2013年5月31日金曜日

メモ – 異次元金融緩和で長期金利上昇とはこれいかに?

<異次元>と形容される程の金融緩和を続けながら、同時に長期金利が低下しないどころか、急上昇している。

エコノミストの中には、『当たり前でしょ』という人もいるようなのだが、小生は<当たり前の経済理論>しか知らないので、緩和の中の金利上昇は不思議で仕方がない。

実際、最近の株価と長期金利(=10年もの国債流通利回り)を図にすると以下のようだ。


同じ長期金利の代表例である住宅ローン金利も引き上げられる方向だと言う。日刊ゲンダイは次のように書いている。モラトリアム停止についてだ。
マイホームを強制的に取り上げられる人が急増しそうだ。3月末で「モラトリアム法」(中小企業金融円滑化法)が期限切れになり、年内だけでもローン破産する家庭が約10万世帯に達する可能性があるのだ。
 09年12月から始まったモラトリアム法で、リストラや会社の倒産などで住宅ローンの支払いが滞っていた庶民も、返済猶予などの恩恵が得られた。
 だが、この法案が失効した直後の4月、「配当要求終期公告」で自宅を裁判所に差し押さえられた人は、東京23区だけでも約200件。前年同月比で1割ほどの増加だ。
… … …
「ローン金利も上がる可能性があり、変動でローンを組んでいる家庭は苦しい。銀行が早く、より確実に債権の回収に走ることも考えられます」(森信愼二郎氏)
 法案の期限切れと金利上昇のダブルショックで、夢のマイホームを手放す危機が出てきた。
(出所)日刊ゲンダイ、2013/5/12 07:00  
金融緩和で金利が上がる。「これいかに?」というわけだ。「金融緩和をすると、普通は金利は下がるんじゃないの?」という疑問に日銀やエコノミストは、分かりやすく解説する職業上の責任をおっていると小生は思っている。「異次元金融緩和をすりゃあ、そりゃあ金利は下がる、ちゃう!上がるんでござんすね、上がるのは当たり前だ、そこが異次元ってえわけでございましてな」と開き直る場面じゃない、そう思うのである。

金利が上がる理由としては、そういくつもあるわけではない。

  • 資金需要の増加によるディマンドプル型の金利上昇
  • 資金供給の抑制によるマネーサプライ側の理由による金利上昇

この二つだ。本当に異次元の金融緩和を進めるなら後者であるはずはないのだな。マネーサプライ制約はないとする。それなら需要側の理由をさがせばよい。

資金需要側の理由から日本の長期金利が上がる理由も、いくつもあるわけではない。

  • 財政拡大
  • 実質金利のマクロ的な上昇 = 民間投資の増加
  • 予想インフレ率上昇による実質金利の低下

政府はいま消費税率を引き上げることを意図しており、財政赤字を更に一層拡大していく政策意図はない。また一時的に拡大するとしても、金融緩和でそれをアコモデイトしていくという姿勢がとられている。だから財政拡大によるクラウディングアウトで金利が上がっているとも思えない。実質金利が上方修正されたのか?それは実体経済から決まるものであり、金融で実質金利を操作することはできない。20年も停滞してきて、いきなり日本企業の実質収益率があがるのは奇妙だ。となると、予想インフレ率が上方修正された。それで短期金利先高感が出てきて長期金利に波及した。そう見るしかないのじゃないか。デフレマインドからインフレマインドに変えることに一先ず成功した・・・?これもどうも、ウ〜ンと感じるところである。

実際には、債券から株への資金シフトで国債価格が下落した(=長期金利上昇)わけだ。とすると、これはマネーサプライ制約によるものだ。もしゼロ金利で資金が調達できるなら、何も国債を処分して(=機会費用を負担して)株式投資の投資資金を得る必要はないからだ。だとすると、ベースマネー拡大スピードとそれに応じた市中金融機関の信用増加スピードが株価上昇スピードについていけなかった。ズバリ言うと、金融システムの効率性の限界。まあ、こういうことかもしれないわな。

しかし、こういう状況は文字通り日銀主導の<バブル期待>そのものではありませぬか。小生にはそう思われるのだ。今後も–おそらく歳末までは–続くであろう株価上昇トレンドの途中で発生した<ちょっとした事故>。今回の株価調整はそんな解釈に落ち着くのだろうか。




2013年5月30日木曜日

覚え書 – 家計債務危機に関するこれまでの報道

ヨーロッパでも対南欧強硬姿勢をとる急先鋒として知られてきたオランダも実は家計債務危機に陥っているという報道がある。
【ロンドン】ユーロ圏で最も大きな債務を背負っている国はどこか。国費で気前のいい年金を支払っている浪費家のギリシャか。いかがわしいロシアの資金をその銀行に預かっていたキプロスか。景気後退に見舞われているスペインか、それとも好況後の不況に陥っているアイルランドか。
そのいずれでもない。実は節度と責任感のあるオランダだ。
オランダの家計債務は可処分所得の250%に達した。これは世界でも最高レベルであり、スペインでさえ、それが125%を上回ったことはない。

オランダは世界でも最も重い債務を抱えた国になってしまった。景気後退に陥り、そこから脱却する兆しはほとんど見えていない。3年にわたってだらだらと長引いてきたユーロ危機だが、これまでに感染してきたのはユーロ圏内の周辺諸国だけだった。しかし、オランダはユーロ圏と欧州連合(EU)の中核国である。オランダがユーロ圏で生き残れなければ、このゲームは本当に終了となる。(出所)Wall Street Journal Japan, 2013年 5月 09日 
アメリカの家計債務状況は、リーマン危機直後には心配されていたが、このところ大いに改善されてきている。
だが状況は大きく変わりつつある。国際通貨基金(IMF)が4月下旬に発表した世界経済見通しでは、米国の家計の債務は対所得比率で07年の130%から2012年末には105%に下がったことが明らかになった。
 一方、ユーロ圏の家計債務比率は同期間に100%から110%弱に上昇。
これまで欧州の家計の債務比率は米国を常に下回っていたが、今回それが逆転した。
 これをどう解釈すべきか。楽観主義者はデレバレッジ(債務圧縮)が著しいほどの規模で起きている可能性が示されたと喜ぶかもしれない。米ニューヨーク連邦準備銀行の最近のリポートによれば、米国の家計債務残高は08年の12兆5000億ドルから1兆ドル近く圧縮された。(出所)2013年5月10日付け英フィナンシャル・タイムズ紙報道、日本経済新聞が翻訳
アメリカ家計のローン返済状況を可処分所得に対するDebt Service Ratioでみると下図のようである。


Source: FRED, Federal Researve Bank of St. Louisで作成

なぜこれほどのビッチで改善されてきたかについては色々な解釈があるが、「アメリカはもはやリーマンショック後ではない」というのは事実である。

家計債務については、実は韓国経済も危機的な状況である。ほぼ1年前の記事であるが、次のように報道されている。
ところが、多くの先進国で消費者債務はこの4年間に減少しているのに対し、韓国の家計債務は増加の一途をたどり、昨年には可処分所得の164%に達した。これは、サブプライム危機発生時の米国の数字をはるかに上回る。(出所)2012年8月22日付 英フィナンシャル・タイムズ紙を日本経済新聞が翻訳
ちなみに日本の家計部門(個人企業を含む)の債務状況を国民経済計算(SNA)でみると、2011年に可処分所得が286兆6503億円、債務が360兆1795億円だから、125.7%である。韓国やオランダよりは良いが、アメリカや欧州よりは過重債務状況で、問題なしとはいえない。

デフレの継続は、一定の労務に対する名目報酬額を低下させると同時に、家計が保有する資産評価額を下落させる。一方、債務残高は減らないものである。日本の家計貯蓄率が高いというのも既に古き伝説である。日本政府の財政は危機的状況だが、家計は健全であるという言い分は、間もなく迷信になる。というより、既に日本の家計はそれほど盤石なものではないということを知っておくべきだ。

なお、本日の投稿で登場する数字は、ひょっとすると「債務」という言葉に含まれる範囲に違いあるかもしれず、厳密ではない可能性がある。とはいえ、概ね事実に該当していると思うので覚え書きに記しておく。


2013年5月28日火曜日

立憲君主制は民主主義だというウソ

橋下徹市長が外国特派員協会で会見して、まだ世を騒がしているようだ。もう、語る気にもなれないが、誰だったか「あの人は、何か言うと必ず”しかしながら”をつける。弁護士なんですねえ」と評していたが、三百代言とはよく言ったものだ。これでは誠実に仕事に取り組んでいる全国の弁護士の方たちも迷惑を被るのではあるまいかと心配する。政治家の発言は時に<口害>となる。いわゆる公害と同じなのだ。

さて、学会出張からの帰途、飛行機の中でやることがないので、考えにふけったことがある。それを記しておきたい。<立憲君主制>という言葉についてだ。

☆ ~ ☆ ~ ☆


立憲君主制は民主主義の一つの在り方だと日本ではよく口にされる。そういえば戦前の天皇機関説は、大日本帝国憲法のもとで日本は民主主義国として機能していると。そんな学説であったかと思う。一時、学界主流派の考え方になっていたようで、大正デモクラシーの時代にそんな解釈が結構流布されていたようである ― それが本質的にとんでもない間違いであったことは、その後の日本の歴史が証明しているのだが、中々、本質に無遠慮に切り込むような議論は日本ではやりにくいものなのだろう。

そもそも立憲であろうと、非立憲であろうと、<君主制>という文字が含まれているのに、その国が<民主制>であるのはこれいかに、だ。そんなわけがないではないかと、小生はロジカルに議論したくなるのだが、この辺りが偏屈なところなのだろうなあ。


しかし、イギリスはどうなのさ、と。あの国は女王が元首だよ、と。オランダは、ベルギーは、スウェーデンは?どこも国王がトップではないか。そんな国はすべて民主主義ではないの?

