2013年12月28日土曜日

中国と日本: 目先の願い vs 窮極の目標

まずさしあたって願うのは当面の勝負に勝つことだろう。誰だって負けるよりは勝つ方を好むものだ。そのための方法を戦術という。しかし、負けるが勝ちという言葉がある。負けるのは戦術的結果、勝ちというのは戦略的な結果にあたる。戦略的な結果とは、最終的に求める目的に近づいたのか、遠のいたのかで判定できる。

太平洋戦争中の珊瑚海海戦は、日本が戦術的勝利をおさめ、アメリカが戦略的勝利をおさめたとよく言われる。確かにレキシントンが沈没し、ヨークタウンが大破した米海軍に対して、瑞鶴が無事で翔翮のみ小破した日本海軍が勝ったという形にはなっているが、結果として日本がこの海域から撤収し、目的であったポートモレスビー上陸支援を断念したのは戦略的意図の放棄を余儀なくされたのだから、それこそが目的であったアメリカ側からみればこの海戦は成功であったことになる。加えて、航空戦力が被った損害と翔翮の損傷が原因となって、珊瑚海海戦の直後に行われたミッドウェー海戦にこの二隻の空母が参加できなくなった。これもまたアメリカの戦略的勝利の一部である。

要するに、目先の成功を追い求めることで、最終的な目的を逸するという事態は往々にして生じるということだ。
国防大学政治委員を務める劉氏は今年、「較量無声(声なき戦い)」というドキュメンタリー映画を共同制作した。軍内部向けに制作されたとみられる同映画は、米国の「ソフトパワー」について、中国共産党を打倒する狙いがあると警告。劉氏は映画のなかで「米国は、中国に接近し、自らが主導する世界的な政治システムに融合させることで、中国を容易に分裂させることができると確信している」と述べている。 
同映画では、他の軍幹部も同様の警告を発している。なかでも最も印象的なのは人民解放軍の最高司令官であり、中国共産党トップである習氏の引用だ。
中国を抑え込もうとする西側諸国の戦略的目標は、決して変わることはないだろう。わが国のような社会主義大国が、平和的な発展を遂げるのを絶対に見たくはないはずだ」(出所)ロイター、2013年12月28日配信
ソ連の崩壊をもって冷戦は終結したとされるのが世界の常識になっているが、中国は共産党が人民独裁制をしいている国家であり、経済運営はなるほど「西側諸国」と相性がよい制度に変じられてきたものの、契約自由の原則と財産権不可侵を根幹とする「欧州の近代」とは真っ向から対立している点に変わりはない。中国が、最終的には米国との根本的不調和を自覚しているとすれば、それは至極当然のことである。

武力を用いた戦闘のみが戦争を構成するのではない。戦争とは国際政治の場で自己の意志を他国に強制するあらゆる局面において進行するとみるべきだろう。こう考えれば、今世紀は中国が超大国に復帰する100年であるとしても(これにも小生は一抹の疑念をもっているが)、最終的に有能な人材を引きつけ活発な技術革新を継続できるのはどちらの社会経済システムであるのか。組織制度の適者生存を通して決着のつくゲームがいま進んでいるとみる。このほうが現実がよく分かる気がする。だとすれば、年内に靖国神社を参拝するという行為は、その真の狙いがどこにあるのか、色々な解釈が世界各国でされているようだが、長期的な行動計画を最適化する中で、それでは今は何をするべきか。そんな戦略的な思考から「明日、靖国参拝をする」という戦術が選ばれた。どうもそうではなく、理屈をこえた衝動的な不満解消に近い行為ではなかったか。そう思えるのだ、な。

国家の盛衰は、軍事力によって決着するわけではなく、窮極的には文化的な優勢、倫理的な説得力、更には宗教的な普遍性で決まるものであるし、こうした決着過程は何より経済的取引、国民的交流の中で進むものである。太平洋戦争末期において日本の政治家は「国体護持」という固定観念に苦悩したが、いま中国に対して日本が抱き、アメリカに対して支援を求めている本質的なものは、究極のレベルにおいてやはり「国体」であるに違いなく、具体的に言うなら「皇室」と「神道」の文化的正当性を守りたい。つまりそういうことではないのか。だとすれば、「やれやれ、進歩のないことよ」と慨嘆したくなるのは、小生だけではないと思うし、アメリカ人が日本人のそんな最高レベルの願望を理解するのかどうかも怪しいところである。世界史はもっと過酷なのであるから。

またまた日本人は日本という国の歴史的過去にからめとられている。小生はそう思ってしまうのだ。正にこの点をこそ中国・韓国は攻撃し、非難するのである。が、率直に言って、日本人の側もまたフランクに色々な国のありかたを考えてみる時期ではないかと感じるのだな。国の姿は、過去のしがらみも無視するわけではないが、その時に生きている人間が自分たちの幸福を求めて決めるべきことだ。究極の目標とは「幸福」でしょう。ここを認めるかどうかで、あとが違ってくる。多数の国民の幸福を主目的に置くことが、民主主義のエッセンスではないかと小生は思っている。「守り抜く」という姿勢は武士道の花ではあるが、映画「最後の忠臣蔵」もそうであるように、つまるところ非人間的な結果をもたらすことが多いものだ。

2013年12月26日木曜日

首相靖国参拝への印象

日本人は『痛恨の極み』という表現に弱いところがある。予想される非難・批判など、万難を排して、それでも本懐を遂げようとする行動は、日本人にとって決して嫌うべきことではない。軽侮するよりは、むしろ敬意を払う行為となりうる ― たとえ、そんなことをして何になるのか、さっぱり合理的な理由が分からないとしてもだ。

『それほどやりたいならやればいい』という所が確かに日本人の心根にはあるのだ、な。もちろん『バカじゃないのか!』というのが、見ている側の率直な気持ちなのであるが、日本人の心の中には、賢人を喜ばずして、バカに魅力を感じる感性がある。だから、本日の安倍首相による靖国参拝を自国民としてどう思うか。中国や韓国、アメリカとはまた印象は異なるかもしれないと思う。
第1次内閣で訪問しなかったことを「痛恨の極みだ」と表した首相は、自らの言葉にこだわっていたとされる。中韓両国との関係悪化は、小泉純一郎元首相が「外国首脳で靖国参拝を批判するのは中国、韓国だけだ」と指摘するように、外務省も覚悟のうえだ。問題は米国の反応にある。(出所)日本経済新聞、2013年12月26日
 小生は、靖国神社という存在は否定される理由を十分に持っているし、むしろ戦後処理の一環として撤廃しておくべきであったと考えている。石橋湛山の提案に共感をもつものである。この点は、これまでの投稿を通じて既に議論していることだ。

とはいえ、紆余曲折の末になおも現存している靖国神社という宗教施設に自国民やその代表が参拝するかどうかの是非を、外国に云々されて、それに影響されて日本人が参拝したり、参拝をやめたりする論理はなく、あくまでその行為によって引き起こされる影響の損得のみが問題なのである。だから、あらゆる損失を甘受しても参拝するなら、それ自体が「誤った行為である」と非難する論拠はないと小生はおもっている。A級戦犯が合祀されている施設を参拝するのは、その戦犯たちを崇拝していることと同じであるという非難を中国、韓国はずっとしているのであるが、そもそも1928年に日本も署名したパリ不戦条約でいう<戦争>とは<戦闘状態>に限られるものかどうか明瞭ではなく、条約上認められていた<制裁>という行動範囲についても明瞭な定義はない。<戦犯>という概念が国際社会の法的実体として定義されていたわけでもない-今もなおそんな概念は明確に定義されていないのではないか-端的にいえば米英とソ連を主たる戦勝国として、戦後世界構築を進める国際政治の場において、使用された用語である。大体、古来、敗戦国の住民は兵士でなくとも虐殺されたり、奴隷として連行されたりしていたわけであって、戦後処理に寛厳はあるにせよ、終わった戦争は正しい戦争であったか間違った戦争であったのか、それは善であるとか、悪であるとか、倫理的に判断すること自体が巨大な虚構・フィクションでなくして何であろうか。それ故、たまたま「連合国」の側にいた国が、日本を「戦犯国」と呼ぶと、腹を立てない日本人はいないはずであろうし、そう呼ぶ側の倫理的な退廃を感じとるとしても、全く誤りではないような思いはする。

『ただね、それを言っちゃあ、おしめえじゃないの。今はさ、こういう世の中になっちまったんだからさ』。小生の印象、これが本日の結論である。

× × ×

もう一つ。中国、韓国は首相の靖国参拝に激怒しているのであるが、単に「慨嘆と怒り」を唱えるだけでは、益々一層「徴兵されて死んで行った自国の戦死者を後世の自国の首相が弔うことにも反対するのか」と、日本側の反作用を増幅するだけではあるまいか。要はA級戦犯を合祀している施設に参拝することが問題であり、そう判決されたことに間違いはないわけだから、A級戦犯を宗教施設に祀っているのは倫理に反する、と。具体的に問題点を指摘して非難するほうが、日本人にとっても説得的である。A級戦犯を日本国内で顕彰することはとんでもないことであろうが、ではどのように刑死した人々を慰謝するのかという点は、日本国民に選択の余地があるというべきだろう。


2013年12月25日水曜日

SONY 復活の兆しなのか ― Ultrabook DUO 13 にこめた本気度

先般、Windows 8向けのUltrabookを購入しようと思った当座、まずはPanasonicが出している製品の仕様を調べた。この何年か使ってきたLet's Noteのタフネスぶりに感心していたからだ。それに比べて、ずっと昔、SONYのVAIOが人気を集めていた頃に自分も買ってみようと手にしたのだが、あまりの鈍さと低品質ぶりにSONYという先端的メーカーは死んだのだと悟らざるを得ず、以来SONYの製品を買うことは止めてしまっていた。今回、Ultrabookを選ぶのにSONYを選ばざるを得なかったのは、カタログベースのバッテリー寿命の一点であったことは前に投稿した通りである。

ところが、買ってからすぐに気が付いたのは、バッテリーというより音質だった。素晴らしいのだな、DUO13から出る音は。AUDIO-TECHNICAのイヤホンをつけて聴くと、低音の厚みが素晴らしく、机上のTIMEDOMAIN LIGHTをつなげて音を流すと一層伸びやかな高音部とバランスの良さ、肌理の細かさに目を(耳を?)見張るのだ。音質でこれほど想定外の驚きを経験するのは、その昔まだ小生が大学生であった頃、秋葉原の某家電販売店を訪れて、オーディオ・コンポに参入したばかりのYAMAHA製品から流れ出る音を試聴して以来のことである。あの時もすごかったが、今回、SONY DUO13が響かせる音は半端じゃない。

そう思っていたところ、ネットに下のような記述があるのを見つけた。
VAIO Z21を使ったことのあるユーザであれば、スピーカーから発せられる音にがっかりしたことだろう。それまでのVAIO Zやtype Z等と比べて圧倒的に薄っぺらい音で、しかもボリュームを上げるとすぐに音割れを起こすほどひどい内蔵スピーカーだったのだ。もちろん、ヘッドフォン経由であればそんなことはないのだが、SONYの出している、しかもVAIOと名乗るそれが、こんな貧相な音しか出せない(しかもすぐ音割れする)のは、SONYブランド、VAIOブランドを著しく失墜するさせるもので、いくら薄型軽量化しても譲れないところはあるだろうと思ったものだった。 
そういう体験をしていたので、本機についてもサウンド周りはほとんど期待はしていなかった。だが、初めて聞いた本機の音はWindows 8のシステム音だったのだが、意外にいい音をさせるので、YouTubeのビデオやMP3ファイルなどを再生させてみてさらにびっくり。VAIO Z21など足元にも及ばない(というよりはVAIO Z21がひどすぎるだけで本機が大変素晴らしいというわけではない)素晴らしい音が、ステレオでしっかりと本機のスピーカーから響き渡ってきたからである。 
何と驚いたことに、本機は高級ウォークマンなどのAV機器に採用されているフルデジタルアンプ技術である「S-Master」が搭載されており、デジアナ変換を行わず直接DSPからデジタル信号のまま増幅させることで、音質の劣化を抑え込んでいるのだ。しかもスピーカーから発する音もこだわっている。まずは、スピーカー特性最適化によって明瞭な音像定位を実現した「CLEAR PHASE」、そして仮想サラウンド空間を再現する「S-FORCE Front Surround 3D」、ひずみを抑えて音圧を強める「xLOUD」、小さい音量でも臨場感あるサウンドを実現する「Sound Optimizer」などといった内蔵スピーカによるサウンド出力は、このクラスのモバイルPCとしてはあり得ないほど充実していると断言できよう。
(出所)http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2013/07/vaioduo13rervs8.html

そうか…高級ウォークマンに仕込んでいる秘伝の技術をパソコンに詰め込んで製品化したというわけか。ズバリ、音にこれだけこだわるとは、流石にSONYだ。これが今日の結論である。しかし、勿体ない話だ。

上に引用したブログ執筆者は「本機が大変素晴らしいというわけではない」と付け足しているが、それはまあ、薄い筐体のDUO13搭載スピーカーには所詮限界がある。イヤホンなりヘッドフォンを使うほうが正確だ。

ところで話は変わるが、本機に添付されていたデジタイザー・スタイラス・ペンとソフト"Note Anytime"との相性が大変いいのでプレミアム版を買ってしまった。それにも満足していたのだが、Bluetoothマウスを併用していると、ペンに追随しない時がある。最初は動かしたペン先通りの線が描けない原因が分からなかったが、マウスを止めてみると、問題は解消した。Note Anytimeもいいが、SONYが出しているVAIO Paperも侮れないと思う。こちらを好む人も多いだろう。ま、iPadと併用できるNote Anytimeを使うときのほうが多いことは多いが。

それにしても-と又々話は変わるが-Windows 8.1で動かないソフトがえらく多い点には困っている。InkspaceはWindows7までと案内しているので仕方がないが、RStudioもDUO13ではフリーズして使えない。こちらは障害報告はないようだが、SONYの8.1ではダメである。

追録: その後、単純な事実に気がついた。タッチスクリーン端末のOSはWindows RT 8.1である。単なる8.1で動いてもRTでは動かないソフトは多い。Inkspaceも8.1で動作するがRTでは"Not Applicable"になっている。バカだなオレ、こんなところであった— 2014-1-7.

2013年12月22日日曜日

日曜日の話し ー 近現代日本の20年周期説

明治維新後の近現代日本には大体20年前後の循環成分が混じっているのではないかと大分以前から思っている。

先日も別宮暖朗氏の『帝国陸軍の栄光と転落』(文春新書)で日中戦争の解釈ーむしろドイツ軍事顧問ファルケンハウゼンの構想を採用した蒋介石側のイニシアチブで開始された戦争であり、目的は日本軍を上海外周部のゼークト線に誘導し、攻撃を余儀なくさせ、そこで無視できないほどの犠牲を日本に与え、それによって当時日本の支配下にあった満州を奪還することにあったーを読んでいるときに、戦前期日本の政治経済の発展の循環変動を改めて思い出したのだ。

戦前期の日本経済のピークは昭和9〜11年(1934〜36年)であることはよく引き合いに出される。日中戦争開始が1937年だからその前年でもある。その頃、軍部と一部の革新官僚が結託して、統制経済システムの導入によって資本主義経済を改革しようと志していたことは周知であるし、つまりは社会主義に傾倒している清心な若手世代に見えた彼らが、一方では自由主義は黴臭い時代遅れの思想と馬鹿にしつつ、結果としては帝国日本を崩壊に導いたわけで、日本全体が迷走しはじめる分岐点。それが1934〜36年という時期で、その意味では歴史上極めて重要なのだ。

その一時代昔を20年前に置けば1914〜16年で、第一次大戦が欧州で始まり、世は「大正デモクラシー」、権威主義的であった明治から民衆が政治に参加し始めた頃になる。更に、その20年前の1894〜96年には、明治日本が制度的に曲がりなりにも完成の域に達し、自信を深めた日本は対中国外交問題を解決する手段として戦争をとっている。日清戦争である。その20年前は1874〜76年。明治維新直後、西南戦争直前。明治6年の政変で西郷隆盛が政府を辞め、大久保利通による富国強兵が推進された時期にあたる。

ついでにもう一度20年遡ると1854年。黒船来航の翌年となる。
このように歴史の節目は大体20年周期でやってくるように思われる。

逆方向に20年ずつ区切って行くと、1934〜36年の次は54〜56年。既に戦争は敗戦となり戦後の復興を経て「もはや戦後ではない」、そう書いたのが56年の経済白書である。それから20年経つと1974〜76年、高度成長は73年の第一次石油危機とともに終わった。次は、1994〜96年。戦後日本経済を支えてきた護送船団方式が崩壊し始める時期であり、北海道拓殖銀行が経営破綻したのは1997年。翌98年には日本長期信用銀行が実質倒産、国有化された。それから更に20年で2014年、つまり来年になる。失われた20年の終焉。デフレ時代の終息。うまくそうなれば、やはり20年というサイクルに沿っていたことになろう。

日本の近現代をつらぬく循環波動に20年サイクルがあるとすれば、今年、来年、再来年は重要な節目の年にあたる。そう言える気もするのだな。


藤島武二、佃島雪
出所:浮世絵検索

上の作品だが絵師・藤島武二とある。藤島武二というと大正を中心に活躍した著名な洋画家を連想するが、まさか藤島武二が版画もつくっていたのかと吃驚したが、藤島の日本画はほとんどないそうで、上の作品の絵師は同姓同名であるのだろうと思う。しかし、”版画 藤島武二”ではGoogleで検索できず、本当は誰が上の作品を制作したのか不明である。浅野竹二という版画家はいる。が、上の作品の落款もぼやけていてよく分からない。画風も少し違うようである。1940年頃から版画を制作し始めたということだが平成の世まで長生きしている。初期の頃には名所絵図を制作していたようである。共産党機関紙「赤旗」の印刷に協力して拘置所に入ったかと思うと、そこで検事と生涯の親友になっているようだ。浅野竹二という人は知らなかったが、相当面白い人物であったと見える。

ともかく、上の佃島を誰が描いたのかよく分からない。どちらにしても絵のような佃島風景があったのは随分昔のことである。





2013年12月21日土曜日

世界景気同時拡大の兆候

すでに報道でも何度かとりあげられているが、来年の世界経済は先進国、新興国ともに同時拡大の軌跡をたどりそうな気配である。

OECDでは次のように見通しを出している。
09/12/2013 - Composite leading indicators (CLIs), designed to anticipate turning points in economic activity relative to trend, show signs of an improving economic outlook in most major economies.
The CLIs point to economic growth above trend in Japan,and to growth firming in the United Kingdom. The CLI for Canada indicates a positive change in momentum. In the United States, the CLI points to growth around trend.
In the Euro Area as a whole, in France and in Italy, the CLIs continue to indicate a positive change in momentum. In Germany, the CLI points to growth firming.
In the emerging economies, the CLIs point to growth around trend in Brazil and to a tentative positive change in momentumin China,Russia and India.
Growth around trend in the OECD area

米国FRBの量的緩和政策転換の時期が不透明で、非伝統的政策をとる場合の出口戦略の難しさが確かにありはする。しかし、量的緩和縮小は金利や株価にはマイナス、と同時に実体経済がそれほど良いことの確証とも受けとられうる。市場の反応は、プラス、マイナスが相殺されて中立的なものになると予想する。

だとすれば、来年の世界経済は2012年冬以降の拡大基調を鮮明にするものになりそうだ。それは来春の消費税率引上げ前後で日本経済がくぐるであろう不規則な凸凹を乗り越える追い風になろう。もしそれほどのダメージもなく消費増税を実施できれば、今度の第二次安倍内閣は「ついている」。経済政策という面に限れば「運も実力のうち」と言えそうだ。前回(1997年)の消費増税は、その年の夏に起きたアジア経済危機、秋の北海道・拓銀破綻から進行した金融パニックとシンクロしてしまい、日本経済を奈落の底に突き落とした主犯にされてしまった―消費増税をしておらずとも97年から98年の日本経済は同じ軌跡をたどったであろうと容易に思考実験できるのだが、一度焼き付けられた失敗のイメージは古傷となってうずくものだ。当時の橋本首相と今の安倍首相がおかれている巡り合わせは正に対照的である。やはり「天運」というものはあるのか…。

2013年12月18日水曜日

人生を生きる自己流警句-天才・秀才・凡才・愚才

ずっと好きな言葉がある。
天才は成すべきことを為し
秀才は成しうることを為す
この言葉の出典は、たしかアイザック・アシモフ『銀河帝国興亡史』及びロボット・シリーズへのオマージュとしてグレゴリー・ベンフォードが著した『ファウンデーションの危機』(新・銀河帝国興亡史1)ではなかったか…そう思って、本を取り出しパラパラとめくると、単行本の8ページにあった。

オリヴォーはゆっくりと首を振った。「そんなはずはない。彼はきわめて特殊な人間だよ―努力を惜しまないんだ。かつて本人から聞かされた言葉に”天才は成すべきことを為し、秀才は成しうることを為す”というのがあったが―彼は自分のことを一介の秀才にすぎないと決めつけている」。
ずっと読んでいくと、「忘れないでくれドース。これまでにも言ってきたことだが、現在は”荊(いばら)の時代”だ。史上最大の危機なんだ」。プロローグはこんな風に進んでいく。

今では上下2巻の文庫本になっているようだ。



上の言葉を最近になって自己流で拡張して愛用しているのだ。天才と秀才だけでは使い道が限られるものだから。
凡才は成しうることを為そうとするも、為す方法を迷い 
愚才は成しうることを為すを怠り、成す能わざることを為さんと欲する
どうやら安倍晋三という政治家は成しうることを為してきた。しかし、成すべきことを為そうとしているのだろうか。ご本人は成すべきだと確信しているようだが、それは成す能わざることであるかもしれない。

どうも遠くから見受けられるところ、秀才総理として無難におさまる意思はないようであり、天才か愚才かのギャンブル路線をひた走るおつもりらしい。

この伝でいくと民主党の鳩山政権、菅政権は、愚才内閣であったのではなかろうか。もちろん評価は後世の歴史家にゆだねることである。

小生は……というと、成しうることを為してきたつもりであったが、遠く過ぎ去ってみると「あれは、ああすればよかった」とか、「あの時は、あんな風に決めるべきではなかった」とか、そんな事ばかりだ。ということは、小生もまた「成しうることを為そうとするも、為す方法を迷う」、まあ一介の凡才であったわけだ、な。


2013年12月16日月曜日

覚え書 ― 日中関係のヘーゲル的弁証法は?

