2012年8月21日火曜日

寄付と社会的連帯につながりはあるか?

A

こんな記事がある。但し、少し古い。

今年は東日本で大震災があり寄付をした人も多いと思うが、一般的に言うと日本人はあまり寄付をしない。総務省の家計調査によると、一世帯あたりの年間平均寄付額(2009年)はわずかに2625円だという。
これに対して、米国人は寄付が好きだ。非営利団体 Independent Sector の調査(本記事の以下のデータも同様)によれば米国人は年収の3.2%を寄付しているという。これは年額に直すと1600ドルを超える。米国人は日本人の50倍もの額を寄付しているのだ。
(出所)http://blogos.com/article/27813/
確かに寄付をすることは、小生もあまりない ― とはいえ、毎年お誘いが来るようになったUNICEFには、累計で20万か30万程度は支払っているので、これも寄付に数えるなら、ゼロというわけではない。

この一方で、先日の投稿でもとりあげた日本社会の連帯感。特に大震災・原発事故以降は、これを指摘する国内外のマスコミが目立って多い。日本社会の連帯感をどう評価するか、どう見るかは、肯定・否定様々に分かれるであろうが、大勢としてはやはり日本人の間には伝統的な一体感が国民性としてあると。そう認識するのが実感に合っていると思う。その一体感の表出として2011年のいわゆる<義援金>という支援も当然含まれてくる。

とはいえ、一般に寄付が僅かであるという日本人の傾向と、社会的連帯感の強さが認められるという指摘と、互いに矛盾していることはないのだろうか?

B

寄付の文化を掘り下げていくと同胞愛、社会的弱者をどう見るか、宗教的背景等々、一筋縄でいかないことは分かっている。とはいえ、連帯感は強いが、寄付をすることは僅かであるというのであれば、解釈は一つしかない。寄付(=カネなどの贈与)ではない助け合いを日本社会は好むということだ。「情けは人のためならず」は極めて日本的なことわざである。利他的行為vs利己的行為。思わず議論を展開したくなるが、今日はこらえておく。

『自分だけがノウノウと浮かれているわけにはいかない』、そんなセリフは日本で生きている世帯であれば一度は使っているはずだ。そのつながりで考えると、日本のサラリーマンの極めて低い有給休暇消化率も説明は容易なのであって、クレイジーであるとか、分からないなどとは到底言えないわけである。

目で見える範囲、普段のつきあいの延長から体感できる「世間」。その世間は英語には翻訳が難しいはずだ ― Gooの和英辞典で検索すると"the world"が出てきたが、これはニュアンスが全く違う。"Community"とも違う。独語の"Leute"のほうがまだ近いかも。「みんな言ってるよ」のその「みんな」の語感を持っているところが「世間」と似ている。ま、いろいろあるが、<世間>というその範囲内で、日本人は極めて連帯感が強く、相互扶助的である。これは言えるのではないか。<誰か困っている人>がいるなら、<お手伝い>に行く。できるなら<カネ>などではすませない。自分が直接に出向く行動を極めて高く評価する傾向。これは小生も色々な場所で実感している。ズバリ
いざ鎌倉
の心持ちである、な。別の言葉では<常在戦場>ともいう。そこにいてあげるという行為に対して日本人は非常な恩義を感じ、感謝を捧げ、報恩の感情を胸に抱く。こういえばいいか。

しかし、鎌倉のように行ける範囲なら乗物を乗り継いででも自ら出向くが、範囲の外に出れば、あいつはいま旅をしている、ということになる。やはり日本人にとって海の向こうは、自分の暮らす世間ではなく、いわば自然の一部を為している。地球を住み家とする欧米人とは本質的心理構造が違っているといわれても仕方がないかもしれぬが、やはりこれは200年の鎖国の一つの帰結であって、日本人にとっての世間は、いま現在、国籍をとわず広がりつつあるとは言えるだろう。あと1世代か、2世代の後には、日本人も地球を住み家とするようになり、そうすれば世界のどこであっても、困っている人がいれば何か手伝うことはないかと直接出向く人が、目だって増えてくるだろう。小生はそう予測している。


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