2013年4月30日火曜日

風評被害ー新保険サービスは責任追及の代わりになるのか?

風評被害という言葉は、特にこの2、3年の日本の社会現象を特徴づける言葉だと思う。言うまでもないが、単なる口コミが社会レベルに拡大し、「風評被害」なるものを発生させる主因の一つに、新聞・TVなどマスメディアの活動をあげることができる。

マスメディアなくしては「風評被害」はまず発生し得ないはずである。というか、近代資本主義の時代になってから、いわゆる金融バブルが何度も発生したが、バブルの誕生と新聞ビジネスの誕生がほぼ同時期であることは、この種のテーマをとり上げる際には必ず引用されている事実である。根拠なき熱狂である「金融バブル」だけではなく、内実を伴わないネガティブ・インフォメーションの流布である「風評被害」においても、新聞・TVなどマスメディアが主たる媒介者である点は概ね明らかだと小生は思っている。

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この風評被害のターゲットにうっかりなってしまった場合に適用される保険商品が開発されてきたとのこと。日経から引用させてもらう。
三井住友海上火災保険は5月から、農業法人向けに食品や農業関連の事業に特化した保険のパッケージ商品を新たに販売する。経営が多角化している状況をにらみ、農業や食品産業特有のリスクに包括的に備えられるようにする。400社との新規の契約締結を目指す。
 通常の火災保険や賠償責任保険のほか、風評被害によるブランドイメージの悪化、食中毒の発生による損害、天候不順による原材料の高騰といった農業、食品ビジネス特有のリスクを総合的にカバーする。建物内で水耕栽培をする植物工場や農産物を輸出する企業向けのプランも作る。(出所)日本経済新聞、4月28日
どれほど注意を払っても、自分が出荷した農産物が食中毒の感染源になってしまう可能性はゼロではないわけで、ここにカバーされるべきリスクが一つある。原材料価格の予想せざる高騰もそうであるし、生産物価格の暴落もそうである。これらもカバーされるべきリスクである。仮に1920年代にこんな「農業総合保険」が販売されていれば、1920年代後半の農産物価格低落から農家が大打撃をうける事態も防止できたはずだ。ひいては、1929年10月にNY市場で"Black Tuesday"が発生するという事態もなかったかもしれない。

コントロール不能だが、発生確率はほぼ分かっているリスクがあれば、保険契約を結ぶことで被害者は救済される。そんな保険がビジネスとして成立するわけだ。火災保険もそうであるし、自動車保険もそうだ。火災保険がなければ持ち家より賃貸のほうが絶対安全だ。自動車保険がなければ怖くて車の運転はしたくないだろう。社会の発展は必要な損害保険商品があってこそなのだ。農業もそうだ。風評被害がこわいから農業生産など割にあわないと考えられてしまうと、みんな困ることになる。だから風評被害をカバーする農業保険がいるのだ。まあ、確かに一理あるとは思う。

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しかしだねえ……思うのだが、発生した風評被害は、第一にその原因となった人間なり組織が損害を補償するべきではないのか。それは人身事故や物損事故を起こしたドライバーが、被害者に対して補償義務を負うのと同じだ。

損害を補償する義務を負ってしまうというリスクがドライバーにはある。同じ意味合いで、風評被害の損害を補償する義務を負ってしまうリスクが、情報伝達者側にはある。これもロジックであろう。風評被害の保険料を農家が払い、実際に被害にあった農家が保険金を受けとるというのであれば、それは被害者による互助会と変わらない。風評被害が発生するなら、第一に加害者が損害補償を負担するべきであろう。その風評を流布させるうえで新聞・TVなどマスメディアが果たす役割は極めて大きい。

もちろんマスメディアは、社会現象にもなっている口コミを視聴者に単に伝えているだけだと言うだろう。とはいえ、根拠が確認されていない口コミをマスメディアがとりあげなければ、風評はまず発生はしないのであり、バブルのようなネガティブ・インフォメーションが生まれるとすれば、それはやはりマスメディア産業がそのような情報バブルを生産したと言わざるを得ないのではないだろうか。

とすれば、金融バブルの発生と崩壊を通して金融機関が結果として巨額の損失を負担するのと同じロジックで、結果として風評被害となった情報を伝達したマスメディア企業は、その損害を補償する義務を負うと考えざるを得ないのではないだろうか?

こう考えると、上の「風評被害」保険商品の顧客として潜在的被害者である農家だけを想定するのは片手落ちであって、ネガティブ・インフォメーションを報道するマスメディア各社もまた潜在的加害者として顧客でありうる、むしろ顧客とするような法制度を整える必要があると思うのだ、な。

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これで終わりにしようと思っていたが、もう一つの論点もあることに気がついたので覚え書きに記しておきたい。それは「ネット」である。根拠なき熱狂、いや根拠なきネガティブ・インフォメーション・バブルは、本当にマスメディア産業が作っているのか?それとも顔なき大衆というべきネット・ユーザー全体が集団的に発生させているのか?何か21世紀の武力闘争は、軍隊が行う国対国の組織化された戦争から、顔なき暗殺者集団と顔なき治安部隊が行う無組織の、ランダムな、闇の中の殺傷ゲームとなる。「風評被害」という言葉から、ここまで連想するとすれば、単なる考え過ぎになるのだろうか?

2013年4月28日日曜日

日曜日の話し(4/28)

黄金週間とはいうものの今日の道新の天気欄をみると道北地方はどこも吹雪のようである。吹雪ですぜ!吹雪!!一体、どないなっとんのじゃ?

こんな塩梅じゃあ、今年の桜開花は北海道はうんと遅れそうである。そういえば、三月下旬までは桜前線が急速に北上し、知らせによると3月内には桜も散ってしまったそうだ。その後、桜前線は停滞気味であり、4月中旬には信州の辺で満開の桜に雪が降り積もると。そんな映像を見た覚えがある。いまはどこで花は咲いているのだろう。ひょっとすると、咲いた桜は散ってしまい、咲くべき桜は蕾のまま、日本のどこにも桜の花が咲いていない。どういうかね…「桜エアポケット」というか、そんな一時期が今年は発生してしまうかもしれない。もしそうなら、これまた滅多にない稀有な事態であろう。

小生は、実を言うと桜の花が咲く時節は嫌いだ。妙に埃っぽいし、まだ肌寒く、それに桜の花の下のあの喧噪はどうだ。外出すると頭が痛くなるのが満開の桜の頃だ。とはいえ、幼少時の時分から今までを振り返ると、懐かしい情景にはいつも桜の花があった。郷里である伊予・松山で花見に出かけ重箱をつついたこともある。高校の入学式は桜吹雪の中を母と歩いていった。そういやあ、カミさんと結婚式を挙げたのは4月15日だが、偶々その冬は厳冬で松山・堀端の桜はちょうどその日の前後に満開であった。薄紅色の桜の花が水面に生えて実に美麗であった。母が最後の療養をするため棲んでいた取手市の宅を出て行くとき、周りの桜は満開でその花を母が見ることはもう二度とないだろうと。そんなこともあったと思い出す。今は勤務先の大学構内にある桜並木を一枚は写生しておこうと思っているところだ。


鏑木清方、Flower Wind、1910
(出所)浮世絵検索

小林清親の作品を話題にすれば、鏑木清方を次に語るのは当たり前でありんすな。Flower WInd − 和風に云えば、花吹雪でござんしょう。

小生も、下手な絵で仕方もないが何かの形にして「自己外化」しておかないと、桜が咲く頃には何だか心の中が騒いで、気分は鬱になる。まあ、こんな気分は小生一人きりの心持ちであって、誰に話すでもない。話してもわかっちゃあくれない。小生が死んでしまえば、もともと無かったことになる。それでも「作品」にしておけば、いつか子孫がいま小生が桜に接した時に感じる心象を再現してくれるかもしれないではないか。

2013年4月27日土曜日

全国学力テストに存在意義はあるのか?

