2012年6月26日火曜日

日本人が「自由競争」を見る目はなぜ冷たいのか?

日本では、特に霞ヶ関中央官僚や大手マスメディア経営陣にその色合いが認められるのだが、<自由競争>というものに対する忌避感が、とても強いと思うのだ。一体、なぜだろうか?

小生は、大学では経済学を専攻し、いまは統計学でメシを食っている。その経済学だが、当事者の自由な意思決定をとても尊重する。自由な意思決定をする当事者たちが、自由に交渉をする時に、社会には公正な価格が形成され、取引される商品の量もバランスのとれた量になる ― もちろん交渉上有利な地位の濫用は公的機関が摘発することを前提にしている。フェアネスという目線がそこにはあるのだな。小生の若い頃にまだ強力であったマルクス経済学陣営は、現実は問題だらけであり、改革が必要であり、究極的には革命によって資本主義システム自体を改変する必要がある。そう考えていた。この理念は、結構、いまの日本人の本音に響くかもしれんねえ。


なぜこれ程、日本人(と言ってもいいと思っている。まずは官僚集団だろうが)は<自由競争>なるものを嫌悪するのだろう?<競争>なるものを胡乱気なまなざしで見るのだろう?これをずっと、小生、不思議に思っておった。ところが、先日、そのヒントかなと思われる点に思い至った次第だ。

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ことは人間観にあるようだ。ということは社会観にもつながる。

人は三つの部分から構成されると古代ギリシア人は考えていた。一つは「頭」の部分、これは理知を担当する。二つ目は「胸」。勇気や愛情、そして怒りの感情は胸にわいてくる。例えれば人間にひそむ獅子の部分だ。三つ目は「腹」であり、そこには食欲、物欲、性欲、金銭欲、支配欲などなど際限のない欲望が溜まっている。ここには多頭大蛇、つまりヒドラが棲んでいる。ヒドラは常に理知が示す方向に反逆を試みる。時に理知と欲望が真っ正面から対立し、その人が煩悶に苦しむとき、怒りは必ず理知に味方する。古代ギリシア人はこう考えたようだ。どちらにせよ、人間は矛盾に満ちた存在である。

人間が矛盾に満ちている』ということ自体は、東洋と西洋でそれほど違った認識はしていないようだ。ただヨーロッパの哲学と(特に)日本の思想を比べてみてすぐに気がつくのは、ヨーロッパでは最高善として<幸福>をおいている点である。<本当の幸福>とは何であるのか?幸福を実現する価値とは何であるのか?文字通り<幸福>について真剣に考え抜いてきたのが、西洋の思想の特徴だ。アングロサクソンで優勢な功利主義哲学もその同じ流れにある。中国流の儒学も壮大な学問体系だが熟知していない。少なくとも福沢諭吉は近代化を進める上で儒学は敵だと言っていた。

その<幸福>だが、それは生きている人間に定義される概念だ。なぜなら存在するのは一人一人の人間であり、生まれるのも一人、命の終焉である死もまた個人に訪れるからだ。社会は人間集団がつくった仕組みに過ぎない。つまるところ一人で生まれて、一人で死んでいく人間存在について<幸福>を最高の善と見なしている。これは神を信仰することを通じて救済を願う宗教的心情にも根底でつながっている。徹底した行動で個人の心に宿る神と自分自身とのつながりを主張し、ローマ教皇の宗教行政システムを破壊したのが、16世紀のドイツで勃発した宗教改革である。マルチン・ルターがはじめてドイツ語に訳した聖書は、ドイツ語文語体を創造したといわれ、今もなお読まれ続けている ― アルプス以北と以南には確かに感性の違いがあるようだ。ウェーバーの”プロテスタンティズムの精神”に論拠を求める必要とてない。その感性の違いがその後もずっと引きつがれてきたことは、いまの欧州事情を瞥見していても分かることだ。

