2013年1月31日木曜日

2013年は本当に景気拡大するのか?

アベノミクスによる緩和政策で世の中の体温が大分温まってきたところだ。安くなるのを待っている人はともかくとして、株価は、落ちるより騰がった方がやはりムードは明るくなる。株価は先行指標の一つである。先行指標が上がってくると、経営者の姿勢も前向きになる。そうすれば設備投資も増えるはずだ。本当に増えると、先行指標が再確認され、経営者マインドはもっと明るくなる。こうして好循環がはじまるわけだな。

しかし・・・というと、またまた小生のへそ曲がりであるのだが、GDP統計をはじめ主なデータが利用できる最終四半期である昨年7~9月期までの数字を見る限り、必ずしも今年の景気の先行きが明るいという予測数字は出てこないのではないか。

たとえば景気動向指数を四半期化した数字をGDP統計の設備投資(IP)と並べて描くと下図のようになる。上が先行指数、下がIPで、前年比で描いている。
景気の山、景気の谷、どちらで比較してもやはり先行指数が設備投資に先行して変動していることが分かる。この二つにVARモデルを当てはめて、推定・予測したのが次のグラフだ。
やはり上が先行指数、下が設備投資である。データの終期は昨年第3四半期である。これをみると、ミニ景気後退が底打ちするのは本年第1四半期にかけてである。その後、先行指数は上向くのであるが、設備投資の回復への動きはそれほど勢いの強いものではないと思われる ― もっともVARモデルを当てはめる以上、定常性を前提しているのだが、上の前年比の動きはそう見えないかもしれない。

設備投資を単独にとり出してボックス・ジェンキンズ流にARIMA予測してみると、以下のようになる。設備投資の前年比は定常であると判断してよいとわかる。ここではARIMA(3,0,0)(0,1,1)と同定している。ドリフトはない。

縮小された図では判別しにくいが、右端6期、青い線で描かれているのが設備投資の実質原系列の予想ラインである。やはり必ずしも拡大とは予想されていない。

いうまでもなく統計的予測は、従来のパターンに沿って変動するとすれば、足元ではどちらに向かうのか、そういう短期予測に優位性をもつ手法である。だから数年、ましてや20年程度の長周期循環を追跡するのは苦手である ― というか、GDPデータ自体、1994年以降のデータしか提供されておらず、10年を超える長期循環をGDPデータから捕捉するのは難しい。

現在のアベノミクスが日本の経済政策決定メカニズムを根本的に変え、市場の期待形成メカニズムを変え、これまでとは別のレジームで経済が動いていく。そんな期待から日本経済の新たな成長が始まりつつあるのだとしたら、それはそれで結構なことであるし、それは昨年秋までの経済データを観察していても分からないことである。まあ「分からない」と言い切ると、足下のレジームを憶測する方法は複数あるので間違いになるが、これは別の機会に。

文字通りに景気とは<気>、みんなの気分、市場のムード。そういうことかもしれない。だとすれば、失われた20年もかなりの部分は、実態というより心理的な結果であり、自ら招いてしまった経済停滞であったことになる。本当にそうなのかねえ・・・心理だけじゃないだろう。小生は、そう思ったりもするのであるが、それほど昨年10~12月期以降の好転、というより<好転への期待ぶり>は予想を超えるものである。

ずっと続けばいいんすけどネ。そう思う。



2013年1月29日火曜日

こういう反応は低レベルにすぎませんか ― 経団連会長

経団連会長といえば一時は「財界総理」とも呼ばれていたほどであり、今は色褪せたとはいえ「日本株式会社」の会長なり社長のようなイメージで世界に受け取られていたものである。その会長が、安倍政権による2%のインフレ目標とそのための無制限金融緩和を、たまたま開催されていたダボス会議で批判したメルケル独首相について、以下のようにコメントしたそうだ。

経団連の米倉弘昌会長は28日の記者会見で、ドイツのメルケル首相が、円安の進行を受けて日本の経済政策に対する懸念を示したことに対し、「異常な反応だ」と批判した。 
その上で「(現在の)円安は行き過ぎた円高を修正するものだ」との見方を示した。 
 また、「日本経済の見通しからすれば、デフレの解消ができそうだなという感じもある」と述べ、将来的な賃上げの可能性について、「これからの景気次第だが、早いところで来年ということも考えられる」との認識を示した。 
(2013年1月28日21時56分 読売新聞)
ドイツはECBによる国債買い入れにも反対している。本ブログにも投稿したが、ドイツの中央銀行総裁であるワイドマン連銀総裁は「ECBによる国債買い入れは法に反している」とすら主張している。そのドイツが日本の国債買い入れ増額を批判するのは、当たり前のことである。

当たり前のことは、あらかじめ予想しておくべきであって、案の定、反インフレの急先鋒であるドイツが日本を公然と批判してきたのだから、日本にとっては論陣構築のチャンスであったわけだ。ただちに反駁するのがよい。もちろん理論的に整然と確信をもって反論する ― ここが大事である、な。

日本は、これまでの中途半端な通貨政策が実態とかけ離れた為替レートを招き、結果として経済成長を不必要に阻害する誤った政策であったと認識したからこそ、現在の政策方針に転換した。これが政府のロジックだろう。だとすれば、ドイツのように「従来の政策こそ正しく、現在の政策は誤りだ」という意見に対しては、「そちらこそ理論的に間違っているのだ」と、精緻かつ堂々と反駁するべきだ。そのための『ダボス会議』でありんしょう・・・。

それを『あなたが言っていることは異常です』という言い方はないだろう。理に対しては理で反駁するべきところが、理では負けるから、異常呼ばわりをする。そう受け取られるだろうねえ。

心の底では「あなたたちもアンフェアなことをやってきたんだから、私たちだってやりますよ。堪忍袋ってものがあるんすからね」、と。ホンネのところでは、『ほんとはいけないんだけどね』と後ろめたい気持ちを感じつつ、アベノミクスを実行しているのであれば、そんなことは止めた方がよい。

正しく行動している時にプライドを保てるのであり、国を愛することができるのであって、ほんとはまずいことを、周回遅れで模倣するなどは、ゲスの国がやることである。国威を傷つけること夥しいものがある。

ドイツの批判は、事前に予想されていたわけだから、こう反駁するという案をなぜ内閣府の官庁エコノミスト(まだそういった官僚が残っていればの話しだが)、あるいは直接関係する日銀マンに用意させておかなかったのだろう。

どうも不思議なことであります。だんまりのあと、『異常だよ、あんなの』と拗ねるのは、一番見っともないことだ。まあ、海外のエコノミストの多くはアベノミクスの意義に理解を示しているから、まあいいのだが、あまり賢く行動しているとは言えない。

2013年1月27日日曜日

日曜日の話し(1/27)

昨日、卒業制作の最終発表会で審査員をつとめるため暮らしている港町から隣のS市までJR線に乗車した。窓の外には寒そうに緑がかった海が広がっている。波間に点々としみのように見え隠れするのは翼を休めている海猫たちである。波打ち際に沿って漁師の作業場だろうか廃屋のような小屋が黒々と並んでいる。そんな風景をみているとこの北の大地に移住してきた20年前、春先ではあったが同じ景色をみた日のことが思い出される。「流れ流れて・・・」と思ったなあ、正直いうと。そのときはまだ隠れ里のような小さな都市が実は美しく、そこで安らいだ暮らしをおくれるとは知らなかったのだな。何より亡くなった母が大好きだった海を見ながら生きていけるのは、自分に与えられた巡り合わせとも感じられたのだ。

海というと大学生の頃に読んだ矢内原伊作の評論『海について』を思い出す。
心おとろえたときは海に行こう。心熾んなときも海に行こう。衰弱と燃焼とは別のものではない。倦怠と瞋恚とは別のものではない。この世は人を疲れさせる。・・・そのようなとき、逃れよう、逃れて海に行こう。・・・海は一切の刻印を否定し、心に自由を与え、われわれを解放する。(出所)矢内原伊作「顔について」(矢内原伊作の本、第1巻)みすず書房、61〜62頁
宅の窓からも海が見える。北方の海である。湘南の海とも瀬戸内海とも色が違う。モネが描いた海は大体がフランスの海である。色が違う。ターナーの絵にあるイギリスの海とも違う。


フリードリヒ、氷の海−難破した希望号、1825年

凍結したドイツ・エルベ河口の風景が元になっているそうだ。窓の外に見る日本海に絵のような氷塊はない。氷ではなくて海猫が浮かんでいる。海猫かと思うとサーフィンをしている人の頭であったりする海である。

