2012年9月30日日曜日

日曜日の話し(9/30)

ゲーテは1749年に生まれ1832年まで、82歳になるまで生きたというから、当時としては大変な長寿である。有名な『若きウェルテルの悩み』を公表したのは25歳になる年であったので、長かったのは寿命だけではなく、芸術家としての実働期間も群を抜いたものがあった。そこにゲーテによる創造的活動を特徴づけるかなり本質的な点があるように思う。実際、ゲーテは時間というもの ― というより、時間がもたらす自然な成長 ― を何度も話している。

そのゲーテは、当初は法律を学び法曹専門家として人生を歩み始めるが、後にドイツ・ワイマール大公国で政治顧問、文化行政の責任者を務めるようになった。官僚としての煩雑な実務への倦怠、フォン・シュタイン夫人との恋愛のもつれ ― 日本の作家・森鴎外とも類似した環境であるが ― それに年来の古代文化への憧憬が重なって、誰にも告げず逃げるかのようにイタリアへ旅行し、同地に1年有半も滞在したのは、彼が37歳の時である。ゲーテがドイツに帰国した1788年の翌年の7月14日、フランス・パリのバスチーユ監獄が襲撃され、欧州全域はフランス革命の時代へと移って行った。

イタリアに滞在している間、ゲーテは画家ティッシュバインに同伴してもらい様々な地を訪れたようだ。


Tischbein,  Goethe in the Campagna, 1787

堅苦しい芸術の話しばかりしてきたが、ここに面白い出来事がある。というのは、ティッシュバインの所へ近寄ってきた幾人かの知り合いのドイツの美術家たちが、私の顔をじろじろ見てはそこいらを行ったり来たりしている。それは私もかねて気がついていたのであるが、ちょっとのあいだ私のそばを離れていたティッシュバインが帰ってくると、私に対して言うのだった、「なかなか面白いことがありますよ。詩人ゲーテがここに来たという噂がすでにひろまっていて、美術家たちは唯一の見知らぬ旅人のあなたがどうもそれらしいと白羽の矢を立てたのです」。・・・そこで私は前より大胆になって、美術家たちの中にまじり、その手法をまだ知らなかったいろいろの絵の作者のことなどをたずねた。しまいに、竜を退治して乙女を救った聖ゲオルクの画に私はいたく心を奪われた。誰もその作者を知らなかった。その時、小柄で謙遜な、今まで沈黙を守っていた一人の男が進み出て、それはヴェネチア派のポルデノーネという人の作で、それこそ彼の全技量を窺いうる傑作の一つであると教えてくれた。(岩波文庫版「イタリア紀行」(上)、173‐174頁)
ただし上の文中に登場する、ポルデノーネという画家は確かに16世紀のヴェネチアで活躍し、大画家ティッツィアーノのライバルでもあったというが、その作品に聖ゲオルクはなく、たとえばWeb Gallery of Artにも含まれていない。岩波文庫の上巻巻末にある注によれば、作品「聖ゲオルギウス」は現在バチカンの古美術館に所蔵されているが、その作者はポルデノーネではなく、パリス・ポルドーネであると。そう記述されている。ゲーテの聞き間違いである可能性が高い。

いずれにしても、そうかあ・・・ゲーテがイタリアへ逃避したのも37歳の時であったか、と。小生が役人生活を辞めて大学で残りの人生を送ろうと思い定めたのも37歳の時だったなあ。良かったか、悪かったか、わからないが ― 多分、単純な意味で偉くなったか、なれなかったかだけでいえば、悪かったのだろうが ― 同じ時点にもう一度戻れば、やはり逃避を願ったのに違いない。小生の場合は、北方へであって、ゲーテのように
君や知る、レモン花咲く国、
暗き葉かげに黄金のオレンジの輝き、
なごやかな風、青空より吹き、
銀梅花は静かに、月桂樹は高くそびゆ。
君や知る、かしこ。 
(出所)ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』 
こんな風に、憧れの南の国へ、ではなかったが。ゲーテは、しかし、ドイツに帰国した翌年からフランスで勃発したフランス革命とその後の迷走と混乱、その果てに登場したナポレオンによる第一帝政へと、急激に変化する時代の中で、周囲のドイツ人には理解しがたい非愛国的、かつ微温的・保守的態度を貫き、そのためにドイツの人たちとの間に埋めがたい疎隔が形成されてしまったと伝えられている。

そのフランス革命の思想上の指導者はジャン・ジャック・ルソーである。ルソーが生まれたのは1712年であるから、今年は<ルソー生誕300年>という年にあたる。彼が国家の成立の淵源について考察した著書『社会契約論』によって、ルソーは、今ではどうやら人民主権を唱えた先駆者としての地位ばかりではなく、共産主義思想の先覚者としても見なされていると聞く。いま小生が読んでいるのは、同じ年に発表されたもう一つの主著『エミール』である。刊行は1762年だからルソーが50歳の時の著作である。

Maurice Quentin de La Tour、Jean-Jacques Rousseau、1753
(出所)美術館コレクション

『エミール』は、仮想の生徒エミールを生まれてから成年まで、家庭教師として付き添いながら、自分はどのように躾け、教育していくことを理想とするのか、その考えをまとめた<教育小説>である。哲学者カントが、決して崩すことのなかった時計のような生活をたた一度だけ崩したのは、このエミールを読みふけった日のことであったことは、誰もが知るエピソードだ。
子どものころ肉体的な苦しみしか知らなかった人はしあわせだ。肉体の苦しみはほかの苦しみにくらべればはるかに残酷でも、つらくもないし、そのために生きることを断念するようなことはめったにない。痛風を苦にして自殺する人はいない。絶望に追い込むのは心の苦しみ以外にはないといっていい。わたしたちは子どもの状態をあわれむが、あわれむべきはむしろ私たちの状態だ。わたしたちのもっとも大きな苦しみの原因は私たち自身のうちにある。(岩波文庫版「エミール」(上)、44ページ)

ルソーは、人間はすべて善なる存在として生まれるが、社会が人間を悪いものとし、駄目な存在にすると考えるところから出発している。それにしても、少子化と人口減少へのまなざし、自殺への問題意識といい、時代を超えた現代性をもっているのがルソーの思想であり、そんな人物が300年前のフランスにいたとは不思議な気がする。

ゲーテは、フランス革命後の恐怖政治には嫌悪感をもっていたし、ドイツ帰国後のゲーテから疾風怒濤時代の魂はすでに失われていたようであるから、革命思想の象徴であるルソーには、ただ拒絶感情をのみ持っていたのかもしれない。ただこの点、エッカーマンの『ゲーテとの対話』辺りで話題になっていたのかどうか、記憶が定かではない。

2012年9月28日金曜日

覚え書き ー 理論なき年金改革は困る

経済学には重複世代モデル(OGM:Overlapping Generation Model)があり、そこでは人生を2期に分け、第1期には仕事をして所得の一部を貯蓄して第2期に備える、第2期は仕事から引退して資産を取り崩しながら、人生を終えるというライフサイクル理論と一体化されて応用されている。

しかし、現状は明らかに違うよね、と。むしろ経済学に素人の人たちの方が真っ先に「おかしい!」と言うのだな。第1期には仕事はできない被扶養期だという。それはそうだ。確かに所得を稼いでくれるまでには18年ないし24年程度、職業によってはもっと長い人的投資の<懐胎期間>がある。

だからモデルとしては第1期は人的投資期間、第2期が就業期間、第3期が引退期間となり、第2期世代が第1期世代と第3期世代を扶養する。こういう方が現実には近いはずだ。そして、第1期の投資支出に応じて、第2期の生産性が決まり、第2期の生産性に応じて第3期に利用できる貯蓄資産額が決まる。こういう流れだろう。

第3期に含まれる老齢世代が資産を取り崩すのは仕方がないが、その取り崩しは消費支出でありリターンがない。同額を第1期の幼年世代への人的投資にあてれば、幼年世代が第2期に成長した時の生産性に反映される。そうすれば現時点の第2世代が第3期になったときの生活水準が上がる事になる。よって現時点の第2期世代と第3期世代とは利害が対立し、第2期世代と第1期世代の利害は概ね一致している。しかし、第1期世代は幼少年期にあり社会の政治的意思決定に参加する権利を与えられていない。意思決定は第2期世代と第3期世代とで行われる。このように3世代構成モデルの方が現実を説明するのにより適切であろう。

× × ×

朝方、カミさんとこんな話しをした。

小生: あれだね、還暦なんて平均年齢79歳の社会では年寄りでもないけど、50を過ぎると明らかに身体能力は衰えるし、60を超えると視力とか、注意力とか、格段に下がるみたいだね。65を過ぎて仕事を続けるのは、確かにつらいものがあるんだろうね。だんだん分かるようになってきたよ。

カミさん: だから年金があるんでしょ。

小生: だけどさ、生まれて20年扶養してもらって、65から80までの15年をまた養ってもらって、働くのは何年ある?

カミさん: 45年かな。

小生: 45年働いて、35年養ってもらうっちゃあ、大体半分の人は遊んでるってことだよ。昔は人間50年で、15で元服して、死ぬ間際に体が動かなくなるまで現役だったろ。15年育ててもらって、35年働いたわけよ。いまの社会、ちょっとおかしいよね。

カミさん: そうなってるんだから、仕方ないんじゃない?

小生: 二つしか方法はないと思うんだよね。平均年齢の80歳までは生きるって予想しておかないといけない。それで、平均年齢までは自分が貯蓄しておけってわけで、国は面倒をみない。80から後は、国が面倒をみる。もう一つはその反対で、80までは国が年金で面倒をみる。しかし80よりもっと長生きする可能性もある。それは人ごとに違うから、前もって自分で保険に入っておけ。これなら保険会社は経営できるからね。平均年齢を境にして、前を国がもって後を自分でなんとかする。反対に、前は自分で用意するから、後は国が面倒をみる。どちらかしか、実行可能じゃんないんだよね、理屈で言うと。現実は、65から後は、ずっと死ぬまで国が面倒をみる。こりゃあ、破産するのが当然さ。

カミさん: うちの子供達はどうなるのかなあ?

