2013年6月30日日曜日

日曜日の話し(6/30)

ブログ投稿が楽にできるiPadアプリがあるとはねえ。

まあ、あったらいいなあと思う人がいる以上、潜在的な需要があるわけで、このチャンスを生き馬の目を抜くような世界にいるデベロッパー達が見逃がすはずがないわけで、それ故に小生が欲しいと思うアプリはどこかに必ずあって当然だという理屈はある。で、今日の「日曜日の話し」はDraftCraftで編集し投稿という次第になった。文章の編集にはBluetoothキーボードを使うので、Windows8を搭載したUltrabookに限りなく近くなった、こんな風に使うのなら、Windows8のPCを使った方がマシだとは思うのだが。

確かに技術進歩によって仕事のやり方や暮らしのあり方は変わってきた。昔はできなかったことで、今はできることは多い。なるほど使うものは変わったが、しかし、やろうとしていることは実は同じだ。固定電話より携帯電話が便利だし、携帯電話なら低速より高速のほうが効率的だ。しかし遠くの人と通信したいという点に変わりはない。空を飛ぶことは出来なかったが、移動したいという目的に昔と今で違いがあるわけではなかった。所詮、人がやりたいと思うことは、今も昔もずっと同じだ。
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ラスコーやアルタミラの洞窟には太古の壁画がある。


ラスコーの洞窟もアルタミラの洞窟も単なる土の壁だが、描いた人から見れば、自分の描きたい絵を描くための媒体だったわけである。土の壁に描いたのは、板もキャンバスもなかったからである。板があれば板に絵を描くのは、それ自体、絵画における技術進歩である。

板に絵を描けば移動が可能になる。17世紀のオランダで油彩画なるものが普及し、板よりも帆布に描く方が便利に思われたのは、技術進歩の成果である。油彩画の創始者と伝えられるファン・エイクが、原始時代に生きていれば、当然、洞窟の壁に絵を描くしかなかったろう。もちろんキリスト教の祭壇画なる画題はあるはずもないのだが。それはそれで、別の画題で洞窟に絵を描いたことだろう。絵を描くことに違いがあるわけじゃあない。


ゲントの祭壇画、1432年、ファン・エイクほか
(出所)Salvastyle.com

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ずっと変わらないものが物事の本質であるなら人間社会の本質とは、技術進歩と関係のない、太古の昔からずっと同じであったもの、たとえば自己表現への欲望とか、賞賛を得たいという名誉欲とか、ないものを作りたいという欲望とか、そんなあらゆる種類の欲望であるのかもしれない。だとすれば、「欲望とは抑えるべきもの」と見るのではなく、「人間自然の性質」とみなして、欲望は社会にどのように貢献するのか ー 変わらぬ欲望が人間社会の進歩をもたらしてきたというのがロジックになるので ー そのための条件は何か、こういう考察がなければなるまい。ヨーロッパ発の経済学は、ありのままの人間を出発点にするが、しかし日本人はマナー、というより<基本動作>なる言葉を好む。<身の丈>という態度を好む。みんなで決めたルールを破る行為は<勝手気儘>とみなす傾向が目立って多い。人間自然の在り方をそのまま認めるのではなく、しつけと修練によって、使えない人間が使える人間に育つのだと考える傾向が強いように思う。自分の欲望は、日本においては他人には見せないほうが<無難>だ。

もし今もまだ身分社会であるなら、分際をこえて新しいことを始めようとする人は<ルール違反>をしていると受けとられる。真面目な人ほど、改革=ルール違反とホンネでは考える確率が高かろう。明治維新は当時の人にとっては<ルール違反>であったのだろうと思う。『こんなバカなことをした連中がなんでほめられるのか』と、そんな世の中であったからこそ<革命>でもあったのだな。

とはいえ、現代日本で、この20年間、社会制度が驚くほどに変わっていない理由が、「必要なことをする=欲望を肯定することをする=ルール違反」と判定してしまうような、いわば<社会的認知障害>であるのかどうか、それは定かではない。

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