日本がテーゼであり、中国がアンチ・テーゼかもしれないし、中国がテーゼで日本がアンチ・テーゼかもしれない。いずれでもよいが、この矛盾を止揚するジン・テーゼが必要だ。中国の建国理念にもなっているマルクス哲学でもこんな弁証法的議論をするはずだ。

昔なら社会主義こそ資本主義の矛盾を止揚する「次なる社会」と言われたものだが、冷戦の終焉以降、そんな戯言を言う人はいなくなった。実際、中国経済のコア部分はもはや資本主義であり、中国という国全体が国家独占資本主義だと言っていいかもしれない。日中いずれが歴史の「前衛」かという議論は意味がない。

いずれかが正しいと考える真偽のロジックではなく、両方を超越するロジックがいる。

同じことが、アメリカ、豪州などアングロサクソン陣営の「独立と自由」、「序列を秩序」とする中華理念についてもいえる。どちらかが正当と考えるのでは今後はダメかもしれない……ダメだろうなあ。歴史を通して、ずっと西と東が異文化社会のまま並立してきて、150年ほどの間、西に文化的重心が移動したが、結局、元の状態に戻りはじめている。当たり前の長期均衡状態に復元しつつあるだけのことかもしれないのだ。


とはいえ、今月の月刊誌"Voice"の特集は『中国の余命』だ。革命前夜という認識であるが、それは同感だ。小生はひそかに次なる中国で本格的発展を遂げて行くと思っている。

それにしても本日の道新には陸上自衛隊の諜報機関「別班」の存在が報道されている。戦前の陸軍中野学校を継承する組織である。加えて、その存在は首相も防衛省も知らず、部内限りの組織として最近はロシア、韓国、ポーランドで活動していると書かれているーこれもおそらく偽情報だろうが。記事は全体として「文民統制」を無視する活動と非難している。

確かに上意下達という命令系統から判断すれば「逸脱行為」になろうが、諜報活動それ自体は「お互い様」なのだ。というより、互いにライバルの状況や意図を探ろうとする諜報合戦は、それ自体ライバルに関する知識を増やすことになるので、紛争の深刻化を予防する政治ツールとなる。『怖いのは無知である。それは相手に攻撃を選ばせるからである』というのが基本ロジックである。

日中、そして米中関係の将来には不確実性がともなうが、このゲームは生き残りとは違うし、タカハト・ゲームでもない。かといって互いに同調の利益を認めるデート・ゲームでもない。互いに相手を好きにはなれないが、それでもハト・ハトで並立するしかない、タカ・ハトのハトより、ハト・ハトのハトがまだマシである。敢えてタカになろうとギャンブルをしかけるより、並立状況を続ける方を選ぶ。そんな世界状況が続くのではないだろうか。そうしている内に、今月号の"Voice"の見方が的中するのではないか。こんな風に思っている。


2013年12月15日日曜日

日曜日の話し-親鸞の過激さ「悪人正機説」をどう感じる

親鸞は浄土真宗の宗祖であるとともに、真宗が一向宗と通称されていた時代においては、戦国大名たちにとっては言いようのない恐怖の大王のような名でもあったろう。と当時に、現代においては必読書の中に必ずあがる『歎異抄』の主人公でもあるので、日本に生まれたあらゆる仏僧の中で親鸞は弘法大師・空海と並ぶ知名度をもっている。

その親鸞の宗教思想は「悪人正機説」として知られている。高校時代の倫理、または日本史の授業で
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
という歎異抄の一節をきいた人は多いのじゃないかと思う。善人ですら極楽浄土に往生できるというのに、悪人が往生できないということがあるものか。現代語ではこういう意味になるが、いやあ逆説的であります。なぜこう考えるのか、反対ではないか、そう思いました。バカじゃないか、ミスプリじゃないかと。



しかし、味わい深いのだな、これが。今日、何気にドラマ「白夜行」のアウトラインをみていると、毎回、武田鉄矢扮する笹垣潤三が口にしていた歎異抄の一節がまとめられていた。下に引用しておく。


笹垣潤三(演:武田鉄矢)が作中で呟いた歎異抄の一節は次の通り。 
第1話:「悪をおそるるなかれ。弥陀の本願さまたげるほどの悪なきゆえに。」(第一章)
現代語訳:悪を恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないのだから。 
第1話:「わがこころのよくて人殺さずにあらず。人害せじとおもうとも、百人千人殺すことあるべし。」(第十三章)
現代語訳:自分の心が善良だから人を殺さないというわけではない。いくら人を殺すまいと思っていても、百人や千人を殺してしまうこともあるだろう。 
第3話:「この親鸞は父母供養のため、一返にても念仏そうらわず。」(第五章)
現代語訳:この親鸞は、父母の供養のために念仏を唱えたことは一度もない。 
第4話:「いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし。」(第二章)
現代語訳:どんな修行もできないこの自分なのだから、地獄こそが既に定まってしまっている自分の住みかなのだ。 
第5話:「念仏申せば八十億劫の罪滅す」(第十四章)
現代語訳:念仏を唱えれば十悪五逆といった重罪でも消滅する(と言うが、それは私たちが信ずべきことではない)。 
第6話:「苦悩の旧里(ふるさと)捨てがたく、安らぎの浄土は恋しからず候。」(第九章)
現代語訳:苦悩の多いこの世界は捨てがたいものであり、また安らぎの極楽浄土も恋しくはなれない。 
第7話:「念仏は浄土に生まれる種あり。地獄におつべき業や、総じて存知せざるなり。」(第二章)
現代語訳:念仏は浄土に生まれるためのものか、地獄に落ちるに違いない業か、全て私にも分からないことである。 
第9話:「弥陀の本願、悪人成仏のためなれば」(第三章)
現代語訳:阿弥陀仏の本願の真意は、悪人を成仏させるためのものである。
 このところ中韓関係は最悪であるが、第1話・第13章の言葉を日本人の本音、日本人の戦争観として先方に伝えるとしたら、儒教思想がまだ色濃く残る韓国人、中国人はどんな反応をするだろうか…、ちょっと怖いほどである。
わがこころのよくて人殺さずにあらず。人害せじとおもうとも、百人千人殺すことあるべし。
善人だから殺人をしない、悪人だから人を殺すというのは間違いだ。人を害したくはない、そう思っていても人を殺してしまう。100人、1000人の人を殺してしまうこともありうる。だから怖いのであり、そんな人が憐れであり、それ故に業を背負った悪人こそまず救済されるはずなのだ ― 親鸞の言いたいことを現代語にすればこういうことであったろう。

日本人である小生は、たとえば関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件、南京事件など、関係者が歩んだ人生は他力本願思想でのみ救われるものであると発想するが、儒教思想においては罪は罪であり、その罪は永遠に消えることはない。

これがいわゆる「歴史問題」の本質であり、「正しい歴史認識」という言葉で先方が伝えたい意図であるなら、そもそも日本人の多くが心に抱いている宗教思想、倫理観とは根本的に対立していて、相互理解は至難である。そう言える気もするのだ、な。アジア文化圏にはあるが、島国日本と大陸とは越えられない溝がある。そう言ってもいいかもしれない。

2013年12月12日木曜日

愚かな選択-公務員宿舎の賃料引き上げ

住宅の賃貸料が引き上げられるのは、需要が供給を超過している場合、もしくはインフレーションが進行している場合である。

国家公務員宿舎の賃料引き上げが行われる。日経報道から一部抜粋したのが以下である。
政府は16年度までに公務員宿舎を16万3千戸と現在に比べ25%削減する計画だ。現在の賃料水準のままだと、18年度の賃料収入は年300億円程度にとどまる。支出にあたる維持・管理費の460億円をすべて賃料でまかなうには大幅な値上げが必要だった。

 民主党政権は公務員宿舎の賃料が民間の賃貸住宅に比べ大幅に安い点を問題視し、昨年11月に賃料を「おおむね2倍」に上げる方針を打ち出した。安倍晋三政権も値上げの方針を受け継ぎ、財務省が最終的な上げ幅を検討していた。

 多くの宿舎が値上げの対象となる一方、財務省は主に自衛隊員が入居する宿舎は無料化を進める。財務省が無料と指定する場合、宿舎と勤務地の距離が100メートル未満にあることが条件だったが、来年度から2キロメートルに条件を緩める。値上げを受け隊員が基地や駐屯地から遠い民間住宅に引っ越すと、自然災害など有事への対応がおろそかになりかねないとの懸念に対応する。(出所)日本経済新聞、2013年12月12日
今回の賃料引き上げは、民間に比べて<安すぎる>というのが理由である。希望状況を踏まえたものでもないし、物価はデフレである。上げる状況ではないだろうと思う。

小生は、国が経営する機関の末端で仕事をしているが、この町に移ってきた当初は短期間だが宿舎(官舎と通称している)に居た。それまではずっと官舎暮らしだった。その官舎暮らしを北海道に来て短期間でやめたのは、余りに古く、劣悪で住み心地が悪かったからだ。確かに町のマンションのほうが賃料は高額だが、品質がいいのだからそれは当たり前である。建物の賃料は、場所だけではなく、品質も見て妥当かどうかを判断するべきだ。ただ「安い!」、「不公平だ!」と言い募るのは、あまりに単細胞的言動であろう。

大体、維持修繕など毎年のメンテナンスをさぼってきたから、要修繕住宅が増えて、これ以上は待てないということになるのだ。そもそも官舎など、ほとんどは減価償却済みで、賃料が入れば収益になるだろうと思えるほどだ。その土地を官舎にしておくか、民間に売却するのが得か。機会費用だけが問題である。もし民間転用との機会費用を考えて合理的な土地利用をするなら、官舎の立地場所の多くは1等地点であるのでー 小生は新人時代に横浜山手町の寮で暮らした ー現在の官舎の多くは2倍どころか、賃料を数倍ひきあげてしかるべきだろう。

だとすれば、内装も綺麗にして国営の賃貸住宅にすれば財政収入にもなろう。よいではないか。そこに入る多くの人は、しかし、場所柄「外資系企業の取締役クラス」、大体は外国人だろうなあ。国有地を使って、そんなビジネスをするか・・・。確かに<官舎は安い>という不平はなくなるだろうが、どこか可笑しくはござんせんか。

市中相場よりも安い賃料で住宅を提供するのは、給与の現物給付にあたる。支給した現物給付の金額ばかりを問題視するのではなく、官庁から近距離の場所に住宅を与えることのプラスの価値はあるのかを問うべきだ。大事な点は、これだけである。国家にとっての利益がコストを上回るなら、問題は何もない理屈だ。いまはないが「下駄ばきマンション」よろしく庁舎ビルの上半分を「幹部用宿舎」にしてもよいのではないか。正に職住近接。緊急召集にも即応できるので危機管理にもなる。その時、多くの国民は「あんないい所に住んで不平等だ」というだろうか。

安い住宅に入ることを羨むばかりではなく、もっといいやり方はないか、と。福沢諭吉もいうように、怨望(=羨望・妬み)は社会にとってプラスの価値は何ももたらさない。ただただ、完全にマイナスの動機。それが羨望である。そんな心理的な動機が今回の引き上げには混じっていなかったか・・・。

★ ★ ★

それにしても、最近はやけに自衛隊優遇が目立つ。僻んでいるわけではないが、そのうち防衛大学付属高等学校、その下には「防大付属小、中学校」まで創立されるのではないか。そしていつの間にか全国の県庁所在地には「防大付属」が設置されるなどということになるのではないか。おそらく防大付属高は全額国費、無料であり、逆に給与が支給され、付属小、中学校も一般公立校より安くなるのではないか。最後に、教育機関である防大・大学院とは別に「国家安全保障研究センター」なるものが共同研究機関として設立されれば、その時は戦後日本の在り方は決定的に変わることになる。そんな風にも想像される今日この頃である、な。


2013年12月9日月曜日

ねじれ国会 vs 強行採決

午後6時から安倍総理が記者会見を行い、臨時国会中の成果、特に特定秘密保護法についてその必要性や意義などを訴えている。

これを最初からやっておけば良かったのだろうが、会期中、結構外国訪問が多かったのでゆとりがなかったのだろうねえ…で、数の力を使っちまった。

どうやら強行採決で内閣支持率は下がったようである。興味深いのは、国民の大多数が「与党優位の国会運営はよくない」と思っているらしいということが、色々なアンケート調査から浮かび上がってきている点である。ねじれ国会ではダメだと感じて、参議院では与党に投票したわけだ。それがまあ、半年もたたない内に「やっぱり、ねじれ国会の方がいいなあ…」と。すぐ変わるんだねえ……

〽たのみがたきは女ごころと、秋のそらあ〜

まったく女性には失礼な表現ではありませぬか。歌うなら下の方でありんしょう。

〽たのみがたきは人の心と世のこころ〜

もし「ねじれ国会」であれば、特定秘密法案などとても通過しなかっただろう。与野党がそろって賛成する法案だけが通るのが「ねじれ国会」である。それではいけないという世論が半年以前にはどれほど多く耳に入っていただろう。ところがやってみて「ねじれ国会」では絶対に起こりえない結末をみると、「これでもいかん」。またまた腰をひいてしまうのだねえ。ああ、山口百恵の歌声が耳によみがえる。

〽ハッキリかたをつけてよお〜

大体、秘密保護法案は民主党が提出を検討していたものである。下のような報道もある。
民主党政権が提出を検討していたのは「秘密保全法案」。対象は(1)防衛(2)外交(3)公共の安全及び秩序の維持−−の3分野だった。審議中の今回の法案は(1)と(2)は同じだが、(3)は無くなり、「テロリズムの防止」と「特定有害活動の防止」に変わった。法案を所管する内閣官房はこの変更について「より具体的にした」と説明し、秘密の指定範囲には変更がないと説明してきた。
 ところが、赤嶺政賢衆院議員(共産)が入手した民主党政権時代の政府資料で、説明は事実と異なることが判明した。資料には(3)について「主として我が国におけるテロリズム防止等に関するものに限定」すると記載。特定有害活動が含まれていなかった。
 「特定有害活動の防止」が加わったことで、日本の機密を探ろうとする外国のスパイや日本の協力者の情報のほか、海外からの不正アクセスを防ぐために日本が講じている措置なども対象に含められた。「スパイ」や「協力者」の定義はあいまいで範囲は不明確。さらに、さまざまな情報収集活動を含むため、警察当局などの活動の多くが「特定秘密」となり、知らないうちに市民の情報が集められ、その行為をチェックすることはより難しくなる。昨年、民主党で法案検討のプロジェクトチーム座長を務めた大野元裕参院議員は「スパイ防止は入っておらず、スパイを取り締まる『防ちょう法』を作るつもりはなかった」と証言した。
 一方、自民党で法案を取りまとめる際にプロジェクトチームの座長を務めた町村信孝元外相は9月「安全保障が問題になっている時に、日本は相変わらず『スパイ天国』と言われると(米国などから)必要な情報を受けるのが難しくなる」と、スパイ防止の必要性を強調した。【青島顕】
(出所)毎日新聞、2013年11月10日

民主党案と自民党案の間には力点のシフトがみられ、現在の与党はスパイ活動防止を明確に重視する特徴がある。とはいえ、秘密保護法制がなぜ国際的に必要になってきているのかというその背景をみると寧ろ与党の発想の方が現実と即応している。そうも言えるのではないか。

2013年12月8日日曜日

日曜日の話しー 特定秘密保護反対と原発反対デモから分かること

特定秘密保護法案に反対するデモは、一つ一つが万人規模となり、しかも全国で同時多発した。参加している人物には若い人もいるが、TV取材で画面に現れる人はおそらく年齢60歳代であろうか。その昔、沖縄反戦デー、さらに遡って60年安保反対デモに参加した「歴戦の勇士」も混じっているかもしれないなあ…と、そんな感想をもちつつ観ている。

団塊の世代。かつて日本経済を支え、二度の石油危機を見事に乗り越えるも、不良融資に暴走し、遂にはバブルを演出したが、その後の20年という時間の中で、消え行きつつある老兵たちの悲哀を感じさせてもいた。昭和も遠くなりにけり。そんな忘れがたい世代であるのだが、ここにきて格好な老後の生き甲斐を見つけたか。正直、そんな風に感じています。

ただ特定秘密保護法案で戦前期の暗黒のような日本に逆戻りするのか。小生、どうしてもアナクロニズム、というか風車に突撃した老騎士・ドンキホーテを見る思いがするのだなあ。敵はそこにはいませんぜ、旦那ガタ…。


Don Quixote and Sancho Panza by Honoré-Victorin Daumier, c. 1866-68

『おのれ、許せぬ』と前進突撃するのはよいが、声なき民を哀れなサンチョパンサにしてはなりませぬ。彼らは決して愚かではございませぬ。上のドーミエのように、ついて行ってはいるが、ちゃんと生き様は見ているのでござんすよ。

それより気の付いた事。反原発デモと比べて、今度の特定秘密保護反対デモの何と盛んなことであろうか。その広がり、激しさ双方において、反原発意識をはるかに上回る動員力を反国家機密は持つのである。実のところ、同じ民主主義国家として価値観を共有するはずのアメリカ、イギリスなどから日本が機密情報を提供してもらう場合、「これは機密にせられたし」と要求があったとき、「厳重に秘密にしましょう」と。そんな受け皿になる制度を設けるだけの話しである。相手が秘密にしておきたい情報が日本に渡ったら「知る権利」が最優先されるのだとしたら、相手は教えてくれないでしょう。そりゃあ、日本の損だ。