今朝の道新の社説に『学力テスト−序列化の懸念拭えない』が掲載されている。一読すると、どうも地元びいきの引きたおしのように感じる箇所もある。が、最後の一文「教育は点数だけで評価できるものではない。その原点を見失うことがあってはならない」、この結論は非常に全う、かつ真実をつく見解だ。

とはいえ、
確かに北海道の平均正答率は、ほぼ全科目で全国平均を下回ってきた。道教委は14年度までに全国平均以上に高める目標を掲げている。
(中略)
結果が公表されれば、テスト対策にますます授業が割かれ、学校の序列化を招くことは避けられない。
何か出来の悪い子供をかばうような親のようでもある。実際、小生も書かれていることには同感だ。その通りだと思っているのだが、しかし、社説というのは理念を抽象的に論じる方が品格があると社内では受け取られているのだろうか。具体的な方法やプランを社説で提案すると、社内で<思いつき>を勝手に書くのじゃないと叱責されるのだろうか。もともと日本的組織では、サッカーもそうだが、独りが単独で攻撃をしかけていくという在り方を非常に嫌う傾向がある ― そこが隣国である韓国と行動パターンが最も違っているようでもある。抽象論は、論争を招くばかりであり、具体的結論に至るには実証的議論、具体的提案が不可欠だと思う。

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まあ、いい。今日、上の社説を読んでいて「思いついた事」は、学力テストの得点と人材輩出率の間に相関があるかどうか?これは統計的に、簡単に検証できる問題だという点だ。小生が記憶しているのは、この種の学力テストはずっと昔にも実施されていたが、その頃に全国ベスト3を競っていたのは、たとえば香川県とか、愛媛県とか、福井県とか、大都市圏に比較的近い、人口が中規模の、歴史ある城下町に県庁が所在している。そんな地方ではなかったかと思う。

教育の目的は、ペーパーテストの得点を上げることではない。目的は、子供達がもって生まれた才能を開花させることにあり、才能を開花させた子供達が成長してから、一流の成果を仕事で達成することにある。社会全体としてそういう状態をつくる。国がとりくむ教育の目的はここにしかないはずだ。要するに、得点自体に価値はなく、真の目的の役に立って試験は初めて存在意義をもつ。

細部の議論を積み重ねる必要はない。

ずっと昔のデータでもいいが、学力テストで安定的に高い得点をとっていた地域から、その後の日本で活躍した人材がどの程度輩出したかを検証すればよい。

仮に無相関であれば、学力テストは得点ゲームの域を出ないのであり、何も税金を投入してまで行うことではないわけであるし、相関が認められれば、なぜ相関が出てくるかを掘り下げて分析すればよい ― 試験の高い得点が原因となって、仕事でも一流の成果を出すという認識が非現実的であるのは明白だから、原因分析が要るということだ。反対に、無相関であっても試験でとらえられる学力が仕事の結果に何も影響しないという論拠にはならない。そういう意見もあろうが、これは正確な認識としては正しいが、今の場合は<偏相関>ではなく、事後的な<単相関>の方がより意味のある指標であるはずだ。子供達は変化する世界で生きていくのであり、すべての影響がでつくした結果はどうなのかという相関の方が大事なのだから。

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社会的に一流の仕事をしている人をランダムに選んで、その人の12歳時点、15歳時点、それから18歳時点における試験の得点を(事後的に)予想できるだろうか?いま成功しているのだから、多分幼少時においても学力テストで高い得点をあげていたのだろうなあ…と。そう思いますか?思う人はよっぽど甘い人だ。そんなに世の中、甘くありませんよ。この程度の思考実験ならすぐにできるだろう。ということは、学力試験で有為の人材を識別しようなど、ハナから無意味な徒労なのである。徒労を集計してもやはり徒労である。それを押し付けることが出来るのは国家が行っているからだ。それ故、不効率の温床になるのは間違いない。そう断言したいのだ、な。

人材の養成、人材の洞察は、ペーパー試験などではなく、もっと時間と労力をかけて丁寧に、真剣に取り組むべき大きな仕事である。

2013年4月25日木曜日

靖国神社とYasukuni War Shrineのいずれか一つを否定できるのか?

安倍内閣の靖国神社への姿勢が問われている。

中国ではこんな感じだ。
2013年4月24日、人民日報は日本の団体による靖国神社参拝について伝えた。以下はその内容。

日本の団体による靖国神社参拝に対し、国際世論は強烈に反応し「こうした挙動は隣国との関係を深刻に悪化させ、侵略戦争の歴史を否認し、第2次大戦の成果を否定する狂った挙動だ」と指摘している。(出所)レコード・チャイナ
上のページはロシアの論調も伝えており、こう書かれている。
これに対しロシア科学アカデミー極東研究所のベルゲル首席研究員は、「日本の政治屋は周辺国との関係改善を望むと表明する一方で、国際関係の正常化に反する挙動に出ている。日本には第2次大戦中に犯した犯罪行為を否認し、第2次大戦の成果を否定する意図があるのではないかとの疑念を人々に抱かせざるを得ない。それは世界の人々が許さないことだ」と述べた。(出所)上と同じ。
韓国ではこうだ。
The front pages of many major newspapers in South Korea on Wednesday carried photos of the visit by a large delegation of Japanese lawmakers to the Yasukuni war shrine in Tokyo, a reflection of the sensitivity in Seoul to Japan’s shift to the political right. ... Chosun Ilbo, South Korea’s largest circulation paper, quoted an international relations expert who said that if Japan argues it wasn’t an invasion, Hitler’s aggression towards Poland wasn’t an invasion either. The newspaper also profiled Mr. Abe and Deputy Prime Minister Taro Aso’s previous comments on historical issues.   Source: Wall Street Joural, Korea Realtime, April 24, 2013, 7:52 PM
福田康夫氏が首相在職時の頃はまだA級戦犯の靖国神社合祀が主に問題視されていて、戦没者を弔う日本人の宗教行事それ自体の是非が問われているわけではなかったように覚えている。いまは別に合祀問題が論議されているわけではないが、本質はまだ変わってはいないだろう。ま、細かい事情はともかくとして、敗戦国が戦時の戦争指導者を敗戦後も英霊として祭り、ずっと参拝するのは、何を考えているのだ、と。やっぱり外国にはそう見えるのじゃないのかねえ・・・とは思う。外国人がいう筋合いじゃあない、余計なお世話だというなら、それは間違っていると否定するつもりも小生にはない。靖国参拝批判は、倫理的な攻撃であると同時に、何より中国、韓国が自国の利益を拡大する外交戦略でもあるからだ。

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しかしだねえ、もし日本の発展のために礎となった戦没者たちを慰めるという気持ちが根っこにあるのなら、王政復古の後、戊辰戦争で敗者として死んでいった日本人達も、同じ日本人であり、その後の日本人に大和魂の何たるかを伝えているのではないか。それもあるからこそ、今年のNHK大河ドラマでは会津藩を主役の側においたのではないのか。しかし、会津藩、長岡藩など幕府に忠節を尽くして戦った日本人達は靖国神社には祀られていない。維新の元勲であった西郷隆盛が率いた薩摩兵たちも西南戦争で賊軍となったため靖国神社には祀られていない。

靖国神社に祀られている英霊は、官軍の兵として散った魂だけである。天皇と戦った ー 戦ってしまった日本人は「英霊」とは呼ばれていない。

東条英機元首相・陸軍大将もまた日本国に尽くした英霊となりうるのであれば、西郷隆盛は何故そうではないのか?時代を超えて忠節を通した会津藩の武士道は尊崇される資格がないとされているのは何故か?やはりここには皇室に忠義をとおして死んだ者だけを祀るという思想が根底にある。一言で言えば、尊皇思想であって、皇室尊崇の感情が靖国神社を「靖国神社」たらしめている。

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確かに江戸期・封建社会を明治・中央集権国家に造りかえるうえで、<尊皇(攘夷)>は一番の勘所であったろう。しかし、このような政治思想、というか国家システムは、1945年に破産し、倒壊したのである。「国体護持」を条件とした降伏であると言い繕う指導者も当時いたようだが、現実は無条件降伏であって、そうではないと考えるのなら、無条件ではなかったのだ、「国体」は国際社会の中で守られているのだと立証したうえで、それを国際社会で理解してもらえばいいのである ー 不可能だと小生は思っているが。

戦後日本の法制上の建前は、明治憲法を改正したものであり、形としては日本国家は明治から大正・昭和・平成と連綿と続いているわけである。しかし、その認識がそもそも間違っていると小生は考えている。この点では、憲法学者・宮沢俊義の学説である「八月革命説」に賛同しているのであって、戦後日本において尊皇思想の居場所はどこにもない、というか失われたと言うべきであろう。だとすれば、尊皇思想の象徴である靖国神社こそ、財閥や内務省などよりも先に解体されるべきであったのかもしれない。こう言い切ってしまうと過激だろうか。

もし近隣諸国による日本批判が、外交戦略を超えて、戦争を終結させた思想にふれているのであれば、日本も聞くべき耳をもたなければならない。これが小生の立場である。戦争終結時には、勝者と敗者があり、敗者は何事かを受け入れているものである。戦前期の日本国家を解体することがポツダム宣言の趣旨であり、それを受け入れて降伏したという事実がありながら、68年後の今になって「日本には守るべき伝統がある」という。安倍首相の言葉は誤ってはいないが、1945年の降伏時に日本が失った伝統、捨てざるを得なかった伝統。これらも又あったのだということまで忘れると、国際社会に対して嘘つき(Liar)となりはしないか。そもそも「敗戦」とはそうしたものだ。もう永遠に取り返しがつかないというと、必ずしもそうではあるまいが、確かに昭和前期の指導層が犯した失敗はそれほどにまで大きいのだと思う。そのうえで靖国神社を語るべきであろう。

