2012年8月31日金曜日

社会だけなら蟻でも持つ・・・か?

日本国内の電子書籍市場はまだまだ貧弱でこれからという段階だ。とはいえ、iPadに”Kinoppy”をインストールしてWeB Book Plusから何冊か買うと、確かに便利なものである。にしても、販売されている書籍の数がまだまだ。検索にかけると、松本清張、池波正太郎がずらっと出てくる一方で、たとえば東野圭吾はない。川端康成は「伊豆の踊り子」と「雪国」があるのだが、三島由紀夫は一冊もないと、そんな感じである。じゃあというわけで<小林秀雄>を検索すると、これがあるのだな、本当に。「考えるヒント」の1、2、3の電子書籍版が確かに売られている。この選定基準は何なのだろうと不思議に思った。が、かつての大学入試頻出作家ベスト3ではなかったかな、小生もHKの評論の大ファンであり、最近も「近代絵画」を読み返したりした − 本ブログでも悪口をたたいたことがある。

「考えるヒント1」に「プルターク英雄伝」という章がある。「プルターク英雄伝」という作品自体が、もう小林秀雄以上に<化石化済みの古典>と言える存在になっているが、いま読み返してみると、細部は完全に忘れているので、非常に新鮮だった。たとえば、以下のような下り:
歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が、私たちに親しかろう。事実、映るのは、詰まるところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというような事は、実際には誰の経験のうちにも存しない空言である。嫌った人も、憎んだ人も、殺した人でさえ、思い出のうちに浮かび上がれば、どんな摂理によるのか、思い出の主と手を結ばざるを得ない。これは私達が日常行っているいかにも真実な経験である。だから、人間は歴史を持つ。社会だけなら蟻でも持つ。
今年の夏は<円高の夏>であらずして、思いがけずも<歴史の夏>になった。消費税率引き上げという宿願を達成した現内閣を、領有権紛争という悶着が外から襲ってきた。支持率が危機的水準を割り込む原因に、外交的紛争があること、疑いがないところだ。

それにしても、人間の社会が、蟻やミツバチの社会と違う、その違いの本質は<歴史>だというのは、正に皮肉なようでズバリ本筋をつく小林節である。歴史とは記憶なのである、と。故に、歴史とは、単に過去の事実の記録ではないのであって、今の自国をどう見るかという自己定義、いわば原理・原則・モラルそのものであるという考え方は、たとえば日本側ではなく、立場を変えて中国、韓国の愛国と反日が派生してきた文脈理解にも通じるであろう。 日本人は「(反日という)誤った歴史教育」という言い方をよくするが、そういう言い方は適切ではない。そもそも<正しい・正しくない>という絶対的尺度はない。

HKが言っているように『プルターク英雄伝』で登場してくる歴史的大人物の伝記。全体を通して伝わってくるのは「人間とは限りなく弱いものである」という視点だ。どの英雄も一人の普通の人間であるという前提から書かれている。何の拍子か、自分に回ってきた仕事をこなしているうちに、それが王であったり、将軍であったり、成功するにも計算外のことが起こり、失敗するにも計算外のことが起こる。そんな人間の弱さである。現代の統計学者は<偶然>という言葉を使うが、ギリシア人達は<偶然>と言わず<神意>といい、偶然に見える事も実は必然と見なしていた。現代人と古代ギリシア人とそれほど人間社会の見方に違いがあるわけではない。だから古典たりうるのだな。
民衆という大問題とは何か。それをソフォクレスの羊飼が基本的な形に要約する。彼は羊の群れに向かって言う、「俺達は、こいつらの主人でありながら、奴隷のように奉仕して、物も言わぬ相手の言う事を聞かなければならない」。デマゴーグになるのも、タイラントになるのも、この難問の解決にはならない。言葉にたよる或は権力にたよる成功は一時であろう。何故かというと、彼らは、民衆の真相に基づいた問題の難しさに直面していないからだ。彼らの望んでいるものは、実は名声にすぎず、抱いているものは名誉心だけである。彼らの政治の動機は、必ずしも卑しいものではないし、政治の主義も悪くない場合もある。だが、彼らは、この宙に浮いた名誉心にすがりつき、これを失う恐怖から破滅するらしい。民衆から受けた好意を、まるでカネでも借りたように感じ、これを返さねばならぬと思う。・・・
オリジナルの「プルターク英雄伝」、特にギリシア・アテネの民主派の大政治家ペリクレスの章と、HK自身の思想が渾然一体となっているが、現在、まさに眼前で繰り広げられている社会像と見事に合致しているではないか。「大政治家」ペリクレスを、しかし、民会は投票で失脚させてみるが、後がまには口のうまい無能者を得て失望するという具合であった。

少し以前に生きた歴史家トインビーが、歴史を書いた根本の動機は、古代アテネのツキディデスが書いた「政治史」を研究していて、現代の我々がやってきたこと、これからやろうとすること、これらはすべてギリシア人達がやり終えているではないか。そう強く感じ、悟る所があったからだと言う。

確かに物理、化学、生物学などの自然科学領域では、現代世界が古代ギリシアを凌駕している。しかし、人間と社会に関する限り、私達の知識は何も進歩していないかのように見える事が多い。それだけ、人間という存在が複雑であり、人間社会はそれにも増して理解不能な実体であるせいかもしれない。



2012年8月29日水曜日

覚書き ― 戦争責任に関する個人的意見

既に旧聞に属するが、韓国大統領による天皇謝罪言及への日本側の反発が韓国の予想を超えるものであったのだろう、今度はなぜ日本がそれ程にまで反発するのかという疑問が生じたようだ。そこから、日本人と天皇制、ひいては昭和天皇の戦争責任にまで話が広がってきた。

小生は歴史家ではないので、本ブログで<戦争責任>という入り組んだテーマについて、深く掘り下げた論述を行うつもりはない。

しかし、ブログはノートに書き散らした物とは違って、ずっと後になってからでも読み易い形で残るものだ。良い機会だから、小生自身は<戦争責任>なるものについて、どんな考え方をしているか、未整理のまま簡単に記しておきたい。どんな立場に立っていたかを知る材料になれば、それで十分である。

× × ×

第一次世界大戦で敗北したドイツとオーストリアでは、皇帝が亡命をするか退位をして、帝国全体が崩壊した。それより先に、ロシア帝国は東部戦線で大敗する中で、1917年には革命が起こりロマノフ王朝が終焉を迎えている。皇帝一家は生存すら許されなかった。トルコ帝国も同様に消滅した。その40年前には、第二帝政下のフランスが普仏戦争でプロシアと戦い敗北し、帝政から第3共和制に移行している。第2次大戦でも敗戦国のドイツ、イタリアでは、戦前の統治体制が根こそぎ一掃されている。日本の戦後もそうした多数例を参照基準にするべきだと思う。

明治憲法下の天皇の役割など詳細な議論はここではおき、陸海軍の統帥権を把握していた昭和天皇が皇位に留まり続け、昭和時代が結果として64年間も続いたことは、そうすることが必要な理由があったにせよ、やはり日本人全体から<戦争責任>を引き受ける覚悟を奪う、というと誤りかもしれないが、少なくともそれを非常に薄弱なものとした。もっと言えば、戦争を歴史の中で批判的に掘り下げる国内の議論をやりづらくしたとは言えるのじゃないか。小生はそう思ってきた。

たとえば靖国神社にA級戦犯が合祀されている。それが中国、韓国から批判されることも多い。生前の罪は救済されると日本人の多くは考えるが、儒学的観点にたてば罪は死後も消えない。同じ敗戦国であるドイツと比較して、日本の戦争責任追及努力は十分なのかどうか、これまた入り組んだトピックであり、一概に日本はドイツに比べて悔悟の念 − 賠償の事ではない、念のため − が不十分であるとは言えないと思うが、ただ一点、日本は<戦犯>を自らが裁き、処刑するという内部努力を免れてきている。というか、その痛みを回避したと言われても仕方のない側面はある。

軍事裁判の判決を受け入れた点は、日本とドイツで同じだが、自国による<血で血を洗う>ような浄化の努力は(置かれている国際環境も違っていたが)日本とドイツとで違っている。その基本的背景として、やはり戦後も天皇が国民統合の象徴であり続け、同じ昭和天皇がずっと在位していたことが、ある種の<免罪の象徴>として機能し続けてきた。そういう見方が、どうしてもあると思うのだ、な。ドイツにはそれがなかった。今に至ってもなお未提出の宿題を督促されるかのような<錯覚>、そうでないなら<居心地の悪さ>が、何かの拍子でドスンと響くように感じるのは、歴史の歩みの中で、忘れていることがあるからではないのか。一人の人間でも80年は生きる。国家の歩みならば、100年、200年の過去は昨日、一昨日と同じである。忘れているなら、思い出すべきだ。小生はそう思う。

× × ×

いま皇位継承をめぐって女性宮家を創設する方向で話が進み、内親王の称号を与えられるのは今上天皇の直系女子に限定される方向だと憶測されている。上の戦争責任との関連で議論する向きはほとんどないと伝えられている ― 仮に議論されているとしても一般報道には絶対に出てはこないだろう。思うのだが、歴史的にも採用したことが一度もない「女性宮家」までを創設し、そこまでして明治・大正・昭和と続いてきた直系を正統として守らなければならないのだろうか?守らなくとも天皇制は維持できる。

こんな発想をするのは古いと言われれば古いのだが、男子に恵まれず、ついに今の系統が(万が一)絶えることになれば、それはそれで歴史の流れの中で下された<天意>というものではないだろうか?その時には、敗戦後に廃止された伏見宮系統の皇統が皇族に復帰して、新たに正統として皇位を継いでいけば、よいのではないだろうか?明治・大正・昭和と続く、現在の皇統が聖なるものとして、採用したことがない方策をとってまで直系に執着するには、「永遠に刻むに値するような歴史的歩みだったのだろうか?」というか、国民が心からそう願うための倫理的な根拠が薄弱ではないのか。小生、そう思うのだな。ずばり<国を誤ったではないですか>、実際、それが戦後日本の基本的姿勢だと思うのだが。なのに・・・という意味である。

日本の文化遺産の多くは、天皇と朝廷を舞台にした王朝文化である面が大きいのだが、天皇は国家と一体化してきたが故に、政治の荒波から無縁ではありえない。1945年以後10年ほどの間に ― なるほど日本人の多くは食べていくにも大変であったとは思うが ― 道義の観点からとるべき行動で、何か日本人がし忘れた行動が、あるいは幾つかあったのかもしれない。それは後世代である私たちがもう一度真剣に考えてもいいのかもしれない。ま、これが小生の個人的な意見だ。

2012年8月27日月曜日

きれいな言葉と汚い言葉の違いの本質は何だろう?

