2013年1月22日火曜日

盗人にも三分の理 ― 極論にも五分の理 ― 石原代表の極論

これはいかんという行動や議論にも聞くべき道理はあるものだ。完全に理にかなっている制度や理想などはないし、全く問題のない世界など実現不能である。アンチテーゼは常に有効だ。ヘーゲル・マルクス流に表現すれば、世界は矛盾を発展的に解決することで不断に進歩するものだ。

とはいえ、現に国会議員たる人が現行の日本国憲法を<諸悪の根源>よばわりするとなると、異様であり、何か<動乱の兆し>を感じるのは小生だけではあるまい。まあ、国会議員は立法府に属する公務員であり、憲法改正の発議権を有しているわけだから、いまの憲法がおかしいと公に発言しても、それをもって議員たる資格がないとは言えない。しかし、その言い方はあまりでは・・・というわけだな。
日本維新の会の石原代表は19日、東京都内のホテルで開かれた同党の国会議員団研修会であいさつし、現行憲法について「日本の諸悪の根源だ」などと述べ、改正を強く求めた。
石原氏は北朝鮮の拉致問題を例に、「9条がバリア(障害)になって、(拉致された)同胞を武力で解放できなかった。国家としてのシェイム(恥)」と主張。「財政的に成り立ちえない高福祉低負担の社会保障制度がまかり通るのは、憲法にうたわれている権利と義務が全く不均衡だからだ。こんな憲法を持っている国は世界中ない」とも語った。(出所)読売新聞、2013年1月19日20時09分配信
仮に国軍が保有されていたとして、拉致問題を北朝鮮との開戦によって解決できるのか、色々な議論があるだろうし、小生はそんな方法を選んでも10の成果を100の犠牲によって得る羽目にはなると思う。ま、議論はあってよい。かりにも国会議員なのだから。

高福祉低負担という惨状に立ち至った根本的原因も日本国憲法にあり。そうも言っているが、これには小生賛同できない。

そもそも現行憲法は高福祉を国是として規定しているわけではない。規定しているのは生存権である。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
国が国民の権利として約束しているのは、「世間が納得する(=健康で文化的な)最低限度の生活」だけである。しかも、27条には勤労の義務を設けているから、たとえばニートやパラサイトといった社会現象は、現行憲法の下では想定されておらず、その生活支援、将来不安の解消が国と国民の間で議論するべき事柄だとは、(本来は)言えないはずである。すべて国民(=私たち)は、自分の勤労を通して得た所得によって、自分の人生を支えていくべきだというスピリットが規定されているのだから。

更に、30条では納税の義務が規定されている。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
納税の義務をおうというのが本旨であり、納税額の決め方は具体的な法律による、そう読む。国家の活動を支える財源として国民は租税を負担するべきであると単純に解釈するとすれば、中央政府の歳入の半分以上を税収ではなく、国債、つまり将来において国から国債保有者にカネが戻ってくる「国の債務」によって調達せざるをえないという現状は、これ自体、<違憲状態>ではないかと小生は思うことが多い。

とはいえ、憲法の精神には沿っているが、国民が(ホンネでは)反対するような増税や歳出カットは、衆議院やもはや第二衆議院になりはてた現・参議院では審議しがたい議案であろう。

現・参議院を解散のない任期12年程度の<憲法院>とし、時に応じた法改正、税制改正が必要であると議決する権利を与え、衆議院は一定時間以内にその議決に沿うように義務付ければ、なにも現行憲法を諸悪の根源であると断じなくとも、問題は解決できるはずである。それだけの内容は既に現行憲法で明文化されていると小生は思っている。衆議院は議院内閣制の担い手として行政の方向付けに専念し、憲法関連事項は改正も含めてすべて憲法院にのみ与えるのがよいと小生は夢想したりする。確かに違憲審査権が裁判所には与えられていて、合憲か違憲か、時に最高裁判所が判決を出すのであるが、自ら進んで審査事案をつくれるわけではなく、裁判所ではどうにもこうにも物事が動きますまい。


このように見ると、日本国憲法が<諸悪の根源>だとは言えないのであって、憲法が予定している政治行政が全うされていない。全うしていない政治家・官僚たちに諸悪の責任を求めるべきではないか。そう思うのだ、な。だから「極論にも五分の理」と題をつけたのであって、あとの五分は、ズバリ、無理な話だ。



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