2012年5月7日月曜日

やっと気が付いた点 ― 幸福の条件と真善美

明治末年から大正デモクラシーにかけての時期は、明治維新直後に次ぐ、ヨーロッパ新思想の到来期にあたっていたようだ。いわば輸入文化の第二波である。

明治初めの翻訳文化から脱して、国内の人材が新しい価値観やモラル、社会思想を議論したのもこの頃である。哲学者・九鬼周造が、東大を卒業してヨーロッパに渡り、実存主義に触れたのも大正文化の展開と深まりにシンクロナイズしている。九鬼が「いきの構造」を著したのは、昭和に入ってから、彼が40台になっての仕事であるが、その基礎は大正期に形成されている。

九鬼は、小生の曽祖父と同じ世代に属し、此の世で同じ空気を吸ったのだが、当時の人は自分の人生のことを色々と考えたようである。どうやら食うだけが人生の大事であるとは考えなかったようである。まあ、「人はパンのみにて生くるにあらず」とバイブルでも言っているくらいだから、食うことだけが大事なわけではないとは、洋の東西を問わず、すべての人が思うことだ。

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<真善美>という。真は真理をさし、善は文字通りの善というか、モラルのこと。美は具体的な芸術作品と言うより美の本質をさす。

真善美が、人生をかけて求めるべき窮極的価値であるというのは、TVも携帯もインターネットもない時代、大学で学ぶ学生達の大半の常識であったように思われる。この真善美というのが、小生、これまではどうも鼻持ちならないというか、高学歴の青年のエリート主義が紛々としていて、あまり好きな言葉ではなかった。しかし、この<真善美>というのは、今日の<民主主義>とか、<雇用>とか<経済成長>等々の言葉よりは、よほど体系的思想に裏打ちされた確固とした概念であったと思うようになった。

端的にいえば、<幸福>を実現する窮極的価値なのだろう。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、なぜ人はモラルを守らなければならないかという理由を真剣に議論した。ソクラテスは、善でありつづけることが、幸福であるための必要条件だからだと主張した。もちろん「本当の幸福とは何か」が大問題になるわけであり、一筋縄ではいかない。モラルに執着しないことこそ幸福へ至る道であるという、人が思いつくあらゆる反論に対して、ソクラテスはロジカルな反撃を加える。その下りは、演劇を観るのにも似て、プラトンの対話編「ゴルギアス」でも最大の山場になっている。生きることの意味?自殺することの意味?「ソクラテスの弁明」は、いまでも高校の課題図書の一冊として推薦されているのだろうか?

このように考えると、真善美という価値を追求して、それを具体化する努力を払うことは、その人を幸福にするだけではなく、社会の大多数の人を幸福にする道に通じる。そう考えていたのではないかなあ、と。これまで大正期の青年たちの必読書とされた阿部次郎「三太郎の日記」など、いくつかの作品に目を通すこともあったが、全然ピンと来なかった。来なかったのが、先日、布団の中でゴロゴロしているうちに「ああ、そうだったのかなあ」と気が付いたわけ。

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必死に勉強しているうちは、どうしても暗記主義の弊害に陥りやすい。ゴロゴロしているときに、分かるべきことは、いずれ分かる。こうした分かり方は結構大事なのではなかろうか?

雇用とか、福祉とか、成長とか、これらはいかにも実用的・直接的な価値であり、有用な政治目標たりうる。しかし、何が人生にとって大事であるのか、この点を一所懸命に考えさせる教育の在り方は、決して悪いものではない。他人の人生を大事に思う官僚や政治家は、今日でもなお求められている存在である。そう思うのだが、どうだろう。


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