上に挙げた国はすべて民主主義であります。大事な点がある。イギリスは女王が元首であるが、17世紀に国民が革命をおこし、国王の首を切った国である。それでも王制は維持しようとしたが、またまた王が国の支配者であるような行動をするようになった。それでまた国民は王(=ジェームズ2世)を国外追放して、オランダから新しい王を迎え推戴した。イギリスの王は、イギリス国民が主体的に選んだ存在である。オランダ王室もそうだ。16世紀にまだスペイン・ハプスブルグ王朝の植民地であった時代、地元の豪族オラニエ家が王となって国を主導した。あの辺りの貴族の血筋は、フランドル、ブラバント、ナッサウなどの血統が入り乱れて、外国人には把握しがたいものだが、国の独立運動の中から自然に生まれてきた地生えの王がいまのオランダ王室である。スペイン国王はブルボン家の出身だが、この名門もフランコ政権時代には王制が倒壊し、苦心惨憺の末に国民が出戻りを容認して迎え入れた王である。まだまだ列挙できるが、きりがない。ヨーロッパにはこのように王を擁している国が多いのは事実だが、どの王も国民によって主体的に認められ、選ばれた王なのだ。

フランスはフランス革命でルイ16世の首を斬ったが、その後は第一帝政、王政復古、七月王政、第2帝政などを経て、とうとう王を置くのは止めてしまった。ドイツは第一次大戦の敗戦で帝政が崩壊した。オーストリアのハプスブルグ王朝もそれと前後して崩壊し、ハプスブルグ=ロートリンゲン家の皇帝カール1世は国外に逃亡した。ロシアは第一次大戦の敗勢の中、国民が蜂起し、ロマノフ王朝の皇帝ニコライ2世一家は逮捕され射殺されてしまった。革命後は共産党が政権を握った。

欧州の王と国民はこんな風に歩んできたのだ。真の意味での<国民主権>を確立するための血の歴史がある。

★  ★  ★

そこは日本と全く違うんじゃあござんせんか。小生はずっとそう思っている。ヨーロッパは日本の参考にも模範にも全くならんのじゃあござんせんか?「立憲君主制」など口当たりのいい輸入単語を使って、いいとこどりはダメでござんすよ。そう思うのだな。

日本の天皇は、日本の国民が決意して、国民が選んだ王ではない。それどころか、まず天皇がいて、そのあと国民がある。そんな意識すら垣間見える。何が「国体」でござんすか。存在しているのは「日本人」しかおりはしません。憲法は、国権を制約づけるものであると民主党は主張している。なにもそればかりではないと小生は思うが、日本の天皇制の下では民主党の主張に分があるのも事実だろう。天皇が国家元首となり、国民の義務を憲法で定めるという発想で条文を書き下すとすれば、それでも日本は立憲君主制をとった民主主義国であるとは言えないと思うのだな。だから、自民党の憲法草案はとんでもない代物であるというのが小生の立場である。

中国・韓国は時にひどい難癖をつけると感じる時もあるが、あれだけ言い募るには言うだけの理由もあると思う。

大体、憲法の第1章が天皇になっている。これは何ということでござんしょう。江戸時代の侍どもも理解できない取り決めであろう。大昔の朱子学、宋学、近世の水戸学、国学を暗記した者には常識だったかもしれないが、そんなカビの生えた理念を21世紀の日本人が今さら持つはずがないではないか。おわらいだ。第2章が戦争放棄であるのは良いとして、第3章になってはじめて国民の権利及び義務が記述されている。これは一体何であろうかとずっと昔から疑問に思ってきた。日本が本当の民主主義であれば、第1章が国民の基本的人権でなければならない。イギリスには王がいるが、イギリスの不文憲法はマグナカルタをはじめとする数々の国民の基本的権利の確認文書である。フランスは人権宣言から民主社会を構築した。当たり前のことである。実際、フランスやドイツの憲法を調べてご覧なせえ。

皇室の尊重は、憲法の前文に皇室尊重の精神をうたっておいてあとの細部は法律に委ねるか、そうでなければ憲法の末尾に皇室の維持が日本国民の尊厳にかなうものであると規定しておくのが、せいぜいのところ最良のポジションだ。

もしそんな憲法にするなら、憲法は国権を制約するばかりではなく、今の国民が将来の国民に伝えていくスピリットを示しておく。これまた良いではないか。これこそ<大和魂>というものではござらぬか。そうであってこそ憲法は「アメリからの贈り物」ではない真の日本人の精神的財産になるに違いない。大事なものは天皇家にはない。日本人全体が持っているものだ。それもまた大事な点ではないか。小生には、それがいかにも自然の在り方だと感じられるのだ、な。

2013年5月26日日曜日

日曜日の話し(5/26)

昨日、福島→会津若松→いわき市と、福島県全域を斜めに移動してから、勿来町の弟宅に一泊し、今晩、北海道に帰ってきた。

いわき駅前でバスを降りるとき、ズボンのポケットから携帯のiPhoneが滑り落ちたらしく、「15:40発のJRに乗るから」と連絡しようとしたところ、あるはずの携帯がないと気がついたときには目が点になった。急いでバス会社の営業所に公衆電話をかけると、「届いていますよ」という。すぐにとりにいくと言って、タクシーにとび乗る。「新常磐交通の中央営業所って遠いの?」、「遠いですよ」、「どのくらい?」、「まあ30分くらいですかね、前は市内に営業所があったんですけど、郊外に移ったんですよね」、「そう、まあとにかく約束があるから急いで」。往復8千円を支払う。

待ちかねた弟が勿来から平まで車で走ってきてくれた。「いや、いや、世話をかけちまったな、この機会だから会津にちょっと寄って来ようと思ってな。で、バスを降りるとき、携帯が落ちたらしいんだ」と。そのうちに会津を舞台にした『八重の桜』の話しになる。弟が「うちも観てるよ、綾瀬はるかがずっと昔から好きだしね」、「お前もそうなのか?オレもずっと昔から綾瀬はるかが好きなんだ」、「エッ、そうなの、不思議だねえ」、「遺伝だな、これは。ああいうタイプを好むDNAを持っているんじゃないのかね」。そんな下世話な話しをしながら、走っていくと、じきに弟の家についた。

甥の大学合格祝いに買ったMacBook Pro "13 inch"と土産の「白い恋人」を手渡す。

久しぶりに酒を酌み交わしながら、また話しは会津になる。弟の奥方が
「戊辰戦争で戦死した会津の人たちの遺体を弔うことも官軍は認めなかったそうですね、酷いです」という。
「野ざらしになっただけでなくて、官軍の戦死者だけを祀る神社が作られたんだよね、それが靖国神社になって今日に至る、それが源だよ。西郷隆盛も西南戦争で賊軍として死んだから英霊とは認定されていない。一緒に死んだ薩摩武士たちも逆徒であるわけさ。案外、知らなかったろ?靖国神社のこんなところ、マ言ってみれば皇室崇拝サ、裏を読めば長州(=山口県)の手前勝手になるのかなあ、こういうこと普通の日本人は知っているんかな?」
「福島の人たちはみんな知ってますよ」
「萩市から姉妹都市の提案をきいて会津若松市が断ったくらいだからなあ」
「会津藩主の松平容保のお孫さんだったか、曾孫だったか、靖国神社の宮司を依頼されたらしいんだよね。そのとき、そのお孫さんの言うことには、自分のご先祖のために死んでいった会津藩士たちが誰一人祀られていない靖国神社の宮司を勤めることは自分にはできません、とまあそんなことを言って依頼を断って、晩年は猪苗代湖畔に陰宅を建てて移り棲んだらしいねえ、土地の人たちは感激したそうだなあ」
「そんなことがあったんだ。でもあれだね、八重の桜はいままさに会津が攻められる所なんだよね」
「綾瀬はるかの会津弁は、おじいちゃんが使う言葉とは少し違ってて、下手だと思いますよ」
「そうなの・・・ただあれだね、土地の人でないと、言葉がちょっと違うとは思わないよ」