日韓両国で言葉の応酬がされている。元はといえばトップ同士でやり始めたことであり、現場はどちらかと言えば、オロオロと応対している感すら見受けられる所が、寧ろ哀れだ。ま、官僚なんて、そんなものだといえばそれまでだが。

領有権紛争自体を本ブログでとりあげてもロクな議論にはなるまい。ただ気のついたことはある。たとえば日本入国に障害がありそうな某韓国俳優がいる。竹島までの遠泳に参加したことが問題になっているらしい。日本入国が困難になったことに対する感想を記者から求められて、何も語らず、ただ自分の三人の子の名前をここで言ってもいいかと聞いたよし。その三人の子の名前は”大韓”、”民国”、”万歳”であった。

欧州では、今回の日韓関係悪化は<期限つき>と見ているようだが、上のエピソードについても、小生、憤慨や怒りの感情などは全くない。というのは、その某俳優は韓国人であり、韓国人が自国・韓国に対して<愛国心>を持ち、それを言葉で表現するのは当たり前のことである。日本人が日本に対して愛国心を持っているなら、ほぼそれと同じ感情を韓国人は自国に対して持つはずである。愛国心は、そもそも相互理解が可能な感情であり、また美しい感情でもあるはずであり、したがって相互に尊重しあうことができるはずであるし、またするべきである。

× × ×

少々別の話もある。一昨日のニュースでも報じていたが、シリア北部で取材中、銃弾に斃れたジャーナリスト山本美香さんの遺体が自宅に戻った由。父親がその思いを語っていた。TV画面に映っていた父の顔は、既に心の整理がついたのか、淡々としていた ― 事件を聞いた直後は、父が娘に寄せる愛情と労り、仕事に殉じて散った娘への誇りに娘を失ったことへの哀しみが入り混じり、それでも胸中を抑制する姿勢に清々しい人格を感じさせた。その印象は昨晩の映像をみても変わらない。

太平洋戦争中、子息を戦死で失ったことを知らされた母親は、最初に名誉の戦死を遂げられたことへの喜びを言葉にしたそうである。涙は一人になってから流したそうだ。こういう場面は、いまでも、毎年の夏、よく戦中ドラマとして放映されたりもするが、分かってはいてもそんなシーンになると観てしまうものだ。劇的であるからだ。ドラマトゥルギー上の位置づけでいえば、死に行く人の自己抑制、見送る人の自己抑制にも通じ、私たち日本人はそこに厳格に守られている行動規範を見てとり、<美>を感じ、その健気さに感動して、泣くのだ。

<自己抑制>というのは、自らがあるべき姿を思い起こし、ともすれば激しい感情や欲望に支配されがちな自己を知性によって抑える行為である。そんな時、日本人は ― というより、ホメロスの戦記叙事詩『イリアス』を読めば、洋の東西を問わず、時代を問わず、人間共通の心理でもあると思うが ― どれだけ人間自然のありかたと反していても、とるべき規範に従うその行動パターンに清らかさを感じる。そこに<実践理性>という哲学者カントが発見した人間の善なる本質をはっきりと見てとれるからだ、とまあこう言えば、何も日本人だけに当てはまる特殊な傾向とも言えまい。

× × ×

理屈の通った話をするから人は納得するのではない。モラルと節制には善を感じ、美を感じ、真理を見る思いがする反面、この2,3年の間、日本の永田町に往来している政治家が何か話をするときは、なるほどロジックは通っており、色々と計算をし、頭を使っていることは確かなのであるが、そこから醸し出される感覚は汚れた鬱陶しさ以外の何物でもない。

その理由は、知性が欲望に奉仕している、感情に支配されている。そんな弱さを恥じるのではなく、むしろ開き直っている姿勢全体に、そもそも政治を志すべきではない人間を見るからだ。もちろん、この言葉の美醜についての感覚は、政治家だけではなく、様々な年齢の普通の人たちにも言える事なのだ、な。

知性は、それ自体として非常に美しいものだ。愛国心も家族愛も、それ自体は非常に美しいものだ。道理を語っているとき、愛を語っているとき、言葉の中に汚れを感じるのは、理屈がけがらわしいからではない、感情が悪いわけではない、そこに欲望が潜んでいるからだ。その欲望に対して、相手は(もちろん自分自身も)怒りを感じるのだ。

欲望にけがされない、純粋の道理や感情は、時代や国籍を越えて理解可能なものである。小生はそう考えている。日本社会ではそれをまとめて<誠意>と呼んできた。人間共通の行動規範である。

2012年8月26日日曜日

日曜日の話し(8/26)

またまた日本テレビ系列では『24時間テレビ 愛は地球を救う』を放映している。この第1回放送は1978年、何と小生が社会で仕事を始めた年であるので、恐れ入る。よくも永く続いてきたものだ。

巷では、色々と悪しざまに言われているようだが、それほどの悪評にもかかわらず、中断もせず30年間も同じ企画を継続してきたのは、やはり利益拡大に合致するからであろう。直接的な視聴率確保だけではなく、企業イメージの向上、CM媒体としての魅力向上をもはかれる貴重な営業ツールであったのは間違いのないところだ。

小生まで今頃になって悪しざまに語ってみても仕方がないが、それにしても今年度の放送内容は見ていて涙が出る思いがした。身体に障害を負っている人は悲しいことだが多い。治らないことも多い。現実の生と、求めても得られない健常者の生との間には、大きな隔たりがある。社会的弱者でもある。しかし、小生思うのだが、不幸はどんな不幸であっても、それは神がそうしたとしか思われない側面がある。その意味では、あらゆる病気、障害、貧困、不運は、ある重要な側面において<神聖>である、と。小生は感じるのだ。というか、あらゆる<現実>は、どんなに人間の眼には理不尽に思えても、いや理不尽に思われるからこそ、神聖な一面をもつものだ。そう思うのだ、な。そこには受け入れて生きるしかない、そして死ぬしかない、そんな本質がある。

障害をテーマに番組を編集して、それによって視聴率を維持し、そんな方針全体を株式会社の営業戦略とする。この夏は、小生、はじめて腹が立ちました。
小生: 偽善だなあ、ここまで来ると・・・、気持ちが悪くなる。(利益に奉仕させるのか、不幸を、と思ったがあからさまに言うのはやめた) 
かみさん: でも、これをみて寄付をしているんだよ、たくさんの人たちが。 
小生: だから、こんなものを作るのか!作って見せるのか!こんなものを作らないと、人をいたわれないような社会なら、そんな社会は見捨てられても仕方がないだろうが。 
かみさん: 自分が気に入らないからって、そんなに悪く言うもんじゃないよ。
確かに、こんなやりとりをしているときの小生の顔は、ひどい顔だったろう。

顔と言えば、シベリア抑留を経験した日本人画家・香月泰男の真作はいずれ自分で観ようと思っている。美術館も中々充実しているとのことだ。

画家・香月は、戦争中には下関高女の美術教師をしていたことを、本の略歴で知ったのだが、ちょうどその頃、あるいはこの前後に、小生の亡くなった母が在校していたのである。香月はそこの教師を辞めて召集令状に応じたのであった。「香月先生って人、いた?絵の先生なんだけど」と、母にそんな質問をしたいものだ。



これはシベリア・シリーズの一作だ。いま立花隆「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」が宅にないので、ここではタイトルを入れられないが、なにしろ「愛は地球を救う」を見てしまった後だ、ここに挿入したいと思った次第。

前の話題は抽象絵画だった。ジャーナリズムは、特にテレビ局というのは、常に具体例を求めるものだ。しかし、不幸は、トルストイも述べているように、様々な形をとり、その本質は抽象的にしかとらえられない。愛もそうである。様々な愛があるではないか。地球を救うというが、愛が国を滅ぼすこともあったではないか。このゼロに限りなく近い浅薄さと偽善には、耐えられないほどであった。おそらく、かみさんと話していた時の私の顔は、抽象派・フォートリエの下の作品を彷彿させるものであったに違いない。


Jean Fautrier, Large Tragic Head, 1942

本当の愛が、広く悪しざまに口にされるはずはない。30年間もその愛が理解されないはずはない。多数の人がその偽善を指摘するのは、愛と言う実体がないのに愛という言葉を使っているからである。


Jean Fautrier, Hostages on a Black Ground, 1946

不幸は、数えきれぬほどの具体例を列挙しても、それでも表現しきれないものである。特定の部分に光をあてて、私たちの社会が自然にもっている素直な共感といたわりの気持ちを、営利を目的とした自社の意図に沿った方向に誘導しようとはかる経営は、ただ反発と敵意をもたらすだけではないだろうか?







2012年8月25日土曜日

高校倫理からの哲学 − 新刊書を刊行することに意味があるのか?

本日付けの日経朝刊を読んでいたら最後の36面に、岩波書店が以下の新刊広告を出していた。


高校生に倫理を教える事はいいことであるし、倫理的テーマを高校生に考えてほしいということは、もっと切実な願望だ。

しかし、<生きる>とか、<正義とは>という主題について、現在の専門家が新刊書を出すというのは、可能なのか?というか、適切なことなのだろうか?小生は深く疑問に思います、な。

おかしいでしょう。結局、著者Aは、著者Aの思想なり哲学を語る。別の専門家Bは、専門家Bの哲学を語るであろう。人によって違うはずだ。違わないというのであれば、誰が書いても合意された哲学があるということだ。そうであれば、それを書いている基本書があるということだから、改めて新刊書を出す必要はない。出すからには、意見が分かれているから出すのだろう。であれば、人によって書く事が違うということを、最初から前提にしている。

人生や正義について自分はこう思うと、新しい本を出して高校生に伝える事に何か意味があるのか?いかに生きるかとか、正義とは何かという問いかけは、人によって答えは違う。正解はないんだよね、と。それは著者の<学説>なのではないか?「正義にしても、生きることの意味についても、この人はこう言っている」と。小生、時代に取り残されつつあるのかもしれないが、そんな読み方ではまずいのではないか?ま、読んでもない内に悪口を並べるのは、いい加減にしよう。

× × ×

<生の意味>、<正義の意味>・・・こんな基本的な主題を考えさせるのであれば、ずっと読み継がれてきた<古典>を読んで、読んだことをどう受け止めるか、討論するやり方が唯一の方法だと思っている。同じ古典を読んでいながら、親の世代とは全く異なる新たな見方から、使い込まれた伝統的概念を解釈しなおす。思想の保守と変革がわかる感性を養うのに古典読みは最適であると、小生、今でも思っているのだな。

<古典>は書いている事が正しいから古典ではない。ずっと使える教材として便利だから古典なのだ。親も、その親も、またその親も同じものを読み、それを子も、またその子も読むのであれば、世代を超えて共通の素材を持っている。更に、最小限この古典を読むべきだという価値観が形成されると、自発的に努力して読み続ける。東アジアでは、それはかつて「論語」などの儒学の経書だった。歴史書も共通の古典があった。芸事では謡曲であったときく。庶民は浄瑠璃本を読み継いで言語能力を磨き上げたときく。こういう習慣を日本人全体が何百年も続ければ、精神的基盤が純粋培養されるかのように形成されても、それは自然なことだ。

