2013年4月14日日曜日

日曜日の話し(4/14)

一週間の間には色々なワイドショーがある。そのどれでも先日他界したサッチャー英・元首相をとりあげている。今日のサンデーモーニングでも、「一人の女性が世界を変えた」という話しをしていた。同女史の『私は前に進む、進みたくない人は進まなければいい、しかし私は後戻りはしない』、そんな言葉を記録フィルムで流していた。

最後にコメンテーターが一人ずつ意見を述べていたが、『前に進むというその時に、一番後ろの人をみる、それも勇気の一つではないでしょうか』と、そんなことを言っていた。

この言い回しに共感する日本人は本当に多い、というより全ての日本人は同感するのじゃあないかとも思うのだ。取り残される人たちのことを思え…、何という日本的な心情であろうか。優しいとも形容できるし、こういう言葉から醸し出される暖かく睦みあう情感の流れを日本人は最も大切にするのだ。生きるのも一緒、滅びるのも一緒。そんな心の佇まい、だからこそ、一斉に散っていく桜の花を日本人は好きなのだろう、とも思う。

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こうとしか言えないであろう。桜の花が一斉に散らなくとも、満開の日から日数を経ても、七分から五分、五分から三分へと、もと来た道をたどるように段々とハラハラ散っていくとしても、それはそれで<もののあはれ>を感じさせるはずなのだが、日本人は散り際の見事さに感嘆してばかりいる。

しかしなあ…、昭和天皇の終戦の詔ではないが、一番後ろの人を心配するあまり、前に進む時機を逃してしまったら、全員が玉砕して生き残る人がいなくなるではないか。そんな観点から、現状をどう打開するべきかを議論する。ロジックとしては当然だと思うのだ。

危機にあるとき、たとえ右腕を失っても、片方の足をなくしても、失明しても、言葉を失っても、まず生き抜いて生命を全うする。理屈ではなく、本能でそんな行動をとるはずだ。身体髪膚すべてこれ父母にうく、などと言って生きる努力をせず、泰然として死出の旅に立つなんて選択をすれば、身体をあげた当の両親が何よりその愚かさを嘆くわけである。残念ながら危機に陥って、現状のまま脱出できそうもないときは、犠牲を少なくすることが重要になる。一人の人間が命を全うするときは、頭脳がそれを考える。社会が問題を解決するときは、頭脳の役割を果たす人間が決断をしないといけないのだな。

人間の身体を構成している細胞や器官はすべて必要である。すべてなくてはならないのだ。その点ではどれが大切で、どれが不必要だという区別はできないものだ。しかし、心臓が損傷したら直ちに死ぬ、大脳の機能が停止したらそれは死を意味するのだ。手がなくとも、足がなくとも、直ちに死ぬわけではなく、その後の再生を期待することができる。希望がある。

人間一人の身体も、国家という有機体も同じことである。

人間集団が全体としての選択をするとき、より多くの<希望>が残るのはどちらか?この問いかけが本質であり、具体的に言えば<より多くの個体>が生き残るのはどちらか?トップが直面するのは、この問いかけであり、指導者は誠実にこの問いかけに答えることが第一の義務であろう。小生は、そう考えるのだ、な。
散る桜 残る桜も 散る桜
桜の花は、一緒に咲き、一緒に散る必要はもともとないのである。いまは散っても、子孫がまた花を咲かせればよいのである。これが生命というものの本質ではないか。そう思うのだな。


横山大観、「生々流転」から

TPPに参加して協定を批准すれば日本の産業構造は激変を余儀なくされる。浮かぶ人と沈む人がいる。なぜ沈む人がいるのに、日本は前に進めるのか?前に進んだことになるのか?冷たい一片の数字でいえば、実質GDPが増えるからである。GDPとは資本所得と労働所得の合計と比例するから、少ないよりは多い方がいいに決まっている。それで幸福になれるとは限らないが、カネはないより、あるほうがいい、カネがあれば色々なことを乗り越えられるよ、と。それ以上でも以下でもない。本当にそれがいいか悪いか、そんなことは50年たっても分かりゃあしませんよ。

TPPに参加したから、日本はいい国になる。一次エネルギーをどこから得るか?それによって、日本はいい国にも、悪い国にもなる。どれも経済問題であって、基本的にはお金の節約、金儲けの話しである。幸福の問題とは別である。いい国・悪い国の話しとは別である。A社に入ったからいい人生がまっている、B社になったから幸福な人生は無理になった。そんな話が見当はずれであることは、誰でも経験から知っている。それと同じことだ。

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