一瓶あけた日本酒は『会津中将』でも『栄川』でもなく、三重県の地酒だった。そこは、やはり、現代の日本社会である。


小林清親、日本橋夜、1881(明治14)年


旧幕時代から王政復古に至る明治の政権交代は、ある側面をみれば陰謀や倫理に反する行為によって達成されたものだ。これもある意味で事実だろう。とはいえ、その結果として、大多数の日本人は明治の世で新しい生き方と暮らしを手に入れ、国が変わり始めた。安定と安心もよいものだが、悪く言えば停滞と諦めが社会を覆う。格差の拡大は悲惨で人の心を荒ませるが、変化や発展が多くの人を刺激して、希望や志を吹きこみ、世を活性化させるのも事実だ。小生は新し物好きなので、結果として明治を迎えたことは良かったと思っているが、その時代、リアルに変動を体験した人達の半分は<不条理>を呪いたくなる気持ちだったに違いない。その半分の人たちが感じた不条理を何も清算しないまま、第二次大戦の戦後になって国連憲章の敗戦国条項を気にする、中国や韓国とのわだかまりは全て清算できているはずだと思い込む、やった方は忘れてもやられた方は記憶しているものだと言うと、しつこいと感じる。こういう事実認識はどこかで大事な議論が欠けているように思うのだな。具体的にどこを議論するべきと、ここで明記する必要はないと思うが、<歴史問題>というのは、何も日本対外国の専売特許ではない。日本史の中にすら、未清算のわだかまりは残っている。小生にはそう思われますな。

とはいうものの、個人個人がどう感じているか、どう受け止めているかという問題と、社会全体が進歩しているのかどうかは、まったく別々の話題だ。優しい世の中を作る気が全くないのであれば、個人個人の気持ちに立ち入る必要性は、国の観点からいえば、全然ないのだ。そう開き直ることもできるのかもしれない。

2013年5月23日木曜日

ややっ、金融危機かー株価暴落

学会で福島市に来ている。明日、明後日と飯坂温泉で応用統計学会の年会があり、今回は旅程どおり出るつもりだー明後日は会津によって、その後いわき市の弟宅を訪ねるつもりだが。それにしても、郡山があんなに繁華なのに、県庁のある福島市はなぜこんなに静かなのか。

いずれにせよ、甥の進学祝いに贈呈するMacBook Proが重いので、今回はiPadを持ってきて、楽天のSuper WiFi経由で本ブログに投稿している。最初はBluetooth Keyboardで打ち込んでいたが、何の拍子か接続が切れてしまい、打ち直した次第。どうも、安定性に欠ける。閲覧はいいが、文章の編集は不安だ。いつ飛ぶかわからない。

なので旅にある間は最小限にしよう。

日経平均株価の暴落は書いておかないといけない。何しろ1000円安というのはITバブル崩壊以来だという。中国のPMIが予想を下回る数字であったのが東京での売りを誘い、プログラム売買が自動的に作動して、売りが売りを誘ったと説明されている。また、住宅ローンや国債流通利回りなどの長期金利がこのところ上昇していることに日銀が無頓着とも言える態度をとってきたことも市場の不安を煽ったと言われているようだ。長期金利は黒田日銀総裁も意を払うと本日発言しているし、もともと期待で上がってきた株価である。下がるべきところまで一度下がったと言うべきじゃあないか。

フィスコ辺りの読みによると、一挙に1万5千円を割り込んでしまったので、当面はスピード調整の局面に入るだろうということだ。とはいえ、日米は実態経済が上向きつつある。妙なトラブルが何もなければ、上昇トレンドにいずれ戻るという見方には賛成だ。先進国の協調緩和の中で、石油価格(WTI Spot)がバレル90ドル前後の水準で落ち着いているのが、何と言っても無視できず、今回の拡大ではこれまでのように<石油価格上昇=景気崩壊法則>が当てはまりそうもない。それと、言わずとしれた<TPP>の進展、これだけで株価を2000円は押し上げる効果ありと予想する。

ただしかし、欧州は優等生と言われてきたオランダ経済が不安視されるようになった。過重債務という点では韓国経済もそうだ。見落としてきた不安の種はある。ま、この話題は明日にでも。

それにしても、儲けるつもりで最近になって株に手を出した人は、冷や汗をかいているのではないか。高値で買うのは、何を買うのもそうだが、所詮禁物ということだ。投資信託も最近は売れ過ぎて困るほどだという。昨日買ったばかりの人はリスクなるものの洗礼をいきなり受けたことになる。

2013年5月21日火曜日

もう一回だけ引っ張ろう ― 橋下徹大阪市長の発言騒動のその後

橋下徹大阪市長の慰安婦論争はまだ当人が降りそうもない。頑張っている。安倍総理は、右翼勢力にかなり同調的な発言を何度かしたところ、英紙から”危険なナショナリスト”呼ばわりをされたものだから、慎重に一歩後退をした模様だが、橋下市長は引けば負けと観念しているのか、頑固である。

今日はこんな文章が出ている。
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は20日夜、堺市内での大阪維新の会のパーティーであいさつし、戦時中の旧日本軍慰安婦問題に関連して「日本も悪かった。戦場の性の問題として女性を利用していたのは間違いない。その代わりアメリカだってイギリスだってドイツだってフランスだって、もっと言えば第2次世界大戦後のベトナムでは韓国軍だって、みんな戦場の性の問題として女性を利用していたんじゃないんですか」「日本も悪かったけど、あなたがた、過去を直視しなさいよと言うのが日本の政治家だと思っている」と持論を展開した。(出所)朝日新聞デジタル、5月21日(火)0時36分配信
 女性の人権を踏みにじる行為も問題だが、それよりは銃弾を打ち合って人の命を奪う行為は殺人であり、よほどの理由がない限り、もっと許されないのではないか。<国家行為>と見なされるからやっとのことで敵兵の殺害が許されているのであって、<私人の行為>として人を殺害する行為は、たとえ敵討ちでも復讐であっても罪である。これは時代と国を問わない。

橋下市長の思考回路を少し拡張すれば、『戦時中、多くの日本兵が銃弾で死んだが、たしかにそれは連合国側から見れば正義だったのだろう。しかし、日本側からみれば米兵による日本兵の殺害でしかなかった。日本が隣国を侵略したと言うなら言ってもいいが、、連合国も日本にずいぶんなことをしたではないか。そんな過去を直視しなさいよと言うのが日本の政治家だと思っている』。こういう言い分になるのではないか?

確かに<喧嘩両成敗>が日本人は好きだが、世界史の中では<勝者が正義>である。懐疑主義者になるのもいいが、戦争の勝者が国際社会の構造を打ち立てる以上は、これを否定しちゃあ、国として苦しくなる。いやまてよ、敗北のコストはなにもカネだけではなく名誉や栄光の喪失もそうだ。衣食足りたいま、現在の日本は失った名誉があまりに巨大であったと感じているのかもしれない。それはもう取り戻せないものなのか?敗北の費用が許容不能なほど大きいと気がつけば、もう一度勝者になって失ったものを取り戻そうとする動機が敗者の側に形成されるかもしれない。旧・敗戦国はもう嫌だ、一等国の夢よもう一度、というわけだ。しかし、こんな心理は序列化思考そのものであって、世界を幸福にする思考回路とは違うはずだ。

「もはや戦後ではない」と日本は1955年には宣言したものだが、その頃、中国や韓国はとても「戦後ではない」と言える状況ではなかった。歴史認識には日本と隣国でもともと位相差があるのだ。今は21世紀であって、第二次世界大戦から68年が経ったが、それでもまだ「戦後」は続いている。そう認識しても、日本の損になることばかりじゃないだろう。戦後のツケはまだすべて清算されきっていない。そんなことまで感じさせる最近の騒動ではないか。

2013年5月19日日曜日

日曜日の話し(5/19)

昨日、旭川の桜が開花したとの報道だ。遅い!小生の勤務先は山の上に立地していて、街とは気温が違うせいか、一昨日現在ではまだ一輪の桜も咲いていなかった。本当に今年の春は遅い。

いまNHKでは『復興サポート』と題打って、福島県内事情を紹介している。それを見ながらカミさんと話した。

小生: それにしても東京電力の失敗は巨大な失敗だったねえ。取り返しはつかないけどな。
カミさん: ほんと、そうだよねえ。福島県の人たち、元に戻れるの?
小生: 戻れない人が多いよ。だけど、その見通しをいま話すことなんてできんやろ?
カミさん: それにしては、東電は一生懸命力をつくしているって感じじゃないよね。見てて、腹が立つよ。
小生: 何をするにもカネがいるんだよ。儲かっていればジャンジャン進められるんだけど、原発を停められて、損失を出しながらだからサ、ちょっとずつだよ。あんまりやるとカネが回らなくなって会社がつぶれちゃうからね。
カミさん: 福島県の人たち、おとなしいねえ。
小生: 茨城県や千葉県だったら、こうはいかないよ。成田闘争なんてすごかったんだから。
カミさん: 東京の人たちが使う電力を福島県で作ってたんだねえ。
小生: 東電が持っている原発施設は新潟、福島、それに青森。全部、東京圏の外だよ。こんな電力会社はないんだよね。それだけ国と一体になって、すごい力を持っていたわけさ。もし事故を起こした会社が北海道電力とか、四国電力だったら、国はアッサリつぶしているよ。
カミさん: 電力会社をつぶしたら困るじゃない。
小生: つぶして損害賠償に専念するんだよ。つまり、会社が持っている発電施設や送電線なんかを、全部安値で売ってカネにかえるんだよ。電力会社は裸になるけど、カネができるだろ。そのカネを損害賠償の基金にするのさ。まあ『東京電力福島第一原発事故損害補償会社』だけが残って、あとは賠償事務の処理をしていくだけ。その会社に最後に残る人は悲惨だろうけどね。で、発電施設、送電施設を安く買った新しい会社が電力事業をやっていくんだよ。断固としてやろうと思ったら、できんわけじゃないし、こうやれば責任の所在もはっきりして、みんな納得すると思うよ。というか、北海道とか、四国とか、東京が関係してなかったら、政府はとっくにこうしていたんじゃないのかなあ?北海道のメインバンクだった拓銀もあっさりつぶしたしね。そうできないのは、東電が崩壊した時に困るのは、政府のある東京だからだよ。京都辺りに首都を遷しておくほうが、まっとうなやり方が実行できるのかもしれないねえ・・・

