2012年10月25日木曜日

覚え書き ー 幸福は善意ではなく愛がもたらすという考え方

今年は小生にとってまれに見るほど出入りの激しい一年になった。多事多端、自分史の中では波乱の年である。 ー まだ2ヶ月余り残っているが、もう沢山だという思いがある。

昨晩は、夜の授業があったのだが、かみさんは松山に帰って留守である。授業が終わって高速バスで帰ると、いつも近くの高速バス停留所まで車で迎えにきてくれていた。それがないので昨晩は携帯でタクシーを呼んだ。タクシーが到着するまで寒かった。今朝はS市にある大手流通企業が実施する社内研修の出張講義である。コートなしでは外を歩けなくなってきた。

授業が終わって帰る道筋、車を運転しながら考えた。誰しも幸福な人生をいきたいものである。その幸福に至るような行動が善であると定義されているのが西洋哲学の伝統的考え方だと理解している。ただしかし、幸福は快楽とは違うのだ、な。だから話しが堂々巡りになる。

「お客様に喜んでいただきたい」、ビジネスマンがそんな風に話す時、それは顧客に幸福を与えるのではなく、実は快楽を与えているにすぎないことが多い。大体、幸福がビジネスになるはずがない。なるのは快楽だ。だとすれば、その顧客サービスは、ソクラテスの言う単なる<おもねり(flatter)>である。ソクラテスの時代、一世を風靡していた弁論術もそうだと喝破したことは有名だ。<真の幸福>をもたらす行為だけが、善たりうる。相手に喜びを与えるというのではダメなのだ、と。快楽ではダメだとしても、帰結主義であるのに違いはない。功利主義に近い。ドイツの哲学者カントは<実践理性>なるものを導入して、人間は誰でも人として生きていきたいと考えるものだ、それは実践理性が最初から持っている能力だ、その実践理性の要求に従うことが善であり、真の幸福への道である。こんな言い方をした。ま、理屈はともかく、では<真の幸福>とは何か?それは善なるモラルに従うことによって実現できる状態だ。小生、哲学の専門家ではないが、ここはどうも循環論法のようにずっと思っていた。

人は最初から悪を為そうと思って悪をなすわけではない。それが自分には善だと判断したから、そうするのだ。悪い奴とはヘマな奴。このことは以前にも投稿した。ヘマをするかもしれないなら、勘違いしないだけの知恵がいる。しかし、そんな知恵をもっているのはソクラテスくらいの人だろう。凡人が善い人間でありたいといくら望んでも、それはそもそも難しいのだ。だから悪人が後を絶たない。と、そこで考えが一転した。曲がり角にきたからハンドルを左にきる。右車線に入ろうと・・・おおっと歩行者がいる!あぶない、あぶない。

愛じゃないか、ここで決め手になるのは。愛で動機づけられた善意志は、その帰結とは関係なく、絶対的に善であると考えるしかないのではないか。帰結とは関係なく、必ず幸福に至るのではないか。後悔という炎に心を蝕まれることはないのではないか。そう思った。

・・・しかし待てよ。人間には理智の部分、感情の部分、欲望の部分がある。愛は、この三つの部分に共有されているのだな。欲望に基づく愛、感情から生まれる愛、そして理性に基づく愛がある。欲望に基づく愛は、文字通り「欲」から生まれる。ギリシアの神で言えばエロスにあたるか。自分の欲望に動機づけられた愛は、モラルをむしろ破壊するはずだ。これは明らかだ。そろそろ5号線との合流地点だ。えっと、左車線によるのだったかな・・・

感情による愛は憐憫、共感、いたわりから生まれる。それは美しい愛だ。まあヴィーナスだな。美しいが、器の小さい、狭い範囲の愛である。差別的な愛でもある。そして理性的な愛。古代ギリシア人は、この理性的な愛を非常に尊重した。神を愛する、人類を愛する、これらは抽象的な愛であり、全ての存在を容認し許す愛となる。ま、神が人間をみる眼差しに近い愛である。この二種類の愛は人にモラルを与える根本原因なのだろうか?キリスト教は(それほど詳しく勉強したことはないが)神を愛することを厳しく求めるし、同胞を等しく愛することを求めている。5号線に入った。大分、帰ってきた。のんびりいくか。

愛に基づく善意志は、たとえどんな帰結を生んでも、それは必ず倫理規則を満たすのであって、必ずその人は救われるのである。こうであれば、真の幸福とは何かを洞察する深い知恵も必要ではない。誰でもが、善でありうる。結論はこんなところか、とにかくロジックが通っている。我が町に帰り着く。生活道路をクネクネといく。

ただあれだ。国を愛するとはいえ、自分の国を愛し、他国は愛さないという愛は、いかなる愛なのか?「愛国無罪」の愛とは、幸福を実現する倫理的な愛なのか?どうも違うのじゃないか?やはりモラルに合致する愛は、感情から生まれる差別的な愛ではなく、抽象的な愛、理性から生まれてくる愛なのじゃないか?そんな愛は、頭の悪い凡人に持てるのか?やっぱりまた循環論法か・・・こんなことを思い巡らせながら、帰宅した。

なんの結論も得られなかったが、ひとつ「愛は地球を救う」などという戯言は本当にのんきで、かつ一顧の価値のない軽薄なスローガンであることが納得できたし、それと同時に「地球を救うのは、それは愛である」と。差別的な、感情的な愛ではなく、普遍的な愛である、と。そんなまとめ方をしたのであります。


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