小生: 孫を育てるくらいのカネは残してもらわないとね。それが出来なきゃ、アメリカかオーストラリアに移住するしかないだろ。墓参りや法事は、時々、日本に帰ってやればいいんだから。


2012年9月27日木曜日

自民党=改革政党を期待するとはネ!?

ヒョッとするとありうるな、とは予感していたが、自民党新総裁に安倍晋三氏が選出された。晋三の晋は幕末長州の志士・高杉晋作の晋であるからとも思えぬが、こんな批評、というか期待が早速出ている。
(前略)
安倍が本来の改革志向を前面に出し、さらに日本維新の会との連携も視野に入れて突き進めば、党内のライバルたちと衝突する。逆に党内情勢に目を配るあま り、穏健に進もうとすれば、国民からは「自民党を変えつつある」という評価を得られない。それでは肝心の総選挙でも勝てないだろう。なぜか。

 ふりかえれば、3年前の2009年総選挙で民主党が圧勝した理由はなんだったか。それは簡単だ。それまでの自民党政治を否定して「脱官僚・政治主導」 「中央集権から地域主権へ」という分かりやすいメッセージを打ち出したからだ。そして、いまの民主党の人気が急落したのは、3年前の公約を裏切ったから だ。

 脱官僚や地域主権という課題の重要さは、いまも変わっていない。日本維新の会が直近では支持率を落としているとはいえ、なお一定の強い支持を集めているのは、まさに「統治機構改革」という言葉で脱官僚や地域主権の実現を目指しているからだ。
(出所)現代ビジネス 9月27日(木)8時5分配信

「統治機構改革」自体は単なる衣装である。中身がどう変わるかであろう。結果がどう変わるかであろう。中身と結果が変われば、国民各層、各分野が得ている恩恵のあり方が変わるはずである。つまり国民各層の暮らしのあり方がどう変わるか?ここに行きつくわけであり、<改革>自体に小生は全くといっていいほど興味を持たない。<改革>であるかないかという分類は、全く無意味な論評である。歴史上有名な八代将軍・徳川吉宗が行った政策は、リアルタイムでは単に新しい政策であって、改革と自称してはいなかった。後になって崇拝者たちが「改革」と呼んだだけである。まして、本質的に改革的であった徳川綱吉や田沼意次の政策は、改革ではなく失政と評価されたりもしている。

どうも思うのだが、既存エスタブリッシュメント層の利益と顔を立てながら、新しい政策の方向を示すような提案をすれば、それは「失政」ではなく「改革」と褒めてくれるようにも感じられる。そもそも褒めるか、けなすか、その選択を通して社会的な影響を与えうる人間集団は、現時点における既得権益層であるに違いなかろう。

大体、安倍氏と言えば保守政治家として自他ともに許す存在である。改革をするなら、それは<保守改革>に決まっている。保守改革とは、既存の社会的レジームを再確認し、そのレジームの修正をしながら、既存エリートの主導のもとに、日本国の発展を図っていく態度を指す。意図するのは<上からの改革>であり、昔の学生運動風の用語を流用すれば<既存支配体制の強化>に違いないことは、基本的ロジックとして最初に出てくるはずである。改革を熱望する人は、まず改革を望むが、小生はそれが改革であるのかないのか、どうでもよいと思う。<事情通>が言う細々とした政治日程、政策課題の寸評は、井戸端会議以上の役割を果たしていない。されど、という面もあるが。
 「改革」という言葉は火の如く彼の人の口から発せられしも
世は彼の人の意図を見ず
世の人は言葉を心地よげに聴き
暗示する未来には思いが及ばざればなり
 1930年代の日本とドイツが歩いた道を再び歩く可能性もゼロではない。

× × ×

ただ「お前は野田現政権のほうを支持するんだな?」と問われれば、実は小生、安倍晋三という政治家には個人的共感を持っているのだ、な。

次の総選挙で自民党が勝利して仮に総理大臣に就任するとすれば、外交、教育、憲法改正という順で政策を考えているようだが、永年の主たる持論である憲法改正へ、一直線に進むべきだろうとは期待しているところだ。与えられた時間は短く、果たすべき課題は余りに重い。現在の日本国の政治制度においては、首相は何か一つの結果を出せば、それで十分であり、二兎を追う余裕は残らないのではないか。

こんな立場に立っていることは心覚えに書いておきたい。

× × ×

とはいうものの、同氏が6、7名程度で政府を指導するなら、力量を発揮する可能性は高いと思うのだが、現在は国務大臣だけで15名も任命しなければならない。副大臣、政務官を含めれば学校の一クラスと同じ人数だ。学力試験をするわけでもなく、現場で鍛えられてもおらず、単に選挙を通っただけの国会議員に、それほど有能で、かつ行政の責任者になりうる人材がいるとは想像できない。しかしながら、政権を獲得すれば、極力、国会議員を中心に内閣を組織するだろう。

与党を攻撃している間は、颯爽とした指導力を発揮すると思うのだが、政権を維持する側に回ると、玉石混交の国会議員集団の<石の部分>が露呈するだろう。同氏本人の力量、抱いている理念の妥当性とはほとんど関係のない事柄から ― そもそも国民は首相の理念や哲学などは聞こうとしないものである ― いずれ安倍氏は辞任を求められる。小生、そんな展開を予想している。

民主主義は、どんな目的に、なぜ必要とされ、そして望ましいのか?そんな議論をしたくもなるところだが、今日はここまでにしよう。


2012年9月25日火曜日

文学と科学・市民の生き様・ビジネスマナー

昨晩、市役所で手続きがあるとかで帰宅した愚息に、その兄、カミさんをつれて、今日はお気に入りのカフェで食事をした。これから隣町のS市に帰るという愚息を駅前のバス・ターミナルまで送って先ほど帰宅した所だ。昨日の夜、3年ぶりにシャンベルタンを飲みながら、会話した内容を心覚えに記しておきたい。

1 文学と社会科学

文学も社会科学も個人や人間集団を考えている。その違いは、どこまで人間の細部を描写するかにあると思う。池の前に佇んで水の面を見つめているうちに、これという理由もなく、その人の心の中に生じる様々な行動への動機。尊敬している人に対して反感を感じるプロセス、愛情を抱いている人に憎悪を感じる瞬間の到来、そんなプロセスを跡づけるには、真と偽が両立しない数学モデルでは不十分である。豊かな表現力をもつ地の文章で書き進めるほうがずっと説得性をもち、読む人を納得させ、モラル的な判断、法律的な認定、心理的な理解を可能にする。

真なる認識、美なる表現は、物事の細部に宿っている。細部の描写は数学は得意のようだが、実は苦手とする。

だとすれば、すべてを数量に帰着させ、定量的な関係をどうモデル化するかを考える社会科学は、思想というには余りに杜撰であり、再現性の精度という点では余りに劣悪で原始的だ。経済データの定量分析を、ああだこうだとやっている間に、経済変動のレジーム、そのレジーム遷移のメカニズム自体が変化してしまい、結論が出た時には全てをやり直さなければならない。そんな一面があるのかもしれない。その意味では経済運営は、法則と精度を求めるサイエンスというより、創造と進化を身につけるべき属人的なアートであるのかもしれない。

社会については<それは正しい>と保証された選択などはない。というか、選択も一つの行為だ。しかし人間集団には、<行為>というものはなく、<出来事>があるのみだ。この点はトーマス・マンの社会観に小生は賛成だ。

社会を理解するためには、人間を描写する文学が適しているのか、社会を科学する視点がより有効なのか、自分もまだまだ思案中で、考えあぐねている。

2 市民の生き様

One for All, All for Oneという。最近どこかで ー 新聞だったと思うがひっくり返しても見つからなくなった ー 資本主義経済のモラル的基礎となった(と言われている)キリスト教・プロテスタントの精神が個人のモラルを問うのに対して、日本人には他者をみる心、共益を重視する「強み」がある。そんな見方があるようであり、そんな日本人の強さはたとえば昨年の東日本大震災でも、改めて確かめられたと、そう書かれてあった。

他者をみる心、共益を思う心が、なぜ人間が生きるためのモラルとなるのか、小生には理解できない。モラルというのは、世間の全員が「お前は間違っている」と声を揃えて言う状況を前提して考えないと、議論にはならないのじゃないか?1足す1は2であって、それは真理であって、それと同じ意味合いで「お前の行動は善い行動だ」と確信されるのであれば、それは現実に善なのであり、「あなたは間違っていませんよ」と世間の他人が教えてくれるものではない。世間が教えられるのは<慣習・常識>であり、真の意味でのモラルではない。善い行動は、善悪を理解していない人間の言う事とは関わりなく、絶対的に善いのだと言う風に考えないと、<モラル>という分野は存在できないのではないか?だからこそプロテスタントの精神と資本主義社会の中で生きる生き様との関係が学問的テーマになりえた。そう見ないといかんだろうと。

だから、上で言う「他者をみる、共益を重視する」生き様は、なるほど共同社会の和を守る上では有効な生き様かもしれないが、それは日本人の強さなどではなく、日本に市民社会が根付いていない、個人が生きるモラルが曖昧であることの証ではないか。小生にはそう思われてしまうのだ、な。

3 ビジネスマナーの重み

確かにマナーを守っていると相手に不愉快な気持ちを与える事が少なくなり、コミュニケーションが円滑になる。それはそうだ。

しかしマナーは、目的ではなく、手段である。目的はなにか?人間関係の維持である。人間関係で最も重要な事はなにか?相手が嫌がる事はしない、相手が聞きたくない事は言わない、相手が見たくないものは見せない、そういうことか?そうではないだろう。人間関係で最も重要なことは、言う事の中身だろう。自分が考えている内容を隠す事なく相手に伝える気持ちを<誠意>と言っている。外観としては<率直>という特性として現れる。食事と同じだ。マナーは盛りつけであり、味である。もちろんこれらも大事だが、食事の目的は栄養の摂取であり、究極的には食べる人の健康だろう。食べる人の健康を真っ先に考えることが誠意であって、率直であって、それは中身に関する事であり、マナーとは別の事柄だ。