上の作品が描かれた時代は、1800年代はじめ、七月革命の前だからナポレオン没落後の最も激しい保守反動期である。ゲーテはまだワイマールに生存しており、ウィーンにはシューベルトがいた。時代は自由化への歩みを止めず、まずブルジョアが30年に政権交代を実現させ、48年に全欧州で勃発した暴動は革命に発展し、古い貴族階級を完全に打倒してしまった、と同時に19世紀後半から20世紀にかけて世界を動かした無産階級(=プロレタリアート)という新たな人間集団が登場しても来たわけだ。

今という時代をブルジョアやプロレタリアートという階級概念で読み解くのは難しいかもしれない。しかし、社会の発展と進歩を均衡というバランス論で解釈するのではなく、問題の所在・力のアンバランス・矛盾の解決という視点から見るのは、いまでも有効な世界観であるかもしれない。そう思うようになっている。

2013年1月26日土曜日

素朴な疑問 − 早期退職と通貨政策

昨日は人間ドックで内視鏡検査。本日は卒業制作の最終発表会(1回目)で朝から夕方まで審査員をつとめる。

内視鏡は鼻経由だ。数年前にバリウム検査で引っかかって口経由の胃カメラ検査を受けた。まるでシャワーホースのような管が喉を通るとも思われず、七転八倒、あんなに酷い目にあったことはないと思い定めた。その後、安定していたが3年前に胃腸の調子がおかしくなり、経鼻式なら楽であると耳にして、再び内視鏡検査をうけてみた。そうしたところ一昨年は非常に楽で「これなら毎年受けるかなあ、どうせバリウム検査でひっかかれば胃カメラになるのだし」というわけで、昨年もオプションで受けたのだな。ところが検査の最中に鼻血が出て、鼻の周りは血まみれに。でもまあ、すぐに終わったから、よかったと言えばよかった。今年はカミさんの検査とあわせて日を同じにした。このところアレルギー性鼻炎が酷くて、咳も出ていたし、状態が悪かった。そのせいだろうか、麻酔はきいたように思ったのだが、咳は出る、咳をすると管が喉にあたって吐き気を覚える。そしてまた咳が、とうとう息ができないようになり、これはいかんと。正に地獄の責め苦であった・・・。

「もう内視鏡検査はうけん、具合が悪くなってから治療の中で受けることにする」
「その方が安いんだよ」
「バリウム検査でも相当のことはわかるらしいしな」
「好きにしたら」

そんなやりとりがあって、今日もまた。が、本務なので文句は言えぬ。それで帰宅すると疲労困憊。

今日の昼食、同僚とこんな雑談をする。
「それにしても安倍総理は運がいいというか、追い風が吹いていますよねえ」
「インドネシアから帰国して、まずアルジェリアで犠牲になった彼らは企業戦士ですと。企業戦士という言葉を使ったんだよね」
「普通なら、安全を無視した日揮の経営陣や、情報を全くとれない日本政府に批判が集中してましたよね」
「小泉内閣の時のようにB層向けの情報操作を意図的にしているのか、運がいいのか、流れが変わってきてるよねえ、電通とか博報堂の人間がまた動いているのかな」
「中国が尖閣で領海侵犯をしたり、領空侵犯をしたり、その度に安倍政権には神風がふいているとも言えますよ、中国は愚かというか、完全な戦略ミスだと思いますけどね」
「同感、同感。中国びいきの民主党と手打ちをしておけば、まだよかったんだよ。安倍総理、1回目はついてなかったけど、2回目は、ホント、運にめぐまれているよ」

ついている、ついてないは運である。しかし、ついていないなら、なるべくは不運をリカバーしたいと考えるのが人間だ。

× × ×
退職金の減額前に早期退職する教職員が相次いでいる問題で、下村博文文部科学相は25日の閣議後会見で、「都道府県教委は、早期退職を希望する個々の先生に対し、慰留、説得をしてほしい」と述べた。文科省は、都道府県教委にこうした考え方も通知することを検討している。
(出所)朝日新聞デジタル、1月25日配信
 退職金減額になるかどうかを1月末できって、2月以降退職する者は減額するという措置である。

ま、小生が公立学校の教師をしていても、年内一杯で辞めますわな。検討の余地なしだ。

5万円や10万円ならクラスの生徒もかわいいし、卒業式も見届けておきたい。それが教師の自然の心理だ。しかし差し引き数十万円も違うとなると話しは別だ。それに60前後は、人によっては子供がまだ大学を卒業していないかもしれない。結婚する時のために少しは援助基金を作っておいてやりたい、そんな心理もある。更に、夫婦の老後をささえるための貯金を少しでも多く蓄えておきたい。これが第一かもしれない。

「あなたねえ、バカ正直に3月までやって、感謝されるどころか損をするのよ。辞めた人のほうが待遇はいいのよ。こんな風にするなんて、早期退職をすすめられているのと同じじゃない。辞めてもらいたいのよ、上は。辞めれば月給だって払わなくてもいいんだから、雇ってるほうは。辞めたって、学校は何ともないのよ。」

正直者が馬鹿をみる。そんな制度を真面目に実施するトップは落第であるとなぜ議論しないのだろう。年度末で減額すると支払い総額が増えてしまうのは、モラルを維持するための社会的コストである。カネを節約するために、現場のモラルを動揺させてもよいと本気で考えたのなら、指導者失格である、な。金庫番が適任である − 今日は金庫番という言葉がよく出る(後述参照)。企業戦士とおだてたり、上層部の無能のために犠牲になった人の死を讃えることによって事の本質を誤摩化すのと同じである。

報道された<慰留>は、慰留には該当しない。これは<上の圧力>である。

× × ×

麻生太郎副総理兼財務・金融相は25日の閣議後の会見で、ドイツのメルケル首相が、最近の日本の金融政策について懸念を示したことに対して、「為替操作には全くあたらない」と反論した。
(出所)朝日新聞デジタル、1月25日配信 
為替操作ではないという言い分もわかる。何しろ自民党が選挙で勝つ前、11月下旬から株価は上昇し、円レートは円安に向かったのだから。期待の為せる結果である。

リーマン危機後の円高は、日銀は円の通貨価値を最優先すると海外から認識されていたからこそ、実現した現象である。自国の経済成長は政府の責任であり、為替レートは財務省の管轄であり、潜在成長率の向上は民間企業のイノベーションによって実現されるという議論であれば、経済学部の学生でもできるわけである。それを中央銀行のトップが展開し、法で規定されている通貨価値(=物価)安定を常に最優先する姿勢をとれば、いやでも世界の中で際立つわけである、な。

そういうわけで、中国が<世界の工場>になったと全く同じように、日本は<世界の金庫>になっていたわけである。金庫の役割を演じるためには円安基調ではいかんわけであり、円高であることが必要だ。いうなれば、オランダにとっての北海油田、日本にとってのその役割を日銀が演じていた。疑似オランダ病であり、日本の風土病でもあったのだな。それを改めた。

ドイツはECBによる国債買い入れにも反対している。日銀の政策変更にも反対するのは当然だ。が、今のところ、世界のエコノミストには評判がいいようだ。ということは、従来の金融政策は評判が悪かった。日本の中央銀行はそんな評判の悪いことを嫌がるはずだ。 おかしい。そもそも今になって無制限金融緩和をやりましょうと態度を変更するのも奇妙である。いままでやっていたことをどう考えているのか・・・

緩和が不徹底ならフラストレーションを感じる。緩和徹底に態度変更したあとは、それはそれでフラストレーションを感じさせる。日本の中央銀行は、誠にスカっとしないのである。これが日本の貴重なリソースを失わしめる愚行であるのか、現時点の世界のエコノミストが賛同するように賢い変化であるのか、結果は近い将来わかるだろう。いまあるのはフラストレーションの心持ちだけである。

2013年1月24日木曜日

国のために命を投げ出す企業戦士とは・・・

アルジェリア人質事件の日本人犠牲者がとうとう10名になった。誠に痛ましい事件であり、遺された家族はまだ信じられない気持ちであると思う。その心情を憶測するだけで一掬の涙を禁じ得ないのは一人小生だけではあるまい。

民放TVのニュース番組では、比較的名前の知られたキャスターが「亡くなられた方々を企業戦士と呼んでいます。日本のために外国で頑張っておられる方達のおかげで私達の平和で豊かな生活が守られているのです・・・・」、まあこんな調子で悲しむべきニュースを伝えていた。

しかし、どうもへそ曲がりの小生は、上の文句がすんなりと耳に入ってこない。

<企業戦士>と呼ぶのはまあいい。まあ、いいのだが、だとすると今回のテロ攻撃による死は即ち<戦死>であって、国ないし国に代わって忠節を捧げていた組織に自らの命を投げ出したという解釈になる。アナウンサーがいうように「日本のために」頑張っていたのなら、国のために、国を思って、無念の戦死を遂げたということになる。それが事実なのかと小生は思ってしまう。

