2012年12月31日月曜日

覚え書 − 軍国主義の遠因は大正デモクラシーかも

昭和ブームであるとは、つとに聞いているが、大正時代もまたこのところ見直されているらしい。

明治時代がどうこれから再評価されるのかは、これは微妙だと思うが、確かに大正文化は素晴らしい。黒田清輝は画壇の支配者というイメージを感じるが、岸田劉生や萬鉄五郎からは自由を感じる。その自由とは、人間の自由・あらゆる因習や伝統からの人間の解放を指しているから、必然的に人間肯定へ通じ、自由意志の尊重、その結果として罪の意識、美しい倫理観が前面に出てくる。人間の知性と道徳によって、人間がこの社会を統御する − 統制ではなく、統御というところがミソである − それができると考える点に<大正理想主義>の魅力も問題点もある。

その前、というより反対側の立場には<自然主義>があった。日本で自然主義文学というと実に暗い印象があるが、発祥の地である19世紀フランスにおいても自然主義文学を担ったゾラやフローベールなど、不道徳や悪習に染まる人間をむしろ肯定するような側面があり、よく言えば社会をありのままに描写する、悪く言えば開き直っている精神があって、『なにが自然じゃ、不自然そのものじゃないか」、小生若い頃にはそう感じたものだった。

しかし歳をとってくると感じ方が、正反対になるのだ、な。「これは不自然だ」という捉え方は、「これは治すべきだ」という目線に必然的につながり、この目線に青春特有の潔癖な倫理意識が混じると、社会の悪を矯正し、あるべき社会を実現するという姿勢が出てくる。東大の学生団体である新人会が結成されたのは大正10(1921)年であるが、後に左翼思想の揺籃となったこの組織も、誕生は人間肯定、社会改良を望む善意からだったと言えるだろう。つまり理想主義である。大正文化は本質的に青春の謳歌に似ている。成熟した老人の感性とは違っている。

反対に、自然主義的な思想は、理想を排している。ありのままの現実に美を認め、貧困や悪習に神の意図を見る。だから現実を淡々と描写する写実主義をとる。現実に神的性質をみる思想から理想の追求は出てはこず、主観的な未来ではなく、現に存在する「今」をみる。開き直ったパワーポリティックスを展開することはあっても、王道楽土を追い求める拡張主義的積極外交がとられるロジックは出てはこないのだな。

現実世界に神を見ないのなら、「神の意図」にかわる最高善をおかないと不安で仕方がないはずだ。その最高善なる価値は、通常、<民意=民主主義>もしくは<国家・伝統>が置かれる。そこで理想が語られる。今日よりは明日、明日よりは未来、そんな生き方がとられる。現実世界が矛盾にみちている場合、多神教に沿えば矛盾は神々の争いと解されるだろうし、唯一神が仮定されるなら「神の意志は広大にして人間の理性にはとらえ難い」とされる。「貧しきものは幸いなり」、もしくは「人間本来無一物」、「因果応報」と言っても可であろう。これが人間中心の理想主義からみると、あらゆる社会問題は自分たちの努力不足として理解される。

思うのだが、昭和前期の日本軍国主義の源には、明治から大正にかけて花開いた日本人の人間肯定と理想主義があったのじゃないかと。革命を求めるマルクス主義が日本に根付いたのも、革命ではなくて福祉国家の理念をとる修正資本主義も、国家が責任をもって理想社会を実現するという逆説的な統制主義も、その当時登場した新思想はどれも「社会を改良したい」という善意に土台があったのじゃないか。もしも明治後半の自然主義的人生観がそのまま日本人の心の柱であったら、昭和になってから近衛文麿の新体制運動や国家総動員体制が受け入れられることはなかったろうと。そう思うようになった。ま、その自然主義思想も一部知識人による輸入文化であったから、もともと地に足がついておらず、腰が定まった世界観とは到底言えなかったのであろうが。

これがいま立っている地点なので、理想主義的デモクラシーは世界のバランスオブパワーにとっては、極めて危険な因子じゃないかと、これが小生の基本的見方であります。しかしながら、より一層高齢化していく日本や中国、韓国において、そんな老人世界で理想主義はまず採られるはずがない。方向としては、歴史哲学や社会倫理などとは関係のない、ありのままのリアリズムが原理原則になってアジアの国際社会ができてくるのじゃないか。この点では楽観的である。以上、覚え書きとして記しておこう。

2012年12月30日日曜日

日曜日の話し(12/30)

今年は速く過ぎ去ってほしいと願っていたら明日からまた大吹雪になるよし。今日のうちに主なものは買い出しに行ってこようと決めて、先ほど戻ったところだ。お屠蘇はやはり増毛町産の『北海鬼ころし』にするかと、それから愚息が一度はこちらに帰ってくると言うから、グレンフィディック(GlenFiddich)の15年を近くの酒屋で買っておく。ま、酒を買うとなると、あれこれと考えるポイントが増えるというものだ。

最近は毎日嫌な夢をみる。若い頃は何かから逃げるように空を飛んだり、何かを投げたりする夢をよく見たが、最近は昔一緒に働いた同僚や先輩が登場して、甚だ人間臭く演出されている。もう忘れている人たちが、なぜ夢の中に限って小生とまた縁をとり結ぶのか、小生にはその理由・原因が全く分からない。とはいえ、小生にとっては『夢のような世界』とは辟易する世界であって、覚醒するとむしろ安心できる現世にいることを知るのであるから、これは『足るを知る』、つまり幸福への近道を歩いている、そう言えなくもないだろう。嫌な夢にも意味はある。



Marc Chagall, I and the Village, 1911

シャガールも他の多くの芸術家と同様に、1917年のロシア革命後、祖国に見切りをつけて、パリに行き、第2次大戦でパリがナチスドイツに占領された中、ユダヤ人であったことから、アメリカに亡命し、戦後になって再びフランスに戻り、国籍を取得して、ニースに移り住み、1985年にそこで死んだ。カンディンスキーもそうだったが、時代に振り回された人である。

上の有名な作品は、シャガールがロシアを永久に捨てる前、パリで制作されたもので、彼が少年時代を過ごしたロシアの田舎の情景を形づくる幾つかのコンポーネントが、記憶の重層構造を模写するかのように、同じ平面上に描かれている。いまにも話しだしそうな山羊の頭と人の横顔、乳搾り、教会の十字架と農作業から帰る一人の青年。確かに山羊の頭は気色悪いが、こんな夢なら見てもよい。しかし、夢から覚めた後は、もう戻らない少年時代と懐かしい世界を思い出し、いま生きている世界のプレッシャを改めて思い出すだろう。確かに、そんな生きにくい時代をシャガールは生きたわけだから、こんな絵を描く資格がある。では、夢のほうが淋しく、孤独で、思うようにいかない毎日であるなら何を描けばいいのか?夢ではなくて、目の前の風景と人物を描けばいい。懐かしく思い出すような少年時代がないのなら、現在生きている現実そのもののほうがましであろう。

<自然主義>というと写実主義、<理想主義>というと明るい幸福な理念を描くものだと文学史では聴いてきた。しかし、自分が帰るべき世界、行くべき世界が信じられないとすれば、そんな人間が帰するところはどこか?いま生きている現実のみである。いま存在している状態は神が作った世界であると考えれば、人間の頭で別に理想をひねくり出す必要はない。過去を追憶するのは、過去は一つしかないからだ。未来は何通りもあるので、どの未来もウソになる可能性がある。過去を語るとき、人は耳を傾けるが、未来を語るとき、人は語る人の思惑を嗅ぎとる。人は未来に生きるが、神はいまここにいるものだ。現在を大事にするか、未来を大事にするか、その選び方はその人の哲学を反映するだろう。

だから、これまでシャガールは小生にとっては疎遠な芸術家だった。しかし、今年の年末ばかりはシャガールを見たくなった。それで一枚を本ブログに含めることにした。


2012年12月29日土曜日

旭川一泊二日

愚息が旭川で修習を受けているので、年末にちょっと様子を見てこようと思い、ただ見てくるのではつまらないので、昨日は旭山動物園に初めて行ってきた。10時に宅を出たのだが、道央高速を北上している間、数カ所で激しく雪が降り、前が全く見えなくなる。旭川北ICで降りてから動物園までの距離が意外に遠く、結局、到着したのは午後2時を過ぎていた。これでは入ってすぐに閉園になってしまう。が、ラッキーなことにペンギン・パレードが2時半から始まるという。







先頭を歩いているペンギンがどうやらリーダーであったようだ。リーダーについて歩く他のペンギン達は思い思いの姿勢で、好きな方向を見ていて、甚だ統一がとれていない − 当たり前ではあるのだが。

パレードが終わって、オオカミの森を回っているうちに、蛍の光が流れ始めて元の東門に戻る。そこにある土産品売り場で評判のインスタントラーメン15食分を買う。

動物園初見は慌ただしく終わったが、宿泊した高砂台・扇松園は良かった。床の間の花と軸も中々良い。


福は海の如く
壽は山に似る
頭で考えれば逆に分からなくなるが、奇妙に納得できるところもある不思議な言葉だ。

具体的に説明せよと言われると小生も困るが、人間が人生において手にしたいと願っているはずの幸福と長命、このいずれも海や山と同様、自然から、というより自然の中で与えられるものである。だから、人の知恵で計画的にこれらを獲得しようとしたり、科学の進歩で技術的に実現しようとしても、得られるものの本質は幸福でもなく、長命でもない。表面的に得られたとしても、それは形だけのことであり、魔術によって黄金に変えられた泥と同じだ。福寿は、人間の頭の働きではなく、自然という現実の中でもたらされるものである。人為を排し、天地と一つになって初めて得られるものである。ま、そんなところであろう。禅語であるようだが、 カント的とも言える認識論が隠れているようではないか。それとも、こういう考え方自体、マルクス的唯物論に属するのか、哲学を専門としているわけではないので、この辺りは不明である。いずれにせよ、賀詞を小生の勝手で解釈してみた次第。

今日は愚息が暮らしている部屋を覗いてから、カミさん、愚息と一緒に旭川グランドホテル『四季』で大雪昼膳を食す。その後、北の嵐山にある大雪窯で珈琲茶碗を買ってから、帰宅する。

× × ×

東証はまだ上げているようだ。米国は5日連続の低下。ロイターは次のように報道している。

(Reuters) - President Barack Obama and U.S. congressional leaders agreed on Friday to make a final effort to prevent the United States from going over the "fiscal cliff," setting off intense bargaining over Americans' tax rates as a New Year's Eve deadline looms.

