2013年7月26日金曜日

一流の仕事をすれば、すべて<タレント>、<政治家>として見なされるのか?

一流の仕事をして世界で有名になれば、日本では-というか、アメリカでも欧州でもどこでも-マスメディアが放っておかない。

「いやあ、私は人見知りですので、取材は全てお断りしているんです……」といって、断ること三回に及べば、今度は高慢であるとか、何様と思っているのか、更には<国民の知る権利>を何と心得ているのかとか、反社会的な思想をもっている歓迎されざる人間という評判を、知らないうちに世に広められてしまうことがある。

幸い日本で育った人なら、一人の人間の胸の内よりも<世間様>の感覚を上位におくという甚だ生きにくい側面をよく認識しているので、それほど下手をうつことはない。

しかし、外国人がどう思うかということまで考えながら、この国で生きていくとなると、一体どこまで、何人の人まで気づかいながら、仕事をしていけばいいのかキリがなくなってくるのも真実だろう。

そんなことを思わせるのが、ふってわいたような以下の報道。
慰安婦問題で「日本は謝罪して賠償すべき」、領土問題は「半分に分けるか、あるいは両方で管理しましょう」などとスタジオジブリの冊子に談話を掲載して韓国で大絶賛されていたはずの宮崎駿監督(72)だが、翌日には一転し、韓国でバッシングに晒されているという。
(中略)
宮崎監督といえば「風立ちぬ」公開直前の18日に、ジブリが無料の小冊子「熱風」7月号をウェブに公開したためネットで大バッシングを浴びることになった。憲法改正を特集した記事の中で、戦争放棄をしたにもかかわらず憲法第9条などを変えることには反対だなどと安倍首相を非難し、戦争中に近隣諸国に酷いことをしたのは明らかだから、慰安婦問題もきちんと謝罪し賠償すべきであり、半分に分けるか「両方で管理しましょう」という提案をすべき。国際司法裁判所に提訴しても収まるはずがない、などと主張した。
(中略)
ところが21日、韓国経済新聞のウェブサイトにこんな記事が掲載された。日帝時代の戦闘機「零戦」を美化した宮崎監督の新作映画「風立ちぬ」に韓国のネチズンが批判を強めている、という内容だった。零戦はアメリカのハワイ島への奇襲と神風特攻に使われたもので、現在ユーチューブには韓国語の字幕付きで予告編が公開されているが「殺傷用兵器を作った人を描くなんて宮崎監督に失望した」「慰安婦問題の批判は、映画の韓国上映を狙った擦り寄りだった」「零戦を組み立てたのは徴用された朝鮮人、中国人だ」などといったコメントが付いている。そして、まるで戦争を美化したり日本の戦争責任を誤魔化したりするようなフレーズが使われている、などと説明した。
(出所)J‐Castニュース、7月23日 

宮崎監督は、本日記者会見して
当時、飛行機を作ろうと思ったら、軍用機を作るしかなかった。時代の中で生きて、自分の仕事を一生懸命やって、その結果が判断されるが、一つのことを仕事にし続けると、マイナスを背負ってしまう。堀越二郎が正しいと思って、映画を作ったのではないが、彼が間違えたと簡単に決めつけたくなかった
こう語ったとのことだ。 (出所)Yomiuri Online、7月26日

小生が少年であった時代は、TVのアニメ、雑誌の連載漫画の相当数は戦記マンガだった。「紫電改のタカ」は最近になってまた読み返したほどだ。だからといって、小生が戦犯国で生まれ育ったことを忘れた好戦主義者だと非難されれば、それはもう耐えられないほどに腹が立って仕方がないだろう。そんな泥沼状態に落ちずにすむのは、小生がたまに書く論文も多くの人は読まないし、そもそも戦争とか、平和とか、国際政治などという事柄と全く関係のないことをやっており、総合月刊雑誌にオピニオンなる寄稿をすることもない、ごくごく普通の平凡な日本人であるからだ。これはもう自明のことだ。

確かにゼロ戦という微妙な素材を選んで、予想興行収入100億円にも達するビジネス的な成功を狙うなどは、それ自体、軽率な営業姿勢であるとは思う-小生なら怖くてそんなことはしない。

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とはいえ、そんなことを言い出せば、現在のロシアではロマノフ王朝時代を舞台とした歴史画は不適切であり公の場には出品できないことになろうし、腐りゆく死体を精密に描いた作品を公募展に出品することも甚だ非道徳的であると非難されることになる。

芸術は芸術のためにのみ存在するという芸術至上主義者であるつもりはないが、間違っていることはとにかく駄目、正しいことだけを行いなさい、と。政治があらゆることを律すると言いたげな<口うるさい21世紀の儒学者たち>にも、小生、実に辟易するところである。正しいことを求めること自体は間違っていないが、世の中を自分の意に沿うように矯正しようとすると、そんな人はいないほうがよい。この暑い中、五月蠅くて叶わん。そう感じるのは小生だけではあるまい。歴史家でも、政治家でもない人に歴史や政治を関連づけて非難するのは、『野暮だねえ、ほんとに』と呆れるのが、水に流すことを好む日本人の感性だろうと思う。タレントでもない人をタレント扱いして、何かというと世間に露出させるのは『ひどいねえ、ほんとに』というところだ。

<人意>よりも<自然>に従うナチュラル志向が、日本文化のかなりなコアを占めているのだと思う。忘れていくのは、忘れようとする怠慢ではなく、生きて行くための知恵であり、社会の和を維持するための摂理だと、多くの日本人は考えるはずだ。

栄枯盛衰は人の行為の結末であるには違いないが、究極的には自然の摂理の一断面だろう。蟻の盛衰に蟻の戦略や蟻の歴史を投影するのはバカバカしいわけであり、すべての生物集団は誕生・持続・衰退・消滅に至る自然のプロセスをたどるとみるのが客観的な真実だ。蟻の巣の盛衰を蟻の歴史や蟻の意志から考察しても時間の無駄であろう。そんな蟻の盛衰と人間社会の盛衰は非常によく似ているのだ。国家千年。これが人間の歴史に誕生したあらゆる国家の中では長寿の目安だろうとみている。ほとんどの国家は小規模、短命でまさに泡沫、<バブル国家>である。こうした観察事実こそ、諸行無常にくくられる歴史の実態だと、小生は日頃思っているのだ、な。

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嫌いなものがあれば、
あれは嫌いだ、見たくはないねえ
ただ、そう言えば、それで十分ではないか。好き嫌いだけは、人間固有の権利なのだから。

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