そういえば東京遷都について正式な詔はなかったはずであるが、どうだったろう。小生は専門家ではないのだが。


月岡芳年、六郷の渡しを渡る明治天皇の行列、1868年
(出所)http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_16_6.html

行列は六郷の川を渡ってから、西の丸だけが残る江戸城に入るべく歩を進めたのである。


東京江戸品川高輪風景 歌川国輝(二代)画 慶応4年(1868)8月
(出所)http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_19.html#

江戸は、当初、首都になるはずではなかった。大久保利通は大阪を考えていたのだが、江戸に都を遷すべきであるという投書 –投書の主は前島密であったという– があり、今日の東京が生まれるに至った。この話しも既に有名になったが、当時の情景と人々の胸の内は、日経朝刊に連載されていた『黒書院の六兵衛』の終盤で六兵衛と明治天皇が対面する場にも再現されていたように思う。天皇東行の狙いとしては空き家になった大名屋敷を官庁に転用できる他にも、数年かかるかもしれなかった会津戦争、東北戦争の戦争指揮も念頭にあったに違いなく、その意味では戦時の臨時行在所でもあった。それが東京であったのに違いなく、以後、明治・大正・昭和・平成と天皇が東京に常住する意志は、そもそも最初からなかった。そう言えるのではないだろうか。だとすれば、いまもなお東京が首都であり続ける理由は『そう決めた』からではなく、実に日本的な成り行きである。そうとも言えるだろう。


2013年5月16日木曜日

為替相場リアライメントが一巡してからが本番だ

この半年間<アベノミクス>というより、先進国の協調緩和拡大路線が功を奏して、株価は上昇した。特に日本はバズーカ砲に喩えられている<黒田緩和>で円安と株価上昇が急速に進んだ。

対ドルで円安(=ドル高)になるとすれば、ドル投資の無リスク利回りがそれだけ高くなる。他方、円投資の無リスク利回りはそれだけ低くなる。ということは、日米企業の経営見通しに変化がないとすれば、株価は配当を割り引いた水準に落ち着くはずなので、日本の株価は高値にレベル修正され、米国の株価は安値にレベル修正されるのがロジックだ。実際には、アメリカ経済の先行きは明るく、米株は1万5千ドルを超えてきた。加えて、円安は足下の日本企業に想定外の利益をもたらした。そのため、この半年間で東京市場の株価は7割も騰がった。アンビリーバブルな急上昇だ。

これは一つのデジャブ。1985年プラザ合意による為替相場リアライメントの繰り返しだ。但し、方向は正反対だが。韓国では<第3次円安>ショックと名付けている。
今回の第3次円安は、過去とは比べ物にならない嵐を呼びそうだ。世界的な景気低迷と円安が同時に起きるのは、韓国経済が初めて経験する状況である上、これまでとは異なり、現在は自動車、鉄鋼、半導体など、日本と世界市場で競合する品目が増えたためだ。日本企業は円安を追い風にして、海外市場を攻略するため、輸出製品の価格を引き下げている。
(中略) 
IM投資証券のイ・ジョンウ・リサーチセンター長は「第3次円安は同じ市場で争う韓日を崖っぷちでの対決へと追い込んでいる。日本企業が円高期に骨身を削る自助努力で競争力強化に取り組んだように、韓国企業も為替にだけ依存せず、長期的な視点で競争力を高めるべきときが来ている」と指摘した。
(出所)朝鮮日報、 2013/05/15 08:56 
 本ブログにも何度か記しておいたように、為替レートは基本的には各国の通貨政策から決まるものだ。カネの蛇口を緩めたり締めたりすることで、潜在成長力が高くなったり低くなったりすることはなく、せいぜいが物価に影響を与えたり、それが思わぬ景気循環を引き起こす初因になったりする位のことである。だから、上に引用されているように「為替にだけ依存せずに長期的な視点で競争力を高める」ことが最も重要なことで、この辺り、本質をきちんと押さえている報道ぶりである。ただ「日本企業が円高期に骨身を削る自助努力で競争力強化に取り組んだ」というのは、褒めすぎというか、買いかぶりでなくて本当ならいいのだがねえ、と思ったりするのも事実だ、な。

日本の経営者は、為替レートが下がって天からカネが落ちてきたような思いだろうが、「棚からぼたもち」は多分この半年の一度きりだ。事業の利益は為替レートで決まるわけでもないし、物価で決まるわけでもない。コストと売り上げで決まる。仕入れ価格と販売価格で決まる。品質と生産性で利益が決まるロジックに変わりはない。生産の実態と顧客評価が変わらなければ、物価や為替レートがどうなろうと、長期的な利益は実質的に変わらない。

大事なことは、高く売れるものを作る。これしかない。為替相場リアライメントが収束すれば、もともと歩いていた道に戻るわけだ。

2013年5月14日火曜日

橋下徹大阪市長の自爆テロ的発言騒動

このままでは年内にも政党としての維新の会は消滅してしまうのではないか、自民党の別動隊のような位置づけではいかんと、そんな憂悶に耐えかねたのか、ついに橋下市長独特の言葉の大花火を上げようと決意したようだ。

氏のロジックはどうもこんな骨格であるようだ。

戦時中の従軍慰安婦で日本の犯した罪が非難されている。しかし、兵士らのストレスを解消するために売春婦にサービスさせることは、当時の世界においては普通の状態であり、当時の倫理観に違反するものではなかった。日本軍だけではなく、米軍でも、英軍でも、中国共産党軍でも、同様の慰安婦はいたはずだ。しかし、日本は戦争に負けた。敗戦国の日本が、戦後の価値観によって、戦争中の行動を断罪されても、それは仕方がない。その意味で、謝罪はするつもりである。しかし、戦時の日本軍は当時の倫理に反したことを行っていたわけではない。今の価値観に立って当時の日本軍の行為を残虐だと非難されるのは甘んじて受けるが、同じ行為は批判をしている側も行っていたのではないか。その事実は認めておかなければいけないし、それを指摘するくらいの権利は日本にもあるだろう。

興味を覚えたのは産経新聞がどんな風に報道しているかだった。まさか、いくら何でも石原慎太郎の肩をもって橋下市長をかばうようなことは書いていないだろうな、と。
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は14日、在日米軍海兵隊幹部に風俗業者を活用するよう促し拒否されたことについて「だいたい米国はずるい。一貫して公娼制度を否定するが、日本の法律で認められた風俗業を利用することに何ら問題はない」とツイッターに書き込んだ。
 同時に「人間の性的な欲求解消策について真正面から認めるのか、そこに目をつむるかだ」と提示。「風俗業を活用したからといって沖縄での米兵の性的事件が収まるかは分からない。建前論はやめてくれ」と投げかけた。
 旧日本軍の従軍慰安婦問題に関しては「人間、特に男に、性的な欲求を解消する策が必要なことは厳然たる事実」とし、あらためて慰安婦は必要だったとの考えを表明した。さらに「今の視点で良いか悪いかと言われれば、良いことだとは言えない。ただ、世界各国を見れば、軍人の性的欲求の解消策が存在したのは事実だ」と強調した。
(出所)msn産経ニュース、2013.5.14 15:01 
当然のことながら、中国、韓国は猛反発しているようであり、海外マスメディアも報道しているようである。

☆ ☆ ☆

橋下市長も政治家だから、自分の発言にも一理あるねえと、そんな反応を期待しているわけではないはずだ。次の選挙で当選することが目的であるような<政治屋>をとりあえず維新の会から振り落して、内部を純化してから、日本国内をかきまわそうという算段だろう。どこか中国の反日デモ扇動戦略と相通じる側面がないでもない。狙いはあくまで国内での生き残り戦略であり、そこに国際関係における自国のメンツを素材に使うわけである。ま、この手の政略は多分に「いったもの勝ち、やったもの勝ち」であるのだが、「やり手」の評価は得ても、リスペクトされることは決してない。その位もまた同氏はわきまえているだろう。まっとうな有権者の支持をどのくらい集めるか、それは分からないが、政治ショーとしてはかなりの視聴率を得るであろう。

ただ橋下市長のロジックも少々苦しいのではないか?今の価値観で昔の行為を非難しているが、昔はみんなやってたんだから、それは倫理とは呼べないでしょ?それを言うのは私たちが負けて、あなたたちは勝ったからなんでしょ、と。日本人は勝ったからといって、そんなこたあ言わねえなあ・・・・これは、いわばタンカをきって見栄をきっているわけで、歌舞伎だと拍手がわきおこるところだ。

いよ~お、橋下屋!!