「前向きの協議で合意」というので日本は更にまた一層強気になっているよし。とはいえ、
Obama said he was "modestly optimistic" an agreement could be found. But neither side appeared to give much ground at a White House meeting of congressional leaders on Friday. 
What they did agree on was to task Harry Reid, the Democratic Senate majority leader, and Mitch McConnell, who heads the chamber's Republican minority, with reaching a budget agreement by Sunday at the latest.
Source:  Fri Dec 28, 2012 8:35pm EST 
まだ安心できる状況ではないようだ。しかし、11月下旬以来の上げ幅をみると、仮に協議決裂というリスクが顕在化するとしても、なお買わなかったことの判断ミスのほうが責められるかもしれない。ま、今から買うほど愚かなことはないとは見ているが。

はてさて、どうなることか・・・日本は大納会をやってしまったし、大発会までにアメリカ市場で何かが起これば、年明け後は状況が一変しているだろう。

そういえばドイツの暖冬は記録的であるようだ。欧州を覆っている暖気団が東へシフトしてくれば、年明け後の天候は12月とは反対になるかもしれない。天気もまた状況一変するかもしれない。

目を離せない。


2012年12月27日木曜日

二大政党制が単なる二択政治になるなら最悪ではないか

今月16日の総選挙の結果は二大政党とはかけ離れたもので、いわば<ガリバー型政党分布>とでも言うべき状態になった。野党は多党が分立しているし、他方、参議院では自民党、民主党を軸にしながら、「どこがどことくっつくのか?」と、腹の探り合いと合従連衡、権謀術数が支配することになろう・・・。

こんな風に書くと、だから政治はわけがわからない、密室政治はもう沢山だという反応が予想される。しかし、「こんな密室政治はもううんざりだ」と言うばかりで、その逆の見方もまたありうるということに目を向けないなら、あまりに単細胞的であるだろう。

× × ×

ドイツでも来年秋に連邦議会選挙がある。本年5月に実施されたノルトライン=ヴェストファーレン州の州議会選挙ではメルケル首相率いる与党が大敗している。この州は大都市が多く含まれドイツ国内でも中央政界に対する大きな影響力をもっている地域である。日本でいえば東京都議選に例えられるような位置づけにある。そこで野党・社会民主党の得票率が39%、CDUの得票率が26%にとどまったので、にわかに来年秋の政権交代もありうべき可能性として視野に入ってきた。それがドイツの政情だ。少なくとも与党が進める財政緊縮路線、欧州財政協定路線にはかなりのブレーキがかかりはじめた。そうも言えるか。

ただドイツもCDU(=与党・キリスト教民主党)、SPD(=社会民主党)の二大政党が多数を占める寡占状態だが、どの一党も安定過半数をとれない、だから連立政権が常態である。その連立を組むパートナーとして自由民主党(FDP)や緑の党(Grüne)がキャスティンボート的役回りを演じるが、これらの小党がどの大政党と組むか、必ずしも長期的に一定した関係はない。そこで「あちらとくっつく、こちらと離れる」、その度に有権者は政治家の合従連衡に翻弄される、そんな状況にドイツ国民の不満も高まっているようだ。独誌Die Zeitでも次のような記事がある。
Wie kann der Wahlkampf ehrlicher werden?
選挙戦をいかにして名誉あるものにするか?そんな風な意識だ。具体的には、どうせ選挙が終わって連立を組むつもりなのなら、選挙の前に複数の政党がブロックを構築して、政策調整を済ませ、その内容を有権者に示す方がよい。それが一方の意見である。
Das geht so weit, dass Parteien, die erklärtermaßen miteinander regieren wollen, mit denselben Schwerpunkten gegeneinander antreten. Die SPD nennt als ihren programmatischen Kern im Wahlkampf: soziale Gerechtigkeit. Und die Grünen? Soziale Gerechtigkeit!Was sollen die Wähler davon halten? Nur Polit-Puristen können behaupten, dass so wenigstens im Wahlkampf die Positionen der einzelnen Parteien nicht verwässert werden. Alle anderen aber dürfen sich darüber ärgern, wenn nach der Wahl das jeweilige Programm, für das sie stimmten, in den Koalitionsverhandlungen radikal zusammengestrichen wird. 
Source: Die Zeit, 21.12.2012 - 15:14 Uhr 
ドイツでは、社民党も緑の党も基軸は<社会的公正>であり、理念は同じである。しかし、選挙前はこの似通った二党が、政治的な位置はあくまでも異なっているのだと主張し合っている。選挙が終われば、色々な政策が連立協議の中で変更を加えられ、妥協が形成され、事前の綱領は根本的に改変されてしまう。これでは「公約を信じて投票したのに・・」と、有権者の不満も強いようだ。政策決定のプロセスが見えづらい。だから、事前に複数の政党がブロックを結成して、有権者が「こうするか、ああするか」の選択ができるような方式にするべきだ。本来、二大政党というのはこういう理解しやすい選択機会を有権者に提供するのに便利(Convenient)なのであって、そんな状況に近づける工夫をしようというのが、上の意見の狙いであると思うわけだ。

これに対する反対の見方もある。

Das wäre natürlich schön bequem: Ein Lagerwahlkampf Rot-Grün gegen Schwarz-Gelb, mit gemeinsamen Schattenkabinetten und Wahlprogrammen. Damit wir Wähler endlich sicher wissen, was wir für unser Kreuzchen am Ende bekommen, für welches politische Endprodukt wir mit unserer Stimme bezahlen. Politik, so berechenbar wie der Einkauf im Supermarkt! 
Aber Demokratie ist kein Supermarkt. Zum Glück. Wer sie auf eine Blockwahl reduzieren will, offenbart damit nur, dass ihm eine falsch verstandene Effizienz wichtiger ist als Meinungsvielfalt und Berechenbarkeit wichtiger als politischer Streit. Das ist ein letztlich schädliches Politikverständnis. 
Um das zu erklären, müssen wir uns kurz daran erinnern, wie Demokratie eigentlich gedacht ist: Alle Menschen sagen ihre Meinung, und am Ende trifft man nach einer fairen Diskussion eine gemeinsame Entscheidung. Dieser Diskurs ist umso besser, wenn möglichst viele der existierenden Meinungen und Argumente zur Sprache kommen. Im Idealfall, so sagt es Jürgen Habermas, herrsche nur der "Zwang des besseren Arguments und das Motiv der kooperativen Wahrheitssuche".
概要はこうだ。確かに、たとえば社民党+緑の党とキリスト教民主党+自由民主党の二大ブロックが対立して、<影の内閣>、<政策綱領>を選挙に先立って、事前に提示すれば、分かれ道に直面した有権者がどちらの方向を選ぶか、その機会が与えられる。それはいかにも有権者にとっても便利である。ちょうどスーパーで商品を選ぶのと似ている。

しかし、民主政治というのはスーパーで買い物をするのとは違う。 こんなやり方をすれば、意見の多様性よりも悪しき効率性をとるかもしれない。数字では測れない政治的対立をあたかも数字で測れるかのように過度に単純化して考えてしまうかもしれないのだ。民主主義というのは、誰でも自らの意見をオープンに発言して、抑圧のないフェアな議論をかわすことを通して、最後に何らかの結論を得るための全体的な仕組みであるはずだ。だから、選挙戦においては、できるだけ多くの意見を議論に登場させるほうが良い。多くの議論が登場すれば、最後に最良の議論が残る可能性が高まることになるし、<集合知>がそこで確認されることにもなる。「三人よれば文殊の知恵」とでも言うか、そんな社会的な工夫が民主主義なのだ。ま、こんな趣旨である。

× × ×

日本人も二大政党制がよいと考えている人が増えているようだ。確かに、原発は是か非か?こういう問いかけをすれば、答えもYesかNoの二つしかないので、選択が単純になる。受験者Aは合格とするべきか、不合格とするべきか?この製品は害があるのか、害はないのか?TPPに参加するべきか、拒絶するべきか?中国は信頼できるのか、信頼できないのか?すべて物事は是か非か、善か悪か、正か邪かという二項対立に持ち込むことが可能である。

回答を二通りに限定させることによって、決め方はシンプルになるが、失われるものも多くなる。良い面と悪い面の両方を含んでいる現実に対して、本当は「良い」と回答する方が全体の利益にはかなう場合に、誤って<悪い>と結論を出してしまう集合知ならぬ<集合愚>が発生するかもしれない − 逆に、「悪い」と判断するべき時に、「良い」と結論を出す失敗もありうる。とるべき判断とは正反対の結論を出す時の損害ははかりしれない − <間違った開戦の決定>などは一例だろう。

二項対立、言い換えると<選択の仕方>が間違っている。客観的な正解がありえない状況においては、現実にそった選び方をする必要がある。正解が明らかでない場合は、社会的な判断もいずれか一つの見方に偏らない方が、というより偏らせない方が、理にかなっている。不明解な姿勢をとり続けることによって、大胆果断な敵には<先制攻撃>のチャンスを与えるだろう。だから即断即決をするシステムが国益の観点から良いのだ、という結論にはなるまい。是非を決める意思決定を速くしても、甚大な失敗のリスクが高まるのであれば、元も子もない。集合知の形成に時間をかけるシステムにしておくのは、決して愚かな国作りではないと思うのだ、な。

ということで、1994年の細川内閣による選挙制度改革は改悪であったというのが、小生の立場であります − ちょっとロジックが飛ぶが、とりあえず今日はこの結論で。




2012年12月25日火曜日

年越し寒波ならぬ、年越し株暴落はありうるのか?