日本のために命を捧げた人たちがいる。国に残っている我々が辛抱しなくてどうするのだ?聞き飽きた台詞である。責任を現場の人間に負担させ、死を名誉と言いくるめ、幸福への願望を臆病と非難する。こんな風にマネジメント・ミスを隠蔽する指導層の愚行は日本人には周知のはずだろう。

やはり日本は、現場が優秀である反面、トップが無能である一例としてみるべきではないだろうか。原因を追求するべき事故死を<名誉ある戦死>などと考えるとすれば、それはモラルの退廃、知性の衰えである。

2013年1月22日火曜日

盗人にも三分の理 ― 極論にも五分の理 ― 石原代表の極論

これはいかんという行動や議論にも聞くべき道理はあるものだ。完全に理にかなっている制度や理想などはないし、全く問題のない世界など実現不能である。アンチテーゼは常に有効だ。ヘーゲル・マルクス流に表現すれば、世界は矛盾を発展的に解決することで不断に進歩するものだ。

とはいえ、現に国会議員たる人が現行の日本国憲法を<諸悪の根源>よばわりするとなると、異様であり、何か<動乱の兆し>を感じるのは小生だけではあるまい。まあ、国会議員は立法府に属する公務員であり、憲法改正の発議権を有しているわけだから、いまの憲法がおかしいと公に発言しても、それをもって議員たる資格がないとは言えない。しかし、その言い方はあまりでは・・・というわけだな。
日本維新の会の石原代表は19日、東京都内のホテルで開かれた同党の国会議員団研修会であいさつし、現行憲法について「日本の諸悪の根源だ」などと述べ、改正を強く求めた。
石原氏は北朝鮮の拉致問題を例に、「9条がバリア(障害)になって、(拉致された)同胞を武力で解放できなかった。国家としてのシェイム(恥)」と主張。「財政的に成り立ちえない高福祉低負担の社会保障制度がまかり通るのは、憲法にうたわれている権利と義務が全く不均衡だからだ。こんな憲法を持っている国は世界中ない」とも語った。(出所)読売新聞、2013年1月19日20時09分配信
仮に国軍が保有されていたとして、拉致問題を北朝鮮との開戦によって解決できるのか、色々な議論があるだろうし、小生はそんな方法を選んでも10の成果を100の犠牲によって得る羽目にはなると思う。ま、議論はあってよい。かりにも国会議員なのだから。

高福祉低負担という惨状に立ち至った根本的原因も日本国憲法にあり。そうも言っているが、これには小生賛同できない。

そもそも現行憲法は高福祉を国是として規定しているわけではない。規定しているのは生存権である。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
国が国民の権利として約束しているのは、「世間が納得する(=健康で文化的な)最低限度の生活」だけである。しかも、27条には勤労の義務を設けているから、たとえばニートやパラサイトといった社会現象は、現行憲法の下では想定されておらず、その生活支援、将来不安の解消が国と国民の間で議論するべき事柄だとは、(本来は)言えないはずである。すべて国民(=私たち)は、自分の勤労を通して得た所得によって、自分の人生を支えていくべきだというスピリットが規定されているのだから。

更に、30条では納税の義務が規定されている。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
納税の義務をおうというのが本旨であり、納税額の決め方は具体的な法律による、そう読む。国家の活動を支える財源として国民は租税を負担するべきであると単純に解釈するとすれば、中央政府の歳入の半分以上を税収ではなく、国債、つまり将来において国から国債保有者にカネが戻ってくる「国の債務」によって調達せざるをえないという現状は、これ自体、<違憲状態>ではないかと小生は思うことが多い。

とはいえ、憲法の精神には沿っているが、国民が(ホンネでは)反対するような増税や歳出カットは、衆議院やもはや第二衆議院になりはてた現・参議院では審議しがたい議案であろう。

現・参議院を解散のない任期12年程度の<憲法院>とし、時に応じた法改正、税制改正が必要であると議決する権利を与え、衆議院は一定時間以内にその議決に沿うように義務付ければ、なにも現行憲法を諸悪の根源であると断じなくとも、問題は解決できるはずである。それだけの内容は既に現行憲法で明文化されていると小生は思っている。衆議院は議院内閣制の担い手として行政の方向付けに専念し、憲法関連事項は改正も含めてすべて憲法院にのみ与えるのがよいと小生は夢想したりする。確かに違憲審査権が裁判所には与えられていて、合憲か違憲か、時に最高裁判所が判決を出すのであるが、自ら進んで審査事案をつくれるわけではなく、裁判所ではどうにもこうにも物事が動きますまい。


このように見ると、日本国憲法が<諸悪の根源>だとは言えないのであって、憲法が予定している政治行政が全うされていない。全うしていない政治家・官僚たちに諸悪の責任を求めるべきではないか。そう思うのだ、な。だから「極論にも五分の理」と題をつけたのであって、あとの五分は、ズバリ、無理な話だ。



2013年1月20日日曜日

日曜日の話し(1/20)

昭和の大横綱・大鵬が死去したというので地元の道新は一面トップをさいている。小生も訃報を聞いた時にはそれなりのショックと一つの時代が終わったような感覚を感じたから、一人の関取の死をトップで報道しようとする姿勢も何となくわかるのだな。

少年時代にはよく相撲中継をみた。10日目頃から大関たちとあたるようになる。栃光、栃ノ海、北葉山、佐田の山ときて千秋楽には柏戸とあたる。そんな記憶がある。戸田との取り組みはまだ覚えている。見ていた側からは負けたとしか見えなかった。亡くなった父が一緒に見ていたかどうかは覚えていない。そこでこの一戦があった昭和44年の三月場所開催期間万年カレンダーをみてみると、大鵬が戸田に負けた二日目は、3月10日月曜日だったことがわかる。してみると、父は仕事があったはずであり、当時はもう本社勤務だったはずだ。急いで帰宅しても取り組み時間には間に合わない。やはりリアルタイムでは、父は大鵬・戸田戦を観てはいなかったはずだ。NHKのニュースででも観たのだろうか。父も「負けたなあ」と話していたように覚えている。それが誤審であったと後できいて、思春期だった小生にはいかにそれが酷い話しであるのか、ピンと来なかった。「本当は勝っていたんだよ」と言われても、そうかやっぱり勝っていたのかと安心したものの、理解はできないものである。まして45連勝でとぎれたんだと説明されても、それはおかしいとしか考えられない。「世間のルール」というものを年若の者はよく知らないのだ。

確かに記憶に残る同時代人だった。少しでも関係のある人たちは淋しくなること限りないはずだ。小生ですら「大相撲は終わりだねえ」と感じたくらいだから。もちろん「終わり」と言っても、相撲という形自体がなくなるはずはない。それは現代日本において今でも能や歌舞伎が愛され、文楽もそれを観た人に感動を与えている、剣道も現代スポーツとして残っていることからも明らかだ。終わりだねえと云ったのは、明治に始まる興行形態が、もういまのままでは収まるまいという展望のことである。


Constable, Salisbury Cathedral from the Meadow, 1832

虹を描いた絵画作品は意外に少ないものだ。前の日曜日に登場してもらったターナーの同時代人であるコンスタブルは、小生が高校時代にモネと並んで、ターナーと劣らず愛好していた画家である。特に亡くなった母は穏やかな画風が好きだったのでコンスタブルの作品を画集で見て「いいわねえ、心が落ち着くわ」と、そんな風に話していた。19世紀中頃、1850年を境にして、前半はイギリスでコンスタブル、ターナーが活動し、ありのままの自然が芸術のテーマであることを唱え、後半になるとフランスのミレーやルソー、それにコローもまじえたパリ近郊・バルビゾン派の人たちが自由な目で明るい陽光と人間生活を描き始めた。

美は理想の世界、古典の中、規範の中にあるのではなく、眼前の自然の中にあるという目線だな。永遠の美が「ほら僕はここにいるよ」とささやく声を聴けとゲーテが云っているのも同じだ。現実を否定し、永遠の理想を求めるより、あるがままの現実を愛し、現実の中で開くべき自分の花を咲かせようと努力する生き方は、小生、とても好きだ。これが、小生のもう一つの信条でもある厭離穢土欣求浄土と正反対ではないかと言われれば、それは全くそのとおりで、ちょっと頭の中では整理できてはいないのだが。

そんな風なので、いまでもコンスタブルの絵画をみると、懐かしいばかりではなく、安らぎを感じるのだ。

2013年1月19日土曜日

断想 - 社会に貢献するというのは?