2013年4月23日火曜日

サマーズの意見 − 民主主義の機能不全

ロイターが米・経済学者サマーズのコラム記事を流している。多少古いが引用しておきたい。
米国では現在、民主主義の基本的な機能をめぐる懸念が強まりつつある。
世論調査によると、議会に対する好意は史上かつてないほど薄れている。将来の財政赤字削減に大きく貢献する措置で合意できない政治家には、四方八方から反感が寄せられている。専門家も政治家もこぞって交渉の行き詰まりをとがめ、「オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)」運動から「茶会」運動まで政治的に両極端の抗議行動が起こり、党派心がいよいよ強まっているようだ。(ロイター、2013年 04月 16日 15:33 JST)
党派対立が政治システムに活力を与えもするし、システムを麻痺させもする要素であることは、その国が民主主義国家であるかどうかを問わず、普遍的にいえることである。絶対君主であっても国王ただ一人で国を切り回すことが体力的に不可能である以上、側近の間で国王との親疎の違いが生じ、そこから権力の格差が生まれ、主流派と反主流派が形成され党派が誕生することは、当の国王本人も防止不可能である。この辺の事情は、幕末の混乱と維新という政権交代をみた福沢諭吉も色々なところで文章にしていることであって、究極的には<嫉妬>という要素が混じるかどうかで組織の寿命は決まるというのが福沢の観察である。

サマーズの結論は楽観的なものだ。
公共政策に携わっている者はほぼ全員が、私と同様、極めて重要であるにもかかわらず実行不可能な事が現在の政治環境では多いと感じている。しかし物事は背景が重要だ。政治的行き詰まりに対する懸念は米国の政治史にはつきものと言え、理想的なチェック・アンド・バランス機能を反映している。通常認識されているよりも遥かに大きな進歩が主要分野において起こりつつある。米国の意思決定は確かに欠陥だらけだが、国際比較で見れば立派なものだ。
(中略)
日本と西欧での変化は、米国の足元にも及ばない。確かにアジアの独裁主義社会の一部には急速な変化が起きた。しかしこれは持続しない可能性がある上、良い方向に変化するとも限らない。悲観論に傾きがちな人は、スプートニク計画後の旧ソ連や1990年代初頭の日本に対して米国が抱いた警戒感について思いを巡らせてみるのが良い。自制心を持って行く末を預言する能力が発揮されたのであり、米国の最も素晴らしい強みの1つだ。
われわれが巨大な課題に直面していないと言いたいわけではない。しかしここで言う課題は、答えが明白な問題について合意にこぎ着けることではなく、格差拡大や地球規模の気候変動といった、道筋が不確かな難問の解決のことだ。問題は行き詰まりではなく、構想にこそある。
つまりはアメリカン・システムへの変わらぬ自信が語られている。行き詰まっているのではなく、構想のいかん、要するに問題はWhat To Doにあるのではなく、How To Doにある。この指摘には小生も同感であり、人間の全歴史を通じて問題はすべて解決されてきた、行き詰まるというのは嘘であると言わざるを得ない − たとえその問題解決のあり方が指導部の制御能力をこえた自然の手によるものであったにしても。

ただこれが講演であって、聴衆からの質問をつのっているのであれば、聴いてみたい点もある。日本と西欧がその問題解決能力においてアメリカに及ばないのは、アメリカの民主主義が優れていることが主要因なのか?その状況はどんな期間において観察されるのか?西欧を構成する個別の国にも差があるのではないか?それはそのまま民主主義の度合いの差と対応しているのか?

興行スポーツ・大相撲という社会ですら、力士の理想は『心・技・体』の三つであり、この三つをすべて完成させてこそ、横綱の風格が醸し出されると言われている。民主主義は国の理想だろうが、ただその一点だけを問うというのでは、あまりにも単細胞な議論だろう。せめてより良き民主主義であるための三要素くらいは挙げられるのでないと、レベルが低すぎる。それを示すこともしないで、ただアメリカは民主主義だから問題を解決できるのだと語ってみても、ロイターの読者の知的欲求を満足させることは難しいと思われるのだ、な。

2013年4月22日月曜日

日曜日の話し(4/21)

カミさんにつき合って韓流ドラマ「ボクヒ姉さん」をいっき見している。とはいえ、130話もあるドラマ、一日で一気にというわけにはいかない。10話位が限界だ。淡々としたホームドラマで大善人も大悪人もいない。それぞれバカな面がある普通の人物ばかりである、という点が韓流というより和風の味付けに近い。その中で、ただ一人だけ学校教師をしている賢人がいて、時代環境は朴正煕大統領から暗殺後の軍事政権にかけての頃だから、当時の維新憲法とそれに反対する民主化活動が社会派的スパイスになって登場している。

こんな国ではいかん、というのがエリートを自認する人々の共通の話術だ。凡人はそんなことを考えない。凡人の頭にあるのは自分の事業や家庭、我が身の先行きである。国や社会は与えられた環境であって、それを変えようなどとは発想しない。もし幕末に吉田松陰や坂本龍馬のような志士がいなければ明治維新はなかったろうし、その前に討幕運動もなかったろう。しかし、その場合には日本は反植民地になっていたかもしれず、アジア全域がそうなっていたかもしれない。それでもやはり、そうなれば日本には欧米の制度や文化、価値観が輸入されて民間企業が多数生まれ、日本人の舶来崇拝心理が形成されただろう。岩崎弥太郎が既にそこにいれば、彼が三菱を立ち上げることに変わりはなかったかもしれない。いなければ別の人物が同じことを思いついただろう。三井財閥や住友財閥が富を築いたことにも変わりはなかったろう。そのあとは、中国、朝鮮半島と同調しながら、20世紀の中頃には独立運動が高まり、何年もの間、戦争状態を続けたようにも思うのだ、な。

こう考えると、筋道は違うにせよ、勤王の志士や維新の元勲がいなくとも、大多数の日本人に与えられていた近代日本の歴史の歩みは、現実の歴史と ―表面的印象はともかくー 大して実質的な違いのあるものじゃあなかった。そうも言えるとおもうのだな。本当の意味のエリートはごくごく少数である。その数少ないエリートの言動いかんで、国全体の歴史が左から右に変わるなどと考えること自体がどこか奇妙である。変わるとすれば、年表に出てくる重要事件の並び順くらいであり、国の発展の中身は少数のエリートの言動とは関係なく、そのとき生きていた普通の国民集団が同じであれば、似たようなものであったに違いない。凡人集団だけでも社会は発展するが、エリートが過剰に影響力を持てば、社会は不安定化するはずだ。

明治維新などなくとも、薩長藩閥などなくとも、19世紀の後半に黒田清輝という若者が鹿児島県からフランスに渡り、そこで美術に目覚め、日本に帰ってから新しい感覚の洋画を紹介したことにも変わりはなかった。そこまで言えるかもしれない。

 

黒田清輝、「読書」(1891年)&「湖畔」(1897年)

上の作品は、日清戦争の前と後に描かれているという点で、近代日本の節目を芸術面で形成しているわけでもあるが、仮に近代日本史が現実の歴史とは別の歩みであったにしても、日清戦争などはなく、したがって巨額の賠償金とそれを基にした産業革命などもなかったとしても、それとは関係なく別の成り行きから日本には近代産業が輸入されていたろうし、あの時代全体を思い起こすと同じような作品は、誰か(おそらく同じ黒田清輝の手によってであろうが)日本で制作されていたと考えてしまうのだ

まあ、湖畔の女性がもっている団扇の絵柄が少し違っていたり、読書をしている若い女性のスカートの色がスカーレットで、ブラウスの色が黒であるくらいの相違はあるかもしれないが、大体は同じであったろう。

思想や哲学は、人間の議論や行動スタイルを決めているように一見思われるが、暮らしに必要な生産や流通のあり方が毎日何をするかという全体を決めている。存在しているのは言葉の洪水ではなく「沈黙せる現実」である。海や川の水面を人間は一生懸命泳いでいるが、上空からみると、泳いでいる人は真っすぐ泳いでいるという主観とは関係なく、潮の流れや川の流れに沿って、水の流れる方向に移動している。同じことである。この辺り、やっぱり、小生、かなりな唯物主義者である。いまマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直しているが、波長が合わないのは当然でもある。

そんな風に思わせる点で、近年軽薄化しつつあった韓流ドラマにしては、できのよいドラマである。



2013年4月20日土曜日

職業倫理の奴隷じゃあ情けないじゃござんせんか

某官庁で―いまは統廃合されてなくなってしまったが―昔、GDP推計の仕事に携わっていたことがある。その時の同僚が、今朝みた夢の中に登場した。消費を担当していたAさんと在庫担当のSさんだ。