今朝は快晴とまでは行かないが、美しい青空が広がっている。雪も降っていない。「ハテ、今日はクリスマスだ、昨日もいい天気だったが、クリスマス寒波はどうなったのか・・・」、そう思って新聞の天気予報欄をみると、今夕から北海道南部、日本海側でも暴風雪になるよし。「なんだ、夕方からか、じゃあ大学に行って部屋でも片付けてくるか」と、カミさんと話しているところだ。

その新聞には某週刊経済誌の広告がある。
アベノミクスでプチバブル。東証株価1万円根固めの根拠。追い込まれる日銀、追加緩和策も。
何だか、世界と切り離された日本国で日本人が「裏に道あり、花の山」とばかりに宴を催している、そんな雰囲気である。しかし、小生、どうにも心配で11月末に手持ちの株を売却したまま、まだ買い戻していない − というか、これほど急ピッチで上がってしまうと、危なくて買うに買えないものだ、もちろん買わないリスクはあるにせよ。

カネにかけては一家言あるスイス人たちはどう見ているのか?そう思ってNeue Züricher Zeitungをみると以下の記事があった。
Eine Einigung vor dem Jahreswechsel gilt nun als zunehmend unwahrscheinlich. Wie hoch die Kursrückschläge am Aktienmarkt ausfallen dürften, sollten die USA ungebremst über die Klippe rasen, ist schwer abzusehen. Ein Stratege des New Yorker Brokers BTIG hält etwa ein Minus des S&P 500 von bis zu 15% für möglich.
Source: NZZ, Samstag, 22. Dezember 
 アメリカで調整中の<財政の崖・回避策>の決着は年内は難しくなりつつあると見ているようだ。もしアメリカ議会で案がまとまらず、そのまま財政の崖から飛び出してしまったら(ungebremst rasen)、その場合の経済的ショックは予測しがたいが、ニューヨークの証券会社は15%程度(!)の暴落もあり得る、と。そんな見方を紹介している。日経平均が連動すると1000円〜1500円の暴落も予測範囲内に入るのだから、これは怖い。大きなリスクである。

上の記事のヘッドラインは

Welle der Euphorie läuft am «Fiskal-Kliff» aus

思うに、11月下旬から何の拍子か上がり始めた今回の株価上昇劇は、フランス、中国、アメリカ・・そして日本・韓国と続いてきた政権交代(もしくは政権継続)をきっかけに、何かこれまでにない新しい事が始まる兆しではないか、そんな浮かれた気分(Euphoria)が超金融緩和と相まってもたらした宴会のごときミニバブルであったのだろう。その宴会もそろそろ終わりであるというのが上のヘッドラインである。

いずれにせよバブルはバブルだと感づかれた時に破裂するものだ。危ない、危ない。12月第1週辺りで波乱があるという見込みは見事にはずれ、ここにきて持たないリスクはあるものの、買うのはいつでも買える。米議会の調整を確かめてから買い戻すことにしよう。

2012年12月23日日曜日

日曜日の話し(12/23)

天皇誕生日というより毎月23日は母の祥月命日であり、近くの寺の住職が月参りに来て、読経してくれる日でもあるので、今日は祭日という実感があまりない。だから明日も振替休日で三連休という感覚が、頭では分かっているものの、全くなくて困る。

月参りが終わってから、雪が降り積もった人気のない大学に来て、年賀状を印刷した。今年の絵柄はずっと以前に本ブログにも投稿した「小樽運河と橋」の秋ヴァージョンにした。カミさんが家に戻ってきてくれて ― 戻った直後にぎっくり腰を患って、小生は相変わらず多忙ではあったのだが ― 心のゆとりができたのだろうか、描き始めてすぐに仕上がった。


秋の小樽運河と橋、Fabriano 230mm×305mm、水彩

絵といえば、最近 ― 参照したブログを信頼するとして ― 明らかになったことがある。カンディンスキーの作品だと手元では分類されているのだが、持っているカンディンスキーの画集のどれにも含まれず、彼の作品だと確認できなかったのが下の絵である。


カンディンスキーの作風とは明らかに違っていてクレーの絵ではないかとも思われ、ずっと小生にとっては作者不明であった。それがブログ「水彩画の巨匠たち ― ワシリー・カンディンスキー」の中で上の作品を偶然に確認することができた。1928年に制作された『闇の中へ』であるとのことだ。

1928年といえば、カンディンスキーが同棲していた恋人であり弟子でもあったガブリエレ・ミュンターと別れてロシアに戻り、そこで二人目の妻と結婚したのだが、そのロシアでも受け入れられず、スターリン政権が発足する直前、故国を捨て、第一次大戦後のドイツに開設されていたバウハウスに移って数年後の頃になる。クレーが教官に招いたのだが、そこでカンディンスキーは、1933年にナチス政権によってバウハウスが閉鎖されるまで、約10年間、再生したかのように旺盛な創造活動を展開したのだった。上の作品には明らかにクレーの影響が認められ、二人の親密な交流をうかがうことができる。

カンディンスキーはナチス政権下のドイツからアメリカに亡命することを勧められたが、それを拒否し、フランスに移って隠棲し、戦後を見ることなく78歳でパリに客死した。時代に振り回された人であり、平穏で幸福な生活は常に戦争や政権交代によって壊されたのであるが、そんな時代に生きた彼の人生があったればこそ、今日まで残された名作が数多く創造されたとも考えられる。

新しいものを創造する人は、内面の衝動に突き動かされて活動する人であり、ある意味では時代に捧げられる<生贄>のような存在かもしれない。そう思うことがある。『ワイマールのロッテ』の最終章の中で、作者トーマス・マンは老いたゲーテに「私こそが苦しんできたのです、ロッテ、わが身を燃やして、周囲を照らす蝋燭と同じように、すべての詩人は創造という炎の中に自らを生贄のように捧げて、美を紡いでいるのです」と。ちょっと原本がないので、引用の正確さには欠けるが、まあ、このような趣旨の告白をゲーテにさせている。

政治は科学ではなく芸術に近い。再現は本質的に不可能であって、新しい時代をつくるという創造にこそ意味があるからだ。だとすれば、政治家もまた時代に身を捧げる生贄としての覚悟を持つべきなのかもしれない。


2012年12月22日土曜日

覚書き ー いまの日本に足らないものは政治家でもないし、専門知識でもない

閉塞感にみちているという ー 小生の身の回りに限って言えば、この一年はあまりに多事多端、急流のような一年で、もういい、もうなんにもしないからな、そんな感懐を覚える歳末なのであるが。つまり、「今までのようにしていてはダメだ」、それだけが分かっていて、ではどうすればいいのかが分からない状態である。

これは私達に知恵が不足しているということか?この問題を解決できるのは、一流の政治家であると当たり前のように語られているが、そうなのか?

それは大間違いであると、小生、思うのだな。

× × ×

いまの日本に不足しているのは<思想>だと思っている。思想は、数学でも科学上の仮説でもないので、知恵とはまた別の話しである。

古くなるが、こんな解説がある。シュンペーターとドラッカーという組み合わせが面白く、とっておいたのだ。
シュンペーターからドラッカーへ(ダイヤモンド・オンライン)
シュンペーターとケインズはライバル談義としてよく登場するし、ケインズとハイエクもそうだ。しかし、シュンペーターとハイエクはそれほど多くはないし、まして経済学者シュンペーターと経営学者ドラッカーを比べて何になるのか、と感じる人は多いかもしれない。しかし共通点はあるのだ。ケインズを別として、あとは第一次大戦で敗北し瓦解したオーストリア・ハプスブルグ王朝末期の帝都ウィーンで青春時代を送った人たちなのだ。

アダム・スミスは、産業革命が始まろうとする正にその時に、グラスゴーという技術の揺籃地で社会を深く考えた。スミスによる自由資本主義というビジョンがなければ、19世紀欧州経済の発展はなかったであろう。最近に例をとると、社会主義・福祉国家の理念に対して投げかけたフリードマンの『資本主義と自由』、『選択の自由』が仮に出版されていなければ、今なおケインズ流の裁量的経済政策の時代が(だまし、だましではあろうが)続いていたかもしれない。

ある時代が行き詰まり、別の新しい時代へ通じる端境期においては、まず大きなデッサンを描く思想家が現れるものだ。というより、話しは逆であり、そんな思想家が登場してから、はじめて多数の人が共通の価値、共通の了解事項を見いだし、利益を同じくする安定した新興階層が形成され、これによって現実に社会は方向転換していくのであって、新しい思想を唱える人物が現れるまでは、あるいは再発見されるまでは、古い時代が惰性的に続いていく。小生にはそう思われるのだ、な。

シュンペーターは経済発展のモメンタムとして、<均衡>ではなくて、イノベーションという<破壊>に着目した。ドラッカーが考えたテーマは「・・・であるとすれば、how to innovate」、つまりイノベーションの実践論だと言えよう。 二人とも、旧世界の崩壊を眼前に見ながら、ただその崩壊を嘆くことはせず、新世界はどのような世界であるのか、そもそも時代が進歩するというのはどういうことか、こんな風に考えてくれたからこそ、今に至る古典が残されたわけである。それを残せたのはアメリカという場が二人に与えられたからだ。破壊は破壊で終わるのではなく、次代の創造に必要な行為であること、守るべきは常に新たに生きようとする魂であって、いまあるモノやいまの制度、いまの習慣ではないことを、アメリカで目の当たりにしたのだろう。

× × ×

伝統的な価値であった日本人の和と協調が、自由と競争という理念とどうしてもとけ合えない。和と協調を守ろうとすれば、現状のまま、じり貧を甘受するしかない。自由と競争を徹底して、海外と交流を深めようとすれば、国の姿が根本的に変わってしまう。足らないのは「変えるのは今だ」というビジョンであって、変えようとする日本人を支える道徳的価値である。しかし、日本人が信じている道徳的価値は、いまなお明らかに協調と和にあって、競争による解決は欲望による解決だと(ホンネでは)考えている。いくら新自由主義を日本で唱えても、その精神を実践する段階で多くの日本人の道徳感情と共鳴しない、Animal Spirit(=ケインズ流の資本主義的精神)が当局に摘発されるとしても、摘発が当然であり、資本家は不正であると感じてしまう、だから自己変革が定着しないのだと、小生、こんな風に思っている。

「今までのようではいけない」のであれば、「どうしていけばいいのか?」。この問いかけについて、多数の人が納得し、同じ価値観を共有している他人と信じあい協調しあえる<新しい思想>が日本にはまだない。というか、信じてきた価値ではうまくいかないと頭で分かり始めている。だから不安だ。そう言えるのじゃないか?

