2013年3月23日土曜日

宗教の「社会的意義」って、そんなものがあるのか?

本日は月参りの23日で、寺の住職が仏前で経を読んで帰っていった。何ヶ月かずっと住職ではなく、ご隠居のほうが来てくれているのだが、素人には役職名である住職も、職業名である住職も区別がつかないものだ。ちなみに職業資格としての僧侶になって、寺の住職位に就けない人は<ハチス・ネット>など僧侶派遣サービスに登録してスポットの仕事でやりくりしているようだから、仏教世界も厳しくなっている。

住職は(原則)世襲である。今日来てくれたご隠居は寺の5代目だったか、6代目だったか、以前、一度話しをきいたことがあるが忘れた。読経が終わって茶を一服しながら、お孫さんの話しになった。この春、大学を受験したが琉球大学に合格した。もうすぐ引っ越しだとのこと。何を考えているのかと慨嘆の様子だ。「30歳くらいになってから、もう一度大学に入り直して、寺を継ぐのじゃないかなあ」と。最初から跡継ぎ一筋の勉強じゃあ、つまらんだろうと小生も思う。

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宗教は、救済なり安心を求める個人/個人の集団がいてこそ意義がある。社会を救うとか、社会を改善するとか、そんな目的は本筋ではない。今日の月参りは、他力本願の浄土宗であるが、その浄土宗を全体として総括し、信徒全体の一体性を維持するべく管理業務を担当しているのは総本山である知恩院であり、その他の寺院組織である。先日はどこかの何かを補修するとかで寄付金を募集していたが、それは宗教とは別の<宗内行政>である。大宗教の宗内行政と宗教そのものは区別しないといけない。

<宗内行政>といえば、ローマカトリックの新法王”フランシスコ一世”を思い出すが、報道をみていると、小生、日本の戦国時代の掉尾を飾る最終戦争<織田政権vs石山本願寺>の一方の雄である本願寺教団を連想してしまう。カトリックと本願寺教団、どことなく似ているのだなあ。要するに、社会の中である宗教をみると、最後は<人数>だけが問題になる。

組織の一声で、組織の長による声明(ないし煽動)で、何百万人かが動くようなら、その組織が宗教団体だろうが、軍隊だろうが、同じことであって、それはもう政治勢力に他ならない。だからバチカンと共産党中国との軋轢も、宗教対立ではなく、支配の権力をめぐる葛藤、つまり政治対立であるわけだし、イランのハメネイ師の声明も宗教指導者の声明ではあるが、それよりは反米・反イスラエル勢力の政治戦略であるのだな。ローマカトリックに属する教会の慈善活動も布教戦略であるわけだし、他のプロテスタント、その他宗派の信徒獲得活動と目的は同じなのである。これら拡大戦略の究極的目標は<社会的交渉力の強化>であって、その最終的な恩恵は、信徒全体の上に与えられることを目指している。この点を否定できる人がいるならそう言ってほしい。

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世界戦略を語ることのできる組織が、21世紀のMain Playerである。メガ企業、メガ宗教、メガ団体、メガ学会 ……、そして国家と国際機関がそうだ。

領土に固執する国家が、カネを蓄積する組織に優位性を奪われるとき、どんな世界が到来するのか?迷える子羊の尊厳は宗教団体が最後には守れるものなのか?神の代理人と財産権の神聖とはどちらが上なのか?全く、分からないねえ、見当もつかない。

21世紀の社会は、これらの大組織の力の均衡で決まると見ている。<階級闘争>の理念は、国民国家中心の歴史観に穴をあけたかにみえたが、共産主義の世界性を信じる者は誰もいなくなった。ヘーゲルの云う<世界精神>とはどこにいったのか?ポスト共産主義を担うにたる理念が登場するまでは、Nation Stateが、他の価値尺度と衝突しながら、人間社会の有り様を決めるだろう。

ま、本日、小生が雑談をしたご隠居は、そんな世界戦略の話しとは全く無縁の人である。世界戦略とは無縁であるからこそ、本来の宗教でありうる。そうとも云える。いずれにせよ、人間の魂や救済の話しは、絶対的・普遍的な話題であって、社会的意義だの、世界だの、そんな無粋なお話とは関係のないことでござんすよ。

古代ローマの水道をみながら、ミロのビーナスは何の役に立ったかと論じてみても、始まらないでござんしょう。何の役にも立たないが、それを美しいと感じる規範意識、統一された感覚。その感覚に反して、世は進んでいかない。それが誰もがみとめる<神性>というものではござらぬか。これが<無用の用>である。



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