2012年12月22日土曜日

覚書き ー いまの日本に足らないものは政治家でもないし、専門知識でもない

閉塞感にみちているという ー 小生の身の回りに限って言えば、この一年はあまりに多事多端、急流のような一年で、もういい、もうなんにもしないからな、そんな感懐を覚える歳末なのであるが。つまり、「今までのようにしていてはダメだ」、それだけが分かっていて、ではどうすればいいのかが分からない状態である。

これは私達に知恵が不足しているということか?この問題を解決できるのは、一流の政治家であると当たり前のように語られているが、そうなのか?

それは大間違いであると、小生、思うのだな。

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いまの日本に不足しているのは<思想>だと思っている。思想は、数学でも科学上の仮説でもないので、知恵とはまた別の話しである。

古くなるが、こんな解説がある。シュンペーターとドラッカーという組み合わせが面白く、とっておいたのだ。
シュンペーターからドラッカーへ(ダイヤモンド・オンライン)
シュンペーターとケインズはライバル談義としてよく登場するし、ケインズとハイエクもそうだ。しかし、シュンペーターとハイエクはそれほど多くはないし、まして経済学者シュンペーターと経営学者ドラッカーを比べて何になるのか、と感じる人は多いかもしれない。しかし共通点はあるのだ。ケインズを別として、あとは第一次大戦で敗北し瓦解したオーストリア・ハプスブルグ王朝末期の帝都ウィーンで青春時代を送った人たちなのだ。

アダム・スミスは、産業革命が始まろうとする正にその時に、グラスゴーという技術の揺籃地で社会を深く考えた。スミスによる自由資本主義というビジョンがなければ、19世紀欧州経済の発展はなかったであろう。最近に例をとると、社会主義・福祉国家の理念に対して投げかけたフリードマンの『資本主義と自由』、『選択の自由』が仮に出版されていなければ、今なおケインズ流の裁量的経済政策の時代が(だまし、だましではあろうが)続いていたかもしれない。

ある時代が行き詰まり、別の新しい時代へ通じる端境期においては、まず大きなデッサンを描く思想家が現れるものだ。というより、話しは逆であり、そんな思想家が登場してから、はじめて多数の人が共通の価値、共通の了解事項を見いだし、利益を同じくする安定した新興階層が形成され、これによって現実に社会は方向転換していくのであって、新しい思想を唱える人物が現れるまでは、あるいは再発見されるまでは、古い時代が惰性的に続いていく。小生にはそう思われるのだ、な。

シュンペーターは経済発展のモメンタムとして、<均衡>ではなくて、イノベーションという<破壊>に着目した。ドラッカーが考えたテーマは「・・・であるとすれば、how to innovate」、つまりイノベーションの実践論だと言えよう。 二人とも、旧世界の崩壊を眼前に見ながら、ただその崩壊を嘆くことはせず、新世界はどのような世界であるのか、そもそも時代が進歩するというのはどういうことか、こんな風に考えてくれたからこそ、今に至る古典が残されたわけである。それを残せたのはアメリカという場が二人に与えられたからだ。破壊は破壊で終わるのではなく、次代の創造に必要な行為であること、守るべきは常に新たに生きようとする魂であって、いまあるモノやいまの制度、いまの習慣ではないことを、アメリカで目の当たりにしたのだろう。

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伝統的な価値であった日本人の和と協調が、自由と競争という理念とどうしてもとけ合えない。和と協調を守ろうとすれば、現状のまま、じり貧を甘受するしかない。自由と競争を徹底して、海外と交流を深めようとすれば、国の姿が根本的に変わってしまう。足らないのは「変えるのは今だ」というビジョンであって、変えようとする日本人を支える道徳的価値である。しかし、日本人が信じている道徳的価値は、いまなお明らかに協調と和にあって、競争による解決は欲望による解決だと(ホンネでは)考えている。いくら新自由主義を日本で唱えても、その精神を実践する段階で多くの日本人の道徳感情と共鳴しない、Animal Spirit(=ケインズ流の資本主義的精神)が当局に摘発されるとしても、摘発が当然であり、資本家は不正であると感じてしまう、だから自己変革が定着しないのだと、小生、こんな風に思っている。

「今までのようではいけない」のであれば、「どうしていけばいいのか?」。この問いかけについて、多数の人が納得し、同じ価値観を共有している他人と信じあい協調しあえる<新しい思想>が日本にはまだない。というか、信じてきた価値ではうまくいかないと頭で分かり始めている。だから不安だ。そう言えるのじゃないか?

四分五裂しているのは、表面的には政治であるが、実は思想が混乱している。政治の混乱はその結果である。小生には、そう思われます。思想の混乱という点では、第一次大戦敗北後のオーストリアもそうだが、帝国が崩壊したドイツもそうであった。だからマックス・ウェーバーがカリスマを求める若者達に『職業としての学問』、『職業としての政治』を講演し、なかば脅かし、なかば諭したわけである。そういえば当時のワイマール憲法も国民主権を軸としながらも余りに理想的な憲法でありすぎて短命に終わった。

ま、あれだな。頭では「やめるべきだ」と分かっていたが、「やめるのが正しいことなのか」で迷っていた太平洋戦争末期と似ているのかもしれぬ。一つの終わり・一つの開始を政治的に実行することは、本来、大政治家でなければできるものではないが、その前に「それが正しい」と思わせる思想が不可欠である。

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