☆ ☆ ☆

しかしねえ、今の倫理で昔を裁くなと言い出せば、昔の倫理で今を裁くな、ということにもなる。

昔は武士道があって切腹をもって責任をまっとうした。そんな昔の倫理で今を裁けないことは、なるほど常識にかなっている。しかし、いまから20年くらい経ってから、昔は確かに拷問は禁止されていた。しかし、それも時と場合による。拷問の実施も最高の主権者である国民の総意があれば認められるのである。そうなるかもしれないねえ。それは仕方がないのか?現在は拷問も、残虐な刑罰も認められてはいない。それは現在の倫理によるのだが、それも67年前の憲法がいまも我々を束縛しているからだ。しかし、倫理観は時代によって違うだろうと言い出せば、「古くさい憲法」に束縛される義務もなにもないわけだ。これは、人間の善悪の基準はいくらでも変わるものだと言っているに等しい。これでは人類が倫理的に進歩していく可能性を否定することになる。政治家が言っちゃあ、おしめえでしょう。そう思うのだ、な。

やっちゃあいけないことは、その時には分からなかった、後になって分かった。だからまず自分が自分の誤りを真剣に反省することと、みんなそうだったじゃないかという言い分は別である。仮に、中国やアメリカがいまもなお従軍慰安婦なるものを残していたとしても、だから日本もやれるんだという結論にはならないわけである。ここを「進歩」というんじゃあないですかい?

まして悲惨な慰安婦は今はないのである。それは人権を踏みにじる行為である。その合意が国際社会に定着した。この価値観を大事にしていくのが今の政治家の職務である。その政治家が「当時の誤りはいま考えても憤りに耐えない」というべきところを「当時の価値観では許されていたんですよ」と。危なっかしい人物だねえ、確かに・・・と、そう思う人は結構多いのじゃないか。このギャンブル、橋下市長の負けかもしれない。






2013年5月13日月曜日

反省 − ヘボ投資だったか

ソフトバンクがM&Aを仕掛けている米・スプリント・ネクステル社に対して衛星放送企業ディッシュ社が対抗買収を公表したとき、ソ社の株価は不透明になったと判断して売却した。その入れ替えとして、三井物産株を購入した。

ところが案に相違してその後ソ社株は急騰。売却価格より1000円余り高い水準にまで達した。他方、物産株は買ってから5%程度の微騰である。まだ三菱商事のほうが好調だ。購入を検討したとき、楽天株は1000円程度であったが、その後3割上昇している。パナソニックは安値域にあり底値買いのチャンスと思われたが、業績不振への展望が見通せず買う気にはなれなかった。ところが先週末にパ社は14年度3月期の業績見通しを発表し黒字転換する見込みと公表した。それを好感して本日パ社株は10%以上の急騰となった。

いやあ、まったく先の見えないヘボ投資をしたのかなあ、と。

それにしてもスプリント社ではソ社による買収提案の可否について6月12日に株主投票を実施する予定だそうだ。ス社の大株主の中にはソフトバンクではなくディッシュ側の計画を評価する意見もあるという。ソ社は買収金額の引き上げを余儀なくされるだろうとの見通しもある。買収を成功させなければ、当面、米市場への参入は頓挫することになる。その場合は、違約金が入るので損失は出ないと計算はされているようだが、アンドロイドが次第に優勢になりつつある流れの中で、日本国内でのみ競争を展開するには国内通信市場はあまりに成熟化した。やっぱりソフトバンクによる買収の行方は、ソ社の成長性を大きく左右するはずである。そう考えられると思うのだが、なぜこんなに天上知らずでドンドン騰がっちゃうのですかねえ、ソフトバンク株は?

もちろん、買う人がいるから株価が騰がるのだが、分からぬ。
分からぬ動きをしている株には手を出さないのが鉄則だが、やはり惜しかったなあと、残念に感じるのは、小生がそれだけヘボだから、仕方ないなあというところだ。

× × ×

それにしても日銀による<黒田緩和>、かなりの猛威である。海外主要国も表立って批判はせず、お手並み拝見という様子が何となく伝わってくる ― 韓国は競争力減退により相当の打撃を受けているようだが。

ただ長期金利が逆に出ている。
【渡辺淳基】国内の大手銀行は5月から、住宅ローン金利をそろって引き上げる。期間10年の固定金利ローンの場合、0・05%幅高い年1・40%(最優遇金利)となり、昨年10月以来7カ月ぶりの高さになる。日本銀行は金融緩和で金利を下げ、景気を良くしようとしている。しかし、思惑とは逆に金利が上がってしまうという皮肉な事態だ。(出所)朝日新聞、4月30日21時40分
いずれにしても金利は上がるという予想で逆に動いているわけだ。インフレ2%を目指すなら、それによって金利は上がる。もしこのために上がっているなら、インフレ期待の定着に早くも成功しつつあるわけだ。インフレ率(デフレ率)には変化がないが、景気上昇によって実質金利(≒実質収益率)は上がる。いまからそんな風な期待があって長期金利が上がっているのか?それはちょっとないと思うのだが。

いずれにしても中央銀行が短期金利をゼロに抑えることは可能だ。リスク資産を広汎に買えば長期金利をゼロに抑えることは可能だ。全ての末端金利をゼロに抑えられないとすれば、それは国内の状況がデフレからインフレに変わるときである。

こんな風に書くところが、すなわち<バブル前夜>。こういうことだと言えまいか。1980年代後半はバブルで幕を閉じたが、それは1985年のプラザ合意をきっかけとした円高不況に応じた<澄田金融緩和>が発端だった。その時にも<成長政策>はあったのだ。世界の金融センター東京構想もあったし、リゾート産業が国土形成の柱として期待されていたのだ。経済大国から生活大国を目指そうと議論されてもいたのだな、あの頃にも。近くまとまるという政府の成長政策がバブルの形成をむしろ加速させることは大いにありうることである。

「いずれにしても金利は上がる」と予想するより、「いずれにしても急ブレーキがかかる時は来る」と予想しておく方が賢明だろう。その急ブレーキは1990年代初頭の急ブレーキと同程度の急激さに違いない。相当数の企業がまたマクロ状況の急変によって犠牲になりそうだ。

2013年5月12日日曜日

日曜日の話し(5/12)

「10年経つと世の中様変わりになる」と言ったのは田中角栄元首相と記憶しているが、小生、個人的な経験だが「人生20年が一区切り」と感じている。生まれてから成人するまで、20歳から40歳まで、40歳から還暦まで。還暦から80歳の平均寿命まで。あとは余命である。それぞれの区切りで暴風雨の中を歩くような毎日になるか、快晴の空の下を散策するような平穏な日々であるか、それはその人の巡り合わせで自分が頑張ったからどうなるというものではない。とはいえ、20年という歳月はどんな問題も解決されてしまう十分な長さであるような気がする。たとえ未解決であっても、こんなものかと自分が納得してしまう十分な時間であるような気もする。


白小菊、水彩

どうも花を描くと、小生の場合、仏壇を飾る花のような雰囲気が出てしまう。しかし、師匠の手本を模写する画業を続けるより、自分の思う通りに描くのがハッピーではないかとは思う。なので、いまのようなペースで制作していきたいとは思っていて、統計分析や経済分析に関わる仕事はそろそろ店じまいして、絵とガーデニングをメインにして次の人生の一区切りを歩いていきたいと思っている。

しかし、いくら美術でも独善はいけない。「自分にはこれが美しい」と思うのは、その人の自由だが、本当にそれが美しいのかどうか、他の人の目に触れなければ単なる独りよがりだ。科学的発見も自分以外の誰か他人が再確認してはじめて真理になる。美も善も同じだ。他の人の同意や共感を得て、はじめて思い込みではなく、新しい美や善の形が見いだされたことになる。見いだされたものが究極的な価値の本質をついていれば、より多数の人がそれを認め、それまで存在しなかった新しい形式が社会全体に浸透し、定着する。こんな風に進歩していくのが、文化というもので、逆戻りのない本当の進歩というものだろう。そう考えているのだ、な。

統計学や経済学が求めているものは<真理>だ。絵を描く行為は<美>を求めている。経営やビジネスで求めているものは、真理や美、善という窮極的価値を実現するために不可欠な物的な基盤である。では、政治が求めているものは何だろうか?政治的理念などというものは<理念>の名に値するのか?ビジネスでは達成できないものを政治は求めているとしか言えないだろう。

少なくとも言えることは、政治家の個人的信条、政党の政治的理念は、それだけでは何の価値もないということだろう。それは科学的真理、芸術的な美と同じロジックである。

2013年5月10日金曜日

憲法96条を改正するにも多くのチョイスがある

安倍首相は憲法9条を改正するため、まずは96条の改正要件を緩和しようと。そう考えていることは既に規定の事実であるようだ ― 本人に直接きいたわけではないが。この数日、発言を多少トーンダウンしたようだが、戦局利あらず、一歩後退くらいの思いなのかもしれない。

確かに衆参両院の国会議員の3分の2以上の多数をもって改憲を発議し、国民投票で過半数の同意を得るという要件は、ねじれ国会が頻繁に生じる最近の状況を考慮すると、国民が現実的な憲法をもつ機会を余りに厳しく制約している。そんな指摘もあるわけで<硬性憲法>と言われる所以がここにある。

小生は国会の改憲発議は両院の過半数でよいと思う。しかし、国民投票では3分の2を超える賛成が必要と思っている。その国民投票だが、現行の国民投票法では満18歳以上の人たちが投票権をもつと規定されているが、義務教育を終えた日本人はすべて投票権をもつのでなければ何のための「義務教育」なのかと疑問を感じる。

