の研究として公表されてきたのだが、やはり太平洋戦争敗戦に至るまでの色々な意思決定に明治期・宗教政策が暗黙の、あるいはエクスプリシットな影響力を行使してきたことは否定できないと思う。それは何も<神国日本>とか<皇国史観>などを敢えて持ち出さずとも明らかではないか、と。

だとすれば戦後日本の宗教政策はどうなのか?どう変わったのか?確かに政府はいかなる宗教をも支持しないことになったが、天皇が日本国の統合の象徴であり、伊勢神宮の祭主を天皇家が務め、その他宗教とは相いれない形になっていることを考慮すれば、どうしても現行の宗教政策は、その本質において明治期・宗教政策がそのまま継続されていると、・・・小生にはそう思われてしまうのだ、な。


法隆寺・金堂壁画・二号壁全図


上の写真にみる法隆寺壁画は、昭和24年の不審火による火災で金堂が炎上し、壁画は焼け焦げ、永遠に元の姿は戻らなくなってしまった。和辻哲郎は名著『古寺巡礼』の中で、壁画の作者が求めたものは「美の完全な表現」であり、「画面において浄土の光景を物語ることではなくして、ただ永遠なるいのちを暗示する意味深い形を創作するにある」、そんなことであったのだろうと記している。制作時期は600年代末から700年代初め、奈良の都もまだなかった時代であると推定されている。

もし敗戦直後に、仏教と神道との融和を進める神仏習合政策に再び戻っていれば、その後の日本人の感性はどうなっていたであろう。小生は、日本の外交から日本人の倫理観に至るまで、相当に違った結果になっていたのじゃないかと思われるのですね。神仏習合は、聖徳太子が永年の学究の果てにようやく辿りついた本地垂迹思想に基づくものであり、世界でも例をみない<戦略的宗教政策>であった。その大方針が、江戸末期まで営々と貫かれたのだが、ついに明治政府に至って日本古来の宗教である神道が国際的宗教である仏教を抑える形で国家的支援を得た。その意味では、現在の日本の宗教政策は、江戸・室町・鎌倉・平安時代を飛び越えて、1400年も昔の水準に逆戻りしているとすら、(小生には)感じられるのである。

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