それに対して、エネルギーとして原発をどうみるかは切実な問題である。福島第一原発の事故で16万人の人が避難し、2年半たったいま現在も9万人余の人が自宅に戻れないでいるのである。この現状をみれば、理屈はぬきにして「反原発・脱原発」を意識せざるを得ないのが人情ではないかと。小生はそう思うのだ、な。ところが、日本全国の人は反国家機密には燃え上がっても、反原発の方はそこそこ。これが現実であることが再確認できた思いがする。(参照:福島民報、2013年12月8日

まあ、背に腹は代えられんもんね。原発を全面放棄するのは、ちょっと無理かもしれんよねえ…。僕たち、私たちの暮らしってものもあるもんね。電気料金、これ以上あがると困るもんね。いろいろ事情があるわけでござんしょう。なんだかんだ言っても、この辺りに国民の最大公約数的な意識が浮かび上がってきた。そんな気持ちでいるのである。



2013年12月6日金曜日

国家機密とマスメディアの関係

北海道新聞は一面打ち抜きで

秘密保護法きょう成立

と掲げ、2面、3面とすべて与党の「特定秘密保護法案」で埋め尽くされているような案配だ。

世論猛反発、焦る首相
第三者機関 急ごしらえ

こんな刺激的なヘッドラインが目を射る。

あたかも中国・人民解放軍が尖閣諸島を急襲して、あの無人の岩礁を占拠し、五星紅旗を掲げ、付近には相当数の軍艦が集中されている。そんな風な大仰ぶりである。日中の限定戦争が真剣に懸念されるいま、仮に起こってもそれほどの衝撃的事件ではあるまいが、もし現実に起こるとしても新聞の扱いは今日の「特定秘密保護法案」とそれほど違わないのではないか。そう思ったりもするのだねえ。

ちょっと読んでみる。なになに・・・第三者機関による監察か。「身内」である官僚にするのか、民間人を登用するのかなどの課題は先送り。フ〜ム、ひょっとして、ジャーナリストとしては特定秘密候補にアクセスしておきたいわけなのか・・・ならば、ジャーナリストが自己の努力を尽くして情報源を探し、協力を自己の責任で引き出すという現在の取材方法よりは、よほど仕事が楽になるに違いない。こりゃあマスメディアとしては「監察機関」を設けろというだろう。しかし、これはマスコミ各社の利己主義ですな。正義とも、社会愛とも関係ない。

守秘義務の下に監察機関に参加した人がいるとして、その情報は国民に知らせるべきだと確信すれば、ルールを破って機密を漏えいするであろう。そして、漏えいは国民のために行ったことであるとマスメディアは全社をあげてアピールするであろう。そうした思想自体が全体として、公益を名分とした「スクープ」であり、企業であるマスメディアの販売拡大戦術であると小生は思うのだが、仮に純粋に社会正義のために漏えいを行うとしても、識別は不可能だ。そして「社会正義」といえ、それは当人の思い込みである場合も非常に多いのだ。

× × ×

究極のところ、政府を信じるか、民間の良識を信じるかに帰着する問題なのだ。

小生は、政府という組織は全体として非合理であり、知性などはないと考えている。だから政府は多数の私人によってモニターされねばならないし、私人の自由を制限する権限を政府に与えるべきではない。

しかし、国家機密の指定をモニターするとして、仮にその監察機関に民間の関係者が参加するとしても、参加するのは民間において強い影響力をもつ組織の代表者ないし当該分野の有識者であるのはほぼ確実であろう。そして、民間の代表者と政府の公務員と、いずれが広く国民に有害な影響を与えうるかといえば、小生は特別な地位を政府内に占める民間の関係者の方だと考えている。

なぜなら、そうした国家機密の監察業務に携わる人間は、もともとそうした分野に関心をもち携わってきた人であろうし、だとすれば真剣に取り組めば取り組むほど、自分の仕事にとってもプラスになるだろう。自分の仕事にとってプラスになる素材は、記憶し、覚書を整理し、何らかの形で自分自身の仕事の中で活用していきたいと考える誘因をもつ。最初は純粋の「監察業務」に参加することであったものが、次第に自分自身の仕事の成功につながる好機として国家機密にアクセスする私人が出現するのは、利益相反を形成し、国家にとっては不幸なことであるに違いない。このような状況に置かれる私人は、公務員とは相反して、機密には該当しないという情報ですら、仕事において競合する他者に対する優位性を築きたいがため、あえて機密にするべしと主張する動機をもつだろう。

たとえば裁判員制度を参考に、専門性などは考慮せず、国民全体を母集団として無作為に選ぶ人たちが国家機密の指定の妥当性を判断するのであれば、上記のような害はない。しかし、仮に特定秘密が妥当だと判断したときに、その判断に参加した私人に公務員に準じる守秘義務を課すことになるのだが、国家レベルの機密情報を漏えいせずに保持していけと命じるのは、無理ではないかと考えるのだ。

だから小生は、「特定秘密」なる機密を定義する以上は、その情報にアクセス可能な人間は「特定の少数者」であり、その少数者は国民全てに責任をもつ「公務員」でなければならない。これが当然のロジックだと思う。

× × ×

もちろんプロセスは文字に記録され、保存されなければならない。法案ではこの辺が曖昧なようだが、これこそ要点ではないか。保存された資料を整理し、そこから歴史的存在としての「時勢」を紡ぎだす仕事は訓練された歴史家のみが行いうる仕事だ。その結論が固まるには何十年かが必要だろうし、100年かかるかもしれないのだ。

そんな時間の中で解決して行くべき国家の意思決定は、現時点のマスメディア各社の「販売競争」とは切り離さなければならないし、ましてや個々の記者の「出世競争」とも金輪際無縁のことである。次元が違うというべきだ。

それにしてもマスメディアは、ときに「公務員」といい、ときに「官僚」という。言葉を戦略的に使い分けているようだ。どちらか、あるいは両方が常に偏りをもって使われている可能性が高い。

2013年12月5日木曜日

特定秘密保護法案について

衆議院で可決後、参議院に送付された「特定秘密保護法案」は、近日内に国家安全保障特別委員会で採決、そのあと本会議に上程される見込みになった。民主党以下、野党は与党(自民・公明)の強引な運営に反発しているので、このままでは野党欠席のまま強行採決になろう。安倍内閣は、第一次もそうだったが、強引な傾向がある。

国家機密について世界の現実を整理すると、結局はアメリカのように "Top Secret"、 "Secret"、"Confidential"のように区分し、機密レベルが上がるほどに厳重に保護するという体制、あるいは中国のように原則全ては秘密にする。この二つの間のいずれかの中間点を選ぶ事に帰着する。

小生は、何から何まで – 非公式なその場限りの、それでも重要な雑談、お喋りなども含めて – 全てを国民、取材記者に対してオープンにすることは不可能である以上、国家の運営に関する事は可能な限り文章で記録し、文章を保存し、100年程度の時間をかけて専門家である歴史家が資料を編纂して行く体制が「好き」である。その時々に国民が断片的な情報を入手したところで社会の意思決定が混乱するだけであり、マイナスの方が大きいと思う。ただこれではいくらへそ曲がりの小生であっても独裁政府のようであるように感じる。

要点は、機密情報保護体制の国際標準化だと言えよう。まずは情報の取引相手となるアメリカ、イギリスの秘密保護体制、更には歴史のある大陸欧州諸国の国家機密の取り扱いをなぜマスメディアは紹介しないのだろう。日本の今回の秘密保護法案を、それだけをピックアップして戦前の日本に逆戻りだと絶叫するだけでは、まるで明治維新後の自由民権運動を連想させるだけであって、まったく説得力をもたない。

政治に関する事はすべて<選択>である以上、単なる主張ではなく、現実に与えられている選択肢の一長一短を議論するプロセスがあってしかるべきだ。

マスメディアが、自社の利益を重視して望ましい方向を主張するのであれば、それは独占的な地位を利用して社会を望む方向に持っていこうとする行動と同じであり、それ自体が政治である。その手段に自社の新聞、TVなどを使えば、金権政治と本質的に変わりはない。

2013年12月4日水曜日

昨日投稿の補足ー領有権を争うなら協調解はありえない

中国が防空識別圏という戦略ツールを本当に使っていく意図があるのかどうか、まだ分からない面が多いという。あるいは中国政府内でも意見のばらつきが窺われるなど、色々と世情は喧しい。

ただ以下のWSJの報道でも言っているように、中国が仕掛けているのが領土紛争であるなら、これは原理的にゼロサムゲームであって、「協調による利益」というのはそもそもあり得ない。領有権は一方がとれば他方が失うからである。

この見解は、緊張緩和と不要な対立の回避を図る取り組みが、どれほど急速に米国の東アジア外交の焦点になったかを浮き彫りにしている。就任後9カ月が経った習主席が権力を固める中、中国政府は隣国に対して領土的な要求を強めるなど、ますます大胆な戦略に出ている。バイデン副大統領のアジア歴訪は、米国の政策と資源をアジア向けに再調整し、貿易関係の促進を目指すオバマ政権の意欲を強調する目的で前々から計画されていたが、この当初の目的は中国への対応にかき消された。(出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、12月4日
領有権を主張する外交方針と平和的な台頭を目指すという中国の発言は、そもそも論理的に矛盾しているのである。

協調と平和を目指すのであれば、協調の利益が存在する外交ゲームの枠組みを構築しておかねばならない。そのイニシアチブを日本がとれるかどうかであるが、まあ戦略的思考には苦手意識をもつ日本のことだ。おそらくアメリカがアメリカにとって有益な状況に導くべく、今後、コミットメントを積み重ねていくことだろう。

2013年12月3日火曜日

東アジアで限定戦争は起こるのか

標題の質問に対する小生の答えは「起こりうる」である。望ましくはないが、まったく無意味な不祥事であるともいえない。論理的にはそう言える。

中国が設けた<防空識別圏>に尖閣諸島が含まれているというので — 含めずに設ければ中国には決定的なマイナスである以上中国の行動はなにもおかしくはないが — <緊迫感>が増してきている。

日本と中国の2国をとって単純なゲームを考えてみても、そもそも日中両国には協調の利益があるのでゼロサムゲームではない。つまり中国の利益は日本の損失、日本の利益は中国の損失となるわけではない。

にもかかわらず、協調困難な状況に陥っている理由としてはいくつかの可能性がある。一つは協調が不安定であるという見方だ。タカハトゲームとみる立場はその一例である。両国が穏健なハト路線をとる状態は実は不安定であり、どちらの側も自国がタカとなりリーダーになる誘因を持っている。それ故、主導権争い、示威行動、政治的意志を貫徹するための武力の行使、つまり限定戦争へのイニシアチブなどなどが予見されてくる。タカハトゲームの下では、両者がタカとなって戦う戦争状態は双方が希望していない。いずれかの優位が確立された時点で均衡が訪れる。

2番目の見方は、同じく協調が不安定であるとみるが、現状を「囚人のジレンマ」と解釈する立場だ。双方がハト路線をとって協調するよりも相手を屈服させるほうが利益になる。そのことを相互が知っているが故に先手を取って相手を攻撃する。そんな誘因が双方にある。それで戦争状態になるが、戦争状態を避けたいがために回避する事はむしろ自国の不利益となると認識されるので自然発生的に平和が訪れる事はない。そういうロジックである。ただ、囚人のジレンマという状況はワンショットゲームで発生しうるが、将来にわたって何度も意思決定を行う一連の行動計画を一つのゲームと考えれば、協調+報復戦略が一つの最適戦略となるので協調の持続が可能になるはずである。年末商戦ならいざしらず、隣り合う2国の外交ゲームを囚人のジレンマとみるのは難しい。

3番目の見方は、相手のとる行動に応じて、協調には協調、攻撃には攻撃をとる誘因が双方にあるという場合だ。これは戦略関係が補完的であるケースであり、ゲーム論では「男女のデートゲーム」に相当する。この場合、2国の行動が同調する傾向が生まれてくるが、安定的なナッシュ均衡がある。ただナッシュ均衡は一つとは限らない。緊迫した現状は、自国の攻撃的な姿勢が相手の攻撃的な姿勢を誘発している結果であると見るわけであって、いずれかが戦略を変更すれば相手も同調的な変更を行う。そう期待されるのがこのケースである。

整理すると、①日中関係に戦略的補完を認める場合、②囚人のジレンマではあるが長期的な行動計画を一つの戦略であると考える場合、これらのケースでは日中協調が安定的な均衡点となる。これをケース1とすれば、ケース1の特性は「目には目を、歯には歯を」が合理的選択であるというところだ。そんな行動方針が結局は安定的協調を形成するというのは逆説的ではあるが、ここがロジックの面白い点だろう。それに対して、タカハトゲームとしてみれば相互の実力を正しく認識するまでは限定戦争が予想されるものの窮極的には「押さば引け、引かば押せ」という戦略的代替性が当てはまっている。これがケース2となる。ケース2においては、相手と己れの実力を正確に知るという点が最も重要であり、自国のとるべき行動は実力の比較から自然に決まってくる。

小生が担当しているビジネス経済学では戦略論が一つのテーマになっているが、足元の価格競争では戦略的補完性が支配し「たたきあい」になりがちであるのに対し、企業の体力を決める生産能力戦略については戦略的代替性が主調となって、相手が本気で押してくる場合、同じ行動をとって正面衝突するのは愚策である。そんな議論をしている。当然そこでは各プレーヤーが様々の<コミットメント>を行い、ナッシュ均衡崩しを図るので、現実の進展ははるかに複雑である。

米中の太平洋覇権ゲームととりあげれば、中国がタカ路線をとるなら、まず米国陣営の西の要石である日本と韓国の弱体化をはかり、併せて米中経済関係の深化をすすめ、アメリカにとっての日韓の戦略的価値を低下させる戦略を選ぶだろう。アメリカは中国市場を必要としているが、中国もアメリカを必要としている。ここで、アメリカが中国を必要とするという意図を中国が戦略的に利用する事は常に可能である。と同時に、アメリカが中国のその意図をアメリカ陣営の利益に結びつくように利用する事も可能なはずである。

まあ考察はいろいろと展開できそうであるが、このような議論をすれば、どのロジックが当てはまる状況なのかによらず、日中(あるいは米中もそうだが)相互の国力を正しく伝え、互いに相手の力量を正しく認識する情報分析がまず重要になるし、さらに協調システムの構築に力を注ぐことが2番目に大事な点となる。信頼性に疑問符がつけられている中国のマクロ経済データ、(中国が国内的必要性からそうしている可能性が強いとはいえ)秘匿的体質と形容される傾向は、日中2国間においてすら安定的な関係を模索するための障害になっていると言うべきだろう。

2013年12月1日日曜日

日曜日の話しー使った言葉の表の意味と裏の意味

言葉に自分がこめる意味が相手に正確に伝わるかどうかは不確実である。

勤務先のビジネススクールで、昨日、卒業作品の中間発表会があった。各自が自分の企業研究や事業計画についてレポートして、二日後にディスカッサントが討論者としてコメントを寄せることにしている。

そのレポーターとディスカッサントの予定表であるが、学会などの常識では
報告者(レポーター):Aさん
ディスカッサント1(討論者1):Bさん
ディスカッサント2(討論者2):Cさん
と記載されていれば、自分の報告の後、討論者であるBさんとCさんが順番に立って自分の報告について意見を述べる。その討論者が一流であればあるほど、ビッグネームであればあるほど、報告する自分は嬉しくもあり、怖くもある。それが学会に限らず、すべての勉強会、報告会の「常識」だとおもうのだ、な。実際、上のような対応関係の下に氏名の並びを解釈するのは、「当事者の関心のありか」とも整合的である。

ところが本日になって学生から、いやそう解釈するのではない。報告者AさんはBさんとCさんからコメントを受け取るのではなく、AさんはBさんとCさんの報告に対してコメントを書かなければならない。自分のするべき「仕事」は、まず自分の報告、それからBさんとCさんの報告に対するコメントである。そう解釈するのが自然である、と。これはいわば「業務計画」というか、ノルマというか、そんな風に予定表を見てとる。確かにそんな解釈も可能なわけである。

な~るほどねえ~。小生、感じ入りました。確かに「自分のやるべきことは何か」をスケジュール表から見つけるという目下の関心に沿えば、「自分の報告にコメントしてくれるのは誰か」ではなく、「自分は誰にコメントをすればいいのか」、そこを知りたいと思うだろうねえ。関心の在り方によって知りたい情報も変わり、知りたい情報は何かによって手元の資料の読み方が違ってくる。

何かを話しても、人は自分の関心に引き寄せて、聞いたことを解釈するものだ。自分が疑問に思っていることのヒントなり、回答が得られると感じてはじめて注意をするものだ。授業も、説明も、初めから順序よく最後まできちんと注意をして聞く。そんなことはしないのだな。だから、勉強は、大体のところ「聞きかじり」である。読書は概ね「拾い読み」である。大学と言っても日常の現実はそんなところではないのだろうか。


Redon、仏陀、1905年


19世紀から20世紀にかけて活動したフランス・象徴派の画家ルドンが描いたものの多くはこの世には存在せず夢想されたものだ。存在はしないが、ルドンの絵を観る人は描かれたものを理解できる。そもそも真の意味で存在していないものは、人間には理解不能であり、描くことすら不可能であるはずなのだ。ルドンの絵を観る人がもつ想念は、そこに描かれたものとは違う。だからルドンの絵は象徴主義なのだな。

上の絵は仏陀が描かれている。だからといって上の作品が仏陀の肖像画であるなどと誰も思わないわけであり、絵の中の人間が仏陀に似ているかとか、仏陀の人生の一場面であるかとか、そんなことはどうでもいいわけである。観る人が、その人の関心や感性に応じて、様々に受け取って解釈してくれればルドンの絵は画家の意図を達成するわけである。そこに美が認識されれば、その作品は名作となる。

大学というところも、これに似ている。

いやさ、大学ばかりではない。

中国が設けた「防空識別圏」と、それに反発する日米両国の対応が毎日報道されている。設けた中国と、それを知らされた日本とアメリカと。その段階で、すでに日本とアメリカではもつ関心が違うだろう。中国の意図は日本にもアメリカにも正確には伝わらない。アメリカも日本も自国との関係で、自国がしようとしている事との関係で、中国の行為と意図を解釈するはずである。日本はやりたいと思っていることが難しくなるようには解釈しないはずだ。アメリカもアメリカがやろうとしていることと整合的であるように中国の行動を見るだろう。中国もそうである。中国の意図と合致するように日本とアメリカの行為を解釈し憶測するだろう。

この世界はそういう意味では誤解と錯覚から形成されるものである。そう思いませんか?