俳人蕪村にとって師は芭蕉であったそうだ。といっても、二人が生きて話をしたことは一度もない。芭蕉は元禄時代の人であり1694年には死んでいる。蕪村は享保から天明にかけての人であり生まれたのは1716年だ。二人が共有できた時間はない。が、そうであっても自分が学ぶ師は、同時代の人である必要はないということだ。

亡くなった父はエンジニアであったが専門外の本を読むのが好きだった。長寿社会の物差しによれば50代で他界した父の寿命は短かったので、父と話しごたえのある会話をしたことは一度もない。しかし、時間があれば本のページをぱらぱらとめくることが好きなところは父に似た、というか本を友にすることの有難さは数少ない父からの贈り物だと思う時がある。エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、父が口にした何冊かの書名の一つだ。その全三冊を読了したのはつい最近のことで、遅まきながら約束を果たしたような心持になった。哲学者ニーチェはこの作品を「あるかぎりのドイツの書物の中の最良の書」と言っている位だから、再読、三読どころか、何度読み直しても、そのつど懐かしい気持ちになる、大仰にいえば福音書のような所があるとも言えるわけだ。ま、そんな本と一冊でも知り合うというのは、それだけ淋しさを減じてくれるわけでもあり、自分にとっては生きた親友と変わるところがない。
ゲーテはサン・シモン主義者について私の意見を求めた。「彼らの学説の主な方向は、」と私は答えた、「各人が自分の幸福を築くための不可欠な条件として、全体の幸福のために働かねばならないということのようです」。 
「私の考えでは」とゲーテは答えた、「だれしも、自分自身の足元からはじめ、自分の幸福をまず築かねばならないと思う。そうすれば、結局まちがいなく全体の幸福も生まれてくるだろう。とにかく、あの説は全く私には非実際的で実行できないことのように思うね。・・・私は作家という天職についているが、大衆が何を求めているかとか、私が全体のためにどう役立っているかなどということを決して問題にしてこなかった。それどころか、私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった・・・」。
(出所)エッカーマン『ゲーテとの対話(下)』、岩波文庫、293~294ページ
人間は、自分が善いと思うことを行うか否かの自由意思を持つときにだけ、モラルを語りうる。そんな自由を持たないとき、人間は自分を拘束するものに従っているわけだから、自分が善であるかどうかを論じても意味がないわけだ ― たとえば「職業倫理」があるとしても、自分の意志でそうしようと欲するのでないなら、自分自身の意志決定がないのだから、是非もなく、善悪もなく、職業倫理は単なる<上意>に過ぎない、これは当たり前の議論だろう。要するに、信仰・崇拝あるところ、モラルは消え、すべては神の思し召しとなるのがロジックだ。


断想:自由とモラル・幸福

 このところiPadで愛用しているPenultimateで落書きしていた。2012年から13年にかけて、こんな事を考えていたのだなあと、後になって思い出せるように記録しておこう。

自分が善いと思うことを為して、自己の改良、自己の完成に努力することができるためには、そうする自由が不可欠である。これが図の上の矢印だな。

ここに幸福かどうかという視点はない。しかし、幸福追求の自由という言葉がある。幸福に生きるには、やはりそのための自由が不可欠だ。これも図のとおり。

それでは質問だ。善か悪かという区別と、幸福を追求するということは、独立した別々の事柄なのだろうか?この二つは互いに無関係のことであると言うならば、人間のモラルは幸福の実現とは関係ないということになる。確か哲学者カントもこれに似た議論をしていたと思うが、小生、どうしてもこれは奇妙だと感じるのだな。かと言って、一方、幸福を実現してこそモラルはモラルたりうるのだと。そう考えると、結果に依存して行動の是非が分かれる。功利主義的な見方に似てくる。善悪の区別は結果による、そう主張することになってしまうと、これまた小生は同感できない。といって、功利主義とは逆に古代ギリシア哲学のように考えて、人間は善であるとき、そのときにのみ、幸福になりうると。こう議論するなら、これは要するに、善と幸福の二つは相互に必要十分であって、同義であることになる。故に、幸福の追求=善の追求になり、功利主義との違いが出てこない。

上の落書きには、どうもそんな風に思いめぐらした形跡があるわけであり、書いた時には、まっとうな結論が得られなかった、そう思われる。

いずれにしても、自由なきところに幸福はなく、自由なきところ善も悪もない。これはロジカルな議論の断片として保存しておいてもよさそうだ。その自由は、信仰の自由、思想の自由、表現の自由、政治的な自由、経済的な自由、様々な自由を含んでいる。

表現の自由があってこそ、はじめて表現の是非・適否を批判することが可能になる。議論の対象になりうる。経済的な自由があってこそ、はじめて"自己責任"を問うことが可能になるわけだ。

では、自分が善いと考えることを為そうとするのではなく、社会が善いと言っていることを為そうとするのは善になるのか、ならないのか?これはゲーテのいうサン・シモン主義に該当しそうだ。思うに、全体に奉仕しようとする生き方をとって、それがモラルに沿うかどうかを議論しても、解答が得られるはずがない。善いと伝えるのが神であり祭政一致社会をとってみても、宗教とは関係のない至高の存在(=王、国民、党本部など)を想定してみても、全体の幸福が個人を正当化する社会は、目的合理的社会を目指すのが常であり、善とはプラス、悪とはマイナス。そのように思考する社会にならざるをえない。

ゲーテが生きた時代がそんな社会でなかったのは幸いなことだったと思う。

2013年1月17日木曜日

分かれる足元の景気判断

本日の日経「経済教室」で慶大の櫻川昌哉教授が中銀の独立性を議論している。その中で
金融政策決定のプロセスから、人々がもはや物価を決めるのは日銀ではなく、政府だと認識するようになれば、物価決定理論の枠組み変化が起き、放漫な財政を反映して物価は一気に上昇するかもしれない。デフレのうちはインフレの心配をする必要がないと考えるのは誤りで、デフレから急に悪性インフレに陥る危険性は理論的にはあり得る。
(中略)
 そもそもなぜ政府は、悪性インフレの危険を冒してまで積極的な景気刺激策に打って出る必要があるのかという疑問が生じる。逆説的だが、財政金融政策の有効性が落ちているからである。有効性が落ちているからこそ、政策の「規模」を追いかけようとする。ではなぜ有効性が落ちているかといえば、金融システムの劣化が進んでいるからだ。
 明らかにインフレ警戒論である。インフレは常に警戒する必要があるのだという議論は、当然耳を傾ける議論なのだが、では確率がゼロではない可能性としてのインフレと、現に進行しているデフレと、いずれが日本のマクロ経済に対して大きなマイナスであると考えるべきなのか?この点を明らかにしておかないと、旱魃のときに豪雨を心配し、豪雨のときに旱魃を心配する、雇用が問題である時に問題解決後の次の問題を心配するという羽目になりかねない。社会科学は、将来を考えることも仕事だが、眼前の問題を解決することも職務の中の一つであろう。

とはいえ、足元の経済の行方すら方向感覚に迷うことは多い。日本の景気動向指数も判断の分岐点にさしかかっている。

内閣府が公表しているCIから先行指数(LE)、一致指数(CO)、遅行指数(LG)を図にした。昨年10月までの情報が使われている。図を見ると、遅行指数はまだ上がっている。一致指数は下がっている。先行指数は下がってきたが、直近の10月では少し反転している。これは景気の転換点特有のパターンであり、生産・販売はいまは悪いが近いうちに拡大に向かうことが示唆されている。ただ先行指数の反転は10月だけのイレギュラーな動きであるかもしれず、上の図からまだ断定はできない。

同様の読みにくさは、アメリカ経済についても言える。FREDで得たグラフだが、まず先行指数はこうなっている。

データは日本の先行指数の動きにも似て、今後の景気回復を示唆しており、だからこそアメリカ経済の明るさが世界で際立っているわけだ。

しかし、Hamilton-Chauvetのレジームスイッチングモデルに基づいた景気後退確率をみると、下のようになっている。同じFREDから入手した。


確かに、足元で景気後退局面にあるとは言えないが、その確率は昨年末にかけて高まっている。この兆しが時間の経過とともにより拡大してくるようなら、アメリカの景気回復は腰折れを予想せざるをえない。しかし、まだ何とも言えないのだ、な。

昨年春から秋にかけてはミニ景気後退であったのは事実と言えるが、それが<ミニ後退>ですむのか、<本格的後退>であるのか - もしそうなら底打ちは今年の夏から秋にかけてであり、今後も販売の実態は一層沈むだろう。もちろん「統計的に」というのは「これまでの経験則的に」という意味だから、世界各国の経済政策上の見通し、あるいは政局・政情の見通しについて信頼するべき情報をもっているのであれば、上の予想を修正する必要がある。