四分五裂しているのは、表面的には政治であるが、実は思想が混乱している。政治の混乱はその結果である。小生には、そう思われます。思想の混乱という点では、第一次大戦敗北後のオーストリアもそうだが、帝国が崩壊したドイツもそうであった。だからマックス・ウェーバーがカリスマを求める若者達に『職業としての学問』、『職業としての政治』を講演し、なかば脅かし、なかば諭したわけである。そういえば当時のワイマール憲法も国民主権を軸としながらも余りに理想的な憲法でありすぎて短命に終わった。

ま、あれだな。頭では「やめるべきだ」と分かっていたが、「やめるのが正しいことなのか」で迷っていた太平洋戦争末期と似ているのかもしれぬ。一つの終わり・一つの開始を政治的に実行することは、本来、大政治家でなければできるものではないが、その前に「それが正しい」と思わせる思想が不可欠である。

2012年12月20日木曜日

あるケース ― 国会議員が語るべき国益と私益

少し古くなるがロイターが以下のような報道をした。

米国のLNG輸出、国内価格押し上げる=民主党上院議員
民主党のデビー・スタベノウ上院議員(ミシガン州)は6日、液化天然ガス(LNG)の輸出推進について「意味がない」と批判。天然ガスの輸出容認は国内価格の上昇につながり、米製造業に痛手を与えて雇用喪失を招くとして、反対する意向を表明した。
同問題をめぐっては、上院エネルギー委員長を務める民主党のロン・ワイデン議員らも、輸出容認がもたらすメリットに疑念を提起し、輸出推進に反対する考えを示している。
オバマ政権は現在、国内企業からこの1年間に出された12を超す天然ガス輸出プロジェクトの認可申請に関する決定を保留して、LNG輸出が価格や国内経済に与える影響の検証を実施している。
また、米エネルギー省は5日に報告書を発表し、余剰天然ガスを国外に輸出することはエネルギー価格を押し上げるものの、経済全般には実質的な利益をもたらすとの見解を示した。
(出所)ロイター、2012年 12月 7日 14:43 配信
シェールオイル、シェールガス採掘技術の進歩から、いまは世界のエネルギー市場の市場構造が変革のさなかにある。一度アメリカから新興国に流出した米・製造業の生産拠点が再びアメリカ国内にUターンしつつある。このことはもう何度も報道されている。

余りに多くの一次エネルギー源を中東に依存する日本にとっても、このようなエネルギーのアメリカシフトは好ましく映っているはずである。ところが、日本の製造業の得は、アメリカ製造業の損であると。米国・民主党議員ならば、こういうゼロサムゲーム的な議論を構築するであろうとは、大いに予想されるところだ。

しかし上の議論は、アメリカ製造業とそのライバル国の議論では、実は、ない。 純粋にアメリカ国内の問題である。

ロジックからいえば、アメリカのエネルギーをグローバル市場で自由に取引させて、価格が需給で決定されるようになれば、アメリカのエネルギー産業は繁栄するが、当然のことドル高要因となり、それはアメリカの製造業にとっては輸出の足かせになるのでマイナスである。悪くすれば、アメリカがオランダ病に罹ってしまう。上記スタベノウ議員は、『だからアメリカ製造業のライバルを利することを懸念している』と、そう考えているようだが、実はアメリカ国内のエネルギー産業の利益拡大を抑えようとしているわけである。アメリカにとって、エネルギー産業を国の繁栄のコアと位置付けるか、製造業をコアと位置付けるか、アメリカが直面している問題はあくまで<アメリカの国益>なのであるが、そうは語っていない所が議論のミソである。民主党としては、同じアメリカの産業が繁栄するにしても、より多数の労働者が雇用されるようであってほしい。エネルギー産業が繁栄しても、それは少数の資本家が栄えるだけであり、中下層に利益は落ちてこない。まあ、こうは言ってはいないが、考えていることはこうであろう。もちろん優勢な製造業の保有=国防上の安全保障というロジックも意識されているだろう。これも民主党が伝統的にもっている政策思想に沿っている。

× × ×

特定の選挙区から選出された特定の政党に属する国会議員は、所詮、(ホンネでは)誰か特定の人たちの利益を代弁するものである。代弁というのがまずいなら、無視できない、と言い換えておこう。そんな政治家の姿勢が嫌だ、不潔だと考えるなら、そもそも<代議制民主主義>を採用するのは無理なんじゃないかと思う。寧ろ、こうした状況こそ、地に足がついており、活力があって望ましいと、そう感じる感性が必要だと、小生は思うのだな。

小生が特に羨ましく思うのは、抽象的な大義名分を振りかざすことをせず、あくまで具体的な利益の発生と損失の発生をロジカルに語りながら、何が国益であるかを明らかにしようとする国会議員の議論のスタイルである。そもそも<国益>を国会議員が語らないのなら、誰が<国益>を語るというのだろうか?

その国益を追い求めながら、それでも特定の選挙区から選出された特定の政党議員たちは、自分たちの利益も<結果として>同時に増えるようであってほしいと願っている。源頼朝は何よりも平家を打倒して父の無念を晴らしたかった。しかし、それは支持基盤の東国武士たちにはどうでもよいことだ。だから源頼朝の政治課題は東国武士の利益拡大であった。それが公益だ。その公益を拡大するべく行動する中で、自分の私的な目的である平家討滅もまた同時に達成した。源氏一門に属する人間が、東国の公益を求めながら、自らの私益を追求するとしたら、ああするのが合理的だったわけである。その点で政治的な天才であると思うのだ、な。もちろん、東国は日本の中の一地域であり、東国の利益=朝廷政治の損失という対立ゲームであったので、東国の公益とは結託の利益だったのだが、この点はまた別の機会に。

国益という仕事をこなしながら、私益も同時に達成する。いいねえ・・・複雑でありコンプレックスであり、深みがある。ま、アメリカの上院議員は鎌倉幕府とは関係がないが、<政党政治>たるもの、こうでないといかん。「新幹線延伸が私に与えられた政治課題であります」・・・私益丸出し。全く恥ずかしいの一語だ。それでもまだ日の本太郎なる人物がいるわけでもあるまいし『すべての国民の未来のために・・・』などという自称・政治家の枕詞よりはよほど中身があるだけマシであるが。ま、国会議員の議論のスタイルを示す一つの好例ではないかと思ったので米・上院議員のことながら、メモすることにした。

2012年12月19日水曜日

「みんなの党」が「みんなの間違い」にならないことを祈る

朝のTVで隣町のS市にある老舗デパートのデパチカが紹介されていた。洞爺湖サミット以来、牛肉の高級ブランドとして確立したかにみえる白老牛がとりあげられていた。
~~これは白老牛で作った〇〇△△です。わかりますか?
~~何でしょうねエ・・・
~~これ実は、白老牛で作った生ハムユッケジャンなんです!

小生「何と、白老牛で作っているのか、勿体ないねえ・・・」
カミさん「わたし、いらないなあ」
小生「だけど、あのデパートだからサ、例のおいしいコンビーフならいいんじゃないかな、白老牛のコンビーフなら一度食べてみたいねえ」
カミさん「売れないと思うけど」
小生「あれかな、白老牛に対して礼を失しているかもネ。そこもと、何か勘違いをしておらぬか!この白老牛をコンビーフごときに用いるとは、何たる了見じゃ!」
カミさん「ハハア、ご無礼の段、ひらにご容赦を・・・ってやつだね」

名案のように思えても、実は心得違いというのは、何ごとについてもあるものだ。そんな時に助けになるのが、体系的なカリキュラムに沿って、専門的な勉強をしておくことだ。「それはないでしょ」という簡単なミステークを避けることは、くだらない議論を避け、時間多消費型の迷走状態をつくらないようにする何よりの秘訣である。

× × ×

こんな報道がある。
渡辺喜美みんなの党代表
 安倍政権が唱える(改憲規定のある)憲法96条の要件緩和には、みんなの党も賛成だ。だが、優先順位として、まず公務員制度改革が必要だというのが、みんなの党の基本的な立場であります。憲法改正の要件が緩和されて、時代に適応した憲法改正が可能になったとしても、その受け皿となる官僚機構がまったく時代にそぐわない、今のままの状態が続いたなら、極めてチグハグになる。まずは、官僚制度改革が優先されるべきだと、強く主張してまいりたい。(党役員会で)
(出所)朝日新聞、2012年12月18日16時42分 配信
憲法とは国の姿をどのようにして作っていくかを示すものであって、言うならば国家戦略の柱をなすものであろう。日本という国のあり方について理念がまずあって、それをどのように追い求めて行くかという設計図と戦略が次に来て、ではオペレーションとしては誰がどのような組織と配置で担当していくのか。それが組織戦略である。

10年ほど前に文科省の新制度である専門職大学院に移って、ビジネススクールという所で授業をしている。制度自体がアメリカ直輸入に近いものだから、理念とか戦略という言葉は頻繁に使う。

戦略といえば、多々、ビッグネームが上がるだろうが、まずはアルフレッド・チャンドラーの名前は必ず入る。ま、戦略分野の大物だ。同氏の"Strategy and Structure"(戦略と組織)は一世を風靡した古典だが、中でも
組織は戦略に従う
という格言は、今学期も何度口にしたか分からないほどだ。日本語訳は、ズバリ、上の格言をタイトルにしている。

小生は次のようにパラフレーズして使っている。
いいですか、他の授業でも必ず引用されているとは思いますが、目的が定まって、戦略が定まる。戦略が定まって組織が定まるのです。ですから、戦略なき組織編成はありえないし、目的が不明確のまま戦略をたてようとしても不可能なんです。まず最初に社内組織を変えようかという会社が多いようですが、みんなが賛成するからと言って、目的をハッキリさせないまま、組織をいじってみても、時間とエネルギーの無駄使いなんですよ。
だから憲法改正を狙っていくなら、改憲論を先にしておくべきであって、公務員制度や中央省庁の編成は、新しい憲法で定める国の方向に向かって、確実に歩んで行けるように決めるべき事柄である。