2013年11月29日金曜日

米株価 – 上昇トレンドに入ったのか

アメリカの株価はダウジョーンズが16000ドル台に乗ってきた。景気の今後の動きを考えると新時代到来に期待が持てそうな気分にもなってくる。

実際DJは、リーマンショックのあと14000ドルの壁を超えるのに相当の時間を必要とした。14000ドルの壁を突破した後は15000ドル、16000ドルは案外早期に到達した印象がある。


一部の銘柄の動きを反映しがちなDJでなくS&Pの方をみても大勢は同じだ。


2001年に「ITバブル」が崩壊して以降、160の壁が中々超えられなかった。それが最近になって181.12(11月27日現在)にまで騰がってきた。好調な経済指標が相次いで公表されたのに加えて、次期FRB議長に内定しているイェレン氏による「最適コントロール」が市場の評価を勝ち得ているからだ。

アメリカ経済の先行きを総括する指標としては幾つかのLeading Indexが公表されているが、中でも比較的良質で長期データが有料ともなっているコンファレンス・ボードの"Leading Economic Index"をみると以下のような図になっている。赤線は一致指数、青線が先行指数である。


指数の数値自体は基準化されているので意味はない。とはいえ、その変動量は景気変化の強弱を表している。だから、一致指数でみると、現在のアメリカ経済の状況はリーマン危機直前のレベルに復帰しつつあるという見方もあながち的外れではなく–実質GDPというもっと適切なデータがあるが–、他方先行指数のほうはリーマンショックの落ち込みの3分の2をリカバーしたという状態だと言えよう。そして、一致指数、先行指数いずれも上昇トレンドにあり、特に先行指数については最近になって上昇が加速している。 これはこの先6ヶ月程度のアメリカ経済の拡大を予見させる有力な材料である。米株価上昇は足元で感じられている明るい見通しを反映しているものだ。

ただ株価については、順調な上昇局面が既に4年続いていて、その間に大きな調整は行われていない。この背景にFRBによる量的金融緩和政策があるのは言うまでもない。米株価は「政策支援バブル」にあると形容してもいい。バブル要素の混入割合までは計算していないが。

経済実態とは別に金融政策の転換から大きめの株価調整が近々訪れるものと予想する。アメリカ株式市場の長期上昇トレンドはその後だろう。

確かにマクロ経済理論の進歩によって資産バブル崩壊の後遺症を防止できるようにはなった。バブル崩壊によって10年、いや20年間も経済停滞に陥るという危険性は予防できるようにはなった。しかし、非正統的手段で「驚き」を伴った量的金融緩和をおしすすめてバブル崩壊に対処する場合、確かに人々の予想に影響を与える事はできるし、バブル崩壊の負の効果を防ぐ事もできることは分かったのだが、これを終わらせる時期の選択、適切な出口戦略の決定がまだなお未解明ではあるまいか。

結局、生命維持装置をいつまでたっても外せない。そんな状態に追い込まれつつあるのではないか。そういう心配がないでもない。しかし、まあ、それでも政策研究の進展があるまでの時間稼ぎ。その位の意味はあるのかもしれない。




2013年11月26日火曜日

「対外危機意識形成」のグローバル化

対外危機意識の高まりがナショナリズムを刺激し、その時の国家指導者の支持率が跳ね上がる現象は歴史上頻繁に観察される事である。

古くはフォークランド紛争で決然として艦隊を派遣した英国のサッチャー首相がそうであったし、近くはアルカイダによる同時多発テロのあとのブッシュ大統領が当てはまる。ブッシュ大統領はテロ直後の高支持率を背景に有志連合を結成して対アフガン戦争を始めた。更に、2003年3月には大量破壊兵器隠匿を大義名分にイラクと戦端を開き、フセイン政権を打倒した。戦争開始には時の政権に対する非常に高い支持率が不可欠なのである。顧みると日本海軍の真珠湾奇襲は、戦術的に成功したとはいえ、アメリカの危機意識をたかめ、怒りを醸成したという点で戦略的にはまずかったわけである。<対外的危機意識>は、たとえその効果は一過的で短期的なものであるにせよ、国家指導者の支持率を高め、指導者がやろうとしていることを実現しやすくするものなのである。

中国が唐突に尖閣諸島を含む東シナ海空域に「防空識別圏」を設けたことから、このところ和解に向かうのではないかと憶測されてきた日中間に再び危機が高まっている。今度は、日本だけではなくアメリカ、台湾、さらにオーストラリアまで中国の強硬なやり方に危機感を刺激されているようである。

中国事情に詳しい日本の専門家の一人は「こうした強硬な対日外交をとることが必要な国内事情に習近平政権が置かれているという事です」という意見を口にしていた。危機の主因は中国にあるというわけだ。同様に、韓国の朴大統領の反日発言も「反日」そのものというより、朴政権が国民の反日姿勢を必要としている。そんな見方が多いようだ。

実は多少古いが韓国側にはこんな風な記事がある。
……日中間の摩擦が安倍首相が推進している防衛力増強に力を与えていると分析している。「安倍首相が中国脅威論を掲げて集団自衛権行使、ミサイル防衛システム拡充など安保問題で政治的立地を強化しており、中国の対日強硬対応がこれをさらにあおっている」というのが専門家らの分析だ。こうした雰囲気の中、安倍首相は先月の米国訪問時に「日本の周辺には軍備支出規模が日本の2倍に達する国がある。私を『右翼の軍国主義者』と呼びたいならそう呼んでもらいたい」と発言したりもした。(出所)中央日報、10月28日配信
 韓国は韓国で、日本の安倍首相が年来の持論を実行するために、それに都合の良い外交事情を自ら造り出そうとしている。そう見ているようなのだ、な。日本人のいう「中国という脅威」、あるいは「許せないほどの韓国の反日」。実はこの二つとも安倍首相の政治的ポジションを強化するのに欠かせない要素になっている。簡単に言えば、日中韓をめぐる対外的危機は安倍総理の側が造り出したものだ。どうやら日本が中国や韓国をみるのと同じ目線で韓国も日本を見ているようなのだ。中国も事情は大体同じではなかろうか。

安倍政権、習政権、朴政権それぞれがみな、自国に対してアグレッシブで好戦的な相手国を必要としている。好戦的言動を繰り広げる安倍首相は、習近平主席にとってウェルカムなのだ。なぜなら対日関係が悪化すればするほど、中国国内で危機意識が高まり、中国国民は統合される名分が立つからである。統合して習主席は実行しようとしている政策課題に取り組めるであろう。

同じ事情は韓国の朴大統領にも安倍総理にも当てはまる。中国海軍が空母を尖閣諸島近海に派遣する行為は、中国による日本に対する威嚇ではあるのだが、そうして威嚇されていること自体が安倍総理がやろうとしている本来の念願にとっては追い風となる。だから、強硬な中国は強硬な姿勢をとることによって安倍総理に味方していることになるわけで、それゆえ安倍総理には必要な中国となっている。

しかし、本来の意図は時間の経過とともに露出するものである。露出してはならないので、対日強硬姿勢が本来の戦略的意図であることを証明するためのコミットメントを中国は実行するだろう。たとえばそれは何発かの砲撃であるかもしれないし、「偶発的事故」の演出かもしれない。そうして事実において対外的危機が「演出」ではなく「現実」のものに転化するかもしれない。とはいえ、そうなることの全体がそもそも日中韓の現政権が訴えていることを事後的に立証することにもなるので、そうなっていってこそ政権の支持率は更に高まるだろう。

もしもいま、日本が対中和解姿勢を示して中国との雪解け外交に努力し、韓国とも慰安婦、強制徴用問題について協議を始めるようであれば、もっとも困惑するのは中国、韓国の現政権ではないかと思われる。対外的危機の消失は、中国と韓国の経済格差問題を露わにし、政府は困難な経済改革に正面から取り組むことを余儀なくされよう。こんな事情は日本も同じである。日本の課題は、年金削減と増税、そしてグローバル化に応じた規制緩和である。TPP参加もこの一環であるが、国内には強い異論がある。中国からの威嚇、韓国の強硬な反日なくしてTPPが検討の俎上に乗ったろうか。そもそも東アジア情勢が平穏だとして、それでも「集団的自衛権」を安倍総理は口に出来ただろうか。真面目に考える国民はいないはずである。平和であれば普天間基地の移設も進まず、辺野古移転もままならず、日米関係の基礎は動揺するに違いない。「アメリカ陣営」という色彩が濃厚なTPPに参加する必要性を国民が理解するとも思えない。そういう状況になっていたのではないか。

対外危機意識形成は、指導者が国内支持率を獲得する特効薬である。強い指導者像を追求したいと念願する動機は、確かにいま日中韓それぞれにある。なぜなら政策課題に取り組むには強い指導者であり支持率も高くなければならないからだ。互いに強硬な姿勢をとりつつ形成されるバランスオブパワーの中で、それぞれの国が抱えている本来反対の多い政策課題に取り組んでいる、それが現在の日中韓三国の右翼政権である。そう見ておいてもいいのではないか。



2013年11月24日日曜日

日曜日の話し-リアリティと夢の違い

NHKで放送中の「日曜美術館」は、小生の趣味と合致しているので、楽しみにしている番組の一つだ。

毎回必ず観ているわけではないが、本日のテーマは英国の画家・ターナーだったので、これは見逃せないというので、休日にもかかわらず(小生にとっては比較的に)早めに起きてみた。録画しておこうと思ったが、レコーダー側のチャンネルを合わせるのを忘れたのでしくじったのが残念だ。



Turner, Rain, Steam and Speed The Great Western Railway, 1844

本日の「日曜美術館」の最後に登場した作品は、上の有名な「雨・蒸気・速度」だった。フランス印象派の興隆は、確かに普仏戦争におけるフランスの敗北後のことだから、ターナーは30年ほどは先行して、風景画の革新をイギリスという世界でやってしまった。そんな風にも感じる絵だ。

もう昔のことになるが、役所の依頼でフランスのINSEE(国立統計経済研究所)とイギリスのCSO(中央統計局)を訪問したことがある。何の調査だったか大分忘れたが、GDP速報推計方式の改善に関連していたような記憶がある。とすれば、2000年前後のことになるだろうか。

行きの飛行機の中で、ところが、猛烈な風邪をひいてしまい、先に入ったロンドンでどんどん悪化してしまった。泊まったFlemingホテルの部屋が寒くて仕方がなかったのも一因かもしれない。仕事が終わった後、小生はTate Galleryには行ったのだが、National Galleryには疲れていけなかったし、Baker St.のSherlock Holmes Museumも行くのを断念したのを、いまだに取り返せずにいるのだな。それでもテート・ギャラリーにターナーのコレクションが展示されていたような記憶がある。とにかく風邪で頭がボオッとしていた。そのあとパリに回ったのだが、ルーブルでは古代ギリシアで観るのを諦めて、外に出て、薬局で薬を買ってホテルに戻って寝ていたことを覚えている。何とモナリザもドラクロワもみてないのだな。

いやあ全く散々な海外出張であったわけである。今日の日曜美術館をみながら、思わず恥ずかしい仕事ぶりを思い出して、今でもなお汗が出てくるような思いがした。

いま思い出しても恥ずかしいが、過去のことは既に過ぎ去ったことであり、いまの現実ではない。リアリティは、現実の中に存在するので、過去の思い出は追憶にすぎず、それは早朝にみる短い夢と本質は同じであろう。今日も夢の中に亡くなった母がいて、「もう一人になったから、何かやるといっても、やろうとは思わないよね・・・」と、父が亡くなった後だろう、小生はそんな風なことを語りかけていた。母はただ小生に微笑むだけであった。実際には、こんな会話を母としたことはなく、単に夢の中で小生の頭がつくり出した映像である。しかし、そんな夢を作り出す小生は確かにいま存在し、生きている。一体、夢の中の映像と過ぎ去った記憶の間に、どんな本質的な違いがあるのだろうか。

自分という人間存在を作っているという点では、過ぎ去った過去の記憶といまみる夢の世界と、いずれも同じ、何の違いもないのである。


2013年11月20日水曜日

戦前期日本の「国のなりたち」はよく見なおした方がいいのではないか

明治時代は45年も続いたが、時代の流れ、国民の意識でいくつもの期間に細分されるという。詳しい事は忘れたが、誰がみても第1期は西南戦争までの10年間(M10)、次は大日本帝国憲法(M22)までの第二期12年、それから日露戦争終了 (M38) までの第三期16年。最後に明治から大正へと移るまでの第4期7年間である。

戦前期日本が、いわゆる「帝国主義的拡大」を国策としはじめたのは、いつ頃からだろうか、と。時々、勉強し直したくなるのだが、確かにこの辺は相当細かく文献や資料を読み込まないと中々答えは出てこないだろうとは思う。たとえば、しかし司馬遼太郎などの歴史小説では、日露戦争ですら、帝国主義的な領土欲には汚されておらず、比較的純朴な動機に基づく自衛のための戦争であったと叙述している。とはいえ、軍部の独走はその前の日清戦争から川上操六など参謀達が立案した戦略の自動実行システムとして既にうかがわれるわけである。また、いかにアメリカなど西洋諸国との了解があったとはいえ大久保利通による台湾出兵(M7)は、「自国民保護」を名目とした一方的な海外派兵であることに違いはなかった。日本国民が自由経済システムの下で貿易を拡大し、自国民の安全が脅かされれば軍隊の派兵が当然許されるのだという基本認識があるわけで、それこそが「帝国主義」なのだと認識するなら、明治維新直後の段階ですでに日本は「帝国主義的」であったと形容されても仕方のない面はある。

ただ父などもそうであったが、昭和前期の平均的な日本人は満州も朝鮮も台湾も南方諸島もすべて日本の「領土」—正確にはおかしいのだが—である事に誇りをもっていたようだし、それでも日本は英米とは違って「持たざる国」であるという貧窮の感覚がひろく共有されていたようなのだ。そんな満たされない物欲というものを明治の日本人がすでに持っていたというのは、ちょっと信じられないのだな。ま、どちらにしても、1945年の敗戦を契機に「領土拡張=善」という意識は、まったく否定されてしまったわけであり、日本がアジアを解放したというより、これはそもそも時代の進歩に沿った動きであり、日本が能動的に動いて歴史の進歩を加速させたのだと小生は思う。動機に「利己的欲望」があったにせよ、もたらした結果はアジアにとって利他的であった。そんなところじゃないだろうか。

同じ結果を求めるなら、もっと賢明な行動戦略があったであろう。そういうことだと思う。

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伊藤博文を暗殺した安重根をめぐって日本と韓国政府が主張と批判のやりとりをしている。韓国の中央日報などでは結構大きな扱いをしている。
朴槿恵(パク・クネ)大統領が、安重根義士の石碑設置について中国側に感謝の気持ちを表わしたことに対して日本政府が19日「安重根は犯罪者」として極度の不快感を表わした。菅義偉官房長官はこの日の定例記者会見で「我が国は安重根については犯罪者であることを韓国政府にこれまで伝えてきた」として「このような動きは両国関係のためにならない」と話した。

彼は記者の関連質問にこのように答えた後「韓国には伝えるべきことについては明確に伝え、私たちの主張をしていく」と明らかにした。朴大統領は6月に北京で行われた韓中首脳会談で安義士が伊藤博文を射殺したハルビン駅に石碑を設置するよう協力を求めた。さらに18日、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で楊潔チ国務委員に面会して関連の議論がうまく進んでいることに謝意を表した。これに対し日本が不快感を示したのだ。

日本政府の高位関係者が公開記者会見で「安重根は犯罪者」という表現を使ったのは初めてだ。日本メディアも朴大統領の発言に関心を示した。NHKは「中国との連帯を強化して日本に圧力を加えようとする意図があると見られる」と分析した。一部の右翼メディアは関係者の話を引用して「ハルビンが位置する東北3省地方は少数民族が多くて民族運動をあおる行為は中国が避けたがっているため、韓国を味方にするためのリップサービスに過ぎない」と報道した。

外交部の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は「日本の帝国主義・軍国主義時代に伊藤博文がどんな人物であったか、日本が当時の周辺国にどんな事をしたかを振り返ってみれば、官房長官のような発言はありえない」と反論した。

一方、中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根義士について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」として韓国を援護した。
(出所)中央日報、11月20日

伊藤博文自身は、韓国を植民地にすることの愚をよく理解していた政治家であったそうだ。 日本では、トップであってすら個人的に考えるように自由に政治を行えるわけではなかった。伊藤も立場を異にする多くの政敵とのバランスの中で政治をしていたに過ぎない。意図と結果が違ってしまった一面もあるだろう。

ただ上の記事を読んで思うのだが、「安重根は犯罪者である」と現代日本の内閣のスポークスマンがあっさりと言い切っていいのだろうか。戦前期日本の法制度の下で「犯罪者」というなら、戦後の政治家・吉田茂も投獄された事がある。それは時代が違うというなら、拷問で殺害された大杉栄も「犯罪者」なのか、小林多喜二は「犯罪者」であるのか、あるいは大逆事件の犠牲となった思想家・幸徳秋水は「犯罪者」であるのか?

『当時の統治国である日本の法制の下では犯罪者として裁かれた人物であります』

言えるのは、高々うえのようなことくらいであろう。まして、戦前期日本のありかたを自省する事から再出発したのが戦後日本である。戦後日本の総決算は進歩であるべきであって、先祖帰りであってはならない。そもそも戦前期日本を構築した明治維新ですら、日本人全体が参加し納得した国造りではなかったのだ。上の言い分は事件発生後100年余の歴史を考慮しない形式論理学ではないかと言われても仕方のないところがあると小生には思われる。

安重根という暗殺者一人の見方にも、深い歴史的洞察とは真逆のとってつけたような形式論理を主張するしか芸がないのは情けない。その背景には、幕末から倒幕・明治、そして敗戦に至るまでの近代日本を、経済発展・領土拡大の成功とは別の視点から—当然だろう、結局は幕末より国土を喪失し、ぬぐえぬ歴史を作ってしまったのだから―見直すことをほとんどしていない。こんな一面的な自己認識もあるのじゃないかと、小生、思っているのだ。

2013年11月18日月曜日

精緻にして複雑だから良いのではない

先日の投稿のあと、大手マスコミもTPP交渉でアメリカが要求している関税全廃について報道するようになった。

この報道と同じタイミングで内閣府の浜田参与がコメの自由化を容認するべきだと講演をしたかと思えば、農林水産省が無関税枠拡大の検討に入ったなど、いろいろな情報が出てきている。

確かに毎日新聞は世論調査の結果として、関税の一部撤廃は理解が得られつつあると報道している。 TPP交渉に参加すること自体に反発する空気が支配的だった数カ月前に比べると何という変化だろうか。

毎日新聞が9、10両日に行った全国世論調査で、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉を巡り、これまで「聖域」としてきた農産物などの分野の関税撤廃について尋ねたところ、「一部でなくすのはやむを得ない」との回答が75%に上った。自民党支持層でも80%が「やむを得ない」としており、関税を一部撤廃することについては理解が広がりつつある。【高山祐】 (注)11月12日

まあ交渉だから、こちらがどこまで譲歩する覚悟があるのか、相手に悟られるのは下の下策である。日本側がどれほど複雑巧緻な作戦を検討しても当方の自由である。とはいえ、複雑巧緻は作戦案は、往々にして「絵にかいた餅」、「机上の空論」であって、要するに関係者の自己満足であるのが常である。論理を戦わせるべき交渉に単なる「いやだ」という感情的反発を持ち込んでは、もはや交渉ではなく、「いまのやり方の主張と防衛」に過ぎない。交渉はそこで実質終わりである。

官僚の自己満足を形成するのが外交交渉ではあるまい。

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そもそも大きな利益が日本全体にあるのかないのか、その説明がしにくいのであれば、それほどの利益はないということなのだ。大きな利益があるのであれば、誰にでもわかる説明の仕方がなければならない。

政府は、TPPを結ぶことが日本にとって大きな利益になると考えているのか、そうでないのか?そろそろ国民多数の利益と一部国民の損失について語り始めるべき時だろう。

日本の家庭のエンゲル係数(=食費の割合)は、一人当たりGDPが日本の半分しかない韓国に比べてもなお高い。それだけ日本人には暮らしのゆとりがないと言える。この事実はそれだけでも日本の政治問題になってしかるべきであるー 不思議にもなったためしがないが。これが小生の立場だ。

2013年11月17日日曜日

日曜日の話し - 専門分野と時間間隔

風邪を引いた場合には二,三日が山で、大体一週間程度で治るものだろう。

経済政策では『一日、四半期』と数えている。景気後退に入ってから大体は1年半で底打ちするのが景気動向指数から窺われるこれまでの平均だ。6四半期、つまり6日で本復という時間間隔がここにはある。

犬の時間は人間の5倍の速さで過ぎていくし、カナリアや文鳥など小鳥の時間となると、犬の時間の更に2倍の速さで過ぎ去っていく。人間が1年を過ごして年末を迎えるとき、昔飼っていた文鳥は10年を過ごしたのと同じ感覚であったに違いない。