「ビジネスマナーが厳重に守られているかどうかが大事である組織は、衰退しつつあるのだと思うよ、それは枝葉末節であり、発展する組織では誰がどう言っても、いいものはいい、間違っている事は間違いだ、そんな議論ができる組織だよ、無礼はいかんが、マナーは盛りつけや上着の色と同じようなもんだ」と、そう話しておいた。

プラトンが著作『ゴルギアス』の中で、料理法や弁論術を相手を気持ちよくさせる「お世辞(flatter)」であると、ソクラテスの口を借りて言っている。ビジネスマナーも同類ではないか。だとすれば、これから専門職として<顧客>と向き合わなければならない。マナーを守って相手に不愉快な思いをさせない。それは大事だが、それでいいのか?追求するべき真の使命を率直に、誠実に実行する事が、なすべきことだ。モラルとはそういうものだろう、と。そういう話しをした。最近の敬語教育、ビジネスマナー重視は、(小生もそれがどうでもいいこととまでは言わないが)、せいぜい料理の盛りつけを考えるくらいの力点を置くのが丁度よいと。まあ、そんな話しだった。

2012年9月23日日曜日

日曜日の話し(9/23)

1816年という時点でゲーテはこのように話していたに違いないとトーマス・マンは1939年の作品『ワイマールのロッテ』の中でゲーテに語らせている。
今はもはや戦争や史詩の時代ではない。王侯は逃げ出し、市民が凱歌をあげ、実利の時代が明けようとしているのだ。見たまえ、金銭と交易、精神、商売と富とを目標にする時代が訪れようとしていて、自然までが理性的になり、常軌を逸した熱病的な震動を永遠にやめてしまい、平和と富とが永遠に保証されるのを、私たちは信じられそうな時代、それを希望できそうな時代になりつつあるのだ。 
これはほんとうに心を元気づけてくれる予想であって、私もそれには少しも不満はないのだ。しかし、自然力の一部さながらの人物が、胸中にみなぎる力を広漠とした海に取りまかれたひっそりとした場所で窒息させられている気持、鎖につながれてあらゆる行動をはばまれている巨人の気持ち、内部に沸き立ち煮えたぎる力を感じながら、土砂で口をふさがれてしまい、内部の炎の出口を失った火山の気持、溶岩は破壊もするが肥料にもなるというのにね、お前 ― そういう気持ちを想像すると、胸を押しつぶされるような思いがして、思わず同情の念を禁じられなくなるのだ。(岩波文庫版、下巻、165頁)
上で「胸中にみなぎる力を広漠とした海に取りまかれたひっそりとした場所で窒息させられている」人物はナポレオンである。ゲーテは、フランスの独裁君主ナポレオンに大変共感を抱いていて、解放戦争後もフランス皇帝から授与された勲章を佩用し、周囲の顰蹙をかうなどをしている。同時代のドイツ人からは大変冷淡な目で接されていたのも事実のようだ。

ゲーテが生きた時代は、貴族社会から市民社会への移行期であり、市民社会になると野心や名誉を求める魂よりも、損得の計算、ビジネス環境としての平和の追求が主になることはゲーテも予感していたことが分かる。その反面、人間が社会に埋没して、真の意味での英雄や天才が不必要になることも洞察していた。上は、それが寂しいという気持ちを表現した下りである。

確かに、ヨーロッパに限れば、社会を根本から変革するほどの真の英雄はナポレオンが最後であるとは言えそうだ。自由が浸透し、市民社会が成熟するにつれて、英雄や天才といえども、思うようにならなくなり、結果として社会が欲する平和が続く。ビジネスの発展がもたらされる。自由こそが、英雄や天才が自らの才能を自由に開花させることを制約する。だとすると、歴史の逆説の一例であるかもしれない。

しかし、第一次世界大戦は現実に起きたし、第二次大戦を防ぐこともできなかった。富を求める強欲な経営者は、帝国主義戦争を引き起こしたかと思えば、合理性なきバブルを形成しては、社会を混乱させている。どうせ混乱するなら、人間の<強欲>ではなく、<良心>の失敗から混乱させてほしいものだ。そう思う人は多いと思う。そんな人が半分を占めれば、資本主義は本質的な曲がり角を迎えるだろう。

考えてみれば、日中韓国境紛争も経済的合理性が背景にあるとは思われず、むしろ国威、正義を根に持つ、非市民社会的紛争である側面がある。ということは、東アジア全体に、ビジネスを原理とする本当の意味での市民社会が定着した暁には、あんな小島で戦争を心配するなどバカバカしくなるであろう。そんな予想も成り立つのかもしれない。


ティッツィアーノ、聖なる愛と俗なる愛、1515年

ワイマール市フラウエンプランにあったゲーテ宅(現・ゲーテハウス)の「黄色い広間」の壁にはティッツアーノの「聖なる愛」の模写が飾られていたと岩波文庫版(望月市恵訳)では訳されている。それは、多分、上の作品ではないかと推定するのだが、真偽は未確認である。44年ぶりに再会した旧い恋人シャルロッテとその娘、何人かの友人と、ゲーテは上の作品が飾られている広間で1816年9月25日に午餐会を開いた。『ワイマールのロッテ』でトーマス・マンはこう記している。そこで語られた話の細部まで、よくもまあマンは見てきたようにリアルに再現したものである。マンがこの小説を書いたのは123年も後のことだが、それでも全編ゲーテの詩の断片が散りばめられており、それは全てを頭の中に暗記していなければ難しいことであり、その意味では絵画にはよくあるが、全体がゲーテに対するオマージュ小説になっている。

2012年9月20日木曜日

覚書き ― どこの、誰の、何のために政治家は活動するものなのか?

「原発ゼロ方針」を結論として得ながらも、内閣は閣議決定まではしないということになった。大手マスメディア、中でも朝日新聞のヘッドラインは、例によって、この方針変更を悲憤慷慨している。


「原発ゼロ」閣議決定見送り 怒り・失望



こんな感じだ。

2030年代に原発稼働ゼロを目指すとした「革新的エネルギー・環境戦略」。この閣議決定を野田内閣が19日、見送ったことに、県内の脱原発派からは失望と怒りの声があがった。
 「国民の期待を裏切った。情けない限りだ。これでは脱原発依存を進めるのか立ち止まるのか、政権の姿勢が見えない」。東海村の村上達也村長(69)は、政府を強く批判した。
 「戦略」がまとまったのは14日。意見公募で国民の多くが「原発ゼロ」を求めたことを反映して新増設をしない方針を明記しながら、建設中断中の原発3基の扱いはあいまい。核燃料サイクル政策も維持した。
(出所)朝日新聞、2012年09月20日 

青森県や福井県などこれまでの原子力発電推進政策に協力してきた地域、あるいは原子力技術を担ってきた多くの人たちの考え方までを含めて、上の決定をどう思うか?それを本ブログで語ってみても、何の意味もない。当事者の発言記録、会議議事録のみが今後の意味を持つであろう。

ただ以前にも投稿したが、科学技術の進展、一次産品価格、二酸化炭素排出削減目標、従来形成されてきた国際的信義(=仁義?)、その他諸々の要因を考慮することなく、特定のエネルギー源を排除するという目的を、日本政府が決めて、全ての日本人を束縛するというのは、戦前・近衛内閣の新体制運動とも類似した、まあよく言えば<国民運動>のようなものである。そういう意味では、脱原発というのは、幕末の<攘夷>、戦前の<反英米>などのスローガンにも通じる一つのニュー・ジャパニーズ・スピリット。そうではないのかな、と。要するに、<再生願望>なのであろう。但し、このような精神には経済的損得計算を超脱した、非常に美しい自然回帰への感情が込められていて、だからこそ多くの人は<愚かなことを>と腹の中で感じても、頭から否定するのは辛い。そんな心情になるのであろう。日本でも「緑の党」が立ち上がりそうな状況になってきたのもその一つの現れである。小生はそう見ているところだ。

こんなことを言うと、「じゃあ、お前はどう考えているんだよ?」と、二言目にはこの質問が出てくる現在の世情が、正直なところ、甚だ情けないのだ、な。

尻取りゲームのような反復・引用をして覚書にしておきたい。

× × ×

昨日の投稿でこんなことを書いている。
こう考えると、欧米は確かに<日本の失敗>を学んでいる。日本は、色々な事を世界に先がけて体験をしてきた国だ。それでもまさか<不動産バブル崩壊>までもなあ、治療法がよく分からなかった時代に、よくもまあ果敢にバブル潰しをやってしまった。今となってはそんな風に思うのだ。
確かに1990年代、日本は果敢に不動産バブル潰しを行った。それは世論の支持を得ていたし、その当時、過剰な抑え込みによって銀行経営の健全性が毀損されるにしても、その心配は自業自得という<世の声・神の声>にかき消されるだけであったろう。ところが、20年を経過した今になって、日本銀行による過剰な引き締め、長すぎた引き締めが日本の「失われた20年」の主因になったのではないかと批判的に語られることが多いのも事実だ。それに対して、当時の日銀エコノミストが自らの著作で、当時の日銀の対処と今日の米国FRBの対応を比較して、大きな違いはなかったという議論をしている。まだなお議論が続いているのは、責める世論があるからだ。

小生は当時の雰囲気を記憶しているが<果敢に>という形容詞は当てはまらなかったように思う。<取り乱して>という方が適切だ。

政治家が国民の暮らしを第一に思っているならば、なぜ断固としてやらないのか・・・そんな論調であったかと思う。そんな言い方が何度大手マスメディアの紙上をにぎわせただろうか。

× × ×

しかし、思うのだが ― 例によってギリシア・西欧的な人間理解に沿って整理すると ― 世俗と学問、世俗と芸術という区分がよく引き合いに出される。理知の根源は哲学であり、感情の洗練は芸術であるとも言われている。確かに人間の善なる本質は理性であり、美しい感情であるに違いない。しかしながら人間は欲望をもっており、欲望が理知や感情を押し流し、その人を支配しようとするものだ。その欲望が支配している現実が、即ち生活ではないか。国民の暮らしが第一と唱える価値観に小生は、ある面、恐怖を感じる。国民の暮らしが何よりも大事であるという理念の背後には、国民の欲望をありのままに、より高尚で価値のある真なる認識、美なる感情にまして重要な政治目的にするという意志がある。そういうことになるのではないか?

