2013年3月31日日曜日

日曜日の話し(3/31)

ようやく4月。春が来るという思いだ。これほど春が待ち遠しかったのは初めてだねえ。雪がしんしんと降り続いた冬、酷寒であった冬、一夜にして車を埋めるほどのドカ雪の冬、色々な冬を経験したが、、2013年の冬はずっと忘れないに違いない。


Hommage to E. Nolde

雪は記憶の底にいつまでも残る。雨はそんな風には思い出さない。雨音がサウンドトラックとなって雨自体の映像をかき消すからだろう。雪の日は、何年たっても、無音の純粋の映像として何度でも記憶の表面に戻ってくるものだ。


小林清親、江戸城旧本丸雪晴、明治10年
(出所)Ukiyo-e Search

俳人・中村草田男が名句
降る雪や 明治は遠く なりにけり
を詠んだのは、昭和6年(1931年)、まだ大学生だった草田男が雪の日にかつて学んだ小学校を再訪したときのことである。

雪が人の埋もれた記憶を呼び覚ますのは、いつの時代も同じであるとみえる。

最後の浮世絵師と言われた小林清親は、明治10年2月から9月まで続いた西南戦争のことを聴きながら、上の絵を制作したのであろう。将軍家定正室・天璋院も最後の将軍・徳川慶喜もまだ存命していて、大日本帝国憲法は発布されてはいなかった。この年、名実ともに武士の世が終わったと言われている。

江戸城本丸は、文久3年(1863年)に不審火で焼失し、以後再建されることはなく、徳川幕府は最後の4年間を西の丸を政庁として過ごしたのである。その西の丸が、維新後は宮城となり、いまは皇居と呼ばれ、旧幕時代の本丸と二の丸・三の丸跡地は東御苑として開放され、憩いの場となっている。

こうなるまでには数えきれないほど多数の人間の葛藤と命のやりとりがあったわけであるが ― 日経に連載中の小説「黒書院の六兵衛」の中でも当時の人々の情念が見事に再現されているが ― いま生きている人の心には昔のゴタゴタなど一切影を留めてはいない。

忘れることができるから人間は何十年も生きていける。記憶に残していくべきことと、忘れるべきことの境界は、「真理」とか「事実」とか、それ自体フィクシャスである物差しによることなく、自然の働き、純粋の気持ちのままに放置するのがもっともよろしい。小生はそう思う。国も社会も同じである。

歴史もまた社会の発展の土台、その時代に生きている人間を支えるものとなって初めて意味を持つのであり、歴史それ自体に重要な意味があるわけではない。ということは、「歴史に関する統一的見解」などは、国益を目的とした外交戦略のことである。それが小生の見方だ。


2013年3月29日金曜日

私見 ― 一票の格差

<1>

国政選挙の一票の重みが選挙区の間で不平等であるという問題で揺れている。全国の控訴審で違憲判断があいついで下され、一部では昨年の衆議院選挙が無効であるという判決すら出てきた。

小生の個人的意見は、全国47都道府県は日本国において平等の政治的発言力を有するべきだというものだ。

<2>

たとえば小生が居住する北海道は日本の全領土の約4分の1を占める。しかし人口は500万人程度である。一方、東京都の面積は北海道のそれの大体2.6%、38分の1である。ところが人口でみれば、東京は北海道の2.4倍である。簡単にいえば、東京都の38倍の面積を占める地域の住民は、東京都の半分未満の政治的発言力しか認めるべきではない。それが平等の理念にかなっている。裁判所の判決はこういう理念で導かれたものだ。

地元をひいきするわけではないが、ちょっとおかしいと思いますなあ。

それほど日本人として存在する人間一人一人の平等を尊重するのであれば、なぜ20歳以上の成人の間の平等だけを語り、19歳以下の未成年者が投票権をもたないことを問題にしないのだろうか?すでに義務教育を終え、国民として暮らす最低限の教育は完了しているのだ。仕事につき、納税の義務を果たしている人もいる。しかし、未成年者はすべて投票権をもたないのである。

小生はこの事のほうが大きな不平等であると考える。

たかが2倍ちょっとの重みの格差など何ですか。成年と未成年の格差は無限大である。

<3>

別に、国家に対する貢献を基準にして政治的発言力の分配を決めよというつもりはない。しかし、人口が多い地域は、正にそれだけの理由から、比例的に大きな政治的発言力を持たせるという考え方はどこか奇妙である。仮に、北海道という土地と住民が、ある日突然、外国の領土になったとする。日本の領土の25%は失われることになる。しかし、日本国民は5%の減少で済む。人口では5%の減少で済むから、日本国の対外的・政治的パワーも5%のわずかな低下ですむだろうか?小生には、そうは思えない。もっと小さくなるというか、弱体化すると思う。

上の思考実験からも浮かび上がってくるように、日本を支えているのは人間だけではない ― 国土もまた日本を成り立たせているというべきだ。

とはいえ北海道は東京都の38倍の議員を選出する権利があるとまでは言わない。全体の4分の1は北海道から選出するのがよいとも思わない。47分の1が道理にかなう。つまり、北海道から沖縄まで全ての都道府県が47分の1ずつの政治的発言力を有する。少なくとも、衆議院か参議院か、いずれかの議院は各地域に等しい政治的発言力を与えることが望ましいと思うのだ、な。


<4>

人口だけを考える平等理念には同意できない ― というより、控訴審の判決は全ての日本人の法の前の平等を実現するものでもない。未成年者の参政権に取り組む議論を避け、数字の計算だけに基づいた底の浅い議論にしか思われないのだな。

その結果、生まれる選挙区ごとの1票の重みの不平等をどうするかと?

かまいませんよ、そんなことは。今度の問題は、理念というより、むしろ技術的な事柄、数字の問題である。

2013年3月28日木曜日

デワの守の意見はなぜいつも無益なのか?

ヨーロッパでは▲▲をやっているのに、日本ではそれができていない。アメリカでは○○であるのに、日本ではそれができていない。中国では◇◇と考えているのに、日本人はそういう発想ができない。あの会社はもう★★を決めているのに、我が社はまだそれができない……、こんな議論は日本国内で最も頻繁に耳する議論であろう。

もちろんこの元祖は「☆☆を導入するのがグローバル・スタンダードであるのに、日本は周回遅れになっている」という2000年代初頭に大いに流行したディベートの論法である。これは、あれですな、幼少期に誰でも一度は口にした「だって、みんなもう持っているんだよ」、この台詞がオリジナルになっていることは言うまでもなく、親なり、監督者はこの言語表現には一番弱いのだ。

× × ×

こういう発想は島国であり同時に後発国でもある日本伝統の言い回しであって、実際の役に立たないのはなぜか?

ロジックが通っていない、というか認識論として矛盾しているからだ。

ヨーロッパではかくかくしかじかである、それは知っている、いやダメだ、実際そこに何年か住んでみないと分からないものだ、と。もしこの論法が真理なら、住めば住む程にその社会の細部の問題が詳細に理解できてくる、つまり短期間訪れた訪問者より、長期滞在者の方が、長期滞在者よりはそこでずっと暮らしている住民の方が、その地域の問題をよく理解している。こういう理屈になる。本当にそうだろうか?もしそうなら、問題の本質を一番理解できているはずであるのに、なぜその場の当事者は問題を解決するのに失敗する事が、ままあるのか?そもそも、もしこの論法をとるなら、日本の問題は日本人が一番よく理解できており、その解決策も日本人が見いだすはずではないか。

× × ×

世界では■■のようにやっているのに、なぜ日本ではそれを導入しないのか?これは、上の議論とは多少見方が違っていて、一対一の比較ではなく、一対多の比較に基づく。

ビジネスの世界であれば、差別化と独自化はつまりは競争回避戦略であり、それは常に企業経営者の求める利益拡大に沿うことだ。しかし、競争回避を行動原理として戦略を選び続ければ、そういう主体であるという風評(Reputation)が形成されてしまう事になり、最終的には利益を損なう原因になる。足元の利益は考えずに敢然と同じ土俵で競争をいどむほうが、長期的には寧ろ利益拡大の道となる。こんな限定合理性の理論が当てはまる例は実に多いのだな。

適当な例ではないが、太平洋戦争で日本軍が実行した特別攻撃は、実に非人間的で戦術としても非合理な愚策であったことは既に証明済みであるようだが、一方であのような戦術を整然と、組織崩壊を招来することもなく実行できたという事実は、ある意味で戦後に生き残った日本人について回った一種のリソース − なにか怖れとか、異分子的な受け取られ方をもたらした面も否定できなかったろう。

とことんライバルと向き合って勝負に徹する。ここから逃げてしまったら、多くを失う。これは永遠の真理だ。

× × ×

しかし疑問もある。日本が「失われた20年」の間、じりじりと後退してきたのは逃げてきたからだろうか?外国との競争を回避してきたことが、日本の戦略の失敗であったのだろうか?