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本日、2013年11月17日、札幌の大丸藤井セントラルに赴き、下の息子の任官祝いに贈るため先日、11月4日に注文した印鑑二本をもらい受ける。銀行印は13.5㎜で小生の12㎜印に比べると大きめにしたせいか、印相はともかくも、どことなくボヤッとした感じであるが、実印の方は中々装飾的で美しく文句のない仕上がりとなっている。父親として息子にしてやる予定はこれで完了だ。ただし、夕刻に愚息から電話あり。四国旅行にいくので資金カンパを申し込んでくる。交通費とガソリン代を出してほしいということだ。10万円は多すぎるので8万円をやろうと言う。愚息が自分の息子に就職祝いの印鑑を贈るのは30年後か、40年後か。小生はもういないだろう。帰ってカミさんとそんな話をする。


セザンヌ、Louis Auguste Cezanne (父の肖像)


コーヒーも飲まずにそのまま帰宅したが、宅に帰るとコープさっぽろ人事部の桑野さんから先日の講師料振り込みを知らせてきていた。税込30万円、手取り27万円弱。愚息が修習中で金の出入りが多い時だけに嬉しい臨時収入だ。

セザンヌの父は、画家セザンヌを理解することもなく、評価することもなかったが、銀行経営でなした財産は息子の画業を完成させる基盤となった。評価することはなかったが父は息子を愛していたのか、常に畏怖を感じる父に対して画家セザンヌは愛を感じていたのか。仮にそんな疑問をいまぶつけることができるにしても、「あの人を愛していたのかどうかなんて、自分にもわからないなあ…」と、そんな風に言うのではないかという気がする。愛など、その形は千変万化して、当人にとってすらその変化について行くのが苦痛である。

小生の部屋にある二つの本箱は、一方が昭和23年に祖父が父に贈った就職祝い、他方は父が昭和53年、小生が経済企画庁に入庁する年に東レを病気退職するとき会社から贈られた記念品である。いま自分の書籍のためにそれらを使っているが、時に本箱の前の持ち主を思い出すとき、小生は大変不幸な気持ちになる。これまた数々の親不孝に加えて、また一つの不孝をなしていると言えなくもない。

父が息子にとって愉快な思い出たりうるのは大変難しく稀有のことかもしれない。




2013年11月15日金曜日

TPP − 合意直前の紛糾か、それとも決裂の始まりか

本日の道新1面には(トップではないものの)TPPについて以下の報道がある。

TPP、米が関税全廃要求 日本受け入れ拒否(11/15 07:05)

 環太平洋連携協定(TPP)交渉で、米国が日本に対し、コメなど重要5農産物を含む全品目の関税を撤廃するよう要求していることが14日、明らかになった。日本は拒否し、重要5農産物などの関税維持に理解を求めているが、米側は長期の撤廃猶予期間を設けることを譲歩の限度としているもようで交渉は緊迫度を増している。
 交渉関係者によると、米国からの関税全廃を求める通知は今月上旬にあり、続いて行われたフロマン米通商代表部(USTR)代表と甘利明TPP担当相との電話会談や、来日したルー米財務長官と甘利氏の12日の会談でも強く迫られた。日本側はその都度、受け入れを拒否したという。
 日本のTPP交渉参加に向けた4月の日米事前協議では、米国は重要品目の自動車について輸入自由化を認めたものの、関税の撤廃時期は最大限に先延ばしすることで合意した。米国は日本に対しても、関税全廃を受け入れれば、品目によっては10年を超える撤廃猶予を認める意向を伝えているとみられる。<北海道新聞11月15日朝刊掲載>

ところがこんな情報は、今朝の日経にはなく、読売にもない。Yahoo! Japan ニュースのTPP関連一覧をみてやっと見つけた。TV朝日系(ANN)で本日の朝5時56分に配信している。TV局がニュース源というのは妙だ。ネット上の朝日新聞DIGITALにもそんな情報はない。

どこから流れた情報なんだろうねえ……と。
ただ、内閣参与をしている経済学者・浜田宏一氏が、昨日以下の講演をしている。


TPP、コメ聖域化は駄目=安倍首相の政治力に期待-浜田参与

安倍晋三首相のブレーンである浜田宏一内閣官房参与は14日、秋田市内で講演し、環太平洋連携協定(TPP)交渉に関連して「コメをカロリー確保のために必ず保護しなければならないのかが、今、問われている」と、農林水産省のコメ政策に疑義を呈した。その上で「TPPがうまく働くには、コメを聖域にしては駄目だ」と、交渉進展には日本が関税維持を主張するコメの自由化が不可欠との認識を示した。
 さらに「農協や農水省は抵抗するが、それを取り仕切ることができる政治力が、首相には求められている」と強調。「日銀の抵抗を振り切って、正しい経済政策に変えることができた首相だ」と安倍首相の政治決断に期待を示した。(時事ドットコム、2013/11/14-20:45)
これは時事通信が流しているが、道新の記事は更に具体的である。
どうなっているのでござんしょう?
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出所はよく分からないが、アメリカが自動車関税撤廃を決意し、日本は聖域5品目の関税撤廃を決意して、日米が原則合意するなら、世界の経済学者・エコノミストは拍手喝采するであろう。たとえ完全実施までの猶予期間が30年かかるとしても、関税の全面撤廃合意という結論は、それだけでも十分に日米はじめ太平洋周辺国家群の今後の「象徴」たりうるだろう。

2013年11月12日火曜日

理論は確定的なものと何故思ってしまうのか?

二人で共同担当している授業「ビジネスエコノミクス」は、ちょうど「企業経営のゲーム論」にさしかかっているところだ。ただし、ゲーム論とはいえ3時間1モジュールの授業で2モジュールとりあげるだけだから、本格的にゲーム理論を履修するわけではない。解説するのは、ナッシュ均衡とコミットメント・空の脅し、補完と代替という二つの戦略的関係、競争戦略の分類、それからちチェーンストア・パラドックスと限定合理性。まあ、このくらいを浅くなでる程度である。

明日は、その初回で基本概念を説明する予定だ。もちろん標準型や展開型、ナッシュ均衡とコミットメントの意味も大事だが、「囚人のジレンマ」(→集団合理性と私的合理性)、それから複数均衡の二つの場合、つまり「男女のデートのゲーム」(→戦略的補完性)、「タカハト・ゲーム」(→戦略的代替性)という異なった状況があるということを知っておくことが、メインテーマである。状況には色々あって、落ち着く先も一つじゃないという認識だな。

× × ×

ところで囚人のゲームという非協力ゲームでは、協調によるパレート最適が一時的に達成されることがあっても、私的利益を拡大したいという誘因を双方のプレーヤーが持つために、協調は常に不安定である。こういう結論になる。不安定な協調は持続せず、結局は双方にとって望ましくない状況が現実となるというので「囚人のジレンマ」というわけだが、ブログ「ニュースの社会科学的な裏側」には面白い投稿がある。それは、現実に囚人のジレンマで述べているように人は行動するのだろうかという疑問と検証である。
驚くべきことに同時手番ゲームでは、囚人のジレンマを回避する協力行動を、学生の37%、囚人の56%が行った。逐次ゲームでは、学生の63%が協力行動を行い、囚人はほぼ同様の数字だったという。相手の利得にも配慮する囚人は、同様の学生と比較して、相手のが自分を信じていると思う傾向があるようだ。
実際の刑期をかけたらまた異なる結果が出てくる気もするが、理論上の囚人のジレンマにおける行動と、その実験での行動の乖離は興味深いし、プレイヤーの属性の差が与える影響も興味深い。こういうニュースが広がると、ゲーム理論を元にした経済理論を現実に適応することに、不安を抱く人も出てきそうだが。
オリジナルの研究は、Menusch Khadjavi、Andreas Langeというドイツ・ハンブルグ大学に在籍する二人の研究者がJournal of Economic Behavior & Organizationに発表した論文で知ることができる。これに見るように、実際の囚人(行動実験では女囚を使ったそうだが)や普通の学生は、類似した状況で必ずしも「囚人のジレンマ」で想定するように、明らかに協調を崩壊させるような自己利益の追求に踏み切るとは限らない。そうする割合は、囚人では半分強であり、学生はむしろ相手が自分を裏切るとは思わず、故に自分もまた相手を裏切らない。そう考える傾向があるという結論だ。

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すべての理論はそうだし、特に人間行動を扱う科学はそう言えると思うのだが、人は様々な動機によって行動するものだし、その場になって意思を変更することもよくあることである。なぜ自分はそんなことをしたのか、後になって考えると後悔ばかりする。それが人間というものだろう。

相手が自分によせる信頼を-相手が自分を信じているかどうかは分からないものなのだが-信じて、自分も相手を信じるかどうかは、その人にとっての利益次第だ。裏切るほうが利益が大きいなら、裏切るのだと理論が結論付けても、100%そのとおりになるのだとゲーム理論は主張しているわけではない。そもそも、ガリレオの落体の法則が主張するように、あらゆる物が等速度で上から下に落下するなど、そうならないほうが地球上では多いのだ。

囚人のジレンマは、何度も意思決定を変更して「裏切りと報復」や「やり直す機会」が与えられれば、繰り返しゲームとなって克服することができる。ゲーム論では、こんな風に議論を拡大していくのだが、そもそも同時手番ゲームという想定の下でも、人は色々な行動をするかもしれない。その程度のロジックである。そう受け取っておくのが適切だろうと思う。実際に理論が予想する通りに人が行動するとは言えない、まして多数の人間集団が影響しあって、どんな状況に落ち着いていくか、複数の可能性が常にあって確定的な予測などは困難である。当たり前すぎて、語る必要もないが、大事な点かもしれない。

2013年11月10日日曜日

日曜日の話しー国と家族、公と私

昭和・戦前期と戦後・高度成長期という時代は、映画・ドラマを制作するとき、いま最も人気のある時代背景になっている。

高度成長は、小生自身、少年ではあったが毎年のように新しい耐久消費財が家の中に入ってきて、みるみる生活水準が上がっていったという体感が残っている。その時代を生きたという実感があるので、その時代が真に豊かであったとも思わないし、弱いものいじめもあったし、喧嘩、暴力もあったことも知っている。その時代を生きた人たちの心理を知っているので、いつタイムスリップをして町の雑談に入ろうと、話しにはついていけると思う。

それに対して、戦前期、それも戦争中となると、その時代を生きた人たちの心理や暮らしの感覚はまったく想像もできないのだ。家族の一人に召集令状がきて、町の人が「万歳」と唱えながら見送る時の思いや、戦死広報を受取り「名誉な事でございます」と口でいい、あとで泣くなどという心理は、とてもじゃないが正しい事ではないと思うのだ。政府による耐乏要求になぜ反発しなかったのか、なぜ暴動が起きなかったのか、それが不思議でならないというのが、理屈じゃないかと思う。

実際、第一次大戦におけるドイツの敗戦のきっかけは、キール軍港の水兵達による反乱であり、その遠因は司令部が自殺的な出撃命令を出したからである。その反乱をきっかけに大衆蜂起が全土に広がり、ついに皇帝カイザー・ヴィルヘルムが亡命し、ドイツ帝国は崩壊に至った。このような顛末は、ドイツだけではなく、海外では普通一般に観察されているパターンである。なのに日本ではなぜ無茶な戦争に国民がずっと従って行ったのか?こういう疑問がある。その当時、生きていた人の心理をリアルタイムで再び回想しようにも、それは難しいのだ。

× × ×

息子が二人いるが、下の方はいま東京で司法修習をうけている。間もなく法務省の最終面接をうけて内定が確定するだろう。年明け後の1月4日からは新任研修があり、以後、北海道に帰る事は一年に一度もあればいいほうだろう。「お前はお国の役に立つように、どうか使ってくれと差し出したと思っているから、あまり北海道に帰れないからと言って、おれ達のことを心配するんじゃないぞ」と。まったく、こんな風に話す小生の心理と、「お国のためにご奉公できた倅もさぞや本望でございましょう。どうも有り難うございました」と息子の死亡通知書を受け取る親とどこが違うだろう。

この春、いわきに住んでいる弟を訪れた時にこんな風な話をした。
才ある息子は、国家有為であるが故に、社会にとられて、不孝をなし
才なき息子は、国家無用であるが故に、親元にとどまり、孝をなす
上の息子は、今の時代流行の「非正規雇用」の暮らしを続けている。四年制大学は出ているのだ。それでもアルバイトでもう長い間、単純労働者としての生活を続けている。趣味はプロスポーツ観戦であり、芸能ではAKBが大好きで一人暮らしをしている市内のアパートの自室にはポスターを壁にはって鑑賞している。そんな生活ができれば、一応の欲求は満たされ、満足しているらしいのだから、よくいえば無欲恬淡、悪く言えば向上心のかけらもない。「評価」するとすれば、そんな風な「評価」なのだろう。しかし、上の息子は親の心配はともかく、ずっと近くで暮らし、仕事が休みの日には食事をともにしたり、多忙ではないので家に帰ればカミさんと携帯で話しをする。そんな風にやっていくだろう。結局、才能も意欲も根性もないが、親も子も幸福に生きているということになるのかもしれんのだ、な。

国に貢献することで幸福に至る事はないと小生は思っている。その意味で、幸福は自分自身かごく少数の家族、近親者だけのことをさす。近代社会は「幸福の追求」を全ての人が生まれながらに持っている基本的な権利であると認めるところから出発した。幸福追求の自由は、本来、お国の役に立つ事ができて本望でございましょう、と。こういう価値観とはまったく相容れないものである。こう考えたからといって、小生が無政府主義者であることにはなるまい。


シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg)、貧しい詩人

大事な価値は、一人一人の心の中にあり、自分の周囲の社会という場に自分をこえる規範があるのではない。こういう理念からはじめてイノベーションは起こりうるのであって、はじめて社会的な進歩を実現できるのだと思っている。遠くをみて暮らすのは邪道である。幸福である可能性は、元来、すべての人に平等に与えられているものだと思う。それがプチブルで、小市民的欺瞞だというなら、「言わば言え」なのだな。




2013年11月8日金曜日

「顧客志向」の落とし穴

天気予報では週末にかけて寒気団が入るというので雪になるかもしれないと思っていたが、果たして夜来風雨の声しきりというか、起きてみると霰混じりの強雨で、夕刻になって大学から帰るときには車の上に雪が積もっていた。初雪である。町の背後にある山の峰は白い薄布をかけたようだ。

まだ11月だからクリスマスまでは降ったりとけたりだろうが、来週半ばには冬タイヤに替えることにしている。

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小生の父は「いいものを作れば必ず評価される。いいものは必ず売れる。作る人間は、いいものを作ることを第一に考えるべきなんだ」と、まあそんな風に考えていたようである。人を評するのにも、純粋か、そうでないか。<動機が純粋かどうか>で、父にとっての人の値打ちが決まっていたような気もする。家で夕食などを家族ととりながら、社内の営業サイドへの不満をボヤいたこともあったが、これも一度や二度ではない。まあ、工学部を出たエンジニアは、概ねこんな見方をするのかもしれない。

小生の現在の勤務先では、作る側の論理はあまり重きをおかない。作る側の主張ではなく、顧客がそれをどう評価するかを重要視する。利益を生むのは顧客評価であり、顧客評価が高ければ製品差別化に成功し、販売価格を高めに維持し、高い利益率を守ることができるからだ。いいかどうかは顧客が決めるという論理がそこにはある。

顧客が、本当に良いものを「これはいい」と、いつかは正しく評価する能力を持っているなら、父の言い分とビジネススクール的発想は、何も矛盾しないはずだ。しかし、問題は顧客の能力だけではない。顧客に商品情報が正しく伝わっているかもカギである。そして、情報はしばしば、怠慢により、あるいは意図的に、隠蔽されたり、歪められたり、捏造されたりするものである。そうなると、顧客が選ぶ商品は、良いものどころか、とんでもないクズであったりする。

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暮らしをとりまく業界が揺れている。

たとえば偽装メニュー問題。
森雅子消費者担当相は8日の閣議後記者会見で、ホテルや百貨店などで相次ぎ発覚している食品の虚偽表示に対応するための関係省庁会議が11日に開催されることを明らかにした。消費者庁によると、首相官邸に農林水産省や国土交通省、経済産業省などと同庁の幹部職員が集まり、連携して対策を協議する。(時事ドットコム、2013/11/08-10:14)
食品の「虚偽表示」とはいうが、その本質は先日も投稿したとおり、メニューには○○と書いてそれに応じた価格を設定しながら、実際には▲▲を食材に使って利益を得ているのであるから、この行為は<詐欺>に該当する。これが物事の本質で、「虚偽表示」などと生ぬるい認識ではいけないと思うのだ、な。

むろん法に違反しているからと言って、直ちに警察が逮捕し、送検され、起訴されて刑罰が課されると限ったわけではない。実際、道交法上は速度違反をしていながら、警察は摘発せず、「流れに乗って走っているんです」と、お上のお目こぼしで得をしているケースは多い。まして違法駐車なども含めれば、山のように数限りのない「違法行為」が身の回りで観察されるわけである。そして、無理な駐車、無理な速度で走るのは、多くの場合、客の注文、顧客の要望に沿うためなのである。

そうかと思えば、冷蔵輸送サービスの「ずさんな管理」もやり玉に挙がっている。
日本郵政グループの日本郵便は六日、冷蔵輸送サービス「チルドゆうパック」で荷物の一部が常温のまま配達されていたことが判明したと発表した。九月末までの半年間で二十二件の苦情があったほか、社内調査でも保冷剤の入れ忘れなど不適切な温度管理の事例が見つかったという。

 ヤマト運輸の「クール宅急便」の温度管理問題を受け、先月二十五日に「チルドゆうパック」の集配を担う全国の郵便局に対し、温度管理のマニュアルを順守するよう指示。不適切な事例が確認された場合、速やかに報告することも求めていた。

 その結果、郵便局間の輸送などの際に保冷コンテナの管理が不十分で常温に近い状態になっていた事例や、配達の際に荷物を冷やすための保冷剤を入れ忘れていた事例があったことが発覚したという。これを受け、日本郵便はさらに詳細な実態調査に着手した。

 日本郵便は「大変遺憾であり、誠に申し訳ない。十二月にかけては歳暮の時期でもあるため、詳細な調査を実施し、万全の体制を整えたい」などとコメントした。(東京新聞、2013年11月6日 夕刊)
これは今朝のモーニング・ワイドでも放送していた。本来、冷蔵状態で依頼主から送り先までずっと輸送しなければ、水産物など生鮮品の食味は落ちるわけである。依頼主は、味を守ってくれると信頼して、そのための追加料金も支払っているのだから、その信頼を裏切って安易な管理をしているとすれば、これまた<詐欺行為>に該当する。

しかし、冷蔵状態で、スピーディに輸送して新鮮な味を全国の人に届けましょうというサービスは、そんなサービスを願う顧客のために始まったことだ。「ずっと冷蔵状態で管理するなど、そんなことは無理だ」と言って、誰も<チルドゆうパック>や<クール宅急便>などを頼まなければ、そもそも今回のような不祥事は起こらなかった。

面倒なサービスを願う消費者が悪いのか、顧客にこたえてあげようという企業が悪いのか?難しいものは難しいんです、もっと高い代価をいただきますと言えばいいのに、値段を下げろと願う消費者も悪かろう。ずっと冷蔵状態でいくとは限りません、その際はご容赦をと一言断ればいいのに、あたかもずっと冷蔵でいくという業者が嘘をついているのだと。やはり業者が悪いのか?