★ ★ ★

小生は、現実の自分とは違って、ながらく病気で休職していた役所に行こうと駅に向かい、ホームに来ていた電車に飛び乗ったのだが、それは途中の駅にとまらない快速だった。その電車は、世田谷の辺りをひた走りに走っていた。窓の外は起伏にとんだ丘陵地帯に裕福そうな住宅が立ち並び、小生は扉の前に立って、次はどこに止まるのかを確かめようとしていた。なぜか成城学園という駅名があったから、現実世界では小田急線ということになるのか。何にしても夢でみたことだから実際に存在する世界のことではない。すると向こうの方にAさんとSさんの姿が見えたのだ。定時に役所に行くにはもう絶望的な時間になっていた。今から行っても月曜日(なぜだか月曜に設定されていたのだな)のこととて部内会議がある。会議の途中で久方ぶりに出勤する、それも遅刻して入っていくのは恥ずかしい。いまから行っても11時になってしまうなあと思い迷っているうちに二人に気がついたのだ。二人はハイキングに行くような恰好をしている。変だ。近寄って行って話しかける。向こうも驚いて「▲▲さん!」という。「△△さんじゃないですよ。どこに行く途中なんです?仕事は今日はお休みですか?」と小生はきく。「高尾山の方に行こうと思って…」、どうも京王線と小田急線がごっちゃ混ぜになっている。この世界とは色々と違うのだろう。「次の成城で降りて世田谷城にいきませんか」と二人を誘う―そもそも世田谷城なんて在るのか。

成城で電車を降りてしばらく歩いていくと、いかにも城跡公園のような石垣や階段があって道の両側には露店が立ち並ぶようになった。小生たち三人は何か食べようと言うことになる。いつの間にか定食が来ていて、私は旨いなあといいながら箸を運んでいたのだが、AさんとSさんは手持無沙汰そうにしている。このままつき合わせるのも気の毒だ。もともと私はずっと役所を休んでいて、休職明けに出勤しようとしていたのを半ば断念してぶらぶらしている身、向こうは小生が欠勤している間にも働いて、今日は別の場所で遊んで気晴らしをしようと出かけてきたのだ。そう思って「私には気をつかわず、行ってください。私は午後からでも役所にいきますから」と、何度も二人に話しかける。すると二人は「▲▲さん、前にね住宅投資担当のNさんがね、もし▲▲さんが好きでなかったら、あんな風に言われてワタシャけつまくりますよ。それが出来ないんですよねえ。ぼやいてましたよ、なんで今またそんな風に言うんですか?」、「そんなことがあったんですか?すまないことをしてしまったんですね。僕は、どうにも人の心が分からないのかもしれません。一体なんのために仕事をしているんですかねえ。仕事がうまく行くように、行くようにと、そう考えると理屈が先に来て、人の心は二番目以降になってしまうのかもしれないですね。気に障ることを言ったり、やったりするのは、悪気じゃないんです。」

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宮仕えとは組織の中で働くことだ。仕事とは組織の利益を拡大することだ。一人一人の人間の心が幸福を求めていようが、何を求めていようが、組織を管理する立場の人間にとっては、どうでもいいことだ。

こんな姿勢は<望ましい>のだろうか?というか、<正しい>のだろうか?ま、ヒューマニズムの立場から判断すれば、それは望ましくはないわな。しかし、組織で働くということは、組織の利益に忠実であるべきだ。それが職業倫理であろう。その職業倫理が、人間一般が従うべきモラルと真っ向から対立するときは、どちらを尊重すればいいのか?父親が余命幾ばくもなく入院していて、母が看護をし、その母の話しを聞くために仕事を抜け出して病院で時間を過ごすのは、職業倫理に違背するに決まっている。職業倫理に反するならその職を辞めるべきだ。辞めれば生活ができない。どこに行っても状況は変わらない以上、どこにいても職業倫理には反するからだ。職業倫理は守れないから、税金で保護してくださいという言い分も倫理に反しているであろう。

北海道の大学に来てホッとしたのは事実だ。しかし、夢の中に出てくる自分は、ずっと病気で休職していて、出勤しようとしては気恥ずかしい劣等感に苛まれている、そんな自分が夢の中では生きている。現実の方がよほど幸福である。

その頃、円借款を担当している経済協力機関に出向したことがある。事情があって1年ほどで出身官庁に戻ってまたマクロ統計の実務を担当することになったが、その短い間、一緒に働いた旧同僚たちが先週末に小生が暮らしている町に来て泊まって行った。小生も一緒に宿泊して飲み明かした。25年ぶりのことである。その人たちとは、仕事を一緒にさぼったり、一緒に周囲に迷惑をかけたりした仲である。職業倫理を全く無視した毎日を一緒に送った間柄であるが故に、今もなお暖かい情感を感じる間柄でいられるのかもしれない。

<仕事と人生>の関係は、やっぱりよく分からない。分からないが、仕事なんて蹴っ飛ばしたほうが、たかが仕事と下に見るくらいのほうが人生の幸福には大事なような気がするのが、今日この頃である。職業倫理の奴隷じゃあ情けないじゃあござんせんか。武士道だって、いわば職業倫理だ。武士道をまもって昔の人は幸せでしたか。人間を幸せにしないモラルなんて、いるんですか?少なくとも西洋の哲学は、最高の善とは幸福にあると言ってますぜ。わたしゃあ、そっちのほうがホントだと思いますな。


2013年4月18日木曜日

米国スプリント・ネクステル社買収合戦の第1幕

ソフトバンクが昨秋に米社・スプリントネクステルを買収し、米市場に進出する計画を公表した直後、ソ社の株価は財務悪化を嫌気して暴落した。その前に偶々売却していたので、その後の回復で幸運をつかんだが、10月下旬から始まった解散総選挙ユーフォリアを疑いの目で見てしまい、これは危ないと再度売却したものの、株価は延々と上がり続けた。しかたなく年末には買い戻し、この春までの急騰で再び幸運をつかんだが、米国・衛星放送企業ディッシュ社がス社の対抗買収案を明らかにするに及んで又々暴落。セオリー通り、全株、ソ株はすべて売り払った。それでも利益は出た。

この件についてはWSJがこう書いている。
Softbank Corp. CEO Masayoshi Son just found himself in a possible bidding war, one that gets more expensive every time the yen ticks downward. 
Mr. Son’s gutsy $20 billion plan to take over Sprint Nextel Corp. took a big hit on Monday when Dish Network Corp. said it would trump Softbank’s price tag with a $25.5 billion bid, roughly a 13% premium to what Mr. Son offered. 
Softbank shares plunged almost 8% in Tokyo on Tuesday morning, but analysts said they expect Mr. Son to get back in the game. (WSJ, April 16, 2013, 12:39 AM)
ソフトバンク社は、ディッシュ社の提案がそれほど良いものではないと批判した。
ソフトバンクは16日、米衛星放送大手ディッシュ・ネットワークが米携帯電話スプリント・ネクステルに対して行った買収提案に反論する談話を発表した。

ディッシュが提案した買収額は255億ドル(約2兆5000億円)とソフトバンクの201億ドルを上回り、スプリントの株主にとっての利点を強調している。(読売新聞、2013年4月16日20時27分)
ソフトバンク側はこれ以上買収金額を増やすつもりはないと声明を出してもいる。
ソフトバンクは16日、米携帯電話3位スプリント・ネクステルの買収計画について、7月1日にも買収を完了する見込みだと発表した。米衛星放送会社のディッシュ・ネットワークが15日、ソフトバンクによる買収総額を54億ドル上回る255億ドル(約2兆4800億円)の対抗買収計画を発表したが、買収費用は積み増さない。ソフトバンクは従来計画のままスプリント経営陣や株主の支持を得られるとみている。 (日本経済新聞、2013/4/16 15:18)
しかしながら、買収される側のスプリント社の経営陣、それから株主がどう考えるかによって、どちら側にでも転ぶ話しである。米当局が買収を承認しても、経営陣が合意しても、ス社の株主総会で支持を得られなければ、破談になるからだ。 WSJが比較しているとおり、ソフトバンクの提案とディッシュの提案を比較すると、どちらが良案であるか直ちには結論が出ないはずだ。仮にソフトバンクが主張しているように、ソ社の案に理があるとしても、買収金額でこれだけ凌駕されている以上は、何らかの変更を加えないと、理屈だけではス社株主がソ社を選ぶことはあるまい。これが大方の見方のようだ。WSJは以下のように書いている。
今後スプリントの取締役会はディッシュの提案がソフトバンクのものよりも良いか判断することになる。取締役がそのように判断した場合、ソフトバンクには条件上乗せの機会が与えられる。(WSJ、2013年 4月 15日 19:15 JST
本日、ソフトバンクの起債が報道された。
4月17日(ブルームバーグ):米スプリント・ネクステル買収で米衛星テレビ会社ディッシュ・ネットワークと競り合っているソフトバンクは米国と欧州で20億ドル(約1960億円)相当の社債を発行する準備を進めている。
事情に詳しい関係者によれば、ソフトバンクはドル建てとユーロ建ての7年債を週内に起債する可能性がある。利率は4.5-4.75%になる公算だという。
社債のマーケティングは先週始まり、ソフトバンクは調達資金の一部をスプリント買収資金に充てる意向だという。発行条件が決まっていないことを理由に同関係者が匿名で語った。社債発行は買収が完了するかどうかには左右されない。(Bloomberg Japan, 2013/04/18 08:30 JST)
ソフトバンクの本日終値は4345円(前日比▲70円)である。直近ピーク比で400円安で小康状態を続けている。昨年10月12日に「スプリント・ネクステル社と買収に関して協議を続けているのは事実である」と公表した時は、前日比▲486円(17%安)の大暴落であった。ディッシュ社の対抗買収案が明らかになった4月16日は▲320円(6.8%安)である。本日のソフトバンクの起債報道は、ソ社が否定しようとも買収計画の変更は確実に迫られると16日の時点で既に織り込まれていたから、別に新たなショックではないのだ、と。こう見るのなら、別に否定するつもりはないが、これで一段落とも言えるはずはないだろう。今後もスプリント・ネクステル社買収をめぐって、相互の応酬が続き、その辺の情報に早く接する人たちが売買においては圧倒的に有利になるのは必至である。

