2012年7月8日日曜日

日曜日の話し(7/8)

小生の旧友がカール・ポランニーの勉強会に参加していると知らせてきた。ポランニーといえば、クリムトを中心とした分離派装飾芸術によって、ウィーンに華やぎというか、倦怠というか、退廃というか、ハプスブルグ帝国末期特有のすえた香りが醸し出されていたはずの時代である。特に市場や資本主義のまやかし的本質をえぐりだした大物がポランニーである。同時代のウィーンからは、他に自由主義者ハイエク、創造的破壊で著名なシュンペーターが輩出した。『金融資本論』で有名なマルクス派・ヒルファーディングが活躍したのも同時代のオーストリアである。異なった分野に目を向けると、論理哲学のウィトゲンシュタインや科学哲学のエルンスト・マッハもいた。精神分析のフロイトもそうである。作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーは1911年に世を去っていた。

小生はどちらかと言えばあくの強い帝国末期のウィーン芸術よりも、まだフランス人の作品やドイツ表現主義を好む。しかし、もしも見れたら必ず見に行くという作品の一つはクリムトの下の作品だ。ギリシア人実業家がクリムトに制作注文して描かれた。


Klimt, Schubert am Klavier, 1899

この作品は、残念ながら第二次大戦最後の年である1945年に焼亡して、今はいかなる手段をもってしても実物を鑑賞することはできない。クリムトの色彩世界は、大体は美しい反面、むせ返るような衰退感と死の予感を伝えるものであるが、この作品は自然な清らかさが醸し出されていて、悲哀にも似た儚さを感じるのだな。ないのは残念だが好きな一品だ。

クリムトの弟子であるエゴン・シーレは次世代の若手であり、帝国崩壊前後のウィーンを象徴するような絵を描いている。シーレの多くは独特の人物像だが、ごく少数、自然を描いたものがある。


Egon Schiele, Vier Bäume, 1917

1917年といえばロシア革命が勃発し、第一次大戦・連合国側の大国ロシア帝国が倒壊した年である。この翌年、オーストリアは敗北しハプスブルグ王朝による統治は崩壊した。シーレはクリムトの弟子だったが、1918年に28歳で死んでいる。だから、シーレがみた世界は古い世界だけである。とはいえ、新世代ではあったが、実質は旧世代に属していたとは、上の作品を見る限りとても言えない。この作品を描き得た感覚は、伝統という規範をものともしない、100%完全な表現主義そのもののスピリットだ。

第一次世界大戦で戦死したアウグスト・マッケが"Der Blaue Reiter"に寄稿して書いている。
生命は食物以上のものであり、身体は、衣服以上のものではないか。
捉えがたい思想が、具体的に捉えられるフォルムであらわされる。星、雷、花として、フォルムとして、私たちの感覚によって捉えられる。(出所: カンディンスキー・マルク編(岡田素之・相澤正己訳)「青騎士」、42ページから引用)
目に見えている対象を描くのが絵ではない。それを見て何を思うか、その感情を表現する一つのツールが絵である。そんな思想が伝わってくる作品ではないか。まあ、芸術はすべて自分の感情を伝えるツールであり、その成果なのだから、いまの感覚から言えば当たり前のように思うが、そこは帝国末期のウィーンに生きた次世代だけあって、時代の一歩先を歩いてしまったのだろう。人間の喜びや苦悩が作品の背後にないもの、空虚で世界がそこにないものは、また芸術でもない。そんなことが記されている。

現代日本は、中学校2年の生徒が、自殺の練習を強制されたうえで、自殺をする時代である。中学生の行動は成人社会を動かしているホンネ・ベースの価値観をうつす鏡である。太平洋戦争で特攻作戦を実行した日本人の精神は何も変わってはいない。人間が大事にされない国家と時代の象徴だ。そんな時代の中でどんな悩みがあるのか、どんな喜びがあるのか、自由に表現をさせてあげれば、ビジネス志向、人気志向のいまの日本でも新しい芸術が花開くはずだ。それをしない。止める。避ける。抑える。指導に執着する。執着してもうまく行かないから形だけの社会になる。生を抑圧するものは、いつの世でも<全体の枠組み>であり、指導であり、矯正の精神である。民主主義社会においても無自覚な抑圧がある。一人の人間の生よりも多数の人間の合意を尊重する価値観。デモクラシー・民主主義という理念に含まれるこの密やかな毒のような非モラル性・非人間性を小生は甚だしく嫌悪する。

<組織重視=人間軽視>は永遠に真なる基本定理であると小生は思っている。




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