2012年11月29日木曜日

真の自由貿易を望むなら怖いものはない

小生が大学を卒業する時代は、とにかく「鉄は国家なり」の時代だった。製鉄企業から出向していた人と一緒に働いたこともあるが、ホント、優秀な人でした。それから造船である。IHIは、当時はまだ石川島播磨重工という社名であったが、そこからも非常に優秀な人が来ていて、経営トップはドクター合理化と呼ばれた真藤恒氏であった。中学校に通学していた頃は三菱重工の広大な社宅群を横に見ながら歩いて通ったし、その近くには日本鋼管(現、JFE)の社宅があった。どれも小生にとっては懐かしい社名であり、日本の高度成長時代、黄金の60年代の温もりがまた体感できた時代であった。

その後は自動車と電子産業、そして電機である。このうち、電子産業の最終製品部門(=組み立て段階)はいま日本国内では生き残れなくなり、10年前にはエクセレント・カンパニーと賞賛されたSONYやパナソニックも経営危機と言える状態に陥ってしまった。旧モデルが新モデルに置き換わっていくのは技術進歩の中では当たり前だが、日本が何をつくって生きていくか、産業全体までが時代ごとに置き換わっていくのだろうか?

野田首相が争点にしようと力を入れたTPP。しかし、TPPを正面から論じるのは、各政党も怖くてたまらんと思っているのが、ヒシヒシと伝わってくるのだが、全く「たかがTPP」ではないか。貿易で勝つか、負けるかばかり考えているから、大局が見えなくなるのではないか?先方が自由貿易を求めるなら、日本から参加すればよい。参加して日本の方から<真の自由貿易>を求めればよい。アメリカの自動車産業は日本の自動車産業を怖れ、だから日本のTPP参加には反対している。アメリカだけに得である自由貿易は、ロジックとしては、ない。

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経済成長論の発展に貢献した第2世代の中心ロバート・ソローの理論は<長期収束仮説>が柱になっている。貯蓄率の高さとは無関係に、技術的知識が浸透していけば、どの国の労働生産性も一定水準に収束し、経済成長率は人口増加率と技術進歩率によって決まる。貯蓄するから速く成長するというわけではない。そんな予測をしているのだが、実際は収束するどころか、世界の国々の労働生産性、つまりは生活水準は格差が拡大してきたというのが現実である。「おかしいではないか」というので規模の経済や、競争の不完全性・独占的支配力などが原因として指摘されている。

少し古くなるがDani Rodrick's Weblogでは、製造業に限定した場合、収束仮説が見事に当てはまるというデータが紹介されている。ロドリック氏が要点を伝えるのに使っている図を下に引用しておこう。


横軸は個別産業の「当初時点における労働生産性」を測っている。縦軸は「平均的な労働生産性成長率」である。全体として、低生産部門である産業ほど、その後はより速い生産性上昇率を達成する傾向があることがわかる。簡単に言えば、生産性が低く、ということは割高に販売される商品部門は、ずっと後には効率化を達成して花形産業になる。そんな傾向が製造業にはある。プロダクト・サイクルといえば、そういうことだが、個別銘柄の商品をこえて、産業まるごとのレベルでそんな栄枯盛衰のパターンがあるということだな。

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たとえば最終財部門と中間財部門の二つがあって、いまのウォン・円レートで換算すると、最終財、中間財いずれも韓国製のほうが安いとしよう。たとえば、円ベースで評価して最終財価格は日本製が4、韓国製が1。中間財価格は日本製が2、韓国製が1としよう。最終財は特に日本製が高額であるが、中間財ではそれほど韓国製が安いわけではない数字になっている。

この場合、韓国は最終財、中間財とも「国際競争力」があるので、両方とも日本に輸出しようとするだろうか?そんなことはしないのだ、な。韓国は中間財を日本から輸入して、最終財を日本に輸出するはずである。逆に、日本は需要にこたえて中間財を輸出し、最終財を輸入する。日本の製造業が全滅するという理屈にはならない。なぜなら、韓国では最終財1単位と中間財1単位が同額だ。しかし最終財を日本に輸出し価格4で売り、中間財を価格2で買えば、2単位の中間財が調達できる。割安な中間財を日本から買い、それで最終財を作るほうが韓国にとって得である。だから韓国は、名目価格で最終財、中間財双方で国際競争力を持っているのであるが、比較優位性をもっていない中間財は日本には輸出できず、韓国内ではあくまでマージナルな存在にとどまる。最終財部門が韓国の花形となり、最終財部門に資源がシフトし、日本は<得意な>中間財をつくって稼ぐことになる。日本の最終財部門は縮小するので、安い韓国製中間財への需要も縮小する。韓国の中間財部門は、名目的には日本より安く製品を作れるが、韓国内の最終財部門に対し比較優位を持っていないため、拡大できる可能性はない。