憲法は政府が管理するべき存在ではなく、国民主権の下では国会は単なる<代議評議会>であり、政府は<事務局>であるに過ぎない。憲法は国民が有している制度上の財産である。改憲手続きは政党や国会・政府の便益ではなく、国民主権の趣旨に合致するように定めておくのがロジックである。であるので、憲法改正の発議自体は、時代の変化に応じて弾力的に行えるよう国会に権利を与えておいてはどうか。他方、本当に憲法を改正するかどうかの意思決定は国民が下すべきである。その決定は単純過半数ではなく、慎重に国民の大勢がどこにあるかを確かめることが重要だと思われる。

なので、マスメディアも含めて、現在の「96条論議」は色々な可能性をこめた議論らしい議論になっていない。『賛成か、反対か』だけを問う語り方では余りにも低能・単細胞であろう。国民の議論をより高いレベルに誘導するマスメディアの責任を十分に果たしていない。そう思ってしまうのだな。

2013年5月9日木曜日

制度設計の失敗例 - ロースクール

今世紀に入ってから、いろいろと紆余曲線を経ながら続けられてきた司法制度改革も曲がり角を迎えているようだ。

日本経済新聞によると、日本国内の法科大学院(=ロースクール)はほとんど全校が定員割れになってしまった由。
今春、学生を募集した法科大学院69校のうち、93%に当たる64校で入学者が定員を下回ったことが8日、分かった。文部科学省が同日、法科大学院の在り方を検討している中教審法科大学院特別委員会に報告した。昨年度の86%からさらに悪化し、司法試験合格率が低迷する法科大学院の学生離れが一段と鮮明になった形だ。
(中略)
定員に占める入学者数の割合(充足率)が最も低いのは大阪学院大で7%。次いで久留米大と島根大が10%、東海大と東北学院大が13%、駒沢大が19%と続いた。

 国立で5割を下回ったのは島根大のほか、新潟大(25%)、鹿児島大(27%)、香川大(30%)、静岡大(40%)、熊本大(41%)、東北大(44%)。

 100%以上だったのは千葉大(118%)、大阪大(114%)、神戸大(105%)、一橋大(102%)、京都大(101%)の5校で、いずれも国立大だった。
 昨年の司法試験の合格率が一橋大(57.0%)、京都大(54.3%)に次ぐ3位(53.6%)だった慶応義塾大の充足率は94%。4位(51.2%)だった東大は97%だった。
(出所)日本経済新聞、2013年5月8日
とにかく東大も慶応も定員割れである。東北大学に至っては旧帝大でありながらも充足率が5割未満、新潟大学、鹿児島大学になると定員の3割にも達しない。これは個々の大学の努力の違いを反映すると言うよりも、制度設計の失敗を物語る。そう受け取るべきだろう。

☆ ~ ☆ ~ ☆

法科大学院を作りすぎた。これも確かに定員割れの理由の一つだろう。しかし、努力をしている大学には希望者が集まり、不熱心な学校からは人が去るのが常態だ。現状はそうなっていない。物価でいえばA財の価格は上がり、B財は下がっているという状況ではなく、すべて下がっている。デフレである。希望者総数が減っている。これは学校側の努力・怠慢によるものではない。

実際、小生が暮らす小さな港町の狭い世界でも、『法学部で食っていけるのか』とか、『司法試験は割に合わない』とか、『技術は世界共通だから理系に行かせた』とか、そう語る知人が多い。理科離れから文理逆転が今の流れである。確かに法学部だけが不人気に喘いでいるわけではないが、激減ぶりが目立つ。

職業資格認定制度の設計ミス。制度設計の失敗である。高額の授業料。ロースクールを卒業してから司法試験受験までの生活をどうするか。司法試験後の修習地決定の不透明と不公平。その間の経済的基盤。それに就職不安がある。確かに割に合わない。低所得弁護士の急増も問題だ。そもそも学部で法律を4年間勉強させて、ロースクールで2年。卒業してから一発で合格するとして、受験から修習開始まで大体半年余りブラブラする ー 自信がない人は引き続き勉強するし、自信がある人は就活をする。いずれにせよ修習が始まると多数の人は大都市を離れ地方に転居する。修習は地方と東京で一年間続く。合計すると最短でも大学入学後7年半程度の勉学を要求される。本当に専門的な法務ビジネスを展開するには、これほどの基礎的勉強が必要なのか?大いに疑問である。これほど長期間、同一分野の勉強を強いれば、最後には重箱の隅をつつくようなマニアックな問題を出して合否を競わせるしかないのじゃあないか?これではかえって職業人として不健康であろう。国際的にみても、法律専門家の教養不足を招いているのじゃないか?ま、疑問はつきないのである、な。

未修者コースならロースクールに3年。学部の4年は必要ないでしょうという理屈になるが、未修者コースの実情をいまさら語ってもラチのないことだ。これまた失敗の上塗りとしか思われないので、あっさりスルーしておこう。

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司法修習生は裁判所に所属している。まあ、確かに小生が財務省主計局で裁判所を担当していたとしてもこんなやりとりはしたろうなあ。
小生: 司法試験の合格者は3千人を目指すと言うのは本当ですか?
裁判所側: 理想というか、目標はそう置いています。
小生: 現在は司法修習生は<準公務員>という身分であって給与も支給されているのですが、合格者を倍増、3倍増するからといって、給与予算枠も倍増、3倍増というのは、ちょっと無理ですよ。
裁判所側: とはいえ、これをしないと国民に十分な司法サービスを提供できんのですよ。
小生: やったほうがいいということであれば、司法サービスの他にも色々とあるのではないですか?そのためのコストをどう確保するかというのが、今の論点なわけです。裁判所の予算で切っていただく所を見つけて頂いて、それを充当するのが本筋ではないでしょうかねえ・・・
裁判所側: 事業をやっているわけではないので、ただ切るというのはどうも。
小生: 司法試験の合格者を増やしたいから、年金予算を削るとか、公共事業を斬れという話しにはロジックからいっても、なりにくいのではないでしょうか?政府全体のボリュームを大きくはできない以上は、司法府は司法府で一定枠の中でやりくりして財源を確保してから必要な施策を進めるという方式でないと、これは無理筋というものですよ。むしろ、支給半減とか中途半端なことはやめて、支給停止が論理にはかなうのじゃあないでしょうか?だってほとんどの人は国で仕事をするのではなく、弁護士として民間で利益を求めるわけでしょう。国庫でそういう人たちを補助する論拠はないと思いますが、いかがでしょう?
本当にこんなやりとりがあったかどうかは分からない。


2013年5月7日火曜日

本当に株価は上がっていくだろうか?

「今年の株価は今までとは違う」とロイターが書いている。
[東京 7日 ロイター] 投資家のリスク選好度が大きく回復している。市場予想を上回った4月米雇用統計で、米景気の停滞懸念が後退。欧州利下げもドイツが態度を軟化させたとの見方から一段の緩和に期待が広がっている。
ドルは100円手前で再び足踏みしているものの、日経平均は1万4000円を回復した。期待先行の市場の状況は変わらないが、欧州問題などで年央にかけて相場が調整した過去3年間とは違うとの強気ムードが広がり始めている。
夏場にかけて低下するというより、5月には米株は下がるので、ここで売っておいた方がいいとは言われてきた。実際、今年初めに買った米・Amazonの株価は以下のようだ。


Source: Yahoo! Financeで作成

赤い200日移動平均線をみると、昨年はほぼずっと停滞していた。Amazon株を長期でみると、2000年のITバブル崩壊後には大暴落したし、その後の上昇トレンドの間にも長い低下局面が繰り返しみられている。とはいえ、リーマン危機後には安定した上昇を続けてきたから、昨年の停滞は強い印象が残り、アマゾンの経営戦略は今後もうまく行くのかという心配も広がったようだ。移動平均ではなく時点間の比較でみても、2011年秋の250ドルをいまだ完全に抜けてはおらず、Amazon株は文字通り停滞している。Facebookに至ってはIPO後の急落の後、ずっと30ドルを抜けないままで、とても将来的な成長を窺える状態では(まだ)ない。

アメリカの株式市場は、たまに高値更新のニュースが飛び込むものの、全体としては今年の1月からずっと期待はずれであった。

× × ×

ところが、ロイターが報じているようにアメリカの雇用統計でいい数字が出た、住宅投資はもともと底打ちの兆候がある。アメリカの家計もいよいよリーマンショックから本格的に回復してきた。欧州もドイツ経済が踊り場にさしかかり、それもあって金融緩和を容認しつつある様子だ。欧州中央銀行はゼロ金利政策はとってこなかったので金利引き下げ余地があるという理屈だ。
Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist erneut gesunken. Die Unternehmen bewerten zwar ihre aktuelle Geschäftslage weiterhin mehrheitlich als gut, jedoch deutlich zurückhaltender als im Vormonat. Auch die Erwartungen an den zukünftigen Geschäftsverlauf sind nochmals zurückgenommen worden. Die deutsche Konjunktur legt eine Verschnaufpause ein.

