2012年8月25日土曜日

高校倫理からの哲学 − 新刊書を刊行することに意味があるのか?

本日付けの日経朝刊を読んでいたら最後の36面に、岩波書店が以下の新刊広告を出していた。


高校生に倫理を教える事はいいことであるし、倫理的テーマを高校生に考えてほしいということは、もっと切実な願望だ。

しかし、<生きる>とか、<正義とは>という主題について、現在の専門家が新刊書を出すというのは、可能なのか?というか、適切なことなのだろうか?小生は深く疑問に思います、な。

おかしいでしょう。結局、著者Aは、著者Aの思想なり哲学を語る。別の専門家Bは、専門家Bの哲学を語るであろう。人によって違うはずだ。違わないというのであれば、誰が書いても合意された哲学があるということだ。そうであれば、それを書いている基本書があるということだから、改めて新刊書を出す必要はない。出すからには、意見が分かれているから出すのだろう。であれば、人によって書く事が違うということを、最初から前提にしている。

人生や正義について自分はこう思うと、新しい本を出して高校生に伝える事に何か意味があるのか?いかに生きるかとか、正義とは何かという問いかけは、人によって答えは違う。正解はないんだよね、と。それは著者の<学説>なのではないか?「正義にしても、生きることの意味についても、この人はこう言っている」と。小生、時代に取り残されつつあるのかもしれないが、そんな読み方ではまずいのではないか?ま、読んでもない内に悪口を並べるのは、いい加減にしよう。

× × ×

<生の意味>、<正義の意味>・・・こんな基本的な主題を考えさせるのであれば、ずっと読み継がれてきた<古典>を読んで、読んだことをどう受け止めるか、討論するやり方が唯一の方法だと思っている。同じ古典を読んでいながら、親の世代とは全く異なる新たな見方から、使い込まれた伝統的概念を解釈しなおす。思想の保守と変革がわかる感性を養うのに古典読みは最適であると、小生、今でも思っているのだな。

<古典>は書いている事が正しいから古典ではない。ずっと使える教材として便利だから古典なのだ。親も、その親も、またその親も同じものを読み、それを子も、またその子も読むのであれば、世代を超えて共通の素材を持っている。更に、最小限この古典を読むべきだという価値観が形成されると、自発的に努力して読み続ける。東アジアでは、それはかつて「論語」などの儒学の経書だった。歴史書も共通の古典があった。芸事では謡曲であったときく。庶民は浄瑠璃本を読み継いで言語能力を磨き上げたときく。こういう習慣を日本人全体が何百年も続ければ、精神的基盤が純粋培養されるかのように形成されても、それは自然なことだ。

欧米ではキリスト教がなお岩盤のように社会を支えている。2000年には1年間に6億3300万冊(!)の聖書が配布・販売されたという。累積では3880億冊という推定がされている。Wikipediaによる数字だ。同じ解説によれば、更に毛沢東語録が9億ないし65億冊、コーランが8億冊とある − 但し、無料配布を含めた正確な数字は分からないのが実情だ。日本人にとって般若心経、歎異抄なども同類であろう。新刊本は古典の代わりにはならない。20年先には消えているかもしれないではないか。20年先に消えるかもしれない本を素材にして、人生の意味や、正義について考えても、意味があるとは思えないのだな。




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