割れそうな氷の上を歩いているような感覚である。こんな時に保有株を買い戻すなどバカじゃないか。そんな心持になっているのも事実だ。


2013年1月15日火曜日

<懲罰>によって秩序を維持する国家 vs <自発性>によって維持される国家

上の表題とは少しずれているかもしれないが、今年になってから以下のような報道があった。少し古くなるが、引用しておこう。
中曽根康弘元首相が会長を務める公益財団法人「世界平和研究所」(佐藤謙理事長)は9日、安倍晋三政権への緊急政策提言を発表した。民主党政権で問題となった外交・安全保障分野では、日米同盟の深化とともに、「共通の価値観に基づいた強固な『海洋型同盟』」を目指し、オーストラリアや東南アジア諸国連合(ASEAN)各国などとの連携を推進するよう提言した。さらに「防衛力強化の自助努力を早急に行う必要がある」として防衛費の増額を求めた。 
 「海洋型同盟」や防衛費増額の提言は、沖縄県・尖閣諸島への領域侵犯を繰り返す中国など「大陸型国家」を念頭に、「不安定要因を排除する」のが狙い。一方、中韓両国との関係の再構築に関しては「新政権が誕生したばかりで、またとない機会だ」ともした。 
 提言は7項目で構成。憲法改正条項について「早急に議論を集約する必要がある」と指摘。原子力エネルギーを推進し、原発の再稼働をできる限り速やかに行うことも求めた。
(出所)MSN産経ニュース、2013年1月9日配信
この意気や良し。とはいえ、上でいう<共通の価値観+海洋型同盟>というと、どうしても古代ギリシアでアテネを中心とした「デロス同盟」を思い起こしてしまう。

デロス同盟とは、ペルシア戦争後に自国へ撤収したスパルタなどのペロポネソス半島諸国軍の空隙を埋めて、残された掃討作戦を共同で進めるため、主にエーゲ海・小アジア沿岸諸国を構成員に、毎年一定額の負担金を支払いながら、軍事活動を継続するために締結されたものである。対ペルシア対策が当初の目的だったのだが、仮想敵国であるペルシアの脅威が遠のく中で、年を経るにしたがって同盟は変質し、むしろ新興国アテネがギリシア世界の覇権を握って巨大な<海上帝国>を築くための道具となっていったのだ。

古代世界の世界大戦ともいえるペロポネソス戦争は、アテネが求める共通の価値観についていけない「その他国家」が、一斉に反アテネの戦争に踏み切った時に発生した。開戦を決定する会議でためらうスパルタに対して、コリントの代表が言ったそうだ。
彼らは改新主義者だ。鋭敏に策をたて、政策は必ず実行によって実らせる。ところが諸君は現状維持を奉じている。・・・事実、彼らは外に出れば何かが手に入ると考え、諸君は出れば手の中のものを失うと恐れる。
(中略)
ラケダイモン(=スパルタ)の諸君、これが諸君の前に立ちはだかっている敵国の正体だ。しかるに諸君はさいごまで逡巡し、容易に考えを改めようとしない。平和をもっとも確実に維持するためには、戦備を強くして秩序を守り、侵略者には決して譲らぬ明瞭な政策を示すことが必要条件であるとは考えず、諸君は他人を傷つけなければ当然自分も被害から守られている、と思っている。(出所)ツキディデス『戦史』(岩波文庫(上)、119~120ページ
そのアテネで指導的政治家の位置にあったペリクレスは、多勢に無勢の不安をもつどころか、非民主主義国家の連合体であるペロポネソス同盟について以下のように演説した。
かれらは(=スパルタ)幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養に努めるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。・・・苛酷な訓練ではなく、自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危機をも肯んずるとすれば、はやここにわれらの利点がある。・・・身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に十分な判断をもつように心得る。(出所)同書、227~228頁
ここには訓練された人材集団と、自らの意志で課題に取り組んで、失敗(=貧困)を恥とはせず、努力から逃避することを恥とする人間集団とが対置されている。どうしても、小生、太平洋戦争で戦った日本軍と米軍を連想してしまうのだな。

確かに日米同盟の深化、そして(民主主義という)共通の価値観に基づいて、強固な<海洋型同盟>を締結し、その同盟に日本国が参加すれば、将来にわたって日本が発展を続けるための土台が形成されると、小生も同感する。

しかし、その海洋型同盟の共通の理念を、肝心の日本人は持っているのだろうか?「改革」という言葉を日本人は大好きだが、改革を現実にすすめるアメリカ人たちは、 "Revolution" も "Reformation" も "Restructure" も、さらには "Reborn" も "Rebirth"  も、こんな大仰な言葉を多用することなく、毎日の政治と普段の言葉でやっている。多様な理念が入り混じっていた古代ギリシア世界になぞらえると、日本人の本音とスピリットは、アテネ海上帝国よりも、むしろ守旧的な内陸国家(=ペロポネソス同盟)のメンタリティに近いのじゃあないか。そんな風に感じるのだ。

だから日本も参加する<海洋型同盟>という文字をみて<おれたちに似合うのか?>と感じた次第。

とはいえ、ペロポネソス戦争の帰結は、実はアテネ海上帝国の崩壊と民主政治の堕落と腐敗であった。これまた、今後将来、ありうる進展であって、確かに歴史は単純に繰り返すことはないが、物事の進展には絶対ということはないのだ。二度あることは三度あると言っても否定はできまい。

2013年1月13日日曜日

日曜日の話し(1/13)

正月気分も一段落してくる頃だ。例年だと間もなくやってくる大学入試センター試験の監督業務で気鬱になるのだが、どうした拍子か今年度は免除になった。となると、やる人たちには悪いが、本当に気楽なものだ。

学校の運動部で体罰は許されるのかで世の中結構盛り上がっているようだ。

誰かが話していた。「体罰に頼るというのは、指導者が勉強不足だと思うんです。技量をあげるための方法がこれだけ進歩している中で、練習方法をよくするのではなく、できなければ体罰を加える。これは指導者の力不足ですよ」。・・・まあ、ほかにも100を超える理屈を作り出せるだろう。願わくば、自らの仕事において、ビジネスや研究開発を前進させる真に創造的なロジックを構築してほしいものだ。それがイノベーションであり、その人がやるべき最も大切なことである。

「進歩」というのは、思い通りには、なかなか捗らないものである。ちょうど開こうとする花にも似て、水をやりすぎても、放置しすぎても駄目である。そして開く花は形や大小、色合いだけが大事なのではない。良く咲いた花だけを残して、あとを摘んでしまうとかえって台無しになることもある。大きな花だけをとって花瓶に活けてもダメである。だからこそ華道も成立すれば、茶を点じるための花も別に選ばれてくる。

学校で行うスポーツは、原則は自己修養=自己完成のために行うものだろうが、勝負には勝ちたいはずである。勝てば、その勝利が学校の名誉、OBの満足、親の満足、町の名誉につながる場合は特にそうである。今回の悲劇は事故であったと言い切ってしまうと亡くなった人には大層気の毒である。とはいえ、不祥事が絶対に起こらないようにせよと言ってしまうと、トップには有難く、すべての学校が安全に練習するようになれば、それが一番良いのだろうが、その時にはハードな練習に敢えて挑戦した学校が勝利をもぎとる確率が高まるであろう。

人間は努力するものであり、敗北よりは勝利をつかみたいと願う動物である。この本性が変わらない以上、<やりすぎ>による負傷や死は、どれだけ練習システムが改善されても、根絶することはできないだろう。ちょうど陸上競技の記録がどこまで伸びるのか見当がつかないように、人間の努力がやむ時は永遠に訪れないし、努力する限り失敗の悲しみを飲み下すことも時に必要だろう。

数字や勝ち負けで結果がはっきり出てくるのがスポーツだが、芸術でもコンクール、展覧会における受賞がある。そんなことをいつも考えるようになると、やっぱり音楽、美術の世界でも不祥事が発生するメカニズムが形成されてくるものだ。


前の日曜日にアップした作品に虹を入れるとどうなるか試みに描いてみた。細部は少し変えているが、大体は同じである。

虹は光の魔術だから、光と格闘した印象派の巨匠クロード・モネなら虹を描きこんだ作品が一つはあるはずだ。そう思って探してみたが、画集にもネットにもどこにもないのだな、これが。本当に一つもないのだろうか?