この事情は、現在の国内電力株についても同じであり、永田町、霞ヶ関事情に精通している投資家が ー インサイダー取引だと断定できないにしても、やはり ー 圧倒的に有利である。

大やけどをしそうである。一般投資家は少し離れて進展を楽しむくらいがちょうどいいと思う。楽しむにはこれほどの経済ドラマはそうそうあるものではない。

× × ×

さてと、では次の運用先をどうしようか……、トヨタは優良企業だが、その割にはあまりにも為替レートの変動に対してヴァルネラブル(Vulnerable)である。いまのアベノミクスに対する批判が、たとえば米・財務省から加えられるだけでトヨタの株価は激しく変動する。ちょっとコリゴリですなあ。大体、いまはどこも高値圏内にあって、ちょっと買う時ではない。とはいえ、買わないリスクもある。困ったねえ。パナソニックは歴史的安値にある。配当は・・・というと、無配である。やっぱりね。東芝は<世界的原発ブーム>の波に乗って好調だが、ポートフォリオでだぶる点がある。重電をこれ以上増やしたくはない。楽天は、これもなお高値圏にある。900円程度まで落ちてこないとなあ、買えぬ。総合商社はどうだ。商事、物産のチャートを出してみる。1年、5年、10年。これは何と!電力株が安定株だと思っていたが、実はそれは商社株ではなかったか。2006年から7年のバブル前後でなるほど暴騰・暴落はしたが、その後は文字通り超安定。いまは配当利回り4%に達しており典型的な安定株である。なまじ国債を買うより絶対こちらだ。加えて、安倍内閣がTPPを推進すれば、これがまた総合商社には追い風になるのが確実。高配当に加えて株価上昇も期待できる。

どうやらソフトバンクから物産へ乗り換えるのが賢明だ。



2013年4月16日火曜日

「新政権ハネムーン景気」は終わったようだ

昨晩ビジネススクールの授業で統計分析を講じて、帰宅して遅い朝を迎えて、経済ニュースをみて吃驚した。
4月16日(ブルームバーグ):国内通信3位ソフトバンクの株価が半年ぶりの下落率を記録。昨秋に買収で合意した米携帯電話3位スプリント・ネクステルに対し、米衛星テレビ会社ディッシュ・ネットワークが、これを上回る買収額を提示したことから、売りが加速している。
株価は一時、前日比9.6%安の4235円を付けた。日中下落率としては、スプリント買収協議を発表した際の財務懸念から昨年10月12日に記録した17%以来の大きさ。午前10時22分現在は、同360円(7.7%)安の4325円。(出所)ブルームバーグ
”これはいかん!”と、ネットトレーディングで利用している某会社に接続すると確かに前日比415円安(▲8.9%)の暴落になっている。ロイターなどはソフトバンクの経営戦略が頓挫する可能性が出てきたとも述べている。ヤレヤレ(韓流に慨嘆するならアイゴーというところなのだろうが)、またやりやがったか。全く、孫社長の戦略には安定感というのがないのだな。ディッシュの対抗買収に対して、ソフトバンク側の応酬が注目されているということだが、やっぱりここは小生、全株売却しておきました、はい。米市場進出が取りやめになるということはないにしても ― そうなったら更に1000円下がるだろう ― 買収額引き上げは大いにありうるし、いずれにせよある程度の資金圧迫は避けられないだろう。

それにしても、ソフトバンクは突風のような要因だが、楽天も日立も、アメリカのGoogle、Amazonといった成長株も急落している。大体、昨日のNY市場は265.86安。楽観できる様相ではない。WSJには以下の記事がある。
Stocks tumbled as steep declines in gold and other commodity prices fueled a selloff after worse-than-expected data on Chinese and U.S. economic growth.
The plunge on Monday began during Asian hours and spread around the globe. Late in the day, news of explosions at the site of the Boston Marathon added to market jitters.
But for most of the day, attention was centered on the dive in gold prices. For the second straight session, gold plummeted, losing $140.40, or 9.4%, to settle at $1360.60 a troy ounce. The drop was the largest one-day percentage fall since February 1983. Monday's decline brought the two-day losses to $203.70, or 13%.
Traders reported talk of investors selling stocks to raise cash in response to losses on gold positions.
Source: Wall Street Journal, Updated April 15, 2013, 6:56 p.m. ET 
国際商品市況とはいっても石油ガス価格は比較的安定している。急落したのは金価格である。それで株売却を余儀なくされているのなら、まあマネーゲームの一局面であり、実体経済とは関わりは薄いという解釈だ。

確かに、そもそも昨年10月下旬から始まった突然の株価上昇は、昨年春以来の踊り場終了を見通した先行的な押し目買いであるとか、色々と講釈されていたが、小生にはさっぱり根拠が不明で、何で上がるのか分かりませんと本ブログでも書き留めておいたほどだった。そこで言ったのは、結局は政権交代ユーフォリアでしかないのじゃないかということだった。中国が胡体制から習新体制へ、アメリカも大統領選挙、フランスではサルコジからオランド新大統領、韓国も大統領交代、そして日本も解散総選挙と相なった。それで浮かれちゃったんだろうねえ、と。

あれから40年……、違う。あれから半年。その時の狂熱がさめる頃である。実際、昨秋と今と世界経済はそれほど変わっちゃあいない。欧州金融機関の不良債権は根本的に解消されたわけではない。欧州内部の財政インバランス、資金インバランスの問題は、手つかずであり、そもそも解決したいという真剣な決意を各国がしているのかどうか不明である。中国の国内事情は楽観できないことが段々と分かってきている。領有権紛争の芽があることに気がつかなかったが、ずっとそこにあることを再認識しつつある。北朝鮮問題もどうも拡大再生産されつつある。

ただ変わったといえば、日本が最後尾から最前列まで出張っていって、米バーナンキFRB議長と同じ色の旗を振り始めたことであろう。やっていることが同じなものだから、ドルの対円レートが高めに振れたとしても「日本はそういうことはやめろ」とはいいにくいだろう。


方向としては、今後、インフレに向かうことに絶対間違いはない。それでもリスクの潜在を意識すると、金ではなく、ペーパーマネーに戻ろうとする。全く不合理である。ま、不合理な政権交代熱からさめてきたわけだから、これまでやってきた不合理な行動をリセットしつつあるとも言えるだろう。それにしても金価格急落は変だねえ……いまの環境で金価格が1400ドルまで急に下がるとは。

中国かどこか新興国の流動性が最近きつくなっているのじゃないか?そんな気がしないでもない。


2013年4月14日日曜日

日曜日の話し(4/14)

一週間の間には色々なワイドショーがある。そのどれでも先日他界したサッチャー英・元首相をとりあげている。今日のサンデーモーニングでも、「一人の女性が世界を変えた」という話しをしていた。同女史の『私は前に進む、進みたくない人は進まなければいい、しかし私は後戻りはしない』、そんな言葉を記録フィルムで流していた。

最後にコメンテーターが一人ずつ意見を述べていたが、『前に進むというその時に、一番後ろの人をみる、それも勇気の一つではないでしょうか』と、そんなことを言っていた。

この言い回しに共感する日本人は本当に多い、というより全ての日本人は同感するのじゃあないかとも思うのだ。取り残される人たちのことを思え…、何という日本的な心情であろうか。優しいとも形容できるし、こういう言葉から醸し出される暖かく睦みあう情感の流れを日本人は最も大切にするのだ。生きるのも一緒、滅びるのも一緒。そんな心の佇まい、だからこそ、一斉に散っていく桜の花を日本人は好きなのだろう、とも思う。