どうも違うような気がする。そうではなく、同じ商品であっても効率性では負けないという過信から、新興国とコスト競争を繰り広げながら、新興国の技術進歩、円高の進行から玉砕を反復してきた。そういう20年ではなかったのか。

そうなるのではないかという懸念は20年前にも既にあった。それが、まあ心配した通りに、新興国による市場奪取戦略の標的になり、日本製品は市場を喪失してきたわけである。円高で「高くなったから売れない」ではなく、「高くても、数は減っても売れる、だから儲かる」、そんな商品は何かという戦略をとっておくべきであったと、いま語っても遅すぎるのである。

× × ×

<戦略>を議論するには<目的>を確立しておくことが必要だ。目的合理的な戦略が決まったら、戦略を実行するための<組織>に再編成することが必要になる。この全てが、日本の生産現場である企業では不徹底だった。

しかし ー 小生はへそ曲がりだからまた考え直す ー 日本企業の経営者を批判するのにも躊躇を覚える。というのは、企業の目的は何かという理念が、日本人自身の胸のうちに明確な形で形成されていないからだ。

株式会社の目的は、株式価値の最大化にあるというのが基本的なロジックである。上場企業は特にそうだ。だからこそ、株式会社という会社組織が生まれたのだから。しかし、日本人はそうは考えていないのではないだろうか?会社は、経営者、従業員の共存共栄のために存在する、そう認識している人が多いのじゃないか?だとすれば、経営者は、株式会社の代表取締役としてとるべき戦略をとれないだろう。そもそも共存共栄を目的とする共同社会的組織は、無限責任を原則とする合名会社ないし合資会社、あるいは協同組合であるべきなのだ。不特定多数から資金を調達する以上、会社は拡大を目指しているはずであり、資金提供者の利益を実現することこそ、信義にかなう。しかし日本人の正義の感情はこうは思わないだろう。

まあ、ズバリ言えば、日本という国は、江戸以来の日本人集団がヨーロッパ由来の法制度という衣服を着せられた社会である。自分がデザインした服ではなく、土着の慣習とも異なり、制度の運用は官僚・専門家の専断に永らくまかされてきた。しかし、根が社会の現実にしっかりとついていない法制度は、現実の変化に即応して改正されていくことがない。日本社会と経済は、世界の進化をフォローしていこうとする誘因をもっているはずである。しかし、それをバックアップする法制度の側に、現実と向き合う動機がない。輸入学問である法律の文言・解釈は、官僚・専門家に(事実上)独占されてきた。その官僚・専門家は現実の経済社会に従う動機はもたない。

現実を法で支えるのが法の存在価値だが、日本では法が先にできて現実が法に従う。多数が少数に従う。要するに、ここから色々なことが生じている。

もしこんな見方が日本に当てはまっているなら、「ヨーロッパでは」とか、「アメリカでは」という議論は、間違ってはいないが、いつも日本が一歩遅れてしまうのは正に「ヨーロッパでは、アメリカでは…」と、そんな議論をしているからであって、小生は、ここに履歴依存(Hysteresis)的な自己回帰メカニズムをみる心地がする。

こんな風に、世に徘徊する多数の<デワの守・一族>を観察しているのだ。


2013年3月27日水曜日

最も意味のない話題 − 人間、死んだらどうなるのか

紙面で予約購読している新聞としては一つになった道新をめくっていると週刊誌の広告が目に飛び込んでくる。目立つからねえ、週刊誌の広告は。

週刊GDにはこんなことが書いてある。『人間、死んだらどうなるのか』、医者・科学者が明かす「死後の世界」; ノーベル賞・山中教授の「死生観」;「天国へ行く人」、「地獄におちる人」とある。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した学者・山中教授まで登場しますか。しかし、死んだあとのことまで生理学・医学の専門家の領分なのか?人間の生命は永遠である、と。そんな霊魂不滅説を信じて書いているのか。分からぬ。

ま、それはともかく、医者・科学者が明かす『この世で生きるという事は』。こんな記事があったらどうするか?誰も信用しないだろう。現に、我々、この世で生きているのである。その我々に向かって「生きる事はかくかくしかじかである」とまとめるなど、人間の一生がこれだけ多様・不平等である、事故死、病死、自殺など死に方もバラバラである中、人生を総括するなど意味がないことは、熟知しているからである。

生きる事すら総括できないのである。死んだ後はこうなると総括できるはずはないであろう。そもそも天国と地獄となぜ二分類なのか?行く手は三つに分かれているのではいけないのか?五段階評価もあるので、秀・優・良・可・不可の各クラスに分かれて、死後の世界、まあいわば第二の<超人生>を始めるのではロジックに反するのか?

編集は自由だが、この程度の記事をカネをかけて出版するよりは、より良質な携帯小説の創作を支援する基金を始めるほうが、日本社会の未来の役に立つのではなかろうか。そんなことを思ってしまいました、はい。

2013年3月26日火曜日

社会の理念はあらゆる組織で最優先するべきなのか

国家を構成する国民としてみれば、日本人はすべて平等であり、国は個々の国民を差別してはならない。権利も義務も平等である。

しかし、民間企業は効率的生産と利益の実現を目的に設立された独立組織である。

社内は決して平等ではない。

上位の階層にある者は組織構成に則って下位の者に業務命令を下す事ができる。有能な社員を優先的に配置して、組織全体の効率的運営を実現する事は日常に行われている、というかそれが大事な事である。そもそもビジネスマンたるもの、会社が平等原理で成り立っていない事くらいは、とっくに分かっているものだ。まして軍隊、警察においておや、である。兵がどう行動するか、兵士の民会で決議をして、その決議にそって上官は作戦を決めるようにさせよう、と……本当にバカであります。組織の自己否定だ。

いかに民主的な国家に暮らしていようとも、起きている時間は大体は社員として動いている。そこでは命令を受けつつ動いているのだ。平等社会といっても、具体的毎日の次元においては、上役のプレッシャを感じつつ生きているのであって、国全体の平等の哲学は多分に理念的なものである、というのが現実なのだな。

こむずかしい話しなどせずに、周りを見なさいって。どこが平等ですか?そういうことであり、やはり現実と理念は区別して考察する必要がある。

国家が自らの構成原理を、国家内部のあらゆるサブ組織に貫徹させようとすると、全く愚かな行為となる事はままあることである。会社の組織運営に自由・平等・博愛の徹底を強制する、思想・表現の自由などを持ち込んで議論し始めると、国は残って暮らしは滅ぶことにもなるであろう。

国家とそれ以外のサブ組織は目指す目的が違うのであって、それ故に組織原理も違うのである。内部に多様なサブ組織を含む国家というメタ組織は、決してピラミッドの頂点ではなく、風呂敷のような存在だと考える。それが小生の国家観である。

× × ×

朝日新聞に以下の報道がある。
まだまだ働き続けるつもりだったのに「仕事は年度末の3月末まで。4月からは来なくていい」と告げられ、納得できない――。短期の更新を繰り返し、市立図書館で丸5年働いてきた女性からの相談です。
(中略)
更新が年度ごとで、働ける期間を通算3年や5年に限る自治体もあります。こうした運用は、労働者だけでなく、仕事に慣れた熟達者を失う自治体にも、サービスを受ける市民にも不利益です。不条理な「官民格差」に、きちんと抗議の声をあげれば、制度改善につながるはずです。
(出所)朝日新聞、2013年03月25日配信
 多様な働き方、幅広い就業形態を提供することは、雇われる側からみると選択の範囲が広がることである。選択範囲は、せまいよりは広い方が人々の便益にかなうというのが理屈だ。だから、官公庁組織において有期契約職員を雇用しているのは、雇う側にとっても、雇われる側にとっても、よいことであるに違いない。

短期雇用のマイナスは、なるほど期間が終了すれば、延長・再雇用の手続きを経なければ雇い止めになってしまう点にあるだろうが、反対に有期契約であるので延長せずに当期限りで突然退職したとしても、本人が不利益を蒙ることはない。つまり、短期雇用には短期雇用のプラスとマイナスがあり、長期・不定期・正規雇用にもプラスがありマイナスがあるということなのだ。

期間を定めない正規雇用はすべてプラスで、期間を定めた短期雇用はすべてマイナスということはない。プラスマイナス両面があるという事情は、雇用する側・雇用される側、どちらにとっても同じである。だから就業形態には広い選択肢を提供して、ベストミックスで組織を運営するのがよい。組織は、組織全体の利益を目指すわけであるし、雇われる側もまた自分と家族の生活を第一に考えるのが当たり前である。

上に引用した報道を読んでいると、どうもあるレストランでカレー、サラダ、コーヒーをアラカルトで注文して、それを食した後、臨席の人が同じ品をセットで頼んでいる、しかも価格は隣が800円であるのに、自分はバラ買いだから1600円する、「これはおかしい、バカにしている」と店にクレームをつける。「ほとんど同じものを食べたのだから、値段もほとんど同じであるべきだ」と。そんな連想をしてしまうのだな。

レストランの経営者は、すべての客を平等に扱わなければならない、などと国家建設の平等理念を持ち出してきては、かえって現場が混乱するのではなかろうか。やはり物事には節度が大事で、過ぎたるは及ばざるが如し。教条主義は社会全体を硬直化させることになるのではなかろうか。


2013年3月24日日曜日

日曜日の話し(3/24)