ただモネが範とした英国人ターナーは何枚か虹を描いていた。


Turner, The Rainbow, 1835

う~ん、大胆にして、シンプル。そりゃ、歴史に残る大画家と一素人である小生の絵を比較しても仕方がないのは分かっているが、ある人にはできて、ある人にはそれができない。時に、不思議なものだと思う時がある。

高校のバスケットボールであれば、「お前もできるはずだ、できないのはやる気がないからだ」と。そんな風に言うべきだと考える指導者もいるだろうし、むしろそう言ってもらうと、はじめて奮起できる若者も多いのではないだろうか。

夫婦と同じく、師弟も本当の胸の中は当人どうしにしか分からないものである。


2013年1月11日金曜日

正しい質問の仕方で既に物事の半分は理解できている

高校時代に読んだ本の中でまだ記憶に残っている一冊はポリヤ『いかにして問題をとくか』だ。著者は数学者なのだが、この本は数学の参考書ではなくて、もっと広く疑問一般を解き明かしていくためには、どんな風に思考を進めていけば正解にたどり着けるか、もし正解がない時には正解がないのだという真相にどう気づくか、というテーマがとりあげられていて、他には類書がないと思うのだ。

まず疑問を文章に書いてみる。それを細かい設問に分解してみる、この設問に答えが出れば、別の設問の答え方が決まってくる、そんな互いの関係が大事になってくる。その関係が頭に入ってくれば、いわゆる<論点整理>が完璧なものになり、論点が巧みに整理されていればディスカッションのレベルが高くなり、得られる結論も自然に素晴らしいものになる。

ズバリ、ビジネススクールのグループ・ワークにそのまま当てはまる思考の鉄則が満載の名著と言えるのだ。

☆ ☆ ☆

こんな風に質問してしまうと、答えようがなくなるでしょう。その典型は
体罰は是か非か?
ずいぶん昔、寺田寅彦が『数学と言葉』で述べているのだが、数学は思考をハイスピードで進める役割に特化した言葉だ。数学という道路を歩いている限り、横道に迷い込むことはないし、迷ってもすぐに迷った地点を見つけられる。しかし、普通の言葉で考えていると、少し話しを広げると言いたいことが重なり合って曖昧になり、間違って考えても、中々矛盾に気がつきにくい。そんな風なことを言っている。

上の質問にも自然言語の不完全さがあらわれていると思うのだな。

大阪・桜宮高校が体罰で揺れている。バスケットボール部のキャプテンが体罰を苦にして命を絶ったかと思うと、バレー部でも停職処分を受けたはずの顧問が体罰を続けていたという。こんな事情は、おそらく別の多くの高校にも隠れているだろうから、全国の関係者はいま日頃の行動を顧みて、当惑したり、困惑したり、意気阻喪したりしているに違いない。モラルの仮面をかぶった愚かな問いかけが、もしも現場の混乱をもたらしており、それをトップが放置すれば、人材育成の全体的レベルがさらに低迷することになるだろう。

元来、日本では現場が優秀である一方で、トップのマネジメント能力は極めて低いというのが国際的な相場になっている。今回もまた学校のマネジメント能力を問うものだ。

★ ★ ★

質問を言い換えてみる、これはポリヤが示す問題解決への第一歩である。
すべての体罰は、常に非であると断定してよいか?
まずこう言い換えよう。もしYesであるなら、すべての身体的苦痛を伴う叱責は、この世から排除するべきだ。では、
身体的ならびに精神的な苦痛をともなう叱責は、すべて例外なく常に、非であると断定してよいか?
身体的苦痛がすべて容認できないと考えながら、精神的苦痛なら容認できる場合があるか、それとも苦痛はすべて叱責手段としては容認できないと言うべきなのか?

もしこの問いにもYesと答えるなら、
いずれにせよ苦痛を伴う叱責や指導は、教師であれ、親であれ、それを行うのがすべて非であるとすれば、では身体的苦痛をともなう矯正や、リハビリ、精神的苦痛を与える告知もまた実行できないと断定するべきか?
以下、進行が想像されるであろう。

まるでプラトンの対話編である。対話編の主人公であるソクラテスは、こうして質問を積み重ねながら、相手を矛盾に追い込んでいくのを常套手段にしている。見ようによっては<嫌なじいさん>であるが、まわりで対話を聴いていた人はすべての思い込みや常識、更には信じられていた権威までもが、その曖昧な根拠があらわになり、スカッとした気分を感じたのであろう、小生、そんな風に古代ギリシャのアテネの街を想像している。

ポリヤの『いかにして問題をとくか』は、対話編で書かれているわけではないが、その筋道は<質問と答え>を積み重ねながら、真実がどこに隠れているのか、その場所を探し出す定石を与えてくれるものだ。文字通り<真理という獲物の狩りかた>、その意味では著者ポリヤはやはり農耕民族ではなく、狩猟民族たるヨーロッパ人そのものである。トップ・マネジメントと作戦指導に巧みだというのは、狩りの文化と価値観にマッチしているのかもしれないねえ。



2013年1月9日水曜日

ヨイトマケの愛で国を救えるか?

昨年末の紅白歌合戦で美輪明宏がうたった「ヨイトマケの唄」が評判になっているそうだ。昨日だったか、今日だったか某局のTVワイドショーで、なぜあの唄が人々の心に訴えかけるのかが話題になっていた。

唄は、昭和41年に美輪が自ら作詞作曲したもので、ヨイトマケ(=日雇いの肉体労働者)が力仕事をするときの掛け声に歌われたと言う。昭和41年といえば、東京オリンピックが2年前に既に開催されていたし、先進国クラブと言われるOECDにも東京五輪と同じ1964年には加入していた。とはいえ、その頃はまだ日本のGDPや生活水準は低い水準であり、女性も食べていくためには肉体労働を引き受けなければならなかった。そんな時代だ。下図の一人当たりGDPをみても日本は、当時やっとOECDに加入できるまでになったことがハッキリしている。だから

とおちゃんのためなら、エ~ンヤコーラア

この歌詞は、まだまだそのまま当時の風景をよく映し出しているというわけだ。



ワイドショーでは美輪本人が画面に登場して、この唄を作ろうと思ったきっかけや動機を話していた。衆人環視の中で誰が何といおうと自分の子だけは可愛がろうとする母が、そのとき紙をもっていなかったのか、鼻水をたらしていた子に口をつけて、この鼻水をズズーッと吸い取ってあげた姿を思わず見入ってしまった、そう語ってもいた。親子の愛だけは時代が変わっても、国が変わっても普遍的なものである。そういう話しであり、いまヨイトマケの唄が心に響くのも、多くの人がそんな愛を求めているからだろうと、まあいかにもワイドショー的なまとめ方をしていた。

× × ×

いくらへそ曲がりの小生でも、これが駄目だなどという気持ちは毛頭ない。家族の愛情ほど美しいものはないし、家族を愛する心は人間社会の出発点になるものだと小生も思っている。

しかし、母と子の愛情、夫婦の愛情、子が親に抱く愛情、血の繋がりに温もりを感じるような愛情は、更には友情、同志愛などもそうだが、すべて愛する人間と他の人間を区別する愛である。よく<親疎>というではないか。愛は周囲の人間それぞれに異なった距離を感じさせるのだ。一人の人間が、最も深い愛情を感じうる対象は、人数にしてせいぜい10人を出るか出ないかという所だろう。少なくとも100人や1000人の人を、同時に同じように等しく、家族と同じように愛する能力は、人間は持ちえないとも思う。ところが、日本には概ね1億人の人たちが現に生きて暮らしている。その人たちの暮らしぶりを見ると、豊かな人も、貧しい人も、あまりにも多様である。愛は空虚であり、無常であるのが現実だ。

すべての人たちに等しく愛をもつことは国の指導者にとって大事なことだと言う人がいるかもしれない。しかし、指導者が国民を愛するという意味の愛は、母が子を思う愛とは本質が違う。美しいが差別的な愛は器が小さくて、1億人の国民をそれで掬い取ることは不可能なのだ、な。小生は、駆け出しのころに公務員をやったことがあるが、自分は公務員に向いていないと思ったのは、赤の他人に愛情を持てなかったからだ。<公僕>という定義から自動的に<愛情>は出ては来ぬ。

伝統的な帝王学では、母の愛とは別の愛、器の大きい愛を定義して<仁>と呼んだ。仏教だと大乗仏教の視点。キリスト教では神が人類に対してもつ広大な愛をおき、現実は神の意図の現れとみる。その広大な愛を知性で理解することは、全ての人間を等しく愛する博愛を知ることにつながる。自分にはその感性が全くないというか、皆無であるという自覚があったのだな。

× × ×

しかし今は若いころとは考えが変わった。

そもそも日本の中央・地方の官僚は、いかなる心構えで日々の業務に向き合えばいいのだろう。政治家も国民全体に奉仕する公務員だと規定されている。では、政治家はいかなるスピリット、いかなる魂をもって、全ての国民と向き合えばいいのだろう。国民全体に対する愛を心の中にもつべきなのか?それとも愛とは無関係の専門技術を提供するためか?