最初に公務員制度や官庁のことを議論すれば、必然的にそれは<制度いじり・組織いじり>に堕することは、ロジカルな関係から簡単に予想できることである。にもかかわらず、渡辺代表が公務員改革にこれほど執着するのは、代表にとって公務員改革は組織戦略ではなく、それこそ国の姿そのものであると。そう考えているからであろう。しかし、これは明らかに間違ったものの見方だし、器の小さい政治であるとしか言いようがない。

みんなに貢献する政党だから「みんなの党(Your Party)」だと思っているのだが、みんなの間違いを提案するのでは元も子もない。間違いは、せいぜい「私たちの間違い(Our Mistake)」にとどめておいてほしいものだ。


2012年12月17日月曜日

最初の印象 ― 自民大勝・民主壊滅劇

事前に予想されてはいたが、やはり自民党が衆議院選挙で大勝し、民主党は惨敗した。100議席を割るという予想から、いやいや70台にとどまるという声が出て、まさかと言われていた。それが50台であるから、ただ茫然、為す所を知らずというのが事実であろう。

ただ2009年政権交代劇は、<ロマンティックな夢想家+反権力活動家OB+やり手の選挙屋>という、ドストエフスキーの『悪霊』にでも出てきそうな、まあ想像を絶する元素の化合物から生まれ、乙女のごとくウブな専門家達も毒素にやられてしまったことを思うと、今回は日本人の多数が魔術から醒めたという側面もあったのかもしれない。それにつけても、この三年間は何であったのだろう?将来の歴史家は<わる酔い政局>とでも総括するのではなかろうか。小生はそう予想しているところだ。

いずれにせよ、その立役者の一人は失政を非難されて、追い詰められ政界引退。他の一人は ― 追放ではなく離党ではあったけれど ― 古代ギリシャにも似た陶片追放の憂き目にあい、残る一人は選挙運動中に負傷するほど奮闘もしたのだが小選挙区で武運拙く敗北、朝刊締め切り時点では比例当選も定かならず。首謀者三人、それぞれ三人三様の有様にて、それにつけても悔しきは、敗軍の哀しさヨと、そんな風な結末なのだが、当選した民主党の構成員は、まだしも真っ当な人材に純化された。そう言えなくもないだろう。むしろ得体の知れない新人を多数抱えこんだ自民党の方が<時限爆弾>をわが身の中に抱え込んだようなもので、危ういこと限りなし。

それにしても日本未来の党の嘉田代表がTVで「今度は参議院選挙だなって、小沢先生はおっしゃっていました」と発言していたし、自民党幹事長は来夏の参議院選挙を意識して石破氏留任となったらしい。

昨日の衆議院選挙の開票がまだ終わってもいないうちから、来夏の参議院選挙を意識して、そこから逆算して今の政略を練る。ゲーム論的には当たり前のロジックなのだが、「何のために政治家になっているのかねえ・・・」と、小生は言いたくなりますね。世界の普通の感覚から見ると「ホント、日本の政治家というのは、落ちつかない連中だねえ。日本人ていうのは、あんな風にしておきたいのか?」。そんな風に言われるのではありますまいか。

2012年12月16日日曜日

日曜日の話し(12/16)

今日は衆議院選挙である。四国の実家から北海道に戻ったカミさんは、戻って一日だけは元気に動いていたが、二日目の終わりに腰が痛いと言い出して、そのまま寝込んでしまった。一週間経ってから動けるようになったが、まだ重いものを持つのは厳禁であり、買い物に出て少し歩いただけでまた痛くなる。そんな毎日である。そのカミさんが、今朝、小生に聞いた。
「選挙には行くの?」
「もう日本の国会にかかわりあうのは辞めたよ。真っ当な人物か、イカサマの候補か分からないのに、籤引き抽選会でもあるまいし、雪の中を出かけていって投票するなんて、時間の無駄だよ。大体、この選挙区にたっている候補は何だい?大臣在任中にはとんでもない行動をするし、そうかと思ったら原発ゼロとか、原発ゼロにしたまま消費税増税はストップするとか、何とか学校は無償化するとか・・・できもしないことを並べたてて、あれじゃあテレビのワイドショーと同じだよ。バカにしてらあ。」
「じゃあ、わたしも腰が痛いし、やめよっかなあ・・・」
「それが賢いね。意味もないことに参加して、また怪我をしちゃあ、つまらんよ。自然にまかせて、なるようになれば、それが正解というものさ」。

× × ×

前々日曜日は高橋由一を話題にしたから、順番からいえば狩野芳崖にならざるをえない。芳崖は旧幕時代に全国に散らばっていた狩野派絵師の一人である長府藩狩野晴皐の子として生まれた。神童の名を恣にした幼年時代を送った彼は、長じて江戸に出て、そこで生涯の親友・橋本雅邦と出会い、幕府瓦解まで二人は竜虎と称された。しかし明治政府が発足し、芳崖は生活に窮迫し、襖絵や焼き物の下絵を描くことで糊塗をしのいだ。落魄の人生である。芳崖を再び見いだしたのは米人フェノロサである。ジャポニスムの潮流の中で美術を研究してきたフェノロサは狩野派が作り出してきた美に日本をみた。


狩野芳崖、仁王捉鬼図、1886年

日本人・岡倉天心と協力して設立を準備していた東京美術学校(現・東京芸術大学)の教官を任される予定であったが、絶作「悲母観音」を描きあげた4日後、1888(明治21)年11月5日、「近代日本画の父」狩野芳崖は病気により死去した。美術学校開学は翌年のことである。


悲母観音、1888年

芳崖の代わりに美術学校に着任したのは橋本雅邦である。雅邦は横山大観、菱田春草などの弟子を育て明治後の日本美術再興に力を尽くした。

× × ×

芳崖、雅邦の時代、二世を生きた人は無数にいたが、だからといって当時の人が身の不運を嘆き合っていたとは、小生思えないのだな。それどころか、同時代の混乱に振り回され、幕臣たる身分を失った福沢諭吉は、自分の人生の最大の僥倖として、異なった時代を生きることができた点をあげていた。

今は閉塞感にみちていると言う。しかし同時に『窮すれば通ず』ともいう。変革期であることに多くの人が気がついている。変化によって若い人は必ず刺激を受けるであろう。旧時代の既得権益層である人も、既得権益を失うからといって落魄を嘆く必然性はない。それは落魄ではなくて、むしろ再生、Rebirthになるのだ。

小生は、次の世で何をどのようにしたいのかを思いめぐらすことのほうに、投票より関心を覚えるし、そのほうが面白いし、過半数の人が同じ行動をすれば、日本の国政選挙は死に体となり、日本国家の統治機能が麻痺するであろう。それは変革への触媒になるだろう。そんな選挙で選ばれた国会議員が有能であるはずはなく、政党が何かをできるわけはなく、結局は超党派の憲法改正準備委員会を開設することくらいしかできることは何もない、文字通りに<能のない集団>になるだろう。今日という日の偶然によって選ばれた国会議員集団がそのことを自覚する時が、日本の転機になるだろう。自覚しなければ、自覚するまで、本質的な事柄は何も進まないし、そもそも進められる人材が今のような「選挙」で選ばれうるとも思われないのだ、な。

2012年12月15日土曜日

民主化によって多数の国が共通国家モデルに収斂していくのだろうか?

歳末である。今年は、というか昨年の東日本大震災のあと、小生にとっては平穏な20年が終わり、多事多端な時代が幕開けした。そんな感懐を覚える年の瀬である。

北朝鮮の独裁体制が何かと言えば批判にさらされているが、民主化を政治の春にたとえるのは、アラブの春のあと、世界で共通した姿勢であるようにも思える。

小生の友人にもデモクラティストがいる。近代国家が生まれようとしていた18世紀末では、しかし、「共和主義者」といえば、イコール「危険人物」であった。当時はロイヤリスト(王党派)が伝統的な穏健派であり、民主主義者といえば過激派であったわけである。それが現代においては民主主義者が穏健な伝統派となり、反民主主義者は現・国家体制を転覆しようとする危険人物になっている。世の価値観や社会哲学は、100年を1単位とすれば往々にして逆転することが分かる。

× × ×

日本とアメリカはどちらが民主的社会であろう。日本と英国は?英国とドイツはいずれが民主的か?ドイツとイタリアはどうだろう?日本と韓国はどちらが民主的なのか?・・・民主化の度合いについて、こうした順序構造を設けるには、その度合いを数値化しておく必要がある。それが<民主主義指数=Democracy Index>である。英誌The Economistの付属機関であるエコノミック・インテリジェンス・ユニットが隔年で公表しており、世界167か国が調査対象になっている。オリジナルの公表資料はここにある。

2010年公表指数によれば、日本は君主制をとりながらも「完全な民主主義国」として認められており総合指数では22位に位置している。ちなみに第1位はノルウェーであり、アメリカは17位。167か国中の167位は(言うまでもないが)北朝鮮。北京に首都をおく中華人民共和国は136位に位置しているので民主化の度合いは(これまた言うまでもないと思うが)半分以下、極めて低評価にとどまっている。

面白いのは、韓国が日本よりも2位だけ上位にあって20位。差はあるものの、総合指数では日本が8.08、韓国が8.11と僅差であるから、ほぼ同等だ。ただ総合指数を計算する各次元の評価値では少々出方が違う。個別評価値は、「選挙手続きと多元主義」、「政府の機能」、「政治への参加」、「政治文化」、「市民の自由」、以上五つから構成されている。内訳を日本と韓国で比較すると


日本韓国
選挙手続きと多元主義9.179.17
政府の機能8.217.86
政治への参加6.117.22
政治文化7.507.50
市民の自由9.418.82


こうなっている。評価が違うのは、政府の機能(日本が上位)、政治への参加(韓国が上位)、市民の自由(日本が上位)で、選挙手続きと多元主義、政治文化については日韓同等である。これをみるとEconomist誌の調査データに基づく限り、日本と韓国の二国は<概ね同型の民主的社会>と把握できるわけである ― 当然、そこに暮らしている人々の間には体感的な違和感があるとは思うが。とにかく、政治への参加において韓国は日本よりも一歩先を行き、市民の自由においては日本に分があるというのは、(小生自身、両国の暮らしを熟知しているわけではないが)一般的な印象と合致しているのではあるまいか?