国家を指導する人材が国民の欲望の充足に奉仕するのであれば、そのような人材は不要である。経済学の純粋理論によれば、欲望を充足しようとする個人が自由に行動することにより、社会的にはバランスがとれて、最も豊かな社会を実現する。色々な前提はあるものの、大筋、そんな結論が数学的に証明されているからだ。

それ故、国民の暮らしを第一に考えるという政治家は、どこかで嘘をついているか、そうでなければ無学・無教養なのではないかと、小生は見ているのだ。今回の原発ゼロ騒動でも同様な感想をもったので忘れないように書いておくことにした。

2012年9月19日水曜日

国債買い入れ+QE3 ー シノギの経済政策は功を奏するか?

昨日投稿した法曹専門家養成制度のその後の結末を記しておくと、司法修習生の健康保険上の取り扱いは、「たとえ貸与であり負債になるのだとしても、それは恒常的な家計補助であるので、それを受け取る以上、親が所属する文科省共済組合の被扶養者としては認定できぬ」というものであった。仮に当人が貸与を辞退し、親が支給するとすれば、完全な無所得になるので、親の保険の被扶養者の扱いに変更がないものと思われる。ところが、被扶養者である証明には<非課税証明書>を用いている。修習が始まり貸与を受けても、それは融資であり所得ではないので非課税証明書は発給されるであろう。修習生であることを秘匿していれば、被扶養者の認定に変更はないという論理になる。

ほんとにねえ・・・あきれ果てます。旧制度の時代、修習生は<準公務員>として<所得>を支給されていた。だから当人は裁判所共済組合に所属し、医療保険も裁判所共済組合の保険が適用されていた。その支給が貸与となり、<無所得>の状態になったので、準公務員ではあるが、裁判所共済組合には加入できなくなった。と同時に、<恒常的な収入>であるから、被扶養者とも認められないという。行政訴訟になれば、勝てません、な。

司法改革が進められていた頃は、日本のどこもかしこも「民間人の発想が合理的で、官僚が発想することは全て不合理」と、そんな妄言が一世を風靡していた時代だ。一面の真理はあるが、やっぱり基本的なロジック位はきちんと通しておかないと。ワケが分からぬ制度に変更するのは、食材がゴチャゴチャ状態のまま盛りつけて客に供するようなものだ。未完成のまま出すのは投げやりで無責任であろう。民間は失敗すれば倒産すればよい。国家の制度は検討が足りませんでしたでは済まないのだ。聞けば公認会計士養成制度はもっと酷い惨状のようだ。どこの誰が主導して導入された制度であるか、小生も巷の噂以上に知っているわけではない。とはいえ、変更案を採用したのは政府である。ズバリ、現状は「政府の恥」である。

× × ×

夏の間、欧州債務危機、新興国の経済減速で世界経済に暗雲がたれ込めた。それがサマー・バカンスが明けて、仕事モードになり、ECBの国債買い入れは(独連銀は反対したものの)まとまるし、アメリカのFRBはQE3実施に乗り出した。ロイターでも次のように報じている。

バーナンキ議長は、住宅価格の上昇にも期待を示した。住宅価格の上昇は株式と同様、資産効果を生む。 
しかしエコノミストの多くは、QE3が住宅市場の早期活性化をもたらすとは考えていない。 
バークレイズによると、MBSの利回りは14日、昨年10月以降で最大の低下幅を記録した。米抵当銀行協会(MBA)によると、9月7日までの週の30年物住宅ローン金利は平均3.75%だったが、今後一段の低下が予想される。 
それでも、リセッション時に信用記録に傷がついた消費者はいまだに借り入れに苦労している。 
キャピタル・エコノミクス(ロンドン)のエコノミスト、ポール・ディグル氏は、QE3は住宅市場を支援するだろうが、「急回復を期待してはならない」とクギを刺す。 
JPモルガン(ニューヨーク)のエコノミスト、マイケル・フェロリ氏も、QE3が向こう2年間にGDPを押し上げる効果は0.1─0.2%ポイントとみて、「住宅市場が直ちに回復するとは思わない」と述べた。 
だが、たとえ住宅市場の急回復につながらなくても、QE3でMBSに対象を絞ったことには意義がある。 
低金利維持は、住宅市場に最近見られる穏やかな回復を支援する。住宅市場は、家計資産の相当部分を占める。 
ムーディーズ・アナリティクスのエコノミスト、ライアン・スウィート氏は、雇用創出が加速し、住宅購入が促進されるまで、QE3が主に資産効果を通じて経済成長を年0.3%ポイント程度押し上げると予想。その間、住宅ローン金利を低く抑えることが重要と指摘した。
(出所)ロイター、2012年 09月 18日 12:51 配信 
確かに住宅市場に急速な回復は期待できない。しかし住宅価格には長期的底打ちの兆候が認められるようになっている。大体、アメリカの株価はダウジョーンズ工業株平均で2000年以降は1万±2000圏で安定している。2008年のリーマン危機の落ち込みもその横ばいトレンドを崩してはいない。こうした側面は、アメリカがバブル崩壊にうまく対応したと、後々評価される一里塚になるかもしれない ー それを言えば、ドイツのDAX株価指数も90年代に急上昇した後、2000年以降は5500±2500圏内にあり、やはりリーマン危機を含めてずっと長期安定傾向にある。日本である。長期じり安トレンドをずっと続けているのは。ロジックでは円安になるはずだが、逆であるのは円増価の結果が株価のじり安である。そう見るのが素直だ。

ま、いろいろと違いはあり、経済政策方針に微妙な差があるにせよ、何とかシノイでいる。成長はできていないが、価格崩壊、経済崩壊は回避しながら、シノギの経済政策を続けている。これは<マクロ経済政策>の技術進歩であると言えるのかもしれない。これもまた経済学研究の学問的成果ではなかろうか。小生、そう見ているところだ。

こう考えると、欧米は確かに<日本の失敗>を学んでいる。日本は、色々な事を世界に先がけて体験をしてきた国だ。それでもまさか<不動産バブル崩壊>までもなあ、治療法がよく分からなかった時代に、よくもまあ果敢にバブル潰しをやってしまった。今となってはそんな風に思うのだ。

2012年9月18日火曜日

法曹専門家養成制度は「制度」の名に値するのか?

国の制度というのは、ごく一般的に考えれば、全ての国民に統一的に適用されるものである。同じ状況にある者が異なった処遇を受けるとすれば、国家の制度の名には値しないだろう。そんな<愚例>の一つが現在の法曹専門家養成制度ではないかと感じるようになった。

愚息はこの3月に地元の法科大学院を卒業したが、国家試験を受験したのは卒業後のことである。在学中に受験しなかったのは、制度上できないからである ― 予備試験という抜け道は余りに人数が少なく、狭き門なのでとりあげない。司法修習は12月(11月下旬とも言っているが)から始まる。卒業後の半年余りは、奨学金給付も終了しているので、無収入になる。まあ、親御さんがいるでしょうとか、アルバイトをすればいいでしょうとか、その程度に国は考えているのだろうが、合否も分からないのに5月に受験をして、すぐにアルバイトをする志願者はいない。大半は親が金を出し、アルバイトをするのは親にカネがない家庭の子息だけである。この一点だけでも、これでいいのか、という疑問がある。

もっと奇妙な点がある。今日、職場の健康保険における扶養者認定の更新手続きをした。無収入である以上は、愚息を引き続き扶養し、医療機関受診に障害があってはならないからだ。ところが12月から司法修習が始まる。司法修習生は、従来・現在とも<準公務員>として位置付けられている。旧制度の修習生は、医局に配属された研修医と同様、毎月給与を支給されていた。しかし、給付方式は既に廃止され、新制度の下では生計費が貸与されるようになった。公務員に準ずるからアルバイトは禁止される。しかし「貸与」であるから支給される金額と同額の負債が生じる。それ故に貸与は所得とは見なされないのが論理である。親の被扶養者であったなら、そのまま扶養を必要とする経済状況にある。それが理屈だ。ところが民間企業の健康保険組合の中には、たとえ貸与という制度であれ、毎月定額の安定した収入がある以上は、親の所属する健康保険組合の被扶養者としては認定できない。それ故、国民健康保険に移行しなければならなくなる。そんな例も現実にあると聞く。

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小生が所属する健康保険は文科省の共済組合である。そこではどういう取扱いになっているかを事務官に質問すると、「司法修習生の取り扱いについては読んだ記憶があるんですよね。それを確かめればいいのですが、ただ文科省のポータルサイトは中国からのサイバー攻撃を避けるため、いま閉鎖されているんです」、と。

準公務員と定め、すべての関係者を同一に処遇するべきところを、結果としてバラバラの処遇をしている現実がある。その点に絶句していたのだが、それに加えて確認するべき事項を確認しようとすると、<中国のせいで>できないという。空を仰ぎました。今日は北海道も残暑で空は真青に澄み切っている。<中国のせい>だけではないだろう。<日本の統治者の暗愚のせい>でもあろう。そう思いました、な。

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「中国からの攻撃があるかもしれないので、今日は難しいんですよね・・・」。中国は台風とか地震ではないのである。人が住む隣国であって、モノ言わぬ自然現象ではないのだ。単純な行政事務が、対中関係のトラブルでできないとは・・・。

