2012年12月2日日曜日

日曜日の話し(12/2)

昨日は卒業年次生が作成中のビジネスプランやケーススタディの中間発表会があり、小生は最後席に座って採点員をつとめてきた。

10時半から5時半過ぎまでぶっ続けで発表がある。最後には誰が良いやら悪いやら、頭がぼおっとしてきそうだが、聴いているとどれも中々面白く、特にビジネスプランの中には独創的なアイデアも混じっており、事業化されることを願うばかりだ。

とはいえ、そんな風だから最後には頭痛がして、まぶたの上を指でマッサージする有様になる。

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一晩寝るとサッパリした。今日の午後は、永らく家を空けて義兄を亡くした実家の支援をしてきたカミさんが戻ってくる。迎えにいこうとは思っているのだが、外は雪が降っている。それまではノンビリ過ごすかとTVをつけると、またもやNHK「日曜討論」をやっていて、各党の政務調査会長レベルが出演している。ま、こういう議論になると、なるほど改革・舛添要一氏の議論は極めて整合的かつ筋道が通っていて、説得的である。奥さん達の井戸端会議で話しても笑われそうな国会議員がいる中で、出色でありますな、さすがに。ただ惜しいかな、正論を述べても「正論は嫌いだ」という国民が相当数いて、彼らが持っている票の数だけの政治権力を抑制することができない、それがいまの日本国の悲しい現実である。

というか、これじゃあ各党議員の地頭(ジアタマ)と見識の違いがわからんじゃないかと思うのは、大きなテーマについて、各党がせいぜい1分くらいずつ意見を述べていくという方式だ。質疑応答になれば、一言きいては、一言答えるというルールのようだ。昨日の学生による発表会でも、発表は11分であり、質疑応答が5分間設けられている。11分でも意見を発表するには、時間が足りない、その足りないことがトレーニングになるのだな。それが何だ・・・まず1分程度で<社会保障改革>について話す。あとは何か言っては、何か言う。これだけだ。資料もなく、話すだけ。これじゃあ視聴している国民は、番組全体から何のメッセージも得られないであろう。時間の無駄であるし、番組制作コストの無駄遣いであろう。

むしろ、これは国営放送を活用した各党平等のCM、販売促進ならぬ認知度向上活動だと思うのだな。その意味で、これは「視聴者のための番組」ではない。故に、こうした番組編成に放送受信料を支払う義務はないのではないかと、小生、思考するのだな。

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それにしても、こんな体たらくでは、若い人たちは「二世を生きる」ことだろうし、小生も長生きをしてしまえば「古い日本と新しい日本」を経験する、そんな事態になりそうだ。

明治維新前後のころ、旧幕時代で青年時代を生き、明治政府の下で壮年期以降を過ごす。そんな人は数多いた。芸術でも、宗教でも、明治維新と王政復古は、天と地が逆転するような感覚であったろう。ま、太平洋戦争敗戦後の日本の混乱もそれに近いが、こちらは敗戦国には普遍的にみられることで、求められていたのは国家としての堅固さであり、それを自分たちから天と地をひっくり返しては、武力で負け、心でも負けたってことになるわけだ。

高橋由一。1828年(文化11年)に江戸大手門前にあった野州の譜代大名・佐野藩邸に生まれた高橋は、幼少時から天才的な画才を示し狩野派の師について日本画を学んだが、黒船来航の後、西洋の絵画に接した時に衝撃をうけ、以後、油彩画制作を自らの画業とした。浪士による東漸寺襲撃の現場にもいた英人ワーグマンに師事をした高橋は幕府が瓦解した時すでに39歳になっていた。明治になって、国立大学の教官を勤めたこともあったが辞めて画塾を経営し多くの弟子を育てた。この点では明治政府には仕えず私塾・慶応義塾を経営した幕臣・福沢諭吉を思い起こさせる。高橋は明治になってから27年を生き、日清戦争が起こった1894年(明治27年)、68歳で死んだ。

高橋由一と言えば「鮭」の写実性を思い出すが、これは東芸大・美術館に所蔵されている。



画像中央にある縦長部分が作品である。明治10年頃の作品ということだから、高橋が育った古い日本が崩壊した後に描かれたものである。その高橋はいま「近代洋画の開拓者」であるとされ、特別展覧会が東京、京都で開催されている。

小生の祖父は随分以前に他界したが裁判官をしていた。任用されたのは戦前期日本であり、10年程は明治憲法と旧法体系の下で裁判を行った。敗戦時には40歳になっており、戦後は日本国憲法に基づいて審理を行うようになった。小生もそんな話しを何度も聴いたのだが、今になって思うと、よくもまあ天と地が逆転するような混乱の中で、落ち着いて裁判を行えたものだと、もう一度その頃の話しを聞いてみたいと思っているのだ。
法廷で 死刑を宣し 勲二等
その祖父が何かのときに作った川柳だそうだ。死刑は、戦前でも戦後でも量刑としてあるわけだが、どの憲法によっているかに関係なく、死刑を言い渡した裁判官にとってそれは<重すぎる>判断であり、その同じ道を選ぼうとしている愚息には誤判を犯した時にお前は耐えられるのかと、何回も聞いている。憲法とか制度とか体制は、NHKの日曜討論などに出るのが大好きな人間達が、あれこれと騒ぎ回って、結果として決まっていくのであるが、「二世を生きる」現場の人間の心情は時代を超えて、案外、同じなのだろう。

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