★ ★ ★

こうとしか言えないであろう。桜の花が一斉に散らなくとも、満開の日から日数を経ても、七分から五分、五分から三分へと、もと来た道をたどるように段々とハラハラ散っていくとしても、それはそれで<もののあはれ>を感じさせるはずなのだが、日本人は散り際の見事さに感嘆してばかりいる。

しかしなあ…、昭和天皇の終戦の詔ではないが、一番後ろの人を心配するあまり、前に進む時機を逃してしまったら、全員が玉砕して生き残る人がいなくなるではないか。そんな観点から、現状をどう打開するべきかを議論する。ロジックとしては当然だと思うのだ。

危機にあるとき、たとえ右腕を失っても、片方の足をなくしても、失明しても、言葉を失っても、まず生き抜いて生命を全うする。理屈ではなく、本能でそんな行動をとるはずだ。身体髪膚すべてこれ父母にうく、などと言って生きる努力をせず、泰然として死出の旅に立つなんて選択をすれば、身体をあげた当の両親が何よりその愚かさを嘆くわけである。残念ながら危機に陥って、現状のまま脱出できそうもないときは、犠牲を少なくすることが重要になる。一人の人間が命を全うするときは、頭脳がそれを考える。社会が問題を解決するときは、頭脳の役割を果たす人間が決断をしないといけないのだな。

人間の身体を構成している細胞や器官はすべて必要である。すべてなくてはならないのだ。その点ではどれが大切で、どれが不必要だという区別はできないものだ。しかし、心臓が損傷したら直ちに死ぬ、大脳の機能が停止したらそれは死を意味するのだ。手がなくとも、足がなくとも、直ちに死ぬわけではなく、その後の再生を期待することができる。希望がある。

人間一人の身体も、国家という有機体も同じことである。

人間集団が全体としての選択をするとき、より多くの<希望>が残るのはどちらか?この問いかけが本質であり、具体的に言えば<より多くの個体>が生き残るのはどちらか?トップが直面するのは、この問いかけであり、指導者は誠実にこの問いかけに答えることが第一の義務であろう。小生は、そう考えるのだ、な。
散る桜 残る桜も 散る桜
桜の花は、一緒に咲き、一緒に散る必要はもともとないのである。いまは散っても、子孫がまた花を咲かせればよいのである。これが生命というものの本質ではないか。そう思うのだな。


横山大観、「生々流転」から

TPPに参加して協定を批准すれば日本の産業構造は激変を余儀なくされる。浮かぶ人と沈む人がいる。なぜ沈む人がいるのに、日本は前に進めるのか?前に進んだことになるのか?冷たい一片の数字でいえば、実質GDPが増えるからである。GDPとは資本所得と労働所得の合計と比例するから、少ないよりは多い方がいいに決まっている。それで幸福になれるとは限らないが、カネはないより、あるほうがいい、カネがあれば色々なことを乗り越えられるよ、と。それ以上でも以下でもない。本当にそれがいいか悪いか、そんなことは50年たっても分かりゃあしませんよ。

TPPに参加したから、日本はいい国になる。一次エネルギーをどこから得るか?それによって、日本はいい国にも、悪い国にもなる。どれも経済問題であって、基本的にはお金の節約、金儲けの話しである。幸福の問題とは別である。いい国・悪い国の話しとは別である。A社に入ったからいい人生がまっている、B社になったから幸福な人生は無理になった。そんな話が見当はずれであることは、誰でも経験から知っている。それと同じことだ。

2013年4月11日木曜日

過剰な幸福、過剰な豊かさはありうるのか?

古くから同じような意味合いの格言がある。
過ぎたるは及ばざるがごとし
歓楽極まりて、哀情多し
美人はかえって幸せにはなりにくいとも言われる。それは、当然、いい人も寄ってくるだろうが、ロクでもない男が押しの一手で来るからだ。カネを持っていると、更に人間幸福にはなりにくいと言われる。カネ自体は、本来、人を助けるものだが、そのカネを目当てに多種多様な人が寄ってきて、友情の仮面をかぶったビジネスの標的になるからだ。

独紙に載った以下のコラム記事も同じような内容である。

Psychologen wie Shighehiro Oshi, Ed Diener und Richard Lucas hatten schon vor einiger Zeit aufgeschrieben: Die glücklichsten Leute arbeiten nicht viel und erzielen kein hohes Einkommen. Sondern sie haben mehr Kontakte zu engen Freunden und Familienmitgliedern, außerdem engagieren sie sich eher ehrenamtlich. Und schon kommt man zur Frage: Sind diese Leute so glücklich, weil sie so wenig arbeiten? Oder arbeiten sie so wenig, weil sie so glücklich sind? 
Am Institut zur Zukunft der Arbeit hat die Doktorandin Annabelle Krause jetzt untersucht, ob glückliche Menschen kürzer arbeitslos sind. Bekannt ist ja: Wer Arbeit hat, ist mit seinem Leben meist deutlich zufriedener als ein Arbeitsloser. Krause hat die Frage umgedreht: Finden glückliche Menschen leichter wieder Arbeit? Und das gilt nicht immer.
… …
Und sie folgert: “Das Glück zu maximieren, ist nicht unbedingt das richtige Ziel für künftige Politiker. Es scheint besser zu sein, das Glück zu optimieren.”
Source: F.A.Z.15.02.2013, 08:57 Uhr 
 非常に幸福であると感じている人は、親しい人や家族と接することを望み、何か行動するにしてもボランティア活動に参加するような選択をする。働いて高い収入を得ようという動機は弱まる傾向がある。一方、仕事をして報酬を得ることがその人の幸福を大きく左右することはよく知られている。失業期間が長期化することは、人々の幸福を阻害する。それが大問題なのだ。ところが、満ち足りた人は求職活動に不熱心になる。

上の引用の最後がコラム記事の結論である。
幸福を最大化する政策が政策目標として常に正しいとは言えない。人々の幸福を最適な形で実現することが大事だ。
カネで測った生活水準は「一人当たり実質GDP」でかなり正確に測定できるものだ。もし主観的幸福感という次元で、過ぎたるは及ばざるが如し、まあ簡単に言えば「幸せ過剰」というものがあるのだとしたら、実質GDPが示す生活水準にも「過剰な豊かさ」があると考える方がロジカルである。 成長至上主義を批判する立場にも、科学的根拠があるのかもしれない。

2013年4月9日火曜日

84点の若者とサッチャー元首相

ドラマ「遺留捜査」は、主演の上川隆也が「あと三分いただけませんか」と言ってからが面白い。そこで事件の謎が解き明かされるからだ ー 実際は3分以上かかっているが、細かいことはいわない。

その伝でいうと『あと3点ほしいなあ、惜しいヤツだよ』、そんな人がいる。特に就活中の若者と面談して、切るには惜しい、あと3点あればいま決められるのになあ、そんな感想をもつ時は案外多いのである。小生、そんな人には評価84点を与えてきた。

完全無欠のときを100点満点として84点という評価はなるほど高い。しかし、隔絶して優れているとはいえない。とはいえ、評価としては<優>であり、りっぱなものである。が、惜しい。あと3点だけプラスに評価できる点があって87点となると話しは違ってくる。87点ならほとんど<秀>であり、鍛えれば一流になる、その見通しが立つ。84点だとなあ…。

実は小生の愚息が84点くらいじゃないか。そんな気がするのだ。だから、愚息と面談する人たちは、ほんと「始末に悪いなあ」、そんな感想をお持ちなのじゃああるまいか。すいません、中途半端なもので。

長生きはするものではない。徒然草にも書かれている。現代語訳で引用しておく。原文は下の出所で確認のこと。
この世に生きる生物を観察すると、人間みたくダラダラと生きているものも珍しい。かげろうは日が暮れるのを待って死に、夏を生きる蝉は春や秋を知らずに死んでしまう。そう考えると、暇をもてあまし一日中放心状態でいられることさえ、とてものんきなことに思えてくる。「人生に刺激がない」と思ったり、「死にたくない」と思っていたら、千年生きても人生など夢遊病と変わらないだろう。永遠に存在することのできない世の中で、ただ口を開けて何かを待っていても、ろくな事など何もない。長く生きた分だけ恥をかく回数が多くなる。長生きをしたとしても、四十歳手前で死ぬのが見た目にもよい
その年齢を過ぎてしまえば、無様な姿をさらしている自分を「恥ずかしい」とも思わず、人の集まる病院の待合室のような場所で「どうやって出しゃばろうか」と思い悩みむことに興味を持ちはじめる。没落する夕日の如く、すぐに死ぬ境遇だが、子供や孫を可愛がり「子供たちの晴れ姿を見届けるまで生きていたい」と思ったりして、現実世界に執着する。そんな、みみっちい精神が膨らむだけだ。そうなってしまったら「死ぬことの楽しさ」が理解できない、ただの肉の塊でしかない。
(出所)Tsurezuregusa、徒然草第7段
このように人生50年どころか、人生40年くらいが一番美しく、恥をかくことも少なく、醜くもないと書かれているのだ、な。愚息を案じるなど俗世の煩悩の極みであろう。