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相手の信頼を逆手にとって契約されたとおりの行動をとらずに安易な行動ですませることで不当な利益を得る。これは確かに<詐欺>に該当するのだが、経済学では、この種の問題は<プリンシパル・エージェント問題>として扱っている。

依頼主から見えない所で安直な管理を行う。これは<情報の非対称性>があるから出来る行為だ。つまり、サービスの提供を客がずっとモニターできないために、情報が共有されないのだ ― 美容院や理髪店なら、おかしなことをすれば直ぐに分かる。メニューもそうである。客が厨房に入っていって、確かに北海道産のホタテが使用されているか、確かにクルマエビが使われているか、見て検分するなどしないものだ。また見たとしても普通の人には分からないだろう。ここにも信頼を逆用して得をしたいというモラル・ハザードへの誘因が作り手側にある。

一般に、顧客の信頼を逆用したモラルハザードへの誘因が企業の側にあるときは、いくらマスメディアがその行為の反モラル性をたたいてみても、それほど意味はないのであって、問題の解決にはつながらない。もちろん、会社側が「現場の担当者はさぼるものである」と想定して、一律に管理を厳しくしてもダメである。管理のためのコストを投入すれば、現場のアウトプットが上がるという思考法は、練習を2倍にすれば勝ち星も2倍になるという思考法とあまり違わない。結果はモラルハザードに落ちることなく誠実に働いている現場スタッフの士気がさがるだけであろう。

今朝のモーニングワイドで準レギュラー出演者が話していたが、現場スタッフのオペレーションは、その社の組織から決まるものだ。その組織は、全社的な経営戦略から決まる。そしてその戦略は、暗黙にせよ、示されているにせよ、その社の経営目的から決まっているものだ。不祥事は「現場」で起こったが、その原因は経営側にあると見なければならない。戦場の勝敗は、戦った部隊に責任があるのではなく、作戦を選んだ司令部にある。上層部は、現場を厳しく締める欲求をもつだろうが、現場をたたいても会社は再生しない。





2013年11月5日火曜日

助け合い vs もたれあい; 知足 vs 堕落

役人稼業を37歳になる歳まで続けた。それまでは官庁という世界で仕事をした。だから「国会待機」もあれば、幹部が国会や党を回るときには風呂敷包みを抱えて「随行」などもした。ただ経済分析について色々と教わったのも事実だ。色々なことを覚え知ったのだが、いまでも残像のように残っている感覚は、経済モデルは真理かどうかというより、議論の役に立つ、そして結論をまとめる役に立つツールであると、そんな事柄である。その頃、小生が何かに書いた短文では、もっと極端なことを書いた覚えがあり、ざっといえば「経済理論は、提案したい結論にアカデミックな香りをつける装飾品であり、学問的な化粧である」とか、まあそんなことであった。とにかくニヒルだったのだ。

今年の春に亡くなった統計学者ボックスは、ボックス・ジェンキンズ法で高名であるが、彼の格言"All models are wrong but some are useful"(全てのモデルは誤りだ。ただ一部のものは(何かの)役に立つ)。この思想もまたニヒルだが、自身のブログで回顧しているHyndmanの心情は誠実さにあふれている。

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上とは相当違った話しもしておこう。

官庁で身に付いた一つの習慣は「助け合い」である。いやこれには補足がいるかもしれない。敷衍すれば「もたれあい」ではなく「助け合い」を、ということだ。簡単ではないはずだ。小生の愚息は「もたれあい」が支配している状況と「助け合い」が為されている状況をどこで識別するのか、前に聞いてみた事があるが、どうもうまく説明できなかったのだな。行動パターンではなく、個々人の精神に帰着する事柄なのか、特定の人物のリーダーシップによることなのか、どちらにしても目的合理的な戦略を実行するには、助け合いが必要だ。戦略に適した組織にすれば、「もたれあい」から「助け合い」に直ちに移行できるのか、小生にもよくは分からない。

ただ大学という今の勤務先は、研究者たるもの「真理」を求めることが個々人において最優先される動機であって、大学組織の戦略を実行するための「助け合い」をするかどうかは、実のところ二の次、三の次である。だから大学という組織では、そのマネジメントにおいて、しばしば「押し付け合い」と「もたれ合い」の状態が支配する。小生は、そんな行動パターンもまた、「アカデミック」という用語のうちに含まれるものだと理解している。

むしろ大学という社会では、自分の到達点を先に知って、知的挑戦をやめてしまうのは「堕落した」ダメな学者であり、愚直に答えがないかもしれない難問に挑戦する姿勢が何よりも尊いものである。こんな人物は役所や企業では逆に忌避されるだろう。確かに大学に適した人間とは「変人」であるには違いない。とはいえ、挑戦が失敗する時のほうが実は多いのであって— これもまた役所や企業では困った人間であるに違いない —やはりそこには自分に与えられた力量と、力量に応じた人生に満足を感じる能力がいる。つまり「足るを知る」能力がなければ、失敗が即ち不幸の原因になり、成功だけが幸福をもたらす結末になる。これはなるほど成果主義には違いないが、神様は人間社会をそんな風には造っていないと思う。この世はそんな修羅道ではないはずだ。失敗の味こそ味わい深いものであることによって、案外、大学の人間は 運命の神から公平に処遇されているのかもしれない。

本来、幸福と不幸は成功と失敗には関係しない。貧富とも関係しない。格差拡大と国民の幸不幸は無関係のはずだ。この両者が密接に関係していると考えると、あまりに情けないではないか。「富めるものは災いなり。貧しきものは幸いなり」。有名なこの言葉は、完全に間違いであるわけではない。




2013年11月3日日曜日

日曜日の話しー 父と印鑑

小生が役人生活を始めたのは26になる歳だった。大学院に進んで修士課程2年次であった時の或る晩秋の日、いまもつきあっている友人達と映画でもみたのか、銀座で飯でも食ったのか定かには覚えていないのだが、夜遅くに下宿に帰ると小生を待っていたように大家の福田夫人から「ご実家から電話がありましたよ」と伝えられた。「お急ぎのようでしたよ」と言うので何だか悪い予感がして電話をかけると母が出た。「すぐに帰ってきて、お父さんが大変なの」と、母の嗄れた小さな声が受話器の向こうから小生の耳に入った。

当時、父と母は名古屋に暮らしていた。父はずっと東レに勤務しており、結構いい具合に仕事をしてきたが、その頃は担当していた合成樹脂関連プロジェクトが失敗して、それもあってか体調も壊し、出世競争から外れた父は名古屋工場で何年も閑職についていたのだ。父の身体の色々な所の調子がおかしくなっていたのだろう。母に電話をした翌日、小生は慌ただしく新幹線で名古屋に帰って行った。

実家について小生は玄関からずっと左の端にある自分の部屋まで母と一緒に入っていったのだと思う。癌なのよ。母から聞いて思ったのはやっぱりそうだったのかという風なものだった。最悪のことというのは突然、何の前触れもなく襲うものでは案外ないのかもしれない。だんだんと不運が重なり、下り坂になって、色々な夢や未来を諦め、その果てに歩いてきた道が行き止まりになる。そんな風に物事が決まって行く方が多いようにも感じる。

修士課程2年次だった小生は、博士課程に進学したいという希望を父に説明して、まあいいだろうという回答をもらっていたのだが、事情が変わった以上、就職しないといけない。そう思って恩師や親戚、知人に相談をして、某放送局、某金融機関などの面接を次々に受けたものだ。今さらながらバタバタとして、父から見ると何を突然心変わりをして就活をしはじめているのかと。本当に見苦しく感じたに違いないのだ。恩師から勧められて「来年公務員試験を受ける」というと、役人になりたいなどと、そんな希望を一度も話した事もなかったので「思いつきで受けても通るはずがないぞ、動機が純粋じゃないな」、父からみた小生の評価は、これ以上にないほど下がっている事がひしひしと伝わってきた— 実際、いまでは役人生活から足を洗ったのだから、自発的な固い動機がなければできる仕事でもなかったのだ。

それでも幸運なことに結構な上位で合格して、現・内閣府に経済職で採用が決まると、父は心から喜んでくれた。その合格祝いに買ってもらったのが15万円程の印鑑セットである。いま使っている実印や銀行印はその時の印鑑である。名古屋では作らず、父からの祝儀を母から預かって、それをもって日本橋のデパートで注文したのだ。この同じ事をこんどは愚息にしてやろうと考えているのだ、な。で、今日の午後、隣のS市にある伊東屋のような大規模文具店に行こうとカミさんと話している所だ。

Portrait of Haydn, Thomas Hardy, 1792
Source: Wikipedia

そんな父だったが、名古屋に帰省中、居間にあったステレオ(旧い呼称だ、いまではオーディオとかコンポと言うはずだ)で、ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」のLPをかけると、何度も仕事で出張した先のドイツの心酔者であった父は大層喜んで「またあれをかけてくれ」と小生に何度も頼んだものだ。「皇帝」の第2楽章の旋律は、現在、ドイツ国歌に使われている。その時は、親父はホントにドイツ贔屓だなと思うのみで、小生も父から頼まれるのが嬉しいものだから言われるたびに居間のステレオでレコードをかけたものだ。いま振り返ると、しかし、父は何度も旅をしたドイツやスイス・アルプスを思い出していたのかもしれない、委任された新プロジェクトを軌道に乗せようと闘志をみなぎらせて訪問した先々のことは、忘れられるはずもないとは容易に推測がつく。出世街道を走っていた頃の思い出話しは決してしない父だったが、息子から昔話しをしてくれと頼まれれば、それもまた面白い、と。この歳になってみると、頼むなら話してやろう、そんな心持ちでいたのであるまいかと。当時の父よりも上の年齢になってみると、そんな風に思うようになってきた。

出世とは無縁になったが、名古屋に暮らしていた頃の実家は父と母に妹、弟をまじえ、冬が来る前の小春日和のような暖かみのある平穏な生活をおくっていた。そんな毎日は唐突に終わってしまうのだが、永い歳月が過ぎ去った今でもその頃の暖かさを懐かしく思うのだ。

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今日、2013年11月3日、大丸藤井セントラルにて象牙の実印と銀行印をそれぞれ15ミリと13.5ミリのサイズで注文する。支払額10万円。実印を個別にフルネームで彫刻してもらうと9万円の代価である。してみるとプラス1万円で銀行印がついてきたことになる。工芸品の価格はあってないようなものだ。

祖父は早くに父親を亡くし、後妻に入っていた母親ともども本家から出ることになったので、就職を祝ってもらうということはなかったにちがいない。その祖父は、小学校を卒業してすぐに伊予銀行に下働きとして雇われたが、以後努力もあって栄達した。父は祖父から昭和23年に当時としては希少な桜樹でできた本箱を就職祝いに贈られ、その本箱はいま小生の側にある。小生は昭和53年に象牙の実印、銀行印、認印で就職を祝ってもらった。今日、小生が愚息の法務省への任官祝いを注文したのだが、日本の印鑑文化もいつまで続くのか、正直なところ確かではないようにも思う。とはいえ、印鑑登録と署名押印の手続きはそれなりに確実性を持っているので、あと一代は続く慣習ではあるだろう。


2013年11月1日金曜日

メニュー誤表記問題と食品偽装問題

食品偽装問題が世を騒がせてもう何年にもなる。偽装ではないが、牛生レバーのように出してはいけない食品を出して処分される例もある。

こういう報道がある。
経営トップの辞任に発展した阪急阪神ホテルズ(大阪市)でメニュー表記と異なる食材を使っていた問題は、公表の遅れやトップの発言のぶれなど対応のお粗末さが傷口を広げた。専門家からは「問題を軽く見すぎた」「名門ブランドのおごりがあった」との厳しい指摘があがっている。(中略) 
食材偽装は平成18年3月から行われていたが、19年に大阪市の高級料亭「船場吉兆」(廃業)で食材の産地偽装などが発覚。以後、食品表示をめぐる問題で多くの業者が窮地に陥った。(出所)msn産経ニュース、2013年10月30日
確かにトビウオの卵である「トビッコ」をマスの卵である「レッドキャビア」と呼んで客に出せば、食感が違うし、味も値段も違う。「これ違うでしょう」と言えばその通りである。客は、食べたトビッコ相当価格を支払えばいいはずで、にも関わらず「レッドキャビア」であると偽って高額の代金を請求するのは<詐欺罪>に該当する。このようにメニュー誤表記問題の中には、<詐欺行為>がその本質として含まれている。この詐欺がいわゆる<偽装>と呼ばれているのであり、詐欺行為によって不当な利益が得られる以上、詐欺にあった人は損害を被っていて、その損害は賠償されなければならない。なので世間は憤るわけである。

ところが、最近の議論は本質的には詐欺かそうでないかという表示問題を「食品表示法」と関連づけて、その表示は適法かどうかという二つ目の問題に絡めて論じているのでどうも分かりにくいのだな。

そもそも食品表示法上は違法だが、その表示行為は詐欺罪には該当しないというケースはあるのだろうか。まあ、あるのだろうねえ。計画性の有無、悪質性の度合いも関係するだろうし、その誤表記によって利益を得ていたのかどうかも関係しよう。そんなことはないと思うが、たとえば北海道白老牛ステーキと表記しておいて、たまたまその日の食材がないので仕方なく松坂牛を使ってしまう。これも誤表記には違いない。

つまり誤表記という違法性とその表示行為の犯罪性は100%オーバーラップしているわけではない。もしもすべての誤表記が犯罪行為であるのなら、最初から消費者庁ではなく警察が捜査をするべきなのだ。実際はそうではない。消費者庁は、食材の産地、品種等々を正確に表示することを求めている。しかし、食材の生産者と最後の料理人の間には中間に何人もの業者が介在する。一段階経るごとに商品名が変わるかもしれない。そもそも最後の料理人は美味しい料理を食べてもらう事にモチベーションがあるのであって、料理の名前をどうするかには主たる関心を持っていないだろう。「食材名」を正確に表記させ、「料理名」は食材名を正しく反映する物でなければならないのなら、ヨーロッパの付加価値税で不可欠なInvoice(=税額証票)よろしく、各段階の商品名、産地、業者名を順に添付し、最後の料理名には調理法のみを記載し新たな情報を付け加えてはならない、と。まあ、こんな風な一般原則を定めておくしかないだろう。たとえば、単なる小エビを「芝エビ」と誤称したというので、今回の騒動の第二幕が展開されているが、第一段階の水産業者が「芝エビ」だという名称をつけて出荷しているなら、後段階の業者はその通りに表記するべきだ。レストランに誤表記があったというだけでは、レストランが誤表記行為をしたのかどうかが分からない。

今回もまた「食品偽装問題」として騒動が繰り広げられているが、喧しい割には方向性が見えてこないのは、議論にロジックがなく、表面的でなにも深まらないからである。

2013年10月31日木曜日

個々人の思想と社会全体の変化

人間一人が考え方を変えたからと言って、世間全体とは何の関係もない。世の中を変えるほどの影響力をもった人間は歴史に名が残っているはずである。ほとんどの人はそんな大人物ではない。

小生は割と永井荷風が好きでよく読んでいる—いや、そうでもないか、小説はどうも展開が遅くて最後までいかない。最初に感心したのは荷風が後半生に記した日記『断腸亭日乗』であるので相当に渋い。それから随筆へと目が向いて、先日投稿の「霊廟」のほか、「雪の日」や「狐」を何度も読み直して、非常に感心した。荷風は、怖い父親、優しい母親から長男として生まれ、周囲からチヤホヤされて甘やかされて育ち、それでも何度も転宅を繰り返しては自分の居所を失うという淋しさを経験する。そんなところが結構小生とも似ているのだ。だから共感できる下りが多い。

荷風が幼年の頃、西南戦争が終わってまだそれほど年数が経っていなかった時分、自宅の書生の田崎についてこんな風に書いている。稲荷神の使いであるという狐を殺せと荷風の父親が厳命したのに、それは恐ろしいことだと女性達が異論を唱える場面である。
その時分の書生のさまなぞ、今から考えると、幕府の当時と同様、おかしいほど主従の差別のついていたことが、一挙一動思い出される。…田崎は主命の尊さ、御飯焚(メシタキ)風情のくちばしを入れるところではないと一言の下に排斥してしまった。(出所)「狐」より引用。
 <主命>という言葉が、平成の現時点、死語となっていることは確実だ。いまでは社長の業務命令すら、厳格には通らないであろう。何が正しく、何を最優先で行うべきかという思想が変わったのだ。とはいえ、荷風が思う程の事でもない点もある。
親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想してみると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物ひとたび去れば遂にはかえっては来ない。(出所)「雪の日」より引用
親友井上と隅田川畔を歩いている時に雪に降られて入った茶屋で焼き海苔と熱燗を振る舞われた時の情景である。荷風は、あの時のような人情、親切には再びあいがたいと嘆いているが、先日の東京五輪招致の成功のキーワードが「おもてなし」であったという事を聞けば、あの世で荷風がどういうか聞いてみたいものだ。
しかし私たち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずから身を摺り寄せながら行くにもかかわらず、唯の一度も巡査に見咎められたことがなかった。今日、その事を思い返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。(出所)「雪の日」より引用
上の下りは「雪の日」の終盤、寄席でアルバイトをしていた荷風が、下座をつとめていた若い女と二人で一緒に帰る事にしていたところ、ある夜、急な雪で難儀をしたときのことを70歳近くになってから回想しているものだ。

日本は、戦前期・昭和に軍国主義の台頭を抑えきれずに失敗しただけで、他の時期は明治から大正にかけて奇跡のような近代化を成し遂げた。歴史の教科書のとおりにそう思いがちだが、明治と大正を比較しても荷風のように世の中はずいぶん違っていたと感じる人物がいたのである。そう言えば夏目漱石は「日本は滅びるね」と「三四郎」の中で暗闇の牛に言わせている。明治が終わると、日本人の心の中には人を疑う気持ち、人を羨んだり、妬んだり、憎悪を感じる気持ちが強まっていた。日本の近代化の一つの曲がり角がそこにあったわけだが、その風潮は直ちには方向が戻らず、昭和前期にかけて益々強まる一方になった。リアルタイムでこんな感想を持つ人がいたことなど、案外、知られてはいないのじゃないかと思うのだ、な。

経済発展は、一直線にはいかず、ジグザグの進路をたどるものだ。グローバル化は19世紀に非常に進んだが、その果てには帝国主義と民族主義が興り、ついには世界大戦になった。進歩は必ず反動をまねく。日本の明治期・経済発展にも反動はあった。反動は、個人個人の心の中では<反発>として芽生える。<憎悪>として育つ。共有されたその情念が、いつの間にか日本人自らが歩む方向を変えてしまうのである。人間はいつでも自分の歩む方向が正しいと信じたいものだ。言っている事ややっている事が正しいと信じたがるものだ。日本人を駆り立てている真の動機と意図が何であるか、何かの目的が共有されているかといえば、そんな共有された理念などはない時代のほうが案外長いのかもしれない。世の移り変わりは、ずっと経ってから初めてわかるものなのだろう。

こんな風にさまざまな事を荷風は回想しているが、
東京の町に降る雪には、日本の中でも他所に見られぬ固有のものがあった。…哀愁と哀憐とが感じられた。(出所)上と同じ
この下りをみて、小生は覚えず以前にみたチェ・スジョン主演の韓流ドラマ「初恋」の中の一編「ソウルの雪」を思い出した。雪の日の思い出は、多く人にあるのだと思うが、それは国籍や時代を問わないもののようで、それ自体が不思議に感じることがある。


2013年10月29日火曜日

足元の雇用状況

総務省統計局から「労働力調査(9月分)」と「家計調査(9月分)」が公表された。そのポイントは

  • 就業者が1年前に比べて51万人増加した。
  • 完全失業者は1年前に比べて17万人減少した。
  • 完全失業率は、男性が4.3%で前月に比べて0.2%低下。女性が3.5%で同じく0.2%低下。
  • 消費は、1年前に比べて実質3.7%増加。

雇用機会がこの1年で50万人分増加したという数字は、リーマン危機直前の2007年以来の良い数字であって、政府にとって何よりプラスになる広報材料であるに違いない。失業者の減少以上に就業者が増えているのは、非労働力から新規就職する人たちが増えているからだ。消費の実質3.7%増加には、相当イレギュラーな成分が含まれているだろうが、これを差し引いても良い数字である。

新聞報道によれば、これ以上の大幅な失業率低下は困難であるという判断で、総需要ではなく職種ごとの需給ミスマッチを解消する(=求められている人材が供給されるように職業訓練を拡大する)ことが重要だと見ている模様。