欧米ではキリスト教がなお岩盤のように社会を支えている。2000年には1年間に6億3300万冊(!)の聖書が配布・販売されたという。累積では3880億冊という推定がされている。Wikipediaによる数字だ。同じ解説によれば、更に毛沢東語録が9億ないし65億冊、コーランが8億冊とある − 但し、無料配布を含めた正確な数字は分からないのが実情だ。日本人にとって般若心経、歎異抄なども同類であろう。新刊本は古典の代わりにはならない。20年先には消えているかもしれないではないか。20年先に消えるかもしれない本を素材にして、人生の意味や、正義について考えても、意味があるとは思えないのだな。




2012年8月23日木曜日

メモ ― 中国・韓国の過剰債務問題

日銀の西村副総裁による「オーストラリア準備銀行・国際決済銀行共催コンファランスにおける発言要旨」が意外な広がりで反響をもたらしている。

「評判」になっているその部分とは
What lessons can we learn from this rather cursory examination of the recent history of two advanced economies and the present situation of one emerging economy? It is clear that not every bubble-bust episode leads to a financial crisis. However, if a demographic change, a property price bubble, and a steep increase in loans coincide, then a financial crisis seems more likely. And China is now entering the "danger zone."
中国の人口構造と資産価格、さらには家計部門の債務比率が、バブルとその崩壊を経験した日本、米国と相似している。中国は”danger zone”に入っている。日銀副総裁の発言としては、結構、ショッキングな表現だったのだろう。

英紙テレグラフのコラムニストAmbrose Evans-Pritchard氏は以下のようにとりあげている。
China bubble in 'danger zone' warns Bank of Japan 
China risks a repeat of Japan’s boom-bust disaster 20 years ago as exorbitant property prices combine with a demographic tipping point, a top Japanese official has warned. 
The surge in Chinese home prices and loan growth over the past five years has surpassed extremes seen in Japan before the Nikkei bubble popped in 1990. Construction reached 12pc of GDP in China last year; it peaked in Japan at 10pc.
... Japanese stocks have fallen by 75pc and Tokyo land prices by 80pc since the economy first began to slide into a deflationary trap two decades ago, although real per capita income has held up well. Any such fate for China – a much poorer country today than Japan in 1990 – has shattering implications.
Such a warning from a Japanese official may ruffle feathers in Beijing. The Communist authorities have studied Japan’s Lost Decade closely and are convinced they can avoid the same errors. (Source: The Telegraph, 2012, 8, 23)
 日経には以下の記事が載っている。

改革開放以来の経済成長を追い風とした都市化の進展で人口の移動も進んだ。都市部に住む人口が6億9079万人にのぼり、農村部の6億5656万人を初めて上回った。全人口に占める比率は02年から12ポイント上昇し、51.2%となっている。 
 経済発展をけん引してきた東部の沿海地域は都市化率が61%。内陸部と呼ばれる中部や西部はそれぞれ47%、43%で差があるが、都市化の速度はむしろ内陸部が速い。例えば内陸の湖北省は今回の調べで初めて都市部の人口が半数を超えた。 
 産業構造も大きく変わりつつある。02年調査では農業など第1次産業で働く人が50%、サービス業など第3次産業は28%だったが、11年には1次産業が34%、3次産業が35%となり、初めて逆転した。15~64歳の「生産年齢人口」は初めて10億人を突破したが、急速な若年層の縮小と都市化の傾向は将来、労働力の不足や社会保障の負担増などとして表面化する可能性もありそうだ。(出所:日本経済新聞、2012年8月22日)

高度成長末期の日本経済を特徴づけた<転型期>。どうやら中国経済は、テイクオフも急上昇であったが、構造変化も急速であるようだ。その過程で過剰投資、過剰債務問題が表面化する可能性はそれなりに高いと見るべきかもしれない。賃金上昇に歯止めがかからないとなれば、どうも人民元の一方的上昇というのは、あまりなさそうであるし、政策運営がまずければ悪性のインフレ進行の方を懸念するべきなのかもしれない。

韓国についても家計部門の過剰債務問題がある。これは日経が紹介したFTの記事
1997年のアジア通貨危機で韓国の大企業が大幅な債務削減を余儀なくされて以降、同国の銀行は貸出資産の増加を消費者に頼ってきた。欧米同様、韓国でも家計への融資は不動産価格の上昇とともにその後10年間で急増した。 
■危機時の米国をはるかに超える債務 
 ところが、多くの先進国で消費者債務はこの4年間に減少しているのに対し、韓国の家計債務は増加の一途をたどり、昨年には可処分所得の164%に達した。これは、サブプライム危機発生時の米国の数字をはるかに上回る。 
 自己資本が充実している韓国の銀行がシステミックリスクに直面する可能性は低いものの、消費者債務の増加は、輸出依存度の低下を目指す政府の取り組みを阻害している。韓国銀行(中央銀行)は、2012年1~6月期の消費成長率がわずか1.4%にとどまったのは過剰な家計債務が原因だとみている。 
 同国は輸出市場の不振に悩まされており、経済をこれ以上弱めることなく消費者債務の増加に歯止めをかけようとしているが、道は険しいようだ。 
■政府の対応に批判の声も 
 韓国銀行は昨年、政策金利を徐々に引き上げ、政府は新規貸し出しを抑制しようと融資規制を強化した。だが、韓国銀行は今年に入って方針を一変。先月には予想外の利下げを敢行した。家計による高水準の利払いをめぐる懸念がこの決定の一因となったとみられる。 
 一方、主要金融当局である金融委員会は先週、住宅価格の下落に関する政府の懸念を受けて返済負担率の規制を緩和した。 
 金融委員会の当局者は「我々は家計債務を最大のリスク要因の1つとみている。一方で、政府からは規制を緩和し、より多くの住宅資金を借り入れられるようにすることを求められている。今回の決定はその妥協策だ」と説明する。 
 英ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドのアジア地域担当エコノミスト、エリック・ルース氏は、政府は消費者債務の問題に適切に対処できていないと指摘。「家計債務はすでに持続不可能なほど高い水準に迫っている」と警告する。

韓国は、いま欧州景気の後退から輸出需要が急減しており、先行き予断を許さない。

欧州経済は日本には直接的影響が軽微と考えられたが、中国、韓国には商品需要をとおして、あるいは金融取引を通して、相当大きなネガティブ・ショックとなる見こみになってきた。


2012年8月21日火曜日

寄付と社会的連帯につながりはあるか?

A

こんな記事がある。但し、少し古い。

今年は東日本で大震災があり寄付をした人も多いと思うが、一般的に言うと日本人はあまり寄付をしない。総務省の家計調査によると、一世帯あたりの年間平均寄付額(2009年)はわずかに2625円だという。
これに対して、米国人は寄付が好きだ。非営利団体 Independent Sector の調査(本記事の以下のデータも同様)によれば米国人は年収の3.2%を寄付しているという。これは年額に直すと1600ドルを超える。米国人は日本人の50倍もの額を寄付しているのだ。
(出所)http://blogos.com/article/27813/
確かに寄付をすることは、小生もあまりない ― とはいえ、毎年お誘いが来るようになったUNICEFには、累計で20万か30万程度は支払っているので、これも寄付に数えるなら、ゼロというわけではない。

この一方で、先日の投稿でもとりあげた日本社会の連帯感。特に大震災・原発事故以降は、これを指摘する国内外のマスコミが目立って多い。日本社会の連帯感をどう評価するか、どう見るかは、肯定・否定様々に分かれるであろうが、大勢としてはやはり日本人の間には伝統的な一体感が国民性としてあると。そう認識するのが実感に合っていると思う。その一体感の表出として2011年のいわゆる<義援金>という支援も当然含まれてくる。

とはいえ、一般に寄付が僅かであるという日本人の傾向と、社会的連帯感の強さが認められるという指摘と、互いに矛盾していることはないのだろうか?

B

寄付の文化を掘り下げていくと同胞愛、社会的弱者をどう見るか、宗教的背景等々、一筋縄でいかないことは分かっている。とはいえ、連帯感は強いが、寄付をすることは僅かであるというのであれば、解釈は一つしかない。寄付(=カネなどの贈与)ではない助け合いを日本社会は好むということだ。「情けは人のためならず」は極めて日本的なことわざである。利他的行為vs利己的行為。思わず議論を展開したくなるが、今日はこらえておく。

『自分だけがノウノウと浮かれているわけにはいかない』、そんなセリフは日本で生きている世帯であれば一度は使っているはずだ。そのつながりで考えると、日本のサラリーマンの極めて低い有給休暇消化率も説明は容易なのであって、クレイジーであるとか、分からないなどとは到底言えないわけである。

目で見える範囲、普段のつきあいの延長から体感できる「世間」。その世間は英語には翻訳が難しいはずだ ― Gooの和英辞典で検索すると"the world"が出てきたが、これはニュアンスが全く違う。"Community"とも違う。独語の"Leute"のほうがまだ近いかも。「みんな言ってるよ」のその「みんな」の語感を持っているところが「世間」と似ている。ま、いろいろあるが、<世間>というその範囲内で、日本人は極めて連帯感が強く、相互扶助的である。これは言えるのではないか。<誰か困っている人>がいるなら、<お手伝い>に行く。できるなら<カネ>などではすませない。自分が直接に出向く行動を極めて高く評価する傾向。これは小生も色々な場所で実感している。ズバリ
いざ鎌倉
の心持ちである、な。別の言葉では<常在戦場>ともいう。そこにいてあげるという行為に対して日本人は非常な恩義を感じ、感謝を捧げ、報恩の感情を胸に抱く。こういえばいいか。

しかし、鎌倉のように行ける範囲なら乗物を乗り継いででも自ら出向くが、範囲の外に出れば、あいつはいま旅をしている、ということになる。やはり日本人にとって海の向こうは、自分の暮らす世間ではなく、いわば自然の一部を為している。地球を住み家とする欧米人とは本質的心理構造が違っているといわれても仕方がないかもしれぬが、やはりこれは200年の鎖国の一つの帰結であって、日本人にとっての世間は、いま現在、国籍をとわず広がりつつあるとは言えるだろう。あと1世代か、2世代の後には、日本人も地球を住み家とするようになり、そうすれば世界のどこであっても、困っている人がいれば何か手伝うことはないかと直接出向く人が、目だって増えてくるだろう。小生はそう予測している。


2012年8月19日日曜日

日曜日の話し(8/19)

大岡信『抽象絵画への招待』を読んでいる。抽象絵画というとセザンヌ以降のキュービズムが既に抽象派への歩みであると世間ではとらえる向きが多いし、立体派の巨匠としてピカソ、ブラックを挙げるのであれば、色彩派のマティスも20世紀芸術の創始者として同時に考えないといけないだろう。とすれば、本ブログでも度々とりあげている表現派カンディンスキーは、作品をみると文字通りの抽象派だ。

<抽象>とは何なのか?対立概念は<具象>という言葉だが、抽象といい、具象といい、考えてみると、誰にとってもよく分からないのではないか?

