2013年7月7日日曜日

日曜日の話し(7/7)

七夕。子供達が幼い頃は、七夕の夜になると近隣の家から『ささの葉、さあらさらあ、軒端にゆれるう、お〜星さあまあキイラキラア、金銀すなごお』と歌う声が、窓を開けはなした小生の宅まで聞こえてきたものだ。そう歌った子供達も、もう大きくなって独立したようだ。近頃、歩いている姿をみたことはない。拙宅の愚息達も家から独立して一人暮らしをしている。ま、近所の子供たちが同じだけ歳をとったのも当たり前のことだ。

汚くいるよりは綺麗でありたいという感情はいつ頃から芽生えるのだろうか。芸術は人間共通のこんな根源的欲求から始まったのだと思う。悪く言われるよりは善くいわれたい、嘘を言うよりは真実を話したい。暮らしの在り方や技術水準はすぐに変わって、Generation Gapとか、相互理解不能とか、そんな状態になってしまうのだが、ある面をみると時代や民族をこえて、人が求めること、喜ぶことはずっと同じである。だから、古代エジプトで使われた古楽器の演奏を聴きたくもあるし、モーツアルトの楽曲を現代アフリカの内陸部で部族的伝統のままに生活している人たちに聴いてもらいたくもなるのだろう。『クレオパトラの鼻がもう少し低ければ、世界の歴史は変わっていたであろう』などと誰かが話せば、その話しが以後ずっと伝えられるということにもなるのだ。

幼い頃にどんな美術作品がはじめて「好き」になったかと言えば、それはロダンの「考える人」である。多くの人も、ひょっとすると同じであったかもしれない。

ロダン、1880年

小学校の授業で何か先生から質問されて、考えているフリをするとき、上の姿勢を真似したりしたものだ。美という観点からロダンの作品を味わっていたわけではないが、「好きだ」という初めの感情は、案外、あと一歩で「わかる」という状態に至るのかもしれない。

その頃、クラスメートが集めていたのはマッチ箱に描かれていた歌川(安藤)広重の東海道五十三次である。朝、学校に登校して、教師が来るまでの短い時間、友人が机に並べる多くの浮世絵をみて、小生はソ奴の<高尚な趣味>に感嘆したものだった。


その友人は、場所柄もあって<三島>や<箱根>が好きであった ― 小生はその頃は三島の上岩崎という場所で暮らしていた。現在は「上岩崎公園」が整備されていて、ずいぶんパリッとしたが、渓流の両側にキャベツ畑が広がっていて、春になるとその畑で紋白蝶の幼虫である青虫をとっては育てていた、そんな昔ののどかな面影はまったく消え失せた。これを<都市化>と呼んでいることは言うまでもない。

都市化される前の原風景が美しかったのか、都市化されたあとの現代の景観がより美しいのか、それは主観によるもので正解はないように思われるのだけれども、最終的にジグザグの経路をたどって、どんな状態になっていくのか、変化をもたらす原因は無数に考えられるが、仮に何十年か後に元々の自然のままの状態に戻るのであれば、その状態を私たちが本当は求めていた、と。そう結論づけてもいいように思う。本当によいものは、たとえ日本の国力が低下しても、人口が減少しても、どんなことがあっても、私たちは残したいと思うはずである。そうはしない、昔の人間の構築物であっても消え去るに任せようと決めるのであれば、それはなくてもよい、美しくはない、そういうことなのだろうと考えている。

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