上の総合指数は個別数値を単純平均して算出されているようだ。個別指数が測定している社会の属性は、互いに関連し合っているが、個別数値の相関行列をみると関連の度合いは一様ではない。こういう場合は個別数値を単純平均するのではなく、下図のように考えて、因子分析を行い因子得点を求める方が適切である。
共通因子が個別測定数値に影響する際に、その他要因がノイズ(=個別因子)として混在するから、因子得点の変動が個別数値の間にみられる相関を100%説明するわけではない。回帰分析の決定係数に相当する指標である<共通性>も確認しておくべきである。ともかく因子分析の枠組みで考えれば、<民主化>共通因子を反映している度合いだけ、その国家は民主化が進んでおり、共通因子では説明できない個別因子(=ノイズ)は、その国が民主的であるかどうかとは関係のない、国ごとの個性、国民性、歴史的な相違等々を反映する。この個別因子を観察する作業も相当面白いのではないかと思う ― 日韓2か国の比較くらいであれば、個別数値を並べるだけでも察しはつくが。

× × ×

一口に<民主主義>と言っても、同じ度合いの民主的社会を構築するには、エコノミスト調査の方式に沿って議論するとしても、なお5次元の自由度があるわけである。民主化を進める道は一本道ではなく、平面でもなく、そこには広汎な選択の余地がある。また、その国家が民主主義的であるかどうかとは関係のない側面も国家・社会にはあるわけである。

より民主的になれば社会は改善されるだろうと言明しても、それは決して一つの方向を指し示すことにはならない。その慣行は先進民主主義国家では観察されないことであると指摘するとしても、数値分析を行えば、その社会的特徴は民主主義的であるかどうかとは、ほとんど無関係な次元に属するかもしれないのである。

単線的、というか過激にいえば<単細胞的な>評価を民主化について下すことほど非科学的な議論はないと言えるだろう。

2012年12月13日木曜日

TV業界 ー 知る権利も大事だが、間違った認識を避ける権利も大事だ

12月に入ってからずっと荒れていた天気も、昨日、今日は一段落して、青空がのぞかれるようになった。で、いまは某TV局のワイドショーをのんびりと観ている所だ。
高齢者 vs 若者、どちらの雇用を優先?
この<優先>という言葉が日本人は極めて好きである。アメリカにも<優先順位>はもちろんある。例えば、大統領に何かがあった場合の継承順位はずっと昔から確定している。優先順位の好きな日本人は、しかし、首相に何かあった時の継承順位はなく、それではまずいというので一応決めたのは相当最近のことだった。

<優先>という言葉が頻繁に使われるのは、優先順位をつけるのが実は苦手であり、何かというと物事を曖昧にしておきたいと願う日本人の傾向があるからだろう。小生はそう見てきたのだ、な。

『大道廃れて仁義あり』、老子も言うように「優しさだ、モラルだ」と五月蝿くいうのは、社会から優しさが失われ、モラルが失われていることの証拠である。言葉と現実は、往々にして、正反対の位置にあると考える方がよい。

それにしても、雇用問題において
高齢者と若者のどちらを優先するか?
とはねえ・・・答えは誠に単純明快である。

役に立つ人材を雇用すれば良いのである。若いからといって、それだけの理由で、同じ報酬を支払いながら若者を雇用する。それを命令する権利は国にはない。そんな愚かなことをすれば、日本企業が競争優位を失い、販売が低下し、肝心の仕事がなくなるだけの話しである。顧客との相互信頼がものを言う分野ではベテランが優位であろう。逆に、ITソフト開発や、斬新な製品デザインなどにおいては、若者が優位にたつはずだ。組織管理では経験がものをいうだろうし、研究開発では若者の柔軟な発想が不可欠だ。

人の雇用は、能力と報酬とのバランスでロジカルに決める、これが基本的なセオリーである。

とにもかくにも<日本人の>高齢者と若者、この二者対立図式が決定的にくだらない。企業は日本と外国のどちらに立地するかを考えているのだ。雇用される方も外国人と競争しているわけだ。学校の学年じゃあるまいし、年齢自体がそれほど大事か。要は、適材適所。最も有能な人材から担当業務を決める。経済はどれだけ合理的に行動するかで結果が決まる。かわいそうだとか、何とかしてあげたいという感情は、経済の議論じゃない。生産が一巡した後の社会保障政策である。つまり政治で解決、というより決定しないといけない事柄なのだな。

60歳から65歳までの再雇用を法律で民間企業に義務付けるというのは、経済政策ではなくて、社会保障政策のコストを国ではなく、民間企業に直接負担させるという点で無責任であり、日本政府の弱体化もここに極まっている。これでは経営状況に応じた給与格差がそのまま社会保障に反映されるではないか。ここが問題のコアではないか。まあ、いまでも年金格差はあるわけだから、いいといえばいいわけか・・・。、開き直れば、開き直れるわな、と、そういうことかな、と。いずれにせよ、無力な政府のツケを回された民間企業は海外に出て行くだけである。無責任というのは、政府もそうだが、租税負担を出来る限り後回しにしたいと願う国民もそうなのだ。政府と国民もろとも、困ることになるであろう。ここをTV局にもちゃんと見てほしいのですよ。

TVだけではなくマスメディアも産業である以上は、プラスの価値を創造してはじめて存立できるはずだ。その存立は「情報の品質」をめぐる普段の競争によって保証されるはずだ。しかし、電波割当、官公庁の記者クラブ制など色々な独占的要素がマスメディア業界には残っている。法に守られた独占的経営の行き着く先は、品質の停滞と高コスト体質、価格の高止まりである、というのが一般的に言えることだ。

マスメディアが正しい問いかけと正しい認識を提供して、私達が十分な情報をもつ。十分な情報を持つことで、豊かな生活やフェアな社会をつくれるようになる。それが情報産業の成長の果実である。ゼロサムゲームを繰り広げているわけでもない高齢者と若者を対立図式においてみる。そうすると話しが面白くなる。適材適所の合理性を追求する場に、なにか感情的行動をあおりたてるようなキャッチフレーズをつくる。それで視聴者の記憶にとどまろうとする。こういう放送姿勢は、根拠のない流言飛語を流しては大笑する「愉快犯」と、本質的には同類じゃあないか、小生、そんな風に思うのであります。ま、愉快犯には「悪」を楽しむ歪んだ人間の感情があるが、法人たるTV局には感情すらもない。ただ社員が食っていくためだけではないのか?悪意に見るならば、そんな風にも言えると思うのだな。

2012年12月11日火曜日

円安にすれば競争力が復活するというのはアヘンと同じである

家電製品が世界市場で売れるかどうかは、円の為替レートで決まる。そう思っている人が多いようだ。しかし、それは理論的には誤りだ。これは少し前の投稿でメモしている。

こんな解説記事がある。
この大きな要因は、電機メーカーの競争力低下に起因しているところが大きいと私は分析する。主力商品のコモディティ化によって、大幅赤字に転落した企業が相次ぐ中、次の主力商品をどのように創り出していくのか、具体的なプランが動き出しているところは、極めて少数のように見える。この私の見立てが間違っていなければ、電機産業の競争力回復は短期的には見込めず、輸出増大への展望は開けない。
(中略)
こうした日本企業の競争力低下を放置したまま、円安の推進を政策的に展開しても、マーケットが予想しているような企業業績の好転と貿易収支の黒字化に結びつかない公算が大きいのではないか。
そのことにマーケットが気づいた時、円安と株高の連動というモメンタムは衰弱し、円安と株安が連動しやすい市場地合いに移行する可能性が高いと予想する。だとすれば、日本国の運営に責任を持つ政治家は、日本企業の国際競争力の低下にもっと危機感を持ち、その反転を促すには何をするべきか、政策メニューを具体的に掲げるべきだ。(出所:ロイター、2012年12月7日 14:12配信)
為替レートを円高から円安方向に修正し、たとえば1ドル=120円程度の超安レートが定着したとしても、これまで日本株式会社の花形部門であった電気機器部門が、再び輸出競争力を回復できるかどうかは不明である ― 1年程度はうるおうであろうが。

直接的には、円高によって電機メーカーの価格競争力が失われた。高くても売れるものをと考えたが、多機能化を高付加価値化と勘違いした。差別化したつもりが単なる高価格商品になってしまった。そんなマーケティング戦略の失敗もあった。表面的にはそう見える。しかし、日本の電機産業以外の産業との生産性上昇率格差がメイド・イン・ジャパン内部の比較優位を変えつつある。ここがもっと重要だ。電機産業のイノベーションがいまも継続しているなら、円高・円安は半年~1年以内の価格競争には影響するとしても、世界市場における競争優位性を変えることはない ― それが比較優位理論のコアであって、日本の貿易構造は円レートではなく、産業間の比較優位によって決まることが、データの積み重ねを通して、確認されている。

ということは、電機産業が競争優位を失ったからには、競争優位を獲得しつつある産業部門が日本にあるという理屈だ。それは何か?その分野に経済資源がスムーズにシフトしていくように環境を整える ― 政府には経済の現場のことは分からないから、規制や独占的支配力を排除して市場メカニズムを活用する。経営をフレキシブルにする。企業統治をしっかりとする。金融面で支援する。それがいま必要なことだ。
危なくなったから、そこをテコ入れする
こんな発想で問題を解決しようとしていたら、日本株式会社がまるごと共倒れ、全員が討ち死にするのは確実だ。

戦略的代替関係があるなら、見込みのない前線は速やかに撤退し、ライバルの経営資源をその分野へ誘導し、自らは見通しのある新規分野に資源を速やかにシフトするしか道はない。勝負を回避していては先細りなのであれば、先行開発するもよし、開発力がなければ模倣するもよし、資源を十分に投入し、敢えて消耗戦を乗り切って勝つしか道はない。それだけの現ナマを日本企業は使わないまま持っているではないか。