上記「抽象絵画への招待」でも、抽象絵画はよく分からないという人が多いが、ではよく分かる絵とはどんな作品なのか?それは、つまり、見慣れているということではないのか。そう書いている。結局、絵とは平面上に創作された色の組み合わせだ。それが何を意味するのか、作った人の思いもあれば、観る人が何を思うかもある。自動車を描いているのか、自動車を作っている鉄という素材を描いているのか、そこに浮き上がっている錆を描いているのか、どう観ようと勝手である。何が描かれていようが、それをみて<美しい>という感情が生まれれば、そこに<美>の影が存在するわけであり、芸術の目的は達成されている。

小生は上野の西洋美術館に足を運んで常設展を回ることが多い。もちろん歩き疲れたあとは館内のカフェ「すいれん」で休息する。それも楽しみだ。歩いていると最後に20世紀美術のコーナーに至る。


ポロック、黒い流れ、1951年
Source:  西洋美術館


ミロ、絵画、1953年
Source:  西洋美術館

気に入った作品は模写をしてみるのが効果的な練習だ。そこは書道と似ている。しかしカンディンスキーもそうだが、上のポロックもミロも、模写は難しい。色もハッキリしているし、形もあるが、それだけで絵画が出来ているわけではない。ちょうどタンパク質とカルシウム、その他雑多な素材で人間はできているが、それだけで人間ができるわけではない。このことと似ている。

日本は、というよりどの国も、国土の上に物理的に存在している国民と物的資産だけから、できているわけではない。いま生きている日本人、日本の国土に存在している物的資産、そのどちらでもない<それ以外の要素>が、実は日本国を日本たらしめている本質であるのかもしれない。だとすれば、それが大和魂という言葉で呼ばれているものの本体であるかもしれない。それは、抽象的存在であるが故に時間を超越し、不朽かつ不変、ただ時間を超えて将来に伝えることしかできないものなのかもしれない。精神とか魂とか、いわゆる<スピリチュアル>な本質とはそういうものだろう。

21世紀は、ナショナリズムを克服することが大事な時代であると、今ももっともらしくTVの週末ワイドショーで話していたが、そんな風に単純に割り切れるものではないのかもしれない。克服は破壊とは違う。風化とも違う。これらは単なる<喪失>である。破壊をともなった創造、つまり成長でなければならない。それが発展であろう。成長と発展の本体 − 人類は、実は、未来をもたらすこの本体を真に理解しているわけではない。小生はそう思う。


2012年8月18日土曜日

<グローバル・スタンダード>が崩れたのか、日本が再評価されているのか?

学部の学生であった頃、誰とだったか、天動説と地動説について議論をしたことがある。そう。太陽が地球を回っているか、地球が太陽を回っているかの、あの有名な論争である。

何を分かり切ったことをと。一人の例外なく、そう言うはずだ。今時、天動説を唱える人物などいないはずだ。しかし、小生、若いころからへそ曲がりだった。

小生: 天動説と地動説とどちらが正しいかは決められんね。 
友人1: あほか、おめえ。天文学を知らんのか! 
小生: いいか、原点と座標軸があって、太陽を原点とするなら、そりゃあ惑星は太陽の周囲を楕円を描いて回っているよ。だから何年何月何日、何時何分に▲星は、この位置に来ると予測もできる。だけどな、ということは、原点を地球に移動したときの、▲星の位置も決まるわけよ。原点を移動したときに、旧座標と新座標がどう対応するかって問題は、高校生でもできる数学の問題だぞ。そうだろ? 
友人1: じゃあ、なんで地動説が正しいって結論になっているんだよ? 
小生: 本当は銀河系の中心に原点を定めりゃあ、もっと正確になるわけさ。太陽系も含めて、銀河全体が回転しているわけだからな。それよか全宇宙の中心の方がもっと正しいわな。だけど宇宙の中心なんて、あるかないかすら分からん。だから絶対的に正しい学説なんてないってことよ。 
友人2: そやけどな、おまえ、楕円軌道は簡単な数式ですむやろ。確かに、地球を中心に太陽や金星や木星や、それと月もな、回っているとして、それを数式で表すこともできるわな。だけど、ものすご、複雑な式になるで。そんなん、実用的じゃないやろ。

とまあ、こんな<激論>をやった覚えがある。それが、何の拍子か小生が所属していたゼミでも話題になった記憶があるのだな。その時、恩師が<思考の経済>という言葉を教えてくれたようにおぼろげに覚えている。恩師も亡くなっているし、友人が誰だったか忘却してしまったし、もし記憶違いなら、本当に申し訳ないのだが・・・

8月16日付の日経朝刊にこんな記事が載った。元記事は提携しているFinancial Timesだから日経オリジナルではない。
投資家にとって最も重要なことのひとつはアイデンティティーに関する問題だが、市場がユーロ圏のあらゆる動きに条件反射を繰り返す中では、そのことは容易に忘れ去られてしまう。そこでアイデンティティーに関連して3つの問題を提起したい。欧米は失われた10年を経験した日本と同じような状態に陥るか。米、英、独は安全な避難先か。そしてフランスはユーロ圏の中核メンバーかという問題である。

 米欧の公的部門の債務状況は日本の例に近づきつつあり、10年物国債の利回りは下がっている。日本が犯した政策の間違いに似た動きもある。

 一方で違いもある。日本の債券の利回りは名目では低いが、実質の利回りはデフレのため何年もプラスが続いている。対照的に米、英、独の債券の利回りは実質すべてマイナスだ。

 「失われた」10年という用語も不正確だ。日本経済は世界の成長に支えられて20年以上、不況を免れてきた。今はそんな支えはどこからも期待できない。ユーロ圏の政策決定者たちは思慮に欠ける緊縮政策に夢中になっている。日本では昨年の福島での原発事故への対応にみられるように社会的連帯感が今も強い。ユーロ圏の危機は連帯感の欠如に根ざしている。

 投資家にとっての安全な場所についての問題だが、米国が安全な投資先としての地位を失うとは思えない。巨額の外貨準備を抱える国はそれが米国とイデオロギー的に合わない中国であっても、ドル保有から大幅に分散することはできない。米国は最も流動性に富む深みのある市場を持つ。

 英国についても似たようなことがいえる。ユーロ危機が存在し、崩壊の可能性がある以上、神経質になった投資家の資金が英国に流入し続けるだろう。もちろん、ユーロが生き残る兆候を示す場合には状況が変わることには留意すべきだ。

 最後にフランス。ドイツに比べ政治的にも経済的にも凋落(ちょうらく)傾向にある。競争力に問題があり、輸出のパフォーマンスが悪化している。オランド大統領の改革意欲は弱い。労働市場は柔軟性に欠け、財政改革は難しい。ユーロ圏が分裂した場合には、残留した国で構成するユーロの相場は切り上がるだろうからフランスの競争力は一段と悪化する。
EUの連帯感の欠如をいう裏側で、日本社会の連帯を指摘している。大震災・原発事故で被災した人々の行動がよほど印象的であったか。よく言えば<連帯>であるが、ちょっと以前まで<護送船団>と称していた傾向と同じようなものだ。もっと口の悪い向きは<絆=過去のしがらみ>とこき下ろしていた。

泥沼のデフレは政府・日銀の無策の象徴のように言われてきているが、上に述べられているように、デフレを計算に入れると、いかにゼロ金利であっても、日本の実質金利はプラスであった。いや、プラスを続けてこれた。プラスの実質金利が続く中で、日本経済は崩壊せずに持続した。しかし、いまの欧州はマイナス金利だ。それでも、問題を解決できずにあがいている。

上から目線で批評する時は別の表現であったと記憶しているが、今度はえらく下から目線になったなあと。欧米を原点にすれば、日本は上に行ったり、下に行ったり、また上に行ったりしているように見えるのか。同じ現象を、日本を原点にして観察すれば、日本が同じフロアにかたまって、次第にガラパゴス化する中で、世界の方は上に行ったり、かと思うと急降下したりで、甚だ落ち着かない。

思わず学生時代の古い会話を思い出すきっかけになった。大層面白く読ませてもらった次第だ。


2012年8月16日木曜日

大和魂と精神主義で原発ゼロを絶対到達目標とするのか

一日古くなったが昨日の北海道新聞朝刊に枝野経済産業大臣の発言が報道されている。

周知のように政府は2030年時点の原発依存度など将来のエネルギー戦略を定めるための検討を進めている。これに関連した意見公聴会で電力会社職員が登場し、それは大変不適切であると。騒動になったのはまだ記憶に新しい。

枝野大臣は「原発ゼロでも経済成長は可能」と発言し、それに対して経済界は「悪影響が大きい」と反対している。政府が国民に示した原発ゼロの場合のシミュレーションによれば、実質GDP成長率が原発依存度を20~25%に維持するケースと比較して、4割近く低下する数字になっている由 ― 小生は数字の計算プロセスを確認する意欲を感じない。そもそも20年近い将来について経済的な予測をするだけの知見は経済学においては持っていない。5年先ですらも相当の予測誤差を考慮せざるを得ず、95%予測区間の上限と下限ではイメージが全く異なった数字になるはずである。まして18年後にどうなるかなど<数字の遊び>である。枝野大臣は「試算には技術革新や制度改革のほか、国民の努力も反映されていない」と述べたそうであり、政府試算の不備が指摘されているとのこと。

繰り返すが<不備>ではない。そもそも2030年に至るまでにどのような経済成長が見通されるのかなど、予測計算は<不可能>である。正確にいえば、計算をしてもよいが、前提条件が多すぎて信頼できない。分からないことを分かったかのように形だけを整えて非常に重要な事柄をいま決定するのは、これが文字通りの<欺瞞>でなくして、何が欺瞞たりうるのか。不真面目である。枝野大臣の発言は、本筋をついていると小生も思う。

しかしながら、「だから、原発ゼロということですよね」ともならないと思う。

◆ ~ ◆ ~ ◆

枝野大臣のいう「国民の努力」とは何を指しているのだろう?原発ゼロをいま決めるのが良いという思考回路は、2030年にはこうなりますという思考回路と方向は正反対だが、奇妙なほど本質が似通っている。どちらも<独断>に立った願望である。理論なき願望、所謂<世直し主義>という点で、いまの原発ゼロ運動は、戦前期1930年代の華族・近衛文麿による<新体制運動>に限りなく近い。政府が、2030年の原発依存率の目標値を決定するとしても、それは<気休め>であって、実効性はほぼゼロだろう。ヒト・モノ・カネが国境を越えて速やかに移動するグローバル経済の時代に、中央指導型経済の行政スキルを使ってみても、日本経済が混乱するだけである。

現在という時点で、政府が為すべきことは、原子力も勿論であるが、エネルギー産業全般の安全管理の確立である。福島第一は、その安全管理を厳格にしなかったから発生した<人災>であろう。だからこそ政府・東電の責任を追及しているのではないのか。