× × ×

ま、それはともかく、昨日亡くなったマーガレット・サッチャー英・元首相は、84点どころか人によっては100点満点、人によっては0点の人であろう。

そんな人が一国の首相の座についたのは、時代が求めたからであり、巡り合わせでもあり、その点では天運とも言えるし、天命でもあったろう。自分でもそれを自覚していたとしたら、妥協などは考えもせず、ただ只管に信念を貫き、戦術的後退を時にすることがあっても目的を変更することは絶無である。撤退を余儀なくされる時は職を辞する時である。そんな行動をとるはずである。

曰く「天才は為すべきことを為し、秀才は為しうることを為す」。サ元首相が天才とは思わないが、天運によって首相となり、本人が天命と信ずることを為そうとしたのであれば、そんな人は天才と同じように行動するのだろうという推測は成り立ちそうである。

そんな政治家は城山三郎なら「男子の本懐」という言葉で形容したろうが、一人の人間に宿るそんな本懐が、たんなる<思い込み>でもなく、<独善>とも言われず、<自己中心>とも思われずに広く受け入れられるには、やはり国が真の危機にあり、危機を乗り越えることが最優先の課題である時だけであろう。とすれば、サ元首相がまずフォークランド戦争に勝利したことは幸運であったし、最後の年に永年の盟友であったはずのハウ元外相からその独善を批判されたのは、これまた天運であったと言わなければならない。
 


2013年4月7日日曜日

日曜日の話し(4/7)

国家が必要だと思う教育を国民全体に施したとしても、その効果はわずかであるという指摘は、はるかな昔、アダム・スミスが古代ギリシアの初等教育について既に語っている。

古代ギリシアでは、あらゆる自由民は国家の長官の指導の下で体育館での訓練と音楽教育を受けたという。ローマ帝国では体育館というより練兵場で訓練を行ったが、音楽は標準カリキュラムにはなかったらしい。訓練というのは、つまりは軍事教練で、戦前期日本で受けた人たちの幾人かはなお存命中であろう。古代ギリシアにおいて音楽は、いまでいう情操教育であって、他人への思いやりや優しさ、繊細な感受性を養うために国家自らが教育の必要性を認めたということだ。

ところが、スミスは言うのだな。ローマ人のモラルは、古代ギリシア人と同等、もしくは優れていたと憶測される。ギリシア世界を特徴づけた激しい党派対立と政争は、その果てに乱暴で血なまぐさい流血事件すら頻繁に引き起こした。それに対して、ローマでは国民が平静と節度を守り、党派対立の末に血が流されたのは改革を急進的に進めようとした護民官グラックス兄弟が殺害されたのが事実上初めてである。そのグラックス兄弟殺害は、共和国ローマの解体の始まりであり、ローマはその後「混乱の100年間」を経て、帝国へと生まれ変わり、ヨーロッパ世界に「ローマの平和」が到来したのだった。

アダム・スミスの結論は
ギリシア人の音楽教育がかれらの道徳を改善するうえで何一つ効果をあげなかったということは確からしいように思われる、というのはこういう教育がまったくなくても、ローマ人の道徳の方が全体としては優れていたからである。(出所)スミス『諸国民の富(4)』(大内兵衛・松川七郎訳)、岩波文庫
スミスはこの文章のあと、公的機関が関与する教育はほとんど失敗していること、公的に俸給を支給される教員より、支給をうけない私塾における教育のほうがずっと効果的であること、その私塾の経営を公教育は阻害するのであるから、国民により良い教育をほどこす上で、公共の学校教育は有害である。そんな言論を展開している。

国からカネを支給されている小生が上の見解に賛成するのは、まあ、あまりよろしくない。とはいえ、スミスの意見は200余年も昔の著述でありながらも、小生自身の経験に照らして、実に説得的であると思うのだ。少なくとも明治の学制によって日本の教育は始まり、それ以前には満足な教育はなかったという認識は、両者の成功・失敗の経緯からみて、さかさまであろうと思っている。

いやいや、今日は論じてしまった。そんなつもりはなかったが……


ゴーキー(Gorky), The Artist and His Mother, 1936
出所:Wikipedia

ゴーキーがアルメニア人虐殺から逃れて、アメリカにいる父を頼って放浪し、移住していったのは16歳のときである。そこで美術学校に通学して画家になったが、多事多端が続き、重い病を患い、事故で右腕も麻痺するなどして、44歳にして燃え尽きるように自殺してしまった。上の作品は32歳の作品で、母と並んだ絵になっているが、その母はアルメニアを出る前に失っていたはずである。つまり、想像上の絵である。

道徳教育の必要性が議論されているが、強くあれと教育していれば、ゴーキーは強くなっていて、死を選ぶことはなかったのかどうか。そもそも国による教育、学習指導要領による教育は、何のために必要なのか?小生は時に分からなくなる。

2013年4月6日土曜日

「頑張れ」という言葉がモラルにかなう理由

愚息が市内の眼科に行くので修習地の旭川から久しぶりに戻ってきた。戻る前にカミさんに電話をしてきて、どうやら運転免許をとりたいのだという。ところが修習生のことだからカネがない。ついては30万円ほど、せめて一部なりとも小生が出してはくれまいか。そんな話しである。

小生はきいた。
「事情はわかったが、お前も知っている通り、お母さんは腰痛に加えて、今度は急性腎盂炎だ。幸い入院はせずに済みそうだがナ、お前、もし母さんが入院していたら、あるいはオレが交通事故かなにかで入院していたら、やっぱりこうしてオレにカネを出してくれと頼んだか?」
「う〜ん、それはできないよ。」
「そうか、でもその場合でも、法律事務所で仕事をするなら免許が絶対必要だという客観的事情は変わらん。それで頼んできたんだろう。もしオレに頼めないとしたら、どうするつもりだったのだ?松山の叔父さんはもういないし、いわきの叔父さんは大吾君の大学進学でまとまったカネが必要なんだぞ。」
「それは・・・う〜ん・・・」
「修習中はカネがないから、勤めてからになるだろう?上役にいって、夜2時間程抜け出して、なるべくはやくとるしかないじゃないか。」
「それしかないよね。」
「ないよね、じゃあない。いいかい。偶々オレや母さんが元気だから、頼んでみるかと考えたんだろうが、もし病気で頼めなかったら、その場合にはお前は自分の人生の事だから、最大限の努力をして必死に難局を乗り越えようと考えたはずだ。今日は元気でも、明日は事故で入院するかもしれない。思惑っていうのは、外れるかもしれないんだよ、というか外れることを前提にするべきだろう……モラル・ハザードって知っているか?」
「法律と自分の希望が矛盾する場合だった・・・」
「まあ、そうなんだが、一般的な定義はともかく、自動車保険がいい例だ。自動車が普及することは社会全体にとっては運送コストを減らして、進歩につながる。ところが保険がなかったらどうなる。どんなに安全運転注意義務を誠実に守っても事故は避けられないときがある。保険がなかったら身の破滅だ。いくら便利だからって、自動車を使う気になるかい?保険があって、それがセーフティ・ネットになることで、自動車が普及する法制的な基礎ができたんだよ。だけどな、意図は完全な形では実現されないんだ。保険なるものがあろうがなかろうが、最大限の注意義務があることは変わらないよな。しかし、トラブルに陥っても、保険が何とかしてくれると分かってしまえば、どうする?それでも十分に注意をして安全運転をしなけりゃならんのに、たかをくくって危険運転をする人間が出てくる。これがモラル・ハザードだ。互いに相手を信頼して助け合うことで一人ずつではできないことも出来るようになるんだが、そうなりゃそうなるで、自分が最小コストで手っ取り早く仕事をすませても、大丈夫だろうと考える。10点満点で8点とれば、まあいい成果だ。8を得るのに8の努力をしても意味がない。努力は4でいい。そう考えるのが、合理的に見えてしまうんだよ。しかしな、敢えて8の努力をする。そのときは10を超えて16の結果が得られるのが世の中ってものだ。自分が信頼されているって言うのは、結果であって、自分が利用できる資源と考えちゃあダメなんだよ。<助け合い>がいつの間にか<もたれ合い>になる。自分は親から信用されていると思うことで、自分にできる最大の努力をしないで、最初からオレに相談する。形としてはモラル・ハザードじゃないかと思わないか?」
「・・・・・」
「堕落といえるかもしれないぞ。修習開始前ならオレは保護者だし、お前は被扶養者だ。必要なコストはオレが出すのが責任とすら言えるがな、いまは違うんだ。自分のことなんだから、まずお前なりに最大の努力をしようと、こうしようと、一生懸命考える。オレや母さんが元気だろうが、病気だろうが、病気だと思って、自分は頑張る。常に頑張る。そうすることが一番大事なことじゃないのかい?」