円安にもっていけば、いま困っている電機産業が復活し、日本経済は再び輝きをとりもどせる。電機メーカーに勤務している社員が、これを言うなら事情はお察しするが、もし万が一、政府関係者が本気でこんな風に考えているなら、たとえ<政権交代>があったとしても、文字通りお先真っ暗である。

個別の企業を救済するのではない。個別の産業をテコ入れするのでもダメだ。死に金を生きた金にする。日本株式会社のリストラをして、<できるだけ>多くの人の生活を守るには、ある意味で<冷酷非情>なロジックに従うことも必要だ。それでGDPが増えるなら、国全体で色々なことが後でできるのだから。

2012年12月9日日曜日

日曜日の話し(12/9)

クリスマスがもうすぐと言うには北海道の猛吹雪は度をこしている。それでも真っ白になった街の風景をみると思い出すことがある。

小学校6年生の頃だったか、亡くなった母が当時暮らしていた町の書店でケストナー作『飛ぶ教室』を買ってきてくれた。ドイツの全寮制学校を舞台にして生徒とその学校のOBである寮監、寮監の元クラスメートで今は診療から離れ学校近くで隠棲している元医師が繰り広げる小説である。


その後、数えきれない本を読んだが、この『飛ぶ教室』は小生にとって手放すことの出来ない作品になった。映画化もされているようだが、小生は観ていない。映画は観てないが、この小説は日本語で何度読み返したか分からず、独語でも最低3回は読み直している。今でも枕元に置いて、気に入った箇所を拾い読みしては、寝る前の睡眠薬代わりにすること、しばしばである。


Source: http://www.playerweb.de/kino/das_fliegende_klassenzimmer

小生が中でも好きな下りは、クリスマス休暇で生徒達が実家に帰って誰もいなくなり、降り積もった雪でしんと静まりかえった校内を見回っていた寮監先生が、ふと足跡をみつけ「誰かいるのか」といぶかしく思って、足跡をたどって歩いていくと、主人公の一人であるマルティン少年が誰もいない所で独り空を見ている。そこから以降の数ページが実にいい。
Das Schulhaus war wie ausgestorben. Das Dutzend Schüler, das erst am Nachmittag fuhr, spürte man überhaupt nicht.
Da zog der Justus seinen Wintermantel an und ging in den stillen weißen Park hinunter. Die Gartenwege waren zugeschneit. Unberührt lagen sie da. Verschwunden waren Lärm und Gelächter. Johann Bökh blieb stehen und lauschte dem raschelnden Schnee, den der Wind von den Zweigen pustete. Na also, die große Ruhe und die große Einsamkeit konten beginnen. 
Als er in einen Seitenweg einbog, bemerkte er Fußstapfen. Es waren die Abdrücke von einem Paar Knabenschuhen. Wer lief denn jetzt allein im Park umher? 
「やあ、こんなところで何をしているんだい?」
「 独りになりたいと思って・・・」
「それは邪魔して悪かったね。でも、ちょうどいいから教えてくれないか、昨日の朝はなぜあれほど悪い出来だったの?」
「別のことを考えていて・・・」
「もう一つ、いいかな?昨日の午後の劇で君の演技はひどく悪かったね、それは何故だい?それから今日の食事では何も食べてないよね?」
「また別のことを考えなくちゃいけないんです、先生」
実家に帰ろうとしない少年をみながら、教師がハッとして「ひょっとしてお金に困っているの?」と囁くようにきくのは、この少し後である。『カネがないのは社会のせい』などとは言わない。人間が堕落する前の健康な時代の話しである。寮監先生は旧友を自分の元にかえしてくれたお礼だと言って、実家に帰る旅費を用立ててあげる。ささやかな、つつましいおカネだが、少年にとってはカネとは何か、人の心とは何かを知る生涯の記憶になった。

× × ×

公務員たるもの、特定の生徒に金銭的な支援を与えるのは規則では禁止されているはずだ。しかし規則を持ち出していちゃあ、話しにならないし、人間的交流もなく、人格の形成が窮極的目標である教育も不可能であろう。

規則と学習指導要領によって教育システムを運営できると本心から信じているなら、その人は教育=知識の伝達、本心ではそう考えているに違いない。であれば、これだけ技術進歩の速い現在、介護ロボットばかりではなく、教育ロボットを開発すればいい話しであろう。無人工場ならぬ「校長+教頭(システムエンジニア)+教育ロボット」から構成される学校を設立すれば、極めて効率的に学校が経営できるはずだ。

その思想が本物であるか、下らぬイカサマであるかを識別するには、その究極まで徹底して思想なり理念を追い求めたとき、どんな状態になるかを推論してみればよい。エクストリーム(extreme)なシミュレーションに耐えられない思想・理念は、まず確実に、本質的に間違っている考え方である。間違っている考え方がいつまでたってもなくならない、迷信や信心がいつまでたってもなくならない、こちらのほうが思うに本当の問題であります、な。



2012年12月8日土曜日

景気「ミニ後退」の兆し

本日の日経朝刊5面のヘッドラインは表題の通り『ミニ景気後退』である。

昨日、内閣府から公表された景気動向指数から景気判断は「悪化」に下方修正された。実際、足下 − とはいえ10月現在の統計データによるものだが − の景気を伝える一致指数は7ヶ月連続で低下し続けており、回復への動きは見られない。文字通りの「景気後退」に間違いはない。今年4月以降は景気後退局面に入っていると説明がある。その通りだろう。


ただ、先行きを伝える先行指標は、2ヶ月前に続き、またプラスで底打ちの気配だ。景気後退の平均的な長さは1年半程度であるのだが、半年程度で上向きそうな兆しが出てきているので『ミニ景気後退』と呼んでいるのだろう。数字で確認されない生産・販売の現場が意外に良いので、株価が先に回復しているという解釈もあるかもしれない。

欧州債務危機は、何とかこれ以上の深刻化は当面避けられそうだし、あとはアメリカの政府と議会で<歳出削減・減税打ち切り>を回避する方向で合意するかどうかである。2008年の米下院の迷走もあるので「だいじょぶか」という心配は残るが・・・ま、以前の投稿で「12月第1週辺りに何か波乱があって、いまの株価シャボン玉相場は破裂するのではないか」と予想しておいたが、それは杞憂であった確率が高まっている。
The Bundesbank cut its 2013 gross domestic product growth forecast to 0.4% from its June projection of 1.6%. The bank expects Germany to notch 0.7% growth this year, a marked deceleration from the past two years when GDP grew at rates of 3% or more.
"The cyclical outlook for the German economy has dimmed [and] there are even indications that economic activity may fall in the final quarter of 2012 and the first quarter of 2013," the Bundesbank said in its monthly report. Economists typically define recession as two consecutive quarters of contraction. (Source: Wall Street Journal, 2012, 12, 7)
ただドイツの生産は急低下しているし、中国の高度成長もどうやら終焉を迎えそうである。アメリカの住宅市場に底打ちの兆しが見られるのはよいのだが、しばらくは<鍋底>であろう。本格的な成長軌道再開のためには何かの<きっかけ>がいる。

景気循環論、日本経済分析で高名な経済学者・篠原三代平氏が亡くなった。合掌。

2012年12月6日木曜日

自民大勝→来年の参院選で大敗の愚を繰り返すか?

報道によれば、自民党+公明党で300議席前後はとりそうな見通しとのこと。驚きだ。民主党が惨敗するだろうことは、2009年政権交代後の体たらくをみれば − まあ、冷静に民主党を観察していれば、事前にかなりの確度で混乱が予想されてはいたが − 民主党の惨敗は当たり前ではある。それにしても日本の有権者の左右の振れは極端で、このくらい変化が激しい有権者を相手にしては、政治を志す候補者は何をどう訴えていけばいいか、さっぱり分からないだろう。互いに暗中模索とは、このこった。「鬼さん、こちら」では鬼だけが周りが見えず、他は見えているのだが、日本国の国政選挙はそれより酷い。全ての人が目隠しをされているようなもので、手で探り合っているというのが、実情だろう。だから、前から書いているのだな。選挙はいまや「抽選籤引き会」と同じ、自分が票を入れた候補者が真っ当な議員か、イカサマかは当たるも八卦、当たらぬも八卦。運・不運の世界なのであると。区割りが違憲状態にあるなど、確かに問題ではあるが、形式的なものであり、誠に些末な問題ではないか、小生、正直なところそう思います。

これで自公が300議席とって、安倍新首相が組閣するとする。ところが、またもや閣僚の一人が気分が高ぶったのか失言する。あるいは政治資金規正法に抵触するような経理が発覚する。そんな成り行きが、今から想像されるのだな。

来年(2013年)7月には参議院の任期満了選挙がまたあり、議員の半数が改選される。そこで、またまた、支持率をさげた自民党が惨敗して、非自民が結集して「ねじれ国会」になる。政治は、またもや膠着状態になって、動きがとれなくなる・・・

上の近未来想像図が実現すれば、1回目の安倍晋三・自民党内閣、2回目の菅直人・民主党内閣、3回目の安倍晋三・自民党内閣で<与党転倒劇3連チャン>とあいなる。仏の顔も二度三度だ。もしこうなれば、確かに政党も政治家も能力が不十分であるし、制度にも欠陥がある、それはそうだが、それにもまして今の時代の日本の大衆が「愚者の集団」であることの何よりの証拠であると、外国は言うだろう。特に中国辺りは「そおれ、みろ」と言わんばかりに論評するだろうねえ、「あんな不安定な政治でいいのか」と・・・海外のそんな揶揄に対して、日本人は返す言葉がない。そぞろ怖さを感じる、というか明日への「漠然たる不安」を覚える今日この頃であります。

2012年12月4日火曜日

戦争放棄戦略は「戦略」でありうるのか?