運転には、上手な運転と下手な運転がある。同じ目的地を目指すなら、燃費をおさえて、不必要なトラブルを避けるのが上手な運転の名に値する。この3年間の民主党政権は酷い運転ぶりである。たしかに法曹専門家制度は、制度自体が奇妙かつ杜撰である。それを洗練したものに改善してくれば、それはそれで司法改革の理念を実現しようとする努力の証となる。しかし、民主党は常に「もっと大事な事柄がある」と強弁し、必要なことは放置し、強弁したことは全て諦めるに至った。唯一の成果である消費税率引き上げは、そもそも民主党が約束したことではなく、官僚組織の成果である。これほど怠惰であった与党・政党を小生は知らない。何か一つは結果を出してきたという記憶がある。政権交代は無残な失敗であったというべきだ。<政権交代自体に意味がある(あった)>。もちろんこういう見方もあろう。5年連続でBクラスに沈めば、監督交代自体に意味がある。しかし監督を代えても駄目だった。<交代>にはもはや意味がなく、<力量>だけが意味のある事柄になってきた。そう言えるのではないだろうか。

いやいや、専門家養成制度の在り方から、民主党政治批判へと、またまた話が拡散した。この辺でやめておこう。

2012年9月16日日曜日

日曜日の話し(9/16)

昨日は東京で母の23回忌を執り行った。北海道に戻った昨晩は、OECFで働いていた頃の旧知の同僚と海鮮まるだい亭で飲み会、その後は近くにあるミュージック・パブ「ハーモニー」で痛飲、大いに愉快、快笑する。再会は25年振り、しかし過ぎた時間を意識させないのは全く不思議な事だ。
「現場って面白いですよねえ。そこに充実感の何もかもがありますね。」 
「彼は、もろに現場にいたんだよ、青森県の」 
「いました。何にもない所ですからね。夜は集まって酌み交わすしかないですよ。それから北海道に異動になったんです。現場は、まだ日本にもありますよ、新幹線だってこれからじゃないですか。後に引き継いでいかないと。」 
「新幹線って言えばさ、中国の新幹線事故、あれは酷かったね。」 
「思うんですけどね、日本が明治時代とか、戦後間もなくとか、まだ技術水準が低かった時代に、同じような事故を起こしたとして、日本人は車両を埋めて、事故なんてなかった体裁にするなんて、発想もしないんじゃないですかね?」 
「当たり前だよ。汚ねえじゃねえか!」 
「でもね、中国のような行動パターンに、正直なとこ、感心する時もあるんですよ」 
「ほんとか?」 
「う〜ん、なんというかな、どんな手段を使ってもね、生き抜くっていうか、卑怯だろうが、汚かろうが、後に生き残った方が勝ちで、どうとでもなるわけですよね、歴史って、生き残った方が正しいというストーリー作りじゃないですか、結局。日本人は、汚く生きるくらいなら、きれいに散る方がいい、そんなところありません?」 
「確かにありますねえ、生き恥をさらすなら、ぱっと散ればいいってとこ」 
「そうでしょ。でも消えちゃったら、後に残ったものの好きになるわけでしょ。汚いほうが勝つんなら、汚く生きることも大事じゃないですか?」
「新幹線技術も、中国発祥ってことに、最後には、なるってか?」 
× × ×

人間が生きている間に話した事は、口にしたその瞬間に消えていくものである。造ったもの、残ったものだけが、時間を超えて存在し続ける。存在しないものは、発見される事もない。最初からなかったことと同じになる。それでも記憶は残る。記憶が残れば、忘れられても、思い出す事がある。

「忘れる」よりも、もっと徹底した「抹消」。思い出す事も許されない、徹底した「非存在」。そんな消えた事実もまた、実は、水面下の水の流れに似て、社会の発展の一歩をなしている。歴史の執筆は、なるほど勝ち残った側の意図であり、よく言えば遺産であり、それら遺産の上に、現在世代は暮らしているわけであって、時に私達は「許されない歩み」を目にし、それに憤ったり、嘆いたりする事もあるが、それらは私達の無知のためである。的外れであるのは歴史の方であり、不合理であるのは私達の認識である。現実は、元々あった本当の発展の歩みが、そのまま元のまま続いているだけである。何も驚きには値しないし、義憤には値しない。ずっとそう思っている。勝った側が作った歴史もまた時間の流れの中で風化し、修正されていくものである。美しく散っても、それはなかった事になるわけではない。一晩寝ると、そう思うようになった。


横山大観、夜桜、1929年
(出所)【画像で見る】日本画家・横山大観の作品

母の法要が終わって、お斎になり、いわき市に住む弟と韓流ドラマの話しになった。
弟: みないんだ。僕はね、反韓っていうか、嫌韓っていうか、昔から国粋主義者だからね。 
小生: そうか。だけど、面白いぜ、みると。昔は日本でも作れたんだけど、シンプルで空っぽじゃなくて、みちゃうぞ。 
弟: わかるよ、うちのカミさんもはまってるし。 
小生: オオっと思わせるやりとりもあったなあ。改革を進める王に反対する貴族の大臣が、改革を求める若者を逮捕したんだけど、それを王が責めると、貴族が「この国には物事の進め方として決まった掟がございます。しかし、彼らは掟をないがしろにし、自分たちの意に沿うようにこの社会を変えようとしております。これが秩序を乱しているのでなければ、何をもって秩序を乱すと言えるのでしょう?」、分かりやすいだろ? 
弟: アハハ、やるなあ。面白いねえ。日本のドラマはだめ!そんなやりとりはないよ。普通の会話、それだけよ。つまんないって言えば、ほんと、つまんないよ。
国粋主義者であったか・・・そうだったかなあ?兄弟とはいっても、昔の事はそうそう思い出せないものである。

これもまた<消えてしまった事実>なのかもしれない。

2012年9月13日木曜日

メモ ― EU、EURO、ドイツに関するソロスの意見

墺紙Die PresseのWEB版を訪ねてみると、著名なベテラン投資家George Sorosが寄稿していた。タイトルは

"Wenn Deutschland den Euro verlässt, sind alle Probleme gelöst"


ドイツがユーロ圏から去るときに、欧州がいま取り組んでいる経済問題は全て解決される。なるほど、ギリシアのユーロ脱退、イタリア危機、スペイン危機、南欧危機が取りざたされているが、ドイツ一国がユーロ圏から去れば、それが一番早道ということか。ま、現実に立脚する限り、これが経済的かつ論理的な道かもしれんねえと気がついた次第。
Die Presse: Herr Soros, wollen Sie, dass Deutschland den Euro verlässt?
George Soros: Nein, ich würde es bevorzugen, wenn Deutschland seine Politik ändert. Dass Deutschland Wachstum unterstützt, damit wir aus Deflation und Depression kommen. Das würde nur temporär eine Inflation von mehr als zwei Prozent bedeuten. Deutschland muss einsehen, dass die Bundesbank nicht recht hat. Aber ich kann auch respektieren, wenn die Deutschen sich dagegen entscheiden, weitere Verbindlichkeiten zur Eurorettung auf sich zu nehmen. In dem Fall sollte Deutschland den Euro verlassen, und die Probleme der Eurozone wären gelöst.
Source: Die Presse, 2012,9,13 
ドイツがブンデスバンク流の厳格な金融規律を緩め、より成長重視的な政策をとる方向をソロス自身もより好ましく思うものの、もしドイツが欧州の絆を救済するために自らがユーロ圏を脱退すると決めるなら、自分は(=ソロスは)ドイツを尊敬するであろう。その場合は欧州の経済問題は解決される。そう述べている。要するに、ヘッドライン下の次の要約につきるわけだ、な。
Großinvestor George Soros sieht für Deutschland nur zwei Optionen: Akzeptiert eine höhere Inflation oder steigt aus dem Euro aus. Wenn die Politik so weitermacht wie bisher, drohen das Ende des Euro und der EU.
ドイツには二つの選択肢しかない。インフレ率を上げるかユーロ圏を去るか、である。従来の政策方針が継続されれば、いずれユーロとEUは終焉を迎える。

いまは、欧州の財政統合、銀行管理の一元化等々、アイガー北壁級のロック・クライミングさながら、どの国も大変な政治的エネルギーを投入し、各国の国民を言いくるめながら、直面している難問を解こうとしている。しかし、数学の難問を解くときに、10ページを要する解答よりは、1ページで済む簡潔な解答が、遥かにエレガントであろう。<エレガントな解決>は、それだけ問題の本質に肉薄しているから、初めて着想できるものだ。犠牲を最小にしながら、求める成果を得るならば、普通それを<正解>と呼ぶ。ま、あくまでも論理的には、だ。

実際、ソロスはこうも言っている。
Also wäre ein Euro-Exit Deutschlands sogar der einfachste Weg, die Probleme in Europa zu lösen? 
Ökonomisch und finanziell: ja. Aber politisch wäre das viel gefährlicher. Die Zusammenarbeit von Deutschland und Frankreich ist das Fundament der europäischen Einheit. Wenn das durch einen Euroaustritt Deutschlands in Gefahr gerät, gibt es einen politischen Schock. Aber ökonomisch würde es besser funktionieren, wenn wir wieder Flexibilität zwischen Gläubigerländern und Schuldnern hätten. Dann könnte der Wechselkurs die Ungleichgewichte ausbügeln.
経済的には正しいが、政治的にはずっと危険である。だからこそユーロと言う共通通貨圏構築は、経済の自然な流れから発生したものではなく、<陰謀史観>が当てはまる対象にリストアップした方がいいのじゃないかと、先日の投稿でも悪態をついたわけだ。

政治が経済の進化に追いつけない。サービス業の低生産性が経済全体の足を引っ張るのと酷似して、政治が政治的成果を上げられない現状が、経済社会の進歩を押しとどめ、混乱をもたらし、多数の国民の生活水準の低下を招いている。足元一年間の経済迷走も、つまりは”Human Factor”、<人災>であると言ってもいいのかもしれない。

良かれと思って皆のために努力していることが、実は多くの人間を苦しめる原因になっているとすれば、政治というのは本質的にトラジックな行為なのだろう。本当に政治家って人種は<業>というか、<宿命>というか、救われないねえ。

2012年9月12日水曜日

覚え書き ー 造幣局はなぜ平成小判を造らないのか?