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さて話が拡散してしまった。

日本ではそもそも<幸福>が重要な論題になることはほぼ皆無だ。最近は国民幸福度指標などが研究テーマになっているが、それは海外の研究例の輸入である。

日本においては、個人が自由に行動する場合、それは欧米的価値基準を当てはめれば<幸福追求>という誰でも認めなければいけないはずの行動だが、日本では幸福追求はそれほどには尊重されてはおらず、<欲望>のままに勝手気ままに振る舞う、と。そんな冷たい目で見られることが多いのではなかろうか。小生、そう思うことがままあるのだが、これはねじ曲がった根性なのだろうか?少なくとも政策当局は国民をそんな目で見ているのじゃないか。<自由>とは欲望のままという意味であり、<競争>とは欲望の強い者に勝利を与える。そう見る人が日本人には多いのじゃあないか。だとすれば、競争市場メカニズムに嫌悪感をもつのは当然だ。

いわゆる<ヨーロッパ的個人主義>がもたらした成果は、(多分に建前にすぎない面もあるが)神がいなくとも人は欲望のままに行動するようにはならない、と。この自信、というか洞察・倫理感から発している。キリスト教会からの独立であるな、これは。幸福は、父なる神がいなくとも、キリスト教に帰依する心がなくとも、人間が自分の力で実現できる。それが18世紀から遅い国では19世紀にかけての「啓蒙時代」、世に浸透したヨーロッパ哲学革命である。より良い社会をつくる仕事は、理知と愛が欲望に打ち勝つ独立した個人が集まってなすべきことである。そういう誠に立派な建前、というか社会理念が歴史の地層に埋もれている。この精神的古層がヨーロッパの個人と、日本の個人の資質を分けているように思うのだ、な。人間の理智が神を継承しているから、「神の死刑宣告」がなされても、人間は堕落せずにすんだわけ。詩人ハイネはドイツ古典哲学について名著を書いているが、この辺の本筋を見事についている。

ズバリ言えば、「西洋社会」(こうとでも言うしかないでしょう)において、「市場均衡」は物欲のバランスでもないし、強欲の勝利であるとも考えていないのである ー 結果として強欲資本主義化しているというのは、市場の病気であって、欠陥であって、それは治せるものであると考える。その治す主体(通常、政府であり議員である)は多数の欲望に目を向けることなく、あくまでも理智と愛(=社会愛)に基づいて、治療方針を決定するべきだ。欲望から行動するのは恥ずかしいという感覚であって、議論は、当然、こうなるのだ、な。少なくとも理念としては。

日本でも15世紀から16世紀にかけて宗教一揆が全国に広がった。しかし本願寺が織田信長に敗れることで、封建大名の武威が宗教勢力を押さえることができた。その後、あらゆる宗教組織は禁止されるか、江戸幕府の権力機構に組み込まれた。個人の主観的価値は社会秩序の維持という大目的に従うことが当たり前になった。個人の自由を広く認めることは、彼らの欲望を肯定することと同じである、と。当然のようにこう考えるとすれば、それはこれまでに滅んだ日本の政府が政治的に作ってきた<支配のツール>である。これと同じようなことを丸山真男がかつて書いていたらしいと最近何かで読んだのだが、まだ確認していない。確か加賀一向一揆の歴史的意義についてだったと思うが・・・


歴史家というか、小説家の井沢元彦は、シリーズ『逆説の日本史』の中で「日本が、現在、宗教問題に苦しまずにすんでいるのは、織豊政権、江戸幕府がそれを解決してくれたからである」と、そんな指摘をしている。井沢氏の書く本は大変面白いのだが、小生は、この点ばかりは全く反対の見方をしているのであって、それは人間的精神を社会秩序に服従させる仕掛け、文字通りの”Japanese social mechanism”であったと受け取っているのだ。


つまり日本国では ― OECDメンバーでもある先進国では想定外のことだろうが ― いわゆる「人間解放」がまだ十分終わってないのじゃないか?そういうことであります。

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