昨日の投稿では宗教と後戻りのできない歴史が触れられている。正面から議論するととても巨大なテーマで何気に語る話しではない。ではないが、現代とのつながりでいえば、イスラム教。マホメットが始めた運動が、あれよあれよと膨張して、ついにはサラセン帝国というイスラム国家が登場するその事を連想する。その発端は、その頃、狭量化が激しかったビザンティン帝国の中央政府による政策ミスではないかと思うのだな、もちろんアマチュアの目だから大外れになっているのかもしれないが。

とはいえ入門的な出典はある。ポール・ルメル「ビザンツ帝国史」(文庫クセジュ)にも概説されているように、ビザンティン帝国内においてシリア、エジプト、パレスチナなどアラブ人居住地域は、ローマ帝国以来、キリスト教が国教となっていたが、ただそれは「単性説」による宗派であり、コンスタンティノープルを含むギリシア地域とは異なるものだった。マホメットが予言者として登場したとき、シリア、パレスチナ一帯には帝国からの分離を願望する社会心理が蔓延していたという。それを放置したのはコンスタンティノープルの中央政府だ。こんなアウトラインである。

ビザンティン帝国の宿敵は、ずっとササン朝ペルシアであったのだが、イスラムの勃興のあと7世紀後半は、サラセン帝国との闘争が主になった。この世紀は東ローマ帝国の最も暗い100年となるが、この苦闘の中でむしろ帝国は異質な地域と民族を放棄し、それによって東ローマ帝国はギリシア人を中心とするビザンティン帝国として再生することができたというのだから、何が幸いするかわからないのが人間社会である。再生して、西暦千年前後には地中海世界で最も富裕な黄金の帝国を建設する。

イコンは買うには高額である。しかし、欲しいのだなあ。アンドレイ・ルブリョフはいいねえ。もっともルブリョフは帝国が滅亡する末期に生きた美術家である。ロシア人だが、ビザンティンの美はブルガリア、ロシアが継承した。

ルブリョフ、聖ミカエル、1420s

7世紀前半、東ローマ帝国のヘラクレイオス帝は有能な皇帝であり、ペルシアが侵略した地域の返還を実現したが、治世の末期、勃興したアラブ人にダマスカスを奪われ、その後パレスチナを失い、エルサレムが陥落する。アレクサンドリアもアラブ人の手に渡る。その後のイスラム国家の拡大は歴史に記されているとおりである。

キリスト教正統派とイスラムに靡いた宗派のどこが違うのか、そもそもイスラム教自体がキリスト教異端派と言えるのではないか、小生は専門家ではないので教理の細部は分からないが、現代につながるイスラム教の誕生は、時代と人に恵まれたかなりアクシデンタルなものであったと言えそうに思う。

偶然による歴史の進展は、プロには予想できないものだ。ま、想定範囲には入っているのかもしれないが、近い過去を振り返るまでもなく、現実の歴史は想定外の事件に満ちている。そして、その進展は元の軌道に復帰するものではなくて、不可逆的な変化になる。これが小生の<歴史観>といえば、そう言えそうである。

となると歴史法則はすべて後付けの理屈っていう主張になるかねえ。



2013年3月23日土曜日

宗教の「社会的意義」って、そんなものがあるのか?

本日は月参りの23日で、寺の住職が仏前で経を読んで帰っていった。何ヶ月かずっと住職ではなく、ご隠居のほうが来てくれているのだが、素人には役職名である住職も、職業名である住職も区別がつかないものだ。ちなみに職業資格としての僧侶になって、寺の住職位に就けない人は<ハチス・ネット>など僧侶派遣サービスに登録してスポットの仕事でやりくりしているようだから、仏教世界も厳しくなっている。

住職は(原則)世襲である。今日来てくれたご隠居は寺の5代目だったか、6代目だったか、以前、一度話しをきいたことがあるが忘れた。読経が終わって茶を一服しながら、お孫さんの話しになった。この春、大学を受験したが琉球大学に合格した。もうすぐ引っ越しだとのこと。何を考えているのかと慨嘆の様子だ。「30歳くらいになってから、もう一度大学に入り直して、寺を継ぐのじゃないかなあ」と。最初から跡継ぎ一筋の勉強じゃあ、つまらんだろうと小生も思う。

× × ×

宗教は、救済なり安心を求める個人/個人の集団がいてこそ意義がある。社会を救うとか、社会を改善するとか、そんな目的は本筋ではない。今日の月参りは、他力本願の浄土宗であるが、その浄土宗を全体として総括し、信徒全体の一体性を維持するべく管理業務を担当しているのは総本山である知恩院であり、その他の寺院組織である。先日はどこかの何かを補修するとかで寄付金を募集していたが、それは宗教とは別の<宗内行政>である。大宗教の宗内行政と宗教そのものは区別しないといけない。

<宗内行政>といえば、ローマカトリックの新法王”フランシスコ一世”を思い出すが、報道をみていると、小生、日本の戦国時代の掉尾を飾る最終戦争<織田政権vs石山本願寺>の一方の雄である本願寺教団を連想してしまう。カトリックと本願寺教団、どことなく似ているのだなあ。要するに、社会の中である宗教をみると、最後は<人数>だけが問題になる。

組織の一声で、組織の長による声明(ないし煽動)で、何百万人かが動くようなら、その組織が宗教団体だろうが、軍隊だろうが、同じことであって、それはもう政治勢力に他ならない。だからバチカンと共産党中国との軋轢も、宗教対立ではなく、支配の権力をめぐる葛藤、つまり政治対立であるわけだし、イランのハメネイ師の声明も宗教指導者の声明ではあるが、それよりは反米・反イスラエル勢力の政治戦略であるのだな。ローマカトリックに属する教会の慈善活動も布教戦略であるわけだし、他のプロテスタント、その他宗派の信徒獲得活動と目的は同じなのである。これら拡大戦略の究極的目標は<社会的交渉力の強化>であって、その最終的な恩恵は、信徒全体の上に与えられることを目指している。この点を否定できる人がいるならそう言ってほしい。

× × ×

世界戦略を語ることのできる組織が、21世紀のMain Playerである。メガ企業、メガ宗教、メガ団体、メガ学会 ……、そして国家と国際機関がそうだ。

領土に固執する国家が、カネを蓄積する組織に優位性を奪われるとき、どんな世界が到来するのか?迷える子羊の尊厳は宗教団体が最後には守れるものなのか?神の代理人と財産権の神聖とはどちらが上なのか?全く、分からないねえ、見当もつかない。

21世紀の社会は、これらの大組織の力の均衡で決まると見ている。<階級闘争>の理念は、国民国家中心の歴史観に穴をあけたかにみえたが、共産主義の世界性を信じる者は誰もいなくなった。ヘーゲルの云う<世界精神>とはどこにいったのか?ポスト共産主義を担うにたる理念が登場するまでは、Nation Stateが、他の価値尺度と衝突しながら、人間社会の有り様を決めるだろう。

ま、本日、小生が雑談をしたご隠居は、そんな世界戦略の話しとは全く無縁の人である。世界戦略とは無縁であるからこそ、本来の宗教でありうる。そうとも云える。いずれにせよ、人間の魂や救済の話しは、絶対的・普遍的な話題であって、社会的意義だの、世界だの、そんな無粋なお話とは関係のないことでござんすよ。

古代ローマの水道をみながら、ミロのビーナスは何の役に立ったかと論じてみても、始まらないでござんしょう。何の役にも立たないが、それを美しいと感じる規範意識、統一された感覚。その感覚に反して、世は進んでいかない。それが誰もがみとめる<神性>というものではござらぬか。これが<無用の用>である。



2013年3月21日木曜日

非エルゴード的かつアブソープティブな過程ってなに?

以前の投稿を何気に読み直していると、その時は自然に書いているつもりであっても、あれっと思う下りを見つけることがある。
人生、非エルゴード的である。歴史もまた非エルゴード的である。生命は、正常状態のまわりで循環する運動ではなく、非常に長い目でみれば誕生から成長、老化、死へと変化する非エルゴード的な、アブソープティブな変化である。
長い目でみれば、特定の状態に収斂する、こんな過程はエルゴード的だ。更に、状態確率が一定値に収斂するのではなく、不可逆的な状態があって、超長期的にはその状態にほぼ確実になる。そう予想できるならアブソープティブな過程である。超長期的には人間誰しも死を迎える。なので、上のように”非エルゴード的、かつアブソープティブ”と言ってしまうと、ロジックとしてはおかしいのだな。

しかし、その時は自然な感覚で書いたことだ。歴史が非エルゴーディックであることは、1993年にノーベル経済学賞を受賞した学者Douglass Northが著書” Understanding the Process of Economic Change”の中で力説していることだ。歴史上現れたすべての制度、組織、システムは、環境への適応を常に求められており、善悪のモラルを超えた適者生存原理の中に置かれていた。そして生き延びたシステムとは、不確実な世界で取引コストを最も合理的に最小化できる技術を見いだしたシステムである、と。不確実なショックとショックへの適応過程が歴史であるなら、当然、我々の歴史とは、どこから来たかが分からず、どこへ行くのかも分からない、非エルゴード的な性質を帯びる、と。そんな議論をしている。