今年の世界景気は、欧州から冷水を浴びる心配は遠のいたという判断だ。
過去3年間、市場センチメントが夏場に崩れたのはいずれの年も欧州債務問題がきっかけだった。今年はECBが打ち出したLTRO(長期資金供給オペ)やOMT(国債買い入れプログラム)で信用不安は後退しているものの、ユーロ圏の経済は依然悪化している。「金融システムの維持が最優先課題で景気は二の次」(国内投信エコノミスト)との批判もあったECBが緩和路線に踏み出せば、市場はリスクオンへの障害が一つ減ることになる。
短期金利がゼロに張り付いている日米と違って欧州はまだ0.5%の利下げ余地がある。ドラギECB総裁は追加緩和の可能性を示唆しており、今回と次回合わせて50ベーシスポイントの利下げが実施されれば、景気への刺激効果も期待できる。財政面でもイタリアのレッタ新首相のように緊縮財政路線の方針変更を打ち出す国も出てきた。(出所)ロイター、5月7日15時59分
世界経済に暗雲を投げかけていたのは何もヨーロッパだけではない。日本の何も決められない政治、円高を放置する開き直った姿勢、これらもまたマイナス要因の一つに数えるべきであったろう。それも安倍内閣の発足で正反対の状況になった。

新興国のどこかで突発的な混乱がない。もちろんこれが大前提だ。

× × ×

現在の<アベノミクス>が成功するか失敗するかは予断を許さず、成功するという理論的見通しもあるわけではないと小生は思うが、経済理論は概して間違っていることも散々経験させられてきた。そもそも標準的理論を支える重要な仮説が、データから立証されてきたとはとても言えない。そう見ている。とすれば、<アベノミクス>にもチャンスはあろう。

「ホントはこうするべきなんだよね」と常に正論を言う人はいる。というか、いなければならない。しかし、医学にしても経済学にしても相手は人間だ。どうしてもその正論を実行する意欲がない、実行したくない、別の方法をとりたい。そんな場合は、あくまで説こう、聞くまで待とうでは知恵がないだろう。時間は無限にあるわけではないのだから。

その意味で、今度ばかりは株価が上昇軌道を歩み続ける。そんな期待も出てきているわけである。本来の政策というよりマインド・コントロールである。

オーケストラが良い響きを出すためには技量を上げる、楽器を交換する、楽員を交代させる、練習量を増やす。そういう実際の行動の裏付けが必要であり、マスメディアに露出して人気が出ても、チケット販売枚数が増えたとしても、弾く人、弾く曲、使う楽器が同じなら同じだと言うのが本筋だろう。しかし、ドイツの名指揮者フルトベングラーが部屋の入り口に立っただけで、その瞬間、ベルリン・フィルの音色は一変して、音の温もりが増したそうである。

もっと良好なパフォーマンスをやってのける能力をもっているのであれば、能力を発揮するためにはメンタル面も大事である。まずは心理に訴えるという発想も政策ツールの一つでありうる。これまたロジックであることは認めなければなるまい。<ホントかいな?>政策は、そうはいっても、まずは1年か1年半。この位が限度なのじゃあないか。昔ならこの間に『▲▲総合計画』を新たに公表したところだ。今度はどうつないでいくのだろう?

2013年5月5日日曜日

日曜日の話し(5/5)

こどもの日になると、大体いつも夕張にある「石炭の歴史村」まで行ったものだ。小生が暮らしている港町から一般道路をつかって―いまは高速が通って便利になった―2時間はかかったと思う。距離的には120か130キロというところだろうが、特にGW中は北海道も異常になって、ひどく渋滞する区間もあった。その石炭の歴史村には遊園地があり、とても小規模だが小学生なら安心して「放牧」できるので、非常に気に入っていたのだな。小生とカミさんは、外が見える食堂の窓際に座って、園内の遊具から遊具へと走り回る子供達を見ているのが、実に呑気でゆっくりした時間で、もう一度あの頃に戻れればいいのになあと今でも思い出したりする。昨日、下の愚息が宅に帰ってきて、昼食を一緒にとってから慌ただしく帰っていった。これからはずっと「慌ただしい」という感覚で、会ったり分かれたりするのは、大体想像がついている。

先週、鏑木清方の桜吹雪の図を見つけたが、鏑木の師匠は月岡芳年である。鏑木は維新後に生まれたアプレゲールだが、師の月岡は幕末・天保の人である。維新は天保の人材によって成し遂げられたと言ってもよいが、年齢的にちょうど歴史の転換点に巡り合わせたのであろう。

月岡芳年、1886年
(出所)浮世絵検索

月岡は、無惨な図柄で知られ、江藤新平の佐賀の乱、西郷隆盛の西南戦争を描いた作品も知られているが、やっぱり日本人はよほど桜の花が好きだと見える。ちゃんと描いているのだねえ。「最後の浮世絵師」と呼ばれたそうで、弟子達の多くは浮世絵ではなく、洋画や日本画の分野で一家を成したという。いい先生でもあったのだろう。

桜の花は、言葉の芸術でもモチーフになることが多い。しずごころなく、はなの散るらむ、という花は桜をさしているし、見渡せば、はなももみぢも、なかりけり、という時の花も桜である。同じ種の花を愛して詠い続けること千年をこえる例は比較文化論の観点からみても必ずしも多くはないのではなかろうか。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
三好達治の詩集とも40年来のつきあいだが、世上もっとも有名な作品の一つは上に引用した『甃のうへ』である。最初にこの作品を読んだとき、花びらが桜吹雪であるとは気がつかなかった。そのうち、季節は春であることが6行目の「春をすぎゆくなり」で分かった。「花びらながれ」は、桜の散る様子を表現していることにも気がついた。場所は石畳のある寺院の境内である。「ひとりなるわが身の影」は<春愁>とも<孤愁>ともいまでは言えるが、若年の学生にそんな心の綾は無縁のものであった。だから、上の作品のどこがいいのか、正直な所、ほとんど分かりませんでした、な。

そのうち、同じ三好の『山果集』にある「古帽子」が好きになった。
帽子よ 年ごろの孤独の伴侶 憐れな私の古帽子
私の憂ひの表情を いつとはなしに分たれた
お前もまた 私の心の影法師 そを手にとって 頭に戴き
落葉松の林を来れば その鍔に この日また 春の雪つむ
ここで詩人がみている古帽子と、甃のうへに映る自身の影法師は、どちらも年ごろ詩人の孤独を慰めてくれていた伴侶であったことに間違いはない。

その孤独は三番目の詩集『閒花集』に載っている「砂上」の冒頭にも流れている響きである。
海 海よ お前を私の思い出と呼ばう 私の思い出よ
この作品に「孤独」という文字は使われてはいない。とはいえ、渚にねる詩人がみる波と、聴く水の音は、古帽子や自身の影と同じであり、これらは全て詩人の年ごろの伴侶であったに違いなく、詩人の孤独は詩人の心に蘇る思い出とともに在った。思い出すことが孤独をつくる。思い出をもたらしてくれるものが詩人の伴侶であると同時に詩人を孤独にする。そう受け取られると今では思っている。

とすれば、桜吹雪の中を歩む「をみなご」をみる詩人は、思い出の中におり、それ故に孤独である。そんな心情こそ作品のモチーフなのだな。その思い出とは人の思い出であって、他ならぬその人は作品「 甃のうへ」の二つ前に登場する「乳母車」にある最初の二句
母よー
淡くかなしきもののふるなり
から明らかなように詩人の母である。このようにしか考えられないではないか。同じ処女詩集『測量船』の中程すぎにある「Enfance finie」。これも昔からずっと好きだった作品だ。最も好きな下り。
    約束はみんな壊れたね。
    海には雲が、ね、雲には地球が、映っているね。
    空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のように、私は人と訣れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。
約束はみんな壊れるものである。これだけで十分だ。

時間の経過と記憶の持続。人間存在の本質とそこから醸し出されるもののあはれ。そんな感情の流出の核である母への慕情が、三好達治を三好達治たらしめている。

2013年5月3日金曜日

憲法記念日ー国家権力の制限+基本方針の明文化が憲法だと思うが

憲法記念日である。世間的には今日から4連休。ただ北海道は20年ぶりの冷え込みで桜開花はまた遅れそうである。桜前線が津軽海峡を越えられるのかどうか、GW中は微妙な所だ。

憲法記念日。安倍内閣の改憲方針もあってか、新聞もTVも憲法論議が盛んになってきた。いまNHKで放送している憲法記念日特集『激論”憲法改正”を問う!』を見ながら本稿を書いているが、某政党の出席者が「私は徴兵制には反対です」と力説していた。別に顔面を紅潮させて怒鳴るほどのことではないだろう。当たり前というか、徴兵制復活は兵役の義務を憲法に明示しておかねば実施不可能であり、そんな改憲案など国民投票で通るわけないでしょう。

通るわけはないが、しかし万が一、万万が一、近隣諸国の一国が「日本固有の領土」を強襲して武力占領する事態になったらどうか?そんな事態になったら、戦後体制の日本国民であろうとも徴兵制復活に賛同するかもしれない。そのときに日本国憲法が「国の交戦権」を全て否定していたらどうなるか?憲法に違反する義勇軍が反撃に出て、政府はそれを抑えることができなくなるだろう。余りに現実離れした硬性憲法をもっていることは、かえって日本の国家的ロバストネス(Robustness)を損ねるきっかけになる。簡単に現実が<想定外>になってしまっては無責任国家の誹りを免れない。小生は、別に憲法の専門家ではないが、こう考えているのだな。