ちょっとした慶事があり隣町のS市に赴きウィーン金貨”ハーモニー”を1オンス買ってきた。我が家では何かビッグな慶事があるとき、金貨を買って、その袋に日時と内容をメモしてとっておくことにしている。蓄財と思い出作りを兼ねた習慣だ。相続対策にも最適である ー あまり声高に言うべきじゃあないが。

ただ、買って帰りながら、つくづく考えた。オーストリア政府が鋳造する金貨を買うのも確かに粋だ。他には、カナダ政府の”メープル”金貨、南ア政府の”クルーガーランド”金貨があるが、いずれも金地金の価格にコインとしてのプレミアムが上乗せされて売買されている。

なるほど資産の貯蔵手段はいろいろある。ただ民間企業の株式はその会社が倒産すれば紙くずだ。再建の途中には、最悪、100%減資されて文字通りのゼロに戻ってしまう。国債はいまのギリシア危機、南欧危機を見ればわかる。宝石はどうだろう?ダイヤモンドは小さすぎる。なくなりやすい。それに取引価格が不安定であるし、更に火災に弱い。現金もやっぱり駄目だ。たとえば江戸時代に各藩で藩札が発行されたが、藩が「お取り潰し」になれば、それを正貨に換えるのが大変だった。額面ではまず戻らなかった。現在の通貨も同じだ。中央銀行次第、民間銀行次第、いつインフレになるか分からない。ドルで持っていても世界では通用するが、貨幣価値は現実に下がってきた。日本国内ではもっとドルの価値は減価している。

では、日本円がいいのか?いや、日本円も先行き安泰ではないだろう。たとえば中国海軍が尖閣諸島周辺で軍事演習するとどうか?円ドル相場は、その日1日で5円は変動するのじゃないかと予想する。80万円の現金を持っているとしても、価値は1日で数パーセント下落する。ましてや日中で軍事衝突などがあれば、日本円の資産価値など吹っ飛ぶであろう。その国の通貨は戦争に弱いのだ。いくら日本銀行が誠実に通貨価値を守ろうと思っても、日本の地政学的・国際関係的ならびに経済政策的要因によって大きく影響されてしまう。これでは不安ではないか。

小生は、現代の世でも<金>が最も安全な資産形態であると思っている。


一体、造幣局はなぜ「平成小判」を発行しないのだろう?たとえば2オンスで1枚の小判を造るとして、今なら30万円の額面になろう。30万円を<1両>と定めて、新たな通貨単位をつくる。小判発行の際、金地金プラス鋳造コストを28万円程度として、2万円のプレミアムをつけて流通させる事はできるのではないか?取引価格は金価格が底値になる。プレミアムは造幣局の利益となり、それはそのまま国庫収入となるのだ。

思うのだが、音楽の国オーストリアの”ハーモニー”、紅葉の国カナダの”メープル”に比べて、日本の”黄金の国ジパング”のキャッチフレーズはよほど強力であろう。

もし1両小判を30万円で購入する事ができて、その専用ケースには”Old Asian El Dorado Jipang”と記載されているようなら、これは<絶対買い>です、な。古銭商や一部好事家だけの趣味の世界に限定するには、もったいないような国家のニュービジネスではないだろうか?

日本政府は、カネが足りないと言うばかりではなく、国家専売と税外収入の拡大を図ってはどうか。クソ真面目に<増税>ばかり国会にかけて、その度に迷走するのは、国民としてももう御免蒙りたい。それが本音ではあるまいか?考えてみれば<社会保険料>も保険料であって、税ではないのだ。もっとフレキシブルに国庫収入拡大策を検討するべきだ。「平成の荻原重秀」が望まれていると言えるだろう。

2012年9月10日月曜日

バブルであるのは政治家なのか、高級官僚なのか?

経済分析で「バブル」という用語が登場したのはそれほど昔の事ではない。周知のようにケインズ経済学は「予想」を経済変動要因として非常に重要視した。予想に合致した価格変動は、それがたとえファンダメンタルズとかけ離れた不合理なものに見えても、予想が実現しているというその点において、持続可能になりうる。しかし、それは水面上に一定期間浮かぶ泡沫のような存在で、それがバブルだと気がつけばバブルは崩壊する。水の表面は、どれほど表情が豊かであれ、自然を変える力はもっていない。現実に力を持っているのは、見えない水面下で水が流れようとする方向である。

社会に問題があるとすれば、その問題を解決してほしいものだ。その力と能力を持つのは、政治家なのか、高級官僚か?

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橋下徹の「維新の会」が国政に進出するというので、選挙を控えた永田町は騒然としているそうだ。同氏は、永田町と霞ヶ関を解体して、新たな統治構造に造り直すと言明している。それに対して霞ヶ関の中央官庁では、変えると言ってもそれは困難です、と。どこも反発していると報道されている。

反発するくらいなら、問題をサッサと解決すれば良いのだと、ここで言っても始まらない。ただ、霞ヶ関の官僚層が、なるほど橋下という人物は元タレント・新興政治家ではあるが、仮にも地方分権を主張し、現に地方選挙に当選した政治家である。そういう人物が提案している構造改革案に対して、「全く実現困難」と切り捨て、反発するというのは、官僚として許されるのか?大手報道機関は「許されないじゃないか」と批判してはいない。

考えてもご覧あれ。赤字体質が染み付き、いよいよ経営不安になったメガ企業が、次期社長を社外から招聘することに決めたとする。巷の噂になっているある財界人が、この企業の抜本的構造改革の構想を語って、それが報道されたとする。それに対して、そのメガ企業の部長・課長といった<社員>が「そんな提案は実現不可能です」とか、「夢物語です」とか、構造改革的な議論に対して後ろ向きの反発を示すとすれば、みんな呆れるであろう。正にそこが駄目なんだと。『それほど言うなら、あなたたちで再建して見なさい、期限は▲▲年以内!期限内に達成できないなら支援打ち切り、強制退去』と。昔なら切腹である。まあ、この位の事は言われるのが当たり前だ。

では、新興政治家たちが社会を変える力を代表しているかといえば、これまたどうもそうは思われないのだ、な。感覚的な言い方だが、全く迫力がない。それに細かく言っている事をチェックすると、理屈が合ってない所も多い。社会主義を標榜するはずの日本共産党が<増税反対>を言うような奇妙な点がある。どこかで嘘を言っている。言葉という衣装を変えながら<政治的コスプレ>を演じているようでもある。

更に言うと、小生、現実がどれほど不合理に見えても、本当に不合理な現象が持続することはないと思っている。おかしいと考えるのは、現実が不合理なのではなく、我々の理解不足であると考えているのだ。確かに、中央官庁は言語道断とも思える言葉をはいている。しかし<構造改革>が日本で進まず、その改革を阻止しているのが中央官庁だとすれば、それは阻止を容認する社会的な力が現実に働いていて、それが他の勢力を抑えているからだ。阻止するのが社会的には合理的であると。反対するのが(実は)多数派なんだと。そう思っている。

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小生が見て不思議に思うのは、票が欲しいはずの<新興政治家>だ。

いまの社会経済システムは、将来世代の消費抑制を前提した国債依存財政を柱にして、やっと運営できている。これは確かに長期的に持続不能である。しかし、それが持続できているのは、ツケを負担する幼少年齢層、まだ生まれていない将来世代に投票権がないからである。この悪循環を阻止できるのは、選挙とは無縁の官僚層であるとみるのがロジックだ。官僚なら非民主的な発想をして、非民主的な手続きを経て、実は国家百年の理念に適った提案を政治日程に供する事ができる。

しかし、官僚が構造改革を主導するのではなく、票が欲しいはずの<新興政治家>が既存システムの打破を言い出している。既存システムが打破されて喜ぶのは、将来世代であり、現在世代は困るはずだ。であるのに、維新の会、及びその他の新興政治家達は、自分たちの主張が多数の国民の利益になると言っている。どこの誰にとって、どのような利益になるのかを語る時期が来ているように思われる。

どこかで嘘をついていないか?

2012年9月9日日曜日

日曜日の話し(9/9)

朝方雷鳴がして目が覚めた。窓を開けて様子をみると結構な雨勢だ。秋の驟雨かあ、いきだねえ。早く隠居をして雪の少ない町にセカンドハウスを構えて花や野菜を育てたいものじゃなあ、と。そんなことを思いめぐらしているうちに
名声は労苦の泉、
隠世は幸福の泉
という格言を思い出した。エッカーマン「ゲーテとの対話(下)」(岩波文庫)の1823年2月9日にある。
Der Ruhm eine Quelle von Mühe und Leiden,
Die Dunkelheit eine Quelle des Glücks
言わんとしていることは、今ではよく納得できる。

しかし、ずっと昔、某中央官庁で役人生活をおくっていた頃、「地方には国立大学があるわけだし、そこの教授、助教授は知的リーダーにならないといけないんだよね、本当は。しかし、実情はみんなサラリーマン化しちゃってさ・・・役に立たないわけよ」と、こんなお喋りをしてました。まだ20代であった。全くねえ・・・これを傲慢と言わずして、誰が傲慢であろうか。かつ無知である。土台、20代の青二才に世間の機微は分からないし、分かっていないという事についても無知である。まあ、小生だけではないと思いますが。しかも首都圏に住んでいると、地域特有の社会心理的バイアスに影響されるのであろうか、国の事を考える、社会全体を語ろうとする。それが当たり前の習慣になってしまうのだな。田舎で暮らしていると『で、お前はどうするんだ?』と。人間的であり、かつ自然な感覚で生きるようになるが、その感覚からずれてくる。この辺、自然の中で生きるのと、都市に生きる感覚の違いかもしれない。そう思ったりする。