人生も同じだ。そんなことを書いたつもりだったが、みんな死ぬ、これは確実に予測できるじゃないか。これはエルゴードじゃないか。

こんな詩がある。
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女の変え姿よ。 
(出所)オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』から「無常の車」
輪廻転生の超長期的な時間の中でみれば、人生もまた、どこへ行くかも分からぬ非エルゴード的な過程であろう。どんな風にして、生きていくか、そして死んでいくか、予想はつかないであろう。そこが非エルゴード的である。そんなニュアンスで書いた下りであったのだ。

TPPでどうなるか?
分かりませんよ。ただTPPに入らないより入って自由化するほうが、中期的に日本の実質GDPが拡大するのは、まず確実であると小生は確信している。それが経済の理屈であるし、戦後日本の歴史からも立証されているし、もしマクロモデルをまわして、違う数字が出てくれば、そりゃおかしいと感じるはずだ。しかし、20年、50年、100年の単位でみて、日本の歩む歴史がどう変わってくるのか?全く見当がつかない。日本が日本のままでいるのか、いないのか?正直、分からないのだな。でもまあ、そんなことを云えば、約300の分国に分かれて、憲法も議会もなかった江戸期・封建制度の日本より、不完全ではあったが明治日本になって良かったと。その後の150年程を集計して、そう思わないかい?そんな話しであると見ているのだな。

2013年3月19日火曜日

ビジネスが習慣を決める、それとも逆?

ガルブレイスが主著"The Affluent Society"(1958年、邦訳『ゆたかな社会』、1960年)の中で、メガ企業による宣伝と、宣伝によって自分が何を欲するかを決める「消費者」という存在、そんな現代資本主義社会を描写した時には、ビジネスが習慣をつくるという見方が現実にぴったり当てはまるように感じた。

いい例がバレンタインデーだ。小生が10代の頃にはなかった習慣である。ましてホワイトデーなどは言葉すらなかったと思う。ボジョレー・ヌーボーも恵方巻もそうだ。今も続いているそのころの習慣といえば、新しいものでは歳末の第九コンサート。年の瀬にベートーベンの歓喜の歌を聴く、そしてやがて来る年に思いを馳せるのが、まあ自称・知性派・エリート青年の行動パターンになりつつあった。その青年集団は、いま現在、70歳台である。いまなお社会の消費生活を主導していく意気が高いと耳にしている。シルバー文化華やかな時代がこれから到来する可能性もあながち否定しきれない。

こんな記事がある。少々古いが後々の参考情報として引用しておきたい。
バレンタインのお返しは「あげたチョコの金額より多いか同額分は欲しい」と考える女性が、義理チョコで6割、本命チョコで5割以上もいることが、イザ!とサンケイリビング新聞社のサイト「シティリビングWeb」が実施した合同アンケートで明らかになった。 
 義理チョコの方が、高額なお返しを期待しているようで、「『3倍返し』というくらいだから期待している」との意見も。一方、約3割の女性は「お返しはなくてもOK」だった。 
 「バレンタインはあった方がいいか」という質問には、「なくなってほしい」「興味がない」が7割を占めた。「あった方がいい」は3割だけで、「職場での義理チョコが面倒だ」との意見が多かった。 
(出所)msn産経ニュース、2013.2.1 18:26配信
 「義理チョコ」という普通名詞は、小生がサラリーマン ― まあ月給トリという意味では今もなおサラリーマンではあるが ― をしていた頃は、まだ使用されていなかった(と思う)。でもまあ、デスクの上に何気に置かれてあったチョコレートは、文字通りの義理チョコだったのだろうと今にして思う。

上の記事にあるように、義理チョコに対して、それと同額乃至三倍返しのお礼をホワイトデーに期待するというのは・・・、これはガルブレイスが指摘するビジネス主導の習慣形成消費、つまり依存効果でなくして、一体なんと言おう。

それにしても『義理チョコ謝絶』の字を記した小旗が販売されていないのは、これまた不思議である。お子様ランチにたてられている日の丸よろしく、謝絶札をデスクに置いておけば、気持ちだけを受け取り、実物は断ることができよう。余計なお礼を返す煩わしさも避けられよう。謝絶の字を記した扇子を置いておけば『お断り』、多謝の字を記した扇子を広げておいておけば『ご笑納』。これも中々優雅にして能率的なオフィス内習慣になりうるか。扇子に和歌でも、くれ竹万年毛筆をとりだしてサラサラと認めておけば、もっと文化的で奥ゆかしいビジネス生活となろう。

資本主義経済は、需要のあるところ供給がある。小生思うに<義理チョコ謝絶旗・謝絶札>には必ずオフィス内ニーズがある。そのニーズを狙った新商品が発売されないのは、バレンタインデー/ホワイトデーという行事そのものが、地に足の着いた生活習慣というよりは、ビジネス主導のマーケティング戦略であるからだろう。それがもう4、50年もの間、単純反復されて、年中行事になっている。これではイノベーションは起こりますまい。

それともそんな小旗はもう販売されているのだろうか。

それに対して恵方巻は関西地方の生活習慣が商品化されて全国に広まったもののようだ。最近では北海道地方でも節分の日には売るようになった。こちらは、やりたくない人はやらないだけの話しである。他地方で廃れても、元々習慣として根付いていた関西地方では、ずっと継承されていくに違いない。もっと新たな習慣、ひょっとするとフェスティバルやカーニバルなどに大化けすることもあるかもしれない。

想像できないことだけに面白さを感じる。
小生、だんだん、そんな風になってきた。

2013年3月17日日曜日

日曜日の話し(3/17)

本日は亡母の誕生日なのだが、腰、太ももの痛みがおさまらず、それに昨夕は食材を買ってくるのに頭が一杯で仏前の花が枯れてきていることを失念してしまった。起きた後、仏花はなしで合掌する。初めてだな、こんなのは。

近くの温泉に行って暖まろうと思うが、日曜のこととて入浴客で一杯である。幼児が走り回っていて甚だ危ない。短時間で早々に出る。気温が上がっているせいか、道は雪がとけてドブ池のようになっている。轍の尾根を走っていると、雪がやわらかくなっていて、峰が崩れバシャンとなる。「クソッタレのような道だなあ・・・」、身体の調子も悪いので、悪口雑言をはきながら、車を走らせる。

宅の厠には書棚をつくっていて、このところは『佐伯祐三のパリ』(朝日晃・野見山暁治)を手にとることが多い。巻末に年表がある。佐伯祐三が世を去ったのは1928(昭和3)年である。その同じ年、第1回普通選挙が実施される一方、共産党の全国的大検挙があった。前の年、27年は春3月に金融恐慌が勃発して銀行の取り付け騒動があり、7月には芥川龍之介が自殺した。画家の万鉄五郎が他界している。更に、その前の26年は大正天皇が崩御し時代が昭和になった。明治美術の大黒柱だった黒田清輝が他界したのは1924年、23年には白樺派の作家・有島武郎が自殺し、大正理想主義を主導した雑誌「白樺」が廃刊となった。関東大震災で江戸以来の東京が崩壊したのは同じ23年のことである。佐伯祐三が生きた最後の5年間は、文字で読むだけでも、世の中全体、誠に騒然としていたようだ。

(出所)http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000021816.html

佐伯が渡仏してブラマンクを訪ね、「このアカデミズムが!」と酷評されたとき、それまで作り上げてきた画家としての自我は崩壊したという。この自己崩壊のあと再生を果たし、短いながらも「芸術家の生涯」を全うしていた時期、まさにシンクロナイズして明治国家もまた自己崩壊プロセスを歩んでいた。そう言ってもいいと思う。明治維新を経て明治・大正と富国強兵を達成した古い日本が根元から倒壊し、歩むべき方向を喪失していたわけだな。人的にも、物的にも、思想的にもこの先昭和20年の敗戦までの20年余の間、日本はずっと迷走を続けたと言ってもいい。

「人は務めている間は、迷うにきまっているものだからな」と、ゲーテは『ファウスト』(森鴎外訳)で書いている。天上の主は、このあとファウストを唆そうとするメフィストフェレスに「だがな、いつかはお前は恐れ入って、こう云うぞよ。『善い人間は、よしや暗黒な内の促に動かされていても、始終正しい道を忘れてはいないものだ』と云うぞよ。」、論理学でいう対偶をとればこうなる。迷いを知らないのは努力をしていないことの証しである。正しい道に戻ることなく、悪い道を歩き続ける者が、悪いのだ。善い人間と悪い人間は、どんな道に戻っていくかで分かる。

戻るべき原点が大事だ。大正デモクラシーが普通選挙に結実したあと、再確認するべき国家百年の初めが<尊王攘夷思想>であったとすれば、当時息をしていた人々の声音まで再現できるわけではないが、これはあまりにも無知蒙昧、いや情けなさに涙こぼるるというヤツだ。上の命題を参照するまでもなく、明治国家は、詰まる所、国家の設計ミスによるものと小生は思っている。明治国家が、最終的にとった道は最初から本質的に用意されていたと考えるのがよい。あの人がいたら、この人がいればという話しではない。