とはいえ、労働市場が全体として均衡を回復して、失業率の低下に限界が意識されるようになったから、人手不足にある職種から順に賃金が上昇していくものと予想する。ある職種の賃金が上昇に転じれば、賃金上昇が職種間に波及していくはずであるので、現時点は永年の<賃金・物価デフレーション>に転機が訪れる直前の段階なのかもしれない、と。アベノミクスの効果については、専門家もいろいろと議論が喧しいが、小生はそう見ているところだ。

もちろん賃金・物価デフレーションが、賃金・物価インフレーションになったからといって、高齢化する日本経済の問題がそれだけで解決されるわけではなく、財政再建が保証されるわけではない。それには別の実質を伴った政策が必要だ。

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それにしても、同じ一人の患者の病状診察と治療方針について、専門家がエコノミストのように、これほどまでに甲論乙駁するだろうか?他分野の人たちにはとても信じられないだろう。

確かに医学においても東洋流儀の漢方薬や鍼灸治療があって、西洋起源の現代医学とは別の世界を構成している。それでも、しかし、鍼灸院に行けば、まずはレントゲンやMRIで異常が見つかっていないかどうかを先に確かめるのだ。「こんな考え方は原理的に誤っている」とか、「あんなモデルに基づいて説明するのは根本的に間違いだ」とか、本質的な対立が長期間にわたって持続するのは、つまりはその分野の専門家を納得させる<決め手>にどの理論も欠けているからである。そもそも経済現象には理論では説明できないノイズが、最悪のケースでは半分程度を占めるものだ。経済現象の本質的な部分を<理解>したと豪語したとしても、今後の進行を<予測>するとなると「色々な要因が入ってきますから厳しいんですよね」と。やれ<反証>が見つかったと言ってはみても、その検証方法は統計的には稚拙であると再反論する余地は常に残っているものだ。

そもそもGDPという国民経済の行く末を考察する際に、一定の増加トレンドの周りで定常か(Trend Stationary)か非定常か(Difference Stationary)、そもそもGDP水準は確定的なドリフトもない非定常プロセスなのか、いつからいつまでのGDPデータに基づいて判断するかで結論は変わってくる。生産性も同様、技術進歩のスピードもそうである。小生は<群盲、象をなでる>情景をよく連想するのだ。

むしろ論争と対立から理解と協調へと、国家戦略の方向軸を変えることによる<心理的効果>の方が、社会科学的知見に基づいた個別の実証的・臨床的な政策よりは大きなパワーがあるのかもしれない。そんな風に思案している今日この頃である。もちろん間違った経済観、世界観の下に理解と協調を演じてみても、20年、30年という長期的なスパンの中では、いずれ失敗することは確実である。それでもなお不確実な状況で、戦略的議論を行う仕組みを作り、その仕組みを機能させていくことの効果は、「社会科学の進歩」を超えるパワーを持つのかもしれない。こんな風にみれば、経済学の競合分野は法学でも政治学でも経営学でもなく、社会思想ではないか。ま、これは本日の思いつきの覚え書ということで。

★ ★ ★

諸般の事情があって、このブログは当面の間、限定公開にすることにした。

いまは知人にも見てほしいので一般公開しているが、元来は毎日の個人的な覚え書きだ。誰が読んでも「思い込み」を書いているわけではないと知ってほしいので、極力ロジカルに書くように努力しているのだが、それでも先日のように異論をもつばかりではなく、小生の文章が公開されていることが許せないと考える人も出てこよう。

外国のことならよいだろうが、日本国内の具体的ケースを素材にしながら、すべての人に受け入れてもらえるような書き方は不可能である。特にTPPや消費税率引き上げ、年金減額など、これらの政策ゲームはゼロサムゲームの側面をもつ。何を書いても、一方には味方となり、他方には敵となる。敵は気に入らない議論を、それだけではなく書いた人間を攻撃するだろう。生活がかかっているからだ。

小生一人なら丁々発止戦うのもいいが、トラブルが拡大して万が一愚息の仕事のマイナスにでもなってしまえば、議論が議論でなくなり、相互の生活基盤をかけた紛争になる。やりたいことはそんなことではない。現時点では、状況が余りにVulnerableである。

なので、今回投稿を最後として、次回投稿を機にしばらくの間はグループ限りの限定公開へ移ることに決めた。その内、投稿数が1000回の大台に乗り、小生にも一つの区切りが来る。その頃には周囲も落ち着いてくるので安心して一般公開しながら思ったことをそのまま率直に書き続けて行きたいと思っている。

2013年10月27日日曜日

日曜日の話し(10/27)

一昨年の初冬、小生とはわずか七歳違いの叔父が急逝したという電話があって吃驚した。確か週の半ばであり、通夜には出られず、その後の進め方を世間の相場で予想して、同じ週末に葬儀・告別式があるのであろうと断定して飛行機で上京したものである。ところが、石神井にある叔父宅を訪れると叔母が出てきて、まだなのだという。斎場の順番を待っていて当分かかるのだという。棺も自宅にはもうないのだという。そういえば、最近の首都圏では葬儀を行うにも順番待ちをしているのだと何かの記事で読んだことがあるのを思い出した。それで僅かな香典と幼少時に叔父と二人で撮った古写真を預け、また彼岸頃にうかがうからと言い残して、北海道に戻ったのだ。

落胆しながら、芝の増上寺に立ち寄って、辺りを散策してから帰るかと思いついて境内に入ると、どういう拍子か、滅多に開いていない境内裏の徳川家霊廟が開放されていた。「まあ、これでも見て帰れや」と叔父が言っているのかと不思議な感じがしたが、永井荷風の随筆『霊廟』に書いてあったある下りを思い出した。もちろん文章を暗記していたはずはなく、帰宅してから確認したのは以下の箇所だった。

ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏蘭西の地層から切り出した石材のヴェルサイユは火事と暴風と白蟻との災禍を恐るる必要なく、時間の無限中に今ある如く不朽に残されるであろう。けれども我が木造の霊廟は已にこの間も隣接する増上寺の焔に脅かされた。凡ての物を滅して行く恐ろしい「時間」の力に思い及ぶ時、この哀れなる朱と金箔と漆の宮殿は、その命の今日か明日かと危ぶまれる美しい姫君のやつれきった面影にも等しいではないか。
 (出所)「永井荷風はこれだけ読め!」(Kindle版)所載、『霊廟』から引用

荷風は「まず順次に一番端れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣りする二代将軍の霊廟」を参拝している。これらの霊廟群は火災からは免れたものの、太平洋戦争時の空襲ですべて灰燼に帰したので、まさに荷風が予感したとおり、全ての物を滅していく恐ろしい「時間」の流れの下に沈みゆく運命をたどったわけである。


有章院(七代将軍)霊廟

現在は、上の写真に見るような、荷風が目にしていた建築物はもはやない。一部の燃え残った門が、東京プリンスホテルの敷地の一隅に残されているだけである。それでも墓所としては、増上寺の境内裏に集められて祀られている。叔父が亡くなって、葬儀に出席しようと上京して、それが空振りに終わったおかげでそこに参拝することが出来た次第なのだ。

小生がまだ四国・松山市近郊の漁村で暮らしていた時分、休みになると松山にある父の実家に遊びに行き、まだ中学生か高校生であったその叔父は、やれ蝉取りだとか、トンボとりだとかに小生を連れ出したものだ。小生が鳥もちで蝉をとるのを覚えたのは、その叔父のお蔭である。小生が父の転勤で伊豆・三島で暮らしていた頃、半月もあけずにわが家を訪れては、小生や弟妹たちの遊び相手になってくれたが、その頃叔父は立教大学の学生であり、東京から三島までは近くはなかったはずだ。それでもあれほど足しげく来てくれたのは、叔父が父の末弟であり父とは19歳も違っていて、叔父にしてみれば兄である父よりは、小生達とのほうがずっと会話しやすかったせいかもしれない。亡くなった時の叔父の遺影は、しかし、若いころの風貌とは様変わりで、むしろ小生が記憶している祖父の顔貌を思い出させるものだった。永年の無沙汰をその時ほど感じたことはない。

2013年10月26日土曜日

断想–思いついた事

「国立大学の授業料は、原理からいえば、無料でいいのですよ」と会議で発言していた先輩は既に引退してしまい、そんな意見をいう人はもういなくなった。聞いたその時は「それは経済の規律に反するだろう、受益者負担が本筋だ」と思ったのだが、その後だんだんと考え方が変わってきた。

最近、感じることの第一はトップマネジメント層の<デリカシーの欠如>というか、<鈍感>、<勘の悪さ>だ。現総理にもずっと以前から感じているし、それは結局、カネで苦労したことがない、親が病気になったり、いなくなったり、家庭の都合で何か大事なことを諦める辛さを味わったことがない、生きるための涙を流した経験がない、そんな風に順調に成人できた人が、余りにも多く日本の組織の上層部を占めるようになったためではないのか。そう感じることが増えた。つまり、世代交替を繰り返すたびに指導層は中流上層部(Upper-Middle)以上に限定されるようになってきてしまっているのじゃあないか。「法律専門家って、お金がないとなれないよねえ…こんなんじゃ、お金をもっている顧客の気持ちしか理解できなくなるのじゃないかねえ」、カミさんとそんなぼやきを言うことが増えたせいばかりではないと思うのだ。

小生と同年輩で亡くなった義兄は医師であったが、国立大学医学部の授業料は年間5万円も ― 当時の貨幣価値を考えても十分安い金額だ ― かからず、世帯主を亡くした家庭であっても下宿をして十分卒業可能な進路だった。現在は、国立大学といっても授業料だけで年間50万円強である。それでも私立大学に比べて不当に安いと批判されているが、この不平等よりも、国公立大学の授業料引上げがもたらした結果を重視するべきだと感じるようになった。

国公立学校プラス返済義務のない奨学金で一流の高等教育を受ける機会を一定数かつ十分な数、別枠で提供しておくのがよいと今では感じている。税で支えて他人の(将来性ある)子を育てるわけだが、支えてもらった子は国に感謝の気持ちをもち、その果実は皆に帰ってくると思うのだ、な。その人の出世を税金で助けるなどと狭量な気持ちをもつべきではないと思う。昔も今も人材は等しくこの世に生まれているはずだ。そして生まれる家は貧富を問わないのだ。社会が育てれば大きな花を咲かせる人材を、万が一、社会の底辺に沈むに任せるなら、これほどの人材の浪費はない。

× × ×

以前の投稿にクレームがつき管理者であるGoogleの裁量で削除されたことがワダカマリになっているわけじゃあないが、不特定多数が閲覧可能な文章でどこまで書けるかである。

もちろんマスメディア、出版業界は、ビジネスであるので「表現の自由」、いや「報道の自由」があると言っても、弱者である個人に配慮するというモラルは持つべきで、言っていいことに一定の範囲はあると思う。

しかし、個人として意見を表明している文章を閲覧できないようにする権利が、社会の側にあるのかというと、決して自明な問題じゃないと思うのだ。ブログで公開してはいけないというなら、印刷物を広く配布するのもダメだという理屈になる。演説をするのもダメだという論理になるだろう。他人を根拠なく誹謗中傷するのはなるほど違法だ。しかし、社会で起きた事柄を話題にして正邪善悪を語るとき、「自分は攻撃されている」と感じる人は当然いるであろう。不愉快な感情を与えるだろう。「だから、そんな話題をとりあげるべきではない」という結論にはしないというのが「表現の自由」ということではないだろうか。個々人の感情を超えて、社会として議論の自由は保障しておく。この理念が先にあると思うのだが、どうだろうか。

× × ×

昨日の投稿とは別に、景気の一服感があると政府は認識しているようだ。10月24日に公表された政府の「月例経済報告」では次のように表現を変更している。


輸出が足踏みしているが、企業経営者の心理面は大いに好転しているという状況だ。心理面が好転すれば積極的な経営戦略をとるようになろう。しかし、それが国内投資になるかどうかは不確定である。日本をビジネスの場にしようという企業は、国内勢だけではなく広く海外から招待するのがベストである。もう20年くらい、こんな話しをずっと続けている。もうやってもいいのじゃないか。


2013年10月25日金曜日

足下の景気を確認ー先行指数

昨年はもう少し立った頃から突然に株価が上昇し始めた。まず自民党の総裁選で安倍氏が勝ち、次に消費税率引き上げと引き換えに当時の野田首相が約束したとおりに解散しようと言い出し、年内に総選挙があることになり、予想もしなかったアベノミクスが実行に移される。そんな期待先行のミニバブルが日本で発生したかと思ったのだが、世界的にも株価が上昇していた。これも米中をはじめ主要国(=大国)で選挙が終わり、なにか新しいことが実行されるかもしれないという、そんな期待で騰がっているのだろうと本ブログに投稿した記憶がある。

最近は…どうも株価があがりそうで上がらないのだ、な。期待で上がってきた分、実体面の裏付けがないとなれば、株価が下がるペースもはやかろう。どうも心配である。それで、まずはOECDのCLI(=先行指数、Composite Leading Indicator)をみてみた。


Source: OECD DataLab - StatExtracts

上の図を見ると、日本、US、ユーロエリア、G7、Chinaなど、回復ペースに違いはあるものの全体的に経済活動は上向きであり、明らかに景気後退に陥っているのはブラジルと韓国のみである。グラフが見づらくなるので多数の国を省略しているが、足下の経済動向に心配するべき停滞はうかがわれない。

本日の道新に『コメ減反、見直し着手—所得補償減額を検討』と見出しが出ている。3面の解説には「農政、転換の可能性」が指摘されている。減反政策とは、コメの販売価格を高めに維持するための数量戦略である。この戦略は、日本の国内市場を国内農家が独占していることによって成立する。どうやらTPP発効後に備えて政府は下準備をはじめたようでもある。先日も日本の家庭の平均収入はドル換算で韓国の2倍に達しているにもかかわらず、毎日の食費に割かざるをえない比率、つまりエンゲル係数は逆に韓国の方が低く、日本の家庭は収入の割にゆとりがないという点を書いた。本筋に沿って議論が進んでいるように思う。経済は段々と良くなって行くとみる。

それにしても、保有しているアメリカ株と日本株。いつの間にかアメリカ株の時価評価額が日本株を逆転してしまい、半分以上はアメリカ株でもつようになった。とにかくアメリカ企業は成長しつつあり、日本企業は現状維持。この勢いの差が株価にも現れる。日本の制度が悪いのか、日本企業の活力が乏しいのか、何が問題なのか指摘するのも難しいが、これではまずい。

2013年10月22日火曜日

学力テスト結果公開の是非?

静岡県知事が学力テスト結果を学校別に公表するべきだと発言して以来、結果公開の是非について論争が行われている。その中で、文科省は学校別成績を公表できる方向で実施要領を修正する検討に入ったということだ。えらく手回しがいいねえ……、小生はこんな風に背景を読む癖が身についてしまっているのだが、的外れかもしれない。

学力テストの成績公表については、たとえば産経新聞は次のように(基本的には)賛成論を展開しているので、個人的に関心をもっていた。
小中学校で実施される全国学力テストの結果を教育現場にどう生かしていくべきか。
 学力テストの一部科目で今回、47都道府県中最下位だった静岡県の川勝平太知事が、全国平均を下回った学校については校長名を公表すると述べたこととも絡み、議論を呼んでいる。
 学力テストの原点は、教育現場のレベルを高め、児童生徒の学力向上に役立てることにある。川勝氏の方式で学力伸長がはかれるかどうかは疑問だが、結果は、自分たちの学習到達度を知る上でも、基本的に公表するのが筋だろう。文部科学省は、その方向であらためて検討を進めるべきだ。(出所)MSN産経ニュース、2013年9月30日
細かいことをいえば、<結果の公表>を行うのか<情報の公開>を行うのか、ここを明らかにしておく必要があるが、これはまた別の論点だろう。

静岡県知事は、全国平均を下回った学校については校長名を公表するという方針でもあったようだ。それはともかく、「自分たちの学習到達度」を知りたいのは、色々な立場の人がもっている願いであろうというのが賛成論の骨子だ。

小生も、職業柄、テストやレポートを評価しては成績をつけている。つけた成績は、最終結果だけでなく、できるだけ細部まで学生たちに分かるように努力している。学生たちの多くは、自分の評点をはやく知りたいようだ。悪ければ、悪い理由を分析し、良ければ自分の勉強方法に自信を感じるだろう。それは学習上、良いことだと思う。

しかし、学力試験の結果公表論争は、上のような内容の議論ではない。受験生個人に評点、校内順位、全体順位などを伝えるのではなく、学校別に成績を公表するというものだ。このような手法が、どんなメカニズムで生徒の学力向上に結び付くのか、決して自明ではないだろう。

また、公表するのは筆記試験の得点だけであって、子ども達が成長する過程で身につけるべき性質、参加することが望ましい活動など、筆記試験の得点以外の色々な次元については、なにも評価せず、フォローもしないのですかという疑問も出てくるだろう。

上の記事を読んで思い出した本がある。ずっと昔に読んだ本だが、著者は田辺英蔵という人だ。タイトルは残念ながら思い出せないが、確か『リーダーシップ・・・』のような語句があったかと思う。田辺氏は、ホテル経営者でありながら、日本では高名なヨットマンであり、同時にスキューバ・ダイビングの草分けである。氏が、月刊雑誌『KAZI-舵』に連載していた「キャビン夜話」は、小生も若いころ多少ヨットに乗っていたこともあるので、毎月楽しみにしていた。単行本も買い揃えた。そんな田辺氏の文章なのだが
一般にレストランの客の入りは、経営者たるオーナーの責任であり、シェフの責任でも、ホールの責任でもない。
こんな風だったと記憶している。これを敷衍して、一般に戦争の勝敗の責任は、国の指導者の責任であり、戦場で戦った隊長や兵士の責任ではない。こんな風に応用することもできよう。もちろん、<一般に>である。

学区制が設けられている都道府県、市町村において、その学校の学力テスト平均点がいかなる順になるか。その順位を上げるのが、それ自体としてはいいに決まっているが、そのために学校の校長や教員が努力できることは極めて限定的である。というか、現場のスタッフで何とかなる余地は、小生は、ほとんどないのではないかと思案するのだ、な。仮に、学区制が廃止されて、家庭は子供を通学させたい学校に入れることができる、そうなったとしても現在の教育システムの中で、校長先生が単独で出来ることはほとんどない。小生の毎日の感想はこんなところだ。

寧ろ知事がそう考えるなら、静岡県が全体として、学力向上戦略を練りあげて、いくつかのモデル地区を定めて、新たな教育プログラムを導入するやり方が、もっと効果的だと思う。もちろん、その試みと目標を県民が了解している必要があるし、学校現場の運営責任者は、その戦略の意図を正しく理解したうえで、具体的なプランを実行する有能な校長でなければなるまい。

× × ×

今年2月の投稿が法的あるいはその他の基準に抵触してブログから削除されたとの通知がGoogleから届いた。タイトルもまるごと削除されたので、何を書いたのか覚えていないが、Googleが案内する手順によって調べてみると、そのうち詳細が確認できるようでもある。

これまた上の話題に似た事柄であって、誤りがあるなら、どこがどんな意味で誤りであったのか知りたいと感じるのが自然であり、「ならぬことはならぬのです」と服従を強いるのはアンフェアだろう。社会的マナーは、全うなブログ投稿者であれば自然に守ろうとするはずであるし、そうであれば何も社会的な問題はないというのが小生の立場だ。時に覚えずマナーに違反した際には書き手は謝罪をするべきなのである。もちろん小生もそうであり『本当に失礼なことを申し上げました』と言わなければならない。しかし、小生がしらずhurtfulないしillegalな記述をしていたとしても、それを謝罪ないし弁明する機会は(あまりに匿名のスパムコメントが多すぎるので今はGoogleアカウントもしくはOpenIDコメントに限定しているが)コメント欄で設けていたはずである。今回のことが仮に「このような見解を不特定多数が閲覧可能な形で述べるべきではない」と、匿名の権力がまるで憲兵のように活動していることの現れであるなら、覚え書きのようにブログを書いていこうという最初の目的とは相いれない。

縁があって、ずっとGoogleで書いてきたが、この世界が自分に適した世界であるのかどうか、時間がたてばやがて分かっても来ようと思うのだ、な。

2013年10月20日日曜日

日曜日の話し(10/20)