国防軍論争は、ヤジの割には不発のまま、華開くことなく終わりそうな雲行きである。ま、実質同じで言葉だけのかけあいをすれば、それこそ<政治の芸能化>を加速させることにもなっていたであろう。

ただ前稿でも触れた点と関係するが、世界中の全ての国が例外なく国防軍のみをもち、侵略行為を放棄すると憲法で決めるとして、その時には戦争は地上から消え去り、永遠平和が到来するのだろうか?そう推論できるロジックを構成できるのだろうか?この問題は議論する値打ちがあるかもしれない。

小生は、その場合でも戦争は常に起こりうる。というか、ほぼ確実に起こると思う。

それには戦争を定義しておかなければなるまい。クラウゼヴィッツは戦争とは政治の延長であると考えたが、だとすれば一方の政治的意図が達成され、他方がそれを容認すれば戦争は終了するはずである。これは、しかし、タカハト・ゲームにおける限定戦争の場合である。双方の政治的意図が達成できない場合、どうなるだろう?高コストの戦争は政治ツールとしては損失が大きいので、必然的に停戦なり、和約が成立すると考えるのが理にかなう。更に、一方の政治的意図は達成されているが、他方がそれを容認しない場合はどうなるか?その場合は限定戦争から殲滅戦となり、他方が抹殺されるまで戦争状態は継続し、その後に終了する。いずれにしても<永久戦争>が可能なロジックはないようだ。

タカハト・ゲームで、自国がタカとなるために軍事力を使う。限定戦争を招くその論理は国防軍のみを持つのであれば実効性はなくなる。それ故に、全ての国が国防軍のみを持てば戦争は起こらない。こう考えていいか?

戦争とは<意図的かつ継続的な軍事力の拡大利用>のことである。こう定義すると、現に進行している武力紛争をすべて「戦争状態」として包括できるだろう。

であれば、全ての国が専守防衛の理念に徹する意志をもっているとしても、戦争は常に発生可能だ。
誓約を相手に履行させるのは、相手の誠意ではなく、自国の実力である。・・・であるが故に、物資財政の余剰蓄積は<戦力>に転換できるのである。(ツキディデス『戦史』(岩波文庫上)巻末注より)
 和約が破棄される時に相手に対して懲罰行為を実行できる能力を自らが持たないなら、相手側の機会主義的な裏切りの誘因を与えることになる。このロジックがある以上、たとえ戦争をすべての国が放棄しても、<国防軍>を放棄することは理屈上ありえない。これはビジネス界でも同じである。協調高値を維持している場合でも、リーダーと目される企業は敢えて余剰能力を持つものである。それは攻撃的な顧客奪取戦略に打って出るアウトサイダーが出現した時に、報復的な増産で対応するためである。過剰設備を有しない、フル・キャパシティを追求する合理性は、合理的であるように見えて、実はヴァルネラブル(vulnerable)なのであるな。
戦争などは起こらぬという声があるかもしれぬ。だが誤れるかな、そうではない。ラケダイモン人(=スパルタ人)は諸君(=アテネ人)の発展を怖れ、諸君を相手にして戦争をしかけることを欲している。(上記文献、87ページ)
実は、古代ギリシア世界における「世界大戦」であるペロポネソス戦争を欲していたのは、スパルタではなくアテネより以前に貿易を制していたコリントであったという解釈が多いというが、他国の経済力が自国の脅威となるのは時代を超えた真理である。
大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳を傾ける。(出所:上記文献、73ページ)
継続的な信頼関係は、(実は)脆弱なものだと双方が自覚するとき、状況はタカハト・ゲームではなく、先制攻撃が双方の支配戦略となる<囚人のジレンマ>ゲームとして意識される。そうすれば、やはり(必然的に)戦争は起こるわけだ。誰もが予想せず、誰もが希望もしていない戦争が、現実に起こるとすれば、それは<必然的に>生じると考えるしかないではないか。

目に見える軍事力だけではなく、経済力と富の蓄積もまた戦力に転換可能な<準・軍事力>として相手側の警戒の対象となるのは当然のことだ。貿易が発展し、双方が経済協調の利益を享受し、発展したというその関係そのものが、相互に戦略的脅威を意識させる要因にもなる。

本当に人間というのは複雑かつ面白い存在だ。結局、自国と他国、自分と他人を区別して、それぞれが意思決定の自由、繁栄追求の自由をもち、その結果として競争が生じることが戦争を用意しているのである。しかしながら、自由があるからこそ、善を追求し悪を避け、自己の完成へと努力することもできるのだ。モラルが生まれるのだな。超越的な支配者に服従するもとでは、自由はなく、したがってモラルを論じること自体が無意味になる。モラルはなくなるが、同時に戦争は消え去り、永遠平和が訪れることは間違いない。とはいえ、そんな平和は誰もが望まないような平和であろう。

このように考えれば、日本国が自衛隊だけを保有するかどうかという点は、実は枝葉末節の論点であると、小生、思うのだな。 戦後日本の戦争放棄・経済重視戦略は、思うに昭和20年代、30年代には有効賢明な<撤退戦略>であったが、富裕国になったいまは日本国だけのバルネラブルな安心立命。他国からは平和主義を信じてはもらえぬ勝手な思い込み。そう言われても仕方がないのかもしれない。


2012年12月2日日曜日

日曜日の話し(12/2)

昨日は卒業年次生が作成中のビジネスプランやケーススタディの中間発表会があり、小生は最後席に座って採点員をつとめてきた。

10時半から5時半過ぎまでぶっ続けで発表がある。最後には誰が良いやら悪いやら、頭がぼおっとしてきそうだが、聴いているとどれも中々面白く、特にビジネスプランの中には独創的なアイデアも混じっており、事業化されることを願うばかりだ。

とはいえ、そんな風だから最後には頭痛がして、まぶたの上を指でマッサージする有様になる。

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一晩寝るとサッパリした。今日の午後は、永らく家を空けて義兄を亡くした実家の支援をしてきたカミさんが戻ってくる。迎えにいこうとは思っているのだが、外は雪が降っている。それまではノンビリ過ごすかとTVをつけると、またもやNHK「日曜討論」をやっていて、各党の政務調査会長レベルが出演している。ま、こういう議論になると、なるほど改革・舛添要一氏の議論は極めて整合的かつ筋道が通っていて、説得的である。奥さん達の井戸端会議で話しても笑われそうな国会議員がいる中で、出色でありますな、さすがに。ただ惜しいかな、正論を述べても「正論は嫌いだ」という国民が相当数いて、彼らが持っている票の数だけの政治権力を抑制することができない、それがいまの日本国の悲しい現実である。

というか、これじゃあ各党議員の地頭(ジアタマ)と見識の違いがわからんじゃないかと思うのは、大きなテーマについて、各党がせいぜい1分くらいずつ意見を述べていくという方式だ。質疑応答になれば、一言きいては、一言答えるというルールのようだ。昨日の学生による発表会でも、発表は11分であり、質疑応答が5分間設けられている。11分でも意見を発表するには、時間が足りない、その足りないことがトレーニングになるのだな。それが何だ・・・まず1分程度で<社会保障改革>について話す。あとは何か言っては、何か言う。これだけだ。資料もなく、話すだけ。これじゃあ視聴している国民は、番組全体から何のメッセージも得られないであろう。時間の無駄であるし、番組制作コストの無駄遣いであろう。

むしろ、これは国営放送を活用した各党平等のCM、販売促進ならぬ認知度向上活動だと思うのだな。その意味で、これは「視聴者のための番組」ではない。故に、こうした番組編成に放送受信料を支払う義務はないのではないかと、小生、思考するのだな。

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それにしても、こんな体たらくでは、若い人たちは「二世を生きる」ことだろうし、小生も長生きをしてしまえば「古い日本と新しい日本」を経験する、そんな事態になりそうだ。

明治維新前後のころ、旧幕時代で青年時代を生き、明治政府の下で壮年期以降を過ごす。そんな人は数多いた。芸術でも、宗教でも、明治維新と王政復古は、天と地が逆転するような感覚であったろう。ま、太平洋戦争敗戦後の日本の混乱もそれに近いが、こちらは敗戦国には普遍的にみられることで、求められていたのは国家としての堅固さであり、それを自分たちから天と地をひっくり返しては、武力で負け、心でも負けたってことになるわけだ。

高橋由一。1828年(文化11年)に江戸大手門前にあった野州の譜代大名・佐野藩邸に生まれた高橋は、幼少時から天才的な画才を示し狩野派の師について日本画を学んだが、黒船来航の後、西洋の絵画に接した時に衝撃をうけ、以後、油彩画制作を自らの画業とした。浪士による東漸寺襲撃の現場にもいた英人ワーグマンに師事をした高橋は幕府が瓦解した時すでに39歳になっていた。明治になって、国立大学の教官を勤めたこともあったが辞めて画塾を経営し多くの弟子を育てた。この点では明治政府には仕えず私塾・慶応義塾を経営した幕臣・福沢諭吉を思い起こさせる。高橋は明治になってから27年を生き、日清戦争が起こった1894年(明治27年)、68歳で死んだ。

高橋由一と言えば「鮭」の写実性を思い出すが、これは東芸大・美術館に所蔵されている。



画像中央にある縦長部分が作品である。明治10年頃の作品ということだから、高橋が育った古い日本が崩壊した後に描かれたものである。その高橋はいま「近代洋画の開拓者」であるとされ、特別展覧会が東京、京都で開催されている。

小生の祖父は随分以前に他界したが裁判官をしていた。任用されたのは戦前期日本であり、10年程は明治憲法と旧法体系の下で裁判を行った。敗戦時には40歳になっており、戦後は日本国憲法に基づいて審理を行うようになった。小生もそんな話しを何度も聴いたのだが、今になって思うと、よくもまあ天と地が逆転するような混乱の中で、落ち着いて裁判を行えたものだと、もう一度その頃の話しを聞いてみたいと思っているのだ。
法廷で 死刑を宣し 勲二等
その祖父が何かのときに作った川柳だそうだ。死刑は、戦前でも戦後でも量刑としてあるわけだが、どの憲法によっているかに関係なく、死刑を言い渡した裁判官にとってそれは<重すぎる>判断であり、その同じ道を選ぼうとしている愚息には誤判を犯した時にお前は耐えられるのかと、何回も聞いている。憲法とか制度とか体制は、NHKの日曜討論などに出るのが大好きな人間達が、あれこれと騒ぎ回って、結果として決まっていくのであるが、「二世を生きる」現場の人間の心情は時代を超えて、案外、同じなのだろう。