戦前期日本と戦後日本の間には、深い断絶がある、いや断絶をおいたうえで戦後をみるべきだ。戦後日本の建設は、どこからはじめたか?アメリカに言われたから、というのは屁理屈だろう。当のアメリカだって、自分たちのいうとおりに日本はやってきたなんて、思っちゃおるまい。すべて日本人がその時々の環境の下で自らが選んでやってきたことだ。戦後の初めに何を考えていたかをもう一度振り返ることが大切だ。根と幹を描けば、概ね樹全体をどう描くか、決まるものだ。100年後の日本は、戦後58年を経た現在の日本がどう成長するかという話しで、それ以外の話しにはなりえない。憲法で現実が決まる理屈はなく、むしろ現実にあった憲法にすることしか可能ではない。

国家百年の計は思うがままに立てられるわけではない。
既にあるいた何年もの時間のありように束縛されている。

2013年3月15日金曜日

神経痛湯治録 ー 四時巳に備はる、か

生まれて初めて味わった座骨神経痛ではあるが、何しろカミさんが起き上がれない状態なので、何とか三度のメシだけは作ってきた。今日になってやっと「湯治というくらいだからなあ、それに近くの温泉は神経痛・リウマチが効能第一だったはずだよ」というので、正午を間にはさんで4時間程、温泉につかってきた。

まず湯にはいり、体を温める。出て館内にある理髪店の都合をきく。あと30分はだめだというので、予約をする。昼食をとるのに丁度いい時間なので炒飯を食って、それから髪を刈ってもらう。で、また湯にはいる。そんな風にして上がると汗が止まらない。もう一度はいるか、でも一日で治るわけもないわなと思う。

露天湯に浸かり、まだ残雪がまぶしい山の斜面をみる。白樺の幹が雪に接する周りは、暖かいのか雪がとけて、ぽっかりと空間ができている。春を感じる。生きているんだなあと思う。おれが神経痛で温泉に入っているとはねえ…やきが回ったなあ、とそう思う。そういえば祖父が言っていた。『麒麟も老いては駑馬に劣る』。歳はとりたくないものだ。でもまあ、あれだな。杖をついて、足をひきずって歩いても、それはそれで晩年の姿としては渋いじゃないですか。騎士シラノ・ド・ベルジュラックが、修道院にいるロクサーヌを訪れるとき、確か足をひきずっていたはずだ。絵になっていたねえ。年齢にふさわしい姿というものがあるものさ。吉田松陰だったなあ、人生四時あり。人生には長い短いを問わず、自ずから春、夏、秋、冬という四つの季節があるものだ。自分の人生は、他人より短いと嘆く人がいるかもしれないが、ちゃんと四つの季節があり、いま終わるべくして終わっていくのだ。実がならずして世を去るが、自分の志を受け継ぐ人がいてくれれば、秋の収穫にも恥じない人生であったと思う。そう考えてくれというのが、遺書「留魂録」だった。

あつくなってきた、足湯にするか。それにしても、あの爺さんは平気なのかなあ、まだどっぷりと浸かっている。

最初の20年は春だったのかねえ、父も母も元気で。ただあれか、高校時代から父は病気がちだったなあ。次の20年では父が亡くなり、自分は役人になったが、家はバラバラになった。結婚をして、母をなくし、40歳になってから北海道のいまの大学に移ってきた。その後の20年は一番平穏だった。子供達は元気に成長した。そして平均寿命が80歳だとすると、最後の20年にさしかかっている。そんなわけか。だとすると、あれだな、ただの神経痛で、治ったら元どおりになるってものではなく、死に向かって歩みを進めている帰らざる河。その河をまた一つ渡ったということか。人生、非エルゴード的である。歴史もまた非エルゴード的である。生命は、正常状態のまわりで循環する運動ではなく、非常に長い目でみれば誕生から成長、老化、死へと変化する非エルゴード的な、アブソープティブな変化である。

いつ治るのかなあ・・・ではないかもな。あとはずっとこうなのかも、な。いまの状態になれて、いまのままで楽しいことをするのが、これからの課題なのかもな。できないことは随分増えたが、その代わり理解できることは増えた気がする。理解できることが増えれば、それだけ幸福へ一歩近づくということでもあるだろう。不幸の根本的原因は理解力の不足であるというのが永遠の真理だそうだから。絶対的に悪いことは世の中にはないというからな・・・

今日はサウナはやめておくか。
また空が曇り風が強まってきた。
本当に今年の冬はさきが読めない。

2013年3月12日火曜日

昔と変わったものの一つ — CMソング

カミさんが先週末に再び、というか三たび、ギックリ腰になって、目下の所、小生が料理をしたり、買い物をしたりという毎日だ。と思っていたら、小生までもが(生まれて初めて)座骨神経痛なるものを経験する羽目になった。カミさんと一日遅れで、なにか足がだるいような、臀部がこっているような感じがしたのが、深夜になると痛みに変わり、眠れなくなった。幸い鎮痛剤のバッファリンを服用すると楽になる程度のものだから、何もできないわけではないが、服用せずにねると痛みで深夜3時頃に目が覚める。そこでまた飲んで朝まで熟睡するという状態だ。

やはり歳である。

歳と言えば、そろそろ『今昔物語』というわけではないが、今と昔を比べてみても許されるのかもしれない。

いつの間にか変わってしまったなあ、と思うのはドラマ主題歌とCMソングの立場逆転である。20年程前は、CMでも名作というのがあって、そこでは一度聞いたら忘れられないような名曲が流れていた。特に日本航空とか、化粧品メーカーとか、製菓会社などのCMからはヒット曲が生まれていたように覚えている。

それがいつしか、CMソングというよりドラマの主題歌にとって変わられるようになった。主題歌といっても冒頭に流れるのではない、最後のそれもドラマとはあまり関係なく一度だけ流される、まあその意味では聞いてほしいタイミング探しの結果として、CM枠ではなくドラマ終了直後の映像が選ばれているのかもしれない。そんな「主題歌」である。

DVD/BDレコーダーの普及率は、保有世帯を重複カウントしているとも思われるが、下の図をみると、既に80%近いということがわかる。


(出所)http://www.garbagenews.net/archives/1927136.html

小生もそうしているが、気にいったドラマは録画をして複数回観る人が多いと思う。リアルタイムでの視聴にはこだわらないかもしれない。ドラマなど、むしろリアルタイムではなく、10分遅れの「追っかけ再生」でみたほうがCMをスキップできて、流れがよくなるくらいだ。CMはスキップするが、予告編はみたいし、最後のエンディングはもちろん観る。そこで流れる音楽は必ず聴くわけだ、な。そもそも、テレビのCMをみて、購入する商品を決めるなど、昭和時代の行動パターンであって、いまはAmazonや楽天の口コミが一番参考になる。

ただそうなると、民間放送というビジネスモデルは根底から崩れてしまう。録画でみようと思っていても、あるいは「追っかけ再生」でみていても、そんな形の視聴は視聴率調査ではすくいとれない。というより視聴には計上するべきではない。視聴率とは、あくまでも、費用を負担しているスポンサーのCMを潜在顧客がどれだけ観ているかを伝えるための指標なのだから。いくら人気のあるドラマを流しても、録画でそれをみるようじゃあ、スポンサーが制作コストを負担する動機はないわけだな。

放送局は、リアルタイム視聴率をあげるのが経営課題である。そのために努力するが、視聴者の方はできれば高機能録画機でCMをカットしてコンテンツに集中したいと思う。結局、高視聴率を得るには<はやく知りたい・いま観たい>番組を放送する傾向が出てくる。それはニュース性をもったコンテンツだ。

しかし、ニュース性をもったコンテンツをTV局が放送するとき、視聴者がTV受像機の前にいる保証はない。速報性をもとめる視聴者は、視聴の場所を問わないスマートフォン、タブレットにシフトする。YouTubeでハイライトをみればそれでいい。そんな動きを将来とも止められないだろう。だから、いわゆる報道重視路線を成功させるには、よほど工夫しないといけない。

マスメディアとしての価値を測る上で、TVがタブレット+インターネットに敗退するのはほぼ確実だ ー であるとしても、もちろん、再生機としての大画面・薄型TVが不必要になるという意味ではない。10年後、民間TV局が一体どんな番組を放送しているのか、小生には想像すらできなくなってきた。



2013年3月10日日曜日

日曜日の話し(3/10)

日経WEB版をパラパラと ー という表現はおかしい、紙面ではないからなんと言おう、マックのタッチトラックパッドを二本指で擦っているので、ズリズリとになるのか ー 見ていると、日銀の金融政策の<窮極的目標>は物価上昇2%であるのか否やについて、目下議論が持ち上がっているとのこと。
中央銀行や学者の間ではここ数年、物価目標のあり方を巡る議論が活発だ。ハーバード大のジェフリー・フランケル教授は昨年、「物価目標の死」と題する小論文を発表。金融危機の経験などを踏まえ、物価でなく名目成長率を目標にすることを考えるときだと結論づけた。