朝方夢をみる。貿易財市場の需要と供給の議論を誰かとしていて、需要曲線の方にはキンクがあり、ある価格以下で垂直になっている。円高になると輸入財は割安になるが、円高の度が過ぎると輸出産業への打撃が表面化してGDPが低下するので、輸入財への需要は増えない。それで世界のGDPは…、何だかそんな理屈を一生懸命にこね回しているのだ。大変、疲れる夢である…休息にならない。そう言えば、日中に解けなかった数学の問題を、小生、夢の中で解いたことがある。そのときは、いいタイミングで目覚め、まだ解き方を覚えていたので実際に紙のうえに書いてみた。そうしたら本当に解けていたのだ。「オレは天才かもしれないなあ」と思ったが、一度だけであった、そんなことは。

夢の中に母が登場するのは、母が亡くなる前からそうで、それはいいのだが、しかし何かを母と話していた夢は覚えていないのだ。父が仕事に行き詰まり体調をこわし、家にいる時間が増えてきた頃、ある朝小生の夢にでてきた母は窓辺のカーテンの端にいて、じっと立ち尽くして外を見ていた。夢をみている小生自身は、その夢の中にはいない様子で、ただじっと何をするでもなく寂しそうに佇んでいる母の姿を夢に見ているだけだった。このことをずっと覚えていたのだが、はるか後年になって家に帰ると、窓辺から外を見ていたらしい母が「おかえり」と言ったあと、また外の方に顔を向けてそのまま立ち尽くしていた。父が亡くなってあまり日数がたっていなかった頃のことである。今から30年も昔のことになってしまったが、その情景はこれからも忘れられそうもない。

絵画をみれば人物がそこにいる。肖像画もあるし、風景画であっても点景として人がそこにいるものだ。しかし、ほとんど多くの場合、人は画家の方を向いているものである。モネの風景画に出てくる人物はまさに点景としてであって、人とモネの間に交わされる思いがテーマになっていることはない。それでも人は画家をみている。マネもそうであるし、セザンヌもそうだ。人を描くとき、画家はその人の顔をみて、目や口を描いている。小生が夢に見たような「背を向けた人」を描き、何かを表現している作品はあまりないのだな。

エドガー・ドガは、絵の中にいる人と目を合わせていない、後ろ向きの人間の佇まいを描き、そのことで美しさとそこはかとない孤独を表現している芸術家だと気がついた。


Degas, Two Dancers In The Studio I

確かに主たるバレリーナは背を見せていないが、画家ドガを見ているわけではなく、こんな描き方でドガは二人の少女を描いていることになるのかというと、描いているのは人間ではないとあの世にいるドガが答えてきそうだ。寧ろこの絵を見る人がいだく思いは、背をむけた右側の少女の表情、心の中の感情へと向かうだろう。画家ドガは、一歩下がって、描く人に徹している。その分だけ、画家のいる世界と画中の人物がいる世界は、遠くにある。


Degas, Racehorses at Longchamps
Source: 上と同じ

この作品は、多くの人物がいるものの人物画(Portrait)ではなく、風景画(Landscape)にカテゴライズされているのだが、確かに誰もが人物画ではないと納得するだろう。それにも関わらず、やはりこの作品は人物がおらずして成り立たないわけで、描かれているのは背をむけて馬を歩ませて去る騎手達の姿である。

共通しているのは、バレリーナや騎手とドガが目を合わせているわけではなく、というかそもそも絵の中の人物にはドガという画家の存在が見えていないという点である。その意味で、絵の中の人物と画家は別の世界にいる。孤独と寂しさの香りがするのは、夢をみる人と、夢でみられる人が別の世界にいるのと同じ論理、同じ関係に支配されているからだ。そこに人がいて、親しさや愛しさを感じるのだが、それでも話しかけようもない自分は、この世界に一人でいる、そんな淋しい孤独をドガは描いている。



2013年10月19日土曜日

靖国参拝 ー これって「心の自由」のことなのか

またまた靖国神社が世を騒がせ、日本ばかりではなく、中国、韓国から抗議を招いている。真榊を奉納した安倍総理も「迂回参拝」だなどと批判されているようだ。アメリカも靖国については無関心というわけにはいかない様子である。

ところが・・・・・


新藤義孝総務相は18日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。17日からの秋季例大祭に合わせたもので、参拝後、記者団に「個人の立場で私的参拝を行った。(玉串料は)私費で納めた」と説明。「個人の心の自由の問題だ。(参拝が)外交上の問題になるとは全く考えていない」と強調した。…… 一方、超党派の「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)のメンバーも18日午前、集団で参拝した。尾辻氏や高市早苗自民党政調会長、加藤勝信官房副長官らが参加。同会によると、自民、民主、日本維新の会、みんな、生活の各党などから計157人が参拝した。 (出所)時事ドットコム、2013年10月18日
総務相は「個人の心の自由の問題」、百数十名の国会議員が集団参拝したが、こちらは「みんなで参拝する」というのが狙いのようだ。「みんなで」とは言うものの、何かをきけば「個人の心の問題でしょ」と答えるのは目に見えている。

「心の問題」とはいうが、恋愛は自由だといって議事堂内で同僚議員とキスをすれば、その議員は非難されるだろう。この場合は、行動と場所が問題なのであり、人を愛するという心に罪はない。しかし、靖国参拝を「心の問題」と主張する議員は、その行動から外交問題を引き起こしているのに加えて、言っていることに<嘘>が混じっている可能性がある。

心の問題で意味している内容が<信仰>であったとすれば、「自分は国家神道の信者である」と言っているのと同じである。いくら心は自由でも「大東亜共栄圏の精神自体に間違いはなかった」と公に発言すれば、議員辞職するのが当然であるという戦後レジームを知らないはずはあるまい。それこそ変えたいものなのだと考えているなら、最初から「靖国参拝を問題視するその体制をこそ変えたいのですよ」と言えばいいのである。

<信仰>ではないというのなら、スピリットの事柄ではなく、俗世に関すること、言っている人が議員なのだから職業に関すること、要するに<票>であろう。右翼の票が欲しいために靖国参拝に名を連ねて、「心の自由の問題です」と言っておく。もしそうであれば、これは<欺瞞>であり、票が欲しくてやむなく参拝している以上はその議員に心の自由などはない。だから、<嘘>をついていることになるのだ。

靖国を支持する真の国家主義者などいても数名ほどであろう。永田町にサムライがいるとは思えない。ただ参拝して、黙して語らず、思想を伝えようともしない自称、いや現職であるには違いないか… 、国会議員たちは単なる烏合の衆のようにどうしても見えてしまうのだな。情けない……。これでは英霊達も泉下で涙が襟を潤し顎を伝わるであろう。

2013年10月17日木曜日

消費税率、エンゲル係数 ― やるべき議論で放置していること

多少旧聞に属するが、消費税率引き上げに関する記事を一時保存フォルダーにとってあった。以下がそれだ。
産経新聞社とFNNの合同世論調査では、来年4月の消費税率8%への引き上げに対する容認論が強まる中、女性は男性に比べて反対論が強く、男女差がくっきり表れた。特に、子育て世代とされる30、40代の女性は増税に反発する傾向が際立っており、消費税増税が子育て支援の強化につながらなければ反発はさらに大きくなりそうだ。 
調査結果を男女・世代別に分析すると、消費税率引き上げと経済対策を表明した安倍晋三首相の方針に対し、男性の54・0%が「支持する」と答え、「支持しない」の40・8%を大きく上回った。一方、女性は「支持する」(48・2%)と「支持しない」(46・4%)で評価が割れた。20代、30代、40代の女性はいずれの世代も「支持しない」が過半数に達した。
 消費税が増税される来年4月以降に家計の支出を減らすかどうかについて、「減らす」と答えたのは、男性では54・9%、女性は62・3%だった。女性のなかでは、20代の52・5%が「減らさない」と答え、「減らす」(44・3%)を上回ったが、40代は子供の教育費負担などが影響してか、72・6%が「減らす」と回答、世代間ギャップが浮き彫りになった。 
 平成27年10月に消費税率を10%に引き上げることに「反対」というのも、男性は58・0%にとどまり、女性は67・5%を占めた。女性は各世代で3分の2以上が税率10%に反対し、「賛成」は23・6%にとどまった。
(出所)産経新聞、2013年10月8日

収入一定で消費税率が上がれば、当然、増税分だけ出ていくお金は増えるわけだから、貯蓄を減らすか、購入数量を減らして消費金額を一定に維持するか、二つに一つか両方を少しずつ実行するしかない。

ただ、子供世帯の家計が苦しくなれば、孫の教育費や出産や進学、病気などの場合の経済支援、普段の仕送りなどの形で、年金を受給している親世代から子供世代への移転が行われるだろう。だから、今回の消費税率引き上げのかなりの部分は、親世代が節約することによって、負担を引き受けるのではないかと小生は予想している。負担がどこに落ち着くかは分からないが、確実なのは、国の財政収支が少々改善される。この点だけは確実である。

しかし、消費税率をたかが5%から8%に上げるという文字通りのマイナーチェンジにこれだけ騒ぐのは不自然である。厚生年金や国民年金の保険料も「税金」と呼ばれてはいないが税金と変わらないからである。その年金保険だが、年金積立金が少なからぬ額に達している。そしてその積立金は、保険料が引き上げられた後、なおも増え続ける-積立金が増えるというのは支給以上に保険料を徴収しているからだ-この年金財政見通しは厚生労働省のホームページでも解説されている。

シミュレーションによれば、今から30年後の2045年に積立金は最大値に達する。厚生年金で200兆円余り、国民年金で概ね10兆円程に達し、それ以降は徐々に取り崩しが進み、100年後には1年分の給付費を準備金として用意する状態になる。100年後に1年分の支払準備金を用意する状態になるのであれば、なぜもっと早い段階でそうしてはいけないのか。こんな疑問を持つ人も多かろう。そもそも最近の社会保険料率引き上げを、どの程度、国民は議論したのだろうか。積立金を増やすためには保険料アップが必要なのだという説明を国民は本当に了解したのだろうか。消費税を10%まで引き上げるのであれば、年金保険料率も見直すべきではないのか。なぜ誰もこの質問をしないのだろうか。保険料は、最後には自分のところに戻ってくるから上げてもいいのだ、と。若い人たちは本当にそう思っているのだろうか?

× × ×

昨日のビジネス経済学でも、なぜみんな議論しないのだろうという話題があった。それは「エンゲル係数」である。日本のエンゲル係数は他の先進国に比べて、現在、高止まりしている。日本人の暮らしに余裕がないのは、必需的な支出割合が高く、裁量的な支出に回す余地が少ない、特に食費の割合(=エンゲル係数)が比較的高いことが主因になっていることは、以前から指摘されている。もっともエンゲル係数が低いのはアメリカで15%程度だ。それからオランダが18%、ドイツが19%、日本は23%である(出所はここ)。生活水準が上昇するにともなって下がるはずのエンゲル係数であるのに、韓国のほうが22.7%と日本を下回っている。これが昨日の授業では話題になった。

小生: 日本のエンゲル係数をアメリカ並みに下げることができれば、日本の家庭は非常に豊かになります。たとえば年収が500万円の家庭のエンゲル係数が23%から15%に下がるとしましょうか。これは食費が40万円節約できることと同じです(分母は総消費であるべきで、これだと貯蓄を入れてるじゃないかとは言われるだろうが、要修正額は小さい)。毎年のボーナスが40万円増額されるのと同じ効果をもつでしょう。この40万円で、たとえばスポーツジムに入るかもしれません。芸術活動にお金を使うかもしれません。高級オーディオを買うかもしれませんね。翌年は好きな食器をそろえるかもしれません。母親はパートを減らして、子供たちと一緒にいる時間を増やすでしょう。こんな風に日本の家庭のエンゲル係数を低くすることは、政策技術的に可能なんですよ。何をすればいいと思いますか? 
学生: 食料品の価格を安くすれば出来るのではないですか? 
小生: 具体的に、そんなことが可能なんですか? 
学生: TPPを締結して、聖域5品目に切り込めば、可能ではないですか? 
小生: なぜマスメディアはこんな議論をしないのでしょう。以前から真っ先に話をされていたことなんですよ。2012年時点、日本の一人当たり名目GDPはドル換算後で韓国の2倍あるのです。にもかかわらず、日本の家庭は毎日の食費に韓国より高い割合のお金を使ってしまっている。エンゲル係数は生活水準の実感指数ともいわれます。これでは日本人が暮らしにゆとりを感じないのは当たり前です。格差拡大とか、労働市場のゆがみとは別に、暮らしの在り方そのものに余裕がないのですよ。
これまた、議論するべきだが、誰も何も言わない。音なしの構えである、小生にとっては、七不思議の一つなのだ。 最後の段階で出してくる<政府の隠し玉>なのだろうか。



2013年10月15日火曜日

日韓の同盟関係?

最近はー 実は小生が無知だっただけで、ずっと昔からあったのかもしれないが ー「朝鮮日報」や「中央日報」、通信社の「聯合」も日本語版を提供していて、韓国サイドのものの見方を容易に知ることができる。大変有益である。

その中で面白い報道をみつけた。
【ソウル聯合ニュース】韓国の国民の7割以上が、日本を韓国の同盟国ではないと考えているとの世論調査結果が明らかになった。
 韓国国会国防委員会の所属議員が14日、調査会社ユニオンリサーチに依頼した「国防懸案関連の世論調査」の結果を公表した。それによると、「日本は韓国の同盟国か」との質問に、72.2%が「同盟国ではない」と答えた。また、日本の集団的自衛権に対する韓国政府の対応について、75.5%が「日本の軍事力はアジアの平和を壊すため、反対すべき」と答えた。
 年齢別にみると、50代では「同盟国ではない」が77.2%、「集団的自衛権に反対すべき」が80.0%を占めた。一方、20代では「同盟国ではない」が61.8%、「集団的自衛権に反対すべき」が67.0%だった。
 支持政党別では、保守与党セヌリ党の支持者の75.7%、最大与党・民主党の支持者の79.6%が「日本は同盟国ではない」と答えた。
(出所)聯合ニュース、2013年10月15日

 そもそも日韓関係については、1965年に締結されたいわゆる「日韓基本条約」とそれに付随して結ばれている協定や交換公文があるのみであって、日米安全保障条約に該当するような軍事同盟の関係はない。だから、韓国人を対象に「日本は韓国の同盟国か」と質問すれば、正しい知識を有している限り、「同盟国ではない」と回答するのは当たり前のことである。むしろ100%の人が「同盟国ではない」と答えなかったことこそ、おかしなことだ。

日韓が共同利益を求める同盟国の関係にはない以上、日本の軍事力増強は韓国にとってはアグレッシブであり、タフ・コミットメントとなるのも、これまた当然のロジックであって、100%の回答者が日本の軍事力はアジアの脅威になるので反対すると答えなかったことこそ奇妙である。

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韓国と同盟関係にあるのは、アメリカであって日本ではない。また中国でもない。韓国には、中国との協調に転じるか、日本との協調を強化するか、もしくは両方を追求するか、あるいはまたそれ以外の戦略をとるか、いろいろな選択肢がある。朴新政権は、対中親和策にコミットしているように見えるが、中国にはそうした韓国の政策方針を忌避するべき理由はないだろう。しかし、アメリカもまた韓国に同調、または結託する戦略的な補完関係があるかといえば、それは即断できない。そうなれば、日本もまた同調せざるを得ないだろうが、その場合には日米同盟関係が日本にとってコストに見合うものかどうか、必要かどうかという議論が日本の方に生まれるかもしれない。そうなれば各国が共同利益を最大にするような新たな結託関係を求め始めるだろう。仮にそうなっても、価値観の共有が経済的利害関係以上に国家的意思決定において重要であることは、古代ギリシアのペロポネソス戦争以来の真理である。だとすれば、アメリカの利益がその新しい構造において現在以上に拡大されるとはとうてい予測できず、真の意味でアメリカが共産党支配下にある中国と協調できるとは思えない以上、アメリカは戦後レジームを維持し、大きな変化を回避する誘因をもつ・・・

とまあ、こういう"If ... then ..."式のシナリオ・バンドリングは、やれば確かに面白いのだが、所詮は、「国家」がプレーヤーだから、その点はまったく抽象的なのだ。それでも自国の利益を考えて議論するならまだ意味はある。しかし、韓国の通信社が上に引用したような記事を日本語で(日本人向けに、だろう)提供する……、こうすることは、一体、どのような韓国人に、どのような利益があるのだろう?そこが、小生、さっぱり分からないのだ、な。通信社だから、つまりは事実の報道に徹して、多数の言語で「こういう結果になりました」と情報を提供しているだけなのだろうか。それなら、英語版を出しておけばそれで十分だと思うのだ。あるいは狙いは全く別で広告収入拡大策なのか。

どうも聯合通信社の意図が分からぬ。

2013年10月13日日曜日

日曜日の話し(10/13)

日曜日の話しとしては血なまぐさいが、三鷹市のストーカー殺人事件の被害者は加害者と交際関係にあり、その後は印象が悪化したのか、加害者が何度携帯電話をかけても拒否されるようになったことから、恨みを募らせた。そんな風に報道されている。具体的にどんな経緯があったのか、第三者には窺い知るべくもないが、大体の大筋をきけば何となくアウトラインが浮かんでくるようでもある。

どう言えばいいのか分からないのだが、最近の若い人は対人的なコミュニケーションが下手というか、どこか幼稚で、しかも心が傷つきやすいという傾向があると小生はみている。大学でも学生の気質は20年前と今とでは相当違うことは、日頃、若い人と接している人なら共通して分かることだと思う。

何があったか知らないが、何度電話をかけてもつながらない、そんなことは昔だってよくある愛のもつれ、友情のもつれ、単なる口喧嘩であっても電話口に出ようとせず家族に断ってもらうなどは日常茶飯事であった。だから加害者がそれで恨みを募らせたのだとすれば、あまりにナイーブでひ弱だと思うのだが、被害者も同世代なのだから、相手を傷つけてしまっているかもしれない位のことは分からなかったのか……、分からなかったのだろうねえ、そこが今の若い人の、よく言えば善意があって暢気で自己肯定的である、悪く言えば偽善的で鈍感で危機管理意識に乏しい傾向であるような気もしてくるのだ。


Klimt, Mada Primavesi, 1912

古代ローマの政治家シーザーは、若い頃は無名であったが、無名時代から既に交際する女性は数知れず、別れた女も数知れなかったそうだ。塩野七生『ローマ人の物語』の第5巻は「ユリウス・カエサル」で一冊丸ごとを使ってシーザーという男の生き様を描いている。ともかくシーザーは歴史上の有名人物だから話しの筋は多くの人が大体知っている。著者である塩野女史からみて驚嘆に値するのは、あれほど多くの女性とつきあいながら、一人の女性ともトラブルに至らず、死後もずっと感謝の気持ちで追憶されていたらしいという事実だ、そう書いている。こちらから別れても恨まれることがなかったというのは、確かに人との交際がよほど巧みであり、またコミュニケーションの達人、相手をホロリとさせる達人であったのだろう。

上の作品を描いたオーストリアの画家・クリムトもまた数知れぬ女性と浮き名を流したので有名だ。女性とつきあってはその姿を芸術作品に昇華させ、その作品が今に至るまで遺っているという次第だ。時には愛のもつれも行き違いもあった当人達なのに、今では一方が他方を描いた絵画だけがあって、後の世の人がリアルな恋愛の場を知ることなくみているわけだ。これって何なのでしょうね、と。

現代のほとんどのストーカー殺人事件の悲しい点は、その経緯に何のドラマもなく、伝わらず、語られず、そして世間を感動させることなく、忘却の波間に沈むにまかされ、美も真理もモラルにも、そういった後世の人が関心をもつ何らのことも生み出さずに、ただ生命がホタルのように時間がきたから消え失せて行ったという、そこにある。文字通りの不条理と言えるだろう。