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ゲーテは、年上のシュタイン夫人との恋愛に疲れ果て、イタリアに逃亡旅行をした。その旅行記が『イタリア紀行』である。帰国してから身分の低い一人の若い女工を愛するようになった。クリスティアーネである。永年の同棲生活を経て、彼女を正妻に迎えたのは彼女が41歳になってからである。後期の授業が始まるまでまだ日数があるので、このところトーマス・マン『ワイマールのロッテ』を読んでいる。『若きウェルテルの悩み』で主人公が愛したロッテのモデルであった実在の人物シャルロッテ・ブフが、ウェルテル事件の後44年を経て、ゲーテが暮らすワイマールを訪れる。そこでゲーテをとりまく人物と「偉大な天才」の本質について語り合い、長い間の疑問を氷解させるに至る作品である。

ゲーテは古典主義者だったが、時代はロマン主義への入り口に立っていた。フランス絵画であればドラクロワであり、イギリスであれば詩人バイロンの名前が真っ先に挙げられるかもしれない。音楽ならベートーベンからシューベルト、シューマンへの流れに該当する。ベートーベンというとシュティーラーが描いた下の肖像画が決定版だ。小学校の音楽室にもはってあった。


Joseph Karl Stieler、Portrait of Ludwig van Beethoven、1820
(出所)私の好きな絵画

よく知られた話しだが、ベートーベンはゲーテとは気質が合わなかったらしい。一方、ゲーテは、ナポレオンを偉大な人物と呼び、極めて高く評価していた。とはいえ、フランス軍がドイツに侵攻し、ワイマールのゲーテ宅にも仏軍の兵士が乱入し、ゲーテその人も生命の危機に瀕したという。その時、体を張ってゲーテを守ったのがクリスティアーネというのだな。彼女は、下層階級出身で無教養、それもあってか極めて下品な趣味と感性を持っており、ワイマールの社交界からは拒絶されていたという。ゲーテ夫妻をありのままで受け入れたサロンは、当時ワイマールに居住していたヨハンナ・ショーペンハウアー夫人で、その息子が著名な哲学者アルトゥールである。いまは作家マンが、哲学者の妹アデイレの口を借りて、ゲーテその人を語っているところを読んでいる。


2012年9月7日金曜日

日本の景気動向指数の足元のかたちは?

本日午後、日本政府が作成している景気動向指数(Composite Index)が公表された。7月分速報である。これによれば、先行指数は4カ月連続のマイナスであり、一致指数も同じく4か月連続で下がっている。7月は雇用関係など遅行指数も下げている。

ただ時系列を図にして見ると、これからの動きをどう見るか、人によって分かれるだろう。


(出所)内閣府「景気動向指数 ‐ 平成24年7月分(速報)‐」、pp.4

先行指数はリーマン危機による景気の急激な後退をかなり前から予測していたことが分かるが、2009年に底打ちして以降は一致系列とそれほどに大きな動きの違いは認められない。足もとでも、先行系列、一致系列、どちらをみても足取りは概ね同様だ。

ただ今回の回復ではノイズが大きいようだ。内閣府では、毎月の指数計算において最近では「外れ値」を除外するステップを入れるようになったと聞いているが、それにしてもバラツキが大きい。統計数字だけのことか、実態を反映しているのか・・・昨年の東日本大震災以前から見られるので震災をきっかけにした季節調整の乱れとも思えない。変だねえ・・・


(出所)上と同じ

一致指数は先行指数よりも足もとの動きが少し弱めである。分析にかけたわけではないが、今後半年程度の予測区間は、上向き、下向きとも確率50%。そんな風に思わせられる面白い形だ。無数のランダム・ショックの集積は連続的変化とウィーナー過程の世界である。ランダム・イベントと人為的ミスが支配的になると不連続で離散的な確率過程を混入させる。不安や楽観が生まれやすくなる。理性的でいるのが難しくなる。

上のグラフ。その図柄だけをみると、何だか欧州債務危機とEUの政治対応、大震災・原発事故に対する日本政府の政治対応、中国の政治端境期、アメリカの政治端境期などなど、ひょっとすると統計数字の出方なのかもしれないが、これらは最近の<経済実態>を、案外、すなおに反映した形になっているのじゃないか。そんな印象も与えるグラフである。こわい。




2012年9月6日木曜日

少子化とは本当に「経済問題」なのか?

北海道でも連日の真夏日。平年比で”+6度程度”という高温が続いている。リンゴなど農産物にも被害が出てきた。もしこれが真冬で平年比プラス6度になれば、吃驚する。ありえないと感じるだろう。スキー場も困る。しかし、今朝は小雨の降りそうな空模様で、窓から涼しい風が入っている。宅で仕事を出来そうだ。

ずっと午後は暑くて仕事にならないので仕事場に行くようにしていたが、今日は涼しいので、のんびりと、TVのワイドショーをかみさんと観たりしている。AMH検査が今日のトピックらしい。何歳まで出産できるかに関心があるということは、子を育てることに意識がある証拠だ。子育てに意識はあっても、今はしない。それが男女を問わず、共通の意識なんだろうと思う。

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経済学に”Child Cost”の計測というテーマがあって、ずっと昔、自分でも計算をしたことがある。子供が一人増えることで家庭内一人当たりの効用水準が低下する。それがChild Costであると考えるのだった。効用を一定に維持するのに必要な総消費額が<生計費>である。

しかし、この話しを専門外の人にすると、例外なく”Child Cost”という用語自体が理解不能であると言われたような漠然とした記憶がある。そもそも家庭内に子供が一人誕生したときに、その家庭の一人当たり効用水準が低下するという発想自体が理解不能である、と。であれば、子供を作るはずがないというのだな。「確かにネ、子が誕生して、効用が下がったと考える父も母もいないですよねえ・・・」、「兄や姉もいねえよ!弟ができて嬉しかったもん」。これが事実だ。家庭の経済分析は、どこかずれているんだよなあ、と。で、このテーマからは次第に遠ざかってきた。

子供を授かって、育てるのは、自らの経験を振り返ってみても結構体力がいる。「若い勢いで生んで、育てるしかないよねえ・・・」、カミさんとはそんな話しをしょっちゅうする。若いときに子供を作るのは意思決定というよりも偶然だろうと思う。子供が生まれたら育てるしかない。というより、子を可愛がる相手を見ていると非常に美しく見える。もっと好きになる。だから自分も幸福になる。大体、若いうちには社会的責任もない。自由だ。気兼ねがないのだな。

だとすれば、子育ては理知的な<人生設計>で選ばれるものではなく、パートナーの獲得も含めて、自立してまだ若く、将来への野心が心にたぎっているときの<エネルギーの爆発>によるものではないか。そもそも自分の家庭作りを願う本能など、本来は制御可能ではないと思う。

近くの知人で子息が出来ちゃった婚をした家庭があり、カミさんも定期的にそこの奥方と会って雑談に時間をつぶしている。帰ってきては小生に話しの中身を伝える。成り行きがそうなったので、経済的には親がかりで生活しているそうだ。「うちの子がそうなったら、そんな手はさしのべねえなあ」と小生は悪態をつくが、しかし形はどうあれ、楽しいだろうなあと若干羨ましいのも事実だ。「自立の次は、お世継ぎを育てるのが、お前の仕事だ」、愚息にはそう発破をかけている。

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雇用形態が合ってないんだよね、時間がないんだよね、収入が足らないんだよね、保育園が不足しているんだよね、疲れているんだよね・・・・・と、少子化の原因(と思われる点)は無数に挙げられている。しかし、どうも違うんじゃないか?そもそも江戸時代の農家は一家総出でみな労働をした。明治以降もそうだ。労働力をとられるので兵役の義務化にも反対運動が起こった。それでも少子化現象とは無縁であった。過去と現在が違うとすれば、長寿化が深刻な社会問題として同時並行で進んでいることのみである。自立をして、自分の幸福を自由に求められる年齢期に、急がずともよい事柄に精力を使わせているためではないか?受験勉強であったり、就活であったり、要するに余計なプレッシャを10代〜20代年齢層に義務づけているためではないのか?25歳になる頃には、いまの日本人は兵舎に監禁でもされているかのようにヘトヘトになっているのじゃないか?

中央統制による教育システムを完全に自由化し、国内企業の談合による新卒者採用システムを完全に自由化すれば、案外、簡単に少子化問題は自然解消するのじゃないか?少子化問題は、実は経済問題ではないのじゃないか?自分のペースで暮らしていけるようにするだけで十分じゃないか?単に、制度を維持する事のみに汲々としている<行政の失敗>、<経営の失敗>ではないのか?そんな感想をもつことも多いのだ、な。

2012年9月5日水曜日

グローバル景気後退の確実度とマネー回帰

普通は景気後退に入るに伴って国際商品市況は低下するものである。ところが金価格はまた上昇してきている。


欧州の財政緊縮を背景とした需要減退が新興国の景気にも波及し始めているのが顕著になった6月以降、金価格は逆に反転上昇を始めた。オンス1500ドルを割るかと思われた価格は1700ドルに達しようとしている。

金利低下の中で資産価格が上昇するのは当然の理屈だが、世界的景気後退局面で相対価値が上昇すること自体、単純な一次産品でないことも明らかだ。価値保蔵手段の一形態、それも流動性の高い<準貨幣>、マネー回帰のツールの一つとして機能している点も再確認できる。

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日経には以下の報道があった。
企業が打ち出してきた強気の設備投資計画に変調の兆しが出てきた。4~6月期の設備投資は8兆3092億円と東日本大震災直後の昨年4~6月期から7.7%増えたものの、それを除けば1987年4~6月以来の低水準だ。欧米や中国景気の減速で先行きの不透明感が強まり、強気だった投資計画を先送りする動きが出ている。
出所:日本経済新聞、2012年9月4日 付け朝刊
 ドイツの景況感は4ヶ月連続で低下した。


Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 2012, 8 27

以下はロイター東京発。
TOKYO, Sept 5 (Reuters) - Asian shares and the euro eased on Wednesday, with investors waiting for a European Central Bank meeting on Thursday and U.S. payrolls on Friday for signs of more action to counter European debt woes and support growth. 
MSCI's broadest index of Asia-Pacific shares outside Japan fell 0.3 percent to a fresh four-week low and Japan's Nikkei stock average opened down 0.2 percent 
"I don't recall anyone having had good economic indicators lately. Everyone knows the global economy is in a trough. The policies that will be announced to tackle the problems will be much more important," said Lee Seung-woo, an analyst at KDB Daewoo Securities in Seoul.
 今週末にかけて欧州とアメリカで重要な政策方針決定が為される。市場はそう期待している。

同じ頃、CNN Moneyには中国経済について以下のように報道されている。
NEW YORK (CNNMoney) -- China's factories continued to struggle in August, as a key manufacturing reading fell to a nine-month low.
HSBC's initial purchasing manager's Index for Chinese manufacturing fell to 47.8 from 49.3 in July, the bank said Thursday. Any reading below 50 indicates that factory activity is shrinking rather than growing.
... 
China, the world's second-largest economy behind the United States, has been hit particularly hard by therecession in much of Europe. TheEuropean sovereign debt crisishas prompted steep austerity measures in many countries. Weak conditions have zapped demand in the eurozone, the largest market for Chinese exports.
...
Despite the PMI report, major markets in Asia closed slightly higher, while European markets were all trading slightly higher and U.S. futures pointed to gains at the open. Federal Reserve minutes released Wednesday afternoon lifted investor hopes for more stimulus from the U.S. central bank.
Source: CNN Money, August 23, 2012: 7:54 AM ET 
最後はやはり、米国FRBによる一層の金融緩和期待でしめている。

昨日は日銀の元副総裁・岩田一政氏が日銀の追加緩和の必要性を指摘している。
[東京 4日 ロイター] 岩田一政・日本経済研究センター理事長(元日銀副総裁)は、世界経済の減速を背景に日本経済の下振れリスクが強まっているとし、日銀はさらなる金融緩和が必要になるとの見解を示した。具体策として、世界的な金融危機の予防と円高是正を目的とした外債購入や、資産買入基金で買い入れている国債の年限長期化が有効と語った。
世界同時・追加緩和の提案である、な。週末の米国FOMCでどんな決定がされるのか?世界の注目がこれほど集まるのも珍しい。<岐路>のようである。

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昨年秋には、財政緊縮ショックが2012年の世界経済にネガティブショックを与えるだろうと、下振れリスク要因の一つを予想していたのだが、どうやら現実になりつつあるようだ。というか、全体最適へ自己誘導するためのメカニズムの欠如、いまの政治的意思決定にまつわる<低生産性>が一層明らかになりつつあるというのが、正確な記述ではないか。個々の国家の、個々の政治家、個々の専門家の能力の欠如というよりも、やはりメカニズムの欠如が主因であると小生はみる。

周知のように、マネーのほとんどはマーケットが信用創造という形で自己生産している。マネーは金融機関という営利企業が自由に作っているわけだな。その信用創造は、景気拡大をより拡大させ、後退をより後退させる傾向があるというのが、ずっと昔からの指摘だ。素朴な金本位制とは別に、マネーを自己安定化要因にするためには、どんな方法があるのか。良い文献があれば目を通したいと探しているところだ。



2012年9月3日月曜日

メモ ― 夏の猛暑・地球温暖化の長期データ

産経新聞のWEB版を読んでいると、この夏の猛暑とゲリラ豪雨が記録的であったと報じられている。
 今夏(6~8月)の気温35度以上の「猛暑日」数が福島県会津若松市や盛岡市など5地点で過去最多を更新したことが3日、気象庁のまとめで分かった。最多タイも埼玉県熊谷市など4地点に上った。一方、8月の東北地方の太平洋側は観測史上最少の降水量となった。局地的な大雨「ゲリラ豪雨」の発生回数や沖縄、鹿児島・奄美の降水量も最多と、列島は記録ずくめの夏を経験した。(出所: MSN産経ニュース、2012.9.3 21:24配信)
 こんな報道をみると地球温暖化というキーワードを連想し、二酸化炭素排出規制が益々必要であることを思い出す。ただ、地球表面の長期気温データは信頼できるものが少ないと言われているのも事実である。たとえば米国NASAのホームページに掲載されているグラフは、1880年から現在までが図化されている。


確かに20世紀に入ってから急速に気温が上昇しているように印象付けられるが、このグラフの開始時期直前は<ミニ氷河期>と呼ばれる時期であったことを忘れてはならない。

分かりやすい図は、”LongRange Weather”に掲載されている。下がそれだ。クリックすると拡大される。


周知のように中世末期から近世にかけては「ミニ氷河時代」と言われる寒冷期に該当していた。右端のグラフの延長部分をみると、上がる(温暖化)とも思われ、さがる(寒冷化)とも予想され、かなりのばらつきがある。

図には、紀元前2500年以降が描かれているが、時間を遡るほどに以前の気温を推定する材料は少なくなり、推定精度が落ちることはいうまでもない。とはいえ、地球の平均気温が極めて長い長周波循環に従っていることは容易に分かる。100年程度の期間ではトレンドに見えるとしても、全体の中ではサイクルの1フェーズである可能性を否定できない。

更にまた、全地球史的に眺めれば、いわゆる<K‐T境界>(=中生代と新生代の区切りで6550万年前)以前においては、地球の平均気温は現在よりも10℃から15℃程度(!)も高かったと推定されている。原因としては、当時の二酸化炭素濃度が高かったことがあげられている ― 自動車など内燃機関とは無関係に、だ。

このように超長期の気温データを眺めれば、この100年の平均気温上昇の根本原因は、正確には不明であると思われ、たとえば「二酸化炭素排出規制」が最近の温暖化傾向の防止に対して、本当に有効に作用するのかどうかについても、科学理論的には不明であり、やってみないと分からないというのが、小生の見方だ。がしかし、二酸化炭素濃度が上がれば温暖化を促進することは確かであろうし、排出規制はやらないよりはましである、と。これだけは確かに言えるだろう。


2012年9月2日日曜日

日曜日の話し(9/2)

本日のNHK「日曜討論」には各政党の党首、書記長クラスが相次いで登場した。<反増税・反原発>で野党が一致しているのは(呆れながらも)まだしもと思うが、日本共産党までもが<反増税>を唱えたのには、小生、吃驚仰天した。周知のように中国共産党は公地公民ならず、国土国有制である。中国の国民は、土地の利用権を国から与えられているだけであって、その土地を所有したり自由に処分したりする権利は認められていない。それが共産主義思想であるからだ。反消費税とは、相続税100%の地ならしではないか、資産課税強化の地ならしではないか、今からそこまで言うかと想像してしまった。

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いやいや、今日は日曜日。俗っぽい話題をとりあげるのは嫌だ。聞いていると、いまの東京・永田町に往来する政治家の口から発せられる言葉は、全くエンプティである。例によって内実のある話しを書き留めておきたい。

内実とは、そこに、そのように存在しているという明晰さから得られる。だからこそ合理主義哲学の創始者であるフランス人・デカルトは『われ思う、故にわれ在り』という公理から、あらゆる物事の真偽を再判断したのだな。全てを疑っても、疑っている自分自身は確かに<ここに>いるわけだから。

全て存在するものは、見えるようにではなく、抽象的なイメージとして、人間はとらえるものである。つまり、人間の目や耳は<錯覚>するのが常である。話しや文章は、話されたり、書かれてある事をそのまま読んでも、読み間違える。裏を洞察しないとダメ。そう言ってもよい。本ブログもそうだ。始めてから1年半。稿数も400になったが、一本一本の投稿は囲碁の一石、一石にも似て、その積み重ね全体の中に、小生が物事を考えるスタイルを表現できているとすれば幸いだ。そのスタイルは、書かれている事柄ではなく、何が書かれていないか。そちらの方がむしろ大事である。書いている事ではなく、書いていない事も、小生が伝えたいことなのだ。

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第2次大戦の後には抽象絵画のアンフォルメルがフランスで花開いた。ポロックやサム・フランシスがアメリカ芸術を進化させた。抽象派は、すぐれて第二次大戦後の美的感覚に立っていて、主としてアメリカという舞台で演じられた芸術運動と見てもよい。にしても、1950年代から60年代と言っても、既に半世紀も昔の事になってしまった。

第1次大戦の後はダダイズムで幕を開けた。これもまた、現状破壊がテーマであった。


Max Ernst, Birth of Zoomorph Couple, 1933

"Zoomorph"というのは、獣身神の意味である。ちょうど日本の稲荷神社の狐、馬頭観音と同類的存在神であるが、それに比べるとマックス・エルンストが表現している世界はずっと現世的である。1933年とはドイツ国民がナチス政権を民主的選挙で選んだ年でもある。


Max Ernst, Europe After The Rain II, 1942

エルンストが描いた上の獣身神といい、欧州風景といい、小生は宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を連想してしまうのだ、な。戦争で破壊された都市のイメージとも見まごう「欧州風景」は、ナウシカがメーヴェで飛んだ地球表面と同じであるし、「獣身神」は炎の「10日間戦争」(だったかな、7日間戦争だったかも)で兵士として戦い、巨大文明を焼き尽した巨神兵を思わせる。

マックス・エルンストの作品は、いわゆる<美>を伝えようとし、努力した成果なのだろうか?小生は美学の専門家ではないが、美と矛盾するような作品に引きつけられるのは、単にその人が美に対して持っている先入観と相容れないような作品に接したからだと思うし、仮に<美の背面>とでも言うように、美にも多次元的構造があるのだとすれば、今からでも新しい美の側面を発見することはいつでも可能である、そう思ったりしている。

美を真理と言い換え、作品を社会と読み替えてみれば、あるべき社会、望ましい社会も、本来、その概念には多次元的な複雑性があり、見えている表側が真理なら、見えない裏側もまた真理である。そんな目で人間と社会を見る必要がある。そう思っている。