 90年代前半に物価目標を導入したスウェーデンは90年代後半以降、目標から外れる期間が続いたのを受け、物価以外の要素にも配慮する姿勢に変えた。物価目標を柔軟に考える動きは他の中央銀行の間でも出ている。目標の定め方から量的緩和の進め方まで金融政策を巡る世界の議論は百家争鳴の感がある。

 翻って今月から新体制となる日銀。周回遅れで「物価目標クラブ」に仲間入りする。デフレ脱却へ向けて明確な目標を掲げるのはよいことだ。物価上昇期待が高まれば株価や為替に影響を与え、景況改善につながる。

 だが、政策目標を巡る世界の議論が多様化しているのと対照的に、国内の議論は単純化しつつあるようにも見える。

 安倍晋三首相は、政府による日銀総裁解任権を盛った日銀法改正もちらつかせつつ2%目標の早期達成を日銀に迫る構え。達成時期については国会議論などを通じて「2年」という数字が独り歩きし始めた。首相らが出席する経済財政諮問会議では「いつ目標に届くのか」に議論が集中しそうな気配もある。

 大胆な金融緩和は大いに進めればいい。だが、その究極の目的はデフレから脱却し、持続的な成長を実現することである。国債への信認が保たれ、金融システムに不安はないかなど信用秩序への目配りも大切だ。
(出所)日本経済新聞、3月10日
日曜日だから、物価上昇率目標が政策ターゲットとして適切なのか、不適切なのかを論じるのは今日はやめにしたい。上にあるように名目GDPを使うのもよいが、それならそれで適正な名目成長率を定める必要があり、それは実質成長率目標を定めるより難しいかもしれない。 以前に一度、本ブログで名目賃金の安定が大事だと書いた記憶がある。しかし、文字通りに名目賃金を固定すると、労働生産性は上昇しているので能率労働単位当たり時給は下がることになってしまう。だから、実際の運用は名目賃金の安定を目標にしても、やはり難しい。

ただ、いまやっていることの窮極的目標は何か、と。確かにそこから誠実な良心をうかがうことができるが、たとえば数学を勉強する時に、原点と任意の一点との距離は、その点のX座標とY座標を二乗した和で定義しよう。そうするとピタゴラスの定理が成り立つ世界になるわけで、日常感覚にもあうし、使いやすくもなるのだが、ここで<なぜ、このように決めなければならないのか?ほかにも決め方はあるのではあるまいか??>と、前提というか公理に対して本質的疑問を持ち出すと、確かに前提は複数あって、その認識が数学の発展を導いたのも確かであるが、だからといって常識的なピタゴラス式の空間は低レベルだということにはならないわけである。加えて理論的な進歩には、実に長い時間を要するのが常であり、そんな進歩を待っていると問題は解決できないのだな。

政策現場の人間が、議論の出発点に対して、この出発点は果たして究極的意味合いがあるのか?どうもそういう疑問は感心しない、というか小生の職業倫理には反している。そんな疑問の考察は、学者にゆだねるべきではないか。別の出発点から政策を決定するにしても、為すべき行動はそれほど大きくは異ならない。現場の人間は行動で価値が決まる。そういうことじゃないかと小生は考えている。むかし恩師から"Only result comes"と何度も耳にしたが、その後に"not from discussion but from action"、そんな風に自分勝手に補って記憶したものだ。

それにしてもマネーや為替レートが、これほど重要なものだというのは、不思議に感じる。だって二つとも生活の実質を決める財貨サービスではなく、単なる数字、せいぜいが紙幣という紙にすぎないのだから。

市場で決めることができるのは相対価格、つまり<交換比率>だけである。絶対的な価値を数字で決める能力は市場にはない。これが純粋理論で確認されていることだ。為替レートもA国とB国が発行する貨幣の交換比率にすぎない。その交換比率は、政治方針や中央銀行の裁量で不安定に変動し、その為替レートがA国製品とB国製品の交換比率(=国際競争力)をも(足下では)決めてしまう。実は、(長期的には)そんな風にはならないのだが、ケインズも言っているように『台風で海が荒れている時に、やがて台風が過ぎ去れば海も穏やかになるでしょう』と、そんな正統的な理屈は成る程ありがたくもないわけだ。

実は、芸術家で一家をなした人は銀行家を親に持つ人が意外に多い。セザンヌもそうだし、ドガもそうだったはずだ。また金融業者を顧客にもつ美術家は、近代という時代が来てから、大変増えてきた。古典派の巨匠であるアングルの下の作品も一例だ。


アングル、ジェームス・ロスチャイルド男爵夫人、1848年

ロスチャイルド財閥はドイツのフランクフルト・アム・マインが発祥の地である。現在もフランクフルト市場は欧州有数の金融拠点だが、ずっと昔からフランクフルトはマネー取引の中心だったわけだ。

ナポレオン戦争に敗北したあとのフランス政府が対仏同盟各国に支払うことになった賠償金は国債を発行して借り受けるしか手がなかった。この仏国債を一手に引き受けたのが、父の指示で英国からフランスに移り住んでフランス・ロスチャイルドの祖となったジェームスであり、上の肖像画の夫君であるわけだ。

その後、フランス国債が無事償還されたのか、フランス国内の物価上昇率はいかほどであったか。小生は不勉強でまだ調べていない。ただ上の作品が描かれたのは1848年で、二月革命が勃発した年である。ナポレオン戦争後のフランスは、30年7月革命、48年2月革命、そして52年にはナポレオン3世によるクーデターが起こる。71年には普仏戦争に敗北する。そういう激変の時代である。仏国債は紙切れになったのではあるまいか。そんな心配も胸をよぎる。それでも19世紀後半のフランスは全欧州の文化の中心として人をひきつけたのだから、政治的不安定や軍事的弱体とその国の文化的発展は別物じゃないか。そんな風にも思われるのだな。


2013年3月9日土曜日

イノベーションは我慢から生まれることはない

北海道は3月になったというに相変わらずの厳冬である。振り返れば昨年12月から天気はおかしかった。ドイツの記録的暖冬がそのうち日本に回ってくると素人予測をたてていたが、とんでもない結果である。桃の節句にもなってから、道北では地吹雪の中、悲惨な事故すら起こってしまった。雪の多かった冬、寒さの厳しかった冬、ドカ雪に吃驚した冬、……、色々な冬を経験したが、こんなに<性悪の冬>は初めてだ。と、自然現象に怒りをぶちまけていても仕方のないことだ。
× × ×

道新の社説をなにげなく読んでいると − 3月から日経はWEB購読だけにしたので紙面は道新一つになった − 冬の節電について論じていた。道新という新聞は、基本的方向には賛同することが多いのだが、時に経済合理性をはなから考えず「敵幾万人ありとても」風な素朴自然回帰主義を振り回すことも多いので、その点かえって辟易することもままある。
値上げをたてに、泊の再稼働を迫るようなやり方は認められない。
合理化努力はもちろん、再生可能エネルギーを含む電源の多様化、節電を促す料金メニューの設定など新たな経営ビジョンを示すべきだ。
この冬は燃料費も高騰している。家庭にとっても、企業にとっても、厳冬期の節電努力は並大抵のものではなかったろう。
だが、省エネのための投資や創意工夫は決して無駄にならない。
(出所)北海道新聞、3月9日
省エネのために努力を払うことは常に大事である。大事でない時はないのであって、むしろ当たり前のことである。再生可能エネルギーなどを増やすべきだから節電が大事であるわけではない。ベトナムはなぜ原子力発電を拡大しようとしているのか、トルコはなぜそうするのか、中国は原発がこわくはないのか、韓国は?アメリカは?イギリスは?・・・やはりそこには同じ<無駄を省く>こと、つまり<節約・節電>への意識があるわけだ。

議論の出発点が最も大事だ。

ずっと原子力発電を国是としてやってきて、大地震と大津波が発生したら電源を喪失することくらい理屈では理解できていたにもかかわらず −だからこそ管理ミスという人災であって、不可抗力の天変地異による災害とは考えない、そうではなかったのか − 実際に巨大津波が到来して、沿岸部に林立する原発施設の中で最も老朽化した施設が事故を起こした。だから、原発は適切ではないのだ、と。こんな議論は、大震災以前の日本人はバカだったのだと、言わんばかりではないか。

小生は、率直に言って、大震災以前に日本人が選択してきたことは、愚かだったとは思わない。つまり原発事故は管理ミスであり、その責任を追及するべきだと思う。責任を追及しないのは、天災によるものだと考えている証拠だ。だとすれば国が東電に対して保険金を支払うべきである。それは許容範囲を超えるほどのハイリスクの証であると考えるなら、脱原発を唱えても論理はとおる。もし保険金を支払わないなら、事故の原因は天災ではなく原発管理者の責任だとみるということだから、被告となりうる会社の経営を国が支えるのはおかしい。どちらの立場をとるかを明瞭にするべきだ。

社説の筆者は、電力価格が上昇するのは安全コストの上昇、代替資源の高価格による論理的帰結であると、そうハッキリと言い切ればよいのである。価格メカニズムが節電を可能にすると言えばよいのである。基本料金・使用量料金の二部料金制や、大口電気料金制などは廃止して、電力を消費すればするほど購入単価が上がるようにすればもっとよい。生活水準は下がるだろう。そこで我慢をする。そんな呼びかけなら理屈が通るのである。安全に暮らせる世の中はフリーランチじゃあないのだ、と。なぜそう言わない?質問したい気持ちを禁じ得ないのだな。