地球温暖化防止の観点から二酸化炭素排出率を抑制することが求められた。その当初、もしもディーゼルエンジンの原則全面禁止、ガソリンエンジン車の50%削減目標など、政府が民間経済に直接介入していればどうなったか?もちろん経済が混乱しただろう。そして、その混乱はただ混乱しただけのことになり、肝心の二酸化炭素の排出抑制は混乱自体によって結果として実現できた。そういう経路をたどったはずだ。実際には、非常に厳しい排ガス基準を設け、事業者がその基準をクリアすることを必達目標とした。その結果として、国内自動車メーカーはエンジンの技術開発をスピードアップさせ、それが競争力強化にもつながっていった。ハイブリッド技術の開発、今に至る燃費向上技術の流れはその延長にある。これが枝野大臣のいう技術進歩である。

重要なことは、社会を望ましい状態に誘導していくための知恵である。原発依存率が自然に低下するような工夫を講じることが今は大事である。厳しい安全基準をクリアするのであれば、最新鋭の原子力発電を忌避するべき理由を小生は感じない。それが本当に低コストであり電気代を節約できるのであれば。そうすれば最小のコストを負担することで、日本社会は望ましい目標を達成できるだろう。結果としてどのようなエネルギー・ミックスになるのか?それは日本国に住む全ての人が18年間をかけて自然に決めていけばよいことだ。自分の好むエネルギー源を選択し、それを実際に購入することによって、誰でも日本社会を変えることはできるのだから。政府がトップダウンで、あるいは脱原発主義者がロビー活動をしてエネルギ構成の方向を決めてしまって、それによって生まれる混乱自体が原因となり、結果として原発に頼らなくてもよかったよね、と。そんなことになれば、小生、ほんとにアホとしか(どうしても)思えないのです、な。

いかなる犠牲を払っても、特定の目標を絶対目標として掲げる。その思考法こそ、精神主義であり、それが<正しい>と社会全体が認めてしまうとき、その国は息をすることすら難しい、人間性が踏みにじられる社会となる。このことを日本人は歴史において既に経験しているはずである。






2012年8月14日火曜日

覚え書き − 世代間不公平と投票権について


経済学には<製品差別化戦略>というのがある。相手と競争するより、むしろ<オンリーワン>となって独自の製品を作る。そうすれば固い顧客層を形成して、販売価格を主導的に決める立場に身を置くことができる。利益拡大の定石なのだな。

しかし、たとえばデジタルカメラにも、レンズ性能や画像の解像度、バッテリー性能など多くの側面があって、どの次元においてどのような差別化を図るべきか、自明ではない。これには定理があって<差別化最大の原理>という結論が確かめられている。簡単に言うと、最も主要な次元では、差別化=他社との違いを最大化し、その他の次元ではむしろ違いをなくし模倣を徹底する、つまり相手との違いをなくする。ま、色々前提はあるが、これが最適なやり方である。


この差別化最大の原理を思う時、なぜ日本では政党間の政策に違いが出てこないのか?不思議に思っておった。相手が社会保障拡大、年金充実、介護保険充実、医療保険充実、子供手当の拡大を唱えれば、真っ向からそれに反対し、無駄な財政支出カットを主張する。なぜそれを言わないのかと。一方の政党が、財政支出を拡大しようといえば、もらえる人ともらえない人が分かれる。社会保障は所得分配の中低位層が得をすることが多い。他方、その財源は主として富裕層がより多く負担する。だから社会保障充実を主張する政党があれば、真っ向からそれに反対をすれば、その反対が自己利益にかなう。そんな日本人も相当数いるに決まっている。中上位層である。また富裕層の利益に依存してビジネスを展開している普通の日本人もいる。政策の差別化を最大化したうえで<ガチンコ勝負>を怖れなければ、日本の政治も大いに活性化する余地は、十分あると常々考えているのだ。しかし、そうならない。

その根因が<国債>である。いまもワイドショーで消費税率引き上げに対する不満、文句が並べ立てられていた。共通して「なぜ私たちに負担を押し付けるのでしょうか?」、「社会保障は本当に拡大されるのでしょうか?」と。現実は、カネが足りないから国債を売って富裕層(=というより銀行が預金の運用先として)が国債を買うということをしている。しかし、目には見えないので、<国>はいくらでも支給しようとすれば<国民>にカネを支給できる。それをしないで、今度はカネをとることをする。それに腹が立つ。そういう図式である。富裕層からカネを借りて、支給をまっている人に渡している。受給層は、年齢的には多くが高齢者層なのだな。高齢者層が世を去った後には、今度は貸した富裕層にカネを返すために、(今は子供である)普通の国民が節約をしなければならない − さらなる増税となる。これが<世代間不公平>と呼ばれる問題だ。投票権を現にもっている者の相当割合は受給者もしくは受給者予備軍である。となれば、負担者ではなく、受給者の利害にたって、政治家が政策を考えても、それは理にかなっていると言うべきだ。だから違いがなくなる − 昔から言われている論点である割には、この論点、ワイドショーでは(当たり前であるが)まずとりあげられることがない。マスメディアにもバイアスがある兆候である。


世代間不公平は20歳以上を有権者とする通常の投票行動では合理的に解決できない。もらう人には意思表明の機会が与えられ、負担をする人には意思表明が許されていないからだ。しかも、人数のバランス自体、受給側にとって有利な人口分布になってきた。もの言わぬ将来世代がコストを負担することにすれば、現在の有権者はいくらでもカネをもらうことができるかの錯覚に陥っても、それは自然なことである。「増税って、それをしたから社会保障が増えるのでしょうか?」というトンチンカンなやりとりが<自称・専門家>をまじえて、TV画面でなされるのは、そのためだ。

株式会社では人数ではなく、保有株数によって投票を行う。少子・高齢化で年齢分布に偏りが生じていることを考慮すれば、特に将来世代の負担に関する議案では、年齢別に投票数にウェイトをかけて集計するべきだ。特に<世代間再分配政策>を決定する際は、標準的な年齢分布をあらかじめ定義しておき、<標準年齢分布>を超えて高齢者が増えたときには一票を割り引いて数え、負担をする若年世代の投票は割り増して数える方法が合理的である。通常の国政選挙では特定の政策を選択することはできないが、国民投票ならば実行可能である。標準年齢分布は、現在の社会保障システムを持続できる年齢分布であり、それは理論的に導出可能であるはずだ。可能な範囲から一つの標準分布を決めるためには専門家が審議してから国会で決めればよい。

2012年8月13日月曜日

だって、あれは嫌だから ― このネガティブな職業選択基準

いつもはS市のアパートにいる愚息が、何という理由はないのだが、宅に帰ってきた ― 多分、お盆でアパートが閑散としており、大学に行っても誰もいないから、行くところがなくなったのだろう。

さっきまでドイツ産のヴァイツェンを飲みながら雑談をしていた。

『法曹合格者を毎年3千人出すと言うのはもう無理になっているみたいだねえ。大都市圏を弁護士であふれさせば、必ず弁護士のいない地方圏に流れていくだろう。そんな風に考えたと思うんだが、どうして流れていかないのかなあ? 』
『札幌では新司法試験が始まって市内の弁護士が3倍に増えたんだって。でも道内地方都市では、ほとんど変わらないらしいんだよね。東京の普通の法律事務所の初任給は大体600万円なんだけど、地方では700万円だというしね。過疎地に行けばもっと高いらしいよ。同じ仕事をするより、地方のほうが評価が高いはずなんだけど、東京からは出たくないらしい。 』
『それは行動として<非合理>じゃないのかい?どうしてだろう? 』
『う~ん、僕の行っていたロースクールでも感じたんだけど、東京から来る人達は、何というかなあ、「追い出された」というか、「流れてきた」っていう感じで北海道に来るらしいんだよね。 』
『そんな風に感じることがあったのかい? 』
『一年に入った直後は、かなり明らかに感じたよ。東京にいれば一流、出れば二流。そんな考え方があるみたいだよ。でもまあ、北海道って道外には出たがらないでしょ。で、北海道ならトップクラスじゃないかと思ってきたら、そうではないとわかってくるのが最初の半年なんだよね。来た人たちは、収入が低くても、やっぱり東京に戻りたがってるよ。東京の外で仕事をするのが<嫌>なんじゃないかなあ? 』
『その感じ方は、やっぱり非合理だねえ、おれも30年、東京圏には住んだけどねえ、ま、俺の場合、生まれた町は四国で東京じゃあなかったがな・・・自分を高く評価する場があれば、イギリスでもアメリカでもオーストラリアでも、どこでも行く。通常はそう考えるはずだからね。狭い日本で、地域を感覚的に細分化するのは合理的根拠がないねえ。俺の知人にね。その言い回しを英語で言ってみろという人がいたよ。「だって、嫌ですから」、英語でいうと"Why don't you get it?", "Because I hate it".こういえば"Why?"とくるはずだ。嫌だからというのは、全くもって内容がない、内実がない、エンプティじゃないか。そもそも価値を生みだす方向とは正反対だ。英語では"Because I hate"じゃなくて、"Because I want"となって、相手に言いたいことが通じるってものだ。法律では<価値>という言葉を使うことはあるかい? 』
『法律では<価値>という言葉は使わないね。<利益>のほうが多いかな。 』
『利益もそうだけど、経営学では価値というと、次は顧客満足という言葉が出てくる。経済学では付加価値だね。たとえば、鉄とゴム製品はなにもしないと無用の長物なんだけど、それを自転車という形にすれば皆の役に立つんじゃないか?そういう着想が自転車を生む。そこに価値が生まれるだろ?自転車という着想、それを作りたいという願望、みんなの喜ぶ顔、驚く顔をを見たいという前向きの動機。この動機から、現実が変わる。実態が変わる。中身が生まれて、価値が生まれるよね。「だって、あれは嫌なんだよね」、だから今やっていることをやる。そこから何が生まれるんだい?それは単なる<情緒>じゃないか。主観的な気分を伝えて、そこはかとなく「ああ、うたてかりしことよ」と言えば、源氏物語の<もののあはれ>にはなるけれど、それは自分にだけわかる<気分>であって、<意思決定>にはならんね。 』
『確かに東京を出たがらないというのは、そんな気分もあるのかもしれないね。 』  
『気分じゃなくて、大事なのは動機だ。「東京を出るのが嫌だから」ではなく、地方で得られる高い報酬より、もっと大事だと考えていること、自分が本当に欲していること、地方ではそれが得られない、東京では得られるのだ、という論拠。地方に移りたいと思う動機がない。その自覚があって、はじめて意志決定に中身ができる。ビジネスは論理だろ?とすれば、こんな風に思考しないと、意志決定は行えないよ。 』
『俺の父方の祖父は、家庭の事情で義務教育のみをおえて銀行に就職した。父は長男であり大学で研究を続ける道を断念して、実家に近い会社に入社することを余儀なくされた。俺は、父が癌になったことを大学院在学中に知って、就職の方便としてとりあえず官庁に入り、15年の間、役人生活をおくった。先祖三代にわたってずっと「そうするしか仕方がなかった」、そんな風に人生を決めてきたわけだな。』 
『それとは違って、いまお前は、そういう意味では、<自由>を与えられている。ここが違っている。何代かぶりで広い選択肢から意思決定をする巡りあわせになっている。ある面、恵まれてもいるんだが、「ああするしかなかった」という状況ではない以上、真剣に自分と向き合って、自らが本当に欲することを自覚しないといかんね。それも責任重大だ。難しいよ。まあ時間はあるから、ゆっくり自分を見つめ直せばいい。』
仕事を決めるというのは、家を買うよりもカネはかからないが、より重大な意思決定かもしれない。自分の志は、海の深層を流れる海流のようなものであり、その時々に覚える興味は世間という風に吹かれておきる波にたとえられるだろう。

