2012年11月7日水曜日

覚え書き − 国会の在り方は分岐点にあるのではないか

国会議員という人間集団は概ね<素人>である、というか素人でも偶々投票日当日に多くの有権者から票を集めれば、さしたる資格審査や業績審査を経ることなく、自動的に国会議員になるのが現行の制度だ。こんな風であるにもかかわらず、戦後日本においては国会は国権の最高機関であり、立法府としての役割だけではなく、専門知識を必要とする行政府にも議院内閣制や政務三役という名目で人を送り込み、行政の細部にまで彼らの裁量が働く形になっている。特に経済政策は、とるべき方向がロジックとして決まることが多いのだが、審議する議員がその議論を理解できない、用語を理解できないという状態が仮にあるとすれば、運転を知らない人が助手席に座って運転を指示するようなものであろう。ズバリ、危ないのだな。

これは放置してもいいのか?小生、昔からずっと疑問というか、不信というか、どういえばいいのだろう「ちょっとおかしいのではないか」という気持ちを持ってきた。だってそうでしょう。どんな職業に就くのも − 議員という職業があるというのもおかしいが − 必要とされる教育、実績、更に担当する職務によっては資格が求められる。その職務を担うに十分な能力があるという証拠が明示されなければならないというわけだな。しかし、議員という人間集団は<当選>したというだけであって、力量や実績についての十分性を有権者に示しているとは言いがたい。ありていにいえば、国会に最高の国権を与えるのは、猫に小判、豚に真珠、気違いに刃物、まあそんな格言も当てはまるのではないか?要するにそういうことである。本来なら<政党>が、こうした人物評価機能を果たすべきなのであるが、現時点の日本を観察する限り、政党といえる政党なぞ、一つもないし、将来も出てはこないだろうと思われる。

覚え書きまでに書き留めておきたいのは、国権の最高機関で職務を担う国会議員の選出の在り方の可能性は、二つしかないのではないかということだ。

(1)被選挙者になるための費用を高額にする。と同時に、議員歳費は低額にする。

日本の選挙費用は極めて高額である(参考ブログ)。誰でも立候補できるわけではない。しかしこのこと自体が、スクリーニング機能を果たしていると言えないこともない。現に高額の選挙費用を負担できるということは、それまでの職業生活で成功し、それ故に有能な人物であることを憶測させるからだ。だからといって魅力のある名誉職であってはならない。議員歳費を低額にすることによって、真にパブリック・マインドを備えた人物だけが議員を志す、そのための誘因を形成できるはずだ。高額の選挙費用と、高額の議員歳費の両方を実施する今の方式はモラルハザードを招き、不効率である。いわば<特権階級>を形成してしまう要因ともなる。この(1)の方向で選挙制度を運用すると、日本の政治は成功者による寡頭政治というか、エリート政治、貴族政治に近いものになろう。議員の職務専念義務のレベルをどう定めるかなどは技術的問題に過ぎないだろう。

(2)選挙費用を低額にし、議員歳費を高額にする。と同時に、資格審査・実績審査を導入する。

選挙費用を低額にすれば、誰でも立候補して議員を目指すことができる。社会意識が高く、行動力のある人材が議会に参加する道が開けるだろう。議員歳費を高額にすれば、そうした人材への報酬も正義に適ったものになろう。有用な人材を議会に集めるためには、こうしたインセンティブが必要だと思われる。しかし、この方式で議会を形成するなら、被選挙者になるまでの審査を厳格化するべきだ。具体的には、自治体に審査委員会を設置して、あらかじめ定められた評価基準に沿って提出された履歴、職歴、資格を審査し、その人物の能力が十分であるかどうかを判断する、そして審査委員会は審査議事録を選挙に先立って有権者に公開するべきだろう。これが政治に参加する国民の平等な権利を侵害するというのであれば資格と能力の十分性を確認するための予備選挙を選挙区ごとに行い過半数の容認を求めるべきだ。被選挙者が提供するべき情報についてあらかじめ項目を定めておくのは言うまでもない。この(2)は(1)とは違って、より左派的な路線に近いだろう。

学校の生徒会長選挙では誰が立候補しようと、彼がどんな人物であるか、普段の行動を観察しているので分かっているわけだ。それでも不適当な人物が偶々当選してしまうことはままあることである。民間企業では、当然のことながら、勤務評定や昇格・昇任は多数の投票にはゆだねず、専門部署が評価し、判断して、人事を差配している。そのほうが低コストかつ高信頼性のある人事政策を展開できるからだ。国家全体の人事局などありえようはずもなく、だからこそ選挙という制度をとっているわけだが、現行の選挙制度そのものに価値があるわけではなく、目的は高いパブリックマインドをもった有能な人物に議員になってほしい、この目的が大事なのであって、いまの有り様そのものが大事であるわけではない。誰にでも国民を代表する同等な機会を与えるという空洞化した理念が大事なのではなく、機能する国会が最も大事である。国会は目的ではなく、統治するためのツールにすぎない。

国会の在り方については、一度、基本から考え直すべきだと思う。

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