イノベーションは不必要な我慢を拒否する願望から生まれる。挑戦からはじまる。そのためには参入の自由と競争の自由、創業者利益の獲得を保証しなければ、起業家などは出ないのだ。大体、これからは再生エネルギーだと人々の目が向いている状況で、その分野でイノベーションは生まれない。もうダメだと思われた原発分野でイノベーションが生まれて、人々は吃驚する。原発を超えるニュー・テクノロジーが提案されて吃驚する。そんな可能性のほうが高いと思う。そのとき、イノベーションを受け入れて、事業として開花させるだけの器の大きさが日本社会には求められているのじゃあないかと。小生、そう思ってしまいますなあ。

2013年3月7日木曜日

米・独・日が引っ張る機関車景気になるか

NYのダウ平均が中々14000ドルを超えられないと、一抹の懸念をこのブログで投稿したら、その直後に壁をこえ、とうとうリーマン危機直前の高値まで超えてしまい、既往最高値の域に入ってきた。直接の契機はアメリカの景気回復が雇用面からも確認できるようになったこと。
Improved labor market data from the private sector sparked the positive tone and boosted confidence for the U.S. government's payroll report on Friday. The data from payrolls processor ADP followed similarly strong reads on housing and the services sector, reports that have contributed to lifting the Dow to historic levels and pushing up the S&P 500 to just 1.5 percent below its own record close.
Source:   Reuter, Wed Mar 6, 2013 4:45pm EST 

同じ報道は日本でもされていて、日米プラスの共振運動をかもしだしている。
しんきんアセットマネジメント投信運用部の藤本洋主任ファンドマネジャーは、「アベノミクスによるデフレ脱却のイメージだけで、実体経済の改善を先取りして株価は上げてきている」と指摘。政治の要請に応え、業績回復の顕在化を待たずに企業が賃上げに動き始める危うさもあるが、「期待が剥落する雰囲気もないため、目先強い相場が続きそう」とみている。 
6日の米国では、給与明細書作成代行会社のADPリサーチ・インスティテュートが発表した調査で、2月の米民間部門の雇用者は前月比で19万8000人増えた。エコノミストの予想中央値は17万人の増加。また、米連邦準備制度理事会(FRB)が公表した地区連銀経済報告(ベージュブック)によると、住宅や自動車の需要が高まる中、経済はほぼ全国的に緩やかないし、まずまずのペースで拡大した。 
米景気が着実に上向いているとの見方を背景に同日の米国株は、ダウ工業株30種平均 が0.3%高の14296.24ドルと前日記録した過去最高値を再び更新した。
出所: ロイター、2013/03/07 15:55 JST 
日本はいまだ実体のない株価上昇ともいえるが、住宅市場の底打ちに加えて、雇用面の顕著な回復までも見られるようになったとすれば、アメリカの株価上昇には実体面の根拠がある。アメリカに期待が持てるので、アベノミクスに吹く追い風が弱まるとも思われない。ドイツは先に投稿したように回復の加速が確認されている。多分に期待先行ではあるが、期待は持たないよりも、持つ方が実態がよくなるのも事実である。

どうも自己実現的な期待形成プロセスと言えそうだ。足元の実態が同じであるにもかかわらず、経済時系列の生成プロセスが別のメカニズムに移行する、これがレジーム・スイッチングであるし、あるいはまたわずかなきっかけが経済変動のメカニズムを別のものにするスレッショールド自己回帰(Threshold Autoregression)モデルが当てはまっているかもしれないが、どちらにしても足元ではそのデータ生成プロセスの移行が進みつつあるのかもしれない。

もしそうであれば、いま経済分析のプロであるエコノミスト達が語っている見通しは線形思考にすぎず、それに対して現実は非線形に変化する。非常にありふれた例ではあるが、専門家集団の理論的思考が現実をフォローできない、予想がはずれてから外れた原因を考え始める、そんな失敗がまた繰り返されることも<想定範囲>に加えておくほうがいいかもしれない。

2013年3月5日火曜日

日銀新体制 ― インフレ転換に成功するか?

どうやら参議院でも民主党が日銀総裁・副総裁案に賛成する見通しとなり、総裁空白という最悪の事態は避けられそうである。5年前には福田内閣による提案に反対を連発し、日銀総裁の空白を招き、それが民主党の無定見批判にはつながらず、時の内閣の無能力の証明となり、ひいては一年後の政権交代へとつながっていく契機にもなったのだから、世の中わからないものである。

まあ、あれだな・・・、いま参議院の民主党勢が反対して、そのために国会同意がとれず、日銀新体制が発足できないということになれば、日経平均株価はその日のうちに300円か400円程度さがるだろう。次の日もさげて合計1000円の下げになると予想する。そうなれば、これまでの流れをみるとマスメディアは安倍内閣を批判するのではなく、(筋からいえば5年前に展開するべきであった)民主党の無定見を一斉に批判・攻撃するものと思われる。そうした中で、安倍総理の民主党攻撃は熾烈を極めるに違いない ― 颯爽と形容してもよいか。ま、得意分野である。民主党は有効な反論ができるか?・・・はなはだ疑問である。

本日の道新でも民主党の支持率が結党以来はじめて道内で一桁にまで落ちたと報道されていた。安倍総理に経済的混乱の責任を追及されれば、いまはもう3月、夏の参議院選挙では民主党大敗を通り越し、文字通りの<滅亡>とあいなろう。これは怖い・・・、民主党が参議院において政府提案に賛成するのは火を見るより明らかだった。小生は<自主投票>を予想しておったのだが、これもまた実に情けなく、それよりはという消去法であったのだろう。

さて。
岩田氏は中央銀行の資金供給で緩やかなインフレを起こして景気を立て直すことを主張する「リフレ派」の代表格として知られる。所信表明や質疑では物価目標を「遅くても2年で達成できる」と強調。未達の場合は「最高の責任の取り方は辞職だ」と述べ、進退を懸けて取り組む考えを示した。物価目標の達成責任を明確にするため「日銀法の改正も必要」とも指摘した。(出所)日本経済新聞、2013/3/5 11:14 (2013/3/5 12:27更新)
副総裁候補・岩田規久男氏は学者だけあって、実にラディカルである。同氏の『デフレの経済学』 は、以前担当していたゼミで課題図書にしたこともあるが、氏の見解に同意するか、反対するかはともかく、内容の展開は大変整理されていて、主張明快にしてクリアカットな本である。上で言っていることは『物価の変動は完全に日銀の責任である』というものだ。日本銀行法・第2条では次のように規定されている。


(通貨及び金融の調節の理念)
第二条  日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする。
物価の安定は日銀の責任であると規定されている。インフレもデフレも物価不安定な状態であるから、日銀はどちらの状態であれ、問題解決の手段を有していることが大前提である。

<物価の安定>と<物価の変動>とは違う。確かに言葉も意味も異なるが、物価を不安定状態から安定状態に移行させる政策ツールをもっているなら、インフレ状態を安定状態に転換することも、デフレ状態を安定状態に転換することも可能だと言うロジックになる。経済学を勉強したことのない普通の人は、こう考えるのではないか。それを『いやあ、デフレをインフレにするのは難しいんですよねえ、逆なら簡単なんスけどね』と言えば、普通の人は「逆なら簡単なんスけど」という、後段の下りもまた実は自信がなく、全体が嘘なのではないか、と。こう考えるのではなかろうか。

× × ×

日経ヴェリタスでは、金融政策の今後について有力エコノミスト、アナリスト達にヒアリングを行った。その結果がやはり報じられている。

政策技術的には色々な手を予想しているようだ。上の紙面に掲載されている図を使わせてもらう。


最も多かった回答が、本文にもあるように、「資産買い入れ額の拡大」と「国債年限の長期化」。基金で買う長期国債は現在、残存期間1~3年に限っている。これを5~10年に延ばすことで長めの金利を押し下げるわけだ。

ベースマネーを拡大しても何の効果もなかったではないかというのが、かなり多数の経済学者の意見であるようだ。しかし ― ここまでやるかどうかは分からぬが ― 日銀が住宅ローン債権を買えばローン金利を1%程度にまで下げることは可能である。現在、3%超が適用されている小生の変動ローン金利が1%にまで低下し、それが2年程度は続いてくれるならば、2年で100万円程度の余裕金ができる。この100万円で住宅リフォーム投資ができる。ましてや固定金利の新規住宅ローンの話しであれば、総支払額を千万円単位で節約することができるだろう。2年たって政策の効果が出てくれば、また金利が上がると最初から予想されるのだから、上の政策によって住宅新築、増築、改築、リフォーム投資が増加するのは、100%確実であると断言できるわけでもあり ― この点、首をかけてもよいと言っておこう。とすれば、耐久消費財にも需要増加が波及する。これも確実である。
マネーを拡大しても、それだけでは何の効果もない。
この命題自体に誤りはない。問題は実需である。無からマネーを作り出せる日銀が、名目金利を通して、実需を刺激することは常に可能である。小生はそう見ているのだ、な。その意味では、景気循環はマネタリーな側面が強く、すべてをリアルで説明しつくすことは不可能だという「派閥」に属している。

× × ×

でもそれって、住宅需要の先食いですよね、その後はどうなるんですか?