自分が本当にやりたいと思っていること。それを自分で知ること自体、決して易しいことだとは言えまい。易しくはないが、仕事は自分が自分であって初めて面白く感じるものだ。仕事のために作った自分は、いつかは壊れるものだ。
俺だって、試験に受かった時は「よおし、こうなったら局長にまで偉くなって、政策の立案をリードしてやろう」と、そんなことを考えたよ。恩師に勧められるがままに試験を受けるまで、そんな風に考えたことは一度もなかったのにね。人間には<勢い>というのがあって、状況のままに自分を作るところがあるのさ。それは自分じゃあない。
自分自身を知る。自分の力は、作られた自分からは出てこない。本当の自分から初めて力は出てくるものである。

2012年8月12日日曜日

日曜日の話し(8/12)

毎月の月参りで亡父母への読経をお願いしている住職が盆供養に来た。帰りにパンフレット『はちす』を置いて行った。読むと大本山の一つである清浄華院の詠歌について説明がある。
雪のうちに 仏のみ名を 唱ふれば
      つもれる罪ぞ やがて消えぬる 
阿弥陀如来の名を唱えて只管に他力信仰を実践すれば、金銭欲、愛欲、名誉欲で汚れきった自分の心が浄化され、清らかになり、幸福に至る道に戻ることができる。そんな風な趣旨が書かれてある。

またまた古代ギリシア哲学に戻るが、ソクラテスは冤罪同様の裁判で死刑を宣告されたが、亡命の機会をことごとく断り、毒杯を仰いだ。死の前後に友人と交わした会話がいま残っているわけだが、人間は生きている間に色々な欲望で自分の心を汚す。欲望を制し、心をきれいに保つことが、<善く死ぬ>ということである。<善く生きる>だけでは十分ではないのであり、善く死ぬこともまた幸福に至る道筋である、と。そう語っている。もちろん、底流には記録者であり弟子であったプラトン自身の思想、つまり魂は過去から未来へと永遠に存在し、この世界における死の後、神の前に一度立ち戻り、そこで審判を受けるというイメージがある。だからこそ、古典『ソクラテスの弁明』の最終幕は、「さあ、皆さん、戻りましょう。あながたは生きるために。そして私は死ぬために」、ソクラテスの台詞で閉じられるのだ。

欲望に心を汚しながら生きている人間と、そんな状況から救われることこそ幸福と考える、そんな世界観において古代ギリシア人と仏教信仰は、何も異なっていない。

ギリシア人にとっては、欲望を抑えるのは理性である。浄土信仰において欲望から脱却できるのは、救済を願う信仰である。そういえば、ギリシア哲学では、正義や善悪、美と真理はしばしば話題となるのだが、<信仰>について対話が進むことは(小生の知る限り)ないのではないか。このあたり、一つ研究というか、小生の個人的趣味における探究テーマが一つ見つかったようでもある。

× × ×

亡くなった母は、フランスの印象派画家クロード・モネが大変好きであった。小生の高校時代は、父が担当したプロジェクトが迷走し、うまく行かなくなり、その悩みもあって父は体調を壊し、小生も近くにある病院まで薬をとりに使いをしたことが何度かある。地方の小都市から転居してきた母も、慣れない都会生活で健康を崩し、半月ほど入院することもあった。そんな頃であったな。小生はしばしば繁華街の書店にいった。モネの画集を買って帰ったのはそんな時期である。画集をみながら、母と一緒に茶を喫しながら、雑談で時間を過ごしたものであった。


Monet, "The Seine at Vetheuil"

モネと言えばやっぱり水と光である。が、その当時、どの作品を最も好んでいたかとなると、実はもう記憶が定かではない。母は、やはり有名な睡蓮が好きなようであったが、その母の晩年、還暦の日に画集「睡蓮」を買ってあげても、あまり嬉しそうな様子ではなかった印象がある。確かに同じ音楽を聴いても、今と昔と同じように感じるわけではない。小生にも母の気持ちは何となく分かるのだ。


上は、そんな風であった小生の高校時代、モネの画風を真似てP12号に描いた実に稚拙な油彩画である。絵の具の使い方も滅茶苦茶で、ジンクホワイトを置いたところは剥げてきており、更に真ん中左上部には引っ越しの際、乱暴に扱ったのだろうか、裂け目ができてしまっている。

不思議なことは、自分が高校時代に描いた作品を、もう一度、奇麗に模写しようとしても、同じように描けなくなっているということだ。どうしても今現在の自分が入り込んで、色が濁ってしまう。前よりも上手には仕上げられるのだが、力の抜けた、つまらない、ゴミのような絵しか描けないのだ、な。セザンヌなら憤怒のあまり、喚きながら、絵を破って丸め、そのまま火の中に投げ入れてしまうだろう。だから撮影して、ブログとして残すつもりもない。

17,8歳の頃に描けたように今は描けなくなっている。それはこの年齢になるまでに様々な欲望に心が汚れきってしまっている。その心の汚れや醜い姿が、絵に描く作品に滲み込み、それが作品を汚してしまうのだろう。そう考えれば、考えられないこともない。

だとすれば、自分の心の汚れ、醜い心の姿は醜いままに、汚れたままに表現しておく。それを残しておく。残した自分の姿を見つめる事で、せめて自分の醜悪な心を知る。それが善く死ぬためには最低限不可欠な努力ではないか。齢を重ね、偽善や自己満足はともかく、真の意味で世に貢献できる事もだんだんと少なくなる。そんな風になってから、人間に出来ることは、汚れた自己自身を自らが見つめる、その程度のことしか残っていないように思う。それが闘い終盤にさしかかり、タイムアップを予想するようになってから、誰であれ戦士ならばすることであろう。


2012年8月11日土曜日

消費増税可決 − なぜ議論の真剣勝負をしないのか

昨日の参議院で消費増税法案が可決された。実施には景気条項が緊急措置として設けられている。が、(万が一)仮に予定されている14年度実施が延期されても、景気下降局面は平均でも1年半程度であるから、せいぜい1年遅れて15年度からになるという程度であろう。消費税率がこれから4、5年間で10%にまで上がるのは確定であろう。

しかし、よく分からんねえ・・・と思うのは増税反対派は、なぜ確固とした哲学と論理を構築して、堂々たる論陣を張らなかったのか?正にこの点である。

だって簡単ではないか。実に簡単に議論を構築できる。

× × ×

現在の支出構造に問題はないと判断して、負担なきところに給付なし。そう考えるなら、政府の増税案となる。その増税案に反対するなら、支出削減を主張するのが理屈だ。

大所は、社会保障、そして公共事業、それから科学・文化・教育、軍事。何かというと公務員の給与削減がマスメディアでは論じられる。確かに高すぎる給与は下げないといけない。が、それも客観的に見て数パーセントないし1割だ。大体、給与を下げて経営が再建できた企業はありますか?あるはずがないでしょう。問題は事業内容にあるのだ。

支出削減は事業の見直しによって実行するべき事だ。事業を見直して人を整理するのだ。見直すなら、効果の小さい政府サービスから見直さなければならない。財政支出の効果とは、将来にわたって期待される便益だ。故に将来への観点にたって、見直すということになる。では、社会保障、公共事業、科学・文化・教育、軍事の中で何を見直すべきか?自ずから明らかではないか。既に人生の終盤にさしかかっている人の長い寿命をもっと長くするのではなく、これから価値を生み出す若年世代の教育に財政資金を投入するべきである。

リターンが期待できない支出は、極力節減するべきであるという原理は、企業経営、財政運営のいずれにおいても同じである。公的年金は、あくまでも想定以上に長生きする場合のリスク対応であるはずだ。そうであるならば、公的年金は、日本社会で生きるときのリスクを小さくする保険となり、国がその事業を管理運営する論拠はある(ただし必然性はない)。しかし、リスクもないのに、あげると喜ばれるので給付するという政治をすれば破産するのは当たり前だ。平均寿命が80歳の長寿社会で、65歳から80歳まで生きるのはリスクとは言えない。予想するべきことだ。予想できる事態に備えるための貯蓄を国家が管理するのは不適切だ。自己選択にまかせるべきである。また、日本国では<勤労の義務>が憲法上規定されており、自分の生きる糧は自分で得ることが義務となっている・・・とまあ、こういう論理にたって、<無駄な財政支出>を徹底的に整理するという主張をすれば、増税反対派にも論理が通ることになる。理念も確固としたものになる。理念がはっきりすれば賛同者は必ずいるものだ。賛同者が多ければ政権をとれるだろう。

× × ×

しかし、結局、反対派も最後まで「国民の生活が第一」などと言いつつ増税には反対するという理屈もなにもない、浪花節的かつ非合理的な政治行動を貫き、まったく真面目な政治論争は展開されなかった。まあ、欲しいのは自分の政治理念への支持ではなく、<議席>であったのであろうと。動機があまりにも露わであった騒動に堕した点、ここが最も情けないという感想をもったのは残念至極だ。

社会保障見直し+国防予算見直し+規制緩和+TPP参加+自由貿易推進+減税
vs
社会保障維持+資本取引規制+TPP不参加+医療、介護産業補助+増税

せめて上のような政策路線対立が、なぜ日本では有権者に対して堂々と展開されないのか?ま、つまりは日本の政治家自身が問題を理解できていない、理解するだけの頭がない、学問がない、というか関心は日本の将来ではなく、全然別の動機から政治家になった。そう言い切ってしまえば、現実を整合的に説明できるのだが。

日本において国会は国権の最高機関であり、それ故に議院内閣制を布いているのだが、それも時代の荒波に翻弄され、今後も生き延びていけるのか、誠に心もとない。そう感じたこの半月程であった。

2012年8月9日木曜日

欧州債務危機の火種はどうなるのか ― 最近の記事から

欧州債務危機は燃え盛る一方で手が付けられないという感じではない。しかし、火種は消えず、根元から消化できる体制作りが進められているわけでもなく、火の勢いが強くなったら、とりあえず水をかける。そんな対応を繰り返しているのが現実だ。

古い順に最近の記事から記録しておくと、まず日本の日経から:


(出所)日本経済新聞、2012年7月26日

6月末のEURO圏首脳声明でひと先ず水をかけたものの、メルケル独首相が帰国してから、自国で散々に非難され、経済学者グループからは反対の署名が提出されたりして、大騒ぎになった段は、本ブログでもとりあげた。欧州協調の内実を充実させるために負担を引き受けてもよいという気はドイツにはない。それがかなり明らかになり、更にイタリアの希望的観測が打ち上げられていたにすぎないという現実も露わになってきて、結局、火種はそのまま残ってしまった。

次に、独紙Frankfurter Allgemeineから:


Source: FAZ,2012,8,5

欧州内部で形成されているインバランスというか「きしみ」は、心理学的な観点からみると、既に欧州分解への道筋をたどり始めている。モンティ伊首相が独誌"Der Spiegel"によるインタビューに応じた時の発言である。

これと並行して、独バイエルン州のゼーダー蔵相は、ギリシアは今年中にも離脱するべきであると独紙"Bild am Sonntag"の取材で述べている。ドイツはギリシアの<支払責任者(Zahlmeister)>ではないというのはドイツのみならず、欧州北側諸国の共通の心情でもあるだろう。ここを乗り越えて財政統合への道筋を確立できるかどうか。信頼できる欧州財政システムを構築できるかどうか。速くやらないと時間切れになりますな。が、どうも肝心のドイツ国内がまとまりそうもない様子だ。

今後、1年から1年半位の間により緊密に統合された欧州財政システムの骨格が浮かび上がるならよいが、<会議は踊る>的な状況がダラダラと続けば、もう駄目であろう。そうなる可能性は、小生、かなり高いと見ている。仮にそうなれば、欧州は投資主体としても、投資先としても、甚だしい地盤沈下を経験するだろう。ま、世界経済の潮流は(足元では)そういう方向に流れているとは言えようが。

そもそも<EU>は、グローバル化時代の中で<統合の利益>を追求する試みだったはずだ。その統合を実現できない場合には、欧州諸国が自ら予想していたとおり、政治経済両面で多くの損失を蒙らざるを得ない。それが最初から分かっていたからこそ<EU>への道を歩んできた。失敗すれば失うものが大きいのは当然だ。単純なロジックである。では、欧州があるべき統合を成し遂げられず、まずはEURO瓦解、そしてEU自体の存在の意義が問われるようになるとして、それからどうなるか?ギリシアだけではなく、スペインでも一部の民間企業は(万が一)EURO離脱になったとしても困らないように手を打ち始めているという。こういう議論は、経済予測と同じく<自己実現的>なものなのかどうか?こんな論点に、小生、いま非常に関心を抱いているところである。


2012年8月7日火曜日

野党は常に選挙を望み、与党は常に選挙を嫌がるものなのか?

理屈で言えば、与党は政策が支持されて直近の選挙で政権を獲得したわけだ。それに対して、野党は選挙で負けて野党になったのだから、与党が政策を実現しようという過程で仮に選挙に持ち込んでもまた負けるはずである。ひょっとすると、もっと酷く負けるかもしれない。そもそも、こんな理屈は最初からあると思うのだな。

今日の朝刊には「きょうにも問責・不信任案」、「三党合意、崩壊危機」というヘッドラインが踊っている。ページをめくると「政局優先、改革どこへ」というタイトルがある。日経である。野党は首相の解散確約を求めている。すぐにでも解散すれば、法案に賛成するという。しかし、こういうやり口で解散・総選挙に持ち込んだところで、どの位の議席をとれるだろう。まあ、民主党が負ける事はほぼ確実だとはいえ、自民党も国民から嫌悪されるには違いなく、内閣支持率は30%程度からスタートして、半年以内に10%前後に落ちるであろう。見通しなき攻勢であり、勝ってどうするという戦略がない。

まあ、民主党は「やりません」と言っていた政策を「今はそれが大事です」と言いつつ実行しようとしているのだから、最初から理屈も何もないのだと言えば、それまでである。

IMFは既に日本国債のリスクの高まりを指摘している。つい最近もその危険に言及している。

 【ワシントン=柿内公輔】国際通貨基金(IMF)アジア太平洋局のジェラルド・シフ副局長は1日の記者会見で、膨大な公的債務への不安などから日本国債も利回りが高騰するリスクがあると警告した。
 欧州のような債務危機が日本で起こる可能性について、シフ氏は「短期的には想定していない」としながらも、日本国債を多く保有する高齢者の減少や、消費税増税が政局の混乱などで迷走した場合、財政の先行き不安から「投資家は保有を見直す可能性がある」との見方を示した。
 IMFは、シフ氏が団長を務めた日本に対する年次経済審査の報告書も同日発表し、復興需要で回復が進展しているが、財政不安やデフレなど「構造問題が残っている」と指摘。一方、円高是正の為替介入については、「不安定や無秩序な市場環境では活用できる」と一定の理解を示した。(出所: ロイター、2012.8.2 08:29配信)
日銀の資金循環統計(図表5−2)によれば、日本国債は約3分の2が国内金融仲介機関によって保有され、外国人の保有比率は2011年度末で既に8.3%である。両方とも利を求め機を見るに敏である。最近の円高は、日本国の金融財政運営能力が今なお海外から信頼されているからであり、その信頼がなければ国債価格はとっくに低落し、国内金利が上昇して企業が悲鳴を上げているか、でなければ円レートが暴落し世界のトラブルメーカーになっているはずである。

日本政府が瀬戸際的経済政策で何とかしのいで来られている理由は、『最後には正解を選ぶ国だ』という漠然とした世界的期待以外に何もない。その唯一の信頼基盤を、ほかならぬ国会議員たちが崩してしまう事態になれば、日本においては議院内閣制は不適切であるという論拠を構成するだろう。

一度、日本国債の市場価格が不安定化すれば、それは国内金融市場の不安定、円レートの不安定をもたらし、2、3年うちには物価、それも「デフレ脱却」という狙いとは異質の、悪性のインフレ率上昇と設備投資の低下、生産の低下が同時進行するに違いない。こうなると、日本はスペイン、イタリアと同じような政策を採らなければならない。まあ、先行例があるときの対応は日本は大得意なのであるが、余りにも情けないフォロワー(=追随国)ではないか。

きけば日本の原子力発電施設の製造技術の高さと、既存原発施設の安全管理のずさんさについては、専門家の間でも色々な指摘があったという。小生は詳細を追っていたわけではないが、原発に関する専門的知見は、時に誰にでも瞥見できる場で公表されることもあったはずだ。しかしながら、多数が納得している大勢に水を差すような忠告は、この国では<異論・奇論>、悪い場合には<狂論>に分類されて、マスメディアで面白おかしくとりあげられることが多いような気がするのだな。それは既存体制を上位、異論を述べる側を下位として、まず上下感覚で物事をとらえる日本人の悪癖に由来していることなのかもしれない。福島第一原発では東電や行政の責任が厳しく追及されているが、それは上位に立っていた者への信頼が崩れたから憤っているのか、不合理なことをしていたから非難しているのか、両方があるように思うし、更には日本人全体が原発を見ていた目線、学術的観点にたった忠告をどれだけ真面目に聴こうとしていたのか、より安い電力を求める意識はなかったか等々、利用者側にも振り返るべき側面が多々あると思っている。

もし経済政策においても、原発と同じように「それは専門家はそう考えるのでしょうけどねえ」くらいの感性で大多数の経済学者の勧告を<スルー>していると、やはりそうした行動特性にはそれに応じたペナルティが自然の手によって為される。最近はこんなことを考えたりするのだ。

どうもこの15年の傾向は、だんだん学問嫌い、理屈嫌い、クイズ好き、暗記好きという言葉でくくられるようになっている気がするし、だとすれば確立された知識が間違いであるという異論は忌避されるのも当然なのかなとも感じるわけであり、書いておくことにした。





2012年8月5日日曜日

日曜日の話し(8/5)

午後からかなり強い雨が降り始めた。知人は夫婦二人で今日から知床に旅行しているはずだ。道北もそれほど天気は良くないはずである。買い出しに出たカミさんとそんな話をしながら帰宅した。明日はビジネススクール最後の授業がある。筆記試験が50点満点。その後に事後課題として出題する重回帰分析演習が50点満点である。広島原爆記念日だ。ホントにお盆前まで授業をやっている大学は日本にどれほどあるのだろうなあ・・・と、またまた不覚にも、ぼやきが出てしまった。

前の日曜日でセザンヌの「レスタックの海」をとりあげた。が、同じテーマでセザンヌは何枚もの作品を制作している。印象派モネは、日差しが刻々と変わるごとに、同じ積み藁や寺院が異なった色あいに映えるその瞬間、瞬間を連作に描きあげた。

しかしセザンヌは、ある一つの瞬間を作品の中にとどめようとしたとは、思われない。というか、セザンヌの作品からは、それをいつ描いたのか分からないことが多い。つまり<季節感>が稀薄なのだな。では同じ対象を、何度も反復して描き続ける必然性は、セザンヌにとって何であったのか?まさか田舎暮らしで何枚も絵を描く画題が少なかったからという理由ではあるまいと思う。


The Gulf Of Marseilles Seen From L Estaque


The Bay Of L Estaque From The East


L Estaque View Through The Trees


The Gulf Of Marseille Seen From L Estaque


Rocks At L Estaque

もうキリがないので止めにしよう。大体、セザンヌは有名なリンゴにしても、郷里にあるサン・ヴィクトワール山にしても、はたまた水浴図にしても、何枚も何枚も納得するまで反復して描き続ける癖があった。確かに行動パターンとしては<癖>というべきだが、それが確固とした動機に基づく反復であるなら癖というよりは<追求>と言い直したほうが適切かもしれない。

レスタック近郊の海を見つめ続けていたかと思えば、反対の方角から見つめ直したり、樹の枝越しに海を見たり、海に沿った家を描くと思えば、今度は岩を描く。こう何枚も描くとなると、描かれる具体的な対象は、セザンヌという画家本人にとって、実は何でもよかった。その点だけは流石に分かるわけである。では、セザンヌが、自分の作品を観る人に何を伝えたいと願っていたのか。何を創造したつもりであったのか。何を見つけたつもりだったのか。

セザンヌの作品を全部鳥瞰すると、それが何であったか、小生にも分かるような気もする。と同時に、それは言葉で説明できるものではない。というか、やはり小生にも分からないような気もするのだな。

確かに言えることは、この画家は真っ直ぐに自分の道を歩いたということだ。歩けたと言った方がいい。孤独に耐えるのも天才である証拠なのだろう。晩年近くになってから、旧友ルノワールが近くに移ってきて、家族ぐるみの親交が始まったことは、セザンヌにとって幸福の源であったに違いない。それはルノワールの子息で映画監督としても高名なジャン・ルノワールが『わが父 ルノワール』で記しているところだ。とはいえ、ルノワールが近くに移ってこずとも、セザンヌは同じ人生を歩んでいたはずである。セザンヌはスケッチの帰りに雨に降られて、それが原因で肺炎をこじらせて死んだ。そういう人生を歩んだ画家である。