× × ×

結論としては、30万円の経費の半分をローンで貸すことにした。仕事をはじめて、最初のボーナスで15万円を返済してもらう。あとの半分は小生の負担だ。補助率50%、こんな話しにしたのだった。

日本人は「頑張れ」という言葉を挨拶代わりにしてきた。しかし、時に「頑張れ」という言葉は使わないようにしようなどと語る人がいる。小生も、以前は「なんで頑張らなくちゃいけないのか」と、そんな反発的な感情をもつことがあった。

しかしねえ・・・他の人たちが心配をしてくれる、だから楽に行こうぜ、と。それは不誠実ってもんでしょう。自分が楽をする分、縁もゆかりもない他人が、自分の代わりに頑張らなければならないというのじゃあ、人様に顔向けできんだろう。互いに「頑張れよ」と声をかけあう日本人の習慣は、自分のことくらいは自分で乗り越えようぜ、と。そういう心意気を声にするものだ。そう思うようになった。それで愚息との今日の会話になったのだな。

ドイツ人は”Gesundheit”という単語を頻繁につかう。別れ際の挨拶にも使ったりする。「健康」という意味だ。「元気でな!」、「体に気をつけてな」、そんな意味である。日本人の頑張れよと、ほとんど同じ意味合いの挨拶である。そういえば、昔は「達者でな」というのが別れの挨拶だった。即ち、それは「元気に働けよ」という意味であり、いま流にいえば「頑張れよ」という表現だ。

頑張っていこう…、人間生きていくのに、当たり前の言葉、当たり前の挨拶である。この挨拶が相手にプレッシャを与えるのだとすれば、既にその精神が堕落している。そう言えはしまいか。

2013年4月4日木曜日

ドイツ人の対南欧意識 ― 一つのデータ

政府機関は情報を出し惜しみするものだ。特に、その情報がショッキングで、いまやろうとしているプランを覆すかもしれない場合には。

朝日新聞社が聞けば、わが意を得たりと応ずるのが明らかだと思うのだが、この事情はヨーロッパでも同様だと見える。

少し古くなるが、独紙Frankfurter Allgemeine Zeitungに以下の報道がある。


Spanier ein Drittel reicher als Deutsche

 ·  Haushalte in Spanien oder Italien haben oft deutlich mehr Vermögen als die in Deutschland. Das zeigt ein Bericht der Bundesbank. Ein typischer deutscher Haushalt besitzt ein Nettovermögen von 51.400 Euro.
Die Vermögen der Deutschen sind im internationalen Vergleich besonders ungleich verteilt. Zudem besitzen die meisten Haushalte auch deutlich weniger, als etwa diejenigen in Frankreich, Spanien oder Italien. Das zeigen die Ergebnisse einer Umfrage der Deutschen Bundesbank unter gut 3500 Haushalten. Demnach beträgt das Nettovermögen - dazu zählen unter anderem Geld, Immobilien und Autos abzüglich der Schulden - im Durchschnitt 195.000 Euro. In Spanien liegt dieser Wert bei 285.000 Euro und in Frankreich bei 229.000 Euro. Die Masse der Deutschen kann von solchen Werten ohnehin nur träumen. Denn wegen der besonders ungleichen Verteilung verfügt ein typischer deutscher Haushalt nur über 51.400 Euro. Das ist der sogenannte Medianwert - das heißt, eine Hälfte ist reicher, eine Hälfte ist ärmer. In Frankreich liegt dieser Wert bei rund 114.000 Euro, in Italien bei rund 164.000 Euro.
Source: F.A.Z., 21.03.2013

ドイツの世帯が保有している純資産は平均値で195千ユーロ(=大体1950万円程度)であるが、同じ資産概念でスペインの世帯は285千ユーロ、フランスの世帯は229千ユーロを保有している。ただこれは平均値であって、大部分のドイツ人にとっては夢物語である。そこでメディアン(中央値)をとって、ごく普通の世帯同士で比較してみる。すると、ドイツが51千ユーロ(概ね500万円)、これに対して、フランスは114千ユーロ、イタリアは164千ユーロで、統計データをみる限り、イタリアの家計はドイツの家計の3倍の純資産を保有していることになる。

おりしもキプロス危機が全ヨーロッパに暗雲を広げていた。ドイツが主導しているEUはキプロスに預金課税を迫り、キプロス国民はドイツのメルケル首相を傲慢なナチス政権に喩える向きもあったときいている。フランスも節約ばかりを唱えるドイツに対して、鼻白む心理を感じはじめているという。

しかしねえ……、フランスよ、イタリアよ、スペインよ、あなたたちのほうがお金をお持ちじゃないですか。ドイツばかりを頼らないで、フランス人やイタリア人が、もっとお金を供出したらいいのではないか。資本課税でも何でもやって、お金を徴収したらいいではないですか。そんな気持ちになっても致し方のない数字でありますな、上のデータは。

グラフで欧州国内の比較をすれば下図のようである。


これもあってか、ドイツ紙は以下のように指摘している。
Die mit Spannung erwartete Studie ist Teil eines Projekts, an dem alle 17 nationalen Notenbanken des Eurosystems teilnehmen. Die Gesamtergebnisse hat die Europäische Zentralbank bislang noch nicht veröffentlicht, obwohl die Daten vorliegen. In Notenbankkreisen wird geargwöhnt, die brisanten Daten sollten unter Verschluss gehalten werden, bis das Stabilisierungsprogramm für Zypern in trockenen Tüchern sei. Die EZB betont dagegen, dass die Statistiker noch Zeit für die Feinarbeiten bräuchten. Eine Veröffentlichung des Gesamtergebnis sei für die erste Jahreshälfte geplant.
上の統計調査はEUROに加盟している17カ国の中央銀行が参加して実施したのだが、データが揃ってきているにも拘わらず、調査結果はまだ公表されていない。ECBは、データを精査する時間がなお必要であると説明しているが、足元のキプロス危機を乗り越えるまでは、外には出さないと決めたのではないか。そう勘繰られている。

ま、ドイツ人としては、そう言いたい数字であることは確かだ。




2013年4月1日月曜日

病の心配をしたら両手でも足りない

授業が始まるまでは、時間があって、いろいろと思いついては書いておこうという気になる。

俳優の柄本明が前立腺ガンの手術をしたとのこと、ご令室があるイベントでそれを語った所、会場はその病名をきいて衝撃がはしったということだ。

小生も前立腺肥大症にかかっており毎晩”フルバス”を服用している。小生の場合、アレルギー性鼻炎で長期連用していた”ニポラジン”の副作用ではないかと疑っている。この薬の副作用としては白血球の減少もあげられており、実際、当地で暮らし始める前は白血球数も正常値であった。やっぱり副作用じゃないかと思うのだな。眼圧もそうだ。こちらに来てから高眼圧になった。それで”アレグラ”に変えて、最近は時々飲んでいるいるくらいだが、元には戻らない。

この3月は座骨神経痛が出てくるし、これからも経験したこのない病気になって、戦っていくのだろう。その戦う姿を見せることが、親たる者の最後の仕事じゃと云われれば、そんなものなのかねえ、今の時代は、と。ただ思いますよ。前立腺ガンでなくて、認知症だったら良かったのですか?脳梗塞が発症したのであれば良かったですか?大腸ガンではどうですか?心臓病の手術ならどうでした?脳腫瘍の手術なら?

どれかになって死んでいくのは確実なのだから、何になろうと驚く事はない、そんな風に開き直る権利くらいは、人間一人、誰でも持っているはずだ。驚かしてすいません。あやまる必要もなければ、何でこのおれがと落胆するのも理屈に合わん。

一つだけ、できたら有り難いかもしれないことは、いつ死ぬか、何歳で死ぬか、自分で決める事ができれば、「衝撃」を受けることもないかもしれない。しかし、一度決めたことを取り消せないのであれば、悔いを千歳に遺して身罷る人が増えようなあと思う。何度でも変更できるなら、何歳までも生きられるということなので、これは無理筋だ。第一、いつまでも何かが心配で死ねないなど、勘弁してほしい。自分で決めるには余りに重すぎる事は、神様に決めてもらうのが一番だ。

だとすれば、何かの病気になって、最後は神様がお迎えをよこすというのは、人間にとっては<おまかせスタイル>で、これが案外、生きていくにはベストのあり方だと言うべきだろう。