日本も韓国も、貿易のあり方は為替レートで決まるのでなく、どの商品の生産に比較優位性があるか、その点で決まる。これが経済学では、歴史上有名な<比較優位理論>である。為替レートは、あくまで紙幣の交換比率に過ぎず、国家の経済の実態まで変える力は持っていない、そう言ってもいいわけだ。日本の暮らしが上向かない主因は、為替レートが円高になって、全ての製造業が「落城」したからではなく − そんなロジックにはなりません − 日本の労働生産性が全体として上がらない点にある、働き方が下手である、そこに原因があるとしかいえない。多分、リスクを怖れ、変化や進歩を追求せず、安定を求めるようになっているのだろう − もちろん上昇志向が強く、日々の改善に努力している例外はある。競争よりも競争しないことが善であるという何がなしの感情が日本人の心に根を下ろしてしまった、そんな点もあるかもしれない。効率よりもきめ細かい営業サービスを欠かせないビジネス習慣にあるのかもしれない。小生の経験から、もひとつ挙げれば「会議」の多いこと。結論の出ない会議などは「さぼり」と同じですからな。ま、これが原因だと挙げられれば、話しは簡単だ。

運動会の徒競走と同じ理屈である。高度成長を支えた造船、製鉄 ー その以前は繊維であったわけだが ー は、スタート直後、2位以下に大差をつけて走っていた。ところが、段々と自動車が合理化されて、最初のモタモタした状態から立ち直り、少し差がつまってきた。もしその時、隣のグラウンドで同じ徒競走が行われていて、そこではまだ自動車がやっぱりモタモタしている。この順序と格差が比較優位を決める。日本の花形産業である造船・製鉄の比較優位性を突き崩す原因になったのは、日本の自動車が(相対的に)頑張ったことである。<真の競争力>はすべて相対的なものだ。ということは、隣のグラウンドで、にわかに電子産業が頑張って順位をあげるだけで、(絶対的には日本の電子産業が勝てるはずであるにもかかわらず)日本の電子産業は比較優位を失う。これもまた貿易のロジックである。

いま最終段階の加工組立部門で輸出できなくなったのは、外国がまず最初に加工組立産業を合理化したからだ。何もないところに製造業を移植するだけで、日本の製造業は比較優位を失う。ということは、外国の農業部門の生産性が今後上昇すれば、外国の製造業の比較優位が失われることになる。これまた貿易のロジックだ。

こんなメカニズムを、少数の政策専門家がプランニングをして、最も望ましい日本の成長経路を指し示すなど、いつまで待ってもラチがあくはずはなく、時間の無駄である。「市場メカニズム」という言葉に日本人はもはやアレルギーは持っていないだろうが、人知を越えた資源配分は自然のプロセスに任せるのが最良である。あまった時間とエネルギーは、美や科学的真理の探求に投入するのが人間的知恵というものだ。ケインズは最も有名な経済学者の一人だが、ケインズにとって「経済問題」は人間が解くべき問題の中では、実に下らない、些末な問題として認識されていた。だってそうでしょう、大体、どうやって食っていくか、カネが足りるか足りないか、そんなことばかり考えながら、一度の人生をおくるなど、そんな風に暮らしのことばかりを考えて死んでいくなど、最も哀れではないか。生活水準が現在より遥かに低かった日本人の先祖達は、そんな中で偉大な芸術作品を遺し、いま生きている日本人達に喜びを与えてくれている。それを手本とするべきではないだろうか。

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TPPは、規制の在り方、制度の在り方もまた議題に含められる方向であって、これを日本は非常に恐れているようだ。医療、保険では特にそうであるようだ。

上に引用したロドリック氏も、製造業の成長は各国で収束しているのに、なぜ経済全体では収束しないのか?その疑問に短くコメントしている。
All this begs the question why economies as a whole do not convergence, if manufacturing experiences strong convergence. The answer turns out to have three components.
First, non-manufacturing does not exhibit convergence. Second, manufacturing’s impact on aggregate convergence is curtailed by its very small share of employment, especially in the poorer countries. Third, the growth boost from reallocation – the shift of labor from non-manufacturing to more productive manufacturing – is not sufficiently and systematically greater in poorer economies. Taken together, these three facts account for the absence of aggregate convergence.
非製造業には収束仮説が当てはまらない。これが主因だ。サイズとしてはサービス業である。低生産性サービスは、いつまでたっても低生産的であり、高生産性サービス、つまり報酬の高い部門は、いつまでたってもそうである。そこが製造業とは違う。

サービス部門のこの格差は、各サービスに従事するための人的投資、専門的知識などの違いを反映したフェアな格差なのか、それとも何かの職業規制、開業規制に守られているが故の、模倣や競争から隔離されているが故の、不公正が隠れているからなのか。既得権益なのか。難しい問題だ。確かに難しいが、これらは<日本という国の根幹をなす>という理屈で、外国との協議を一切はねつけるという言い分は、外国には通らないかもしれないし、制度や規制の在り方を外国と協議すること自体、日本にとって損になる。そんなロジックが最初からあるとは言えない気がする。

ま、やりなはれ、このテーマでも、小生はやっぱり「やりなはれ」だな。




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