2012年8月4日土曜日

覚え書き ー 欧州債務危機の足どり

英紙Telegraphに欧州債務危機の進行が簡単にまとめられている。覚え書きまでに記録しておこう。7月4日以降から記す。
7月4日: 
Angela Merkel and Mario Monti hold talks in Rome, while Greece prepares for a visit from the Troika, who will assess the country's progress in implementing its €173bn bailout programme.
7月5日:
Italian and Spanish bond yields spike upwards as Mario Draghi fails to give any hint about further bond-buying by the European Central Bank.
7月6日:
US markets expected to sink on opening after disappointing jobs data fell far short of expectations and caused concerns about the strength of the economic recovery.
7月9日:
ECB President Mario Draghi Spanish gives testimony to the EU Parliament's Economic and Monetary Affairs Committee as Spanish borrowing hit danger levels ahead of eurozone finance ministers' meeting.
7月10日:
French president says policy to raise taxes for the highest earners is "not a punishment," as Sir Mervyn King warns of the damaging effect of the euro crisis on Britain and businesses around the world.
7月11日:
Riot police and protesting miners have clashed in Madrid as the Spanish prime minister Mariano Rajoy announces more sweeping austerity measures, including a rise in VAT and other taxes, and increases to spending cuts.
7月12日:
Ireland passes the latest review of its bailout programme, as Britain's economic forecaster says the Government must find £17bn of savings on top of the current £123bn austerity plan or face a £65bn deficit by 2061.
7月13日:
Italy's bond yields are hovering around the danger zone of 6pc, while civil servants in Spain protest against the government's sweeping austerity measures that were approved by the Spanish cabinet this afternoon.
7月16日:
The IMF said Britain’s growth prospects have dropped sharply over the past three months as the eurozone crisis weighs on recovery, while the top German court says it will only rule on the ESM and fiscal pact in September.
7月17日:
Ben Bernanke, the Fed chairman, said the US economy had slowed significantly due to the eurozone crisis, as reports suggested that Greece will seek a bridging loan to September.
7月18日:
The International Monetary Fund warned the eurozone was in "critical" danger, urging the European Central Bank to tackle the crisis by turning on the printing presses, as Greek leaders continue to wrestle over spending cuts.
7月19日:
Germany's lower house of parliament approved the Spanish banking bailout as Wolfgang Schaeuble, German finance minister, warned Spain faced an "emergency situation".
7月20日:
Spanish borrowing costs climb back above 7pc, as eurozone ministers hold a teleconference to approve up to a €100bn bank rescue.
7月23日:
Stock markets tumbled, Spanish borrowing costs touched new highs and the euro slumped to its lowest level against the yen in almost 12 years on Monday as Spain's debt crisis deepened, raising concerns over the wider eurozone.
7月24日:
Jose Manuel Barroso, head of the European Commission, will visit Greece for the first time since the start of the crisis on Thursday as the country's prime minister said the economy could shrink by more than 7pc this year.
7月25日:
The UK economy has shrunk by a shock 0.7pc in the second quarter, official statistics show, as Spanish officials are forced to deny that Germany is pushing the country to accept a €300bn bail-out.
7月26日:
Markets surge and Spanish borrowing costs fall back below 7pc as the head of the ECB says the euro's critics should not underestimate the political will of leaders to save the single currency.
7月27日:
Germany Chancellor Angela Merkel and French president Francois Hollande back ECB President Mario Draghi's pledge to preserve the eurozone after Bundesbank opposes bond buying by the central bank.
7月30日:
US Treasury Secretary Timothy Geithner and German finance minister Wolfgang Schaeuble urge quick reforms to end a crisis of confidence in the euro, as markets rise on hopes of imminent ECB action to tackle the crisis.
7月31日:
Greece's deputy finance minister warns that the near-bankrupt country is "on the brink" with cash reserves at "almost zero," as eurozone unemployment hits a record level of 11.2pc.
8月1日:
US markets slip as the Federal Reserve warns the economy has lost momentum so far this year and holds off on announcing any new monetary stimulus measures.
8月2日:
ECB President Mario Draghi said a rate cut was discussed but it was decided the time was not right as he stressed the central bank may act independently in markets and use "non-standard measures".
8月3日:
Spain inched closer to seeking a sovereign bailout as prime minister Mariano Rajoy opened the door to a request, but said he would first need to know the attached conditions.
 この間、ロンドン金融界は"LIBOR Scandal"で揺れている。

「この夏のEURO迷走劇」の発端は、上に記されているように、欧州中央銀行による債務危機国の国債買い取りをドラギ総裁が明言しなかったこと。そのため市場が不安に陥った。

自国政府による国債危機の解決をその国の国民が反対して行動に出る。そんなギリシア病の兆候がスペインでも認められた。「問題を解決できない」という不安が再び高まった。更に、問題解決能力をもつ責任主体が不在であるという事実。これらが夏の迷走劇に幕を降ろせないでいる原因になっている。

× × ×

独紙"Handels Blatt"ではこういう報道がある。欧州中央銀行による国債買い取りにドイツ連銀総裁が、ただ一人で猛反対をしている。その様子が「孤独な騎士」であるというのだな。

Der einsame Reiter
Im EZB-Rat stand Bundesbank-Chef Weidmann gestern allein. Als einziger von eigentlich 23 Mitgliedern stimmte er gegen die Anleihekäufe. Viele Deutsche teilen seine Skepsis - doch an den Märkten kommt sie nicht gut an.  ...  
Weidmann brandmarkte die Anleihekäufe der EZB immer wieder als Rechtsbruch - und als unvereinbar mit dem Mandat der Zentralbank. "Ich kann nicht erkennen, wie das Vertrauen in ein System zurückkehren soll, das seine Gesetze bricht", gab Weidmann im November 2011 zu Protokoll. (Source: Handels Blatt, 3,8, 2012)

ズバリ「ECBによる国債買い取りは法的根拠がなく違法である」という反対である。欧州中央銀行が、債務危機にある国の国債を買い支え、その中央銀行をドイツが支えれば、ドイツ人が財政赤字国に(大変不透明な形で)カネを上げる事と実質は同じなのであるから、ドイツ人の相当部分が連銀総裁に共感をもっているとしても、それは当たり前のことである。

× × ×

それより上にリストアップしたテレグラフ(7月12日)に述べられているが、<緊縮(austerity)>とは、すなわち強制貯蓄である。ここは要点だ。緊縮とは、消費から貯蓄へのシフトであり、つまり貯蓄率の引き上げ。所得の引き下げ・生産水準の押し下げではない。というか、緊縮により生産を押し下げてしまえば、所得が低下し、貯蓄も低下するので、そもそも累積債務の償還は不可能である。借金の返済も貯蓄であり、資産運用の一環なのだな。

国債とは、その借金を国民全員でやって、債務償還とは国民みんなが節約をして国債保有者に返済する。原理はこのように単純至極なのだ。国債のリスケジュールとは、つまりは国債保有者、大体は富裕層であるが(時に外国である)、一部の国民に対する選別的課税強化と中身は同じである。もしも国債償還のために紙幣を増刷すれば(中央銀行が国債を無際限に買い取れば)インフレによって帳消しになる。要するに、借りた者にあくまでも泣かせるか、貸した者が諦めるか、インフレという形で応分に負担するか、いずれをとるかという選択の問題である。

政治的には多数の国民を泣かせるよりは、少数の富裕層に泣いてもらうほうがよい。政府が増税して国民からカネを徴収して、富裕層に返済しても、富裕層はその国内資金を国内に再投資することはせず、新興国に投資するだけだろう。緊縮よりは、国債のリスケジュールのほうが今後のマクロ経済運営を容易にするという理屈は確かにある。しかし、国債の信頼性が崩壊する。裁量的な財政赤字は今後市場に受け入れられず、大幅な税率引き上げか、歳出削減のいずれかを選ばねばならない。だから、不健全な財政を続けた国の国民は、最後に必ず泣かないといけない。この結論は避けようがない。ツケが回ってきたといえば、その通りなのだが、その当たり前の理屈を普通の国民が理性で理解することは稀有である。








2012年8月1日水曜日

アメリカと欧州の経済近況

アメリカでは住宅市場が底入れしつつあるように見える。下図はブログ"Calculated Risk"から引用した最近のケース・シラー指数。5月には季調で2.2%の上昇。


新規失業保険申請件数も減少したことも明るい材料だ。
Department’s latest reports on how many Americans are filing new claims for jobless benefits have contained positive news about the economy even as other gauges of health have worsened. Thursday’s numbers add to that: Claims dropped 35,000 last week to a seasonally-adjusted 353,000. (Source:  Wall Street Journal, Real Time Economics)
足元のマイナス材料は農産品価格の上昇だろう。
As the world’s financial markets focus on the Fed and the ECB, another threat to global growth is showing up across emerging markets. Food inflation is spreading much faster than anyone had anticipated. (Source:  Pragmatic Capitalism
ここでも指摘されているように、マネーを「コントロール」する中央銀行が特に景気ウォッチャーにとって最重要であるわけではない。経済の実態を本質的に変えるのはマネーではなく、相対価格の変動であることは経済学全体の中で最も固い結論である。価格弾力性の低い農産品の価格上昇は、直接効果として、常に他商品の需要減退要因として働く。

最新のIFO Newsによると、ドイツの景気動向指数(IFO Business Climate Index)はまた低下したとのこと。


元々、今年の欧州経済は昨年末から上昇気配を示していたドイツ経済と債務危機から財政緊縮を強化する南欧経済との綱引きになると見ていた。上の図をみると、明らかに昨年末から本年初にかけて認められたドイツ経済の回復は、ストップしたと見てよい。

リーマンショック震源地となったアメリカの住宅市場はどうやら低落鈍化から底打ち状態に入りつつあるようだ。あとは家計の債務状況。そして住宅価格はしばらくは<鍋ぞこ>だろうが、低迷から反転へいつ移行するかが最大のポイントだ。

しかしながら、アメリカの消費者心理の低迷ぶりは変わらない。ミシガン大学のConsumer Sentiment Indexについてはロイターがこう報道している。バブル崩壊後の消費者心理悪化と政策効果に対する不信の増長は世界共通であり、ここがどのようなプロセスを経て<寛解>なり<変化>に至るのか?政治と経済の相関のありかたをみる大事な視点には違いない。
The Thomson Reuters/University of Michigan's final reading on the overall index on consumer sentiment fell to 72.3 from 73.2 in June. It was the second month in a row attitudes have soured and the lowest level since December.
But the level was a touch higher than economists' expectations for it to be unchanged from July's preliminary reading of 72.
"While consumers do not anticipate an economy-wide recessionary decline, they do not expect a pace of economic growth that could satisfactorily revive job and income prospects," survey director Richard Curtin said in a statement.
"Moreover, consumers have become increasingly convinced that current economic policies are incapable of solving the underlying problems facing the economy." 
(Source:  Reuter, Fri Jul 27, 2012 10:27am EDT)
いずれにしても、東日本大震災で地震と津波による被害よりも寧ろそれに引き起こされた原発と電力事情が日本経済の足を引っ張っているのにも似て、経済危機の発端となったアメリカ住宅価格の崩壊よりは寧ろそれによって引き起こされたヨーロッパ銀行危機をどう解決するか?いまは、こちらのほうが世界経済の構造調整要因として大きくクローズアップされたきた。

小生思うに、昨年夏のECBによる<金利引き上げ>。あれほどマクロ経済センスのない政策判断もなかったねえ。何度もいうが、そう思われます、な。