美ではないかもしれないが、善なる心があればいいのか、結果が大事なのか。

六代将軍・徳川家宣は、先代から引き継いだ天才的な勘定奉行・荻原重秀の反モラル的人格を弾劾する新井白石に対し、『才ある者は徳がうすく、徳ある者は才がうすい』と言って、白石を抑え、荻原を使い続けた - 武士道全盛の旧幕時代であったのに、善なる心一点張りではどうにもならんわけだ。

もし官僚が公僕であり、国民が主であるのなら、国民の方が将軍・家宣の目線に近い感覚を持つことが大事だろう。




2013年1月7日月曜日

国益にマイナスならTPP不参加・脱退は当たり前である

与党政調会長である高市議員が次のように述べたとのこと:
安倍首相が交渉参加に踏み切った場合、党として容認する可能性を示唆したものだ。高市氏は「(交渉参加の可否は)内閣が決めることだ」とも指摘した。
 自らが主導する予定の党内議論については、「内閣の方針が出てきたら、守るべき国益は何か、どこまでは譲れないか条件を出し、『これを超えたら撤退する』とまとめ上げる」と強調した。(出所)読売新聞、2013年1月7日10時05分配信
国益にマイナスなら撤退するというのは当然だ。

但し、自民党のいう「国益」とは、どう定義されるのだろう?与党の言う「国益」とは即ち「党益」のことである。そう考える方が理にはかなっている。なぜなら文字通りの国益を求めるよりは、自民党の支持層 − この支持層という言葉がいずれか日本に実在する社会集団を指しているのかどうか、分からなくなっていると思うが − にとって共同利益になることを重視する誘因を政党なら必ずもつはずだからだ。その誘因に自民党が抵抗して、真に日本の国益に合致する選択をするという保証は、理論としてはないのだな。

とはいえ、いま安倍内閣は経済再生を最優先目標に掲げている。測定指標としては名目・実質GDPの動向であるという暗黙の了解も形成されている模様だ。

GDPは確かにカネで売買できる範囲の豊かさに限定されてはいるのだが、特定の階層ではなく、すべての国民の所得を合計した金額を測るものだ。その合計は、減るよりは増える方がいいに決まっている。増えてこそ全員が豊かになる可能性がはじめて出てくるのだから。その増える過程で、与党支持層が割合として、相対的に、得をするような政策を与党は選ぼうとするだろう。このくらいは仕方がないのだ。少なくとも<幸福>とか、<安心>とか、国家が勝手に決めた物差しで権力を勝手に行使するよりは、よほど実質がともなっている。政府がそう話している間は、反対する人はそう多くはない、小生はそう思って見ているところだ。

ということはTPP参加によって日本のGDPは − 日本人の、という意味でGNPの方を見るべきだが − 増えるのか、減るのか、その予測・見通しに帰着するわけである。GDPが減るというのであれば、これは理論経済学者なら文字通りにビックリ仰天するはずだ。仮に、そんな見通しが出てくるならば、脱退・不参加は当たり前のことである。

2013年1月6日日曜日

日曜日の話し(1/6)

昨年の10月にカミさんの兄が他界したこともあって − 喪中欠礼にはしなかったのだが − 今年の年賀は小生も、郷里の方言を使うが、<よもだ>させてもらっている。

昨日は卒業制作前のグループワークがあった。小生はビジネスプランニング・コース担当だから、名々が自分の事業企画書を説明するのを聴いていた。この段階に来ると<教える>ことはせず、ただ気がついた点をコメントするに止めるのがルールだ。

小生: モノを作って販売するのではなくて、頭に浮かんだアイデアを売るというビジネスが可能なはずですね。ただアイデアを公開して、オープンに誰でも利用できるようにすると、フリーライダーが必ず出てきて、正直に手数料を払う人の損になります。複数の人に同じアイデアを提供するとしても、複数の人に提供したということを伝えないと、損害を与えるかもしれませんね。アイデアを発信したい人と、他の人のアイデアを参考にしたい人をつなぐニーズはあるのだけれど、それをビジネスとして成立させるためには、何かの工夫がいるよね。
学生: そうなんですよね。そこが難しくて・・・
小生: 必ずしもアイデアを提供した人が、そのアイデアを使う人からお金をもらわなくともいいのではないですか?そのアイデアを使ってもらっていることを知るだけでも満足する。そうは思いませんか?
学生: それはそうかもしれません。自分のアイデアで利益をあげられるかもしれないと思えば、第一、他の誰でもが見れるように公開はしませんよね。
小生: そう。自分でやっちゃうはずです。だから、誰かに自分のアイデアを提供したいという人は、たとえ無償でも役に立っていることを知るだけで満足するとも思われますよ。
学生: でも成功報酬という形は大事ではないでしょうか?それをどう実現するかという点が中々わからなくて・・・
小生: アイデアは頭脳の働きですよね、絵は感性の働きでできあがります。私も時々のぞくのですが、Art Meterというサイトがあってね、たとえば旅先で何気なく描いたアマチュアの人の絵も、このサイトに絵の画像を送って査定してもらうと、自分の絵が公開されて、これを欲しいという人が出てきたら、自分の絵を売ることが出来るのです。誰かの感覚に自分の絵がマッチして、その人の心を慰めることができるって、すごくないですか?たしかに価格という点では、単純に絵の大きさで値段が決まる仕掛けですから、いい絵か、下手な絵か、審査はまあないわけで、その辺は画廊とは違いますけど、それまた良い仕掛けだと私は思いますよ。
学生: そんなのがあるんですね。もうちょっと考えてみようかな。
小生: 自分が提供した作品が何かのヒントになってさ、それで別の人が素晴らしい傑作を描くこともあるかもしれないよね。でも、いいじゃないですか。作品なり、アイデアを公開しておいて、その後に誰かがそれに刺激をうけて、新しいものを生み出すとして、それが当たってカネをもうけるとして、その時になって「自分の作品の貢献を評価してくださいよ」と言う人はいるでしょうか?まあ、いるかもしれないけど、いるとしても作品を公開しておいてから、そういう言い分はないだろうと私は思いますよ。自分のアイデアを公開したら、その後は他の人の何かの役に立ってくれたら、それで十分満足する。そう考えるべきなのではないですか?

★ ★ ★


F4に水彩で描いてみた習作で、画中に虹を入れたいと思っているのだ。ただ虹というのは難しい。一回り大きいF6で試している。

☆ ☆ ☆

小生がずっと愛用してきたエディターはEmacsである。言うまでもなくGNU(=グニュー)プロジェクトを創始し、Free Software Foundationを主導したRichard Stallmanの作品である。何か原稿を書く時はEmacs+YaTeXで通してきた。

小生、ビジネススクールに勤務する身であるにもかかわらず、著作権や知的財産権という言葉には(心の奥底では)冷淡な眼差しを投げかけているのを自覚するし、中国でミッキーマウスが無断で使用されているのをみて、それは著作権の無断使用にあたると声高に唱えるディズニー本社には『誰でも模写できる程度のものなら、もう無料で公開しなさいよ』と言いたくもなるのだ、な。まるで室町時代の日本で流行した<関銭>と同じだ。道路は社会インフラであり、公共財産という観念がないと、当事者は何であれ独占して、地代や手数料をとろうとするのである。

モノの製造には、インプットがあって、はじめてアウトプットがある。しかし科学や芸術の本質は、モノではなくて、頭脳・感性だ。頭脳と感性の発露はすべて人類共有の財産として、無料で使うのがオーソドックスだろうと(ホンネでは)思っている。<知的財産>は、先進国の国家戦略であり、その戦略が追求する目的は先進各国の国益である。

2013年1月5日土曜日

最近の流動性相場について

米国のNY市場は上げ一服気味だが、東京市場の大発会は前日比292.93円上昇だから、まこと恐れ入る。一体どこまで凧のように上がるのか?

OECDの景気先行指標は12月公表値まで利用できるが、以下のようになっている。


先行き明るいのは米国だけであり、OECD全体、欧州、中国とも景気後退入りしつつあるのは明瞭だ。それでも中国は、「最近になって回復への動きが出てきた」とか、「欧州の金融不安は峠を越えた」とか、物事の暗い面を見るのに飽きたのだろうか、11月下旬以降は暗いデータをみても「だいじょぶ、だいじょぶ」という雰囲気に変わってきた。不思議なものじゃ、人心というのは。

更に、日本を含めた個別国の動きを見ると、以下のようだ。


イギリスを除き、欧州は奈落の底へ落ちるような急減速。ロシアもだめ、インドもだめ、ブラジルは回復が遅い。日本も頭を下げており、先行き決して明るいとは言えないのだ、な。少なくとも数字をみると。

もちろんこれらのデータは昨年10月までの数字だから、11月から12月の実態が予想を裏切ってすごく良かったんだよと、そう強弁すればいいのだが、アメリカは

【ニューヨーク=河内真帆】米国の年末商戦の勢いが鈍ってきた。クレジットカード大手マスターカード系の民間調査によると、年末商戦(10月28日から12月24日までの速報)の売上高は前年同期比0.7%増にとどまり、伸び率は2008年以来4年ぶりの低水準だった。増税や歳出削減につながる米財政協議の難航で消費者に警戒感が強まっていることが一因とみられる。
 調査はマスターカードの消費者調査部門スペンディングパルスが、同カードを利用した消費支出から算出した。米メディア各社によると、12年の伸びは、前年同期比2%程度の伸びだった昨年を下回り、金融危機で消費が大きく落ち込んだ08年の商戦(同5.5%減)以来の弱さだったという。(出所)日本経済新聞、2012年12月27日
日本でも12月の百貨店販売はさえなかった。
大手百貨店5社が4日発表した2012年12月の売上高(速報値、既存店ベース)は三越伊勢丹、高島屋、そごう・西武の3社で前年実績を下回った。防寒用雑貨は堅調に売れた半面、主力の婦人服を中心に販売が伸び悩んだ。11月に月初から急速に気温が下がって冬物衣料が売れた反動が出た。三越伊勢丹は2%減、高島屋は2.6%減、そごう・西武は0.6%減。(出所)日本経済新聞、2013年1月5日
家電製品の苦境は言うをまたない。どうも12月もそれほどいいわけではない。一体、何をみて景気拡大を期待するのか。今の株価上昇は、金融緩和による過剰流動性と各国の政権交代がもたらした<人心一新・ミニバブル>と呼べるだろう。