実質金利は、マネーとは関係なく、実物面から決まってくる。かつ実質金利は、各国の市場間で均等化し、世界市場で決まるものである。日本の国内投資が停滞しているのは、実質金利に見合うほどの有望な投資機会が国内にとぼしいからである。投資が増えないから、労働生産性もあがらず、したがって一人当たりGDPが増えず、それ故に生活水準も上がらないのである。インフレとかデフレとか、そのような事柄と、日本経済の停滞とは無関係なのだ。よくこのように解説される。

名目金利はマイナスの値になることはない。名目金利がゼロ金利で、しかも実質金利がプラスにならないといけないというなら、物価がデフレになるのは仕方がない。物価をインフレにすれば、そのインフレ分だけ名目金利が上がるだけだ。インフレ・ターゲットには意味がないのだと。そんな解説もよく聞く。

正統派マクロ経済理論について、本ブログで論じてみても、ほとんど意味のないことだ。そろそろ疲れてきた。経済学は実証的根拠に基づく社会科学である。せっかく内閣が<アベノミクス>を実験すると言っているのだ。アベノミクスが成功すれば、正統派マクロ経済理論が不正確であったことになる。正統派経済学者には残念だろうが、これはこれで良いことだろう。アベノミクスが失敗すれば、その失敗の在りようにもよるが、まずは正統派マクロ経済理論の信頼性が高まることになる。それはそれで良いことだろう。正統派経済学者が提案している政策メニューが、そしてそれのみが正解であることになるのだから。進むべき道が決まることになる。

どちらに転んでも良いことなのだから、まずはアベノミクスによる経済政策を進めればよい。それが小生のいまの見方である。



2013年3月3日日曜日

日曜日の話し(3/2)

今日は日曜日だが統計学会の春季集会が学習院大学であるので東京に来ている。本投稿は、あらかじめ編集しておいたのを、ホテルからiPadで公開したものだ ― キーボードを持参すれば、iPadとLTE接続でどこからでも楽に編集して投稿できるのだが、両方そろうのはもう少し先になるので、仕方がない。

こちらに来る直前、Amazonに予約注文しておいた"Emil Nolde - Meister des Aquarells"が出版予定時期より半年も遅れてやっと届いた。

ナチス政権の支配下、デンマーク国境に近い北ドイツの寒村に隠遁生活を続けながら、何千点にものぼる作品を、主に水彩で描きのこした。それらの作品は、第二次大戦後になってから油彩で描き直されたときいているが、本書は水彩画を対象に約80点を掲載している。


Emnil Nolde, Langensee
Source:  Christie's

上の作品は、残念なことに到着した画集には選ばれていない。本当に残念だ。ま、ネットに出回っている作品が、改めて新刊の画集に入っているのも変な話ではある。

ノルデと言えば、"Landschaft"(風景)、"See"(海)、"Lilien"(百合)がタイトルに頻繁に登場するし、人物を描くときには"Alter Mann"(じいさん、翁など)も数多く使われている言葉である。実際、グーグルで"Nolde Watercolor"を検索すると、夥しい数の作品がネットにアップロードされていることがすぐに分かる。以下の画像もChristie'sから借用した。


Emil Nolde, Dschunke auf See
Source: Christie's

水彩画を描くとき、ArcheやFabrianoなどコットンでできた水彩紙に描くのが普通だが、ノルデは滲みが強く、白色が際立っている和紙(Japan Paper)を常々愛用していたという。そういえば上の2作品とも、特に下のヨットを描いた作品の方は、そのまま日本の墨彩画としても通りそうな雰囲気をもっている。

ただ購入しようとすると ― 小生はノルデの水彩画がほしくてたまらないのだが ― 大変高額である。例えば、上の"Dschunke auf See"は、Realized Priceが£39,650 ($59,316)と記されているから、大体6万ドル、日本円にすれば540万円くらいである。ちょっと手が出せない感じである。

しかし上の落札価格はまだましであって、いかにもノルデらしい海の絵になるとこんな風にレポートされている。
This was a very successful auction with 46 of 48 offered lots being sold for a total of $13,852,210 just below the pre-sale high estimate of $13,953,000. ... Lot 21, shown at the top of this article, is entitled "Meer und Zwei Dampfer Mit Rotem Abendhimmel" and is a 8 5/8-by-10 5/8-inch watercolor on Japan paper that was executed circa 1938-1945. It has a very modest estimate of $70,000 to $90,000 inasmuch as it rivals the best work of Turner. It sold for $167,500.
 (Source: Here)

Emil Nolde, Meer und Zwei Dampfer Mit Rotem Abendhimmel

価格は、16万7500ドル。1ドル100円で換算すると大体1700万円!これはもう絶対的に入手不可能であります。

まあ、この絵を購入する人は、カネを1700万円持っているよりは、カネをこの絵に変えてもった方が有難いと考えるから、この価格で買うわけである。絵を買ってカネがなくなると生活に不便だから、1700万の10倍は流動資産をもっていなければ、この一作品をこの値段で買う気にはなれないだろう。となると、ざっと2億円の資産をすぐに換金可能な形でもっているはずだ。不動産も合せた資産全体では2倍計算するとして、まあズバリ、5億円か。

資産保有額5億円程度の富裕層であれば、上の作品を購入する気になるかもしれない。この一作品に限ってみての推量ではあるが。ま、これはゲスの勘繰りには違いないので、このくらいにして、小生は画集くらいで我慢するとしよう。それよりも、ノルデの水彩画はゼービュルにあるノルデ・ファウンデーションで良好に管理・保蔵されているようだから、時間をみつけて行くのが一番いいだろう。

2013年3月1日金曜日

覚え書きー政治リスクと心身症・鬱病

アメリカ・アップルが生産の米国回帰を進めているとは聞いていたが、台湾のIT企業の経営戦略にも新しい動きが出てきたようであり、どうやら世界的な製造業ネットワークの構造変化が今後進みそうな塩梅である。

本日の日経に以下の報道がある。

台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業が、米アップル製品の組み立てを担う中国の工場で新規採用を凍結すると報じられた。中国ウオッチャーの筆者、ゴードン・チャン氏によれば、この件の本質は「iPhone(アイフォーン)5」の販売減速という問題にとどまらないという。
 鴻海の中国工場は民間企業としては中国最大の雇用の受け皿。その鴻海が、今後の主な投資先を台湾にすると発表した。台中、高雄などに工場を配置する計画だ。ブラジルやインドネシアでも投資を拡大。アップルはパソコン生産の一部を中国から米国に移し、鴻海と組むらしい。
 鴻海が今後の成長の源を中国外に見いだしているのは明らかだと筆者は見る。その理由は中国における賃金の上昇などに加え「政治的リスク」が浮上したからだと指摘する。アジアで中国が絡む衝突が起こり、サプライチェーンが寸断される可能性を懸念する企業が増えるのだろうか。(出所:日本経済新聞、3月1日)
経済活動を人間の身体に例えれば、それは基礎的な新陳代謝に相当する。人間の身体はずっと同じなのではなく、日に日に個々の細胞は死んでいき、新しい細胞が生まれ、その新しい細胞が遺伝情報を受け継いで同じ機能を継承し、全体として同じ人間としてあり続けているわけだ。記憶もそうである。古い記憶は次々に消え去るのだが、それを心に刻印するかのように、日ごとに覚え直しているのである。古く古代ギリシアにおいてプラトンが代表作『饗宴(シンポジア)』において既にそんな議論をしているのだな。同じ人間がずっと80年も生きるわけではない。全体として<同じであるかのように>細胞集団が常に再生されているだけである。こんな理解をするなら、何より再生のメカニズムを人為的に妨害しないことが生命活動を維持する上で大事である。哲学や数学は命があってこその知的活動なのだ。だからこそ、身体の新陳代謝は無意識に行われている。
社会の経済活動も同じことである。政治は確かに最も高度で人間的な知的活動を代表している。だから社会経済のあり方に関係するべきだというのは、人間の身体活動は人間の大脳が受け持って、調整するべきだというのに似ている。『病は気から』という。頭でっかちの人間は往々にして心身症になる。鬱病をわずらう。人間の理性は不完全である。社会的知性はもっと不完全であり、民主的な集団意志決定プロセスをとるなら、基本的な合理性基準を満たすことすらできないことが、ずっと昔、アローによって数学的に証明済みである。政治と言えばきこえはいいが、不完全きわまりない政治的意志が、社会の経済活動を権力的に制御しようとすれば、そう考えることが即ち<政治リスク>になる。当たり前のロジックだろう。
だから米企業・アップルと台湾企業・鴻海が、共産党政府が主導する中国経済のありかたそのものが既にリスクであると。そう判断したのだとすれば、数理的考察から判断しても、大変合理的であると言える。