朝日新聞の社説にはこうある。
だが、これでは一般の法改正とほぼ同じように発議でき、権力の歯止めの用をなさない。戦争放棄をうたった9条改正以上に、憲法の根本的な性格を一変させるおそれがある。 
私たちが、96条改正に反対するのはそのためである。 
日本と同様、敗戦後に新しい憲法(基本法)をつくったドイツは、59回の改正を重ねた。一方で、触れてはならないと憲法に明記されている条文がある。
「人間の尊厳の不可侵」や「すべての国家権力は国民に由来する」などの原則だ。 
ナチスが合法的に独裁権力を握り、侵略やユダヤ人虐殺につながったことへの反省からだ。(出所)朝日新聞、2013年5月3日

確かに憲法の存在意義は国家権力を拘束する制約条項として機能する点にある。しかし、憲法の存在意義は唯一つだけではない。二つあっても、三つあってもいいわけであろう。重要な事態に対する基本方針をどう定めておくか。あらかじめ明文化するということも憲法の重要な役割である。日常的な事故にも「もらい事故」がある。日本がいくら真に平和を希求しても、他国の軍事力を行使される事態はありうることである。ありうることは想定しておかないといけないのじゃないか?そんな時に、日本は保有する軍事力の上限を定め―その上限はゼロである決め方もあるわけであるーその上限を超える軍事的対応は他の協力国に依存する。これも一案であるし、すべて日本国民の自力で国を守る。そう定めておいてもいいわけである。

憲法第9条が関係する自衛隊、国防軍、日本軍…、呼び名はどうでもよいことだが、いずれにせよ軍事力が役に立つ状況というのは「望ましくはない状況」であるのに違いはなく、そんな望ましくはない事態を回避するのが政治家の第一の仕事である。その意味では、9条というのは大地震が到来した時の行動計画と類似する役割を果たすのであって、文章としては「軍事力はもたない」と書いておいて、実際に軍事紛争になった場合にはその時の自然の成り行き(=義勇兵の蜂起、革命政府の樹立、etc.)に任せるーというか、戦後日本は現に自然の流れにまかせ、自衛隊なる軍事力をもってきたーのも一案であるし、あらかじめ現在の政府の下で軍事力について明文規定をおき、一貫してその規定を守る覚悟を持つ。それも一案である。ただ政府の安定性を考えるとき、やはり国による軍事力の行使について基本方針をあらかじめ書いておくほうがよい。いざとなれば使うつもりの軍事力は、先に原理原則を決めておく方が、政府の信頼性形成には寄与する。そう考えているのだ、な。武力などは決して使わぬ、荒事は真っ平でござんす、平和はカネで買えばよい、「町人国家・日本」を旗印に最後まで行くというなら、それはそれで、一つの生き方じゃあござんせんか。この覚悟も、もしできるなら、立派なものだと小生は思っている。

ま、明らかなことは一つある。国が国権として憲法を変える。<国民主権>が大前提である以上、論理的にこれだけはあってはならないことである。

その意味でいうと「自民党草案」。あれは何ですかね?天皇が国家元首だと書いてある。その国家元首は、神道の崇拝対象であって宮中祭祀をも司る万世一系の血統によるもので、国民が選んだものでも、選ぶものでもない。そんな風にしておいて、なおかつ国民主権だというなら、これは文字通り<偽善>じゃあござんせんか?そうでんしょう。

2013年5月1日水曜日

独特の鈍感さ―信念?浮世離れ?それともバカ?

何度も本ブログでも使っている言葉だが、小生の田舎に『キョロマ』という形容詞がある。ま、簡単に言えば「利口バカ」のことである。常に利益を考えて、周囲の変化、周りの好みの変化、価値観の変化に俊敏に対応していこうというのが特徴だ。思想や哲学とは無縁の人柄で、自分の価値観なるものをもっているわけではない。他人にあわせることを旨としている。合理的ではあるが、褒め言葉でいえばせいぜいが「やりて」。そんなわけであるから尊敬されたり、また会いたくて懐かしくなる人物ではない。そんなキョロマは馬鹿では勤まらない。鈍な人間はキョロマではないわけだ。大物は鈍じゃなければいけないから、キョロマはコモノ。なのでキョロマと呼ばれるのは自慢できることじゃあない。

第一次安倍内閣のとき、小生は気概と抱負はあるのだろうが、どこか鈍感というか、普通の日本人の心情がお分かりになっちゃいないんじゃないのか、と。安倍晋三という政治家についてそんな感想をもったことがある。それが昨年末にカムバックして、アベノミクス路線一筋。心理戦にたけた経済戦略、政治戦略を展開するのをみて、雌伏しているうちに社会の底辺を歩き回ったのだねえと思ったものだ。が、どうやら人間的本質には変わりはないねえと思うようになってきた。以下は出所がサーチナだから好意的でないのは当然だ。
日本政府は東京の憲政記念館で28日、1952年のサンフランシスコ条約発効日である4月28日を「主権回復の日」として、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を開催した。政府行事として今年初めて行われた。複数の韓国メディアが報じた。
  韓国メディアは、「天皇陛下万歳、安倍が軍国主義を叫んだ」、「主権回復の日のイベントで、安倍らが天皇万歳叫んだ」、「日本政府の右傾化の動き加速、論議のなか『主権回復の日記念式典』を開催」などの見出しで伝えた。
  式典には、天皇皇后両陛下、安倍晋三首相、衆・参議院議長ら400人余りが出席した。
  安倍首相をはじめとする参加者は、式典後に天皇皇后両陛下が退出しようとした際、突然両手を上にあげて「天皇陛下万歳」と3回叫んだ。万歳三唱には、首相、衆・参議院議長など壇上にいた知事らや国会議員が行い、一部の参加者は当惑した様子だったと説明。
確かに好意的ではない文章だ。中国・韓国では第一声をあげたのは首相自身であるとの報道も目にしたことがある。どちらにしても現在でも日本の国会において「天皇陛下万歳」が唱えられる習慣が残っているので、つい出ちゃったんでしょう、その程度かもしれない。しかし、1945年を境にして日本国の主権は天皇から国民全体に移動したのであり、その意味では日本は天皇制を廃して共和制に移行する方向へ一歩を進めたとすら言える、それが客観的な見方だろう。それが68年後の今になっても国民の代表から選ばれた首相や閣僚達までが「天皇陛下万歳」と唱える。そもそも日本国憲法の精神は全く根付いていない。そう受け取られるのが自然なのではないか。

実際―既に日本でも和訳されて紹介されているようだが―英紙Financial Timesでは次のような安倍評が掲載されている。
It was only a matter of time. Until now, Shinzo Abe, Japan’s prime minister, has managed to control the demons of his inner nationalism. Unlike his first term five years ago, this time he has concentrated on the business of reviving Japan’s long-moribund economy. He has avoided opening up fractious questions of history and has refrained from visiting Yasukuni, the shrine hated by Japan’s neighbours because it honours 14 convicted Class-A war criminals as well as 2m ordinary war dead.Now Mr Abe – riding high with more than a 70 per cent approval rating – has let the mask slip. Last week he sent an offering of a cypress tree branch to Yasukuni along with several members of his cabinet. Worse, he appeared to question whether Japan had been “aggressive” in the second world war, a rightwing hobby horse. He has also opened a campaign to make it easier to amend the constitution.
……
In general, though, Mr Abe has better things to do with his time. He has set in train the boldest effort in many years to spark the economy into life. His establishment of a 2 per cent inflation target and appointment of a can-do central bank governor has brought a real sense of hope that perhaps Japan can turn things around. The experiment, however, is exceedingly risky. It also requires the goodwill of other countries, which must tolerate a weaker yen as a side-effect of massive monetary expansion.That cause will hardly be helped if the world loses sympathy. Mr Abe must also follow up with structural reforms to improve economic efficiency. His forays into revisionism are distractions at best, dangerous at worst. He should stick to his knitting. Source: F.T., 2013,April, 28
やはり経済紙である。アベノミクスの成否は近隣諸国の理解、好意、協力が絶対に必要だと指摘している。中国・韓国と「敵対」しても、その他の大国や地域を味方にして国家経済戦略を展開すればよいと万が一考えているなら、これほどのバカはいない。日本に対する近隣諸国の敵意を放置すれば、それは日本のVulnerabilityを高め、国内資本市場のリスクを高め、マネーが流入するどころか流出を加速させるだろう。有望な投資対象から外れるので国内の実質資本ストック成長が停滞し、その結果、競争優位をますます喪失し、日本人の労働生産性上昇、生活水準向上は一層鈍化する。そうすれば労働市場、年金、医療保障など多くの分野でカネが回らず、最終的には日本が行き詰まるのである。これが正確な認識であるのに、総理大臣自らが迷彩服に身を包んで戦車に乗り込んだ姿を撮影させるなど、文字通りの「愚行」である、な。

ま、ひいき目に見て、首相自身は鈍感なのだろう。だとすれば、安倍晋三首相の側近には是非キョロマがいてほしい。昨年秋にも投稿したことだが、そろそろ誰か閣僚が傲慢な失言をして、そのフォローが拙劣に過ぎ、次第に内閣支持率が低下する。そんな突然の暗転が夏の参議院選挙の前に来るか、後に来るかで、日本の将来がある程度は決まってしまう。そんな風に見ているところだ。