ただ、今回のミニバブルは、昨年春以降のミニ景気後退の中で訪れたので、有り難いバブルである。加えて、今回の景気後退は半年程度で抜けると見られている。だとすれば、正に足元、いま現在の生産活動は既に上向きつつあるかもしれない。政治と金融が巧みにコラボできた成功例になる可能性は残っている。

2013年1月3日木曜日

こうなるとTVも公害だなあ

米議会で「財政の崖」回避の合意が達成され、NY株式市場も急反発した。「合意」とはいえ決着を延期したのに過ぎず完全決着にはほど遠いが、2月一杯までは大丈夫だろう。小生も遅れまじと、AMAZON株を少し買っておいた。あとは、明日の大発会で国内株のソフトバンクを買い戻しておこうと思う。

ま、これはともかく、日経BPを見ていると、かなり古くなるがこんなコラム記事があった。鬱病に陥りやすい思考パターンについてだ。

テレビばかり観ていると悪い思考パターンに陥ることも 
 さて、テレビというのは、わかりやすさを求めるために、人のことを敵と味方とか、正義の味方と悪い奴というように二分割でとらえやすい。さらに占い、読心、過度な一般化、肯定的な側面の否定、should思考など、すべてがテレビの演出やコメンテーターの発言によく見られる思考だ。
 テレビばかりを観ていたら、ついついこの手の思考パターンに脳のソフトが書き換えられるなどということは、珍しい話でない。
 だから、テレビで、たとえばある政治家(今なら小沢一郎氏だろうか)がコテンパンに叩かれているのを見たら、それに感情的に同調するのでなく(このような情緒的判断も、心に悪い思考とされている)、人間にはいい面も悪い面もあると考えるようにするのがメンタルヘルスにはいい(もちろん、思考パターンも成熟する)。
 原発のようなものでも、100%の安全を求めるのは、さすがに完全主義思考のパターンといえる。危険が1万分の1ならいいのか、火力や水力と比べて危険が小さければいいのか(水力発電でも、水をためすぎて水害が生じることはある。昨年の和歌山の水害は、この影響が大きいとされるし、実際に死者が出ている)――というようにいろいろ考えてみることが必要だ。
(出所)Nikkei BPnet、2012年7月6日、和田秀樹「サバイバルのための思考法」 
小生の亡父も完全主義者であり、またエンジニアであったから何事も明快であることを好み、ダメなものはダメ、不純なものはダメ、10の力をもっていれば12の結果を出そうといつも頑張っている。食事のときなど、よくそんな風に語っていたことを覚えている。「これではいかん」という典型であったわけだな。父は胃腸を壊し、それがガンになって50代で世を去ったが、当時はまだ鬱病という概念が確立していなかった。自分のことを不甲斐ないと認識していたに違いない。そうであれば、気の毒だったなあと改めて感じるし、小生が話しがいのある相手として父の聞き役をつとめることができなかったことが、今なお悔やまれるのだ。

それにしても、テレビもこうなると正に<公害の垂れ流し>であるな、と。何とかならないものであろうか。ニュース報道は全面的に自粛して、1日6時間程度、人畜無害のドラマとバラエティだけを流す。あとはCMと音楽を流す。これで、十分、社会に貢献できるのではないだろうか?

2013年1月1日火曜日

元日のトップ記事 - アジアの中の日本経済

2013年元日のトップ記事は、年の初めに何が話題になっていたかということだから、それだけで記録しておく価値があるかもしれない。小生は、引退するまでは経済畑と縁を切れない。なので、例によって本日の日経朝刊から引用したい - ほんと、そろそろ経済などと言うヤクザな社会現象にはサヨナラを言いたいのだが、知的な惰性もあるし、経済データは統計分析の対象としてやはり面白いのだ、な。まだまだ経済情報とつきあうのを止めるわけにはいかない。

世界の5割経済圏 2050年GDP8倍 


アジアの経済が新しい次元に入ってきた。勃興の波は中国、韓国から東南アジア諸国連合(ASEAN)、インドへと広がる。主役の国や企業が次々と変わるアジアからみれば日本の時計の針は止まったままだ。今ならまだ間に合う。ネジを巻き直そう――。
(中略)
 「OKY」という言葉をご存じだろうか。おまえ、ここにきて、やってみろ――の頭文字だ。最前線でライバルと戦う日本企業駐在員の本音がにじむ符丁だ。
 本社はアジアの変貌ぶりを理解してくれない。意思決定は遅く、ライバルに負けてしまう。手をこまぬけばアジアは「日本抜き」の経済圏にもなりかねない。
(中略)
 大企業病に苦しみ、低迷する日本の象徴だった日立は経営改革で息を吹き返した。そして本社が東京を飛び出し、最前線である「ここ」までやってきた。日立は変わり始めた。日本は変われるか。
要約するまでもなく、大筋は大変わかりやすい。成長するアジア圏の中で日本が活力を取り戻して、再び生活水準の上昇ペースを上げていけるのだろうかという問題意識だ。

この指摘に全く異論はない。ないというより、『日本の象徴だった日立は経営改革で息を吹き返した』という下りを見ると、いまの日本を立て直すのに必要な科学的知見は、経済学ではなくて、経営学なのだろうなあと、つくづく思い知らされる心持ちがするのだ。

言うまでもないが、経済学の基礎理論はミクロ経済理論、要するに市場による価格決定メカニズムに関する理論である。その価格メカニズムが完全に作動すれば、資源の効率的利用が約束されるし、雇用も安定する理屈だ。しかしこれは、風が吹かなければ紙も石も同じ速度で地上に落下するであろうというのと似ていて、役に立つのは宇宙空間に限られ、この地球上ではあまり有難味のない理論である。経済理論では、企業の合理性は最初から前提されてしまっている。その合理的なはずの企業が、実は何も合理的ではなく、ビジネスチャンスを発見するどころか判断ミスばかりする、現ナマをためこんで有効に活用できない、コスト節減どころか、高コスト体質を何年もひきずり、経営資源の利用にも無駄ばかりが目立つ。だからこそ、日立のように<経営改革で息を吹き返す>などというケースが現実に生じうるわけだ。

市場メカニズムが思うように働かないとき、すぐにインフレ・ターゲットだ、マクロ経済政策だと話すのではなく、まずは経営学を活用して個々の企業に息を吹き返させ、加えて労使間・企業間の交渉力の不当行使や寡占企業の市場支配力を排除する、これまた日本経済の縮小要因を除去するために有効な政策思想であるはずだ。

実は小生、眼圧が高くて市の総合病院に長くかかっている。ところが、最近はアレルギー性の結膜炎で目の痒みがひどくなり、高脂質性なのか瞼の裏がゴロゴロするのである。それを総合病院で訴えても、医師の治療は高眼圧を原因とする緑内障予防に方向が決まっていて、新たな訴えはなかなかとりあってくれない。そこで町の眼科に行くと、結膜炎は心配してくれるのだが、今度は高眼圧の心配はしてくれない。まして、身体各部のアレルギー反応を総合的に観察検討するなどという考察をしてくれる医者はどこにもいないような気がするのだな。これは悪しき専門化・細分化の一例だろうと思う。

日本経済の成長力を取り戻すために何をすればいいか?問題を解決するには、やはり<総合>が大事であり、マクロ経済問題はマクロ経済の専門家にと、こんな考え方ではとてもじゃないが無理だろう。まあ、今回の第二次安倍内閣では、経済財政諮問会議と日本経済再生本部の二本立て - なぜ二本立てなのだろうねえ、まるで太平洋戦争時の大本営が陸軍部と海軍部の二つに分割されていたのと同じじゃあないかとは思うが - 思いのほか、集合知がうまく形成されて、何が何だか分からないうちに、デフレが解消するかもしれない。もしもこうなれば、各分野の専門家はそれぞれ自分の案の成果だと語るだろうし、別の人はこれも多くの人が参加したが故であり、民主政治の良い側面が出たのであると、そう称賛する。そんな人がきっと出てくるであろうと、小生いまから、思っているのだな。